04
二人は馬車屋のすぐ隣にあった酒屋の前にいた。当然早朝なので開店前のようだったが、積まれていた酒樽が腰を休めるのにちょうどよかったのだ。
「この国に来たばかりと言ったけれど、どこかへ急いで行くご用事があるんですの?」
カナリヤの問いに、男はまずゆっくりと首を横に振った。
それからポツポツと自信なさげに言葉を紡ぐ。
「金はない。……フェメルに向かって早く歩く」
「早く歩くって、なるべく早く行きたいということかしら。けれどお金がない、と。……そういうことならちょうどいいかもしれません」
カナリヤの早口が聞き取れなかったようで、男は眉を寄せて難しい顔をした。
まだ警戒する気持ちが強いらしく、カナリヤはこの数分間彼の柔らかい表情を見ていない。知らない土地ということもあるんだろうが、国々を回る旅人ならもう少しリラックスしていてもよさそうなものだ。
しかし目をそらさずじっとカナリヤを見るので、彼の綺麗な顔に耐えきれず、カナリヤは気持ちをごまかすために始終中途半端な笑顔を浮かべた。
それがさらに男の警戒を強める循環を生むのだが、彼女にエイディ以外の年頃の異性に対する免疫がない。自分の提案を口にできただけでも素晴らしいことと思っていいだろう。
「……あなたの馬車代を払いますので、馬車に乗る3日間だけ私の剣士になってくれませんか?」
「君の?」
「私はこの3日でできるだけ遠くに行かなければならないんですの。……その、逃げないと無理矢理結婚をさせられてしまうから」
理由を話したところで男の警戒心は少し解けたようだ。
まあ、言われてみればまさにそんな感じの出で立ちではあるので当然かもしれない。
「もし追手がきたら逃げられる自信がありませんわ。だから守ってくださる方が必要ですの。あなただってお金をかけずに早くフェメルヘ近づけるならその方がいいでしょう? 良いアイディアだと思うけれどどうかしら」
男は顎に手を当てて考え始めたが、ちょうどその時に馬車の用意ができ、先ほどの馬車屋の子どもが「もう乗って大丈夫だよ!」と声をかけてくれた。
それに押されるような形で男はカナリヤに向かって頷いてみせる。
「わかった。……俺の名前は元親だ」
「モト・チカ? モトと呼べばいい?」
一瞬元親は面食らったようだったが、その後ようやく少しだけ口端を上げて笑った。
「好きに呼んでいい」
なぜ突然笑われたのかカナリヤにはわからなかったが、二人の間にあった緊張が解けたので気にしないことにする。
それじゃあ私はとカナリヤは自分の名前を言いかけて、少し考えた。
「私の名前はアリヤです」
カナリヤという少女はここで綺麗に消えた方がいい。
そこで響きが似ていてすぐに馴染めそうな新しい名前をとっさに作った。
「アリア?」
「いいえ、ア・リ・ヤ」
「アリア」
「……っふふ。いいですわ。私のことも好きに呼んでください。さあ、早く馬車に乗りましょう!」
自分で考えた名前はすぐにアレンジが加えられてしまったが、元親の声で紡がれたそれはすぐに耳に馴染んだ。
(アリア。私の新しい名前。あまり貴族っぽくなくて新鮮な感じがします)
きっとアリアは、カナリヤという少女に近いようで遠い、印象がまったく違う女の子になるだろう。
「気のせいかしら、空も違って見えるわ。興奮してるのね、私」
もう故郷に戻ることもないかもしれない。
馬車がゆっくりと動き出す。タイヤが小石を蹴る音はアリアにとってカナリヤとしての第一の人生が終わる合図になった。
町が徐々に小さく見えなくなっていく。
特徴的な赤い屋根瓦はひとつまたひとつと地平線に消えていった。
……本当はエイディと別れたくなどなかった。
ちゃんとぶつかり合って深く愛し合う夫婦になりたかった。
ただの聞き役ではなく、私の意見も知ってもらって、私の全部を愛してほしかった。
それがそんなにいけないことだったの?
捨てられるほどのことだったの?
(やだわ、泣きたくなどないのに)
涙がどうしても出てきてしまう。
最後の意地だとばかりに、声はもらさないよう唇をキュッとしめた。
ひとつ、自分の中でルールをもうけよう。
冷静な頭で故郷と決別するために、彼女は精一杯思考をめぐらせ考えた。
この先、エイディのことも、自分のことも、これまでの展開も、全部否定しない。
心の中は散々だけど、それでも受け入れる。
アリアは静かに目を閉じた。