02
フェメルに到着してなんと三日目、アリアはこの高級宿屋の従業員になることができた。あまりにも早い就職に幸先順調だ、と半月くらいは顔がにやけた状態で仕事をしていたのだが、家賃を払い終わって残ったお金はごくわずか。
デロウワの街で働いていた時よりお給金はやや多いのだが、自分で家賃を払い、生活雑貨を整え、食料を購入する、生きていくために必要不可欠なそれらの後に残るお金がこんなに少ないとは考えたこともなかった。1回外食してしまえば残金は無いに等しい。
元親のお祝いにと外食した昨日を除いて、アリアは贅沢をほとんどしなかった。
それなのに貯金ができないどころか、服1枚買おうとするだけで家を出るときに持ってきたお金を切り崩さなければいけない。
働くのは苦ではないが、エイディを見返せるほどの幸せが手に入りそうかと聞かれれば、まったくそんな予感がなかった。
「はぁ……」
「ため息つくと幸せが逃げてくよ、アル」
いつのまに寄ってきていたのか、アリアのすぐななめ後ろに青年が一人立っていて、ため息をこぼすアリアをなぐさめるように優しい笑顔を浮かべている。
しかしアリアは青年を見やって再びため息をついた。
実はこの青年の存在も、アリアの悩みのひとつなのだ。
「リヒャルト様、今度はなんのご用ですか? 部屋のお掃除はもう完璧だと思います」
まだ午前中にも関わらず、今日彼に声をかけられるのはこれで3回目。
2日前から泊りに来ているお客様なのだが、ベッドシーツの少しのシワ、窓枠の角の薄ーい埃など、アラを見つけては従業員に文句を言った。そしてやり直しには必ずアリアを指名する。
この宿屋に泊まるのはお金持ちばかりなので、女性従業員はみんなひいきにされるアリアを羨ましがったが、アリアの格好が格好である。表に出せない性的嗜好があるのだという噂が従業員の間ですぐに広まった。
こんなに細かに文句を言う人も珍しいので、彼は従業員の間では有名人なのだ。
彼はそんな事態を知っているのか知らないのか、余裕の表情を浮かべながらアリアとの距離をゆっくり縮めて会話を続ける。
「つれないね。何度も君を呼ぶのは他に理由があると思わない?」
「お洗濯ですか? お部屋でのお食事ですか?」
彼は手で口元をおさえながら肩を揺らす。
この高級宿屋では宿泊客を雑に扱うことがないので、アリアの対応が面白いらしかった。
ことあるごとに口説こうとするリヒャルトを冷めた目で見つめ返して、アリアは掃除道具を手に目的の場所へ急ぐ。
最初のうちはアリアも自分にできうる最高の接客を心がけたのだが、彼がからかっているだけだとわかってからは、いい加減にしてくれという気持ちを言葉と態度で明確に示すようになった。
しかしそれがまた彼を愉快にさせているらしく、このありさまだ。
「アル」
さっさと他の仕事を片付けようと動き回るアリアの腕を、リヒャルトが掴む。
初めて会った時にちゃんと「アリア」と名乗ったのだけれど、格好に合わせて男性の挨拶の形をとったため、リヒャルトは「アリアだと女の子みたいだから」と勝手に男らしい呼称をつけた。
リヒャルトが宿泊している間だけのことだとふんでいるので好きにさせているが、本名からだいぶ響きが離れてしまい、いまだすぐには反応できないでいる。
「リヒャルト様、話を聞きますから手を離してください」
「ああ、ごめんね。つい」
アリアは異性に触れられることに慣れていない。彼女が顔をしかめたのに気がついて、リヒャルトはすぐに手を離した。
「君に仕事を紹介したかったんだ。一日だけの簡単なものだからここを辞める必要もないしどうかな?」
「仕事、ですか?」
意外な話にアリアは驚く。
どうせ中身がまったくない話を永延とされるのだろうと思っていたのだ。
経済的理由から「仕事」という単語に敏感になっているアリアは、反射的に前のめりになる。
「そう。お給料はこれくらい」
彼の指が二本ピンと立てられたのを見て、次の瞬間アリアの口は「やります!」と勝手に叫んでいた。