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ーーいったい何年経ったのだろう…ーー
物心ついた時から、私は友達と遊ぶ事もなく1人だった。
夜中に親族が語り合う冬の空の下、それだけは鮮明に今も覚えている。
そして、そんな夜に起きた出来事は、後から全て聞かされた事だ。
両親が仕事で訪ねていった工場現場で、鉄鋼の下敷きになり、父は母を庇うように2人重なり亡くなったと祖母は私に語った。
私には病院に行った時の記憶も残ってはいなかったが、祖母は2人の顔には白い布が置かれ、通されたのは病院の霊安室だったと言った。
その後、祖母は事故現場の関係者が来ては、ひたすら頭を垂らすのを見て
「あの子達を返して」と叫び罵声を浴びせたと言う。
それを聞きながら、そんな事を言っても返って来るわけでも、生き返るわけでもないのにと、私が思ったのはそれだけだった。
家には私1人で暮らしていた。祖母は毎日のように通い来てくれた。
それでも、祖母に一緒に暮らそうと言われたことは無い。祖母は私の事が苦手だったからだ。
「子供らしくない」いつも祖母はぽつりと呟くように言っていた。
そして、私も誰かと暮らそうとは思いもしなかった。
通い来ては食事を作り、家事をしてくれる。それだけで十分だった。
1人、家の門前に植えてられている桜を眺めたり、庭に大きく根を生やし藤柵の天井から花を垂らす藤の木を眺め過ごす。
家前の小山が四季を鮮やかな色合で知らせてくれる。
家があり、近くには親戚もいる。だから、両親の残した家から出ようとは思わなかった。
色んな風景が寂しいとは思わせる事はなかった。
そうして暮らしてる中、一匹の白い子犬を拾った。首輪もしていない、小さな子犬に、ありきたりに「シロ」と名前を付け、1人と1匹何もない穏やかな中で暮らしていた。
子供の時から住んでいた場所には、近くに公園も無く、山に入っては探索をし、シロと遊んだ。庭には亡くなった父が作ってくれたブランコも鉄棒もあった。
冬を前にした秋、私はアケビの実を取りに山へと入った。
山に入るのは慣れている。
そんな時に起こった不慮の事故。
慣れたはずの山なのに、足を滑らせ、生えた木々に捕まることすら出来ず小さな崖から落ちた。
気がついた時、見えた景色は暗い夜空に瞬く満天の星だった。
動けずに声すらも出ない。声を出す力もなかった。
私の横で小さなシロも浅く呼吸をしていた。
1人暮らしの中、私を探す人はいない。親戚ももう大人になった私に、関与する事もなく、祖母はとっくに他界していた。
意識を失くし気付いた今、何日経ったのかさえわからない…お腹が空いたという感覚も、身体のいたる感覚も無くなっていた。
ただ、こうして死んでいく…そう、呼吸がしにくくなっていく感覚、動かない身体、いずれ土に還っていくだけだ。
それが当たり前だとだけ思った。
生きていれば人は死ぬ。
親が亡くなったと聞いた時もそう思った。
自分が親より先に逝くことがなかっただけ良かったと思った。
満天の星の下、こうして逝けるのならいい。
あぁ、でもシロもなのか…小さい身体を撫でようとするものの、腕は動かない。
穏やかに暮らした1人の時、シロが来てから生活は変わった。
自分らしく生きて来たけれど、そこに色を付けたのは真っ白なシロだった。
それは平凡で幸せで、それだけで良かった。そんなシロを連れて逝くのか、私は無責任に巻き込んだんだ。
―シロ、置いてくればよかった―
そう思いながら、置いてきた方が、無責任なのではないか?反面そうも思った。
「シロ…」声なんて出るわけないのに、最期ならこの胸に抱いていたい。
ーーごめんねーー
静かに瞼が閉じた時、父親の声にも似た男の人の声が聞こえた。
「紫。人としての君の命はもう尽きた」
男の声が響く。
「寒く、辛かっただろうね…こんな死に方は」
語り掛ける聞こえる声に
「別に」
心の底から思ったことだ。
身体の痛みや飢えは辛かった。それでも、こうして最期に星に見送られた。
子供の頃から遊び暮らした場所、山が遊び場であり、木々が安らぎをくれた。心残りはシロがどうなったかだ。
「どうせいつか人は死ぬ」
都会では暮らせない、私がここから離れられなかった理由。
「お前は人としては、死んだんだ」頭の中に男の声が木霊する。
「人はいずれ死ぬのだから、私はこうして若いまま、逝けるのだからいい」そう言い切る私に
「お前を人としてではなく、これから生きていくんだ」
その声にハッとし
「どういうこと?」
「お前は生きるんだよ。そうして知るのだ」男の声が遠のきながらいった。
その後、私の目の前にぽっと小さな光が現れたかと思いきや、小さかった光は次第に大きくなると私を丸ごと包み、私はその光の眩しさに目をぎゅっと瞑った。
冷たい風が頬をさす。
私は庭の藤の木の下で、シロに頬を舐められ気付いた。
手の中には金色の鈴を握りしめていた。着ていた服は土で汚れ、腕の中のシロは少し痩せたようだった。
「シロ、生きてたのね」そう言うとシロを抱き締めた。
不思議と山で滑り落ちた時についたはずの身体中の切り傷はなかった。あったのは着ていた服の血の汚れ。
何もなかったかのような身体に反して、着ていた服は何があったのかを物語っていた。
藤の木の枝が、風が吹く度にカサカサと音をたてる。
その音に、シロの温もりに「生きている」と実感した。
穏やかな日々もこうして生活している自分が、好きだった。でも、どこかで私は寂しかったのだろうか。
死を当たり前のように受け止め、冷静でいる自分には何かが欠けている、そう思っていた。
死のうなんてことは思いはしなくても、死ぬ時は死ぬのだから、どうせなら若い内にと思っていた。
歳を重ね、年老いる自分を想像もできなければ、想像したくもなかった。
かと言って、誰かと結婚して家族を築くことや、子供を産み育てるなんてことも考えたこともなかった。
それすら無縁と思っていた。
だから、山での不慮の事故はある意味、死ぬには好都合だったのだ。
それがこうして意に反して生かされたのか?
金色の鈴はチリンチリンと音色を鳴らす。
呆然としながらも、シロを抱きかかえ家の中に入った。
私は倒れ込むように家に入ると、シロを抱き締めながら項垂れるように眠った。
目の前には、真っ暗な闇だけが私をとりを囲み、その中に山の中で見たオレンジ色の光が、小さくぼんやりと鈍く光っていた。
光はふわり揺れながらゆっくりと近づいてくると、目の前で止まり、弾けるように割れたかと思った後、オレンジ色の鬼灯の提灯を持った和装の男が現れ立っていた。
男は
「紫、私がわかるかい?」そう尋ねてきた。
「知らない」そう答えはしたが、ほのかに香る花の匂いに覚えはあった。
男は
「君は、この姿を見ようとはしなかったから、はわからないだろうね」
そう言うと、男は袖の下に手を入れると、袖から藤の花を掴み出し、それを私の前に下げ
「私は、お前が生まれた頃からずっと、お前の傍にいただろ。我が名は藤だ」
ーーこれは藤の花ーー
私は男に
「確かに、藤の木は私が生まれる前から家にあった。その花は藤の花よね…」
男の持つ藤の花へと手を伸ばし、そっと花に触れると男は花をそのまま私の手の中に落とした。
「信じなれなくて当たり前だ。それはいい。君に言った事を覚えているかい?」
藤は少し目を伏せ言った。
私は手の中の藤の花を見つめ
「覚えてはいる。でも、わからない」私がそう言うと
「だろうね」
藤はそう言うと、私の頬に手をあて
「君はあの時に死んだ。でも君は生きている。それは私が君に命を与えたからだ。私だけではない。君はとても愛されていた。生まれ育った場所に隠れ棲む者達にね」
「隠れ棲むって…」
頬にあてられた藤の手からは、温もりは感じなかった。同時に触れている手の感触は、さらっとしていて、そこには生を感じなかった。
「君は知っているだろ。山の中に人から隠れ棲む者達が居ることを。そして、子供の頃にその者達と過ごしていた事を。忘れたのかい?」
藤は頬にあてた手を、私の顎へと移すと私の顎をぐっとあげ、私の視線を上に向けさせ目を見た。
藤の目が鋭く貫くように私を見ている。
「責めてはいない。子供の頃に見えていた物が見えなくなるのは当たり前の事。でも、君はずっと守られていた。だから寂しくなかった。違うか?」
「違ってはいない」
そう違ってはいなかった。人の中にいるより、シロと一緒に山に居る時の方が楽しかった。そして、ここが居場所だと思っていた。
「君が崖から落ちたのは、事故ではない。君の人としての命を奪い、我々の命を与える為にわざと起こした」藤は口元に微かな笑みを浮かべて言った。
「なぜそんなことを…」
「君の為だよ」肩を竦め言う。
その言葉に
「何が私の為よ!どこが?ねぇなんで」怒りに任せて藤に言った。
「君が愛されすぎたから。だから、こちら側へ誘った」
「勝手な…そんな事知らない」
「そう、君は知らなかった。知ろうとしなかったね。人としての感情に、あまりにも無関心過ぎて、だからこちらにこそ相応しいと思わせた」
「なっ…」思わず唇を噛んだ。
「君はもうこちら側の住人さ。君が解き放たれるとすれば、全てを理解した時。そして、これから君は生き方を変えねばならないね。君は歳をとることも、死ぬ事もないのだから」
「なぜそんな事を…私は一体何になったって言うの?!」
怒りにも近い感情に拳を握り締めた。。
そう、あの時尽きていいのだと、それ以上の生を生きたいとは思っていなかった。
生きてこのまま流れる時に身を任せ、1人また生きていく。そんなこと望んではいない。
「君は元から違ったんだよ。人としては無理があったんだ。これは必然だったんだよ」
ーー必然?
その言葉に紫の高まった感情は瞬時に冷めるのがわかった。
他の同じ歳の子とも、また他とも違っていた事には、気付いてい。だから人と一緒にいられなかった。
幼き時から子供のくせに子供ではなく、感性もまた他とは違う。
同じ歳の子が思う事自体が、幼すぎて理解出来ず、大人が子供になっているように時々自分を思っていた。
それが前世の記憶と言うものなら、そうなのかもしれない。
前世が何かも知りはせずとも、歩いている道が違うのだと思った。
大人達の中に混ざり、会話を交わす。その会話はすんなり解釈できていた。
「それがなんだって言うの。関係ない」
藤は紫の心を見透かすように
「私はね紫。君の傍に私が居たのが悪かったのかと思った事もあったんだ。それが本来あるべき子供らしさを奪っていたのではないのかってね。君には見えていただろ、私本来の姿も山に隠れ棲む者達の姿も。君は見えていたのに、見えないと自己暗示をかけた。それでも、強い力の者達の事はみえていただろ。私はね気付いたんだよ。私が傍にいたからではなかったと。君自身が、元よりこちら側に産まれるべきだった道を誤っただけだと」
淡々と語り続ける男に
「違う、違う、違う!!」
叫びに近い声で紫は言った。
藤は
「君はもう戻れないよ。私はもう君の中に自分の生を入れたのだから。やがて庭に根を張る木は、枯れて朽ち果ててゆく。そして、山の者達もそうだ。君に四季を知らせる事はもうない」
藤はそう言うと足元に目を落とし
「木々の命は長い。隠れ棲む者達の命もまた等しく長い。お前はこれからそれらの命で長い時を過ごす。お前がどんなに足掻こうと、もうなかった事には出来なければ、元にも戻せない。そんなお前には人の中で紛れ生きる力もある。そのままの姿で時を過ごしていかなければいけないからね。どれくらいの時が流れるのかはわからない。でも、私はお前と共にいる。1人ではない。私の木が枯れ朽ち果てようとも」
―朽ちていく…見事な花を咲かせた木が―
「彼朽ちる事を嘆く事はない」
―でももう、見る事は出来ない…―
「私が産まれた事が間違っていたの…」そう言いかけた私の言葉をさえぎるように
「それはまた違う。ただ、どこかで誤っただけだろう。人として産まれたのが運命なら、君は人として人らしく生きるべきだった。ただ、君は君自身を変えられなかった。それもまた運命なのだろう」
運命、そんなこと考えたこともなかった。
ずっとここで過ごすことしか考えてなかった。
「私は、我々は酷な事をお前にしたのかもしれない。君に選択もさせずに、こちら側へ誘ったのだから」
―選択―
そうだ、選ぶことすらしていない。いや、してもこうなっていただろう。
オレンジ色の提灯が段々と遠くなると同時に、声も遠のいていく。
―私は一体何?―
あんなに立派な木の命と、他の者達の命。そんな者達の命を得た私は、一体何で何年生きるのだ。
夢にまどろみ、夢なのか現実なのか、今の紫にはまだわかるはずもなかった。
ただ、人ではなくなった。
人でないのならなんなのだろう。ただ、それだけは紛れもない事で、受け止めるべき事だと知った。