06
エイディ・マルケットは視察をしながら3日かけてマルケット家の邸に戻ってきた。
彼を迎えるのは新しい婚約者のアンナである。(彼女は平民のため家名を持たない)
「おかえりなさい」
少したれ目気味の彼女は平常時でも笑顔に見える優しい顔つきをしていた。美人というわけではないが、愛らしい。赤ちゃんをあやす玩具のような耳触りの良い優しい声で、アンナはいつでもエイディを癒してくれた。
常に自分よりエイディの話を優先して聞いてくれる彼女を、エイディは周囲にいる貴族女性よりよっぽど女性らしく感じたし、実際彼女と過ごす時間は楽しくてしかたない。
彼女とは出会ってすぐに甘い雰囲気になり、慣れない仕事でイライラするエイディの心を恋で舞い上がらせた。仕事の合間にもたまに彼女の仕事場に顔を出すと、彼女は天使のような笑顔とは似つかぬ情熱的なキスで激励してくれる。エイディは彼女こそ最高の女性だと思ったし、自分に見合うのはそんな彼女しかいないと考えた。
対して幼い頃からの婚約者カナリヤは、出会った当初はエイディの後をニコニコ追いかけてくる物わかりのいい子どもだと思っていたのに、思春期をむかえると口ごたえをするようになった。エイディの気持ちをまったく考えず、楽しくしゃべっていたこちらの気持ちをことごとく邪魔する。アンナと出会うまでは根気よく彼女の悪いところを教えてやったが、努力は実らなかった。
結婚相手としてカナリヤではなくアンナを選ぶのは、判断力・決断力に優れた大人の男なら当然だろう。
「お疲れ様です。ご飯とお風呂どっちにします?」
アンナはエイディの上着を脱がすとやわらかな体をエイディの体に絡ませながら、エイディに何をしたいか尋ねてくれる。
いつもであれば食事もそこそこにお風呂へ行き彼女と熱い一夜をすごすところだが、今日のエイディはそんな気分になれなかった。
「……そうだな、食事にしてくれるかな」
いつもとは違う選択をしたエイディにアンナは戸惑うことなくふんわりと笑って「はい」と答える。
その様子を見て、エイディはようやく気持ちが落ち着いてきた。
アンナはカナリヤと違って自分の残念な気持ち、がっかりした気持ちを表情に出さない。そうすればエイディがうんざりした気持ちになることが分かっているのだ。
アンナが自分を第一に考えてくれていると感じて、エイディは自然と笑顔になる。
「その後、一緒にお風呂に入ろうか」
あからさまなお誘いにアンナは返事をしてくれないが、照れたように笑うだけで嫌だという意思表示もなかった。他のことにはすぐに「はい」と返事してくれるのに、こういうシーンだけはいつも返事をためらう。アンナのそんなところもエイディは好ましく思っていた。
夕食時、エイディは久しぶりのシェフの味に、帰宅をしたという実感を味わう。
エイディはもうすぐで一人前になるということで邸の北側の棟を自由にさせてもらっており、そこでアンナと寝食を共にしていた。今日の夕食も当然アンナと二人で食べている。
「エディ様、お仕事で何かありましたか?」
アンナは初めて会った日からずっとエイディのことを短くエディと呼んでいた。彼女はいつもデスマス調で話すが、それでもくだけた口調なのと愛称で呼んでくれるおかげで、距離を感じたことはない。
好物の肉料理と一緒にワインも十分に楽しみ、エイディの気分がだいぶ良くなってきた頃、アンナは尋ねてきた。顔には出していなくても、帰宅直後エイディの様子がいつもと違うことは心配に思っていたのだろう。
「仕事は順調に終わったよ。……けどシュランという町で久しぶりにカナリヤを見かけた」
「……カナリヤ様」
表情は変わらないが少しだけアンナの声のトーンが下がったので、エイディは「彼女とは何もない」と慌てて付け加えた。
すると彼女は安心したように笑顔になる。
「カナリヤ様は元気でした? それともまた泣かれちゃいましたか?」
カナリヤの泣き虫なところが疲れるとエイディはアンナに愚痴をこぼしていたので、アンナはその時のことを言っているのだろう。
まあ婚約の報告をしたら泣かれたのでそれは事実なのだが、別に今回は予想していたことなのでエイディは何とも思っていなかった。
「見たことない外国人の男と一緒にいたから少し気になったんだ」
アンナもエイディの言葉が予想外だったようで、驚いた表情をする。
そして数秒経った後、眉根を寄せて不快そうな顔をした。
今まで彼女のそんな表情を見たことがなかったので、今度はエイディが驚く。
「エディ様と別れたばかりなのに、もう他の男性と一緒だったってことですよね」
アンナにそう指摘されてエイディは頭を殴られたような衝撃にみまわれた。
カナリヤの家からではあの町に一日で行けない。馬車はディゼール家のものではなかったし、男もディゼール家の使用人には見えなかった。つまりはそういうことではないだろうかと思い至ったのだ。
アンナが主張することはめったにないが、同じ女性としてどうかと思うと夕食を食べながら一言だけぼそりと呟いた。
(あの男がカナリヤの……)
理解できない複雑な気持ちにエイディは戸惑い、苛ついた。
それを鎮めようと、その日エイディはアンナを強く求める。
おかしい。
本当なら愛する恋人との久しぶりの夜を楽しむはずだった。
(いつもと変わらずアンナがいるのに、なんでイラつくんだ……)