2 伏せる憎悪
陽が空を赤く染めていく中、秋綱は自分の屋敷の門を通り抜けた。
「……ん? 誰か客人か?」
秋綱は見慣れない作りの足袋を目に止め、足も止めた。その姿を見て、小間使いの少年が慌てて秋綱の傍に走り寄り、急いで頭を下げた。
「あぁ、ご主人様、お帰りなさいませ!」
謝罪の声を上げる少年に秋綱は軽く手を上げた。
「よい。それよりも誰ぞ客人か?」
「あ、はい。奥方様の古い知り合いとの事でございます」
少年の言葉に秋綱は首を傾げた。
「栞様の? はて、そのような方がおられただろうか……」
「奥方様はお客人を『兄様』とお呼びになられていました。ですが、お城のお殿様でない事は……」
秋綱が疑問に答える少年の声に、秋綱は弾かれたかの様に走り出していた。
――まさか……。
栞が『兄』と呼ぶ相手はたった二人しかいない。それを知っているが故に、秋綱の頭は混乱していた。
――そんな筈は……。
混乱した頭で、それでも幾つもの答えを探そうとした。
――確かに斬った……。私が、この手で……。
秋綱は息を切らしながら、栞の部屋の前まで来ると、そこで初めて呼吸を整えた。
――生きているのなら、何故……。
そう思いながら、部屋の中を窺った。時折、相槌を打つかのような静かな男の声に、栞の楽しそうな声。それは十五年前には『当たり前』だった筈の響きだった。
「……栞様、秋綱でございます」
「あ、秋綱様? 申し訳ありません、もう、お帰りの時間でございましたね。さ、お入り下さい。今日はとてもいい事がありました!」
栞の謝罪と喜びの声に、秋綱は部屋の襖を静かに開けた。
「久しいな、秋信。いや、秋綱、だったな……」
「昂、さ、ま……?」
秋綱は静かに掛けられた男の声に、掠れた自分の声を耳にしていた。
「生きて……おられたのですか……?」
「少なくとも、死んでいたのなら、今、この場にはおらぬ」
小さく込められた皮肉の声が、秋綱の心に斬りかかった。
「昂兄様!」
それを咎めるかのような栞の声に、昂は湯飲みに口をつけ、小さく喉を鳴らすと、それを畳に置いた。
「いや、すまぬ。やはり十五年ぶりの『再会』とやらが美しいとは限らぬ」
昂はそう言うと、秋綱に視線を移した。
「もう……。さ、秋綱様もお座り下さい」
栞の声に促されて、ようやく秋綱は昂の正面に腰を下ろした。
「色々と聞きたそうな顔だな」
秋綱の表情を見て、昂が感情の無い声を出した。
「何故、でございますか?」
秋綱の口から自然と零れた声に、昂は静かに目を閉じた。
「それは、どういう意味だ?」
「両方でございます」
昂の言葉の真意を推し量ったかの様に秋綱は切り替えした。
「秋綱様……?」
不思議そうな顔をする栞の声に、昂は目を開くと、今度は畳に視線を落とした。
「そう、だな。すぐに帰って来なかった理由は『愚かな自分』を見つめなおすだけの時間が欲しかったからだ。そして、今頃になって帰ってきた理由は『ようやく割り切れる』と思えるようになったからだ。それでは答えにならんか?」
昂がそう言うと、秋綱は微かに頷きかけ、そのまま首を横に振った。
「……そうではありません。私は、この十五年、ずっとあなたに謝りたかった……。父の愚かな姦計に踊らされ、この手で……」
秋綱は自分の両手に視線を落とし、両手を握り締めた。
「この手であなたを斬った、そんな自分が……」
その言葉の途中で昂は静かに秋綱に向け、手を差し出した。
「よせ。俺は水に流す。そう言っているのに、蒸し返すつもりか?」
「しかし……」
それでも言葉を続けようとした秋綱に、栞が大きく手を叩いた。
「秋綱様? せっかく会えたのです。もう、ご自分を責めるのはおやめ下さい。今宵は再び会えた事だけを祝いましょう」
「そうでございますな……」
秋綱は静かに頷くと、軽く手を数回叩いた。それを合図に、しばらくして夕餉が運ばれてきた。
「して、昂様はこれから何か予定でもありますか?」
酌を勧めながら、秋綱はそう切り出した。
「いや。予定は無い。目的みたいな物はあるがな……」
「目的、でございますか?」
秋綱の問いに昂は酒を口にしながら、小さく頷いた。
「あぁ。俺は既に死んだと思われた身だ。そのお陰で自由に動ける」
「自由に、でございますか?」
昂の言葉に栞が反応した。
「俺はこの十五年で『葉月昂』ではなく、ただの『昂』という人間になった。それは俺という人間にとって、瑞希の外戚という名前の見えない鎖から放たれ、自由にこの大陸を歩く事が出来るようになったという事だ。それは、父上が望んでいた事でもあった」
栞の声に律儀に応えると、昂は再び酒を口にした。
「雪綱叔父様が、ですか?」
栞が疑問の声を出すと、昂は頷いた。
「父上は元服をしたら自由に生きろ、と言っていた。瑞希の外戚ではなく、葉月の家を継ぐだけでいい。そう言われた」
「昂兄様……」
昂は静かに笑みを浮かべると、秋綱に視線を移した。
「あの頃は『葉月』という名前さえも重かった。そして、今の俺には『昂』という名前があればいい。そう思えるのに十五年もかかった。だから、俺は瑞希に戻ってきた。ここから、ただの『昂』という人間が旅立つために、父上と母上に伝えておきたかったからだ」
昂がそう言うと、秋綱は意を決したように頭を下げた。
「昂様……」
「なんだ、秋綱?」
昂が静かに問うと、秋綱は頭を上げる。
「急ぐ旅でございますか?」
「いや、急いてはおらんな。だが、長く留まるつもりも無い。少なくとも、瑞希の中だけでも半年はかかる。大陸を見て巡るだけでも、半生を費やすかも知れん」
昂はそう言うと、杯を置いた。
「世界は広い。俺はそれが見たい」
「では、しばらくで構いませぬ。我が家に逗留下さい。部屋は用意いたします」
秋綱の言葉に栞が同意をするように、満面の笑みを浮かべた。
「……そうだな。考えてもいいが、一つの条件がある」
昂がそう言った瞬間、秋綱の肩が震えた。
「そう硬くなるな」
昂はその様子を見て、苦笑を浮かべた。
「簡単な条件だ。俺を『昂様』と呼ぶ事だけは止めろ。言葉使いを直せと言って、聞くお前だとは思わんが、俺とお前は十五年前に『主従関係』は断ち切れた。お前に『様』をつけられる謂れも、資格も無い」
「……昂兄様」
栞が安堵の笑みを浮かべると、昂はそれに答えるかのように頷いた。
「わかりました……。では、昂殿、でよろしいですか?」
「あぁ、それでお前が納得するのであれば、それでいい」
秋綱の言葉に昂は静かに答えた。
布団に入った秋綱は隣で横になりながら、嬉しそうに今日の出来事を語る栞の髪を指先で掬い上げた。
「どうなされましたか?」
不思議そうに問う栞に、秋綱は僅かに首を振った。
「私は不安なのです……」
天井を見上げ、秋綱は静かに声を出した。
「不安? 何が、ですか?」
再び疑問の声を上げる栞に、秋綱は目を閉じた。
「昂殿はああ言われましたが、果たして、本当にそうなのか、と……」
「昂兄様は水に流す、と……」
目を開くと、秋綱は首を横に振った。
「私はこの手で昂殿を『斬った』のです……。そして、それだけならばいざ知らず、昂殿の『一番欲しかった物』まで手に入れてしまった……」
「昂兄様の『一番欲しかった物』ですか?」
秋綱は軽く栞の頬に触れると、しっかりと栞の顔を見つめる。
「栞様、あなたです」
栞が目を丸くすると、秋綱は再び天井を見上げた。
「昂殿から見れば、私は『両親の仇の息子』で『愛した人間を奪った恋敵』です。私が同じ立場に立った時、私が同じ台詞を言えるとは思えません……」
秋綱の言葉に栞は優しく自分の頬を触れる手に、自分の手を置いた。
「栞様……?」
「仕合を……」
一旦言葉を切ると、栞は静かに笑みを浮かべた。
「仕合を申し込んでみてはどうでしょうか? お二人は昔、それでよく分かり合えたのではありませんか……」
「仕合、ですか……」
秋綱は栞の手の感触を感じながら、少しだけ考える時間を置き、やがて頷いた。
「そうですね。栞様の言われる通りです。確かに昔から、私たちはそれで分かり合えていました。明日、仕合を申し込んでみます」
目を閉じる秋綱に栞は微かな笑みを浮かべ、同じ様に目を閉じた。