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復讐の絃  作者: 彷徨いポエット
第壱章 紡がれ始めた復讐
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4 渦巻く狂気

 秋綱は屋敷の縁側で、栞が差し出した湯呑みを受け取ると、程良い暖かさを保たれた茶を口に含み、静かに呑み込んだ。

「結果はどうでございましたか?」

 栞は秋綱が飲み終わるのを待ち、そう質問をした。

「負けました」

 端的に秋綱がそう言うと、栞は不思議そうな顔をした。

「その割には随分と嬉しそうですね?」

「そう見えますか?」

 栞の問いを問いで返す秋綱に、栞は優しい微笑みを浮かべながら、静かに頷いた。

「はい。とても嬉しそうにしておられます」

 栞がそう言うと、秋綱は何度かの手を見直し、そして空を見上げた。

「やはり、あの人は強かった。この秋綱が何も出来ずに負けました」

 さっぱりとした言葉に、栞は驚いた表情を浮かべた。

「まぁ……。秋綱様と言えば、瑞希でも比類なき武人でございますのに……」

「まだまだ、私は未熟者、という事ですね」

 秋綱は空を見上げたまま、静かに呟いた。

「栞様に関しても言われました」

「昂兄様が?」

 不思議そうに出した声に、秋綱は頷いた。

「栞様は私の妻だ、と。それを今更、どうにか言えぬ、と」

 秋綱がそう言った瞬間、栞は声を出して笑いだした。

「栞様?」

「昂兄様の言う通りでございます。栞は秋綱様の妻でございます。過去に昂兄様が好きであっても、今の栞は秋綱様が好きでございます。でなければ、父に何を言われようと、嫁ぐつもりなど起きません」

 笑いながら栞はそう言うと、秋綱の手を取り、自分の帯下に手を当てさせる。

「その証拠が、ここで笑っています」

――この子が全ての証拠です。

 栞が小さくそう言うと、秋綱は笑みを浮かべた。

「そうでしたな。私とした事が、幾つもの大切な事を忘れていたみたいですね……」

 秋綱が憑き物の落ちたような顔をすると、栞は頬笑みをもう一度浮かべた。

「今日、私は勝敗などよりも大きな『何か』を手に入れた気がします」

 秋綱の言葉に栞は嬉しそうに頷いた。


 昂は震える右手を見ながら、静かに息を吐いた。

「まだだ……」

――まだ、早い。

 何度も呟き、その都度、小さな息を吐く。

――まだ、俺を信じていない。

 昂の手が何度も震える。

――父上……。

 眼を閉じると、瞼の裏に焼き付いた雪綱の最後の姿を思い出す。

――母上……。

 眼を開くと、背中に宿る朱里の気配に首を振る。

「まだです……。まだ、何も奪えない……」

 誰にも聞かれない様に呟き、数回呼吸を整える。

「あいつから全てを奪う」

 空気を震わせる程も無い、小さな声が初夏を招き入れる事を拒絶していた。

――まだ、始まったばかりです……。

 表情に出ない、しかし、根強く篭った憤怒の炎が、昂の背中を押したような錯覚の中、昂は僅かに左の人差し指を動かした。それに反応するかのように、近くに生えていた竹の若葉が落ちた。

――準備に一月……。

 今度は右の人差し指が動き、再び竹の若葉が落ちる。

――お前が信じきった後、その『全て』を奪ってやるよ……。

 指先が更に動き、何度も竹の若葉を落とす。

「もう少しの辛抱だ……」

 目の前で両手を交差させた瞬間、竹がまるで紙の様に容易く切り落とされた。

――もう暫くの辛抱です、父上、母上……。

 井戸端に立て掛けられた刃挽きの刀を手にすると、昂は竹林に生えた竹を何度も居合で切り倒した。

――悟られる訳にはいかないのだ。

 鍔鳴りの音が響く度に切り倒される竹に向かい、その感情を吐き出し続けた。

――今は、まだ、な……。

 荒れた息を吐き出すと、表情を穏やかな物に代える。

「俺は『葉月』の人間だ。俺は『昂』だ。俺は……」

――兇螺を手にした人間だ……。

 その呟きは音にならなかった。それほどに昂は穏やかな表情を浮かべていた。

――信じきった後で、全てを奪ってやる。待っているがいい、秋信(・・)……。

 その憎しみの炎は幾つもの表情という名前の『仮面』に隠れ、本人以外の誰にも気付かない程に小さな火種として、昂の中で燻り続けていた。


 そして、何事も無く、一月が経とうとしていた。


 その日、栞は屋敷の庭で鯉に餌を与えていた。

「栞。秋綱は城か?」

 静かな声に栞は振り返ると、微笑みを浮かべた。

「はい。何でも、大事な軍議があると……」

「軍議……? 瑞希は攻める事は無い国であろう?」

――珍しい……。

 昂の小さな言葉に、栞は小さく首を横に振った。

「秀綱兄様は、瑞希の国主としては珍しく、領土欲をお持ちです」

 悲しそうに声を出す栞に、昂は僅かに頷いた。

「瑞希は天然の要害だ。故に守るに容易く、攻めるに難しい。北の秋野、南の火倶鎚、共に入り込んだ海流と険しい渓谷が国境を定めている。東には言わずとも国は無く、西は本来、貿易相手の和原(かずはら)だが、そこを攻め取るつもりか?」

 地理を思い出しながら、昂がそう言うと、栞は静かに首を縦に振った。

「秀綱兄様は常日頃から言われておりました。和原を取れば貿易の支出を無くす事が出来る、と……」

「勝てば、な」

 栞の哀しそうな声に、昂は静かに答えた。

「え……?」

「瑞希はその『貿易』があるからこそ、成り立っている。確かに秀綱兄の言っている事は正論に聞こえる。だが、戦を仕掛け、痛み分け以下になればどうなる?」

 昂は一旦呼吸を置き、静かに目を閉じた。

「和原は確実に『経済封鎖』をする。瑞希は唯一にして無二の『貿易相手』を失う事になり、国の疲弊は火を見るよりも確かだ」

「では……」

 栞が言葉を続けようとした瞬間、昂は片手を上げ、それを制した。

「俺に言っても無駄な事だ。俺は既に、この国の人間ではない。政治に口出しする事など出来はせぬ。俺が言った事は、外を見て、初めて言える事だ」

 昂はそこまで言うと、栞の横に腰を下ろした。

「なぁ、栞……」

 池の中で泳ぐ鯉に視線を向けながら、昂は静かに口を開いた。

「はい、何ですか?」

 初夏の風を浴びながら、栞は髪を掻き上げながら声を出した。

「少し疑問に思った事を聞いていいか?」

「私に答えられる事ならば構いませんが……」

 栞の声に振り返る事もせずに、昂は軽く手を栞に差し出した。栞がその手に鯉の餌を渡すと、昂はそれを無造作に池に撒き始めた。

「何故、秋綱はお前に敬語を使う? 夫婦であるならば、夫が妻に敬語で話す事は明らかに不自然だ」

「……秋綱様は、私の事を『主君の妹』として見ておいでなのです……」

 悲しい声の響きが風に乗った。

「嫁いだ時、それは仕方ない事だと思っていました。父が死んだ時、夫婦になれると思いました。ですが、それは秋綱様にとって、私は『主君の娘』から『主君の妹』になっただけでした……」

 風に相応しくない声を昂は静かに聞き続けた。

「御子をなせば夫婦になれると思いました。でも、それも違いました……」

――子が生まれれば、夫婦になれるでしょうか……?

 その言葉に昂は小さく溜息を吐いた。

「確かに、秋綱様は栞を大事にしてくれます」

「それは見ていればわかる」

 昂が相槌を打つと、栞は首を横に振った。

「……ですが、時折、それは『栞という名前の人形』を、大事に扱うのと同じなのではないかと思う事があります……」

 そこまで言って、栞は慌てて頭を下げた。

「すみません、昂兄様……。自分勝手な愚痴をお聞かせして……」

「いや、話を振ったのは俺の方だ」

 昂は立ち上がると、栞の頭に手を乗せた。そして、優しく髪を掬うと、くすぐったそうに顔を綻ばせる栞に静かな笑みを浮かべる。

「だが、それにはお前にも責任がある」

「え……?」

 昂の手を離そうとした瞬間、かけられた昂の言葉に、栞は小さな声を上げた。

「そう思い、そう考える。それがお前と秋綱との壁を大きくする。たとえ口にせずとも態度に表れる。それが無意識の中で壁を作ってしまう。そう言う事だ」

 昂はそこまで言うと踵を返し、屋敷の方に歩き出した。

――そろそろ頃合いだな……。

 その声は風に呑まれ、栞の耳に届く事は無かった。


 その日の夕食を食べ終わると、昂は湯呑みを片手に静かに切り出した。

「そろそろ、ここを発とうと思う」

 その言葉に秋綱と栞は顔を見合わせた。

「随分と、急ですな……」

 秋綱の反応に昂は一口、茶を口に含むと、それを喉に通した。

「あぁ、そうだな。だが、これ以上ここに留まる訳にもいかん。第一……」

 一旦言葉を切ると、意地の悪い笑みを浮かべる。

「これ以上、お前たちの仲を邪魔するのは気が引ける上に、このままでは、ここに根を下ろしてしまいそうだからな……」

 平静を保った声に、秋綱と栞はもう一度顔を見合わせた。

「我々はそれでも構いませぬが……」

「俺が構うのだ。俺は、まだ見ていない国が多くある。言わなかったか? 俺は瑞希の外戚である『葉月昂』ではない。ただの『昂』という名の人間に過ぎないのだ」

 昂はそう言うと、湯呑みに残った茶を一気に飲み干した。

「では、いつ、お発ちになるつもりですか?」

 栞の言葉に、昂は少しばかり首を傾げると、眼を閉じた。

「早ければ明日。遅くとも明々後日程度には、だな」

 その言葉に栞の表情が暗く沈んだ。

「では、明々後日まで逗留願います。せめて、別れの酒宴を設けたく思います」

 栞の気持ちを汲んだ秋綱の言葉に、昂は静かに目を開くと頷いた。

「わかった。何事も急ですまんが、宴席は明日にしてくれ。酒が残ったまま旅に出る程に辛い事は、中々に無いからな」

「わかりました。では、明日の晩は飲みましょう」

 秋綱の言葉に昂は僅かに頭を下げた。

――さぁ、始めるとするか……。

 視線が畳に向いた瞬間、そう心で呟き、頭を上げると、二人の知る『昂の笑み』を浮かべていた。


 翌日、宴席の品を調べている栞に昂は声をかけた。

「あら、昂兄様。秋綱様はまだお城でございます。今日は帰りに別れの品を用意すると言われましたけど……」

「そうか……」

 栞の言葉に軽く相槌を打つ姿を、栞は見なかった。

「では、俺も秋信(・・)に別れの品を用意せねばな……」

「え……?」

 昂の言葉使いに振り返った栞の首筋に、昂の手刀が軽く入った。

「こ、う、にい、さま……?」

 意識が薄れいく栞の眼に、昂の歪んだ笑みが映っていた。

「恨むのであれば、秋信とお前の父を恨め。そして、憎むのであれば……」

 栞の身体を片手で受け止めると、昂の右目から一筋の涙が流れていた。

「俺を憎め……。それを甘んじる覚悟は、とうの昔についている」

 涙を拭うと、昂は静かに呟いた。

――さぁ、秋信。お前の罪を、俺が断罪してやろう……。

 昂の爆発した感情が、守矢の屋敷を覆い尽くしていった。


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