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後編

【第四章】

 螺旋階段の周囲に沿って空間障壁をくり抜き、俺たちは無事に階段の最下部までやって来た。

 そして、目の前にそびえる巨大な銀の扉の前へと来たのだが、

「びくともしないわね」

 案の定、扉はチルトの馬鹿力をもってしても開かなかった。

 周囲を見てもスイッチなどは見当たらず、岩壁が螺旋階段を中心に円筒形に真上へと続いているだけだった

「じゃあ、クウロ。ここも頼む」

 そう言ってシンが俺の肩を叩く。

 壊すのは気が引けたが、ここまで隠し扉や空間障壁を破っておいて今さらかと思い直し、俺は二人を下がらせるとハクセンを脇に構えてワードを放つ。

「閉紋:千里刃!」

 同時に人が通れるくらいの円を刻器で扉に描けば、それは大きな二つの半円となって扉の向こう側へと落ちて重い轟音を響かせた。

 扉に開いた穴の向こうには薄暗いながらも明かりがあり、洞窟のような空間が広がっている。左右には遠くに岩壁があり、その天井は見えないほどに高く、星のない夜空のように真っ黒だった。

「おお、なんでも切れるな」

「すっごーい!」

 感嘆の声を上げる二人を尻目に、俺はハクセンを握りしめながら心の中で叫んでいた。

(おお、やっぱり、これ、すげぇ気持ちいいな!)

 思い通りに断ち切れる心地よさと頭痛がしないという幸福感に、自然と顔がにやけそうになり、なんだか手当たり次第に切ってみたいという衝動に駆られる。

(もっと……、もっと切ってみたい!)

「ねえ、クウロ。あそこにいるの、人じゃない?」

 しかし、チルトの声に俺はハッと我に返ると頭を振って衝動を振り払い、彼女が指さすほうへと目を向けた。

 そこには大分離れた位置に光を放つ幾つものディスプレイがあり、それらは一つの大きなコンソールとして角張った影を形づくっていた。そして、そこから伸びた大小様々なケーブルをたどれば、さっきの扉と同じ銀色をした無機質なテーブルへと繋がっている。

 その銀のテーブルには人影が横たわっていて、

「あれって……」

 目を凝らしていたチルトが息を呑む。

「……ナル!?」

 そう友人の名を叫んだ次の瞬間には、チルトは既に駆け出していた。

「チーちゃん! ちょっと待って!」

 呼び止めようと伸ばしたシンの手は彼女の起こした風を撫でただけで、しかし、すぐに銅鑼のような音が響く。

「いったぁああい……」

 音のほうを見れば、すぐそこで呻きながら鼻を押さえてうずくまるチルトの姿があった。

「だから言ったのに……。何があるかわらかないんだから気をつけないと」

 そう言ってチルトの隣に立ったシンは、目の前の空間をドアでもノックするように拳で叩く。

 するとドンドンと何も見えない場所から音が響いた。

「透明な壁みたいだな。音からすると分厚い感じだが……」

 見えない壁越しに銀のテーブルへと視線を向けながら、シンは感想を口にした。

「もー、なんなのよー。クウロ、さっさとこれも切っちゃってよ」

 うずくまったまま涙目で言うチルトに、俺は思わず口元が歪みそうになるのを堪え、

「任せろ。さくさくっと終わらせてやる」

 そう言ってハクセンを片手で軽く一振りしてから、壁に向かって地面から真上へと縦一文字に剣線を走らせた。

「閉紋:千里刃!」

 そのまま四角形を描くように横へ、下へ、最後に地面に沿って刻器を振るう。

《始錠:閉紋→来相転移》

 刻器の声が俺のイメージを目の前に展開していく。

《構過:来相@事象範囲》

 見えない壁は四つの直線によって切断され、

《顕現:事象∽千里刃》

 そして、四角い穴が現実として刻まれる。

「よし、開いたぞ」

 手応えを感じて気持ちよく笑顔で振り返れば、その横を再び一陣の風が駆け抜けた。

 そして直後に大きな銅鑼の音が鳴る。

「いったぁあああい……!」

 チルトの声に振り向くと、今度はおでこを押さえて彼女が床に転がっていた。

「あれ?」

 呆然とする俺に、シンが横で空中をドンドンと叩きながら言ってくる。

「クウロ。切れてないみたいだが……」

「ちょっと、クウロ! ふざけてるの!?」

 チルトは起き上がると、拳を握りしめて俺を睨みつけた。

「いや……、確かに術は発動したんだが……」

 にじり寄るチルトに気圧され、俺の背が見えない壁に押しつけられる。

 すると、そんな俺の背後から声が聞こえてきた。

「なんだ? 騒がしいな。レリーズ・シードに何をしている?」

 それはレクトの声に似ていたが、口調がどこか変だった。

 壁の振動によって声を伝えているのか、背中が痺れるようにざわざわする。

 俺は壁から離れようと目の前のチルトをどけようとするが、しかし彼女はぴくりとも動こうとせず、俺の背後へと驚きで見開かれた瞳を向けていた。

 その視線を追って俺も振り向けば、コンソールの裏に立つ白衣を着たレクトの姿があった。

 彼女は幾つかのケーブルを持ったままこちらを見ている。

「……ナル?」

 チルトの口からつぶやくように疑問がこぼれ落ち、しかし白衣の彼女は遠くて聞こえなかったのか首をかしげ、銀のテーブルで横たわる人影へと目をやる。

 そして独り言のように、

「ナル……? ああ、この燃料のことか」

 そう言ってコンソールの前に移動すると、こちらを無視してコンソールをいじり始めた。

「燃料? あなた、ナルじゃないの?」

「私はB9。ここの維持管理をしている者だ」

 問い掛けるチルトに白衣の背中は振り向くことなく答える。

「え? だって……」

「おい。燃料ってどういうことだ?」

 チルトの言葉を遮ってシンが問い掛ける。

 その声に白衣の彼女――B9の手が止まった。

「……それよりも、おまえ達はなんだ?」

 そう言って振り向いたB9は俺たちを興味なさそうに一瞥すると、

「メインゲートから来たということは、どこぞのお偉いさんの関係者……」

 そこまで言って、俺たちの背後のくり抜かれた扉を見て黙り込んだ。

「……もしかして、おまえ達、関係者じゃないのか?」

 少し眉をひそめて、彼女は今さらな疑念を俺たちに向けた。

「えーと……」

 チルトが困り顔で俺を見る。

 俺は慌ててハクセンを後ろ手に隠すと、暗く高い天井を見上げて考えを巡らせる。

「いえ、関係者ですよ」

 そんな俺たちをよそに、シンは平然とそう言うと笑顔とともに軽く一礼した。

 そんな彼に俺とチルトは冷や汗を浮かべながらB9の様子を窺う。

 しかし彼女は表情を変えることなく、黙って俺たちを見ているだけだった。

 沈黙に固まりかけた空気を壊すように、シンが彼女の横にあるテーブルへ視線を向けてさらに話を続ける。

「我々は、そこで横になっている彼女の友人です」

「そうか」

 そう言って納得したように頷くB9に俺とチルトは少し安堵し、シンは胸を張って「そうです」と念を押すように言った。

 B9はもう一度深く頷き、そしてため息混じりにこう言った。

「やはり部外者か。幼稚な嘘をつくものだ」

 呆れたように首を振る彼女に、俺は「ですよね」と苦笑してハクセンを握る手に力を込めた。

 すると、隣のチルトがぽつりと言った。

「嘘じゃない」

 彼女を見れば俯いたまま拳を固く握りしめ、それは血の気を失うほどに白くなっている。

「嘘じゃないよ! ナルは私の友達だもん!」

 続けて吐き出すようにチルトは言う。

 しかし、その言葉とは裏腹に彼女の耳と尻尾はどこか元気なく垂れ下がっていた。

 B9は、そんなチルトの叫びにも動じることなく無表情に告げる。

「燃料用パペットに友人などいるわけがないだろう?」

 その言葉を俺たちはすぐに理解できず数秒の沈黙が流れ、

「あ、あんた、さっきから何、わけのわからないこと言ってるのよ? ナルを燃料とかパペットとか……」

 明らかな動揺を見せるチルトが、うわごとのように言葉を並べる。

 それに対してB9は一つため息をつくと、

「わけがわからないのは君たちのほうだ。とにかく、部外者なら放っておくこともできないな」

 そう言って右手を掲げるとパチンと指を鳴らした。

 すると、上から何か風を切る音が聞こえ始める。

 何かと思って見上げれば、そこには闇を埋め尽くすほどの無数の赤い点が不気味に光っていた。

「せっかくだから、君たちにも燃料になってもらおう」

 そしてB9は、もう用は無いとでも言うように俺たちに背を向けると、再びコンソールをいじり始めた。

       ◆

「ね、ネズミ!?」

 見上げて言ったチルトの第一声はそれだった。

 ライトを向ければ、大量のネズミが雨のように振ってくる。

 俺はハクセンを下段に構え、シンはチルトを抱えて扉の穴へと走り出す。

 目の前の見えない壁から扉までは走って数秒。

 しかしネズミの群れは上空をびっしりと埋め尽くし、赤い吊り天井のように落ちてくる。

「閉紋:千里刃!」

 俺は言葉とともに、押し寄せる赤黒い壁を切り払う剣線をイメージする。

《始錠:閉紋→来相転移》

 しかし術が発動する前に、赤の群れが俺のイメージをなぞるように二つに分かれる。

《構過:来相@事象範囲……例外発生×刻奏術停止》

「うそっ! 尻尾を噛んで引っ張ってる!?」

 ハクセンの言葉に続いて、シンに抱えられたままチルトが驚きの声を上げた。

 迫るネズミに目を凝らせば、尻尾で互いに繋がり網のようになっている。

 そして、みるみるうちに網の切れ目は端から繋がり消えていく。

「点の集合に線の攻撃じゃダメだ! 一旦こっちに来い!」

 シンの声に俺は二人の後を追おうと踵を返す。

 流れる視線の中、壁の向こうのB9は相変わらず背中を向けて作業をしている。

「クウロ! 急いで!」

「くそっ!」

 チルトの呼ぶ声に、俺は急いで二人のもとへと走った。

 上からは、風圧とともにチチチという鳴き声の重奏が滝のように落ちてくる。

 走りながらも思考を巡らせ、俺はハクセンの感触を確かめるように握り直した。

(こいつの剣線では面には不利。それなら……でも)

 さきの失敗が頭をよぎり、せっかく思い浮かんだイメージも不安に歪む。

 しかし、そのとき手にしたハクセンの表面を一瞬光が走り、霞みがかっていたイメージが切り裂かれるように霧散した。

 俺は明確なイメージとともに口の端をつり上げると、辿り着いた扉の穴に足をかける。

 そしてハクセンを水平線を見回すように後ろへと、ネズミの群れに向かって振り抜きワードを叫ぶ。

「閉紋:千里刃ッ!」

 目の前、横一直線に並んだネズミの網を視界に捉え、俺は端からなぞるように刻器を振るう。

《始錠:閉紋→来相転移》

 剣線がネズミの地平と完全に重なり、

《構過:来相@事象範囲》

 端から切断の未来が過去へと変わっていく。

《顕現:事象∽千里刃》

 そして導火線の火花のように、ネズミが血しぶきを上げていく。

「うわっ!?」

 為す術なく大量に降り注ぐ血の雨を浴びながら、俺は顔を腕でかばって地面を見る。

 そこには赤い光を失った小さな黒い塊が、まさに死屍累々の有様で一面を埋め尽くし、鉄の臭いをまき散らしていた。

「チーちゃん、大丈夫?」

 聞こえた声に後ろを見れば、どこから出したのかシンが大きな傘でチルトと相合い傘をしている。

「おい、おまえら……」

「ちょっと!? 血まみれでこっちに来ないでよ!」

 扉の穴を越えて二人へ近づこうした途端、チルトは慌ててシンの背後に隠れ、シンは傘を畳みながら、

「水も滴るいい男じゃないか」

 そう愉快そうに言った。

「まったく……」

 俺は自分の体を見直してため息をつくと、取り敢えず湿って重くなった後ろ髪を絞って軽くする。そして、B9のほうへと視線を戻した。

 目の前には血しぶきで描かれた赤い帯が浮かぶように横たわり、下へと無数の滴を垂らしている。

 しかし滴るそれが突然、一斉に動きを止めた。

「ん?」

 疑念に目を凝らせば、落ちかけた滴は透明な壁を這うように昇り始め、そして帯状の血とともに壁から浮かび上がる。

「何なの、あれ?」

 チルトが疑問を口にするが、その間も大量の血痕は次々と壁から離れていく。

「あの動き、まさか……」

 そうシンが驚きを口にした直後、宙に浮いた赤い液体が重力を思い出したかのように一斉に地面へ落ちた。

 塗料の入ったバケツをひっくり返したような音ともに、鉄の臭いが再び強くなる。

「何が起きた?」

 目の前の現実を理解できず、何も無くなった透明な壁を呆然と見つめていると、

「きゃっ!?」

「うわっ!?」

 今度は後ろから驚く声が聞こえ、俺の隣へシンとチルトがやって来る。

 何事かと思って後ろを向けば、扉から切り抜いた銀の半円が二つとも浮かび上がり、音も無く扉の穴へとはまる。そして、傷跡さえも消えていく。

「……時間が、巻き戻っているのか?」

 そうつぶやくように言ったのはシンだった。

「ほう。よく観察しているな」

 答えた声は俺でもチルトでもなく壁を通してのもので、B9は作業を続けながら世間話のように話し始める。

「君たちのいる空間にはレリーズ・シードという術がかけてあってな、現相炉による研究成果を応用したものだ。未来を過去へと確定させる閉紋の逆、過去を未来へと巻き戻す開紋レリーズによる現象の無効化だ。まあ、範囲が固定で常時発動できないことが課題だが……」

「開紋だと! そんなことをすれば過去の連鎖崩壊を招くぞ!」

 シンが青い顔をしてB9に叫んだ。

「シン、どういうこと?」

 チルトの疑問にシンはB9を見たまま答える。

「開紋は門から鍵を引き抜く行為だ。鍵を引き抜けば門は崩壊し、確定した過去は未確定の未来へと還元される。でも、門の連結構造体である過去の一部を破壊するということは、それに連なる過去をも壊しかねない」

 そこまで言ってシンは息を呑み、その頬を冷や汗が流れ落ちる。

「最悪、世界の根幹である過相軸にでも崩壊が到達したら世界が消える」

「うそ、そんな……」

 チルトが愕然とするが、そこでシンと俺は違和感を覚えて彼女を見た。

「……て、チーちゃん? 開紋は刻奏術の禁忌だって講義で習ったよね?」

「チルト……学園に来てるの、本当におまえか?」

 呆れ顔で言う俺達の視線に、チルトは慌てて否定を口にする。

「行ってるよ! 休まず講義受けてるよ! 皆勤賞だよ! 私は幽霊じゃないからっ! 七不思議とかじゃないから!」

 真っ赤な顔で必死に言う彼女に脱力しつつも、俺は気を取り直してB9へと視線を戻して訊いた。

「まあ、そんなことよりB9、禁忌に触れるような実験をしているなんて部外者に話してよかったのか?」

「おまえ達は燃料になる。まさか、この状況で帰れると思っていないだろう?」

 そう言うとB9はテーブルに横たわるレクトを一瞥し、白衣から出した携帯端末を操作し始める。

 すると、テーブルがゆっくりと浮かび上昇を始めた。

「ちょっと! ナルをどうするつもり!?」

 チルトの声にB9は浮かび上がるテーブルを眺めながら、

「どうするもなにも、これは燃料なのだから燃料として使うに決まっている」

 そう言って作業を続ける。

 テーブルはB9の背丈を越え、そこで俺は奥に何かあることに気がついた。

「何だ、あれは……?」

 壁だと思っていたそれは緩やかな曲面を描き上下左右に広がって、

「おい、クウロ……」

「おっきな……ボール?」

  その表面を滑るように、レクトを載せたテーブルが上昇していく。

「ナル! 待って!」

 チルトが走り、見えない壁に拳を叩きつけて叫ぶが状況は変わらない。

 テーブルは球体上部へと移動し、近くの表面に丸い開口部が現れる。

 直後、鼓動のような不気味な低音が響き始め、それは腹を空かせた巨大な獣の息遣いのように思えた。

「ナル! 起きてよ! ナルッ!!」

 チルトは必死に何度も何度も壁を叩いてはレクトの名を呼んだ。

 シンは球体を見つめたまま腕を組み、俺は奥歯を噛んでハクセンを強く握りしめる。

 さっきの血の帯を見る限り、目の前の障壁は左右の岩壁まで続いている。それに、下手な攻撃でこれ以上レリーズ・シードの効果を発動させるわけにはいかない。

 だが、目の前に助けるべき人がいて逃げることができないのなら、迷わず前に進むしかない。

(ここで諦めたら、しばらく頭痛にうなされそうだしな)

 隣では、チルトが拳を腫らしながらレクトの名を呼び続け、シンは懐から幾つもの符を取り出して思案している。

(俺も考えろ。今、自分にできることを)

 手にしたハクセンに力を込めるが刻器は何も応えない。

 そんな俺たちに、B9はコンソールを操作しながら言った。

「そうそう。希望は大事だ。絶望してしまっては燃料にもならないからな」

       ◆

 クウロ達の後方、銀色の巨大な扉の近くで男――ウェイス=レクトは光学迷彩の符を使って身を隠しながら成り行きを見守っていた。

(どういうことだ?)

 ナルの残したマーカーを追って廃校舎に来てみれば、そこには既に彼らがいて、ウェイスは仕方なく彼らの後を追うことにした。

 途中、ナルの報告にはなかった空間障壁があったが、それを彼らは刻器を使って突破し、今はB9と名乗る管理者と対峙している。

(……彼らは、一体何者だ?)

 ウェイスは、長髪の男が持つ白い剣のような刻器を見て考え込む。

 学園生の身で刻器を持ち、しかも術まで行使できる者がいるなど聞いたことがない。

 そして、その横で泣きそうになりながらナルの名を呼ぶ少女。

 フィッツ出身であることが一目でわかる猫耳とその尻尾を見て、ウェイスは自分の妻でありナルミの母親でもある女性のことを思い出していた。

 彼女は白狐の臓器付加で、ナルミには白髪と青い瞳しか受け継がれなかったが、そのことをウェイスは喜び、しかし母親は微笑みながらも瞳にはいつも心配の色を浮かべていた。

 娘がスフィアへ行くと言い出したときも、母親は行って欲しくないような顔をしながら、それでも何も言わなかった。

 村から出ればフィッツの娘というだけで偏見の目にさらされる。

 その現実と向き合い、それでも未来を自分の力で切り開いて欲しい。

 そんな願いを実力主義の刻奏士という職業に託し、ウェイスも母親も娘を見送った。

 しかし、娘が刻奏士となって再び二人の元に戻ることはなかった。

 元々寿命が短い傾向にある臓器付加である母親も、そのあとを追うようにこの世を去った。

 今、目の前でナルの名を呼ぶ少女が、ウェイスの目には娘を呼ぶ母の姿と重なって見える。

(……ハルミ……)

 胸を押さえて俯けば、手にした携帯端末にはナルからの情報が今もリアルタイムで流れてきている。

 ナルがこのまま現相炉の中へと入れば、さらに詳細な情報が手に入るだろう。

 しかし、ウェイスはB9が言った言葉を思い出す。

(……燃料……)

 ナルが最後の通信で言った「人体実験の決定的な証拠が手に入る」という言葉の意味を、ウェイスは今まさに球体へ呑み込まれようとしているナルを見ながら噛み締めた。

 恐らく娘に起きたであろうことが今、目の前で再現されようとしている。

(……ナルミ……)

 ナルが娘でないことはわかっている。それでもウェイスの脳裏には娘の名前が浮かんだ。

「ナルっ! 目を覚ましてよっ!」

 臓器付加の少女が叫んでいる。

 彼女は、なんであんなにナルの名前を必死に呼んでいるのだろう。

 ナルとは、どんな関係なのだろう。

 ナルミにも、彼女のような人はいただろうか。

 思考が渦巻きぼーっとし始めたウェイスの手の中で携帯端末が震える。

 彼は我に返ると、頭を振って再び端末へと視線を落とした。

 ナルが送り続けているこの情報があれば、恐らく事件の真相に大きく近づけるだろう。

 そうであれば確実にナルは犠牲になる。が……しかし、所詮はパペットだ。しかもB9が言うように現相炉の燃料用としてつくられた存在だというのなら……。

(そう。これは犠牲じゃなくて必要な代償だ)

 そう考えればいいと、このままで問題ないのだと、ウェイスは一つ息をついて自分に言い聞かせる。

 そのとき、ウェイスは画面の表示に見慣れない文字があることに気づいた。

《オトウサン》

 その言葉にウェイスは、ゆっくりと視線を現相炉の上部へ向けていく。

 そこには上空で佇むテーブルがあって、その後ろ、何も無い黒い球体の上には白い人影が浮かんでいた。

「……ナル、ミ?」

 思わず漏れたウェイスの声に茶髪の男とB9が視線を向ける。

 そのことに「しまった」と思いながらも、ウェイスは端末に向かって叫んだ。

「ナル! 情報はもういい! 今すぐ脱出しろっ!」

 それに対して最初に口を開いたのはB9だった。

 白衣の少女は、ウェイスのほうに視線だけを向けたままぽつりと言った。

「今日は燃料が多く届く日だな」

       ◆

「ねえ、あれって……」

 チルトが宙に浮かぶテーブルの背後を指さし、シンもそちらを見ながら口を開く。

「おいおい、今度は幽霊かよ」

 その白い影はレクトを乗せたテーブルをすり抜け、そのまま俺たちを見下ろした。

「まだ分解されていなかったのか」

 B9はそう言って白い影を一瞥すると、何事もなかったかのように作業を続ける。

 しかし、直後に男の呟くような声が聞こえ、その動きはピタリと止まった。

「ナルッ! くそっ! なんでこんな……!」

 振り返れば、空間から浮かび上がるようにミリタリーコートを着た男が現れる。

《皆さん、レリーズ・シードを解除しました。今のうちに逃げて》

 すると今度は女性の声が頭に響き、B9の言い捨てるような言葉がそれに続く。

「死に損ないが……。いつの間にシステムに介入した?」

 いきなりの展開に戸惑う俺たちをよそに、コート姿の男がレクトへ向かって走り出す。

 ぼさぼさの黒髪を揺らしながら、男は懐から一枚の符を取り出し、

「閉紋:トライスリープ!」

 ワードとともに姿を消した。

「逃げるぞ! ナル!」

 次に聞こえた声は遙か上空、レクトがいるテーブルから聞こえ、そちらを向くと男は既にテーブルの上でレクトの上半身を抱きかかえていた。

「え? うそっ、いつの間に!?」

 驚くチルトに構わず俺とシンは動き始める。

「クウロ! 退路を頼む!」

「了解! 二人は早くレクトの所へ!」

 チルトを脇に抱えて走り出すシンを横目に、俺は背後の扉へ振り向き叫ぶ。

「閉紋:千里刃ッ!!」

 見える限り最大に円を描き、さらに中を細かく縦横無尽に切り刻む。

「乱!切り!」

 そして結果を見ることなくシンの後を追って走り出す。

 背後から滝のような轟音と振動が押し寄せる中、目の前ではシンが暴れるチルトに顔をひっかかれ、上空を見ればコート姿の男がレクトの体を揺さぶって呼びかけている。

「おい、ナル! 目を覚ませ!」

「そいつらを取り押さえろ。ファントム」

 B9が、どこへともなく命令を告げた直後、コンソールの裏手や周囲の暗闇から幾つもの人影が蠢くように現れる。

 それは、どれも皮膚の一部がなく、筋肉や内臓までもが剥き出しになっていた。

「まったく、今度は動く人体模型かよ。今日は七不思議のオンパレードだな」

 二人に合流すると、シンはそう言ってため息をつきつつチルトを横に下ろした。

 ファントムと呼ばれた人体模型は、今までどこにいたのかと思うほどの数で壁のように群れをなし、俺たちを何重にも囲んで立ち止まると、何度かその場で足踏みをしてから一斉にこちらへ向かって突進してくる。

 俺は砂煙を上げて迫り来る人形の群れに対して、ハクセンを横一線になぎ払う。

「閉紋:千里刃!」

 しかし、直後に人体模型の壁が一斉に飛び上がった。

《始錠:閉紋→来相転移》

 それは見上げるほど高く上昇し、前から後ろへ波のように連動していく。

《構過:来相@事象範囲……例外発生×刻奏術停止》

 術の失敗をハクセンが告げる中、人体模型が全方位から俺たちの頭上へ津波のように降ってくる。

「ど、どうするのよ?」

 見上げながら言うチルトに、

「よし、チルト。あとは任せた」

 俺はチルトの肩を軽く叩いてそう返す。

「え?」

 俺を見る彼女に、シンも反対の肩に手を置いて、

「特に武器も無いようだし、人形の千体や二千体、チーちゃんの怪力なら大丈夫。それに俺、男に興味ないし……」

 そう言うと、俺とシンは息を合わせて別々の方向へと走り出した。

「え? えぇえええええええっ!」

 戸惑うチルトを置き去りに、俺は人体模型の波をくぐり抜けるように低姿勢で前へ出る。

 横目で友のほうを見れば、シンは茶髪を風になびかせながら一枚の符を手にしている。

 そして、その符に軽く口付けするとB9へと投げつけた。

 符は空中を真っ直ぐに飛びながら、一輪のバラへと姿を変える。

 飛んできた深紅の花を、B9は振り向くことなく人差し指と中指で挟んで捕らえ、

「攻撃のつもりか?」

 一瞥すると興味なさげに投げ捨てた。

「とんでもない。ただのプレゼントですよ! 閉紋:フォー・ユー!」

 B9へと走りながらシンがそう答えた直後、バラから赤い光が放たれ、それは幾つもの緋色のリボンとなって足下からB9の体を縛りつける。

「これは……」

 動けなくなった自分の体をB9は静かに見下ろし、そこへシンが到着する。

 彼は綺麗にラッピングされた人形のようなB9を見つめると、

「プレゼントは、あなた自身ですが」

 そう言って慇懃に一礼し、B9からコンソールのほうへと視線を移した。

 モニターや計器類を一通り見回し頷くと、シンは俺のほうへと自信ありげな笑みを浮かべる。

「システムの掌握はなんとかなりそうだ。ナルさんの救出は任せた!」

 俺は走りつつ友に頷き返すと、頭上に横並びで落ちてくる人体模型――ファントムを視界に捉え、ハクセンで横一文字に切断する。

「閉紋:千里刃!」

 ネズミとは違い、線で落ちる模型はうまくかわせず、イメージどおりに連続して真っ二つになっていく。

 しかし、ファントムだらけの状況は変わらない。

 巨大な球体上部では、レクトを抱えた男がテーブル上で別のファントムと対峙していた。

(どうやってあそこまで行けばいいんだ?)

 次々と迫るファントムを直線で結び上下に割断しながら、俺はレクトへ続く道を探して周囲を見回す。

「クウロ!」

 突然聞こえたチルトの声に振り向けば、顔の横を何か塊がかすめ、そのまま遠くでドスッと鈍い音がする。

「それ、足場に使って!」

 続けざまに言う彼女の指すほうを見れば、岩壁にファントムが頭から真っ直ぐ突き刺さっていた。

 垂直に壁から生えた人体模型は、しばらくするともがくように動き始めるが、胸までずっぽり埋まっていてなかなか抜けそうにない。

「まさか、これに乗れって言うのか!?」

「ほら、次っ!」

 問答無用で、次の足場が俺の頭上をかすめて壁に突き刺さる。

 さらにチルトは近くにいたファントムの足を掴んで振り回し、

「うっにゃにゃあぁああああああああああああああ!」

 咆哮とともに人体模型をマシンガンのごとく次から次へと射出する。

 階段状に見事に突き刺さっていく様子に感心しながら、行く手に立ちふさがるファントムを切り捨て即席の足場へ飛び上がれば、しっかり打ち込まれた硬い模型の体は抜け落ちることなく意外と安定感があった。

(手足をばたつかせていることを除けば、だが……)

 不気味な見た目は無視することにして、俺はそのままファントムの腹や背を次々と踏んで壁沿いに駆け上がる。

 打撃マシンと化したチルトはシンの近くまで移動し、シンは彼女に護衛されつつコンソールに自分の端末を繋いでシステムの掌握を進めている。

 それに対してB9は、リボンでラッピングされたまま暇そうにただ俺のほうへと顔を向けていた。

 その瞳に不気味なものを感じながらも、今はレクトの救出が先だと前を行く。

 この地下空洞全体は半円筒形で、弧を描いた壁が球体を包み込むようになっている。しかし、一番近い部分でも壁から球体へと飛び移るにはぎりぎりの距離だ。

 チルトは足場を球体上部までつくってくれているが、上部に行くほど今度は球体の曲面のせいで壁との距離は開いてしまう。

 どうしたものかと目的地であるレクトのテーブルを見たとき、俺は自分の目を疑った。

(レクトが二重に見える?)

 よく見れば、周囲の男もレクトを載せたテーブルも、さらにはレクトの近くに浮かぶ幽霊女でさえも、像が二重になって輪郭がぼやけたようになっている。

 しかし、チルトやシンのほうを見れば、そちらはぼやけることなく普段どおりに見えている。

 俺は走りながら、再び視線をレクトのほうへと向けた。

 ものが二重に見えるのは浮かんだテーブルの周囲、特に球体の開口部に近づくほどに輪郭はぼやけ、白い靄のようにはっきりものを捉えられなくなっていく。

 それは何か得体の知れないものが球体から漏れ出てレクトを呑み込もうとしているようで、俺は胸騒ぎを覚えて叫んだ。

「おい! レクト、早くそこから逃げろ!」

 しかしレクトの反応は無く、彼女を抱きしめる男も俯いたまま何も言わなかった。

       ◆

「ウェイス……様?」

 自分を抱き起こして見下ろす男の名を呼んで、レクトは彼へ手を伸ばそうとする。しかし、指先が少し動いただけで手が男に届くことはなかった。

 短く息をついて周囲に目を向ければ、白くぼやけた風景の中、男の目鼻立ちや輪郭さえも二重に見える。

 レクトは春の日差しを思わせる気怠い心地好さに身を委ねながらも、同時に背筋に張り付くような悪寒に戸惑いを覚えていた。

 青白い顔をしたウェイスは視線を下げ、手にした一枚の符を見て呆然と疑問を口にする。

「なんで……術が発動しない?」

 祈るように符を握りしめて、彼は再びワードを口にする。

「閉紋:トライスリープ!」

 直後、ウェイスの目の前で遠くの景色が近づいてくるように大きくなり、しかし、それは一瞬で元に戻る。そして、本来役目を終えれば消えるはずの符も消えることはなく、変わらず手の中にある符を見つめたままウェイスは黙り込んだ。

 そんな彼を見上げながら、レクトは目の前の状況を理解しようと記憶を呼び起こす。

 自分は現相炉の燃料になろうとしていて、その自分のそばにマスターがいる。そして、マスターは脱出用の符を使おうとして、術は発動しなくて、周囲は……、空気というか空間自体が何か変で……。

 そこまで考えて、レクトはウェイスの背後にうっすらと人影があることに気がついた。

 それは霧でできた陽炎のようで、そのシルエットは長い白髪を背中に流した少女に見えた。その顔に浮かぶ二つの青い瞳は、静かにウェイスへと向けられている。

(……あの、画像の女の子に、似てる……?)

 頭にふと浮かんだのは、マスターが携帯端末で時折眺めている一枚の画像のことだった。

 たまたまそれを見たレクトはその少女のことを訊いてみたが、何度尋ねてもウェイスはいつも話をはぐらかして決して教えてくれることはなかった。

「あなたは……誰?」

 レクトはかすれた声で少女に尋ねる。

「…………」

 しかし少女は何も言わず、少し悲しげな笑みを見せるだけだった。

 気がつけば、ウェイスも振り向いて少女を見ている。

 その顔には少女と同じ表情が浮かんでいて、レクトは見つめ合う二人を遠くに感じるような気がして、そっと目を閉じた。

(やっぱり、私には何も……)

 そう思ったとき、レクトの耳に聞き覚えのある声が届く。

「おい! レクト、早くそこから逃げろ!」

 そちらへ目を向ければ、揺れる長い黒髪が壁を駆け上がって近づいてくる。

 そして、それはレクトと同じ高さまで来た直後、幻であったかのようにこつ然と姿を消した。

       ◆

「さすがに、ここまでだな」

 壁を駆け上がるクウロのほうを見ながら、B9がぽつりと言った。

 それまで逃げようともせずリボンに巻かれていた彼女の声に、コンソールを操作していたシンは手を動かしつつ、

「お疲れですか? お嬢さん」

 そう言って優しい笑みを彼女に向ける。

「そうだな。さすがに全システムを内部に戻すと調整に時間がかかる」

 B9は素直に答え、それにシンは怪訝な表情を浮かべた。

 すると、どこからかシュルルルと紐をこするような音が聞こえ、シンは音の出所を探って耳を澄ませる。

 それはB9の足下からで、細いケーブルが一本、蛇のようにうねりながら彼女の手首へと、そこに開いた小さな穴へ吸い込まれていく。

「……まさか!?」

 シンが慌ててコンソールへ視線を戻した直後、すべてのモニターから光が消え、計器類が動きを止めた。

「これで作業を再開できる」

 B9はケーブルをしまい終わった手を一度握り、そしてワードとともに口を開く。

「閉紋:パスカル・ブリーズ!」

 声が響いた直後、B9の足下から風が巻き起こった。

 白衣ははためき、次の瞬間には鋭い上昇気流が彼女の体を包み込む。そして、体に巻き付いたリボンを一瞬で細切れにした。

 リボンの残骸は花びらのように宙に舞い、周囲へと散っていく。

「くっ! 風系の術か!?」

 突風に驚くシンを尻目に、B9は自由になった体を現相炉のほうへ向けて手をかざす。

 それを追ってシンが現相炉へと目を向ければ、重い爆発音とともに生まれた爆煙から、撃ち落とされた鴉のように長い黒髪をなびかせクウロが力なく落ちていった。

       ◆

 俺は風の中にいた。

 目の前には、さっきまで足場だった人体模型がいて、頭を失い内蔵をぐらつかせている。

(何が起きた?)

 バラバラと手足や内臓をまき散らし始めた人形を見ながら、俺は記憶を巻き戻す。

 壁を駆け上がってレクトに呼びかけた直後、俺は巨大な鈍器で殴られたかのような衝撃を全身に受け、そして気がつけば今の状態になっていた。

 短い回想を終えて意識を現実に戻せば、既に模型は胴体だけで、人形の後ろにある風景は上下逆さまに流れていく。

(……落ちてるのか?)

 周囲を見回し足下を見れば、銀色のテーブルは遠くにあった。

「クウロ!」

 急速に戻ってきた現実感を加速させるように、チルトの声が俺を呼ぶ。

 声を追って見上げるように顔を向ければ、彼女はファントムの群れを蹴散らしながら俺のほうへと地面を走り、そこで俺は自分に向けられたもう一つの視線に気がついた。

 それは俺へと片手をかざしたままたたずむ白衣姿で、

(B9。あいつ、拘束されてたはずじゃ……)

 B9の周囲へ視線を向ければ、地面には細切れになったリボンの残骸と何かに押さえつけられているかのように地面に這いつくばるシンの姿がある。

「シン!」

 俺の呼びかけに、シンは大丈夫だと言うように顔を上げ親指を立ててみせる。

 しかし、そんなシンへB9は俺を見たまま手だけを彼へかざし、直後、シンの頭が巨大な手で押さえつけられたかのように地面へと叩きつけられ、同時に親指を立てていた腕からも力が抜ける。

「おいッ!? シン!」

 しかしシンの反応は無い。

 地面が目前に迫る中、

「B9ッ!」

 叫ぶ俺の真下、落下地点にチルトの体が滑り込む。

 俺は彼女へと手を伸ばし、チルトは押し寄せるファントムを軽く跳躍してかわすと、さらに集まる人形の群れを踏み台にしてさらに上へ跳ぶ。

「クウロッ!」

 呼び声とともに彼女は俺の手を掴み、しなやかな体を軸にして回転を始めた。

「いっけぇええええ!」

 引き延ばされた腕が軋みをあげ、落下の勢いは遠心力へと変換される。

 そして、その力は俺の体を弾丸のごとく解き放つ。

「クウロケットォオオオオオッ!!」

 チルトの叫びに乗って俺はB9へと発射された。

 B9までは走れば十秒という距離。しかし、この速度なら数秒で到達する。

 ハクセンを下段に構える俺の腕に、B9の品定めをするかのような落ち着いた視線が絡みつき、俺は抗うように腕へと力を込めて、その切っ先をB9へ向ける。

 しかし彼女は、すぐに視線を俺ではなく現相炉の上部へ向けた。

(俺に興味はないってことか?)

 苛立つ自分を珍しく思いながら、俺は視線を現相炉からB9へと戻し、そこで自分の愚かさに気がついた。

 B9の細い腕から伸びた小さな手のひらが、俺のほうを向いている。そして、そこから伸びる五本の細い指が、撫でるようにゆっくりと振り下ろされ、やばいと直感が告げる中、俺は再び巨大な何かで地面へと叩きつけられた。

       ◆

「うぅ、ぐっ……」

 象にでも踏まれているかのように全身が悲鳴を上げ、肺の空気が抜けていく。

「刻器を持っているからマスタークラスかと思ったが……」

 近くで見下ろすB9の口から漏れる独り言は、やけに鮮明で同時に耳の奥に痛みが走る。

 視界には気を失っているシンの姿があり、その体は微かに痙攣しているように見えた。

「シン! クウロ! しっかりして!」

 チルトの呼ぶ声がガチャガチャというファントム達の動く音の波に呑み込まれ、徐々に遠ざかっていく。

「おまえ達はそこでおとなしくしていろ。作業の邪魔だ」

 そうB9が言うと腹の底を揺らすような破裂音が響き、それに混じってチルトの短い苦悶の声が確かに聞こえ、しかし、それはすぐに地面を叩きつける雨音にも似た大量の人体模型が崩れる音に掻き消された。

 俺は地面をこするように頭を動かし、人形の残骸が散らばる地面へと目を向ける。

 巨大なおもちゃ箱をひっくり返したような惨状の中、チルトの獣耳と尻尾はすぐに見つかったが、ボロボロの衣服をかろうじて身にまとったその体は、人形と同様に動くことはなかった。

「さて……」

 ため息とともに何事もなかったかのようにB9は小さくつぶやき、俺は全身の自由を奪われたまま奥歯を噛み締めることしかできない。

(やる気のない刻奏士見習いが刻器を手にしたところで、たかが知れているということか)

 そんな自嘲めいた考えが頭をよぎり、俺はハクセンから手を離そうとして、

「動くな」

 しかし、その手はB9に容赦なく踏みつけられた。

 思わず漏れたうめき声は全身を押し潰すような力にかすれ、四肢は痺れたように重い。

「おまえ達は、アレのようにそのままでは使えないからな」

 本当に使えないなと思いながら、俺はそれでもアレという言葉が気になってB9へと視線を向ける。

 B9の腕は上空――レクトがいるテーブルのほうへと向けられ、そこには相変わらず焦点の合わないぶれた空間と、その中に二つの人影があった。

 テーブルへと向けられたB9の手のひらはドアノブを回すように動き、それに合わせてレクトと男を乗せたテーブルも球体の開口部側へと傾いていく。

 傾きが大きくなるにつれてレクトは足から滑り落ちそうになり、男はそれを捕まえ引き上げようとするが、その間も傾斜はきつくなり、テーブル自体も開口部の真上へと移動していく。

 そして傾斜がついに垂直になった瞬間、レクトの体がガクンと開口部へ落下した。

「ダメだっ!!」

 男は叫び、すんでのところでテーブルの端に片手をかけたまま、もう一方の手でレクトの腕を掴む。

 宙に浮いた銀の板にぶら下がって、レクトの白い髪と男のコートが風に揺れた。

「誰だか知らないが、おまえも邪魔だ」

 そう言うとB9はワードを放つ。

「閉紋:パスカル・ブリーズ!」

 次の瞬間、小さな竜巻がテーブルごと男を包み込んだ。

 竜巻は男を振り回し、レクトの体が振り子のように大きく揺れる。

「ナル!」

「ウェイス様!」

 二人は互いに呼び合い、しかし、それを断ち切るようにB9は淡々と告げる。

「おまえは自分の役割を果たせ」

 B9が広げたままの手のひらを、握りつぶすように閉じていく。

 その動きに合わせて竜巻は細くなり、鋭い風切り音が聞こえ始めた。

「ぐっ、ぐぁああああああああッ!」

 男が叫び声を上げ、竜巻からコートの切れ端とともに赤い色がまき散らされる。

 そして雨のように降り注いだ鮮血は、レクトの白髪を深紅に染めていく。

「……いやああああああああああッ!!」

 レクトの悲鳴に、しかし動く者はもはや誰もいなかった。

 B9が拳を開けば役目を終えた竜巻は霧散し、中から引き裂かれたコートでテーブルに縛りつけられた男が姿を現す。

 そして、力を失った男の手からレクトがこぼれ落ちていく。

 男へ手を伸ばしたままレクトは球体へと呑み込まれ、そのあとを追うように白い幽霊も姿を消した。

       ◆

「……ナル……」

 磔にされた男の口から漏れた言葉は、閉じた現相炉の開口部に阻まれ届くことはなかった。

 何も掴んでいない自分の手を見下ろしながら、男はそれが何かわからないように呆然と見つめている。

 血の気の失せた指先は震え、蒼白な肌に刻まれた無数の傷から滲み出た血は、重力に引かれて彼の腕を染めていく。

「ああ……あぁ、あああ……」

 鼓動に合わせて流れる血とともに、言葉にならない声が荒い息とともに押し出され、

「そ、んな……、嘘、だ。俺……は、また……、そんな……」

 ようやく出てきた言葉も途切れ途切れで、大きく見開かれた目は何かを求め彷徨う。

 視線は無数の散らばる人形と倒れ伏す三人の男女を捉え、そして下から見上げる視線とぶつかった。

 その視線を向ける白髪の女に、男は安堵の表情を浮かべ、

「……ナル……」

 そう呼ぶが、白衣を着た女――B9は肯定も否定もせずにただ告げる。

「アレは生体燃料としての役割を果たした。悲しむことはない」

「…………」

 思考が停止したかのように男から一切の表情が消え、そんな男へ彼女は続ける。

「むしろ、その存在意義をまっとうしたのだ」

「……やめろ」

 地の底を這うような声で男が否定を口にする。

 しかし、B9は続けた。

「むしろ喜ぶべきこと……」

「やめろッ!やめろッ!やめろッ!」

 頭を激しく降り、四肢を激しくばたつかせて男が叫ぶ。

 わめき暴れる男を見つめたまま、B9は独り言のように言った。

「所詮、人はただ生きるのみか」

 すると急に男の動きが止まり、緩んだ拘束にかろうじてぶら下がった状態で、男は両腕を垂らして黙り込む。

 沈黙が二人の間に流れ、その背後では巨大な球体が、変わらず鼓動のような低音を響かせ自らの存在を主張していた。

「さて、片付けを始めるとしようか」

 男から視線を外し、B9は周囲を見ると近くにいた茶髪へと体の向きを変える。

「ふっ、ふははは……」

 しかし、突如響いた笑い声にB9は怪訝な顔で視線だけを男に向けた。

 男は血まみれの手で顔を押さえ、歪んだ口を半開きにしたまま肩を震わせている。

「いい加減、終わりにして欲しいのだが……」

 肩を落として言うB9に、

「は、ははは、はははははははははははははははははははははっ!」

 男は俯いたまま狂ったように笑い声を吐き出し、

「そうだな。もう終わりにしよう」

 一転、落ち着き払った声で彼女に答えた。

 その手にはどこから出したのか鍵のような歪な形状をした刃があり、男は躊躇なくそれを自分の胸、心臓の位置へと突き立てた。

「ただ生まれ、そして、ただ死ぬか」

 男の行動に眉一つ動かさずそう言ったB9の視線の先で、銀色の刃は音もなく男の胸へと飲み込まれるように消えていく。

 そして男は刃の消えた胸に手を当てたまま、

「いや、ただでは死なんさ」

 そう言って口の端を楽しげにつり上げた。

       ◆

 得体の知れない力に押さえ付けられていた俺は、息苦しさにぐるぐると回り始めた視界の片隅で、壊れたような男の笑い声を聞いていた。

 頭の中で反響した声は幾重にも思考を覆い、視界の中央では白衣が踊るように歪んでいる。

 そして意識が重くまどろみに落ちていく中、笑い声がピタリと消える。

 直後、ガラスの軋むような音が耳を突き刺し、その鋭い痛みに目を見開いた直後、背筋を切るような冷たい悪寒が全身を支配した。

 すくむ体の中で目だけが本能的に危険を捉えようと動き、それは上空の一点で止まる。

 そこにはテーブルに磔にされた男がいて、やけに研ぎ澄まされた視界の中で男の口が微かに動いたのが見えた。

 それは歪な笑みとなって男の顔に張り付き、そのまま男が動かなくなると、男を中心に見えない何かが急速に広がっていく。

「これは……、零爆!?」

 B9の驚く声も一瞬で掻き消して、それは声なき断末魔のように空間全体を満たし震わせ、すべての存在を根底から揺さぶった。

 目の前でB9が糸の切れた人形のように崩れ落ち、同時に周囲に散らばった人形の残骸が蜃気楼のように消えていく。

 俺を地面に押さえつけていた力も消失し、急速に体と頭が覚醒していくが、同時に総毛立つほどの恐怖に襲われた俺は、心臓を掴まれたように息をすることもままならない。

 痛いほどの寒気に体は芯から震え、周囲の空間ごと自分が分解されるような錯覚に襲われる。

 自分という存在があやふやになりそうで、

「ハクセン!」

 と思わず俺は、すがりつくように刻器の名を叫んだ。

 するとハクセンの硬い感触を中心に、自分の感覚が再び明確になっていく。

(俺は……クウロ=ルワーノ)

 言い聞かせるように俺は自分の名を思い浮かべ、四肢の感触を確かめながら刻器を支えに立ち上がる。

 周囲を見ればチルトとシンは倒れたままで、しかし、蜃気楼のようにどこか存在が希薄に感じられた。

(早く二人を……)

 そう思って走り出そうとすれば足下がふらつき、俺は刻器を地面に突き立てなんとか耐えるが、それでも足下の揺れは大きくなる。

 壁や天井からは砂や石が崩れ落ち、そこで俺は洞窟全体が揺れているのだと気がついた。

 ふと男を見るが、彼は凍ったように表情一つ変わっていない。

 ただの地震かと思った直後、現相炉が自己主張するかのように一際大きな鼓動を響かせた。

 レクトを呑み込んだ巨大な球体は一瞬膨らんだように震えると、上部にある開口部を閉じていた蓋を勢いよく吹き飛ばす。

 そして再び開いた口から、透明な陽炎にも似た何かが勢いよく溢れだした。


【最終章】

 蒸気のように現相炉の開口部から溢れ出た何かは高く吹き上がり、天井へぶつかると四方八方へと巨人の手のように広がった。

 その表面は薄い霧のようで向こう側が透けて見えるが、奥にあるそれは歪み、幻のように景色を次々と変えていく。

 まるで夢のように曖昧な色を内包したそれは天井に沿って広がりながら、揺らめく表面からカメレオンの舌のように幾筋も垂れ落ち、その中の一つが地面に横たわるチルトへ向かって伸びていく。

「くそっ!」

 俺は突き立てていたハクセンを地面から引き抜き、未だ全身を覆うおぼろげな感覚を振り払うように走り出した。

「チルト!」

 彼女の頭上、数秒で接触する位置までそれは迫り、俺の声にもチルトは目を覚まさない。

 あれに触れたらどうなるのか。

 俺の脳裏に現相炉へと消えたレクトの姿が蘇り、俺は走りながら男がいた場所へと何気なく視線を向けた。

「――――!?」

 そこに居た男は磔にされたテーブルごと現相炉から溢れたものに呑み込まれ、まるでそれと同化するかのように体は透けて幽霊のようになっていた。

 男は周囲と同じように次第に歪み、急速に影が薄くなっていく。そして大きく歪んだかと思うと、シャボン玉が弾けるように輪郭を完全に失った。

 中身を失ったコートや衣服は波間を漂うように揺れていたが、それも形を失い消えていく。

「…………」

 目の前で起きたことに思考が追いつかないが、その間も空間を侵食するように広がるそれは、チルトへとなお落ち続けていく。

 チルトまでは数歩の距離で、俺は左下段に構えたハクセンを強く握り直し、言葉一閃右上方へ切り上げた。

「閉紋:千里刃!」

 剣線はチルトの上を覆うように横切り、そのまま弧を描いて流れていく。

 一周して完成した円は、俺とチルトだけでなくシンやB9さえも覆う大きな面となる。

《始錠:閉紋→来相転移》

 切断の未来が過去へと変わり、

《構過:来相@事象範囲》

 落下という事象はすべて切断される。

《顕現:事象∽千里刃》

 落ちてきたそれは、俺たちの頭上すれすれで垂直から水平へと落下方向を変え、安全を確認した俺はすぐさまチルトのそばに行って肩を揺する。

「チルト! 目を覚ませ!」

「……ん、んー? だ、だめだよぉ……」

 目を閉じたまま彼女の猫耳がいやいやと左右に揺れる。

 俺は耳の先端をつまんで引っ張り上げ、

「起きろ! チルト! ダメじゃない!」

 そう怒鳴ったが、チルトは眉間に皺を寄せただけで、獣耳を激しく動かして俺の指を振りほどくと、すぐさま耳をピタッと閉じて体を丸める。

「……そ、そこはだめだってばぁ……」

 そして、やけに艶めかしい声で寝言を続けた。

「……しかたない」

 俺は咳払いを一つすると彼女のお尻……、ではなく腰の少し下から生えている茶トラ柄の尻尾へと手を伸ばす。

 彼女の呼吸に合わせて左右に小さく動く尻尾の先端に狙いをつけると、俺は思い切って両手でそれを捕まえた。

「うにゃ!?」

 チルトが驚きの声を上げて背筋がピンと伸びるが、俺は間髪入れず片手で先端を握りしめたまま、もう一方の手を一気に根元へと滑らせる。

 みるみるうちに逆撫でた尻尾だけでなく彼女の全身の毛という毛が逆立ち、肌は瞬く間に鳥肌へと変わっていく。

 そして彼女の目が勢いよく大きく見開かれ、その視線はピンと一直線に伸びた尻尾を辿って俺の顔へ、そして再び尻尾をたどって自分のお尻へと向けられる。

 チルトの顔は一瞬で耳まで赤くなり、俯くとわなわなと肩を震わせながらおもむろに拳を握りしめた。

 全身から吹き出る冷や汗を自覚しながら、俺は取り敢えず彼女に話しかける。

「ほら、今は緊急事態で、チルトを起こすにはこれしかなかったというか、だから、まずは、そう! 話し合おう! な?」

「うぅ、うにゃあああああああああああ!」

 問答無用でチルトは叫ぶと、牙のごとく研ぎ澄まされた拳を俺の鳩尾に叩き込んだ。

「どこ触ってんのよ! この変態ッ!」

 息を荒げて罵る彼女の言葉を、俺は吹き飛びながら遠くに聞いていた。

       ◆

「ぐえっ!」

 チルトに吹き飛ばされて地面に落ちた瞬間に聞いたのは、そんな潰れたカエルの鳴き声にも似たシンの声だった。

 とっさにチルトの拳をハクセンで受けたものの、すさまじい衝撃にハクセンを握る手が痺れている。

 上半身を起こせば、俺の下でうつぶせになったシンが苦しげに呻きながら、腕を伸ばして手のひらで何かを揉むような仕草をしつつ、

「お嬢さん……、ここは、俺に任せて早く逃げ……」

 と、何やら意味不明な言葉を漏らしている。

 シンから退いて周囲を見れば、遠くではチルトが俺を睨みながらまだ何やらわめいていて、彼女から視線を外して近くを見れば、大型コンソールの近くには倒れたままのB9がいた。

 まったく動く気配のない彼女に近づこうとすると突然足首を掴まれ、その手は足首から上へと、ズボン越しに俺のふくらはぎを撫で回し始める。

「うーん、俺はパンツルックもいいけど、ミニスカニーソのほうが……」

 背筋を走る悪寒に俺は足を振り上げ手を払うと、そのままそいつの後頭部を踏みつけた。

「ぐふっ!」

 顔面を地面にめり込ませて静かになったシンを見下ろしながら、俺は額に浮かんだ嫌な汗を拭って一息つくと、足をさらに押し込みながらこう言った。

「おい、シン。さっさと起きろ」

       ◆

「で、これはどういうことだ?」

 シンが赤くなった額を抑えながら周囲を見回し訊いてくる。

 頭上は蠢く虹色の雲にも似たもので一面覆われ、俺が放った切断の力によってガラス一枚隔てたように下の空間は無事だった。しかし、それも洞窟全体を覆うほどではない。

「ナルはどこ? これは一体、何?」

 続いて、駆け寄ってきたチルトも周りを気にしながら同じように訊いてくる。

 俺はチルトが口にした名前に、靄の奥で影のように透ける球体を見上げながら現実を口にした。

「レクトは……、あの中だ」

「あの中って……」

 俺の視線を追って、チルトもレクトを呑み込んだ現相炉を見上げる。そして、尻尾をぎゅっと抱きしめると黙り込んだ。

 球体からは相変わらず鼓動のような震動が一定のリズムで響き、洞窟全体にその存在を示している。

「助けないとな」

 重い空気を破るようにそう言ったのはシンだった。

「何か策でもあるのか?」

 頭上を漂う不気味な靄を気にしつつ俺はそう聞き返し、チルトは黙って彼を見つめる。

 二人の視線にシンは目を閉じて腕を組むと、

「わからん」

 そう短く即答した。

「あんたねぇ!」

 爪を立てて詰め寄るチルトに、シンは慌てて視線をさ迷わせながらも必死に考え、

「あ、でも、はっきりしてることが一つだけある」

 何かを思いついたように人差し指を立てるとチルトの肩に手を置いた。

「な、何よ?」

 訝しげに聞き返すチルトに、シンは地面で倒れたままのB9、それから現相炉へと視線を向けて、

「俺は、どんな女性でも見捨てることはできない!」

 胸を張って力強くそう言った。

「まったく、おまえってやつは……」

 俺は苦笑を浮かべ、チルトは肩を落として大きくため息をつく。

 それでもシンは「だろ?」と自信に満ちた笑顔を俺たちに向け、そんなシンに俺とチルトも「そうだな」「そうだね」と答えると、互いに顔を見合わせ頷き合った。

 すると突然、俺の懐から携帯端末の呼び出し音が聞こえてきた。

       ◆

「師匠?」

 俺は端末に表示された名前を不審に思いながらも通信を繋いだ。

《どうだ? 刻器の具合は》

 開口一番に言われたそんなたわいのない言葉に、俺は苛立ちを覚えつつ手にした白い刻器を見る。

「どうだと言われても、普通に使えてますけど……」

《……普通か。そうか……》

 そう言って、師匠は何か考えるように黙り込む。

「それより師匠。今は、それどころじゃないんですよ!」

 俺は周囲を気にしながら焦りを隠さず言った。

 ハクセンによる円の効果範囲の外へと得体の知れない靄は溢れ始め、それは周囲から迫るように再び俺たちへと近づきつつある。

《ああ、そうか。おまえ、今困ってたんだったな》

 すっかり忘れていた様子で師匠は言うと、さらに続けてこう訊いてきた。

《で、現相炉は無事なのか?》

「だから、その現相炉から何か漏れ出して大変なんですよ!」

 と、そこで俺は引っかかるものを感じて師匠の言葉を思い返す。

「……師匠、今、現相炉って言いました?」

《言ったのはおまえだろ?》

 とぼけた調子で師匠は答える。

「な・ん・で、現相炉のこと知ってるんですか!?」

 問いただす俺に師匠は呆れた様子で、

《わしのことを誰だと思っとる。それに、今訊きたいことはそれじゃないだろ?》

 そう冷静に聞き返してきた。

 俺は問い詰めたい気持ちをぐっと堪えて、仕方なく話を戻すことにする。

「そうですね。じゃあ、現相炉ってなんなんですか?」

《今度は、いきなり核心か。せっかちな奴だな》

 苦笑交じりに言ってくる師匠に、俺は沈黙で先を促した。

《……現相炉は現相を分解する装置らしい》

「現相を分解……」

 俺はそれを聞いてB9の言葉を思い出す。

 現相炉の研究成果、その応用である開紋を使用した術。

「連鎖崩壊の危険を冒してまで、何のために……」

《それは、人工的な来相をつくり出すためみたいだな》

「来相って、あの来相をですか?」

《ほかにどの来相がある?》

「でも来相なんて無限にあるし、それに認識できないんじゃ……」

 俺は頭上で渦巻く七色の暗雲を見上げて言った。

 未来という確定前の事象は理解できても認識することはできない。

《視認できるなら、分解した可変素子のすべてが量子状態になっていないということだろう。人間の魂すなわち精零スフィアは構造上、そう簡単には可変素子へは分解できんからな》

「それは……」

 つまり現相状態の可変素子が残っているということで、

《だが、それでも可変素子が通常の密度を超えて存在している以上、精震に対する世界の過剰反応――来相汚染は避けられないだろう》

 師匠の言葉に、俺は偽りの可能性を吐き出す現相炉と、そこに捕らわれたレクトへ想いを馳せる。

 しかし、そこに磔のまま泡のように消えた男の姿が重なり、俺はかぶりを振ってその想像を否定した。

(いや、まだ間に合うはずだ)

「ねえ、クウロ!」

 現相炉を見上げて歯噛みする俺にチルトが呼びかける。

 彼女を見れば顔面蒼白で、その視線は大型コンソールの裏、津波のように押し寄せる来相へと向けられていた。

「クウロ、チーちゃん、急いで逃げて!」

 そう言うシンの声は既に遠くで、その腕にはいつの間に抱えたのか、B9がお姫様だっこされている。

「ちょっと、シン!?」

 チルトは唖然とするが迫る来相に慌てて走り出し、俺も師匠と話を続けながらその後を追う。

「師匠! 現相炉に入れられた人間を助ける方法を教えてください!」

《肉体が分解されていなければ可能だが、少しでも分解が始まっていれば不可能だ》

「俺は助ける方法を聞いてるんです!」

《一度に大量の来相にさらされれば人間は数分で崩壊を始める。連鎖崩壊が始まってからでは現相炉から出しても助からん》

「でも……」

 レクトが現相炉に落ちてから、少なくとも五分は経過してしまっている。

 その現実に諦めのイメージが頭をよぎり、すぐに不断症の頭痛と目眩がやってくる。

 しかし、そんな症状さえも今の俺にはありがたい。

 前を行くチルトとシン。俺はレクトに対して二人のような思い入れはないが……。

(ここで諦めるのは便利屋の俺らしくないよな)

 自嘲めいた思いとともに速度を上げて、二人との距離を詰めていく。

 すると、師匠が俺に言った。

《器があれば、精零だけでもサルベージすることは可能かもしれんが……》

 二人に並びながら、俺はその可能性を噛み締めるように口にする。

「……器があれば、助けられるんですね?」

《あればって……。おまえ、器がなんだかわかってるのか?》

「何なんですか?」

 急く気持ちのまま師匠に訊けば、

《生きた人間の体だ》

 淡々とした冷水のようなその言葉に、俺の足取りが重くなった。そして、二人との距離が再び離れていく。

「クウロ、どうした?」

 すぐに気づいたシンが足を止め、チルトとともに戻ってくる。

「…………」

 俺はそんな二人を黙って見つめ、その視線をシンに抱えられたB9へと向ける。

「ねぇ、クウロ?」

 チルトの声に、しかし俺は彼女ではなく隣にいるシンのほうを向いて口を開いた。

「レクトを助けるには……器が、必要だ」

「器って?」

 チルトが横で首をかしげるが、シンの眼差しは真っ直ぐで、その視線から逃れるように俯けば、そこにはレクトとよく似た顔がある。

 それは静かに目を閉じて、力なく四肢をぶら下げている。

「彼女がどうかしたのか?」

「彼女は……生きて、いるのか?」

 俺の口から出たのは、そんな言葉だった。

「わからない。彼女はパペットだからな。ただ機能を停止しただけかもしれない」

 B9を抱えたまま、シンは器用に彼女の腕をとって手首を見せる。

 白衣の長袖からのぞく肌は色白で、しかし、そこにある小さな丸い凹みを押し込むとコードの端部が飛び出すように顔を出した。

 開いた黒い穴の奥は空洞になっていて、B9の中身を思わせる。

 パペットは生体人形で、その魂は疑似精零によってできている。

(偽りの未来に偽りの魂か)

 俺は靄がかった現相炉を見上げながら、この擬似的な未来を内包した黒い球体も一つの擬似精零なのかもしれないと思った。

「おそらく疑似精零が自閉モードに入っているだけだと思うが」

 シンの言葉をどこか遠くで聞きながら、俺は直感的にうまくいくような気がして思わず言葉を漏らす。

「レクトを、助けられるかもしれない」

「本当に!?」

 チルトがすぐに俺の腕を掴んで見上げてくる。

 俺はその勢いに気圧されながら、自分が言った言葉の意味にハッとして戸惑った。

 擬似精零は人間がつくったと言うだけで、人間と同じように自我も感情も持っている。

「ああ……しかし、それには……」

 視線を逸らして口籠もると、俺の腕を掴むチルトの手に力が籠もる。

 彼女のすがりつくような視線を感じるが、言葉が喉につかえて出てこない。

 そんな俺にB9をそっと地面に横たえながら、シンが俺を見上げて言う。

「ジルさんと話をさせてくれ」

 その声色は静かで、俺に向けられた瞳は大丈夫だと言うように揺らがない。

 俺は友に頷くと、まだ通信が生きていることを確認して端末を手渡した。

 シンは端末越しに軽く挨拶を済ませ、師匠とレクトの救出方法について話し始める。

 その口調は淡々としていて無駄がなく、いつもの浮ついた雰囲気はみじんもない。

 周囲から来相の波が迫る中、俺とチルトはそんなシンの様子を黙って見ていた。

 シンは時折難しい顔をしながらも師匠の話に頷き、一つ一つ確認しながら視線を現相炉からB9へ、そして再び俺へと向ける。

「はい、わかりました。やってみます」

 そして師匠に礼を言うと、シンは俺に端末を返し立ち上がり、

「レクトを助けよう」

 力強くそう言って俺とチルトを見た。

 チルトは「うん!」と拳を握り大きく頷き、俺は……それでも言葉が出なかった。

 パペットであっても、その意志を一方的に断っていいはずがない。

「まあ、あれだ……、女性の扱いは俺に任せろ」

 俯く俺の肩を叩いてシンは笑顔を浮かべ、すぐに表情を引き締めると、

「俺は白衣のお嬢さんを連れて、あそこへ行く」

 そう言って現相炉の下を指さした。

 来相の波に呑み込まれて溶けたように変形した大型コンソールの奥、現相炉のそばに人一人が入れるくらいの縦長の白いカプセル状のタンクがおぼろげに見える。

「だからクウロ、頼みがある。おまえの力であそこまでの道を確保してくれ」

「……わかった」

 俺は手にしたハクセンを握りしめ、絞り出すようにそう答えた。

 今の俺に、友の意志まで断るようなことはできない。

「もしこの状況が地上まで拡大したら、俺たちが青春を謳歌するはずの学園まで混沌に呑まれかねないからな。しっかり頼むぜ、相棒!」

 そう言うとシンは俺の背中を強く叩き、俺は思わずのけ反りながらもハクセンを一振りして気持ちを切り替える。

「ああ。おまえの道は俺が切り開いてやる」

「ねえねえ! 私にできることはないの?」

 俺たちの間に割り込むようにして、チルトが構って欲しい子猫のようにシンと俺を見上げて言ってくる。

 そんな彼女に、シンはズボンのポケットから符の分厚い束を取り出すと、

「チーちゃんは、こいつでクウロのサポートを頼む」

 そう言ってチルトに束を握らせる。

「これは小さな突風を起こす符で、あの来相の波が近くに来たら、取り敢えずこの符で相転移させてやれば時間稼ぎにはなるはずだ。それから、これもあげる」

 今度は懐から小さな鈴の着いた赤いリボンを取り出し、手のひらに載せてチルトに見せる。

「これって、チョーカー?」

「お守りだよ。くれぐれも無茶はしないでね?」

 まじまじと見るチルトの頭を、シンはぽんぽんと軽く叩いて言った。

「わ、わかってるわよ!」

 ひったくるようにチョーカーを受け取って、チルトは優しい眼差しを向けるシンから顔を背けると仕方なさそうにそれを首に巻いた。

 シンはそれを確かめると満足そうに頷き、しゃがんでB9を背負うと立ち上がる。

「じゃあ、行こうか」

 シンの掛け声に俺たちは互いに視線を合わせ、そして行動を開始した。

       ◆

 上段に構えた白い刻器の向こうに、先を行くシンの背中がある。

 俺はハクセンを握る手に力を込めて、願うように語りかける。

(力を貸してくれ)

 しかし、俺の刻器は何も答えない。

 ハクセン。刃の無いこいつにある断ち切る力。

 そして、俺に欠けている俺にはできないこと。

 最初に触れた瞬間に感じた、まるでパズルのピースがはまるような感覚。

 それらを信じて、俺はイメージを開始する。

 友の前に立ちはだかる可能性の固まり、その存在を意識の中で捉え、ハクセンの持つ力の意味とともに鍵となるワードを口にする。

「閉紋:千、里、刃!」

 力が捉えるのは、俺と現相炉のそばにあるタンクとを結ぶ直線。

 友が示してくれた俺たちの進む道。

 真上に掲げたハクセンから立ち上がる剣線は上空で立ち込める来相近くまで伸び、俺はそれを前へと向かって叩きつけるように振り下ろす。

《始錠:閉紋→来相転移》

 切断の未来は過去へと変わり、

《構過:来相@事象範囲》

 あらゆる分岐を持った未来が一つを残してすべて断たれ、希望の道が確定する。

《顕現:事象∽千里刃》

 シンの行く手を阻む来相の波が割れて、ぼやけていたタンクの輪郭がはっきり見えた。

「行けっ!」

 俺の声に、シンは加速で応える。

「クウロ! 上!」

 突然叫んだチルトの声に上を見れば、その部分だけ来相の雲が再び地面へ向かって垂れ始めている。

「……来相による影響か?」

 それは穴を広げるように次第に大きな流れとなって、落下という事象を切断したことそのものを無かったことにしていく。

 それを見て、チルトが符を指に挟んでワードを口にする。

「閉紋:トリック・ウィンド!」

 符は指先で垂直に立ったまま細かく振動を始め、それを彼女は落ちてくる来相へと放った。

 風をまとった紙片は来相の中へと突き刺さり、その瞬間に爆発するような音ともに暴風を生み出す。

「うおっ!?」

「何よこれ!?」

 砂埃を巻き上げ唸る風に、俺はハクセンを地面に突き立てしがみつき、チルトは四つん這いで地面に爪を立てて堪える。

 吹き荒れる風に制服は激しくはためき、落ちてきていた来相は上空へと昇る竜巻へ変わっていく。

 それは未だに上空を蠢く来相へと呑み込まれ、そのあとにはそよ風だけが残された。

「おおおおお! ビンゴ!」

 突然、シンの声が風の音を突き破るように前から聞こえてきて、現相炉のほうへと目を向ければ、タンクの前にあるテーブルにB9を横たえながら、シンがこっちをガン見している。

 しかし、よく見るとその視線は俺ではなく地面のほう、四つん這いで四肢を突っ張ったままのチルトへと向けられていた。

 シンの声に振り向いたチルトも、彼の視線が自分に向けられていることに気付き、そこで自分の下半身が大変なことになっていることに気がついた。

 彼女のスカートは全開で、その中に普段は隠れているはずの赤いボーダー柄の布地が柔らかそうな曲線を描いて丸出しになっている。

 チルトの顔は、みるみるうちに下着と同じように真っ赤に染まり、

「なぁああああ!? ちょっと!? 何、見てるのよッ!」

 素早く飛び跳ねて立ち上がると、スカート越しにお尻を両手で押さえながら、牙を剥き出しにしてシンと俺を睨みつけた。

 なんで俺までと不慮の事故に遭遇した気分になりながらも慌ててチルトから視線を外し、俺はハクセンをシンに向けると大声で言った。

「こんなのはいいから、さっさと作業を進めろ!」

「こんなのって、どういうこと!?」

 耳をピンと立てて、チルトが信じられないという表情で俺に迫ってくる。

 しかし、そんな彼女の後ろでは空中のあちこちから来相が落ち始めていた。

「とにかく行くぞ!」

 そう言って、俺はシンの元へと走り出す。

「ちょっとクウロ、待ちなさいよ!」

 周囲へ符を投げながらチルトも俺の後に続くが、爆発音が響いて突風が吹くたびに、

「ひゃうっ!?」

 と、可愛らしい悲鳴を上げながらめくれそうになるスカートを押さえる。

 そして、俺の隣に並びながら符の束を睨みつけて言った。

「もうっ! ほかの符はなかったの!?」

「ほら、上からまた来るぞ!」

 既に俺のつくった切断の天井は穴だらけで、上からは来相の雨、後ろからは来相の波が押し寄せてくる。

「それならまとめて、閉紋:トリック・ウィンドッ!!」

 チルトは三枚まとめて符を掲げ、後ろへ連続で飛ばしていく。そして、全速力で飛び出した。

「おっ先にぃいいいいいい!」

「はぁ!? おま……うおぉおおお!?」

 一瞬で小さくなったチルトの背中に文句を言うよりも早く、俺の背中を空気の固まりが殴りつけ体が弓なりに曲がって前へ吹き飛ぶ。

 それで現相炉までは十数歩の距離まで一気に近づき、俺はバネのように伸びた体を力任せに戻しながら、浮いた足先をなんとか地面に着ける。しかし、そこを追い風に押されてつんのめった。

 手を振り回しなんとかバランスを取ろうとする俺の脳裏に、スローモーションのように地面へ向かって倒れていく自分の姿がはっきりと浮かぶ。

 その瞬間、俺はそんな数秒先の自分を薙ぎ払うようにハクセンを振るった。

「閉紋:千里刃!」

 幻の自分を横なぎに剣線が一刀両断し、倒れていく未来の自分を切断する。

《始錠:閉紋→来相転移》

 切断の未来は過去へと変わり、

《構過:来相@事象範囲》

 倒れる未来が切断されて別の可能性が確定する。

《顕現:事象∽千里刃》

 それは否定が生み出す、俺が転ばない未来。

 体勢を崩し、これ以上踏み込めないはずの地面を踏んで、俺は体を前へと跳ばす。

 そして横なぎの勢いのまま体を捻って刻器を天井へ、地面すれすれからさらに一閃。

「閉紋:千里刃!」

 それは真上に捉えた現相炉の曲面を薙ぐような剣線を描き、現相炉と俺たちを囲む新たな障壁となって迫る濁流のような来相を阻んだ。

 壁を昇って後ろへ逆流していく来相を確認し、俺は捻りきって再び現相炉へと向いた体を前へと跳ばす。

 作業中のシンと彼に怒鳴り散らしているチルト、二人のもとへと。

       ◆

「よぉ、大丈夫だったか?」

 現相炉下のタンクに辿り着くと、シンがテーブルに寝かせたB9の手首からコードを引き出しつつ、こっちを見ずにそう言った。

「だから、大丈夫じゃないわよ! もう最悪ッ!」

「まぁまぁ、チーちゃんも助かったよ。ありがとう」

 くってかかるチルトの頭をくしゃくしゃと片手で撫でながら、シンはコードをテーブルに備え付けのコンソールへ繋いでキー操作を始める。

「む、むぅうう」

 シンの邪魔をするわけにもいかず、チルトは唇を尖らせながらも黙り込んだ。

「シン、どうだ?」

「ジルさんから即席のマニュアルをもらったから大体の手順はわかるが……、まあ、できる限りやってみるさ」

 そう言ってモニターを確認すると、シンが今度はB9の頭を抱くように持ち上げる。

 ふと見上げれば、せり出す巨大な球体下部が屋根になって上部から吹き上がる来相が直接落ちてくることはなさそうだが、来相が噴き出し続ける限り、ハクセンや符をどんなに使っても限界はある。

「確か、ここにアクセス端子があったはず」

 シンへと視線を戻せば、腰にある自分の端末から引き出したコードをB9の首筋の裏へと差し込み、次にその小さな顎を持ち上げて自分の顔を近づける。

「ちょっと!? シン!?」

 驚くチルトを無視して、シンはB9の小さな唇を親指と中指で開き、その口内を間近で覗きながら中指を口の中へと進めていく。

「わ、わわわわ……」

 チルトは赤らめた顔を両手で覆いつつ、しかし、その指の隙間からはしっかりと好奇の視線を覗かせていた。

「リセットスイッチは、たしか奥歯の裏側に……これか?」

 気にせず作業を続けるシンは、そう言って中指を奥のほうへと進め、

《自閉モードから復旧中。起動シークエンスを実行しています》

 頭部から直接響くB9の声を確認すると、ゆっくり指を引き抜いた。

「よし、取り敢えず擬似精零は無事みたいだな」

 シンが手元の端末を見ながら小さく頷き、口から抜いた指をしげしげと見ていると、

《……ナ……ナル……ナル、ミ……》

 唐突に震えるような男の声が頭に響いて、俺たちは周囲を見回した。

「な、何!?」

 チルトの尻尾が逆立ち、耳はピンと立って周囲を探るように激しく動く。

《ナル、ナルミ、ナル、ナルミ、ナルミ、ナル、ナナル、ナナ……》

 それは洞窟全体から聞こえてくる。

「……ナル?」

 チルトが訝しむようにレクトの名を口にするが、男の声は名前のような音から次第に意味を失って、

《ル、ルルル、ルルゥグルルル、グルル、ルゥオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!》

 咆哮となって空気を震わせた。

 ハクセンによる切断の壁の向こう、周囲で蠢き漂っていただけの来相が一つの形を成していく。

「何よ、あれ……」

 耳を両手で塞ぎ顔をしかめていたチルトの目の前で、虹色の雲のように曖昧だった来相の表面が次々と黒く滑らかなものとなっていく。

 そして、それは一つの黒い塊になった。

 現相炉と同等かそれ以上に巨大な陰のような存在に、俺たちは言葉を無くす。

 確かな輪郭を持ったその表面には、大小様々な丸いクレーターのような凹みが無数にあって、口や目のようにも見えるくぼみからは「オォオオ」と震えるノイズにも似た呻き声が聞こえてくる。

 体にまとわりつくような声に寒気を感じながら、俺は黒い怪物を見たままシンに言った。

「できるだけ急いだほうがよさそうだな」

「ああ。眠り姫にはさっさと起きてもらうことにしよう」

 シンは素早くB9から伸びた二本のコードを外し、テーブルに彼女をバンドで固定するとコンソールを操作してタンク上部を開く。

 するとテーブルが浮かんで移動を始め、口を開けたタンク上部まで来るとテーブルは水平から垂直へと向きを変える。

《オオオオオオオオオ!!!》

 再び黒い怪物が叫ぶ中、B9はテーブルごとタンクへ入っていく。

 その間、怪物は羽ばたくように全身を広げ、巨体をふらつかせながらもゆっくり後ろへ反り返っていく。そして、その中心が大きく波打ったかと思うと、俺たちのほうへと覆い被さるように迫りながら、その表面から無数の黒い手を伸ばしてきた。

「いにゃあああああっ!?」

 チルトは悲鳴を上げてシンにしがみつき、俺は二人をかばうように前へ出てハクセンを構える。

 俺たちへと真っ直ぐ伸びてきた触手群は、しかし途中で見えない切断の壁に阻まれインクをぶちまけたように広がった。そして、時間を巻き戻すように再び巨体へ戻っていくと一度震えるようなぎこちない動きを見せ、今度はその巨体すべてを壁へとぶつけてくる。

 目の前が完全な闇に覆われ、しかし、そのとき俺は上から光が差し込んでいることに気がついた。

 見上げれば、現相炉上部に来相の七色に揺らめく色が見える。

(まずいっ! 来相でハクセンの効果が分解されていたら……)

 俺の焦りを見透かしたように、黒い塊はハクセンの壁を乗り越えるように上へと伸びる。

 それを追ってよく見れば、来相はやはりハクセンの障壁を越えて黒い怪物のほうへと流れていたが、怪物はその来相に触れると怯えたように距離をとり、それ以上こちらに来ることはなかった。

「クウロ、ちょっといいか?」

 ほっとしたのも束の間、俺の耳にシンの緊張した声が届く。

 シンのほうを見ればタンクの蓋は既に閉じられ、そこに開いた丸い窓からは目を閉じたB9の顔が見える。

「どうした?」

「現相炉内に一つ精零を見つけた。おそらくこれがナルさんだと思う」

 コンソールと自分の端末を交互に見ながら、シンはそう言った。

「シン、本当!?」

「助けられるか?」

 チルトと俺の言葉にシンは少し黙り、コンソールの画面を見たまま悔しそうに答える。

「だが、来相が漏れ出ているせいで内部の流れがうまく制御できない」

「「……?」」

 意味が理解できず疑問符を浮かべる俺たちに、シンは言葉を続ける。

「現相炉は内部表面を精震のフィールドで覆って、精震干渉の強弱で現相の分解と制御を行ってるんだ。でも、それは内部が安定状態であることを想定してる。今の来相が不安定に流出し続ける状態だと、幾ら制御プログラムを修正しても精零がサルベージできない」

「つまり、お風呂の栓を抜いたら浮かべてたアヒルのおもちゃが渦に吸い込まれて、みたいな?」

「チーちゃん、えーっとね……」

 真剣な顔で場違いな喩えを言うチルトに、シンが思わず苦笑を浮かべる。

「とにかく来相の流出を止めればいいんだな」

 緩みそうな空気に俺はそう言って、シンはそれに真面目な顔になると頷いた。

「ああ、完全でなくても今より流出の勢いが弱まればいい。何か策はあるのか?」

「とにかく、やってみるさ」

 現相炉上部で吹き出し、わだかまる偽りの可能性。その先にあるものを俺は見る。

 それは洞窟の天井に突き刺さった、現相炉の開口部を閉じていた円形の扉。

 板状のそれは俺の体と同じくらいの大きさで、半分近くが天井に埋まっていたが、露出した部分は溢れ出す来相に晒されながらも未だに形を保っている。

 しかし、扉板の近くでは黒い陰が触手の群れを伸ばして様子を窺っていた。

 今、来相の流出を止めたらどうなるのか……。

 俺は唾を呑み込むと手にしたハクセンを握り直して、腕組みをしながら考え込んでいたチルトに言う。

「チルト。できるだけ符を使ってあそこの来相を消してくれるか?」

「え? あそこって……」

 俺が指さしたほうを見た途端に彼女は不安な表情を浮かべるが、そんな彼女の肩を叩くとその目を真っ直ぐに見て大きく一つ頷く。そして彼女の返事を待たずにシンへと告げる。

「じゃあ、ちょっくら行ってくるから。シンはサルベージの準備を続けてくれ」

「ああ、頼んだぞ」

 シンは作業を続けながらそう短く答え、俺はそれに満足して上を見る。

 もう足場になる人形はなく、チルトの符で突風を起こしても、さすがに俺を吹き上げるほどの力はない。

 それなら、どうやってあそこへ行くのか。俺の道を阻む障害は何か。

 ハクセンを地面に突き立て目を閉じると、俺は静かにワードを口にした。

「閉紋:千里刃」

 足下に広がる剣線をイメージし、自分と地面に働く力を切断する。

《始錠:閉紋→来相転移》

 切断の未来を過去へと確定させ、

《構過:来相@事象範囲》

 縛りつけていた未来を過去のものとする。

《顕現:事象∽千里刃》

 そして俺は、ほんの少しだけ軽く地面を蹴った。

 体が風船のようにゆっくりと地面から離れ、膝くらいの高さでまでくると落ちて、羽のようにふわりと地面に着地する。

「よし。じゃあ、チルト、俺が跳んだら続けて援護を頼む」

「わ、わかったわ」

 そう言いながらチルトは、なぜか羨ましそうに俺を見ていたが、俺は気にせず球体に沿って天井へ向かうルートに狙いを定める。そして、今度は思い切り地面を蹴った。

 ジャンプの勢いのまま俺は上昇を続け、

「クウロ、後でその術教えなさいよ! 閉紋:トリック・ウィンド!」

 とチルトの余計なお願いとともに、風をまとった二枚の符が俺を抜かして飛んでいく。

 それは開口部付近の来相に触れると爆発音を響かせ、爆風で黒い怪物を押し返した。

 まだ現相炉の半分くらいの高さにいた俺も風に少し押されるが、向かい風が止むと今度は暴風の中心へと逆流する風に乗って加速する。

「いいぞ。そのまま続けて!」

 チルトへと声をかけ、俺は球体表面を足がかりに扉へと最短ルートを進んでいく。

 黒い巨体は爆発に驚いたのか動きが鈍いだけなのか、押し返されたまま触手だけを伸ばし、再び漏れ出た来相に行く手を阻まれやっては来ない。

 そして俺が開口部の近く、来相の雲へと突入する直前、

「どんどん行くよ! 閉紋:トリック・ウィンド!」

 再びチルトの援護がやって来た。

 風をまとった符が、今度は怪物と俺の間に一、二、三、四、五、六、七、八枚、横並びで展開する。

「おいっ!?」

 多すぎると抗議する間もなく、符は端から順に八連続の爆風を生んだ。

 横殴りの風に押されれば、その先には口を開けた現相炉が待っている。

 俺は爆風を正面に、素早く刻器を逆手に持ち替え背後を突いた。

「閉紋:千里刃!」

 それは背後に直進する動きを切断、代わりに斜め上向きの抵抗を生む。

 上昇気流となった風に乗り、俺はそのまま天井へ到達するとハクセンを突き立て、そこを起点に体の上下を入れ替え天井へと着地する。

 ちょうど目の前には目的の扉板がある。

 俺は天井を蹴って風から身を隠すように扉の裏へと回り込み、そこで一息つくと現相炉へと目を向けた。

 漏れ出た来相はほとんど風になって今は無い。

 術のせいでフワフワと体が安定しないが、俺は素早くハクセンを扉板の中心、ちょうど天井に突き刺さっている隙間へとワードとともに突き立てる。

「閉紋:千里刃!」

 扉板の表面と刻器の先端に意識を集中し、切断の連続を開始。

《始錠:閉紋→来相転移》

 切断の未来を過去へと確定していく。

《構過:来相@事象範囲》

 そして、手のひらより厚い扉へと無刃の剣を突き通す。

《顕現:事象∽千里刃》

 ハクセンが半ばまで貫通したところで、俺は天井に着いた足を踏ん張り刻器を下へと振り抜いた。

「うぉおおおおおおおおおおおおッ!!」

 すると扉は思ったよりあっさり抜けて、そのまま重力に引かれて落ちそうになる。

「おっ!? おおおおおおお?」

 持っていかれそうになる両腕に力を込めて、俺は下で口を開ける現相炉へと方向を修正すると、そのまま天井を蹴って落下した。

 吹き荒れていた風は既に消え、真っ黒な球体上部にぽっかりと空いた丸い開口部から内部が見える。

 それは、まるで星一つない夜空に浮かぶ七色の朧月のようだった。

 しかしそれも、すぐに吹き上がる来相に歪んで崩れる。

 俺は扉板へ足を着けてサーフボードのようにすると、開口部へと落下を続けた。

 直後、板越しに下からふわりとした衝撃が来たかと思うと、来相が扉板を回り込んで俺の体を包み込む。

 そして、まとわりつく七色の霧の中、白い光が俺の視界を奪っていった。

       ◆

(ここは、どこだ?)

 真っ白な世界で息苦しさを感じながら、俺は周囲を見回した。

 どこにも影はなく、自分の体もあるような気はするが判然としない。

 輪郭を失ったような感覚に、意識も薄く遠くへ広がっていくように思えた。

(……クウロ……)

(……誰だ?)

(……クウロ=ルワーノ……)

 俺の名を呼ぶ声に、散りかけた意識が輪郭を取り戻す。

 その声は正面から聞こえてくるようでありながら、どこに焦点を合わせればいいのかもわらからず、俺は白一色で塗りつぶされた視界の中で目を凝らす。

 頭はやけに重く目がかすむが、それでも眺めていると少し離れた場所に並んだ二つの白い人影を見つけた。

 人影は、二人とも足首まである長い白髪を背後に垂らし、細身の体は丸みを帯びた女性を思わせるシルエットをしている。

(……助けて、ください……)

(……助けて……)

 左右から同じ声でそれは言う。

(……夢は、もう消えてしまった……)

(……現実は、そこにあったのに……)

 それは冷たく悲しい声で、

(……なのに、私は……)

(……だけど、私は……)

 しかし火傷するような苦しさを伴い、

(……父の枷になってしまった……)

(……彼の役に立てなかった……)

 その果てに感情を見失った静かな想いだけを残し、

(……私は……)

(……私たちは……)

 寄せては返す波のように、それは頭に響いて俺の心を揺さぶる。(……あの人達を……)

(……あの人を、助けて……)

 意識の輪郭が再び曖昧になっていく中、二つの影は手を伸ばしながら遠ざかる。

 そして、替わりに黒い世界がやって来た。

       ◆

「閉紋:トリック・ウィンド!」

 それはチルトの声だった。

 重く頭を締め付ける感覚を無理矢理振り払い、俺は目を閉じたまま自分に意識を集中する。

 心臓の鼓動、体内を巡る血液の脈動、そして体の輪郭。

 両手は扉板に突き立てたハクセンを握り、両足はその板の上に乗っている。

 まとわりつくような来相は既になく、肌を心地よい風が撫でていく。

「クウロ! 大丈夫!?って、下見て、下ッ!」

 目を開けて下を見れば、チルトの風による影響か、軌道が開口部より球体上方へ大きくずれている。

 俺は急いでハクセンを軸にして体重移動で軌道を修正し、同時に体を捻ってできるだけ穴と扉板の向きを合わせていく。

 そして開口部へ直撃する瞬間、ハクセンを引き抜く反動を利用して、扉を一気に足裏で押し込んだ。

 直後に重く鈍い金属音が盛大に響き、

「い゛っ!? ぐっくぅううううううぅ」

 両足を駆け上ってくる衝撃に歯を食いしばりながら、俺は開口部のようすを確認する。

 さすがに欠けて歪んだ扉板では開口部を完全に塞ぐことはできず、所々に隙間がある。

 しかし来相の勢いはすっかり衰え、今はハクセンの刺さっていた穴や扉板の周囲から染み出すように漏れ出ているだけだった。

 扉板もうまく開口部にめり込んで動く気配はない。

 現相炉の下へと覗き込むように視線を向ければ、チルトが大きく手を振り、その隣にシンがやって来て手を上げると、親指を立てて大きく頷いた。

 俺はそれを見て一息つくと、しかし、すぐに気を引き締めて顔を上げる。

 目の前で蠢く巨大な黒い陰。

 来相で無効化された障壁上部から、覗き込むような気配が直に俺の肌を震わせる。

「まったく、次から次へと面倒なことだな」

 そう言って俺は、黒い怪物へと手にした白い刻器を向けた。

       ◆

 最初に来たのは、上空から降り注ぐ黒い触手の群れだった。

 避けたとしても足下の現相炉が破壊されては意味が無い。

「閉紋:千里刃!」

 俺は再び進行を阻む障壁つくるべく、円を描くように目の前でハクセンを振るう。

 それに対して触手は迫りつつもその先端を膨らませ始め、そして蕾のようになった先端は、障壁に触れる直前で弾け、その中身をぶちまけた。

 黒い表皮は霧のように霧散し、その内側からは白濁した液状のものがぶちまけられる。

 視界一面が白く染まり、それが障壁に触れた途端、虫の羽音にも似た振動音とともに障壁が虹色に染まった。

 そして次の瞬間には色が消え、何も無い空間を黒い触手がやって来る。

「なっ!?」

 とっさに半身をずらして避けたものの、触手の群れはそのまま直進する。

「しまっ……!? 閉紋:千里刃!」

 口にしかけた後悔を呑み込んで、俺は目の前を横切る十数本の触手にワードを放つと、背後へも刻器を振るう。

 剣線と交差した触手は瞬時に切断され、切り落とされた部分は黒い煙となって消え去った。

 しかし、触手の進行は止まらない。

「はぁあああああああああ! 閉紋:千里刃ッ!」

 俺は斬って斬って斬りまくり、触手の切れ端が次々に量産されては消えていく。

「クウロ! 私も援護を!」

 下からチルトの声が聞こえ、その直後、目の前で触手が一本軌道を変えて、それは迷うことなく下へと向かって伸びていく。

「くっ! 閉紋:千里刃ッ!」

 正面上方に振るっていた刻器を下へ、現相炉の球体表面をそぐような動きで横なぎの剣線を垂直落下していく黒線と交差させる。

 触手は下へ向かう半ばで見事霧散し、しかし、そこからさらに触手が伸びる。

(裏に、もう一本あったのか!?)

 上から来る触手に対応しながら再び剣線を向けようとするが、イメージが間に合わない。

「閉紋:トリック・ウィンド!」

 チルトの声がして下から一陣の風が吹き上がるものの、突風では触手の動きを鈍らせることすらできず、

「風でダメならッ!」

 しかしチルトは矢のように迫る触手を素早くかわすと、ポールのように地面に突き刺さるそれを両腕で抱え、力任せに引きちぎった。

 千切れた触手は力を失い、腕の中に残った黒い固まりも霧散し消える。

「よしっ! 掴めるなら、どんどん来なさい!」

「いや、チーちゃん、来られても困るんだけど……」

 仁王立ちして言うチルトの後ろで、シンが困った顔を彼女に向ける。

 そして彼は、俺の視線に気付いてこう言った。

「クウロ! あと数分! それだけ持ちこたえてくれ!」

「わかった!」

 俺はハクセンを振りつつ短く応え、目の前の怪物へと再び集中する。

 すると、触手がやってくる障壁の無い上部ではなく、障壁に阻まれた黒い巨体全体に変化が起こっていることに俺は気付いた。

 巨体表面が波打ち、雨が振る水たまりのように無数の波紋が浮かんでいる。そして、その一つ一つの中心が蕾のように膨らみ始めた。

(これは、まさかっ!)

 そう思った次の瞬間には蕾が次々と破裂を繰り返し、黒い巨体は飛散した白霧で隠れ、障壁は低い振動音とともに虹色へ染まって消え失せた。

 再び現れた黒い陰からは新たな触手の群れが生まれ、巨体の全面から放たれるそれは、全方向から俺の視界を埋め尽くす。

「閉紋:千里刃ッ!」

 迫る無数の先端に、俺は再び直進を切断する障壁を前面に展開する。

 しかし、それも怪物の白液によって三度無効化され、次は間に合わないイメージが頭をよぎる。

 それでも俺はハクセンを振るい、今度は触手自体を切断していく。

「閉紋:千里刃ッ!」

 視界に捉えた触手は一瞬で霧散するが、さすがにすべては捉えきれず、逃した数十本が現相炉の下部、チルト達のほうへと吸い寄せられるように向かう。

 急いで追撃するが、それでも止められなかった六本がチルトの背後にあるタンクへと、狙いを定めたように収束していく。

「さあ、どんどん来なさい!」

 そう言うとチルトは触手へ向かって走り出す。

 すれ違いざまに近くの触手を一本ずつ両手で掴むと、それを鞭のように振り回してタンクへ伸びる残りを絡め取り、さらに引き寄せ素早く毛糸玉のように丸めていく。

「うにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃーーーーーッ!」

 そして、できた触手玉を振り回し、俺の逃した触手も余すことなく絡めていった。

 触手の数には限界があるのか、束ねて結ばれ編まれるうちに、怪物から放たれる触手の数が減っていく。

 俺は縦横無尽に飛び回るチルトがカバーできない触手をハクセンで切断し、そして気がつけば怪物の全身から伸びた無数の触手は一本のどでかい綱になっていた。

 それを彼女は両腕でがっしり掴み、

「うっっっにゃあああああああああああああああああああああッ!!」

 現相炉から遠ざけるように思いきり引っ張った。

 黒い巨体が傾き、触手のない表面が剥き出しになる。

「今のうちにッ!」

「閉紋:千里刃!」

 チルトに応えて俺は現相炉から飛び降りる。そして怪物に刻器を突き立て、内部から切断するイメージを送り込む。

《始錠:閉紋→来相転移》

 巨大な塊をバラバラにする未来を過去へと確定。

《構過:来相@事象範囲》

 黒い表面を無数の亀裂が走り、

《顕現:事象∽千里刃》

 触手は怯えたように巨体へ戻って、不定形だった輪郭が球形へと変わる。

 そして動きの止まった丸い怪物の上で、俺は黒い亀裂が溢れ出た白い液体によって一瞬で切断を無効化するのを見た。

 直後、ハクセンが刺さったまま足下が震え、

《ヴ、ヴヴヴ、ヴォォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!!!!!》

 肌を切り裂くような獣の絶叫が響いたかと思うと突然浮遊感に襲われる。

 気付けば、ぱっくり裂けた大口の闇に俺は呑み込まれていた。

       ◆

 閉ざされた視界の中、ざらついた感触が俺の頭を締め付ける。

(……壊してしまえ……)

 生温かさが首に絡みつき、息苦しさに声が漏れそうになる。

(破壊しろ。私から……、私たちからすべてを奪った元凶を……)

 微かに開いた口から、無理矢理喉の奥へと何かが入り込んでくる。

(……母さんを、楽にさせてあげるんだ……)

(……今日こそ、彼に告白を……)

(……刻奏士になって人の役に……)

 幾つもの思念が俺の中で混ざり合い、それは一つの想いになって俺の口から漏れ落ちた。

(……生きたい……)

 それは単純で純粋な願いだった。

 すべての根底にある、でも意味を持たないただの本能。

(……死にたくない……生きたい……もっと……もっともっともっともっと、生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい!)

 絶対的で暴力的なまでに自分という存在を肯定する利己的欲求。

 そうした圧倒的な奔流の中で、俺の心は取り残されたように冷たく静まり返っている。

(だから、俺には掴めないのか)

 自分に無いものを突きつけられ、感覚が麻痺していく。

 記憶も無く、言われるままに日々を過ごし、今だって成り行きでここにいる。

(レクトを助けたいのは、本当に俺の意志か?)

 チルトは、そしてシンは、きっと自分の意志でここにいる。

 それに比べて俺は、いつだって不断症を言い訳にして、周囲に流され……。

 今さら浮かんだ疑問に意識は沈み、閉じ行く世界の中で今までの自分が消えていく。

 そして意識が停止する直前、闇の中を白い線が微かに走った。

(……ハクセン……)

 思わず脳裏に浮かんだ言葉に、俺は力なく自嘲する。

 刻器を手に入れたところで、それは自分に欠けていた機能が一つ埋まっただけ。

 それは他人と同じスタートラインに立っただけで、その先には何もありはしない。

 自分が何をしたいのか、自分が誰なのか、そんなことさえわからない俺は、ただの人形と変わらない。

(それならいっそのこと、ここにある意志に身を委ねて……)

 ホワイトノイズのように囁く声に、俺は抵抗する気力もなく……。

《困りますね》

 それは突然、体の中から湧き上がるように響いた。

 いつも耳にしてきた、そう、誰でもない俺の声。

 しかし、その言葉は俺の意志とは関係なく、

《こんな偽りの未来ごときに惑わされるようでは》

 温度の無い声色で言葉を続ける。

《まだ始まったばかりなのですから》

 言葉とともに黒き闇は揺らめき始め、白い光へ反転していく。

《君の何も無い未来は》

 そして、俺の声が知らないワードを口にする。

「閉紋:不変律カウンター・エコー

 周囲で蠢く無数の黒き未来が、俺を中心に調律されていく。

《始錠:閉紋→来相転移》

 不変の未来は現在と過去を裏切ることなく、

《構過:来相@事象範囲》

 未来があるべき過去へと還っていく。

《顕現:事象∽不変律》

 意識が均一な光へと急速に覆われていく中、点だけになった闇に俺は触れる。

(……渡さない……)

 闇から響く声は、手のひらに落ちた雪の結晶のように、

(……助けなければ……)

 光に溶けて消えていく。

(……ナルミを……)

 それは俺ではない誰かの、そして最後の願いのような気がした。

       ◆

「クウロ!」

 下から吹き上げる風に乗ってチルトの声が聞こえる。

 絡みつくような気怠さに体は言うことを聞かず、なんとか俺は張り付くような目蓋に力を込めて視界に景色を捉えた。

 霧散していく黒い影の向こうには岩壁が見え、錆びついたような首を無理矢理動かして周囲を見回せば、黒い湾曲した球体が視界に入る。

 巨大な黒き怪物の姿は見る影もなく、俺は真っ逆さまに地面へと落下していた。

 下ではシンとチルトがこっちを見上げ、二人の無事に安堵しながら、俺はふと自分の手を見る。

 ハクセンを握るその手には温かな白い霧が絡みつき、手から腕にかけて他人の手のように感覚が重い。

 怪物に呑み込まれたとき、諦めかけた俺に話しかけてきた誰かのことを思い出す。

 それが腕にいるような気がした直後、腕が勝手に動いて白い霧を振り払う。そして、返す動きでその霧をハクセンが切りつけた。

 白い霧は刻器に怯えるように震えて消え去り、刻器はそのまま何かを指すようにピタリと動きを止める。

 落ちていく中、その先へと視線を向ければ、白い線の延長上にはタンクと人の形をした黒い陰が一つあった。

 さっきまでなかった陰にシンとチルトも驚いているが、それはタンクの窓から中を覗くように浮いている。

《ナルミ》

 聞き覚えのある言葉が頭に響いた直後、影は人の形を捨ててタンクを覆い尽くした。

(やばい!?)

 そう思っても体は言うことを聞いてくれず、

「ナルから離れて!」

 チルトが黒く染まったタンクへ向かって行くが、

「ナ、ナル、ミ……ナ、ナァ……ミ、アア、ナアアア、オァア」

 震えるような声が響いてタンクに触れた瞬間、チルトははじき飛ばされる。

 為す術なく見つめる俺たちの視線の先で、

「お父さん! やめてッ!!」

 それは陰でも俺たちの声でもなく、タンクの中から響くB9の声だった。

「お父さん! もう……、もういいの!」

 B9の声で、しかし明らかに違う口調で泣き出しそうに言葉が震えている。

 その言葉に陰は少しの沈黙で応え、

「アア、やっぱり……、生きて、イタ」

 そう安堵のため息にも似た声を漏らした。

「ここまでだな」

 すると不意に無感情な声が俺の口から聞こえてくる。

「タイム・ゼロ」

 続く自分の声に腕が反応し、その手に握られたハクセンのリングに光が生まれた。

 光は虹のような七色を放ちながら、まるで力を溜めるように白い輝きを増していく。

「閉紋:零滅刃ゼロ・バニッシュ

 鍵となる言葉とともにハクセンの先端へと光が収束し、それは音もなく蜘蛛の糸のようにタンクへ、そして現相炉へと一瞬触れるように伸びる。

 直後、陰もろともタンクと現相炉が蜃気楼のように音も残骸も残すことなく消失した。

「なっ!?」

 驚き漏れた自分の声に、俺は体が自由に動かせることに気付く。

 がらんとした洞窟の中、取り残されたように裸のB9が地面へと投げ出され、それをチルトが受け止め俺を驚きの表情で見上げる。

 そして、彼女のそばではシンが問い掛けるように真っ直ぐに俺を見つめていた。

「俺は……」

 手の中には光を失ったハクセンがある。

「俺は、いったい……」

 刻器は相変わらず俺の体の一部のようで、

「……なんだ?」

 それは自分に対する疑問となって、俺を無力の底へと突き落とした。

       ◆

「クウロ、大丈夫?」

「あ、ああ……」

 落ちる俺を受け止めてくれたチルトにそう応え、俺は地面へと下ろされた。

 が、膝に力が入らず思わず倒れそうになって、

「ちょっと!? 全然大丈夫じゃないじゃない!」

 チルトが怒りながらも慌てて肩を貸してくれる。

 頭が重い。

 もう何も考えたくない。

「おーい。クウロ、大丈夫かー?」

 呼びかけるシンの声に視線だけをなんとか向けると、少し離れた場所に端末を手にしたシンと白いだぼだぼのワイシャツを一枚だけ着たB9の姿があった。

 もじもじと恥ずかしそうにする彼女に、俺はシンの趣味かと力なく苦笑を浮かべる。

「もう……、とにかく行くよ」

 そう言って、ちょっと不機嫌そうに歩き出すチルトに掴まりながら、俺はシン達のところへ向かった。

 合流するとシンが、ハクセンを杖代わりに立つ俺を見て、

「いやー、刻器持ちはさすがにすごいな。いつも焦がしてる天井の比じゃないね」

 そう、からかうように言ってくる。

 そして、少し真面目な顔で訊いてきた。「で、クウロ、おまえ本当に大丈夫なのか?」

「俺は……」

 どこか心配そうなその顔は隣のチルトも同じで、二人の視線に俺は黙り込む。

(わからない)

 その言葉を口にすることに、俺はためらいを感じていた。

 それを口にしたら過去だけでなく今も失ってしまいそうで、自分が保てなくなりそうだった。

 俺たちの間に沈黙が流れる。

 チルトの尻尾が不安げに小さく揺れて、彼女は何かを言おうとしたが、結局何も言わなかった。

 そんな沈黙を破ったのはチルトでもシンでも、ましてや俺でもなく、

「ありがとうございます」

 そう言ったのは、B9の姿をした明らかに雰囲気の違う誰かだった。

「君は……」

「私は……」

 言葉に詰まる俺に彼女は少し考え込むと、まっすぐに俺を見て自分のことをこう言った。

「私はナルミ。ナルミ=ユウノ。そして、今はナル=レクトでもありますが……」

 ちぐはぐな口調に自分でも違和感があるのか、彼女は首をかしげて困ったようにシンを見る。

 それを追うように俺とチルトも彼を見た。

 集まる視線に、シンは目を逸らして頬をかきつつ話し始める。

「えーと、だな、ナルさんの救出には一応成功した」

「一応?」

 怪訝な顔でチルトが疑問を投げかける。

 その視線に気圧されながらもシンは話を続ける。

「あ、ああ、体は分解されてたがナルさんの精零をB9の体に移すことはできた。ただ、彼女の精零以外にも、もう一つ、精零があってだな……」

「まさか、その精零とナルが一緒になっちゃったの?」

「まあ、簡単に言うと、そういうことになるかな?」

 チルトに詰め寄られ少し下がりつつ、シンは言い訳じみた説明を続ける。

「で、でもだな、彼女――ナルミさんの精零がナルさんの精零を包み込んで周囲の来相から浸食されないように守っていたわけで、そうでなければナルさんも……」

 小さな声になりながら、なおもシンはブツブツと何か言い続ける。

 そんな彼にチルトはため息をつくと、その横で様子を窺っていた彼女を見る。

「えーと……取り敢えず、なんて呼べばいいのかな?」

「……ナルミで構いません」

 レクトを思わせる少し硬い口調で彼女はそう言った。

「えっ? でも……、それで本当にいいの?」

「いいんです。私はナルミさんの……、彼女が消えた原因を探るための道具に過ぎないのですから」

 じっと見つめるチルトの瞳から彼女は俯いて視線を外す。すると、今度は先程とは違う優しい口調で彼女は言った。

「違うよ。あなたは私と同じ、父さんの娘だよ」

 そして自分を抱きしめながら彼女は続ける。

「私にはわかるの。あなたの記憶が、そこにある想いが……。だから、もう、あなたは私。私はあなたなんだよ」

「よし、それならナルミさんで」

 そう軽く言ったのはシンだった。

 彼は「よろしく」と彼女に手を差し出す。

 しかし、その手を払い除けて、チルトが人差し指をシンの鼻先に突きつけ言い返す。

「なんで、そうなるのよ? あんた、今の話ちゃんと聞いてた?」

「もちろん聞いてたさ。ナルさんがそう望むなら俺はそれに従うよ。まあ、困難をともに乗り越えた今なら、一歩進んで呼び捨てもありかなって思うけどね。ナ・ル」

 ウィンクしながら言うシンに、女性二人は怯えたように身を寄せ合うと蔑むような目を彼に向けた。そしてチルトはショックで崩れ落ちるシンを無視して、ナルミ=ユウノのおでこに自分のおでこをつけて、真っ直ぐ彼女を見つめて言う。

「じゃあ、今までどおりナルって呼ぶね。ナルミのナルだし、二人とも私の友達だから」

「そういうことなら……。わかりました、タルトさん」

 お互いに笑顔になると二人は抱きしめ合った。 しかしチルトは、すぐに離れると眉をつり上げ彼女のおでこをつついて言う。

「でも、違うでしょ? 私がナルって呼ぶんだから、あなたもチルトって呼ばないと」

「あの、でも……」

「でもじゃないの。チルトって呼ばなきゃダーメーなーの!」

 困り顔のユウノのおでこを指でグリグリと押してチルトは言った。

 それに眉間に皺を寄せて目を閉じていた彼女は、堪忍したようにおずおずと口を開く。

「えっと、じゃあ……これからもよろしくね、チルト」

「うん! よろしくね、ナル! クウロとシンもそれでいいよね。あ、でもシンは呼び捨て禁止だから」

「ああ、わかった」

「えー、そんなぁ」

 シンに釘を刺しつつもチルトはどこか楽しげで、そんな俺たちを見てユウノ――ではなくナルも楽しそうに笑顔を浮かべていた。

 そんな中、チルトがふと首をかしげて疑問を一つ口にする。

「あれ? B9の体にナルが移ったのはいいとして、じゃあ、元々この体にいたB9の精零は?」

 その問い掛けにシンは険しい表情を浮かべ、俺とナルは黙り込む。

 沈み込んだ空気にチルトは俺たちを不安げに見回すと、

「え、何? なんか私まずいこと言った?」

「いや、そうじゃないんだが……」

 慌ててシンが気まずそうに否定を口にして、渋々といった感じでチルトに話し始める。

「精零っていうのは構造上、かなり容量というかスペースを食うんだ。だから人間にしろパペットにしろ、一つの体には一つの精零しか入らない。彼女だって融合した状態だったからこの体に収まったんだ。だから、B9の精零は……」

「ああ、そう、なんだ……」

 さすがにシンの言わんとすることを察して、チルトもそれ以上は何も言わなかった。

 B9は、口封じと燃料として利用するために俺たちを殺そうとした。だから、自分たちの身を守り、B9を犠牲にしてその体を利用したとしても、それは自業自得で仕方のないことだったと言うことはできる。

 殺そうとするからにはその反対もあることを、人間でないパペットのB9なら、なおさら可能性の一つとして想定していなかったはずはない。

 自分勝手な妄想だと自覚しながらも、俺はそう自分に言い聞かせた。

《なっ!? なんだ、ここは?》

 すると突然、そんな重い沈黙を破って場違いに高い声が聞こえた。

 それはシンの近く、手にした端末から聞こえてくる。

「おお! 無事に復帰してくれたか!」

 皆の視線が集まる中、シンは端末の画面を見て一人喜びの声を上げた。

「ちょっとシン! こんなときになんなの!?」

 イラッとした様子で言うチルトに、シンは慌てて自分の端末画面を見せる。

 それを見たチルトはますます顔を険しくして言った。

「何よ、このちびキャラ?」

《ち、ちびだと? ちんちくりんな馬鹿力女には言われたくないな》

 画面の中では、白衣姿の可愛らしい三頭身の女の子が、顔を引きつらせつつも平静を装うように、その長い白髪を優雅にかき上げている。

「なッ!? 一体何なのよ! この生意気な二次元ちびはッ!」

 目を血走らせて、チルトは立てた爪をシンに突きつける。

「いや、だから彼女が……」

「もしかして、B9さんですか?」

 そう言ったのはナルだった。

《だ、だったらなんだと言うのだ? 余り、その顔を近づけるな。奇妙な気持ちになる》

 画面をじっと見て言うナルに、しかし画面の中の少女は、あっちに行けと手を振って顔を逸らす。

 チルトは、そんな二人を交互に何度も見返して、

「えっ、ええぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?」

 と、洞窟の端まで飛び退いて驚いた。そして、ダッシュで戻ってくるとナルと画面を並べてまじまじと見比べる。

 ちびキャラB9は、そんなチルトを無視すると、

《まったく、私をこんな窮屈な場所に閉じ込めた上に、この失礼な扱い。しかもなんで……、なんで三頭身なのだ!》

 そう言って地団駄を踏んだ。

 彼女の頭上では煙のマークがぴょこぴょこと動き、足下では砂埃のエフェクトが表示されている。

 その動きが突然「ハッ」という画面一杯に表示された文字とともに止まる。そして画面内で振り返ると、後ろ姿のまま自分の正面を指さし震える声で言った。

《ま、まさか、おまえの趣味かッ!?》

 その怯える背中に、全員の視線が端末を持つシンへと向かう。

 突然集まった視線に鳩が豆鉄砲をくらったような顔をするシンだったが、

「いやいやいやいや! 端末の空き容量の関係で圧縮する必要があってだな!」

 そう慌てて言い訳を口にする。

 しかし、チルトはその手から端末を奪い取り、

「このロリコン! 変態ッ!」

 そう罵倒すると、ナルを背後にかばうようにしながらシンから距離をとった。

 端末を渡すまいとぎゅっと抱きしめるチルトの肩口から、ちらりとナルが顔を覗かせて、

「最低ね」「最低です」「最低だな」

 と、見事に揃った三人の声にシンが涙目で俺を見る。

「クウロォ~」

 助けを求める友に俺は苦笑するしかなかった。

       ◆

《それにしても、あの男は一体何を考えていたのか》

 和み始めた空気の中、チルトの持つ端末からB9の声が聞こえてくる。

《まさか零爆で現相炉を消し去るとは……》

 俺たちに向けられた画面では、やれやれという仕草で白衣が肩を落とし、

《おかげで、私の存在意義がなくなってしまった》

 B9のつくため息が、端末からやけにはっきりと聞こえてきた。

 その諦めを含んだ音に、俺は現相炉とともに消してしまった怪物を思い出す。

 推測でしかないが、来相に呑み込まれたあの男の精震が、あの怪物を生み出したのではないか、そんな気がしていた。

 レクトと互いに名で呼び合い、レクトを目の前で失った男。

 彼は、どんな想いでここに来たのだろう。

 そんなことを思ってナルのほうを見れば、彼女もチルトの横で俺をじっと見ている。

「あの人は……」

 そして、その小さな唇から言葉がこぼれるように漏れた。

 皆の視線が彼女へ集まる中、何も無くなった洞窟の天井を見上げ、ナルはゆっくりと話し始める。

「あの人は私の、私たちの……父です」

 その言葉に俺は震えだした自分の手を、ハクセンを握りしめて押さえ付けた。

       ◆ それは十一年前の出来事だった。

 当時、ナルミ=ユウノはスフィア13の生徒で、俺たちと同じように刻奏士を目指していた。

 しかし彼女は神隠しに遭い、その捜索はわずか一週間で打ち切られる。

 学園は彼女を退学処分とするが、そのことに納得できなかったナルミの父、ケン=ユウノはウェイス=レクトという偽名を使って、たびたび学園で起きていた神隠しとそれを隠す学園のことを調べ始め、その中で彼は現相炉の存在を知る。

 そして、その関連施設跡で一体の燃料用パペットを拾った。

「それが私、ナル=レクト。でも結局、私はマスターの役には立てなかった。所詮、私は消費されるための存在。誰かのそばで役に立とうだなんて、そもそもが間違い……」

「それは違う!」

 ナルの言葉を遮って叩きつけるように言ったシンは、彼女の華奢な両肩を掴んで続ける。

「いくらパペットが生体人形と言っても人間とは体の構造が違いすぎるんだ。だから正直、精零移植が成功する確率はかなり低かった。成功しても不適合多機能不全で長くは生きられなかったかも知れない。でも、ナルがいたからこそ、ナルミさんは今こうして生きているんだ。今、この体とナルミさんを繋いでいるのはナル、君なんだ。君が君だったから彼女は助かったんだよ」

 彼女の瞳を、その奥を真っ直ぐに見つめるシンに彼女は目を見開いたまま涙を浮かべ、

「私は……、でも私は……」

 頭を振ってシンの手から逃げるように一歩を下がる。

 そして、震える自分を抱きしめて絞り出すように叫んだ。

「マスターを……、父さんを助けられなかった!」

 唇を噛み締める彼女の瞳からは、涙が止めどなくこぼれ落ちていく。

「……ナル」

 後ろから優しくチルトが抱きしめ、ナルは力なく体をくの字に曲げると、顔を手で覆って嗚咽を漏らし続けた。

「……俺は……」

 何をしたのか。何が彼女を泣かせているのか。

 ハクセンを握る手が……、胸が痛い。

 自分はなんでここにいるのか。何をしにここに来たのか。 問いばかりが頭に浮かび、しかし、思考は答えもなく堂々巡りを繰り返す。

 俺たちは彼女が泣き止むのを黙って待ち、泣き声が落ち着いた息遣いへと変わると、彼女は顔を上げてチルトから離れた。

 そして俺たちにこう言った。

「ごめんね。でも、ありがとう」

 しっかりと前を向いて俺たちを見る彼女の言葉を、俺は理解できなかった。

 泣き腫らした顔で、彼女はため息をつくように寂しげな声で続ける。

「でも、本当に……。本当に、何も無くなっちゃったな」

 声音とは対照的にその表情は笑顔で、

「なんで、笑って……」

 思わず俺の口から漏れ出た疑問に、彼女は一度深呼吸をしてからはっきりと答えた。

「だって私は今ここにいるもの。私として、ここに。それに……」

「それに?」

 俺はすがるように問い掛ける。

「父も母も過去の私も、今の私には無いけれど、ただそれだけでしょ? 私は与えられた役割を実行するだけの道具じゃない。自分で考え、自分の足で歩いて行ける人間だもの」

 目を閉じ胸に手を当てて言う彼女の姿は、まるで自分に言い聞かせているようで、その声は優しさと力強さに溢れていた。

「だから、気にしないで」

 微笑む彼女の言葉に俺は息を呑む。

「でも、俺は君の……」

 父親を殺したのだと言おうとした俺の唇を、彼女はそっと人差し指で遮った。

「私は言ったでしょ? ありがとうって」

 俺を真っ直ぐに見る彼女の顔は少し怒ったようで、しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべると、ナルはもう一度繰り返す。

「父を、止めてくれてありがとう」

 唇に触れる人差し指の温もりが、俺の冷たくなっていた心を解かしていく。

「それに、あそこまで精零が崩壊しちゃったら、もう手遅れ。たとえマスタークラスの刻奏師でもね」

 そう言ってナルは俺の鼻先を人差し指で弾くと、パンと両手を叩いた。

「はい、この話はもうおしまい。さあ、帰りましょう。私たちの学舎へ」

 彼女の言葉にチルトとシンは笑顔で頷き、俺はなんとか苦笑を浮かべる。

 気がつけば、いつの間にかハクセンを握る手の震えは収まっていた。


【エピローグ】

 いつもどおり校舎へと続く赤レンガの道を歩きながら、俺はシンと登校していた。

 あれから一年。

 俺たちは相変わらずスフィア13で学園生活を送っている。

 ナルも学園生活に復帰し、今では優秀な生徒として日々を過ごしている。前に講義で術が使えなかったのは、潜入調査ということで目立たないようにしていたかららしいのだが、彼女いわく「これが今の私だから」ということで、もう隠す気はみじんも無いらしい。

 まあ、転入時から充分目立ってはいたのだが、ユウノの前向きな性格が影響したのか、後輩――特に一部の女生徒からは「お姉様」と慕われるまでになっていた。

 ナルが戻ってきたこと、それと現相炉が無くなりそれに起因する現象が起きなくなったことで、七不思議に関する話題はあっさりと元の噂話程度に戻り、現相炉の存在を隠していた学園側からも今のところ動きはない。

 実に平穏な日々だ。

 シンから聞いた話では、B9が師匠に現相炉関係の情報を提供し、二人で何やら裏工作を働いたらしい。

 俺はと言えば、ハクセンのおかげか斬りまくって不断症のストレスが解消されたのか、以前のように術が暴走するようなことはなくなっていた。そのおかげもあって、今ではナルの少し下くらいの成績を修めている。

 そしてシンはと言えば、

「おーい。ナインさーん」

 俺の横で端末に向かってB9の名を呼んでいた。

 さっきからずっと端末の画面に表示された木の扉を指でノックしているが、何度やっても反応は無いようだった。

「はぁ、今日も朝からジルさんのところか」

 うなだれる友を横目に、俺は手にした缶の中身を喉の奥へと流し込む。

 今日の朝食は肉じゃが定食味(小松菜の味噌汁風味クルトン入り)だ。ジャガイモと豚肉の脂の甘さに、クルトンのしょっぱさがアクセントになって実に旨い。

 俺はクルトンを口の中で転がしながら、大きなため息をつくシンに缶を向ける。

「飲むか?」

「飲まねぇよ」

 いつものやりとりに苦笑しながら、俺は缶を持つ手とは反対の手で腰に吊したハクセンに触れた。

 一見変わらない日常の中で、誰もが少しずつ変わっている。

 あれから俺は、少しは自分らしくなれたのだろうか。 そんなことを考えていると、後ろから慌ただしい音が聞こえてくる。

「ちょ、ちょっとチルト! 待ってよ!」

 それはナルの声で、振り返れば猛ダッシュで迫ってくるチルトの姿もあった。

 声の主はと言えば、チルトの腰にしがみついてぶら下がっている。

 近くに来ると、チルトは急ブレーキをかけるように両手両足を前に突き出し滑り込んで、

「えっ!? チーちゃ……」

 ドン!

「うおっ!?」

「セーーーーーーフ!」

 とっさに避けた俺の前を通り過ぎ、彼女は両腕を真横に広げてピタリと止まる。 しかし俺は、少しよろけた拍子に口の中のクルトンを奥歯で噛みそうになって慌ててそれを呑み込んだ。

「んぐっっっ!? ゲホッ、ゴホッ、ゴホッ、かはっ、ケホッ、はっ、はぁはぁ……」

 咳き込む俺の頬を冷たい汗が流れ落ちる。

 激しく脈打つ心臓を抑えるように胸に手を当て、俺は湧き上がる恐怖に身を震わせた。

 今のはやばかった。

 危うく、あれをもう一度体験するところだった。

 俺の脳裏に、あのときの感覚が蘇る。

 それは、あの事件が終わってから数日後のことだ。

 ハクセンで思う存分斬りまくった俺は、もしかしたらと試しにステーキを食べてみた。

 肉に歯を当てて力を込めると相変わらず強い抵抗感があったが、しかし俺は思いきって肉を噛みきった。そして、直後に背筋を走り抜けるすさまじい寒気とともに気を失った。

 次に目を開けたときにはベッドの上で、横で黙々と俺の肉を食べていた師匠から聞いた話では、俺が不断症と名付けた症状は構戒錠文という制約によるものらしい。

 なんで今まで教えてくれなかったのかと問い詰めたが、師匠はステーキを平らげつつ、

(刻奏士にもなれん奴に言ったところで意味が無いだろ)

 と事も無げに言った。

 構戒錠文は自身の精零を拡張することでつくられる強力な高次符で、一度つくられた構戒錠文は精零の一部となり、取り去ることは連鎖崩壊による死を意味する。

 それだけに、本来はマスタークラスが自身の力の象徴として自分に施すもので、当然、俺はそんなことをした記憶は無いが、なんにしても、この体質は一生どうしようもないということだけはわかったのだった。

「あれ? シンはいないの?」

 そんな嫌な回想中の俺のことなど気にもせず、獣耳娘は小首を傾げて訊いてくる。

「おまえな、何がセーフだ。危うく俺の意識がアウトするところだったぞ」

「だって遅刻しそうだったんだもん」

「だってじゃない。あんなのまともに食らったら……」

 そこまで言って、俺はさっきから黙ったままの友のほうを見た。

 しかし、さっきまで隣にいたはずのシンの姿がいつの間にか消えている。

「あっ、あそこ……」

 そう言ってナルが指さしたのは、道の両脇に植えられた並木の内の一本だった。

 その大分上のほうに、何か大きなミノムシのようなものがいる。

「ナルさん、おはよー」

 よく見ればシンが逆さまで木の枝にぶら下がって挨拶している。

 なんであんなところにと思ったが、チルトが突っ込んできたときに何か大きな音がしたことを思い出し、俺は状況を理解した。

「いやー、朝から気性の荒い猫に追いかけられてね。少し身を隠していたんだ」

 制服の上着をマントのように垂らし、枝に引っかかったズボンを両手で握りしめながら、それでも澄ました顔でシンが言う。

 しかし、枝に引っかかったズボンからは徐々に体がずり落ちてきて、危うく中身が見えそうになっていた。

「さ、さっさと行きましょ」

 少し顔を赤くしながら不機嫌そうにチルトは言うと、同じく赤面しているナルの手を引いて歩き出す。

 シンは、なおも木の上で何か言っていたが、俺たちは他の学園生から向けられる好奇の視線を避けるように宙づり変態の下を通り過ぎていく。

「え、ちょっと、ナルさん? みんな? 言っちゃうの? 助けてくれないの?」

 友の尊い犠牲を胸に秘め、俺はチルトとナルの後に続いた。

「くっ! こうなったら……。そうだ、この緊急事態を利用してナインさんを呼ぶ手も……。ん? 端末が無い! どこ行った!?」

 友の声を背後で聞きながら、俺は地面に落ちていた端末を素早く拾ってポケットにしまう。

 すると、前を行くチルトが大きくため息をついて話し始めた。

「それにしても、彼女も物好きよね」

「彼女って?」

 俺の疑問に、チルトはシンのほうを視線だけでちらちらと窺いながら話を続ける。

「B9のことよ?」

 シンの端末へ移植されたB9は、自分の三頭身データに興味を示し、それを用意したのが師匠だと知ると、いきなり師匠を自分の新しいマスターにすると言い出して俺たちを驚かせた。

「本当に、あのときは驚きました」

 ナルの言葉に俺とチルトも頷き返す。

「まあ、でもB9って半世紀近く現相炉を管理してきたんでしょ? だったらジルさんと同い年くらいだから共通の話題とかも多いだろうし、意外と気が合うのかもね」

 チルトの言葉に、頑固じじいの隣に浮かぶ白髪白衣少女を思い浮かべ、俺は思わず眉根を寄せた。

 結局、師匠はB9の申し出をはっきりと断ったのだが彼女は諦めず、最近ではすっかり押しかけ女房ならぬ押しかけ助手として、あの三頭身キャラで情報屋の仕事を勝手に手伝っている。

 彼女としては、刻奏師としてよりも情報屋としての師匠が気に入ったらしい。

 あの頑固で偏屈な師匠に可愛らしい三頭身の、しかもデータとは言え女性の助手が現れたことで、情報屋の間では「あのジルに女ができた」という情報が瞬時に広まり、一週間ほど師匠は頭を抱えることになった。

 その様子を思い出して俺とチルトは苦笑し、それをよそにナルは空を見上げて、

「彼女も、自分の道を歩き続けているのですね」

 そう嬉しげにつぶやいた。

 そんな彼女にチルトは「そうだね」と微笑みかけ、俺は自然と腰に吊した刻器に触れる。

《何も無い未来は、まだ始まったばかりなのですから》

 あの言葉が脳裏に蘇る。

 あれは一体何だったのか。そして、自分は一体何者なのか。

 気がつくと、俺はその事ばかり考えている。

(自分のことは自分でやれ。それは、そのための道具だ)

 刻奏師でもない俺に刻器がある理由を訊いたとき、師匠は俺にそう言った。

 多くを失ったナルは、それでも「自分で考え、自分の足で歩いて行けるのが人間だから」と今も自分の道を歩いている。

 だったら俺がしたいことは何か。俺には何ができるのか。

「とにかく、この道を進むしかないってことだよな」

 かつての俺が望み、そして今、俺がいる道の先にあるもの。

 ――刻奏師――

 きっと、それが始まりで、答えは求め続ける限りその先にある。

 いつだって、自分はそこにいるのだから。

 ハクセンの柄を握り、俺は決意を新たに一歩踏み出す。そして、軽くなった足取りで前を行く二人を追いかける。

 そこで、ふと俺の頭を疑問がよぎった。

「そういえばチルト、今日はなんで遅刻しそうになったんだ?」

「え? なんでって……。べ、別にいいでしょ?」

 動揺する彼女の隣でナルがクスッと笑う。

「ちょっとナル!? なんで笑うのよ!」

「ごめんなさい。だって、なんだか可愛くて」

 顔を赤らめるチルトの横で、ナルが謝りながらも話を続ける。

「少し遅くまで勉強してただけでしょ?」

「え? チーちゃんが勉強? しかもナルさんと一緒にって。そういうときは俺も呼んでくれないと」

「何よ。私だって、やるときはやるんだから。だって、そうしないとみんなと……って、なんであんたがいるのよ、シン!?」

 驚き立ち止まるチルトに、いきなり現れたシンはなぜか余裕の態度で彼女を見下ろす。

 その小馬鹿にしたような視線にチルトは悔しそうに頬を膨らませると、

「あ、あんた達には負けないんだからねッ!」

 そう言って目尻に涙を浮かべてキッと俺たちを睨みつけた。

 自分は関係ないと思っていたのかナルは困惑気味にオロオロし、俺は取り敢えず殺気立つ獣耳娘を落ち着けようと、チルトの両肩に手を置いてこう言った。

「まあ、頑張れよ」

 励ますつもりで言った俺の言葉にシンがプッと噴き出し、チルトの顔はますます赤く険しくなっていく。

「ふ、ふふふふ、ふふふふふふ」

 そしてチルトが低い声で笑い出す。

「あのー、チルトさん?」

 なぜか俺の背中を冷や汗が流れ始め、ナルが自然な動きでチルトから一歩距離をとった。

 チルトは静かに俺の手をはねのけ、そのまま俺たちをビシッと指さすと、

「見てなさい! 絶対にあんた達全員、次の試験までに追い抜いてやるんだから!」

 そう尻尾の毛を逆立てて威嚇してくる。

 そんな猫娘に俺は苦笑を浮かべ、

「はぁ、まったく面倒だ」

 と、空を見上げて諦めのため息をついた。

 視線の先にあるのはただの青空で、そこには相変わらず大陸が一つ浮かんでいた。

                             了

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