※※
孝一は地面を這いつつ、優希の元へ近付いて行った。
立ち上がれる程の力はなかった。
確かに崖から落ちたはずなのに、身体は痛むが生きている。
ーー死んでもおかしくなかったーー
それは明らかにわかっていた。一瞬暗闇に落ちた自分ががいたことも、闇を消し去るように眩しい光に包まれたかと思うと、感覚がなかった身体に雪の冷たさを感じたことで
ーー生きているーーそう感じ目を開けた事を覚えている。
遠くに優希と紫の姿を確認しても、声は思う様に出なかった。ただざわつく心に
ーー早くあそこに行かないとーー
その気持ちだけが早った。
手を伸ばしても届かない。
その2人を、今、目の前で風が吹き渦はしだいに2人を飲み込もうとしている。
「優希、おい!優希」
このままどこかに消えてしまうのではないか…孝一は手を伸ばし叫ぶ。
「おいって、返事してくれ」
這っても這っても、2人の所まではまだ遠い。
「なぁ優希…」
ーもう届かないーそんな気がした。
すっぽり渦に2人は包まれ、そこに見えた姿は見る事も出来なくなった。
「優希…」前に進む事を孝一は止めた。
2人の所に行っても、もう遅い。
ただ、雪の上で身体を丸め、歯を食いしばり握り拳で地面を叩いた。
行き場のない怒りと、何も出来なかった自分に怒り、ただ地面を何度も拳で叩くた。
※※
渦の中で、優希は孝一の姿を目にした。
歩けないのだろう。這ってこちらへ向かっていた。
その姿に「ごめんな」と呟くように言った。
ーーみんな悪い。でも、俺の存在そのものがなくなるんだ、悲しむ事はない。俺は淋しいけどな…少しだけ
渦は優希と紫を空へと浮き上がらせた。
その中、優希の意識はもうろうとしていった。紫を抱き締めた腕は、もうろうする意識の中、ぶらんと両腕はぶら下がり、腕の中にいた紫は少し腕の中から出て距離を置き、その光景をただ見ている。
ーーゆかりちゃん…
もうろうとしながらも、紫の名を呼ぶ。
チリン…小さく音色が聞こえる。
鈴の音色は優希の頭の中に響き木霊する。
頭の中を騒がしく、うるさく鳴り続ける鈴の音。鈴の音色以外、音はもう聞こえなくなった。
優希は真っ暗な闇にぽつんと1人立っている。
「ここはどこだ?」
寒さも感じないただの暗闇の空間。
紫の姿もない。
「ゆかりちゃん?」
紫を呼ぶ声は、空間で反響し響く。
ポッと小さなオレンジ色の灯りが目の前に現れ
「優希。君の選択を聞こう」
そう、男の声が聞こえたかと思った瞬間、顔立ちが整った薄紫色の和装の男が姿を現した。
手にはオレンジ色の提灯を持ち、それはさっき紫を包んでいた灯りにとても似ていた。
「彼女と一緒に生きる」はっきりと清々しい顔で優希は男に言った。
ーーもう迷いはないーー
そう、自分の記憶が孝一達から消えてくれるのなら、最初からいない事になる。それなら、優希は思い残す事は何もないと思った。
「そうか。皆がお前を忘れるなら構わないか…」
優希の心を読むかのように男は言い
「お前と紫はとても似ている。そして、お前を生かしたのは、この為だ」男は空を見ながら言った。
「生かした…」
「そう、あの事故の時、お前を救ったのは紫だ。そして紫に選択させたのは、この私」
あの手の感触はやはり紫だった。でも、紫がした選択、選択をさせたと言うのは、理解出来なかった。
「あの時、お前ではなく、母親を救う選択もあった」
「えっ?」
「ただ、母親の願いはお前が生きる事。親なら皆そうさ。自分の命より、子の命を守りたいと願う」
ーーだから俺を助けた…
「また、紫をこうして生かしたのも、私の身勝手だ。あの子には選択はさせなかった」
男はそう言うと優希の顔を覗き込み
「お前には選択をさせる。さぁ、もう一度聞こう。このまま私の手にかかりただ命を落とすか、いつ尽きるかもしれない命を紫と共に生きるか」
男は口元に薄く笑いを浮かべ、整った顔立ちはさらにそれを強調させた。
冷たい切れ長の目は、鋭く胸をさすかのように、優希を睨む。
「俺はもう決めた。彼女といると」
男は、「そうか」と言うと、持っていた提灯を優希の胸に向かって伸ばした。
持っていた提灯の灯りはばぁっと小さく散ったかと思うと、男の手にあった提灯は短刀へと姿を変え、短刀を男は優希の心臓めがけ一気に貫いた。
ぐはぁ、優希は血を吐き
ーーなんで?
「紫と共に行くにしても、人としての命は捨てて貰わねばならぬ」男はさらにぐっと短刀に力を入れ押し込む。同時に優希はぐったりと身体を男の短刀に預けるようにぶらんとさせた。
男が短刀を抜くと同時に優希の身体は、ばたっと音を立て身を落とす。
倒れている優希の身体からは、ただ血が止まることなく流れ出ている。
やがて呼吸も止まり、ぴくりともしなくなった、その時
「紫」その言葉で、紫は優希の空間へと導かれ、そこに見たのは優希の悲惨な光景だった。
「殺したの?」紫の問いに、藤は
「言っただろう。どちらにしても手にかけねばならないと。人としてお前とは生きてはいけぬ」藤の持っていた短刀から、流れ落ちる優希の血は、ぽとりと一滴ずつ落ちる度に、オレンジ色の小さな姿へと形を変え浮かび、短刀を取り巻くと提灯へと姿を戻した。
ーーだから殺したのかーー
提灯に目線を落とし藤は言った。
「紫。彼に君の血を飲ませるんだ」
その言葉に、紫は
「…このまま死なせた方が楽になれる」
「紫、それは君の選択だ。彼の選択と望みは違う。君と生きると彼はやはり選択を変えなかった」
ーー選択を変えなかった…そうか…
紫は自分の舌をきりっと軽く噛んだ。
口の中で噛み切った傷は塞がる事なく、紫の口の中に溢れ出る。
紫は優希の唇にそっと口づけ、優希の口の中へと自分の血を流し入れた。
…トクン…小さく優希の脈は鼓動を打ち、喉元はゴクリと音を鳴らす。
優希は薄く目を開き、紫の唇が自分の唇と重なっている事に気付くと、そのまま紫の身体に両腕をまわし抱き締め、唇を重ねながら紫の血を飲んだ。
胸から流れていた優希の血は次第に止まり、傷口も塞がって行く。落下の時に付いた傷もいつの間にか消えていた。
ただ、太腿に付けた傷痕は消えず、ぷくっと膨らんだ数本の線だけは、そこに優希を戒めるかのように存在を強調していた。
紫が重ねた唇を離すと「ゆかりちゃん、ごめん」と優希は抱き締めてる紫の髪を撫でた。
紫は尚も自問自答をしていた。
ー本当にこれでよかったのかーと。
「よかったんだ。俺が望んだんだ。一緒に生きていこう」
紫の思考を読み取るかのように優希が言った。
ーあぁそっか…優希君も同じになったんだー
紫の目尻から一線の涙が流れる。後戻りは出来ないんだと、改めて紫は思った。




