2 少年の過去
その大陸には大小合わせて、十二の国があった。無論、その中には建国から五百年以上の歴史を持つ国もあれば、まだ生まれたばかりの国もあった。大陸の東端に位置する瑞希の国は初代国主、瑞樹広綱から三十七代目国主、瑞樹綱信に至るまで、五百有余年の歴史を持つ、大陸の中で二番目に歴史の古い国として、小さいながらも隣国から様々な畏敬の念を持たれている国だ。
「ほらほら、昂兄様! 今度は上手に書けました!」
まだまだ幼さを宿した少女は、半紙に書いた自分の文字を傍で笑みを浮かべながら見ていた少年に見せつけた。
「あぁ、上手いな。栞は何をさせても、すぐに上達するな……」
昂、と呼ばれた少年は栞の頭に手を置くと、くすぐる様に軽く撫で始めた。栞はその仕草にくすぐったそうにしながら、それでも充分すぎる喜びをその表情に表していた。
「でも、まだ昂兄様や秋信様には遠く及びません」
栞はそう言うと、手本として書かれた二つの半紙を視線で示した。確かに二つの見本に比べれば見劣りするが、それでも、少女の年齢を鑑みれば充分な程の手前だ。
「僕や秋信に、栞と同じ歳の時に、それだけの文字を書けと言われても無理だよ」
昂はそう言いながら、もう一度栞の頭を撫でる。
「では、昂兄様に嫁いでもよろしいですか?」
栞の無邪気な笑みに、昂は僅かに視線を逸らした。
「どうかなさいましたか?」
「いや、栞には関係のない話だ……」
昂の言葉に栞は軽く首を傾げると、すぐに手を叩いた。
「もしかして、昂兄様は従兄弟同士の婚姻を懸念されておられますか?」
栞がそう言うと、昂は苦笑した。
「栞は聡いな。僕たちは従兄弟同士だ。特に僕と栞は国主の甥と娘だ。その婚姻を面白がらない方々は非常に多い」
「昂兄様は常々、互いに好き合っていれば、それは些細な問題だと言われております」
栞はそこまで言うと、昂の手から逃れ、昂の顔を正面から見つめた。
「昂兄様、栞は昂兄様が好きです。昂兄様はどうですか? 栞の事がお嫌いですか?」
まっすぐな栞の視線に昂は笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「わかったよ。じゃぁ、僕は妻を娶る時、誰からも反論が出る事無く、栞を殿から頂けるように、刀の修練に身を入れる事としよう」
笑みを込めてそう返すと、昂は自分の腰に差してある刀の柄を軽く叩く。決して大きいとは言えない、その音が合図かの様に、襖の向こう側で誰かが膝を折る音が響いた。
「昂様、雪綱様がお呼びでございます……」
静かに落ち着いた、それでいながら、まだ幼さが残った少年の声に、昂は面白くなさそうにもう一度、刀の柄を叩いた。
「秋信、僕に敬語は必要ない、そう言わなかったか?」
昂の言葉に、秋信と呼ばれた少年は襖を開き、頭を下げる。
「昂様は主筋の方でございます。私にも立場がございます」
「それを言うのであれば、僕とお前は幼馴染で乳兄弟だ。そこに何の遠慮がある?」
それに、昂は静かに膝を着き、秋信の肩に手を置く。
「お前は僕にとって、唯一、気の置けない親友だ」
笑みを浮かべながら昂は秋信が顔を上げるのを待ち、秋信が顔を上げ、首を横に振る仕草を見て、僅かに目を閉じた。
「秋信様……」
その様子を見ていた栞が、柔らかい声をかけた。
「昂兄様が困っておいでですよ?」
栞がそう言うと、秋信は顔を上げた。
「でも、昂兄様も昂兄様です」
たしなめる様に指を立て、栞は昂の方に視線を移す。
「昂兄様は気になさらずとも、主筋の方と呼び捨て、対等で話し合うのを他の家臣方が見られたら、どうなさるおつもりですか? 葉月のお家は瑞樹家と姻戚です。そして、守矢のお家は重鎮なれど、姻戚関係にはございません。秋信様は守矢のお家を慮って、言葉を選ばれているのではございませんか?」
「それは……」
栞の言葉に昂は一瞬声を詰まらせた。
「でも、人間、自分に正直である事が一番だと、栞はそう思います」
栞はそこまで言うと、両手を軽く叩いた。
「さ、雪綱伯父様がお呼びでございましょう? 昂兄様、伯父様のお身体に障るといけませんから、早く行かれる方がよろしいのでは?」
促される様に出された栞の声に、昂は小さく頷き、立ち上がると、部屋を出て廊下を歩き始めた。
「……なぁ、秋信」
「はい」
呟く様に声を上げる昂に、秋信は一歩離れた位置からはっきりとした返事を返した。
「……いや、なんでもない」
溜息を吐きながら昂がそう言うと、秋信は素早く昂の隣の位置まで身体を移した。
「やはり、気が進みませぬか?」
「……あぁ」
耳打ちをする秋信に、僅かに右手を震わせ、昂はもう一度溜息を吐く。
「時々不思議で堪らなくなる。父上も母上も病弱の身。母上は僕を産んだ時、死んでもおかしくなかったとの話だ。そんな両親から産まれた僕が、じき元服になるという歳になるまで、風邪一つひいた事がない。これは明らかに不自然だ」
「ですが、大殿がそうだったと聞いております」
秋信がそう言うと、昂は何度目になるかわからない溜息を吐いた。
「確かに時綱爺様がそうだった事は聞いている。だが、それもはっきりとした事は……」
――わからぬ。
そう言いかけて、昂は足を止めた。
「少し待っていてくれ。後で汗を流したい」
「わかりました」
秋信が頷くのを確認せずに、昂は一際立派な襖を開き、部屋の主の声を聞く事無く、部屋に入っていった。
「……父上、昂にございます」
視線すら合わそうとせず、昂は静かに正座をし、頭を下げる。
「顔を上げなさい、昂」
部屋の主である自分の父、雪綱の声に昂は静かに顔を上げ、そのまま息を呑み込んだ。
「やつれたであろう?」
「そのような事は……」
その言葉を昂は右手を震わせ、言葉の上で否定を、表情で肯定していた。
「偽る必要はない。それに……」
雪綱は静かに声を出すと、数回咳き込んだ。
「お前は少しも変わっておらぬ。その癖は早めに治す方が利口だ」
「これは……」
何かを返そうと昂が拳を握り締めると、雪綱はもう一度咳き込んだ。
「父上。ご用件をお早めに。身体に障ります故……」
「……お前もじき、十五になると思ってな」
雪綱の声に昂はそれだけで全てを把握した。
「元服の儀、でございますか……。まさか父上が取り仕切る、とでも?」
「本来ならば、な」
雪綱は再び咳き込むと、昂に視線を向ける。
「元服の儀を滞りなく済ませねば、お前は呪われた士としての汚名を受ける。だが、私がこの体堕落では、滞りなく済ませる事は難しい」
「ですが……」
昂が声を上げると、雪綱は軽く手を上げて、昂の言葉を制した。
「故に、守矢殿に元服の儀を取り仕切ってもらうよう、取り計らった」
「守矢殿に、でございますか?」
昂の疑問に、雪綱は頷いた。
「守矢殿は瑞樹の重鎮。私の代わりとして、なんら問題のない方だ。そして、お前が元服すれば、それで葉月の家は安泰だ」
「何を、言われますか……」
昂は自分の掠れた声をはっきりと意識していた。
「医者の見立てでは、お前の婚儀を見届ける事さえ、贅沢な望みだそうだ。そもそも、私は自分が葉月の家を潰すと思っていた。だが、朱里がお前を産んでくれた時、欲が出た」
雪綱の言葉を聞きながら、昂は小さく首を横に振った。
「父上……? 何故、今日は雄弁でございますか?」
「雄弁、か。私とて男だ。欲や野心の一つや二つ、あっても良かろう? お前が産まれた時には、外戚としての権力を夢見た。だが、それも過ぎた野心であった」
雪綱は天井を見上げながらそう言うと、病魔に蝕まれて痩せ細った自分の手を顔の上にかざした。
「今、私の欲は、お前の元服だけだ。それ以上に過ぎた欲があろうか?」
「父上……」
その様子に目を伏せる昂に、雪綱は悟りきった風にさえ取れる表情を浮かべた。
「私はお前の元服したお前が、葉月昂ではなく、新しい名を得て、葉月の家督を継ぐ姿を見る事さえ叶うのであれば、それで満足だ……。そして、お前は自由に生きるがいい」
「自由、でございますか?」
昂が再び顔を上げると、雪綱は静かに頷いた。
「葉月の家の事を考えるな、と言う事だ。確かに葉月という家名には瑞希の外戚という立場がある。だが、お前には、お前にふさわしい道がある。私の欲はお前の『それ』までは縛らぬ」
昂が僅かに表情を曇らせると、雪綱は笑みを浮かべ、すぐに激しく咳き込んだ。
「父上!」
「騒ぐでない……。いつもの発作に過ぎぬ……。今日の用事はそれだけだ……」
雪綱の言葉の意味を正確に捉えると、昂は深く頭を下げ、雪綱の表情を見る事無く、部屋を辞した。
「……昂様」
沈みきった顔の昂に声をかけた秋信は、強く握り締めた昂の拳に小さく頭を振った。
「汗を流したい」
昂が呟くようにそう言うと、秋信は頷き、歩き出していた昂の後ろを二歩程遅れて歩き始めた。
道場に木刀がぶつかり合う音が激しく響いた。
「はぁ!」
裂帛の気合を込めた昂の袈裟切りを、秋信の木刀が弾き上げる。
「せぇい!」
弾かれた反動を利用して昂の身体が反対方向に回転し、逆側から強烈な薙ぎ払いが入る。
「ふっ!」
それを半歩だけ下がり、昂の身体が流れる瞬間を見計らうかの様に、秋信は半歩の踏み込みと共に木刀を振り下ろした。
「……一本でございます」
昂の額に当たる寸前で木刀を止めた秋信は、静かにそう呟いた。
「また腕を上げたな……」
昂が小さく笑みを浮かべると、秋信は首を横に振った。
「腕は確かに上げました」
「……だろうな。守矢一刀流、護りの極め『静柳』から、攻めの極め『迅雷』までの繋がりに目立った澱みがない」
昂が自嘲気味に声を出すと、秋信は開始線に戻る。
「確かに淀みは無くなりました。後はこれ以上に連動を速くするのみ、そう父上にも言われました。ですが、それ以上に、今日の昂様は何かが変でございます」
「……僕が、変、だと?」
右手を僅かに震わせ、静かに開始線に戻ると、昂は小さく首を横に振る。
「お前の気のせいだよ。お前は、いつも、そうやって僕を立ててくれる……」
そう呟き、昂は素早く斬撃を放つ。それを秋信は素早く身体を捻る事でかわすと、再び昂の額に当たる直前で木刀を止めた。
「……普段の昂様は、今日ほど攻め気が激しくありませぬ。気持ちだけが前に出て、隙だらけでございます」
静かにそう言うと、秋信はもう一度開始線に戻る。
「……そうかも知れんな。だが、それでもお前の腕が上がった程に、僕の腕は伸びていない。今の僕がお前に勝っているといえば……」
昂はそこまで言うと、木刀を床に置き、軽く腰に差したままの刀の柄を軽く叩く。
「……放ってくれ」
昂がそう言うと、秋信は自分の手に在った木刀を宙に放り投げる。静かに昂は刀の柄に手をかけ、空で回転する木刀を注視した。そして、一瞬の鍔鳴りと、それから数瞬だけ遅れて響く二つの音を聞きとげると、昂は柄から手を離した。
「抜刀術だけだな……」
僅かに笑みを浮かべると、昂は秋信の方に視線を送る。
「見えたか?」
端的に言う昂に、秋信は首を横に振った。
「だが、やはり、葉月の剣は実戦ではなく、剣術でしかない。お前の……瑞希を守る、守矢の剣とは、明らかに一線を画しているよ」
「……雪綱様から何か言われましたか?」
そんな昂を見て、秋信は躊躇いがちに声を上げた。
「元服の儀は守矢殿が取り仕切って頂く事になった」
「父上、でございますか?」
秋信の驚きが混じる声に、昂は静かに頷いた。
「父にはそれすら叶わぬ欲らしい。せめて、僕が元服し、葉月の家督を継ぐ姿を見届ける事。それが……それだけが、父の最期の欲らしい」
「昂様……」
そんな昂の姿に、秋信は躊躇いがちに懐から小さな包みを取り出した。
「なんだ、それは?」
「今朝、父上から預かりました。南の火倶鎚で造られた新薬だと言われました。雪綱様や朱里様の様な症状によく効く薬、という言伝を言われました」
秋信がそう言うと、昂は一瞬だけ怪訝な表情を浮かべた。
「何故、守矢殿から直接ではないのだ?」
「父上は殿のタカ狩りで今朝早く家を出ました。その際に渡された物です」
秋信の言葉に昂は静かに目を閉じると、秋信の両肩を抱きしめた。
「……お前が頼んでくれたのだろう? 瑞希は南の火倶鎚、北の秋野とは険しい断崖と激しい海流が渦巻く、国交の殆ど取れぬ国だ。それをわざわざ取り寄せる事は、いかに守矢殿でも決して容易ではない……」
昂は自分の目から零れ落ちる涙を拭く事さえ無く、秋信の背中に両手を回した。
「本当に、僕には勿体無いくらいに、お前は良い親友だ。僕は幸せ者だよ」
それは紛れも無く、二人の間に在った強い絆だった。その日の夜になるまでは……。
昂は静かに兵法書をめくると、いくつかの印をつけ、それを手元にある紙に書き写す。そして、書き終えると新しく兵法書をめくる。その動作を幾度となく繰り返した。
「昂様!」
「……何だ、騒々しい」
集中を中断された苛立ちを声に含ませ、昂は立ち上がり、自分の部屋の襖を開けた。そこには奉公人の一人が両肩で大きく息をしていた。
「……雪綱様が……」
「父上がどうかしたのか?」
極力平静を保ちながら、それでも震えた声が昂の口から漏れた。
「……雪綱様が、お亡くなりに……」
奉公人の言葉を最後まで聞く前に、昂は走り出していた。
――父上が……?
何度も激しく頭を叩く痛みが昂を動かした。
――馬鹿な……。昼、元服の儀を……。
声にならない焦りが、雪綱の部屋の襖を開く音が示していた。
「父上ぇ!」
「昂、兄様ぁ……」
顔に白い布をかぶせられた部屋の主と、その布団に大粒の涙を流している栞の姿が、昂の中で奇妙な現実感を浮き彫りにさせていた。
「……父、上?」
昂の中で疑問が疑惑に変わり、雪綱の傍にいた医者の胸倉を掴んでいた。
「何が、起きた……?」
氷室の中でさえも感じぬほどに冷たい声が、昂の口から発せられていた。
「……ひぃ」
「昂兄様!?」
恐怖にかられた医者から漏れた悲鳴に、昂は腰から短刀を抜き出し、医者の喉元に突き立てて、栞が驚きの声を上げた。
「正直に言わねば、殺す」
それが本気である事を示すように、昂は短刀に僅かな力を込める。そして、医者の喉元から一筋の血が流れ始める。
「昂兄様!」
「い、言います!」
再び響いた栞の声と、医者の声が重なり、昂は突き飛ばすように医者から手を離した。
「薬、でございます」
意を決して答えを出した医者に、昂の頭の中が一瞬にして真っ白になった。
「昂様が、お持ちになった、薬でございます……」
医者の言葉に昂の中で考えた事もない『考え』が合わさり始めた。
「申し上げます!」
その『考え』を固める様に女中の声が響いた。
「奥方様が……朱里様が、お亡くなりに……」
最後まで聞く事もなく、昂は床の間に掲げられた太刀を手にしていた。
「昂兄様!?」
栞のかけた静止の声を振り切り、昂は走り出していた。
「まさか、父上が昂様の元服を取り仕切るなど……」
秋信は静かに書を読みながら、そう声を出した。
「父上は葉月の家を押さえるつもりなのか……?」
呟いた瞬間、秋信は部屋から見える庭に人影を見つけた。
「誰かいるのか?」
刀を手に、警戒心を出しながら、秋信は部屋から出た。
「……秋信」
「昂様……?」
秋信は昂の姿を確認すると、警戒心を解いた。
「このような時間に……」
「少し、散歩に付き合ってくれ」
秋信が何かを言い終わるよりも早く、昂はそう切り出した。
「私は構いませぬが……」
秋信には気付けなかった。短い会話の中で、昂は決して秋信の『顔を見ようとしなかった』事に。そして、声に含まれた微かな『怒り』と『狂気』に。
二人は城下町から出る橋の上まで、無言のまま歩いていた。
「昂様? どこまで……」
秋信がそう声を出した瞬間、昂はゆっくりと振り返った。
「先程、父上と母上が死んだ」
感情の全てを抑えた昂の言葉に、秋信は何を言っているのか、その意味を理解できなかった。
「……お前から受け取った『薬』を服された直後の話だ」
強調された言葉に秋信は僅かに下がった。
「言え。あの『薬』は何だったのだ……」
既に疑問を通り越した、確信に近い声に秋信は首を横に振った。
「……知りませぬ」
それは昂が『予想していた答え』だった。そして『求めていた答え』ではなかった。
「お前ほどの人間が知らぬと言わせぬ!」
荒々しい声と共に昂の太刀が鋭い鍔鳴りを響かせた。
「何故殺した!? あんな両親でも、僕は愛していた! 僕にとって、掛け替えの無い両親だった! 僕にとって……」
――お前は、信じる事のできる、本当の親友だった!
声にならない怒りを発しながら、昂は何度も秋信に切りかかった。その斬撃を紙一重で秋信はかわし、そのつど刀を抜きかけ、一瞬躊躇い、その躊躇いを埋めるように昂は新たな斬撃を放った。
「お前が! お前たちが殺した!」
「違う!」
叫んだ瞬間、僅かに秋信の反応が遅れた。
――深い!
秋信の頭がそう思った瞬間、意識と理性が制止する時間さえ無く刀を抜いていた。そして、その切っ先に『何か』を切り裂く衝撃と、それから僅かな時間を置いて、橋の下を流れる川に『それ』が落ちる水音が響いた。