裏客パン屋さん
路地はひっそりとしており人影がない。寒さも増し、空気は乾き肌を刺す。路地は狭く、整備されていないゴミがあたりに散らかっており、息苦しさが増す。
路地の壁から、一人の男が扉を開けて出てきた。男は大きな袋を持ち、中にはぎっしりと食パンが押し詰められている。
「また持ってきたぞ」
男がそう言うと、路地の陰から小さな人影が出てきた。
「いつもありがとうございます」
小さな人影はよれよれになったビニール袋を手に提げて男にお礼を言った。小さな体とは対照的に背中に大きなリュックを背負った少年は、手持ちのビニール袋を広げると男の持つ袋の中からぐしゃぐしゃになった食パンの塊を自分の持つビニール袋に入れ始めた。
「まだお母さんは治らないのかい」
男の声には応じることもなくパンを詰めていく。少年の瞳はまっすぐパンだけを見つめていたが、その瞳はキラキラしていた。パン粉がぽろぽろと零れ落ちた。
「あまりずっとはあげられないからね」
男が言うと少年は大きくうなずき、パンを詰め終わったのかビニールのひもを固く結び、袋をリュックの中にしまった。
「ほんとにありがとうございます」
少年は頭を下げると男に背をむけて走り出した。男はそれを見送ると扉に戻り、手に持った袋を扉の外に置いたままにした。
「寛二さんあまりあげすぎちゃだめですよー」
厨房の方から香奈の声がした。香奈はここのパン屋に勤めている女の子だ。大学生で近所に住んでいるからという理由で、このパン屋で働きたいとやってきた。
「まあ、子供だから強く言えないのも分かりますけどねぇ」
「ごめんね香奈ちゃん。気を付けるよ」
男の名前は寛二。このパン屋を親から受け継いで、十年間パン屋を続けてきた。でも、パン屋が続いたのには、地域の根強い常連客がいたおかげだった。最近では常連客も減ってきて、半ば赤字。
――カランカラン。
「寛二さん。お客さんですよ」
「分かった。すぐ行くよ」
寛二が店頭に顔を出すと一人の女性がこちらの方を振り向いた。
「いらっしゃいませ」
寛二が愛想ある声であいさつをすると女性は笑顔で軽くお辞儀を返してくれた。寛二は微笑み返すと焼きあがったパンを取りに裏に戻った。綺麗な人だ。とてもいい人だろう。
寛二が焼き立ての食パンをプレートにのせて店頭に戻ると、先ほどの女性が食パンの前で何かを探すそぶりを見せていた。
「どうかされましたか」
女性ははっとしてその場から一歩引いて、また寛二に軽くお辞儀をした。寛二は軽くお辞儀を返すとプレートに乗った焼き立ての食パンを並べ始めた。
「あのう」
女性が寛二の顔を伺いながら声をかけた。
「この食パンって、昔からある「普通食パン」っていうやつですよね」
確かに、今寛二が並べている食パンは自分が物心ついた時からある「普通食パン」だ。寛二が幼いころから一番気に入っているパン。
「はい。そうですけど。どうかされましたか」
「いえ、これ息子が一番大好きだったパンなんですよ」
「そうだったんですか。いつもありがとうございます」
「いえいえ。まあ二十年も前の話なんですけどね。私が病気だった頃によく届けてくれたんですよ」
女性はどこか物寂し気にそう言うと焼き立ての「普通食パン」を買って店を後にした。