1 疼く傷痕
編み笠をかぶった青年は荒れ果てた屋敷に掲げられた、風雨に曝されて文字さえ読めなくなった表札を懐かしそうに見上げた。
「もう、十五年、か……」
静かにそう呟くと、青年は屋敷に背を向けた。
「思えば、長いようでいて短く、短いようで長い年月だったな……」
空を見上げると、青年は小さく息を吐いた。
「だが、それも、もうすぐ終わる……。いや、もうすぐ『始まる』のだ……」
青年は一頻り笑うと、荒れ果てた屋敷を後にした。
初夏と言うには早すぎる空気を、鋭く切り裂く音が響いた。
「秋綱様、じき参内のお時間ですよ?」
春先を思わせるような穏やかな笑みを浮かべながら、栞は庭先で木刀の素振りをする男に声をかけた。
「この前、参内に遅れた時、兄上にどれだけ冷やかされたのか、お忘れですか?」
笑みを湛えたままの声に、秋綱――かつて秋信と呼ばれた男は、汗を拭きながら振り向いた。
「もう、そんな時間ですか?」
「はい。もう、そんな時間です」
栞がやんわりとした口調で答えると、秋綱は僅かに笑みを浮かべた。
「やはり栞様と共にいると、時間の経つ事を忘れてしまいます」
「まぁ。お世辞を言っても、何も出ませんよ?」
口元に手を当てて微笑むと、栞はその手を自分の下腹部に当てた。
「世辞ではありません」
真面目な顔をする秋綱に、栞は少しだけ窘めるように口元を引き締めた。
「それよりも、私に敬語はおやめ下さい。私たちは夫婦でございます。それに、守矢のお家は秋綱様が頭首でございます。お仕えの方々も困惑されています」
「それは、そうでございますが……」
歯切れの悪い秋綱に、栞は指を一本立てると、僅かに上を向き、目を閉じた。
「もう、夫婦になって六年も経っています。この秋には御子が生まれるというのに、いつまでもそのような状態では、子供にも示しがつきません」
栞は再び視線を秋綱に戻した。
「すみませぬ。夫婦になってからの六年よりも、それ以前の時間があまりにも長すぎた故か、直そうにも、なかなか直りません」
僅かに頭を下げると、秋綱は着物を整え、栞から差し出された太刀と脇差を腰に差した。
「ほら、また……」
笑みを浮かべる栞に秋綱は静かに頬を掻くと、もう一度身なりを正すように、着物に手をかけた。
「では、行って参ります。これ以上遅れると、本当に殿から何を言われるのか、わかりませぬ故……」
そう言って歩き出す秋綱の姿が屋敷から出るまで、栞は笑みを浮かべたまま手を振り続け、姿が見えなくなると小さく息を吐いた。
「もう……。言っているそばから……」
――それも、いいところの一つですけど……。
栞は言葉を半分、心の中に留め置くと、思い出した様に軽く手を叩いた。
「誰かありますか?」
静かに、しかしよく通る声を出すと、すぐに女中の一人が栞のそばで正座をしてかしこまった。
「奥方様、御用でございますか?」
「あ、いえ。これから少し出掛けようと思います」
栞がそう言うと、女中は少しだけ顔を上げた。
「では、お供を……」
「葉月のお墓に参るだけです。行って、帰って来るまで一刻ほどです」
女中の言葉を途中で栞がやんわりと拒絶すると、女中は再び頭を下げた。
「ですが……」
「おなかの子も大丈夫です。まだ歩けない程ではありません。仕度だけ手伝って下さい」
これ以上の問答は無用、と言葉だけで意思を表すと、女中はもう一度頭を下げ、栞のそばから離れた。
「……もう、十五年も前なのに……」
離れた女中に、栞の呟きは届かなかった。
編み笠をかぶった青年は、まるでそこだけが周りの時間から取り残されているかの様に荒れた墓石の前で座り込み、雑草を抜き始めた。
「……この十五年……」
呟く様に青年は声を出した。
「この十五年の間、ただの一度も参らなかった、昂の親不孝をお許し下さい……」
青年――昂は静かに、そして丁寧に雑草を抜くと、僅かに編み笠に手をかけた。
「今はこの程度しか出来ませぬが……」
昂は雑草を一つ抜く度に小さく何かを呟き、その手に力が篭り、引き抜いた草を一箇所にまとめていく。
「父上、母上の無念、あと少しで晴れます故、それまでのご辛抱、お許し下さい……」
全ての雑草を抜き終わると『葉月家之墓』と彫られた墓標に、昂は静かに頭を下げた。
「……どなた様ですか?」
不意に掛けられた声に、昂は慌てて後ろを振り返った。そこにはまるで春の柔らかな日差しを切り取った様な佇まいの女性が立っていた。
「この草を抜いて下さったのですか?」
一つにまとめられた雑草の山を見ながら声を上げた女性に、昂は小さく頷いた。
「ここだけ荒れていたのでな……」
それだけ言うと、昂は女性の横から立ち去ろうとして、そのすれ違いざまに袖にかけられた手に気付いた。
「女。俺に何か用か?」
「まさか……」
女性の震えた声に昂は振り返った。
「まさか、昂、兄様ですか……?」
女性――栞の言葉に、昂はかぶろうとしていた編み笠を地面に落とした。
「栞、か……?」
昂の声が震えた。
「生きて……生きておられたのですね……」
震えたままの栞の声に、昂は僅かに頷いた。
「一応、な……」
「昂兄様ぁ!」
涙を流しながら飛びつく様に昂の胸に飛び込んできた栞を、昂は優しく受け止めた。
「昂兄様、昂兄様、昂兄様ぁ……」
ひたすら自分の名前を呼びながら泣き叫ぶ栞の頭に、昂は静かに手を置いた。
「相変わらず、泣き虫だな……」
昂は栞が泣き止むまで、その手を栞から離さなかった。
墓地の片隅にある長椅子に栞が座るのを確認すると、昂はその隣に腰を下ろした。
「……落ち着いたか?」
昂の優しい声に栞は恥ずかしそうに頷いた。
「外見は変わっても、中身は変わらぬな、栞」
「変わりましたか……?」
栞がそう問うと、昂は頷く。
「昂兄様も変わられました……」
栞の小さな声に昂は小さく首を横に振った。
「変わるさ……。あれだけの事があったのだからな……」
静かな声に栞は顔を上げた。
「ですが、生きておられたのなら……」
「帰って来られると思うか?」
帰って来られなかったのですか、そう栞が続けるよりも早く、昂は口を開いていた。
「俺は理由がどうあれ、秋信を『斬り』に行った。そして、秋信はどのような状況であったとしても、俺を『斬った』のだ……」
一旦言葉を切ると、昂は初夏にはまだ早い空を見上げた。
「どれだけ絆が深かろうと、どれだけ親友と言い張ろうと、あの時の俺たちには『国主の外戚とその臣下』という壁が確かにあった。その俺を『斬った』秋信に……」
「ですが、あの時の昂兄様は……」
辛い思い出を思い出しながら、栞は遠慮がちな声を出した。
「あぁ。怒りと悲しみに任せた行動をした。だが、それでいて、自分でも恐ろしい程に思考だけは、はっきりとしていたよ……」
そう言うと、腰に一本しか差されていない刀の柄を叩いた。
「だが、河に落ち、外洋に流され、薄れていく意識の中で、俺は自分の『間違え』に気付いた……」
微かな笑みを浮かべると、昂は編み笠を手にした。
「運良く漁師の網に掛かり、命を繋ぎとめた時、俺は思ったよ。今、俺が帰れば、秋信は……いや、守矢の家に迷惑がかかる、とな」
――だから姿を消した。
昂は僅かに空気が震える程の声でそう付け加えた。
「……ですが、それで秋信様がどれだけ苦しんだか、昂兄様はご存知ですか?」
昂の言葉に小さな憤りを込めて、栞は声を出した。
「わからんよ。俺は秋信ではない。俺は俺でしかないからな。だが、俺は生きながらえた命で、考える時間が欲しかったのだ」
「考える時間、ですか?」
疑問を投げかける栞に昂は小さく頷いた。
「何故、あの時、もっと秋信を信じてやれなかったのか……。何故、親友を斬りつけたのか……。そう思うと、自分が情けなくなった……」
「昂、兄様……?」
いつの間にか拳を握り締め、その拳から血が滴り始めたのを見て、栞は躊躇いがちに声をかけた。
「割り切れる。そう思うのに十五年もかかってしまった。とんだ親不孝者だろう? 俺は十五年もの間、父上と母上の御霊に参る事さえしなかったのだ。そして、墓参りこそしたが、それでも、お前に……お前たちに会う気は無かった……」
自嘲気味に声を出す昂に、栞は首を横に振った。
「仕方の無い事だったかもしれません。ですから、今日は『秋信』様ではなく『秋綱』様にお会いになってはどうでしょうか?」
栞の提案に昂は一瞬の間だけ呆けた顔をすると、納得のいった表情を浮かべた。
「秋、綱? そうか、秋信は元服をして、その名を戴いたのか……」
「いえ、秋綱様は、私が嫁いだ時、お父様から一文字を受け取りました。それまで、秋綱様は秋高と名乗っておいででした」
「あき、たか?」
僅かに掠れた声を出すと、栞は笑みを浮かべた。
「本当は昂兄様の文字を使いたかったらしいのですが、流石に……」
「あぁ、それはそうかも知れんな。元服の折に罪人の名を継がせるわけにはいかぬ」
苦笑ともとれる笑いに、栞は頬を膨らませた。
「昂兄様はなんでも悪い方向に考え過ぎです。秋綱様は私の良人として、おおよそ欠点など見当たらないお方です」
栞の説明に昂は静かに頷くと、栞の留袖に軽く手を触れる。
「そうか。お前は秋信……いや、秋綱に嫁いだか……」
昂は静かにそう言うと、栞に微かな笑みを向けた。
「はい。六年前に……」
「ずいぶんと遅い婚姻だな。国主の娘が二十を過ぎるまで、どこにも嫁がないのは、余りにも珍しいぞ?」
昂の声に栞は俯くと、両手に力を込め、昂の涙の溜まった視線を向けた。
「仕方が無かったのです! 秋綱様は妻を娶る事を、頑なに拒絶されていましたし、私は……」
一旦息を吐くと、栞は昂の着物に手をかけた。
「私は昂兄様が忘れる事ができなかったので、どこにも嫁ぐ気が無かったのです!」
荒げた声に昂の静かな視線が向けられている事に気付き、栞は慌てて昂の着物から手を離した。
「それで、結局、私は父の命令で、ある戦の後、秋綱様に嫁いだのです……」
「勲功労賞、か……。秋綱が最も功を得た、という訳か……」
軽く毒吐く様に、昂がそう言うと、栞は慌てて首を横に振った。
「いえ、決してそう言う訳ではありません! 確かに秋綱様の功は大きかったと聞いています。ですが、あれは、父の私に対して、最後の謝罪だったのです……」
声を少しずつ小さくしながら、栞は昂に視線を向けた。
「謝罪? それに最後の、だと? 綱信叔父は死んだのか?」
昂の言葉に栞は静かに頷いた。
「私の婚儀を見届けるのを待つかの様に病に伏せ、嫁いで一年もしないうちに……」
「そうか。では、瑞希の国主は秀綱兄が引き継いだのか?」
昂が確認を取るような声を出すと、栞はもう一度小さく頷いた。
「はい……」
暗い声を出す栞に昂は静かに目を閉じた。
「栞。お前は今、幸せか?」
不意にかけられた疑問に栞は目を大きく見開くと、静かな笑みを湛えた。
「はい。秋綱様は『瑞希の守護者』とまで言われるお方です。そして、とても誠実な方だという事は、昂兄様も知っておられる筈です。そのような方に嫁ぐ事が出来たのは、幸せだと言わなくては罰が当たります」
それに、と栞は自分の帯下に軽く手を当てた。
「この秋には御子が生まれます」
「そう、か……」
昂は小さく頷くと、その場を立ち上がった。
「昂兄様?」
「陽が中天を回った。今日の宿を決めねばならん」
昂がそう言うと、栞は少しだけ考えた風に首をかしげ、軽く手を叩いた。
「昂兄様、今日は我が家にお泊まり下さい!」
栞の提案に昂は静かに首を振った。
「言わなかったか? 俺は、お前たちに『会うつもりが無かった』と」
「ですが、今、会わねば、しこりが残ります!」
強い語気の栞に、昂は両手を上げ苦笑し、やがて頷いた。
「より大きな『しこり』になっても知らんぞ?」
「でも、会わずに抱え込むよりはましです!」
栞は立ち上がると、まっすぐと昂を見つめた。
「昂兄様は『割り切れる』と思ったのでしょう!? 何を『遠慮』されるのですか!? 栞には、昂兄様が『割り切れない』様にしか見えません!」
栞は思わず声を張り上げると、はっとしたように口元に手を当てた。
「……わかった。今日はお前の言葉に甘えるとしよう」
根負けするように昂は頷くと、栞に背を向けた。
「昂兄様?」
「守矢の屋敷なのだろう? 忘れたのか? 場所が変わっていないのであれば、目を閉じても行く事ができる」
編み笠をかぶると、昂は栞の返事を待たずに歩き始める。その後を追いかけるように栞は歩き出した。そして、二人は幾許もしないうちに大きな屋敷の門に辿り着いた。
「……先に、お待ちしております」
栞はそう声をかけ、先に門をくぐったせいで見なかった。昂の視線がその門の上に掲げられた『守矢』の表札を憎々しげに見上げていた事に。
――じき、ここを朱に染めてやる……。
呟きにさえもならないほどに小さなその『声』が、吹き抜けた風に溶けていった。