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復讐の絃  作者: 彷徨いポエット
第壱章 紡がれ始めた復讐
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3 刻まれた古痕

 顔を洗うと、後ろに立つ秋綱から頭を下げられた昂は、秋綱の言葉を聞き始めた。

「断る」

 端的に、昂は秋綱の提案を一蹴した。

「俺は既に一介の剣士ですらない。お前は『瑞希の守護者』と呼ばれるほどの武人だ。俺に恥をかかせるつもりか?」

 昂はそう言うと、袴を軽く払った。

「噂程度だが、聞いた事はある。お前だとは知らなかったが、七年程前に南の火倶鎚の軍勢一万を、たった五百の兵で国境を守り抜いた武人がいると」

「それは語弊にございます」

 秋綱は昂の言葉に首を振ると、思い出すように視線を僅かに上へ移した。

「ほう?」

「あの時、火倶鎚の軍勢は七千でございます。それと……」

 秋綱は昂に視線を向けると、言葉を続けた。

「火倶鎚との陸路は険しい渓谷を抜ける必要があります。私は三百の兵で渓谷の出口で待ち伏せをして強襲し、残りの二百の兵で渓谷を火薬で吹き飛ばし、退路と増援を断ったに過ぎませぬ」

 秋綱がそう言うと、昂は呆れたように息を吐いた。

「確かにその通りだ。確かにあの渓谷の出口ならば、一度に相手をするには三百で事足りるだろう。だが、それでも十倍以上の兵を退ける士気を維持するには、指揮する武将の力量が物を言う。お前が先陣を切れば、兵は奮起する。違うか?」

 昂はそう言うと、笑みを浮かべる。

「お前と仕合をして、俺が無様に負ける。それを見たいだけならば、俺は仕合うつもりも無ければ、付き合う気も無い」

「……嘘、でございますな」

 昂の言葉に秋綱は静かに声を出した。その声に昂は微かに右手を震わせた。

「昂殿は私に勝てる。そういう気を発しておられます」

 秋綱の言葉に昂はもう一度右手を震わせた。

「図星を突かれた時の癖は治っていませんな。図星を突かれると、昂殿はそうやって右手を震わせます」

「……そう、だな。野点でいいのであれば、おそらく、剣術でも俺はお前に勝てるかも知れぬ。だが、俺の剣術はとうの昔に、人に見せるほど綺麗ではなくなっている。俺が断る理由はそこだ」

 昂がそう言うと、腰に差した刀の柄を軽く叩いた。

「その自信が見たいと思います」

 食い下がる秋綱に昂は静かに息を吐くと、もう一度刀の柄を叩く。

「わかった。刃挽きの刀を一振り用意してくれ」

「は?」

 昂が諦めたように声を出すと、秋綱は不思議そうな顔をする。

「お前ほどの人間に見せる事が出来るとしたら、抜刀術だけだ。葉月の剣術だけしか見せる事が出来んのはすまなく思うが、それ以外は既に我流も達するところまで行ってしまった。それだけの話だ」

 昂の言葉に秋綱は静かに頷くと、すぐに用意させます、と言い残して昂に背を向けた。

――そうだ。葉月の剣術しか見せんよ。今はまだ、な。

 昂の顔に歪んだ笑みが浮かんだ事を、秋綱は見えなかった。


 昂は鞘走りを確かめるように、秋綱から渡された刀を何度か抜き差しすると、小さく頷いた。

「手入れが行き届いた、良い刀だな。刃挽きにするには、勿体無い程だ……」

 昂が素直な感想を上げると、剣術場の開始線に立った。その反対側には、秋綱が既に木刀を片手に立っていた。

「刃挽きの中で一番鞘走りの良い物を用意しました」

「……大した自信だ。それにお前のその佇まい。自然でいて、それで隙の無い、実に良い構えだ。お前の気迫も充分に伝わってくる」

 僅かに楽しそうな笑みを浮かべると、剣術場を軽く見まわした。

「別に見世物を開くつもりも無ければ、見て欲しいとも思わんが、守矢の剣術場にしては少ないな……」

「見ても構わぬ程度に力量を持っている者しか許してはおりません。今日、この場にいる者たちは守矢一刀流の目録以上だけです」

 昂の小さな疑問に秋綱が答えると、昂は小さく頷き、刀の柄に手をかけ、腰を沈めた。

「準備は良いか……?」

「昂殿はいかがでございますか?」

 昂の構えに応えるかのように、秋綱は刀を上段に構え、声を出した。

「構わぬ」

 そう答える昂を見て、秋綱は僅かに視線を、審判を買って出た青年に向けた。青年がその右手を大きく上に上げ、一呼吸だけおくと、それを大きく振り下ろした。

「始め!」

 鋭い掛け声が響いた瞬間、場の空気が一変した。

「ぐ……」

 剣術場に、誰かのくぐもった声が一つ入った。そして、昂と対峙している秋綱は、昂の動きに合わせる様に少しずつ後ろに下がって行く。

「……どうした? もう後が無いぞ?」

「な……!?」

 昂が静かにそう口を開き、秋綱の視線が一瞬だけ足元に移ったその瞬間、鋭い鍔鳴りが響き、その数瞬後、乾いた『何か』が床を叩く音が続いた。

「終わりだ……」

 宣言と共に昂が構えを解くと、剣術場の空気が元に戻った。

「刀が折れれば仕合になるまい。俺の勝ちだよ、秋綱」

 昂の宣言に、秋綱は慌てて自分の手にしていた木刀に目を移し、木刀が根元から切り落とされているのを確認し、床に転がる木刀の刀身を目にした。

「つ……」

――強過ぎる。

 秋綱が言葉を発するよりも早く、昂は剣術場を後にしていた。


 昂は着物を上半身だけ脱ぐと、井戸から汲み上げた水を頭から被った。

「ふぅ……」

 一息吐くと、身体を拭きながら、近付いて来た秋綱を一瞥した。

「お見事でございます」

「先刻の仕合か? 世辞はよせ」

 髪を拭くと、もう一度井戸から水を汲み上げる。

「世辞ではあり……」

 ありません、そう言いかけて、秋綱は言葉を止めた。昂の上半身に刻まれた、数える事さえ徒労に終わりそうな程に多くの傷跡。その中でも一際大きく、右脇腹から左の肩口にかけて走る刀傷。それが目に入ったのだ。

「眼を逸らすな。この傷は愚かな俺の戒めとして、お前が付けてくれた物だ。そして、この身体に付けられた傷の全てが、俺の生きてきた証だ。これを見て、お前が自戒に耽る必要は無い。これが『昂』という人間の印だ」

 昂はそう言いながら、もう一度水を被り、身体を拭くと、着物を羽織った。

「……先程はお見事でした。葉月の抜刀術、見えませんでした」

 秋綱がそう言った瞬間、昂は声を上げて笑い出した。

「何か、可笑しい事でも……?」

 僅かに険の篭った秋綱の声に、昂は笑いを止めると、小さく息を吐いた。

「いや、お前ほどの武人が、気が付かぬとは思わなくてな」

 昂は笑いを止めると、そう言いながら、傍にあった刃挽きの刀を手にした。

「あれは、小細工に過ぎん」

「小細工、でございますか……?」

 秋綱の言葉に昂は静かに頷き、腰を落とした。

「人間といえども、極度の緊張の中では筋肉が委縮し、硬くなる。あの時、お前の木刀を切ったのは、木こりが斧で木を倒すのと同じ事だ」

 そこまで言うと、刀の柄に軽く手をかけ、一瞬の鍔鳴りに対して、秋綱が大きく後ろに跳び下がった。

「速さは今と変わらぬ。あの一瞬、お前の視線が足元に行くように声をかけ、お前が視線を俺から外れた瞬間を狙って刀を抜いただけだ」

「では……」

 秋綱が皆まで言うよりも早く、昂は刀を井戸端に立て掛けた。

「始めた瞬間、お前に向かって『殺気』を放った。お前は『それ』に呑まれた。それが極度の緊張を生み、俺の手の内で踊った。まともに葉月の抜刀術だけで仕合をしても勝てぬ故、少しばかりの小細工をさせてもらった」

 昂はそう言うと、息を吐いた。

「ですが……」

「戦場では殺気が当たり前になり、その中で過ごす故に、自分に向けられた小さな殺気にも身体が鋭く反応する。逆に仕合では技量を重く見るが故に、殺気に対して鈍くなる」

 昂の説明に秋綱は首を横に振った。

「戦場でも、あれほどの殺気を感じた事はありませぬ」

 秋綱が返した言葉に昂は小さく頷くと、笑みを浮かべた。

「お前は虎と対峙した事はあるか?」

「いえ……」

 昂の言葉の真意を掴めずに、秋綱は静かに答えた。

「では、獅子はどうだ? 豹は? 狼の群れでもいい。獣と対峙した事はあるか?」

 昂が矢継ぎ早に質問を投げかけ、それを全て秋綱が否定をした。

「獣にとって、群れぬ人は脅威にはなりえぬ。獣に言葉は通じぬし、人は生まれ持った武器などは無いからな。だが、獣には獣のしきたりがある」

「獣のしきたり、でございますか?」

 秋綱の言葉に昂はゆっくりと頷いた。

「殺気が強い物に近付かぬ。対峙したのなら、相手よりも強くなければ逃げる。そういうしきたりがあるのだよ。俺はそういう場所を生き抜く為に、自分の強さを必要以上に際立たせる殺気を出せる様に修業した。一人旅という物をする上で必要であったが故の、苦肉の策だ」

 昂はそこまで言うと、秋綱の反応を待った。

「それでは……」

「剣術場にいた者たちが声さえも出せなくなったのは、俺がお前に向けた殺気の端に触れただけに過ぎぬ。それだけで言葉を無くすとは」

――修行不足以外の何物でもないな。

 昂が小さくそう付け加えると、秋綱は小さく頭を下げた。

「それで、お前の気は済んだか?」

「はい。ようやくあなたを客人として招き入れる事が出来そうです」

 その言葉に昂は秋綱の表情を見た。

「俺が十五年前の恨みを持ったまま、ここに来た。そう疑っていたのだろう?」

「申し訳ありません。その通りでございます。それに……」

「栞はお前の妻だ。今更、俺が何か言っても、どうにも出来ぬ事であろう?」

 秋綱の言葉を奪う様にして昂はそう言うと、晴れやかな笑みを浮かべた。

「お前が疑いたくなるのはわかる。もし、俺が同じ立場であったなら、俺はそう思うに違いないのだからな」

 昂の笑みに乗せられるように、秋綱は静かに笑い出した。それは、これから訪れる初夏を思わせる程に気持ちの良い笑いだった。


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