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殺し屋は幽霊を撃つ

作者: 美尾籠ロウ

 闇の中に、髪の長い女の影が立っている。

 約三秒間ほどだろうか。車のヘッドライトらしき光に照らされ、広いリヴィングのカーテンに、明瞭に女のシルエットが映し出された。

「ひっ!」

 殺し屋は固まった。

 広さは二十畳はあるかという高級なリヴィング・ルーム――その全景が、ほぼ「魚眼」に近い広角レンズで天井近くからとらえられている。

 ヘッドライトと思しき光が消えると、長い髪の女の姿も消え去っていた。

 パイプ椅子に腰掛けた三ツ矢(みつや)は無表情なまま、眼の前のノートパソコンのトラックパッドを操作した。

「ちょ、ちょっと、三ツ矢さん……」

 と、殺し屋は声を上げた。

 月本(つきもと)陽菜(はるな)が、限りなく絶対零度に近い温度の視線を殺し屋――みなには「ぼん」と呼ばれている――に向けていた。

「どうかしたの?」

「な、な、なんでもねえ……よ」

 ぼんは、乾いた舌で答えた。

「ふーん、もしかして、怖いんだ?」

 月本陽菜がため息をついた。

「う、う、うるせえな。この商売、いちいち怖がってたら、や、やってらんねーよ」

「くだらん私語はやめろ」

 三ツ矢が静かに教師のような口調で言いながら、ノートパソコンのディスプレイの動画を停止させ、次の映像の再生を開始した。

 映し出されたのは、キッチンらしき場所だった。三ツ矢がパソコンを操作し、画像を早送りする。

 画面の右端に、二メートル近い高さの食器棚が立っているのが見えた。その食器棚が、よく見ると小刻みに振動している。

「あ……ストップ、もういいっす!」

 ぼんが叫んだ瞬間、ディスプレイ内で食器棚の扉が不意に開いた。一瞬後、皿が飛び出す。続いて二枚目の皿――さらにコーヒーカップ、ソーサー、ワイングラス、ブランデーグラス……次々に食器棚の内部から食器類が飛び出した。さらに、食器棚が激しく暴れ始めた。ガラス戸は狂った鳥の翼がはばたくように、ばたばたと開閉を続ける。次の瞬間、食器棚自体が、どう、と倒れた。

 映像は不意に終わった。

 音声が録音されていないのが、ぼんにとっては救いだった。が、それでも歯の根が合わない。両腕には鳥肌が立っている。この部屋は冷房が効き過ぎているのか。

 デスクの向こうでは、社長が渋面を作っていた。

 ぼんと月本陽菜の隣で、三ツ矢がノートパソコンを操作している。こけた頬で眼ばかりをぎらぎらとさせ、彼は言った。

「最初の映像は、三週間前の土曜午前二時半のものだ。次が先々週、土曜の午前一時三十二分のもの。で、その次は――」

「まだ……あるんすか……」

 ぼんは、必死に平静を装いながら答えたが、やはりそれは無理だった。

「次は最新の、先週土曜の未明、二時二十一分に撮影されたものだ」

「だいたい状況はわかりました!」

 ぼんはうわずった声で言った。

「ド素人か、おまえは。できるだけ『対象』の情報をインプットするのが常識だろうが」

「マジで……見るんですか?」

 ぼんは言ったが、三ツ矢は返答しなかった。トラックパッドを操作し、次の動画を再生し始めた。

「いや、わかりました……もう充分です……」

 ぼんは必死に声の震えを隠しながら言った。月本陽菜もいつしか沈黙していた。

 三ツ矢は、トラックパッドをクリックした。

 ぼんは眼を閉じた……が、やはり薄目を開いた。見ないわけにはいかない。

 今度は、広い庭を映した画のようだった。やはり赤外線カメラで撮られた映像だった。夜の闇のなか、はっきりとしたものは見えない。いくつかの鉢植えが規則的に並び、整備された広い庭であろうことは容易に想像された。

 三ツ矢はトラックパッドを操作し、映像を早送りした。

 闇の奥から、白いものがゆらぐように見え始めた。

 女の姿だった。漆黒のなかから這い出るように、ゆっくりとした足取りで、庭を前進している。おそらく、裸足だ。白っぽく、装飾のほとんどないだぶだぶの上着と、ズボン姿だった。そしてその女の首に、何かが巻き付いているのが見えた。

 ロープだった。その先端は、だらりと地面まで垂れ下がっている。

 髪の長い女の顔はよく見えない。女は、ゆっくりとロープを引きずりながら、滑るように母屋へ向かって歩き続けた。

 不意に、画面にノイズが走った。ノイズが消えたあと、女の姿も消えていた。

「ひええっ!」

 声を上げていた。

 彼を見やる三ツ矢と社長の視線は、異様に冷たかった。月本陽菜は、こちらを見ようともしていなかった。

「以上だ。これで、わかってもらえたと思う」

 マッチ棒のような姿の社長が静かに言った。

 ただ沈黙だけが、〈三ツ星出版〉の社長室に重くのしかかっていた。

「チームは?」

 最初に口を開いたのは月本陽菜だった。ごくごく平然とした口調。ぼんは、妙にいら立った。

「この三人でやってもらう」

 社長は言った。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ……」

 どうして舌がうまく回らない? ぼんの背中を冷たい汗のしずくが流れ落ちていく。唾を飲み込もうと思ったが、口のなかがカラカラに乾ききっていた。

「な、な、な、な、な、何をするっていうんです?」

 やっとの思いで声を出すと、冷徹な三ツ矢の言葉が返ってきた。

「いい加減にしろ。今は特殊業務対象者のブリーフィング中だろうが」

「た、た、た、た、た、対象って……?」

 なかば答えを予想しつつ、ぼんは乾燥しきった舌を懸命に動かした。

「あきれた。今、見せてくれたじゃないの」

 月本陽菜のさらに冷ややかな声。

「っていうと……こ、こ、こ、この……つ、つ、つまり……アレですか?」

「そうだ。この映像の女がターゲットだ」

 三ツ矢はノートパソコンのディスプレイをたたんだ。

「ま、ま、ま、ま、ま、ま、マジっすか……」


 業界では小さな出版社である〈三ツ星出版〉は、本業の出版のほかに、もう一つの顔を持っている。それが「殺し屋派遣業」である。そちらの業界では一位のシェアを誇っており、CS度(顧客満足度)もまた一位だ……と、社長は言うが、「殺し屋派遣業界」のマーケティング・リサーチをした者は存在しないので、真偽のほどは、わからない。

 しかし、ぼんを含めて十名あまりの「特殊業務従事者」を抱える〈三ツ星出版〉は、この業界では間違いなく大手と言えた。

「クライアント、誰なんすか?」

 ぼんは、氷水の入ったグラスを持ち上げては下ろすという行為を少なくとも十五回は繰り返していた。眼の前のカルボナーラはすっかり冷め切っている。

 梅雨の終わり――湿度は高く、気温もまた高い。

 なのに、背筋に絶えず冷気を感じるのはなぜだ?

 彼らはファミリー・レストランで遅めの昼食を摂っていた。が、ぼんは一向に食欲がわかなかった。

「この肉、固~い!」

 と言いながらも、月本陽菜は「黒毛和牛ステーキ定食」の肉にフォークを突き立て、口に放り込んだ。

 最近まで十二指腸潰瘍で入院していた三ツ矢さえも、「鯖味噌煮定食」を美味そうに喰っている。三ツ矢は、歳は満四十一歳、数え四十二歳の厄年。ぼんも痩せているが、三ツ矢はさらに棒っ切れのように痩せ細っている。十二指腸潰瘍で入院していたのだが、一ヶ月前に退院したばかりだ。妻と五人の子どもがいる……らしい。

「クライアント、依頼するところを間違えてないっすか? どうして俺らが……?」

「依頼人の情報に、我々は関知しない。それがルールだ」

 三ツ矢はいつものように冷ややかに言い、鯖の身を白飯の上に載せて、大事そうに口に運んだ。

 確かに、〈三ツ星出版〉の特殊業務には厳格な規則がある。特殊業務従事者に、依頼人の素性は一切明かされない。彼らは、ただ依頼された「業務」を淡々と遂行するのみだ。

「どうやって殺るんです? だって……つまり、ゆ、ゆ、ユーレイって、もう死んでるんでしょ。それをもう一度殺すって、ワケわかんねえ……」

 心底うんざりした気分で、彼は眼の前のカルボナーラの皿を見下ろした。

 隣の月本陽菜は、すでに黒毛和牛ステーキ定食を平らげ、鼻歌を歌っている。あろうことか、映画「ゴーストバスターズ」のテーマソングだった――その映画の公開時には、まだ生まれてもいなかったはずなのに。

 ぼんはフォークをパスタに突き刺してぐるぐると回したが、そのとき、何かが脳の片隅をよぎった。

「クライアントって……」

「同じことを言わせるな。俺も知らんし、社長も絶対にインフォメーションを寄越さない」

「この屋敷の住人――田神(たがみ)とかいう老夫婦――じゃないんですよね」

 三ツ矢は、味噌汁をすすると、お椀を置いてぼんを見た。

「何が言いたい?」

「『うちの幽霊を退治して下さい』って依頼されたんじゃないってことですよね。じゃ、誰が他人の家の幽霊退治を依頼したんです? 俺だったら、幽霊だろうが妖怪だろうがツチノコだろうがシロアリだろうが、他人の家に何が出ようが、知ったこっちゃないですよ」

 不意に、三ツ矢は黙り込んだ。月本陽菜も「ゴーストバスターズ」のテーマを口ずさむのをやめていた。

「確かに、不思議な話ね。三ツ矢さん、何か知らないの?」

 珍しく月本も神妙な面持ちになった。

「私はウェブカメラのセッティングに三週間前、屋敷に潜入している。田神夫妻は二人とも留守だったし、家政婦もその日は休みだった。すべて社長の指示通り、その、何だ、えー、幽霊とやらが見えるという部屋と、その外の庭にカメラをセットした。特に不審な様子はなかった。もっとも、真っ昼間だったけどな」

「あーあ、また社長の秘密主義……」

 月本陽菜がため息をつく。

「三ツ矢さん、これからの活動計画は?」

 ぼんが尋ねると、三ツ矢はメモや手帳など一切見ることなく、すらすらと三人の行動計画を並べ立てた。もっとも、その八割方が、ぼんの耳を素通りしてしまったが。

「でも、いつ幽霊ちゃんに会えるか心許ないじゃん。会えたとして、手段はどうするの? チャカの弾なんか通り抜けちゃうかも」

 三人のなかで最年少の月本陽菜は、社長以外に敬語を使うことはない。もっとも、高校生時代から〈三ツ星出版〉で特殊業務を行なっているキャリアの持ち主だ。

「正体を突き止めてから決定する。それから、さっきのぼんの指摘だが、私も見落としていた。少々行動計画を変更するぞ。陽菜、おまえは化けろ まずは、妻の田神カナ子にコンタクトする」


 その美容室は、この街随一の高級住宅地の片隅にあった。

 美容室のもっとも奥、通称「VIPルーム」の前のソファは、体が沈み込みそうだった。ぼんはそこに腰掛け、女性誌のページをめくった。店の構えは豪華だが、客層の人品が豪華なわけではなさそうだった。

 ここは「高級美容院」という表の顔だけでなく、〈三ツ星出版〉と業務提携している裏の顔を持っている。「化ける」――変装するときに活躍するのが、この美容室だ。

 美容院に入って、もう三時間以上もたっている。が、ぼんは女性誌の「セックス特集」にすっかり夢中になっていたので、その時間はまったく退屈することはなかった。

 「VIPルーム」の自動ドアが開き、メイクアップ・アーティストの青年――ぼんは彼の名前を知らなかったし、彼も〈三ツ星出版〉の特殊業務担当者の名前を知らない――とともに、派手なワンピースに、過剰にぴかぴかと光るアクセサリーをぶら下げた中年の女が現れた。

「なんとね」

 ぼんは、笑いを噛み殺しながら「中年女」に向かって言った。

「何なのよ、その顔は」

「それはこっちの台詞だよ」

 女は月本陽菜だった。見事な変装――特殊メイクだった。近づいたところで、これがメイクだとは気づかれないだろう。アカデミー賞ものだな、とぼんは思った。

 今この瞬間から月本陽菜は、スピリチュアル・ヒーラー「卯月(うづき)みちる」になった。


 毎週水曜日の午後、幽霊屋敷の住人である田神カナ子は、華道サークルの友人たちと、〈ノーザン・ヴァレー・ホテル〉一階のカフェで、ティー・タイムを過ごす。

 ぼんと月本陽菜――卯月みちるもまた、そのカフェで、田神カナ子たちのすぐ隣のテーブルに着いた。

 田神カナ子とその友人の有閑マダムたち合計六人が談笑中だった。みな、一様に着物姿だ。

「マジ? エスプレッソ九百円って、ぼったくりじゃねえ?」

「言葉づかいにお気を付けなすったほうがよろしくてよ。お里が知れますわ」

 月本陽菜は、声色も見事に化けて、完全に卯月みちるになりきっていた。さすがに、ぼんも感嘆しないわけにいかなかった。

 田神カナ子――六十九歳。旧姓、緑川カナ子。夫は現・清瀧(せいろう)学園大学人間情報学部教授の田神(たがみ)寛郎(ひろお)(七十三歳)。名邦(めいほう)医科大学婦人科へ通院中。

 ぼんは運ばれてきたエスプレッソを一口飲んだ。確かに、美味かった。それにしても、着け慣れないネクタイが喉を締め付けて、苦しい。

「ほら、思った通りですわ」

 卯月(うづき)みちる――月本(つきもと)陽菜(はるな)の声に顔を上げると、ちょうど田神カナ子が立ち上がるところだった。

「なあ、和服着て、おしっこってどうやってやんの?」

「まあ、御下品(おげひん)な……」

「いや、マジな話、あれじゃ脱げねえだろ。脱げたとしても狭いトイレで着れねえし。前から疑問だったんだよなぁ」

「黙らっしゃい!」

 そう言うと、卯月みちるは立ち上がり、田神カナ子の後を追った。


「ファースト・コンタクトは成功」

 〈ノーザン・ヴァレー・ホテル〉の地下駐車場――会社から借りたアウディの助手席で、月本陽菜はようやく「卯月みちる」から元に戻った。姿形は変わらないが。

 たいへんに初歩的なコンタクト方法だった。田神カナ子が婦人科に通院しているのは頻尿のためだった。薬も処方してもらっている。有閑マダムたちとのティー・タイム中、必ずトイレに中座することが予想された。そこで卯月みちると偶然に出会う――という筋書きだ。

 卯月みちるのほうから「心霊現象」の話題を持ち出すと、すぐに田神カナ子は反応した。

 田神カナ子が「心霊現象」に怯えているのは事実だった。

 食器棚の皿が暴れ回るポルターガイスト現象、そして謎の女の影……等々という「心霊現象」は、およそ三ヶ月前から始まったという。それ以前には、何事も起こったことがなかった。

 どんな口八丁手八丁を使ったのか知る術もないが、とにかくスピリチュアル・ヒーラー卯月みちるは、田神カナ子の「霊視カウンセリング」を正式に行う約束を取り付けた。


 三ツ矢は〈三ツ星出版〉の第三会議室――「下の階」の合法的な出版業務を行なっている社員が決して入ることのない部屋――のテーブルに、大型のファイルを大きな音とともに置いた。

「田神寛郎の資料だ。なかなか奴は一筋縄ではいかんぞ」

 ざっと見て厚さは十五センチを軽く越えている。三ツ矢は、これらをすべてわずか二日間で集め、すべて読み込んだのだろう。

 ――こりゃ十二指腸潰瘍にもなるわ。

 喉元まででかかった台詞を飲み下して、ぼんは資料の山を見下ろした。

「読むんすか?」

「じゃなきゃ、こんな重いもの、持ってくるか」

 ぼんは大きくため息をついた。

「簡単に言う。田神寛郎は、元裁判官だ。しかも、最高裁判事まで務めた」

「めっちゃエリートじゃないっすか!」

「私はこの中に、幽霊事件の鍵があるとにらんでいる」

 三ツ矢は分厚いファイルと掌で叩いた。

「田神寛郎が東京地裁の裁判官に任官された四十一年前からの、リストだ」

「なんてこった……」

 裁判官という職業であれば、人から恨みを買うこともあろう。長い裁判官人生の中で扱った事件は、民事、刑事合計すれば途方もない数になるに違いない。

「この中に……その、ゆ、ゆ、ゆ、幽霊の……正体が?」

 ぼんの震える声に、三ツ矢はゆっくりとかぶりを振った。

「何ものであれ、『対象』を処理するだけだ」

 そう言って三ツ矢は、もう一度分厚いファイルを叩いた。

「四十一年分……」

 ぼんはパイプ椅子に腰掛けると、ファイルの表紙を開いた。ただのボール紙製なのに、ずいぶんと重く重く感じられた。

「不思議に思わないか。四十一年でこれだけの事件を扱っている。人の生き死にに関わる刑事事件だけじゃなく、借金がらみの民事訴訟で、関係者が自殺したケースもいくつかある。それにも関わらず、だ。どう思う?」

「何がです?」

「おまえも鈍いな――」

 三ツ矢が言いかけたとき、ぼんの携帯電話が振動した。月本陽菜からのメールだった。

「対象の二度目のコンタクト、成功したそうです」

 三ツ矢は黙ってうなずいた。

「あ、そういうことか……四十一年間の裁判官生活で、どうして今頃になって、その……ゆ、ゆ、ゆ……アイツが出たのか……ってことですね」

 三ツ矢はやはり黙ってうなずいた。


 一週間後の金曜の夜、ぼんは月本陽菜――卯月みちるとともに田神家の応接間に通されていた。ぼんは、ちらと壁の左上を見上げる。グスタフ・クリムトの複製画の脇に、確かに三ツ矢がセットしたウェブカメラがあるはずだ。三ツ矢は、外に駐車した車内で彼らをモニターしている。手を振りたい誘惑に駆られたが、じっと抑えた。

 眼の前の田神寛郎は、さすがに元裁判官だけあって、押し出しが立派だった。古稀(こき)を過ぎているというのにフサフサとした半白の髪。薄毛を気にしている社長に半分わけてやってもお釣りが来るな、と彼は思った。

「正直、あなた方をプライヴェートな問題に巻き込むのは私の本意ではない」

 田神寛郎は黒い革製のシガー・ケースから細い葉巻を取り出すと、慣れた手つきでシガー・カッターを使って先端を切断し、金色に輝くデュポンのライターで火を付けた。ぷん、と甘い香り。

 田神寛郎は煙を吐き出すと、隣のソファーに背を丸めて座る和服姿の妻のカナ子を見やった。

「ただ、妻がどうしてもあなたのお力をお借りしたい、と申しておる」

 田神カナ子は、すっかり憔悴(しょうすい)しきった表情をしていた。

 三度目のコンタクトで、卯月みちるが導火線に火を付けた。期待以上に、導火線は早く燃え始めた様子だった。

「おわかりかと思うが、私は元裁判官だ。所謂『霊感商法』がらみの事件を手がけたこともある。無論、君たちがそうだと言うわけではないがね」

 もう一度、田神寛郎は葉巻を吹かした。

「お疑いも当然でございますわ。ご主人様がたいへんに賢明な方でいらっしゃることは重々承知しております。当然、わたくしどもの身上調査もお済みでしょう?」

 田神寛郎は黙ったまま、もう一度紫煙をふかした。

 田神寛郎が――どのようなルートかはわからないが――手に入れたスピリチュアル・ヒーラー「卯月みちる」のプロフィールは、すべてぼんと三ツ矢で捏造したものだ。そのために、二人は二晩も徹夜をする羽目になったのだが。「卯月みちる」のウェブサイト、SNSアカウントも立ち上げ、著書も三冊、でっち上げた。中身は、ほかの占い師やら風水師やら「スピリチュアルなんとか」という肩書きの連中が書いた本をコピー・アンド・ペーストしたもの。それを新たに四六版ハードカヴァー本に仕立て上げることは、〈三ツ星出版〉の「本業」としても容易だった。

 ぼんはわざと一度せき払いをしてから、身を乗り出した。

「ご主人様もおわかりのとおり、卯月先生は何かを売りつけたり、まやかしの宗教団体に勧誘するために、本日お伺いしたわけではありません。これも、蓋然性(がいぜんせい)に基づく『(えにし)』というものでございます」

 ぼんは慣れない言葉づかいに舌を噛みそうになった。

「ご主人様、本題に入らせていただきますが、奥様は今年の三月半ばから、不思議な現象を目撃されているとのことですね。ご主人様も、ご覧になったことはございますか?」

 田神寛郎は、続けざまに三度も葉巻をふかした。甘ったるい香りに、ぼんは少し気分が悪くなってきた。

「ある……二、三度。こんなバカげたことは信じたくないのだが……確かに、妻の言うとおり、若い女の姿を見た。一度は影だけだ。二度目は……少々飲んで酔っていたのだが、見間違いではなかった。庭に、間違いなく若い女が立っていた。そのときには妻も一緒だった」

 田神寛郎は、急に葉巻が苦くなったとでもいうように、灰皿に押しつけた。

「あの……よろしいでしょうか?」

 そのとき、控えめに田神カナ子が口を開いた。

「幽霊が出てから――いえ、わたくしも本気で信じているのではありません――奇妙な出来事が起こってから、手帳にメモしたものがございます」

「お見せいただけますか?」

 卯月みちるとぼんは、同時に身を乗り出した。

 卯月みちる――月本陽菜の口八丁はたいしたものだった。田神カナ子の書いた「超常現象メモ」を借りることに成功した。

「『超常現象』など、この世の中にございません。すべては自然天然のなし得る技に過ぎません。必ずや、霊の正体をつきとめてみせますわ」

 よくもこんな白々しい言葉が次々と口を突いて出てくるものだ、とぼんは卯月みちるを眺めて思った。

 が、田神夫妻の表情は深刻げだった。田神寛郎はうめくように言った。

「私は裁判官だった。いろいろな人間と出会った。しかし、事件一つ一つを気にしていては、法の番人は勤まらん。決して、幽霊など信じてはいないが……逆恨みも甚だしい限りだ」

「まことに、おっしゃるとおりでございますわ」

 卯月みちるは艶然(えんぜん)と笑って見せた。


 卯月みちるとぼんは、薄暗い常夜灯を点けた応接室で「そのとき」を待つことにした。

「ホントに今夜は出ないのかよ?」

 ぼんは、四杯目のコーヒーで腹をダブつかせながら言った。コーヒーのカフェインですら、彼の睡魔に勝てないようだ。否応なく、両の目蓋が落ちてくる。

「さあ、出るかも」

 卯月みちるは、月本陽菜の口調に戻って答えた。

「いい? これまでの出現時、一度も警備会社に連絡は行かなかった」

 この屋敷の窓や外壁には、テレビCMで有名な警備会社のステッカーが何枚も貼られていた。

「この屋敷のセキュリティは万全ってこと。それをかいくぐって、どうやって庭まで入れたの? ま、わたしたちには楽勝だけど」

 確かに、三ツ矢がウェブカメラを設置したときには、それらの警備をすべてクリアして、屋敷内に侵入し、そして脱出している。

「っていうことは、やっぱり、ホンモノのユーレイ……?」

「ホンモノだったら、出るし、そうでなきゃ、今日は出ないでしょうね」

「何だよ、それ……けれど、いずれにせよ、あの爺さんと婆さんはシロだな」

 幽霊騒動は、老夫妻の狂言でもなければ、彼らが幽霊殺しの依頼人でもない。


 結局、その晩、長い髪の女の幽霊は現れなかった。

 翌朝になり、卯月みちるは深々とお辞儀をし、三日後に改めて霊視することを約束した。

 屋敷を出てアウディに乗り込むなり、月本陽菜は言った。

「ソッコー、美容院行って! 顔が痒くて発狂しそう」

「その前に、どっかで朝飯でも食わないか? 腹減ってしょうがない」

「呪い殺してやる」

「どうぞどうぞ」

 幽霊と出くわさずに済んで、ぼんは軽口を叩けるまで安堵していた。そのとき、彼の携帯電話が振動した――相手は、三ツ矢からのメール。

「すぐに会社だ」

 次の瞬間、月本陽菜は両手で特殊メイクのラテックス製皮膚を摑み、自らベリベリとはぎ取った。中途半端なメイクのその顔こそが、ぼんには恐ろしかった。

「わたしのスキンケアどうしてくれるつもり?」

「仕事のほうが大事大事」

「コノヤロー、末代まで呪ってやるぅ……」

 助手席の月本陽菜の顔は、確かに「お岩さん」並みに()れ上がっていた。


 美濃(みの)しほりの自宅は、二階建てで「コーポ」と名付けられてはいたが、安アパートに違いはなかった。六畳間と狭いキッチン、バスとトイレは一体型だ。

 驚くほど、ものがない部屋だった。プラスチックの衣装ケースには、下着類のほかに、最低限の衣類しかなかった。とても、二十代前半の女性の部屋とは思えない。

 が、彼らはそこで、真っ白でたっぷりとした木綿製の上着と、同じ色のパンツ。そして、薄汚れたロープを発見した。田神寛郎と面会した四日後のことだった。

 時刻は二十一時四十分。そろそろスーパーのレジ係の仕事を終えて戻ってくる頃合いだった。

 ぼんと三ツ矢は、安いビニール製のテーブルクロスの敷かれた卓袱台で向かい合わせに座っていた。

「イヤな仕事ですね」

「しかたがない。それがクライアントの望みだ」

 不意に、足音――二人は同時に身構えた。鍵を開ける音。きしむ音とともにドアが開いた。髪の長い女のシルエット――女が声を上げる前に三ツ矢が跳び出していた。


 事務のひろみちゃんのレクチャーを受けつつ、営業部のプレゼン資料をパワーポイントで作るのを手伝いながら、ぼんは唇がにやけるのを止められなかった。

 ひろみちゃんとここまで接近したのは、入社以来はじめてかもしれない。が、もちろんひろみちゃんは〈三ツ星出版〉の裏の仕事を知らない。

 不意に、背後から頭をはたかれた。あろうことか、月本陽菜だ。すっかり皮膚炎の調子は良くなったらしい。しかし、いつもこの女は、ひろみちゃんとの貴重な時間を台無しにしてくれる。

「早く来て。社長が怒り心頭」

「マジかよ……」

「えっ、何か失敗しちゃったんですか?」

 無邪気なひろみちゃんの笑顔。彼女は、ぼんがしじゅう社長室に呼び出しを食らっていることを知っていた。そして、月本陽菜とのあいだに「何か」があると、完全に誤解している。

「いや、失敗じゃないはずだけど……」

 彼は、月本陽菜に引きずられるように社長室に向かった。


「バカ者が!」

 今度は、社長から新聞を投げつけられた。

「新入社員研修をやり直すか? それともこの業界辞めるか?」

「何のことです?」

「とぼけるな!」


 二〇〇〇年三月のことだ。L市で四人が殺害される事件が発生した。殺されたのは、戸田(とだ)郁夫(いくお)(三十三歳)、内縁の妻である谷口(たにぐち)由美(ゆみ)(二十七歳)、そして由美の娘である長女、由奈(ゆな)(五歳)、長男、空也(くうや)(三歳)。警察は、戸田郁夫の別居中の妻、玲子(れいこ)(二十九歳)を殺人容疑で逮捕。玲子には郁夫の前夫との娘、しほり(六歳)がいた。玲子は取り調べで自供したものの、裁判では一転して無罪を主張。物的証拠はほとんどなかったが、検察は状況証拠を積み上げ、判決は、一審、二審とも死刑。二〇〇六年、最高裁は上告を棄却、死刑が確定した。

 そのときの最高裁裁判官が、田神寛郎だった。

 その後、弁護士や支援者らが何度も再審請求をしたが、却下された。

 そして今年三月二十二日。戸田玲子、旧姓・美濃玲子の死刑が執行された。


 支援者からその事実を知らされ、美濃しほりは田神家へ「幽霊」として現れるようになった。さらに室内に侵入して、ポルターガイストなどの「心霊現象」を演じた。目的は、上告を棄却して母を死刑に追いやった田神(たがみ)寛郎(ひろお)への復讐。が、もう一つの理由があった。

 美濃しほり自身が、クライアントであり、ターゲットだった。心霊現象と幽霊殺し――マスコミが飛びつく格好の材料。自らを犠牲にすることで世間の耳目を集め、再審請求への道を拓こうとした。

 しかし、彼女は大きな過ちを犯していた。

 まず、〈三ツ星出版〉は、決してマスメディアに騒がれるような派手な殺しを行なわない、ということ。

 そして最大の過ちは、田神寛郎自身が、戸田(美濃)玲子の事件をまったく記憶しておらず、死刑執行の事実すら知らなかった、という点だった。


「何様のつもりだ! いったい誰が依頼した? 申し開きがあるなら、五秒以内に言ってみろ!」

 痩せたマッチ棒のような体から、よくもまあこんなに野太い声が出るものだ、とぼんは内心でつぶやきながら、新聞を拾い上げた。

 社会面の小さな記事――「元最高裁判事、交通事故死。飲酒運転か?」の見出し。

 美濃しほりの死は一行たりとも記事にならなかった。おそらく彼女自身、自分が殺されたことに気づく間もなかっただろう。それが、プロの仕事だ。

「事故死って書いてあるじゃないですか」

「バカ者! あの『業務』のあとだ。事故のはずがなかろう!」


 卯月みちるは、電話で田神寛郎を海沿いのホテルに呼び出した。そして彼女は次に、美濃しほり――戸田玲子に化けた。白装束に身を包んだ彼女は、海へ向かう国道のガードレール脇で、BMWで疾走する田神夫妻が来るのを待った。

 運転席の田神寛郎が、ヘッドライトに照らされた路肩の白装束の女を見て、ハンドル操作を誤ったのは事実だった。BMWはスピンし、ガードレールに激突し、車は大破した。

 ぼんがBMWのドアを開けたとき、田神寛郎は膨らんだエアバッグに顔を押しつけ、額から血を流し、浅い息を漏らしていた。

 そのあとの細工をしたのは、ぼんと三ツ矢だった。


「月本、三ツ矢、おまえたちも同類だ。私の目玉は節穴じゃないぞ。これはいったい何だ!」

 そう言って社長はべつの新聞を鷲摑(わしづか)みにし、テーブルの上に放った。

 今度は夕刊紙だった。

「死者の呪い? 連続強盗殺人犯が出頭」

 内容は以下のようなものだった。

 ――昨夜、Q町で無職の男(六十二歳)が警察署に出頭した。男は三十数年前に強盗致傷で服役したことがあり、出所後も、一都四県にまたがって窃盗、強盗を繰り返していた。男は二〇〇〇年に発生した一家四人殺人事件についての関与をほのめかしている。この事件では、すでに被害者の元妻が容疑者として逮捕され、死刑が確定。今年三月、すでに死刑が執行されている。男は「身代わりに死刑になった女の幽霊が、夜な夜な枕元に現れて怖くなった」と供述している。警察は、時効の成立していない十数件の強盗致死、致傷事件について容疑が固まり次第、逮捕する方針――


 さんざん社長から絞られたあと、社長室から解放されたのは、それから五十分後のことである。

「あんなことを言っていたが、社長自身、美濃しほりを手伝っていたんだよ」

 三ツ矢は、胃の辺りをさすりながら言った。

 警備会社のセキュリティをかいくぐって「幽霊」を演じることは、素人には不可能だ。プロのバックアップが必要だったはずだ。

 社長と美濃しほりの関係は、誰にもわからない。が、社長が彼女のために裏ルートから何らかの手を回していたのは間違いなかった。

 三ツ矢の設置したウェブカメラが撮影した数々の心霊現象もまた、社長の息のかかった者が作り上げた映像に違いなかった。

「ああ、また胃が痛くなってきた。潰瘍が暴れ出してきたかな」

 三ツ矢は眉間に皺を寄せ、トイレへと向かった。

「なあ、これでよかったのかな?」

 ぼんは月本陽菜に尋ねた。

「さあ……わかんない。けど、不思議なことがある」

 彼らが美濃しほりの存在を割り出したのは、田神カナ子が詳細に付けていた「心霊現象メモ」のお陰だった。

「いちばん最初の心霊現象。窓から白い女の影が見えた、っていうんだけど、このケースだけ、午前に起こってるのよね……」

「だからそれは、美濃しほりが――」

「それが三月二十二日――まさに美濃玲子の死刑が執行された当日。法務大臣が死刑執行を記者会見で発表したのは、夜七時過ぎ……その日の午前、美濃しほりが死刑執行の事実を知り得たはずがない」

「まさか……その白い女の影って……」

 ぼんは絶句した。月本陽菜も珍しく真顔だった。

「それから先、言わないで」

 ぼんは、背筋に冷たい息を吹きかけられた気がした。


「殺し屋は幽霊を撃つ」了

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