第三章「編入生」(6)
Ⅵ
「おいっ! しっかりしろっ!」
顔を表にして、頬を軽く叩いてみるが反応がない。今まで呆然と立ち尽くしていたメルレインが、その異常事態にやっとのこと気づき駆け寄ってきた。
「何が起こったんだ? 攻撃、受けてないよな?」
「ああ、急に倒れた。とにかく俺が保健室連れて行くから、教官に状況報告しといてくれ」
「わ、わかった!」
メルレインは、鬼のような形相でこちらへ近づいて来た教官に、事情をしどろもどろになりながらも懸命に伝える。竜也はその間にも、セシルを背負い上げ、保健室へと急ぐが、その驚くほど軽い体に違和感すら覚える。
――栄養失調? なわけないよな?
朝食は自分たちとしっかり摂っていた筈である。いや、だが量は明らかに少なかったと、竜也は思い返した。どちらかというと、自分たちに付き合って、仕方なく少し食べた。という様子であった。それに、なにやらゼリー状の飲料やサプリメントばかりだった気がする。まさかずっと今まで生きてきて、あのような食事生活だったのだろうかと考え、竜也はぞっとした。
――いや、むしろ逆なのか? 慣れないもん食ったから体調崩したとか……。いや、でも昨日の食事会だって少しつまんでたはずだ。
とにかく考えていても埒が明かない。竜也は勢いよく保健室に駆け込んだ。
「すみません!」
「あらあら、急患?」
そこにいたのは、豊満な肉体を惜しげなく胸元からちらつかせ、悩ましい声で首を傾げる、眼鏡の女教官であった。
「ごめんなさいね。保健室の先生、ちょっと出かけてるの。私でよければ診てあげるわよ」
「ドリス教官が?」
竜也のもっとも苦手としている教科であり、フィッツがもっとも得意とする教科の担当、それがドリス教官であった。すなわち、戦術シミュレーション基礎のである。本来は二年生の担任であり、アスカやヨハンいわく「男子校であの教官は反則だ」とのことだったが、別に胸の大きさで良し悪しを決める傾向にない竜也にとっては、わりとどうでもいい情報であった。さらにいうと、苦手な教科ということも重なってか、この女教官はどうも苦手である。なんというか、全身から滲み出る性格のいやらしさが、どうにも慣れないのであった。しかしそんなことを二年の先輩に言おうものなら、大人の色気が分からない可哀想な奴だと馬鹿にされてしまうのだから、余計釈然としないものが竜也の中にはあった。
「これでも応急処置くらいできるのよ。ベッドに寝かせてあげて頂戴」
うふふと笑う仕草も、なんだか計算されている。とはいえ、苦手だから結構ですというわけにも行かず、竜也は素直にセシルをベッドに寝かせた。
「まあ、この子編入したばかりの子じゃない。可哀想に……。とりあえずお熱はかっときましょうか」
言うやいなや、高いヒールで腰を振るように歩いていくと、机の上から体温計を持ってくる。
「教官はどうして保健室に?」
ふと気になった質問を投げかけてみると、ドリスは体温計をセシルの脇に差し込みながら、ぽってりとしたセクシーな唇をきゅっと引き上げた。
「私がここにいたんじゃ、いけない?」
「いえ、別にそうは言ってませんが……」
まずい、面倒くさい会話になってしまったと、竜也は後悔したが、そんなものは後の祭りというものである。
マスカラのついた睫毛をひさしの様に下ろしながら、上目遣いにこちらを見つめるドリスに、珍しくもたじろいでしまう。
「ちょっと頭が痛くてお薬もらいに来たのよ。もともと偏頭痛持ちなんだけど、生憎薬を忘れてきちゃったのよね。おっちょこちょいでしょ?」
赤い舌をちろりと出してみせるこの教官は、これでも亭主も子供もいるというのだから驚きである。およそ子供を生んだ体とは思えない脚線美を、惜しげもなく披露し、椅子に座る。
「授業は大丈夫なんですか?」
「ええ、今は空き時間だし、さっき勝手に薬見つけて飲んだから平気よ」
保健室に置いてある物は大概市販の薬であるから、別に勝手に飲んだところで、いつも飲み慣れているものなら問題ないだろう。この様子からして、随分と保健室慣れしているようである。偏頭痛持ちというのは初耳だったので、なかなか苦労して教官を務めているのだなと、竜也は少し感心した。
「天野くんったら、心配してくれるなんて優しいところあるじゃない?」
「は? いや、別に……」
「うふふ、照れなくてもいいのよ。優しい子、私好きよ」
その言葉かけは、竜也の背中に鳥肌を立たせるのに十分だった。
――きっとこの人はみんなにこんなこと言って回ってるんだろうな……。
意識的にやっているとするのなら、人妻として不謹慎であるし、無意識でやっているというのなら、なんとも罪作りな教官である。
竜也はぞっとしながら、こんな言葉かけ一つに大人の女性観を感じてしまうのであろう二年生二人組みのほうが、よっぽど子供ではないのかと勘繰ってしまう。
ともあれ、そうこうしているうちに、セシルの体温計が電子音を発する。
「あら、随分と低いわね」
三十五℃を示した体温計を見て、ドリスは頬に手を当てる。
「貧血かしら? とにかく温かくした方がいいわね」
今度は棚の方につかつかと歩いて行き、湯たんぽを探しているようである。
「何か手伝えることは?」
「そうね。じゃあ、お湯沸かしといて頂戴」
竜也は頷き、電気コンロへ向かうとケトルに水を張り、加熱スイッチを押す。
「う~ん、おかしいわねぇ、確かこのあたりにあったはずなんだけどぉ」
ヒールを穿いた身長でも届かない上の方までのぞき見ながら、ドリスが困った声を上げる。竜也は仕方がないとばかりに溜息をつきつつ近づく。
「どのへんですか?」
「ここになければ隣かしら? あ、あったわ」
ドリスは背伸びして手を伸ばすが、その瞬間、床にヒールがすべりつんのめった。
「きゃっ!」
「大丈夫ですか?」
幸い隣にいた竜也が受け止め、大事はなかった。だが、その受け止めた腕になんとも重量感のある柔らかい感触が残る。
――見た目以上に、でかい……。
思えば今までの人生、女性に縁遠い生活をしていたためか、改めて女性特有の体つきに驚愕すら覚える。そのためか、お互いに顔を繁々と窺ってしまっていたのに気づいたのは、たっぷり一〇秒を数える頃だった。
「どうしよう。私、一瞬天野くんにときめいちゃった」
「……勝手に言っててください」
げっそりと、明らかに嫌悪感を示した表情で、竜也は体を離した。
「酷いなぁ、渾身の洒落だったのに」
「洒落でそういうこと言うの、あんまり良い事だとは思いませんよ」
つい本音で返してしまった竜也に、ドリスは眼鏡を直しながら妖しく笑う。
「ふ~ん、天野くんって、結構硬派なのね」
「だったら何だって言うんです」
「ううん、別に?」
ドリスはなんとか手に取っていた湯たんぽを竜也に渡しながら「ただ」と続けた。
「学長の息子さんの一人だって聞いたから、てっきりもう少し冗談の通じる感じなのかと思っていたわ」
確かにアルバート学長は、若い頃大変な美男子であり、竜也の実父と共に、数々の浮名を残す名将であった。(大概はマスコミが捏造した根も葉もない噂だったのだが)また、常に人をはぐらかすような軟派な口振りも、当時の女性たちを魅了したという。その証拠に、女性誌のインタビューも当時絶えず、龍一と共に、功績を挙げるたびに取り囲まれたものだと、良く本人もまんざらでもない様子で語っていたことがある。
「正確には養子です」
脳裏にちらつく養父のにやけ顔を鬱陶しそうに払いながら、竜也はいたって端的に訂正した。
「ええ、知っているわ。でも、息子は息子よ」
急に女から母親らしい表情になった彼女は、遠くを見るようにして語った。
「私の家もね、実の娘と息子、それに一番下に戦争孤児だった男の子が養子でいるのよ」
家族の顔を思い浮かべながら、ドリスは幸せそうに笑う。
「みんなとっても可愛いのよ。とくにその一番下の男の子はね、最近やっとおしゃべり上手に出来るようになって、私のこと初めてママって言ってくれたわ」
竜也は沸いた湯を湯たんぽに移しながら、どこか上の空で話を聞いていた。
「嬉しかった。やっと“認めて”くれたんだなって思えたわ」
「それは、良かったですね」
適当に返事をした竜也に、表情は変えず、ドリスは続けた。
「ええ、とっても。だってあの子、来たばかりのときは、両親の死がよっぽどショックだったんでしょうね。七歳になるのに、まったく言葉を話さなかったの」
思わず竜也の手が止まる。
「そう、だったんですか……」
急に重い話を振られ、彼はそれ以上会話を続けられずにいた。
「ねぇ、天野くん」
「はい?」
唐突に自分へ切り返され、戸惑いの色を見せたが、ドリスは構わず教え子に質問を投げかけた。
「貴方はどうして軍人になろうと思ったの? やっぱり、お父さんたちへの憧れかしら?」
「……それもありますが」
竜也はなぜいきなりこんな面接のようなことを尋ねられるのだろうと疑問に思ったが、素直に自身の思うところを告げた。
「自分自身で守りたいものがあるから……です」
戦争孤児にはならずに済んだものの、竜也はすでに経験していた。昨日まで元気に話していた親しい人が突然居なくなる現実。ただ「お亡くなりになりました」と、告げられる無情。骨も残らず、姿さえ二度と確認できず、ただその人がこの世から消えた事実を、一方的に飲み込めという世間。その何もかもが、竜也にとって軍人を目指す原動力そのものになっていた。
あのような苦い思いは、二度と味わいたくはない。せめて、自分の手が届く範囲のかぎりでも、大切なものを守りたいと誓ったのだ。
「そう……立派ね。でもきっと、アルバート学長も、今の貴方と同じ気持ちだと思うわ」
「え?」
「息子ですもの。しかもご親友から預かった大切な……。並々ならぬ思いでお育てになったはずよ」
思えば、父龍一が死んだとき、アルバートはどのような思いを抱え、自分を預かってくれたのだろうか。自身の妻も失い、心強い戦友まで失った彼の心情は、想像するに難い。
それでも彼は自身の息子と分け隔てなく育ててくれた。竜也にとって、アルバートはもう一人の大切な父親であり家族だ。そんな彼の元で働いて、少しでも助けになればいい。竜也にはそういった思いも少なからずあった。だが、折角育てた自分の息子たちを戦場に送らなければいけない立場にしてしまったのも、また事実である。
一般的に考えるなら、なんとも残酷な選択をしてしまったようにも思われる。だが、竜也にはある決意があった。
「俺は親父……、天野龍一提督のように、簡単に死んだりしません」
彼には父をも越える覚悟があった。そして、密かに親友と誓ったのだ。『無益な戦局をいつか必ず打破する』それが二人の軍人になる盟約であった。
「そうね。そのために、私たち教官がいるのよ。戦死なんかして、もう一人のお父さんを悲しませないよう、しっかり学んで欲しいわ」
「了解です、教官」
二人は真剣な視線を交差させた。
いつしか、竜也の彼女への苦手意識は、どこかに行ってしまった。なにやら、彼女の本質的なものに少しだけ触れた。そのような気がしたのだ。また、母親という人間が自分にも存在したのなら、このように少し煩わしくとも、どこか温かい存在なのだろうかと、一瞬だが想いも巡らせた。
「ふふふ、なんだか妙な感じになっちゃったわね。ごめんなさいね?」
「……いえ」
お互いになんだか気恥ずかしくなり、照れ隠しにはにかんでいると、後ろで布の擦れる音がした。
「うぅ……」
「セシル?」
苦しそうな声を上げ、ゆっくりと上半身を起したクラスメイトに駆け寄る。とりあえず低すぎる体温を温めた方が良いと、竜也は湯を入れたばかりの湯たんぽを渡した。
「ひっ!」
その直後、セシルは短い悲鳴を上げ、赤いシリコン製の湯たんぽを叩き落とした。
「おい、セシル、どうしたんだ?」
なにやら異常な雰囲気を感じた竜也は、少し声を張り上げた。
「……あ、竜也、さん?」
我に返ったように、セシルはおどおどと周りを見渡す。
「こ、ここは?」
「保健室だ。お前いきなり授業中に倒れただろ。覚えてるか?」
しばらく辛そうに頭を抱えていたが、やがてゆっくりとセシルは頭を縦に振った。
「なにか嫌な夢でも見ていたのかしら?」
床に落ちた湯たんぽを拾い上げながら、ドリスは心配そうに様子を窺った。
「いえ、その、なんでもありません。大丈夫です」
ふらふらと立ち上がったセシルを、竜也は慌てて止める。
「おい、どこ行くんだ?」
「授業にもどります」
「その様子じゃ無理だろ」
ただでさえ白い肌を真っ青にしている相手を、半ば無理やりベッドへ寝かせる。
「いいから寝てろ。症状は俺が教官に報告してくる」
その言葉にあまり釈然としない様子であったが、諦めたように「すみません」とだけ返事があった。
「初日で緊張していたのかしらね? とにかく次の授業まで私はここに居られるから、保健室の先生が帰ってきたら引継ぎしとくわね」
「お願いします」
竜也はドリスにそう言い残し、保健室を後にした。
「……赤」
「え?」
「その色、今は見たくない」
ぼそぼそと独り言のように呟いた言葉に、ドリスは戸惑いながらも、ベッドサイドに吊るしてあった黄色い巾着袋に湯たんぽを入れて手渡した。
「どう? これで赤くないわよ?」
子供をあやす様に優しく接する彼女に対し、セシルはなにも話さない。すると、部屋の外から鈴の音がした。
「あら、この扉私じゃ反応しないのね。誰か開けてくださる?」
低く落ち着いた女性の声だ。ドリスが扉を開けてやると、そこにはふっくらとした黒猫がいた。
「お邪魔するわよ」
「あら、この子の誓鈴さん?」
「そうよ、私が着たから先生は向こうに行って大丈夫よ」
リリスの声音は至って平常であったが、その眼光には鋭い凄みが宿っていた。
「そ、そう? じゃあ、お願いしていいかしら? 保健室に先生が来たら、熱は三十五℃で、授業中気絶して運ばれてきたって伝えてちょうだい」
「よくってよ」
ドリスはどこか後ろ髪を引かれる思いだったが、こうもきっぱり彼のパートナーである誓鈴に言われてしまうと、すごすごと立ち去るしかなかった。
教官の遠くへ立ち去った音を見送り、リリスが口を開く。
「セシル。一体どうしたっていうの?」
「リリス、どうしてここに? 教室に居たんじゃ……」
「貴方が私を呼んだのよ」
無意識にセシルは彼女を呼び寄せたということらしい。たしかに、気を失っている間、彼はずっと誰かに助けを求めていた気がする。
黒煙、死者の声、赤い血、肉……それらが混濁した渦となって脳内を支配するような不気味な感覚だった。地獄という概念があるのなら、きっとこういったものに違いないとすら思う。
それは初めての戦闘で味わったものと類似していた。自らが放った攻撃により、炎に飲まれ、艦内が崩壊し、その破片が人々を殺傷し、或いは焼死せしめた。
敵でありながらも、彼らは人間であることに違いなかった。死を悟ることも、恐怖することもなく消し飛んだ者。致命傷を負いながらも尚、死にたくないと叫び、故郷の母を呼ぶもの。或いは敵を恨み呪いながら血反吐を吐くもの。
次々と頭に雪崩れ込んでくる膨大な殺戮のイメージ。それらから救い出して欲しい。このどうにもならない恐怖から、どうか自分を遠ざけて欲しい。その声がリリスには聞こえたというのか。
セシルは彼女を抱え、柔らかい毛に頬を寄せる。猫の小さな、人間のそれよりも少し早い鼓動が、多少なりとも彼の心を落ち着かせる。
「僕は、どうしようもない失敗作なのかもしれない」
「何を言っているの? 貴方なら大丈夫よ」
セシルは首を振る。自分がもしも完璧な兵器ならば、こんなことに怯むことはないはずだ。敵の死に怯え、戦闘を拒否する心など、ただ邪魔になるだけだ。捨ててしまえたらどんなに楽なのだろう。
ふと、セシルはリリスを放し、自分の両の手をじっと見つめた。
「そうか、これは、嫉妬」
竜也の戦闘を楽しむ姿勢。あれこそが今の自分に必要であり足りない要素なのだ。だからこそ、彼が羨ましい。セシルはあの気持ち悪い心の黒いもやを、そのように捉えた。
「僕も、彼のようになれれば……」
なぜ成功作だと博士に言われた自分にはなく、ナノマシンを搭載していない生身の彼にそのような精神力が備わっているのか。そう考えたとき、セシルの心に“妬み”や“焦り”といった負の感情が植えつけられたのだ。このように誰かに特定の感情を抱くなど、今まで味わったことのない経験だった。どう制御したらいいのかすら、今の彼には分からない。
「リリス、どうしたらいい? 胸が苦しくて仕方がないんだ……」
「セシル……」
心配そうに自身を見上げる彼女に、少年は今にも崩れそうな危うい表情で自嘲した。