第三章「編入生」(5)
Ⅴ
翌日、風邪気味だったのにも関わらず、カラオケで熱唱したフィッツの喉は悲鳴を上げていた。そのため、なかなか朝ベッドから起き上がらない彼の腹に、ずっしりといい加減起きろと言わんばかりに、何かがのしかかる。
「うぅ……」
しゃがれた呻き声を上げながら、ようやくフィッツが起き上がる。腹の上には大きな黒い毛玉……もとい、セシルの誓鈴として寮へ連れてこられたリリスであった。
「あ、だめじゃないかリリス」
慌ててすでに起きて着替えていたセシルが、フィッツの腹の上から黒猫を抱き上げる。両脇をつかまれぶらりと垂れ下がったリリスの「ぶにゃあ」という声は「あら、ごめんなさいね」と誓鈴の証からスピーカーを通して訳された。
本来誓鈴はセシルにとって無用の長物であったが、まったく初めてのところに、一人で放り出すのもなかなか困難であろうと思ったヴァレンチナ博士が、彼女を連れて行くことを勧めたのだ。また、一学生として振舞うためには、やはり皆と同じように誓鈴を携えていなければ、流石に不信がられるというものであろう。彼がナノマシンを搭載したDCだということは、生徒会以外には機密事項なのだから。
「別に構わない。むしろ良い目覚まし代わりだ」
竜也が朝のランニングから帰ってきて、シャワーを浴びながらセシルとリリスに向けて許可を出す。
早起きが出来ないフィッツを、いつも叩き起すのは竜也の役だったが、それを他人がやってくれるのならば、これほどありがたいことはない。これならもう少し長いコースのランニングも出来るとすら竜也は思った。
「あら、じゃあ私が今日から坊やを起してあげるわね」
リリスはセシルの腕からするりと床に下りると、オニキスのような黒目を、朝日で細くさせながらウインクする。
彼女はゲージには入るものの、自由に出入りが出来てしまうため、こうして基本自由気ままに部屋をうろうろとしている。昨日の夜も、結局セシルと一緒の布団で丸まっていた。
セシルのベッド割りはというと、元々竜也が寝ていた二段ベッドの二階部分をあけ渡し、竜也は「この方が落ち着く」といって床に直接布団を引いて満足している。本当のところ竜也としては、板の間より畳の方が好ましいのだが、そこまで贅沢は言えない。
「勘弁してください……」
「そお? じゃあ、こうしようかしら。目覚ましが鳴って一〇分経っても起きなかったら、私が今日みたいに起してあげるわ」
ご機嫌良く立派な髭をぴんと立てながら宣言するリリスに、フィッツは頭を抱える。
リリスは今年で何歳を迎えたのかすら分からない、立派な老猫だ。一見真っ黒な体は、ふっくらとした腹の毛をめくると、少し色が抜け、灰色が混じっている。雌のわりに大きな体は、セシルが抱くと、光沢のあるランドセルのようであった。
少し太めな体型は、ふてぶてしく見えるが、顔立ちはロシアンブルーの血を引いているのか、なかなか美しい黒猫である。本人いわく「若い頃は雄たちに小悪魔ちゃんってちやほやされたものよ」と、自身の美しさに誇りを持っている。誓鈴の証で翻訳された声は、どこか色気のある、落ち着いた大人の女性のような声であった。
しかし、なかなかの巨体であることは間違いない。竜也が試しに抱き上げた感想いわく「五キロの米以上はある」とのことであったから、それが朝突然寝ているところに直下してくるのだ。考えただけでも息苦しいのに、本日頼んでもいないのに早速実演されてしまった。フィッツはのろのろと着替えながら、なるべく明日からは自分で起きる努力をしようと心に誓った。
三人は揃って登校したが、途中セシルはリリスと共に教官室へと向かった。
彼にとって今日が初登校であり、学校デビューなのである。A組担当教官のエルンストと打ち合わせが必要なのだ。
セシルと一旦別れた二人は、教室に向かうと、待ち構えていたかのように、リューベックが駆け寄ってきた。
「おはよう、聞いたよ!昨日生徒会入りの儀礼式したんだって? 今のお気持ちは?」
いきなりインタビューのようにマイクを模した拳を向けてきた相手に、竜也はわざとらしく肩をすくめて見せる。
「広報部の活動か?」
竜也がそう返すと、うんうんとリューベックは頷き、その瞬間はっと気づいて、足元にいた雷神とルナの誓鈴の証に注目した。
「おおっ、一足先にもらったんだね! 人間の言葉が話せるようになったご感想は?」
二匹にインタビューを切り替えると、ルナは得意げに胸を張り、誓鈴の証を目立たせた。
「まあまあね。デザインが少しごつい気がするけど、なかなか便利になったわ」
「リューベック殿といったか、主がいつもお世話になっている」
二匹の性格を具現化したような声に、リューベックは目を瞬かせる。
「ああ、雷神は大体こんなイメージだったけど、ルナはなんかちょっと……」
「何よ、文句あんの?」
「もうちょっとおしとやかなのかと……」
「ちょっと! 私のどこがおしとやかじゃないっていうのよ!」
今にもリューベックの足に齧りつきそうなルナを、フィッツは慌てて抱き上げる。
「ルナはまだ若いから、どちらかというとおしゃまさんなんだよ。うん」
フィッツの咄嗟のフォローは、ルナの脳内で反芻し、いまいち納得しかねる様子であったが、彼女は兎角自身の主には甘かった。
「ふん、まあいいわ。そういうことにしといてあげるわよ」
大人しくなったルナにほっとしつつ、リューベックはインタビューを続けた。
「で、人間のお二人は?」
「でって言われても、なんかあまり実感がわかないと言うか……」
あまり良いコメントが浮かばない竜也にかわって、フィッツが得意の笑顔で答える。
「実質的な活動は今日の放課後からだからね。今後の活躍にご期待くださいってところじゃない?」
「お、フィッツ言うねぇ。そのセリフ頂いたよ!」
リューベックは端末でメモを取りながら、新聞の構成を考えているようだった。
丁度その時予鈴が鳴り、一同は一斉に席についた。すると、程なくしてエルンスト教官の屈強な体躯に隠れるようにして、セシルが入室する。
彼自身の独特な見た目と、突然の編入生と思われる人物の出現に、当然のように教室はざわついた。
「静かにしろ。貴様らに今日は新しいクラスの仲間を紹介する」
そういうと、エルンストはセシルに目配せした。それに頷いたセシルは、昨日寝る前に竜也たちと練った紹介文を、予定通り語った。
「はじめまして、今日から皆さんと共に学ぶ事となりました。セシル・リヴォーヴィチ・イオノフと、誓鈴のリリスです。西北ロシア地方から特別試験を受けて、本日付で生徒会役員として編入して来ました」
肩書き上一応、一般高校からの編入扱いとなっているため、セシルはさらりとそう述べた。リリスも「にゃあん」と足元で鳴いてみせると「よろしくね」と色っぽい声で誓鈴の証で訳される。
それを聞いて教室は静かになるどころか、余計にざわついた。
「は? どういうことだよ。一般学生がいきなり生徒会?」
「そういえばNSW社から今年はテスト機が届くはずだから、本当は一人役員足りてなかったんだ。てっきり上級生から新たに決めるのかと思ってたけど……」
「え、なに、あのちっこいのめちゃめちゃ天才だったりするのか?」
四方八方から学生たちの声が飛び交う中、エルンストか厳しい顔つきで二度机の角を叩いた。たったそれだけだったが、教室は静寂を取り戻した。
「続けろイオノフ」
エルンストは腕を組みながら、セシルを顎で促した。
「NSW社の今年の機体は特殊なもので、こちらの選抜とは別に、本社自体が一般公募をかけ、たまたま僕がその試験に受かる形となり、こうしてここに来る事となりました」
そんなことがあるのかと、今回の異例な事態に一同は目を白黒とさせているが、気にせずにセシルは続ける。
「そのため、一般戦闘技術等においては初心者ですので、みなさんどうぞ色々と教えてください。よろしくお願いいたします」
一瞬間が空いたが、教室は大いに喜びに満ちた。ようは「なんだか知らないが、すごい奴が編入してきた」ことには違いないのだ。
「英雄の息子がツートップで生徒会入り。さらには流星のように現れた謎の編入生。これはトップニュースだ。すごいよこのクラス!」
リューベックは夢中になって、鼻息荒くメモを取る。今回の広報部新聞の一面は、この三人の写真で決まりだと、今から制作するのが楽しみで仕方がないといった様子である。
その教室の様子を、少しつまらなそうに見ていたのは、風邪から回復したライオネルであった。ぶすっとしていたが、NSW社自体が行った試験に受かったというなら、文句のつけようがない。
「イオノフ、お前の席は竜也の後ろが空いているから、そこに座れ」
「はい」
言われたままに席に着くと、小柄な体はより一層ちょこんと可愛らしい置物のようになってしまう。
――クッションがいるな……。
机と座高の合ってないセシルを見て、竜也は密かに苦笑した。
その日の一時間目は座学校舎の地下にある訓練施設で、武術基礎という授業を行った。
剣道、柔道、空手の達人である竜也にとっては、この授業はなんともぬるい時間帯である。
棒術、体術、剣術の三構成となっており、二人一組になって対戦するのだが、この授業はアンジェクルスを操作するに当たり、戦禮者本人に有効な動きを覚えさせるという目的がある。
「げっ、一戦目からお前かよ……」
棒術をまず選択したメルレインは、運悪く無敗の竜也と対戦することとなった。メルレインは体格に恵まれており、腕っ節には自信があったが、相手が竜也では話が別である。
「お前は力押しで来ようとするから失敗するんだ。もう少し技を磨け」
竜也は細い円柱型の長い棒を、壁から蹴り上げ、手で受け止める。それを両手で左右に回しながらメルレインに近づき、両手を交差させた形で頭上に構える。その迫力に、思わず相手は唾を飲み下す。
「くっそぉ、一回くらいはお前に勝ってみたいもんだ」
お互いにタンクトップ姿であるが、そこからのぞく腕は、メルレインの方が竜也より太く逞しい。
対して竜也は均整の取れた筋肉のつき方はしているものの、相手と比べるとむしろ細くすら見える。この事から見ても、肉体的優勢はメルレインにあるはずだが、どうにも勝機が見出せないのだ。
「行くぞ!」
「ぐっ!」
一気に先攻を取られたメルレインは、振り上げられた竜也の攻撃をなんとか防御する。それをそのまま押し返し、攻撃に転じようとしたメルレインの手から、あっという間に棒はすっぽ抜けていった。何が起きたのか分からず、辺りを見回すと、竜也が上から降ってきたメルレインの武器を難なくキャッチしているではないか。それを正面に構え、にっと口角を上げた竜也が言い放つ。
「はい、死んだ」
「ひでぇやお前。ちったぁ、教えるために手加減しろよな。まったく動きがわからないと、技磨くも何も、真似すらできないだろうが」
嘆くメルレインに意地悪く笑いながら、竜也は彼に棒を投げ返した。
「分かった。じゃあもう一度」
すると竜也は片手を背に回し、棒を構える。
「そっちから打ち込んで来いよ」
ハンデをつけてやるということだろう。片手だけで応戦し、先攻も譲る構えの竜也に、メルレインの自尊心は少なからず燃え上がる。
「良いんだな? そのくそ生意気な性根叩き直してやる!」
「やれるものなら?」
メルレインは雄叫びを上げながら突進する。竜也の体の中央を狙って突き出した棒は、寸でのところで空を切った。竜也は突き出された棒を上から押さえ、その反動で前方に空中回転したのだ。自然とメルレインの後ろへ立つ事となる。それに気づいたメルレインは慌てて後ろを振り向き、二撃目を繰り出す。それを片手で受け止めながら、竜也は好戦的な眼差しでメルレインを見据えた。
「一撃の重みは十分だ。後は踏み込む速度だな。俺が待たずに背中から攻撃してたらお前また死んでたぞ?」
「ぐぬぬ」
「力みすぎなんだよ。いいか?」
竜也は軽く攻撃を払うと、メルレインの足の間に棒を突き立てる。
「お前の攻撃は猪突猛進だ。一撃で仕留めようと思うな。相手の狙える隙をとことん突け。例えば足だ」
言いながらメルレインの片足を内側から手前に棒でもって捻り倒す。
「ぬおっ!」
尻餅をついたメルレインの顔面には、またもや竜也の武器が構えられていた。
「俺が空中に飛んだ瞬間に今のが出来れば、俺は空中でバランスを崩す。逆転のチャンスだろ? 足は人間の意識の一番末端だ。狙いやすいから覚えとけ」
「はあ……、簡単に言ってくれるなあ、まったく」
座学の授業では常につまらなそうにしているのにも関わらず、竜也はこういった実技系の授業においては目の輝きが違う。しかし、あまりにも周りとのレベルが合わず、クラスメイトと一通り手合わせを終えてしまっている彼は、少し退屈でもあった。こうしてメルレイン相手に講義するのも、もう両手では数え切れないほどこなしている。
「あの、次は僕といいですか?」
唐突にメルレインと竜也の間から少年の声が掛かる。筋肉質な二人の間に立つと、まるで大人と子供ほどの差があるセシルが、遠慮がちに武器である棒を握りながらこちらを見上げていた。
「おいおい、竜也相手はやめとけ。こいつ手加減とかそういうのしない大人げないやつだからな。鬼だぞ?」
「酷い言われようだな……」
竜也は溜息を漏らしながら、セシルを見る。新雪のように白い肌は弱々しく、肉付きも良くはない。むしろしっかり食事をしているかと心配になるほど細い。普通に考えれば、メルレイン以上のハンデを与えなければ、彼の言うように自分は鬼にあたるであろう。けれども、彼の生い立ちの真実を知っている竜也は、この小さな体に隠された能力とやらを知っておいても損はないだろうとも思った。
「そういえば、さっきまでは誰と手合わせしてたんだ?」
「フィッツさんとリューベックさんです」
竜也は辺りを見渡すと、フィッツとリューベックが壁際でげっそりと腰を下ろしているのを発見する。メルレインもそれを見て、不思議そうに首を捻った。
「あいつ等なんかめちゃくちゃ落ち込んで無いか?」
竜也はそれを聞いて喜々とした表情を浮かべる。
「なあ、セシル」
「はい?」
メルレインには聞こえないように竜也はセシルに耳打ちする。
「お前、実は一般戦闘技術初心者なんて嘘だろ?」
「いえ、本当です。ただ……」
セシルもこそこそと竜也に打ち明ける。
「僕の体の中にある機能的には対処することが可能です」
――なるほど、やっぱりな。
竜也は一つ頷くと、セシルも同じように合図した。
メルレインは二人の内緒話を不思議そうに見守っていたが、二人が戦闘の体勢を作ったので、慌てて止めに入る。
「いやいや、待てよ! 編入生、俺の話聞いてたか? ってか竜也、お前本当容赦ないな!」
「何とでも言え。少なくともお前よりはこいつの方が面白そうだ」
「はっ? 竜也、お前はいつからそんな鬼畜野郎になっちまったんだ!」
見損なったぞと愕然とするメルレインを尻目に、竜也とセシルは得物を手に見合った。
「先手は?」
「そちらからどうぞ」
「それじゃ、遠慮なくっ!」
竜也は上段の構えから、飛ぶように相手の懐に突っ込む。しかし、その棒の先端を肩口に構えた得物で擦る様に回避したセシルは、眼球奥のナノマシンをちらつかせながら、竜也の首目掛けて一撃を繰り出す。
「くっ」
紙一重で体を反らし避けた竜也は、そのままスライディングして相手の後方へ抜ける。背中を狙った一撃は、振り返ることなく、しゃがんだ状態のまま後ろへ回されたセシルの武器に押さえられた。
訓練場に乾いた木の叩き付けられる音だけが響く。メルレインは度肝を抜かれた表情で、口をぱくぱくとさせていた。
「な、なんだこれ。まさかの超人対決か?」
初めて竜也と対等に渡り合う人物を見て、それに気づいたクラスメイトたちは次々とこちらに注目し始めた。
「さすが、飛び級の優等生……やるな」
竜也が珍しく冷や汗をかきながら、周りに聞こえても差し支えのない言い回しで、セシルに声をかける。
「そちらこそ人間離れしてらっしゃいますね。僕が後ろを振り返れない速度を味わったのは初めてです」
このままの体勢では埒が明かないので、二人はお互いを弾き、間合いを取り直す。
――注目集めちゃまずいか? いや、でも……。
竜也の気持ちは高揚していた。
――楽しすぎて、決着付けないとやめられないなっ!
風を勢いよく切りながら、武器をバトンのように華麗に振り回す。竜也はそのままじりじりと相手との間合いを詰めた。セシルも、一瞬の隙も逃すまいと、精神統一する。
次の瞬間、竜也が走りこんだと思うと、棒高跳びの要領で、中を舞った。後ろに回りこむつもりかとセシルは読んだが、なんと相手は上から直に襲い掛かる。
――おかしい。僕が相手の動きを読み間違えるなんて……。
セシルはなんとか振り下ろされた棒を食い止め、思案する。思えば先ほど背中に回られた行動すら見抜ききれなかった。そこで一つの答えが導き出された。
――そうか、竜也さんは考えて攻撃なんかしてないんだっ!
すなわち、反射神経と運動能力、さらに今まで培われた武道の動きが相まって、竜也は頭で考えてから動くのではなく、体が先に動いているのである。これではナノマシンで思念を読み取ることの出来るセシルでも、ほとんど予測がつかない。それどころか、先ほどから相手の思念を読むと、単純な感情しか伝わってこない。
その感情とは“楽しさ”であった。それ以外は一切“無”に限りなく等しい。これには流石のセシルも驚きを隠せない。
まるで子供が遊んでいるような無邪気な思念に、これまで味わったことのない気持ちがセシルの中に溢れる。
――どうしてこの人は、戦うことをこんなに楽しめるんだろう……。
自分はむしろ、戦いたくないと思い悩んだほどであるのに、こうも喜々として戦闘を楽しむ心はどこから生まれてくるものなのだろうか。
もし彼の感情を自分にプログラミング出来るのならば、その時こそ自分は兵器として完璧になれるのではないのだろうか。
セシルの胸にもやもやとした、なにか得体の知れない黒いものが這い上がってくるような気がした。
――なんだろう……、なんだか急に……。
「気持ち、悪い……」
「なっ、セシルっ!」
いきなり床に顔面から崩れ落ちたセシルを、竜也は棒を捨て、慌てて抱きとめた。