不快に立つ快さ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こーちゃん、こーちゃん。聞いた? けーちゃんの家、クーラーがとうとうやられちゃったんだって。
修理する方向らしいけど、業者さんもてんてこ舞いで、いつごろ動いてもらえるだろう……。買い替えも視野に入れるべきじゃあ、と勝手ながら僕は思っている。
やらなきゃいけない仕事を、こなせなくなる。道具でも人間でも、このことについてまずぶつけられるのは不満だろう。
買ったなら動いて当たり前。契約したなら結果を出せて当たり前。お金を払っているんだから、相応の対価があって当たり前。いくつもの「当たり前」が、重なることが当たり前。
そうなるとさ、うまく行くことさえ「当たり前」になるんだよね。なんの感慨も湧かない。本当は道具や人間の並々ならぬ力を借りて、ようやくできることなのに、「ありがたみ」がなくなる。その分、失敗には敏感になる。
自分の体の一部と同じさ。思い通りに動かなかったら、八つ当たりでぼこぼこ殴る。使われる側からしたら、逃げたくなるよね、そりゃ。今回のけーちゃんちも、そうかもしんない……てね。
この「当たり前」は、いつ崩されるか分からないもの。僕もむかし、これを実感するできごとにあってね。そのときのこと、聞いてみないかい?
僕が中学校にあがって、間もない時期になる。
夏の暑い日だったこともあり、家に帰るや冷蔵庫へ飛びついた。
僕の家だと、夏場は常に麦茶とアイスキャンデーのファミリーボックスストックがある。複数本入っているだけじゃなく、色々な味を楽しめるアソート形式は、子供心にお得感を感じていたんだ。
それが溶けていた。個別包装されているから、アイス同士のシンメトリカルドッキングなキマイラにならずに済んでいたけど、それぞれの袋の中は大洪水だ、形が整っていないだけで、こいつらはアイスから一気に毒々しい液体へ変貌を遂げてしまう。
でも、異状はアイスだけにとどまらない。
冷凍庫に、常にはびこっているはずの、雪を思わせる白い氷や霜。それらがすっかり溶け、生温かい空気が中を満たしていたんだ。凍らせていた保冷材も、いまやぬるくなりきった水枕程度のものでしかない。
もしや、と冷蔵庫の各所を確認して、悲惨なものだった。製氷機はその中に水をたたえて久しい様子。野菜室、チルドルーム、その他の面々も、じかに台所にさらされるよりは、少々マシ程度の空気をむさぼっている。新品のはずのキャベツの葉の先さえ、少ししなびている感が拭えない。
こいつは一大事と、テレビを見てくつろいでいた母親に報告するも、そこでもまたおかしなことが起きている。
テレビの接触が異常に悪い。電源つけて、およそ5分連続で見られれば上出来という状況が、数時間前から続いているらしい。リモコンの電池を入れ替えたり、本体をいじったりしても変化なし。
その後、二人でもろもろのことを試したところ、コンセントを刺すタイプの家電が全滅だと判明した。稼働も充電もおぼつかず、お湯すらまともに湧かせないという体たらく。もちろんエアコンも扇風機も役立たずで、久々にうちわがメイン戦力となる我が家。
そろそろ夕飯の時間だというのに、コンロは作動せず。そもそも材料たちすら、傷みを気にしないとアカンという状況。
――このままじゃ、風呂も洗濯もできないぞ……。
近くのお店では、ちゃんと電源が通っているらしい。とりあえずおそうざいで今晩はしのごうかと考えたところで、外から車の音が近づく。そしてほどなく、我が家の車庫へ入り出したんだ。
父親の帰宅。いつもより早めのご帰還に、母親は少し慌てる様子を見せた。
仕事から戻ると、父親はいつもキンキンに冷えたビールを一杯ひっかける。それが今日の冷蔵庫の状態じゃ、とてもこたえられない。
「ただいま」を告げる父親に、僕と母親は事情を話す。疲れて帰ってきたところに、追い打ちをかけるような不都合だ。どなりはしなくても、機嫌が悪くなることくらいは覚悟していたよ。
けれど父親はひとしきり聞いた後で、「ふむ」と鼻をならす。
「そりゃあ、お疲れ様だったな。あいつらを迎えに行った方がよかろう」
父親は手持ちカバンを置いてジャケットを脱ぐと、あがりかけた足を靴の中へ戻し、もう一度出ていこうとする構え。
わけがわからない僕と母親が質問すると、父親が母親と結婚する数年前にも、同じ経験をしたらしかった。
「おばあちゃんの話だとな。家電が一部だけじゃなく、すべて動かないとなると、そいつは故障じゃない恐れがある。
みんながな、旅行へ出かけちまうんだそうだ。いまある機会は、たとえるならお留守の家のようなもんだ。いくらチャイム鳴らしたところで、誰も出てこねえだろ。
家主に用があるなら、迎えにいかないとな」
一緒に行くか? と促されて、半信半疑の僕と母親だったけど、最終的に父親のあとへついていくことにしたんだ。
家族全員、軒先へ並んだところで父親からのアドバイス。それは家電の主を探すときは、自分にとって不快なほう、不快なほうへ向かうべしとのこと。
「人間にとっての心地よさは、あいつらにとっての不快感。逆を返せばあいつらが心地よく思うものは、我々にとって気持ち悪いものになるんだわ。あいつらが嫌な思いをひっかぶってくれるおかげで、俺たちは快適でいられる寸法だな」
それからは主に嗅覚の出番だった。四方を嗅いでみると、格別に嫌なにおいがする方角がある。そちらへあえて向かっていくのだと。
一軒家である自宅を回り込み、裏手にある歯医者の駐車場で、もうひと嗅ぎ。母親はリタイヤしてしまって、僕と父の二人行。道路の向こうのテニスコートを越え、野菜の直売所を通り過ぎ、たどり着いたのは、ここら辺ではかなり大きいレンタルビデオ屋。そこのまるまる駐車場になっている一階の片隅だった。
すぐ真上には、店のすべてを支えているだろう天井が控えて、地下のような暗さと湿っぽさ、そして冷たさが立ち込めている。
そのうちの端、一対の車止めを持つ、軽自動車専用の駐車スペース。その壁と駐車止めの間に、大きな水たまりができているんだ。
ガソリンと排気ガスのうち、人が不快に思うとこだけ抽出して混ぜたんじゃないかと思う、鼻をつまんでしまう臭い。一歩たりとも近づきたくないそれに、父親は道中で拾った木の枝を差し入れ、ゆっくりかき混ぜはじめた。
このとき、父親はぶつぶつ小声で何かつぶやいていたけど、よく聞き取れなかった。滑舌がものすごく悪い、読経のようだったな。
けれどしばらくしたら、臭いの悪さがどんどん収まっていく。湯気とかが見えたわけじゃないけど、水たまりは確実にそのかさを減らしていった。そうして臭いが消えるときには、水たまりはすっかり乾いて、床にしみのひとつも残していなかったんだ。
「これでよし」と、踵を返して家へ向かう父親。その後に続いて玄関をくぐると、先に戻っていた母親が、盛大なエアコンの風を受けながら伝えてくれる。
家電全てが、正常に動くようになったって。