生霊
高田虎助は藤井辰之進に誘われ珍しいことだと思った。道場での稽古を終え帰り支度をしていたときである。ふたりは藩下でも剛の剣と知られた森山道場にあって、一二を争う使い手と評されていた。人々はふたりをその名から森山の龍虎と呼んでいた。彼らは幼馴染であり兄弟同然に育ってきたのだが、三年前に辰之進の父親が亡くなり勘定方の務めを継いでからというもの付き合いは疎遠となっていた。徒組の家の次男としてぶらぶらしている虎助にしてみればどこか後ろめたさのようなものがあったのかもしれず、また辰之進もそんな虎助の気持ちを感じとっていたのかもしれない。道場で顔を合わせても簡単な挨拶を交わすのみであった。夕餉の席で妹の千代が「ちかごろは辰之進さまお見えになりませんのね」などと話を振ってくると「そうだったかな」と生返事をしてごまかした。
「虎助、時間があったらこのあと付き合ってもらえないか」
「ああ、かまわないが」
役目も持たぬこの俺にどんな用事があるというのだ。虎助は心に皮肉を浮かべたが、いつも生真面目な顔をしている辰之進がひときわ深刻な表情を浮かべているのを見て素直な心持ちになった。
「どうした、揉め事か」
「うん、詳しくはあとで話すが。そうだな、いたち屋でいいか」
町はずれにある居酒屋で虎助は何度か辰之進と行ったことがあった。老夫婦が切り盛りしている小さな店で城勤めの者はあまりやってこない。
「わかった、すぐに支度をするから待ってくれ」
年老いた女将が徳利を置いて調理場に姿を消したのを確認すると、虎助は切り出した。
「で、話というのはなんだ。おまえのことだ、艶事ではないとは思うが」
「そう茶化すな」
辰之進は手酌で満たした杯をぐいと一気に呷った。
「これからする話を聞いても笑わないと約束してくれ」
「笑うかどうかは聞いてみないことにはわからんが。まあいいだろう。笑わん。約束する」
「そうか、すまん。……生霊というものを聞いたことがあるか」
「生霊というと、生きたままで魂が抜けてしまうというやつだろう。それがどうした」
「じつは……生霊になったんだ」
「生霊になった。誰がだ」
「俺だ。俺が生霊になった」
「ほう……」
虎助は辰之進の眼を覗き込んだ。ふざけているようでも、いかれてしまったのでもなさそうだ。酒を呷って話の続きを待った。
「あれは五つの時だった。俺が高熱を出して寝込んだのをしっているだろう」
「ああ、そんなことがあったな。うちでも皆心配していた。数日寝込んでいたとか」
「そうだ。そのときふうっと意識が遠くなったかと思ったら、俺は部屋の天井近くにいたんだ。上から寝ている自分と看病をしている母親を見下ろしていた。そのときの様子はいまでも克明に覚えている」
「ふむ。その手の話は聞いたことがあるが。でも昔の話だろう。問題があるとは思えないが」
「俺もそう考えていた。夢だったのかもしれないしな。ところがだ……」
「…………」
「つい先日も同じような目にあったんだ」
「…………」
「八日前のことだ。夕方、俺は庭で薪を割っていた。すると割れたのが弾みで顔に向かって飛んできてな。避けきれずにこめかみの辺りに当たってしまった」
辰之進は左のこめかみを見せた。うっすらと痣のように残っているのがわかる。
「そして、そのまま気を失ってしまったのだ」
「それで……」
「うむ。俺はふわふわと空に浮かんでいた。気がつくとおまえの家の上にいた。なんとなしに気になって中を覗いてみようとしたら、屋根を通り抜けて台所に出た。そこでは千代さんが菜を刻んでいた。俺はうしろに立って、というより浮かんでだな、千代さんの名を呼び肩に手をかけようとした。だがその手は体を素通りしてしまった。彼女は包丁を持った手を止め、あたりをきょろきょろと見まわしていた。そこでまた意識が薄れ、気がつくと自分の家の庭で大の字に倒れていたのだ」
「なるほど……」
そこで虎助は、はたと思い出した。妹が夕餉の席で辰之進のことを言いだしたのは、たしか八日前のことではなかったか。
「そういうこともあるのかもしれんなあ」
「信じてくれるのか」
「ああ、おまえのことだ、俺を騙したりからかおうと企んでるはずもないしな。しかし、体の方は問題ないのか」
「体調は問題ない。めまいも今のところない。むしろ動きがよくなったくらいだ」
たしかにここ数日、道場での辰之進の動きは目を見張るものがあった。虎助は何度もしたたかに打ち込まれたのを思い出した。
「こんな話はおいそれと人には出来ないからな。おまえに打ち明けて気持ちが楽になった」
そう話す辰之進の顔が赤みを帯びて明るくなっていたのは、酒のせいだけではなかったようだった。
店を出るとすっかりと暗くなっていた。ふたりは千鳥足で木立に囲まれた山裾の道を歩いていた。人があまり使わず、それゆえに整えられていないでこぼこ道であったが、冷え込みがきつくなってきたので近道であるこちらを選んだ。
「やけに冷えると思ったら降ってきたな」
辰之進の言葉に虎助が見上げると、暗い空から舞い始めた雪が見えた。
「これは積もるかもしれないな。急いだほうがよさそうだ」
そのとき、ぐらりと足元が揺れた。地震か、と思った次の瞬間にふたりの体は宙にあった。したたかに打ち付けられた体を起こし見回すと、濃い闇がそこにあった。居酒屋に借りた灯りは消えてしまったらしい。湿り気を帯びた土のにおいが鼻をつく。虎助は微かな衣擦れの音を耳にして辰之進の気配をそこに感じた。
「おい大丈夫か」
「ああ、足を挫いたようだが大したことはなさそうだ。おまえはどうだ」
「俺も大丈夫だ。どこも痛めてはいないようだ。それにしても参ったな」
目が慣れてくると穴の底であることが分かってきた。見上げると濃い闇の中に丸く縁どられた少し明るい闇が見えた。穴の口に切り取られた空である。ずいぶんと遠くに見える。
「陥没か」
「そのようだな。この辺りの土地は緩いと聞いたことがある」
「ずいぶんと大きい穴のようだ。しかも深いぞ」
「これはふたりがかりでもよじ登るのは無理そうだな」
「こうなったら仕方あるまい。近くを誰かが通りかかるのを待つとするか」
そのとき虎助の頬に冷たいものが触れた。雪だった。
「おい、まずいぞ。雪だ。本格的に降ってきやがった」
「本当だ。困ったことになったな。このままじゃ俺たちは朝には雪の中だ」
「肌を合わせて温めあうか」
「こんなときにつまらない冗談はよせ。おまえと抱き合ったまま氷漬けになるのは俺はごめんだ」
「すまん。しかし、なんとしたものか」
「……」
「……」
しばらくのあいだ闇の中を沈黙が領した。ときおり辰之進が身を動かす音がした。足を擦っているようだ。挫いたという足が痛むのであろう。
長い沈黙を破ったのは辰之進であった。
「おい、起きているか」
「ああ。どうした。なにか思いついたか」
「このままこうしていても俺たちは助からん」
「運よく誰かが通りかかってくれなければな」
虎助は肩の雪を払った。体中に雪が積もりつつあるのが分かった。ぶるりと身が震えた。
「こんな夜更けに、しかも雪降る夜にここを通る者などおらんだろう。期待するだけ無駄というものだ」
「だろうな」
「そこでだ、いちかばちかではあるが、あることを思いついた」
「なんだ。こうなったらなんでも試してみよう」
「さっき酒を飲みながら話したことを覚えているか」
「む……生霊の話か」
「そうだ」
「それがどうした……まさか」
「そのまさかだ」
「しかし、おまえ。生霊になれるかどうかも分からんし、なれたとしても助けを呼べるかも分からないのだろう」
「たしかにその通りだが、なにもせずにいても、このまま雪に埋もれて春まで氷漬けだ。試してみるだけのの価値はあると思うのだが」
「それはそうだが……ううむ」
「それに俺の足は痛みが酷くて這い上がることはどうあっても無理だ。もしかしたら折れているのかもしれん」
やはりそうだったか、と虎助は思った。そしていよいよ覚悟を決めた。
「そうまで言うならば俺も腹を決めた。やってみよう」
「よし、頼むぞ。これから俺は額を叩いて音を立てる。そこを峰打ちでやってくれ」
「まてまて、こんな闇のなかで抜き身を振り回したら危ないのではないか。しかも加減をしくじったら気絶ではすまんぞ」
「もちろん分かっている。おまえだからこそ任せようというのだ。おまえの腕は俺がいちばん良く知っているからな」
「……」
「さあやれ」
闇の中にぱんぱんぱんと三度音が響いた。虎助は吸った息を深く吐くと刀を抜いた。そして音がした場所を目掛け振り下ろした。
「おい」
返事はなかった。
「おい、辰之進。おい」
手探りで体を見つけると、辰之進はぐったりと横たわっていた。顔に手を当てるとゆっくりと息をしているのが分かり虎助はほっとした。穴の底の冷たい地面に横になっている辰之進の体にも雪が積もりはじめている。虎助は丹念にその雪を払うと、辰之進の体を守るかのようにその上に覆いかぶさる形で横になった。辰之進の温もりを感じた。そうして意識が薄くなり、そのまま眠ってしまった。
目覚めると見慣れた天井が目に入った、虎助は自分の部屋であることが分かった。枕もとで妹の声がした。
「お兄さま、目を覚ましたの。誰か。誰か来て。お兄さまが。お兄さまが」
見ると座ったまま顔をくしゃくしゃにして泣いている。すぐにどたどたとした足音が響き下男の権蔵が部屋に入ってきた。続いて母の足音も聞こえてきた。
「いったい俺は……」
虎助は呟くように妹に聞いた。
床から身を起こせるようになると、妹の千代は一昨日の夜のことを話した。その夜、冷え込んできたので千代は早めに床についた。うとうととしはじめたとき、誰かが呼ぶ声がした。辰之進だとすぐに分かった。こんな夜にどうしたのだろう。だが起きようとしても体に力が入らない。横になったまま朦朧とした意識の中で応えた。辰之進さまですか。こんな夜にいかがなされました。するとその声は言った。雉山の木立の一本道へ……。急いで……。虎助が……。それだけ言うと声は聞こえなくなってしまった。ようやく体を動かせるようになった千代は起き上がった。夢のようにも思えるが生々しさが妙に気にかかる。水を飲もうと台所へいくと、長兄の嘉兵衛と権蔵が話していた。帰りの遅い虎助を案じていた。そこで千代は今あったことをふたりに話した。そして誰ともなくに雉山の裾道へ行ってみようという運びになり、嘉兵衛と権蔵とが行ってみるとそこに大穴を見つけた。穴の底には虎助と辰之進が倒れていた。
「辰之進は、あいつはどうした」
虎助が問うと千代は目を伏せ今にも泣き出しそうな顔をしてかぶりを振った。
辰之進は寝ていた。耳を澄ませればようやく聞こえる微かな寝息がなければ死んでいるといわれても信じてしまうだろう。寝顔もいつもの生真面目な表情をしていて、それを虎助は枕もとに座りじっと見つめていた。額の真ん中に傷跡があった。虎助が目覚めて二日経っていた。
「おい……」
虎助は語りかけた。
「いつまでそうして寝ているつもりだ。自分ばかりいい格好をしおって。それともなにか、俺の腕が悪かったせいで打ちどころが悪かったと責めているのか。それに勝ち逃げは許さんぞ。ここのところお前との試合で負けが込んでいたのは調子が悪かったからだ。きちんと決着をつけさせてもらわなければならん。それと……そうだ、先日の飲み代も奢られっぱなしというのはどうにも気持ちが悪い。おい、聞いているのか辰之進」
膝に涙が落ちた。そのとき、虎助は背後に視線を感じた。道場での試合で辰之進と対峙するときに感じる研ぎ澄まされた殺気にも通じる気配である。虎助は反射的に振り返ると部屋の隅の天井を睨んだ。
「そこにいるのだな。なにをぐずぐずしているのだ。とっとと体に戻れ。それに、妹を……千代を泣かすのは許さんぞ。あいつは待っている。おまえが帰ってくるのを待っているのだ。なあ、辰之進よ」
虎助が帰り支度をしていると辰之進が声をかけてきた。まだ足を引きずっていて本格的な稽古は出来ないのだが、体を動かさずにはいられないようで道場通いは休まずに続けている。
「ずいぶんと動きにきれが出てきたな。こうして傍から見ているとよく分かるものだな」
「腕をあげておまえに借りている負けを返さなければならないからな」
「わはは、それは楽しみだ。それはそうと……千代はどうしているかな」
「どうしているもなにも、昨日会ったばかりではなかったのか」
「それはそうだが……」
「ふん。相変わらず祝言の用意で浮かれておるわ。今日も白無垢をあつらえるとかで母と出かけていったぞ」
「そうか、そうか」
らしくない表情をしてにやけている辰之進を虎助は内心楽しんでいた。
「ところで、なんだな……」
「なんだ」
「これからは、おまえのことを兄上と呼んだ方がいいかな」
「ばか野郎、勝手にしろ」
道場の窓から風にのって桜の花びらが舞い込んできた。春も本番である。