77話 虚無の騎士
現れたのは、空に浮かぶ巨大な布であった。エキゾチックな模様が描かれた、絨毯だ。空飛ぶ絨毯である。
しかもかなり大きい。20畳くらいはあるのではなかろうか。大勢の人間が乗っている気配がある。
その絨毯の一番前に座り、こちらを見下ろしているのは一人の老爺だ。まるでミイラが動いているかのように、異常に痩せ細った老人であった。
その黄ばんだ眼球からは、ドロリとした負の感情が垂れ流されているのが分かる。一瞬見ただけで、思った。あれは関わってはいけない類の人間だ。
しかし、向こうは俺たちを探していたらしい。
「見つけたぞぉぉぉぉぉ! 生贄どもぉ! 儂のために、その身を捧げよぉ!」
その言葉で分かった。あれが、シロとクロを探している相手だ。でも、領主っていう話だったが、こんなところに……? 領主の配下ってことなのか?
「小娘どもを捕えろ!」
「は! 領主様!」
やっぱり領主だったか! まさか自分でダンジョンにまで乗り込んでくるとは……。だが、これはチャンスだ!
俺は即座に魔力を練り、中級魔法を放った。メタルゴーレムを倒した、黒炎撃だ。
黒い炎塊が空中に浮かぶ絨毯目がけ、突き進む。このまま領主を――。
「無駄だぁ!」
障壁に防がれたか! 絨毯には防御機能も付いていたらしい。しかも、今の攻撃で完全に俺の存在がバレた。
「あの子供も捕えよ! 生贄の足しになるやもしれん! 無理なら殺せ!」
「はっ!」
領主の命令によって、空飛ぶ絨毯の上から兵士たちがドンドンと飛び降りてくる。その数およそ30人。
身体強化が使えるらしく、10メートル近い高さも問題にならないらしい。重い金属鎧を着こんだまま飛び降りても、即座に動き出している。
「ここじゃマズい!」
「にゃっ!」
「わふ」
俺はシロとクロを促して、森の中へと逃げ込んだ。開けている場所では、絨毯の上から攻撃されるかもしれないのだ。
木々が密集していれば、兵士たちを分断もできる。
それに、シロとクロをあの場にはいさせられなかった。2人の顔は、分かりやすく強張ってしまっている。強い恐怖と困惑に襲われているんだろう。
「2人とも、大丈夫か?」
「……だいじょうぶです」
「うん」
大丈夫じゃなさそうだな。やはり、人間の大人から向けられる悪意を感じると、捕らえられていた時の記憶が蘇ってしまうのだろう。
それでも、以前のように動けなくならないのはありがたい。傭兵たちと何度も遭遇したせいで、多少は慣れてきているのかもしれなかった。
身体強化を使って森を逃げ続けていた俺たち。しかし、数分もしない内に、足を止めざるを得ない状況に追い込まれていた。
「行き止まり?」
「たっかい壁です」
「入り口にあったのと同じー」
そうなのだ。俺たちは、行く手を高い壁に阻まれていた。上を見上げても先は見えず、左右に延々と続いている。
どうやら、深層の端まで来てしまったらしい。無限に続くかと思われた森林も、やはり限界があったのだ。
遠目からは何もないように偽装されていたせいで、全く気付かなかった。幻影的なもので、姿が隠されていたのだ。
これで、深層の攻略にまた近づいたのかもしれないが、現状ではむしろマイナスでしかなかった。
「まあ、まちなよ」
「追いつかれたか!」
それは、他の騎士とは明らかに雰囲気が違う騎士だった。兜は被っておらず、どこかダラけた雰囲気がある。
騎士っぽいのに騎士じゃないというか、非常に不真面目そうだ。こいつも領主の配下なのか?
ただ、俺たちの足についてきたんだ。弱いわけがない。
それに、男の目。見られているだけで震えがくるほど、その目は空虚だった。さっきの領主の目が欲望に濁っているのだとすれば、この男の目からは何も感じられない。
人っていうのは、ここまで空虚になれるのだろうか?
どちらにせよ、こいつを倒して逃げなければならないのだ。
俺は殺すつもりで魔術を放った。下位の魔法を使ったのは、手加減しているわけじゃない。連発して、足止めをするつもりだったのだ。
その間に、シロとクロにトドメを放ってもらう作戦だった。
しかし、この男の力量を、俺は完全に読み間違えていた。
「はぁ、面倒な」
俺が放った数本の水の針が、一瞬で消え去ってしまう。気づいた時には、男が剣を抜いていた。いつの間に?
俺が知覚できない速度で剣を振って、魔術を斬り払ったということか?
「シロ?」
俺が短く尋ねると、シロが首をブンブンと横に振る。その顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
「影しか見えなかったです」
シロの竜眼ですら、捉えきれないほどの速度だって? どんだけ速いんだ。白霧を遥かに超えている。
「へぇ? 影だけでも見えたのかい? その変な目のおかげかな?」
男は相変わらずヘラヘラと笑っている。時折コロコロという音が鳴るのは、口の中で飴か何かを転がしているのだろう。
覇気も凄みも感じないダラけたオッサンだ。なのにその力の抜けた立ち姿は、まるで迷宮の悪意さえ超える怪物のように見えた。




