※※
「紫さん、おはようございます」
遅番で11時に出勤した紫の元へ、長野は駆け寄ってきた。
「おはようございます」
休憩室へ入ろうとする紫の後ろを長野も付いて入る。
休憩室には6人掛けの長方形の白い高テーブルと、椅子が置いてあり、入ってすぐの椅子に紫は腰を下ろすと、横の椅子に鞄を置いた。
出勤途中で買ったメロンパンと野菜ジュースが紫の朝食だ。
出勤して朝食を食べてから仕事を始める。
メロンパンを片手にほおばっていると
「紫さんにスノーボード誘ってもらって、すごく嬉しいです。楽しみです」
紫の前に腰をおろした長野は、紙コップにお茶を注ぎ、お茶を飲みながら言った。
「ごめんなさいね、急に声をかけて。でも、喜んでくれてるならよかった」
「紫さんから誘ってくれるの、始めてだしスノーボードちょうど行きたかったんで、嬉しいです」
満面の笑顔で長野は続けて
「新しいウェア買っちゃいました。紫は初心者って言ってましたよね?レンタルですか?」
長野に言われて、あぁウェアか…と、ふと紫は思った。
「レンタルあるみたいだし、そうなります」
話してる間にほおばっていたメロンパンを食いあげ、手にあるのはビニール袋だけだ。野菜ジュースを飲みながら、コンビニの袋に、パンの空袋を入れる。
「長野君、業中じゃないの?」
紫の言葉にハッとした長野は
「すいません。フロアに戻ります。また後で」
そう言うと、紙コップをゴミ箱へ入れ休憩室から素早く出た。
長野は、紫さんこうゆうとこ厳しいんだよな…と思いつつも、スノーボードに一緒に行けることが嬉しく、後で色々話をしようと思っていた。
初心者の紫に、スノーボードに関してはアドバイス出来る事が、少しだけだが気分がいい。
ここは歳上らしく、スノーボード経験者として等と考えるとそわそわする。
紫は朝食も終わり更衣室で制服へと着替え始めた。
”コンコン“更衣室の扉をノックし、開けまーすと言いながら奥田が入ってきた。
「おはようございます。紫さん、LINEありがとうございました。スノーボードいいんですか?一緒に行っても」
奥田はジーンズにレザージャケット姿でリュックを背負っていた。
「おはよう。こちらこそ、急に誘ってごめんなさい。一緒に行ってくれるの、反対に嬉しいから。一緒に行こ」
奥田は背負っていたリュックをおろし、着ていた服を脱ぎ始めた。
「紫さんにそう言ってもらえると、私スノーボード行きたかったので、誘ってもらって嬉しいです」
紫は鏡を見ながら制服のスカーフを巻き始め
「私の友達も一緒だけど、気を遣わないでね」
「紫さんの友達の人達は、逆に私や長野が行っても問題ないんですか?」
そうだ、奥田が気になるのはそこだった。
自分でもそうだが、友達の友達はハッキリ言わなくても知らない者同士。片方がいいといっても、微妙に相手がどう思うのか気になる。
「大丈夫。気にしなくても。一緒なのは行く時だけだし」
「行く時だけってどうゆう事ですか?」
奥田に聞かれ紫は
「行ったらスキー場では単独になるでしょ。車での移動中は寝てたらいいしって事」
奥田も制服に着替え終わりスカーフを手にすると
「そうですね。車では申し訳ないですが、寝ちゃいます」
でしょ、と言いながら2人で更衣室から出た。
奥田は、夜に出発したとしたら、スキー場に着くのは早朝だから、その間車の中では仮睡眠を取って…と考えた。
帰りも同じように滑り疲れて、車の中ではきっと寝てしまうだろう。そうなるとスキー場では、スノーボードをする人間が一緒に行動をすることはあまりない。
紫が気にしなくてもいいと言う意味はわかる。
要するに友達がいたとしても、あまり接する必要はないということだ。
当然、会った時に自己紹介や挨拶はするのが礼儀だ。そうでなければ紫にも失礼になる。
この職業、知らない人へ声をかけることは容易い事だ。
「でも、紫さんが誘ってくれるって、珍しくてびっくりしました」
自席でパソコンを立ち上げてる紫に奥田は言った。
「シフト見たら、奥田さんも長野君も休みだったから。前にスノーボードしてるって言ってたし」
「それでなんですね。誘ってもらってありがとうございます」
「全然。一緒に行ってもらえて助かるわ」
奥田の方へ振り向き紫は言うと、そのまま鏡の前にいる奥田に近づき、奥田が首に巻こうとしいたスカーフを紫は奥田の手から奪うと、器用にスカーフを結びながら
「長野君と楽しく過ごせたらいいね」
と言い、奥田の首元のスカーフは紫の手によって綺麗なリボン結びが出来上がっていた。
「えっ…紫さん、長野の事…」
紫が結んだスカーフを右側にリボンが来るようにクルッと回しながら、自分の気持ちを紫が気付いていたのかと思うと、照れくささと恥ずかしさに、ほんのり顔が熱くなる。
「好きなんでしょ。わかるよ。伝えられる時に、自分の気持ちは伝えた方がいい」
「そうですね。でも…」長野は紫さんの事を…言い掛けて止めた。
本当にこの人はいつから気付いてたのか…長野の紫への気持ちも気付いてるのでは…
それを知りながら、こういう事を言うのか。
長野の紫への気持ちには、応える気はないという事なのだろう、奥田は紫の言葉で気付いた。
でも、長野の紫への気持ちを知ってて、今更長野へ好きとは言えるわけもない。
どんな顔をして言ったらいいのかもわからない。
ーーまさか…紫はだからスノーボードに誘ったのでは?ーー
そう思うと、本当にこの人にはかなわないと思い知った。
長野の好意には応えられないから、私が入る隙間をくれようとしてるのか。
それは同情ではなく、長野の為でもあり、私の為でもあると思ってるのだろう。
私なら落ち込んだ長野を助けられる。そこに長野が私への恋愛感情がなかったとしても、友人として隣にいられる。
私は落ち込んだ長野を1人にはして置けない。
どこまで人の気持ちを考えてるんだろう。
パソコンを操作してる紫の背中を見ながら奥田は思った。
こうして仕事前に自分の仕事は終わらせるのが紫だ。
デスクワークを片付けてから、後は1日中フロアで指示をする。
まだ22歳で自分よりも歳下の紫は、全然22歳らしくない。
自分でさえも、まだまだ遊びたくて、はしゃぐ事が多いのに紫にはそれがない。
夢中になれるものはないのかな…
ふと思う。
紫がはしゃぐ姿や大笑いする姿を見た事がない。
今度のスノーボードでそういった普段見られない紫を見る事が出来たら…いや、そういった姿を見てみたい。
「はい。遅番スタッフ集まって」
紫の声が、バックヤードで騒いでるスタッフの中を飛び交う。
締りがなかった空間は
「朝礼をはじめます」
紫の一言で一気に空気は緊張感で張り詰め、雑音は消え静寂へと変わる。
さぁ、仕事の開始だ。
16時過ぎ、紫は遅めの昼食をとっていた。
遅番の時の昼食は、大半がこれくらいの時間になる。
早番スタッフを先に、3名ずつで休憩を回し、1番最後に自分の休憩を入れる。
スターバックスへ昼食を買いに行き、休憩でそれを広げると紫は自分のスマートフォンを操作した。
この仕事では、自分のスマートフォンは休憩中でしか触ることができない。
顧客情報を扱っている以上、情報漏えいに繋がる事はしてはいけないし、してはいけないと業務上決まっている事だ。
当然、スマートフォン1つあるだけで、顧客情報が外部に漏れる可能性を考えれば、持ち込み禁止も当たり前だ。
紫はLINEを開くと優希からのメッセージを確認した。
確認をし、そのまま画面を戻す。
返信をすることはなかった。
ーー間に合ったのかーー
それがわかっただけで、紫は満足した。
傷を付けることはわかっていた。それが、どの程度なのかまではわからなかった。
ただ、どの程度であったにしても、傷を付けていいわけがない。
あんな話を聞いて、はいそうですか、と理解しろというのが無理な話なのだ。当然、それも今まで何度も目の当たりにしていれば、優希が信じるわけがない事くらい、あぁ言った言葉を言うこと自体、想定の範囲内だ。
だからといって、紫がどうこう思うことはない。
当たり前の事、そうそれだけの事。
説明を求められたとして、説明をしたからといって、信じる事はきっと出来ないだろう。
何よりも自分がそうだった。
未だに自分がおかしくならないのが不思議だと思う。
いったいいつまでこうして生きていけばいいのだろう。
いったいいつになれば、自分は開放されるのだろうか…いや、開放なんてないのだろう。きっと今までのように、これからも開放される事なく、こうして生きていくしかないのだろう。
心でそう思っても表面には出さない。いや、出せない。
それが紫だ。
時が来るその日まで、優希と会うつもりはない。
「君はどう選択する?」
遠くで男性の声が聴こえる。そう何度も聴いている声だ。
何度繰り返し、選択をしたらいいのだろう…
スマートフォンにつけた金色の小さな鈴が、紫がスマートフォンを触るたびにチリンチリンと、音を鳴らす。
ー選択かー
それが一番難しい。
※※
優希は紫に送ったLINEを仕事の合間に確認した。
夕方に確認をすると既読にはなっていたが、返事は返ってきていない。
それもでも、仕事中はスマートフォンは見ないと聞いていたから、特別気にする事はなかった。
きっと夜に、仕事終わりにでも返事はくるのだろう。
ただ、孝一への返事に悩みながら、優希は優希で孝一に返事を出来ずにいた。
「一緒に行くならその前に会わせろ」というのは正論だ。全く知らない人を一緒に連れて行くわけだ。それは優希にも会わせる義務はある。
それでも、紫からの返事がない事と、紫の言葉の意味を理解してない自分が、今はどうこう出来るはずもない。
それでも孝一に返事をしないわけにもいかない。
優希は孝一に
「優希:お疲れ。ゆかりちゃんに聞いてから連絡する」
そう返事をした。
聞いてから…か。それはそれで、嫌とは言わないと思うが…
とりあえず俺が返事を待ってるとこなんだけど…
紫と会うことを考え仕事を早目に切り上げた優希は自宅へと帰っていた。
間接ライトがない今は、部屋の蛍光灯を付ける。
白い光に一瞬、眩しいと思ったが、慣れればマシなもんだ。
いつもが間接ライトのせいなのか、白い光に覆われた部屋は、やたらと部屋の隅々を照らし、少し落ち着かなくさせる。
白い光は優希には眩し過ぎるのだ。
そうそう…と言いつつ、クローゼットからスノーボードのウェアと板を出すと、汚れやキズの確認をした。
ちょうど3年前に買い揃えたものだ。
スノーボードを始める時に孝一達と一緒に買った。
初心者のくせに形からはいるタイプなのは4人とも一緒で、何もわからないから定員を捕まえて、あれやこれやと聞きながら買ったのが懐かしい。
優希のウェアは黒に赤い柄が入った物で、板も同じイメージで選んだ。
昔から赤色が好きだった。
それは今も変わらない。
その赤色が鮮やかであればあるほど、どこからともなく興奮した。生きてる実感を得た。
それが自分を傷付けて見る血に似ているからかもしれない。
そして黒もそうだ。
何色にも染まらない、他の色を染める黒が自分の中の暗闇に思えた。
買った時に思っていたイメージカラーは、今は違う。
単純に好きな色でしかない。
もう、あんな風には思わない。
次に買う時は違う色を選ぶだろう。
どこまでも果てしなく続く空のようなブルーと、空を飾る雲の白もいい。
派手な色ではなく、落ち着いたグリーンも白いゲレンデには綺麗に見えるかもしれない。
そんな想像をしてしまう。
想像をしつつも、一方で考えるのは、やはり紫の言った事だ。
そんなわけ無い、なんて言えるはずはなかった。
両親が死んだ時でさえ、2人がいなくなることなんて考えてなかった。
あれ?
ふと優希は疑問が浮かんだ。
両親が死んだ時、俺は何をしていた?曖昧な記憶を辿る。
ふと浮かんだ疑問と同時に激しい頭痛が優希を襲った。
〝痛い。頭が…〝
持っていたウェアを握りしめ、床にうずくまり、頭をおさえる。
なんだ。なんでこんな頭割れそう。
頭を抱えたまま優希は意識を失った。
※※
孝一は優希からの返信に、それもそうだな、と思いつつスッキリしなかった。
とは言え、無理矢理会わせてくれとも言えない。
ただ、優希なら普通は、「そうだよな。一度も会わせてないのに、いきなりとか無理だよな。お前らもゆかりちゃんもさ」と返してくるはずだ。
それが、どことなく何か素っ気ないというか、優希らしくない。
孝一は優希に電話をかけた。
普段なら先にLINEで都合を聞くところだが、なんとなく掛けても問題ないだろうと思ったからだ。
帰っている時間帯のはずだが、優希は出ない。
掛けて問題があれば、いつもなら鳴りっぱなしにはせずに、終話ボタンで電話を切ってるはずだ。
留守電にもならなければ、電話が切られることもない。
孝一はどことなくざわつく感じがした。
1人暮らしの優希からは、何かあったときの為にとスペアキーを預かっている。
歩いて10分、自転車なら2分くらいのところに優希は住んでいる。
変に心配するよりも行った方が早い。
そう思った瞬間、孝一はざわつく気持ちを抑えながら、スペアキーと自転車の鍵を手にし、優希のマンションへと向かった。
優希のマンションに優希の車があるのを確認し、優希の部屋のインターホンを鳴らした。
何度か鳴らし、スペアキーで部屋を開けると、部屋には電気がつき床に転がってる優希が目に入った。
「おい!おい、優希!」
靴を脱ぎ捨て優希に駆け寄り声をかけた。
頭を抱えながら倒れている優希の頬を叩き、「優希!おい、優希!」何度が繰り返すと「う…ん。」優希が声をもらした。
すぐさまベッドにあった枕を優希の頭の下に敷き
「大丈夫か?」そう言うと冷蔵庫からペットボトルの水を出し、優希の頬にあてた。
微かに目を開き
「だい…じょうぶ。頭が急に痛くなって…」
「ゆっくりでいいから、水、飲めそうか?」孝一は優希の頬にあてたペットボトルを差し出した。
あぁ、と言いながらも、まだ頭が痛いのか優希は横になったままだ。
「孝一、なんでいんの?」横になり目を閉じたままの優希が言う。
「電話、何回もしてるのにお前出ないから。」
そっか…と小さな声が聞こえた。
「でも、来てよかったわ。大丈夫か?」
「あぁ、もう大丈夫だ。ありがと」孝一に支えられるように起き上がると、優希はペットボトルの水に口をつけた。
「家が近いって便利だな」孝一は少し笑いながら言った。
何かあったときの為にと預かったスペアキーだ。まさか、本当に使う時が来るとは思ってもいなかった。
「俺も近くてよかったって心底思った」少し青ざめながらも優希はへらっと笑った。
心配性だとか、過保護とか、普通なら言えるはずだが、今日は言えない。
孝一のお陰で今日は助かったようなものだ。
ただ、何故あんな頭痛が…優希はそれが気になった。
―何かあったのか?―
「孝一、電話したって何かあったのか?」
「お前のLINEがいつもと違ったから、ちょっと気になってな」
「孝一って、俺の事本当に好きだよな。俺も好きだぜ」
調子が戻ったのか、冗談交じりでニコニコしながら言う優希が、少し腹立たしい。どれだけ心配したと思ってるのか。
「そんな冗談が言えるなら大丈夫だな」
優希を支えていた腕を、サッと孝一は外した。同時に優希はバランスを崩し、ペットボトルの水が優希の身体とフローリングにこぼれる。
「わーごめんなさい」慌ててペットボトルのキャップを締め、床に置くと大袈裟にも土下座をし、はいはい、とその姿がいつもの事のように孝一は見ながらティッシュを差し出した。
優希は「ありがとうございます」と何故か敬語でティッシュを手にすると、床や自分の身体を拭いた。
「で、何かあった?」
真剣に問いかける孝一の声に、優希は顔をあげ孝一を見た。
そこには真顔で、さっきまで笑っていた孝一はいなく、ただ心配してる孝一がいた。