01
しくしくしく。
帝都フェメルに続く道をいく馬車の中、はじっこで妙に湿っぽい空気をまとっている少女がひとり──…。
真っ青な顔をしたアリアだ。
涙を流しながら故郷とお別れしたのは半日ほど前。
想像以上に旅立ちが辛く涙が枯れないのかと思いきや、彼女が今流している涙はそれによるものではなかった。
彼女は故郷が見えなくなった後、景色も馬車も全てが物珍しくてすぐにそちらに気がいったからである。その時は1分もかからず笑顔になって周囲を質問攻めにした。
それならばなぜ、そこからまた涙を流すにいたったかというと……、
「うっぐ……。出そう、何かおぞましいものが出てきそうですの。悪魔祓いを呼んでちょう…だい……っうう」
ただの乗り物酔いであった。
「……この袋、出せ。ここ、悪臭でみんなのご気分? が、悪くなる」
そう言いながらアリアに彼女の財布鞄を渡したのは、共に旅をすることになった元親という異国人の青年だ。
まだこの国の言葉に慣れていないようで、文法が少したどたどしい。
かろうじて聞き取れるほど声が小さいのは言葉に自信がないせいか、それとも彼の性格か、連れになったばかりのアリアにはまだ分からなかった。
体調を崩している状況のせいで、意識して耳を傾ければいけない彼との会話は、アリアをさらに苛々させる。
「いいえ、私は出さないわっ! 嫁入り前の娘がそんなはしたないまねできませんのよ! ……待って、喉近くまで…何かが出よう…と……」
手に持ったままの財布鞄を上下させ続けながら、元親はうんざりとした表情で「どっち……」とぼやいた。
「お嬢さん、一回分でよければ酔い止めを分けてあげるよ」
しばらく二人のやり取りを見ていた同乗中の商人が、懐から丸薬をひとつ取り出す。
アリアはありがたく受け取ったものの、丸薬の匂いにますます気が滅入る。まさに薬草のかたまりという感じの匂いで、いかにも苦そうな濃い緑色も食べる気をなくさせた。
押し寄せる吐き気と不味そうな薬、アリアはしばらくどちらがマシか考えた後、意を決して丸薬を飲み込んだ。
とたんに口の中に広がる苦味。アリアはまたしばらく涙で目を潤ませる。
「どうだろう。もう気分はすっきりしてきたんじゃないかい?」
「……本当。もう効いてきたみたい! このお薬すごいんですのね」
薬を飲んでわずか数分で、アリアはすがすがしい気分を取り戻した。驚くべき効果である。
「私は薬専門の商人でね。今のは私の分を分けたけど、本来は12個入り30ヤニスさ」
「買います!」
アリアは迷わず財布鞄を開いた。
予想を裏切らず丸薬はとても苦かったのでそんなに口にしたいとは思えないが、人前であんなふうになるのはやはりごめんだ。
そういえばさっきはパニックになっていて無視してしまったが、元親はこの財布鞄に吐けと言っていなかっただろうか。
もしそんなことをしたら、中の小銭は汚れを水洗いできても財布鞄には匂いが染みついて捨てるしかなくなる。好きな花を刺繍してもらったお気に入りなのだ。
断った時は何も考えず動いていたが、その時の自分をアリアは大声で褒め称えたい気持ちになった。
「モト、さっきはありがとう。すっきりしたからもう大丈夫です。でもこれは大切なものだから絶対にモニョモニョ袋にはできませんの。……それにそもそも他人の財布鞄を粗暴に扱ってはいけないんですのよ」
元親が心配する気持ちは本物だと思うので、彼が嫌な気持ちにならないよう表情や口調を気を付けながらアリアはゆっくり注意する。
「財布鞄、知らない。すまない」
元親は眉を少しだけ動かして彼なりの反省を表した。
異国人であるがゆえ、財布鞄をただの布製の袋と考えたらしい。それは仕方のないことだ。
「いいえ。謝る必要はありません。知ってもらえればそれでいいんですの。心配してくれて本当にありがとうございます」
(性格はわりと素直なんですね)
ずっと平然とした表情をしているのは性格というより感情表現が薄いだけなのかもしれない。
出会った時は警戒心が強いので、連れにはなってみたものの打ち解けられないかもしれないと思っていたアリアはホッとした。
一緒に旅をするなら気難しい性格でないほうがもちろんいい。
「モトの国ではどんな財布鞄を使っているんですの?」
アリアの質問に元親は懐から薄汚れた小さな巾着を取り出す。
たくさん入りそうには見えないサイズだ。アリアの財布鞄と比較すれば4分の1もないだろう。
「そんなに小さいの!」
「大きいと荷物、持てない」
「それもそうですね」
そもそもアリアの財布鞄は女性用だ。元親のいうように邪魔になることが多いので、かさばる荷物を持って歩かない女性が愛用する。
ふふふと笑うアリアを元親は不思議そうにしていた。
なんでもない会話だが、アリアにとって何年かぶりに楽しい時間だった。
エイディ以外の年の近い異性は避けていたし、男性と違い女性は遠出をしないので年も身分も近い同性はそばにいなかった。
それにエイディとの会話は、先ほどアリアが財布鞄について注意をした時点で「心配した相手に対して文句を言うな」と怒って口をきかなくなるのが常だった。
アリアは自分の話し方が悪かったのだといつも反省して落ち込んでいたが、エイディから離れた今、やはり問題は自分になかったように思える。
どんな主張であっても彼は自分に感謝だけすればいいんだと考えていそうだ。
そうやってエイディとのことをふと思い返して、アリアはそこで思考をやめた。
今は婚約を一方的に破棄されたばかりで自分はやけになっている。エイディをけなすことに一生懸命になって、本当の愚か者に落ちたくはなかった。
アリアの復讐は、あくまでエイディを見返すほどの幸せを手に入れることで、その中にはエイディが捨てるんじゃなかったと後悔するくらい良い女(結婚したくなる最高の相手)になることも含まれている。