33話 黒い影
小部屋の中央で蠢く、黒い影。
そうとしか言いようがない漆黒の塊が、そこにはあった。
大きさは、成人男性くらいだろうか? だが、その何倍にも思えてしまう。それほどに威圧的で、恐ろしかった。
俺もシロもクロも、完全に足が止まってしまっている。
ああ、恐ろしい。何故か分からないが、ただひたすらに怖い。心の中が恐怖心に埋め尽くされ、何も考えられない。
「……ぁ」
荒い息が、勝手に漏れ出す。心臓の動きが感じられるほど、鼓動が速くなっている。
その音に反応したわけではないだろうが、影の動きがさらに激しくなった。
そして、不定形だったその輪郭が、一気に定まった。
人だ。
影が、人の形を取っていた。
目も口も何もないはずなのに、それが明らかに俺たちを見ているのが分かる。全身を這い回る不快な感覚は、なんだ?
「うに……」
「わふ……」
シロとクロの口から、微かに息が漏れ出した。その吐息が、悲鳴のように聞こえる。
それを聞いて、俺は脳の痺れが一気に取れるような感覚に陥っていた。思考の霧が僅かに晴れる。
俺は、何をしてる? シロとクロを護ると誓ったんだろ? それなのに、一緒になって怯えて、保護者失格だ!
少しだけ戻ってきた冷静な部分が、俺の体を突き動かす。
料理魔法と知識をフル回転させ、影の情報を得ようとした。だが、何も分からない。食用ではないのだろう。
分かるのは、凶悪なまでの魔力だけだ。
「……」
影が反応した? 俺の料理魔法で情報を読み取られたことを理解したのか?
顔のないはずの影が、何故か嗤った気がした。直後、吐き気がするほどのプレッシャーが、俺の精神を圧迫する。
敵意? 違う。俺たちなんか、敵とも思われていない。
悪意? それも違う。やつはこれから行うことを、悪いだなんて一切思っていない。
害意? そうだ。それが一番近い気がする。やつは俺たちを害そうとしている。それは間違いなかった。
そう思った直後、俺はシロとクロを振り返ってその体を強めに押す。そして、叫んだ。
「逃げるぞ!」
「!」
「!」
これまでもずっと、俺が逃げると言ったら即座に逃げるようにと言い聞かせ続けてきた。その結果、2人の体は無意識でも反応するまでになっていたんだろう。
恐怖を浮かべた顔のまま、シロもクロも踵を返そうとして――。
「ひっ!」
「ひぅ」
影が一瞬で俺たちの背後に回り込んでいた。いつ動いたのかすらわからなかったのだ。もしかして、転移か?
だが、逃げられない以上、戦うしかない。
「燃えろ燃えろ! 盛んに燃えろ! 業火円舞!」
俺が今使える中で最も強力な、火魔法を発動させる。ダメージを与えつつ、火炎で視界を塞いでやる!
だが、俺が放った中級火魔法は、影が腕を一振りしただけであっさりと吹き散らされていた。それどころか、その腕が長く伸び、襲い掛かってきたではないか。
俺は土魔法で壁を作ろうとしたが、間に合わなかった。
鞭のようにしなる影の腕に体を打ち据えられ、吹き飛ばされる。胃液が自然と口からぶちまけられ、食道が酸でひりついた。
床を転がるせいで、全身が痛い。痛くないところがないくらいだ。意識が遠のきそうになるが、俺は何度も頭を振って堪えた。
意識を繋ぎ留め、影を見上げる。
すると、クロとシロが影に躍りかかる姿が見えた。
「闇刃!」
「うにゃぁ!」
激怒した横顔が見える。感情剥き出しの顔だ。
だが、すぐに彼女たちの姿が掻き消えた。背後の壁から、鈍い音が2つ聞こえる。
「がぅ……」
「にゃぐ……」
俺と同じように、腕で弾き飛ばされたのだ。体を硬い壁に叩きつけられ、シロもクロも起き上がれない。
「く、そ……」
なんで、こんな理不尽な……。でも、こんなところで、死んでたまるか……。俺もシロもクロも、これからなんだぞ……。
それが、こんな……。
痺れる体に鞭打って、立ち上がる。諦めないぞ! 俺は、絶対に……!
魔法を発動させるため、魔力をかき集める。その刹那、影の胴体が急激に膨れ上がった。黒い色が爆ぜ、生みだされた無数の触手のようなものが俺に襲い掛かってくる。
俺は一切反応することもできず――。
「うぁ……」
喉や体を、触手によって貫かれた。




