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前編

【プロローグ】

 俺には四年より前の記憶が無い。

 いきなりで、なんの脈絡も無い話だが、事実だから仕方がない。

 もちろん自分が人であることや生活に必要な最低限の知識はあったが、それ以外は何もわからなかった。

 ただ、最初に目が覚めたとき、俺の視界には偏屈な爺さんのむさ苦しい顔があって、よくわからない状況の中でも自分に運がないことだけは理解できた。

 きっと落胆の表情を浮かべていただろう俺を見下ろして、爺さんも厄介なことになったとでも言いたげな表情を浮かべていた。

 しかし、彼の口から出てきたのは別の言葉だった。

「わしの名はジルだ」

 告げられた名前に俺も名乗ろうとして、しかし俺の思考はそこで止まった。

 口を半開きにしたまま呆然としている俺を大して気にすることもなく、ジルはそばにあった椅子に腰掛ける。

 そこで俺は、自分がベッドの上に横たわっていることに気がついた。

 体を起こそうとするが、全身が重くて指さえも動かせない。しかも少し動こうとしただけなのに疲労がすさまじく、呼吸が乱れて俺は力なくベッドに再び沈み込んだ。

 呼吸が少しは落ち着き始めた頃、それまで黙って見ていたジルが口を開いて話し始めた。

 俺が近くの森で気を失っていたこと。それを仕事帰りにジルが見つけたこと。そして、あのまま死なれては目覚めが悪いからと、しかたなく自分の家に連れてきたこと。

 そこでジルは一つため息をついて立ち上がると、付け足すようにこう言った。

「取り敢えず、落ち着くまではここにいろ」

 背中を向けてジルが扉の向こうへと消え、静まり返った空気に俺は周囲を見回した。

 剥き出しの木材で豪快に組まれた家の中には、猟銃のような物やナイフなどが壁に掛かり、それらと並んで大きな獣の毛皮がぶら下がっていた。

 部屋は大きく、中央に置かれた一抱えはありそうな丸太でできた木製テーブルにはシンプルなランプが一つ。しかし、そこに明かりはなく、代わりに室内を満たす光は壁に設けられた窓から入ってきていた。暖かな日差しを取り込むガラス窓の向こうには明るい緑が広がり、小鳥のさえずりが聞こえていた。

       ◆

 しばらくして普通に体を動かせるようになると、俺はジルに自分の名前を付けるように言われた。それまで俺は、「おい」とか「おまえ」とかで呼ばれていたが、外に出るようになったときにそれでは都合が悪いということだった。

 俺は面倒だなと思いながらも、取り敢えず自分にクウロという名前を付けた。意味はない。ただ口を動かしたら、そんな音が出てきた。それだけだった。

 その後も俺は何も思い出せないまま、ジルに言われるままに日々の家事と運動をこなし、それ以外は食っては寝るという変わらぬ毎日を続けていた。

 そんな時間が一年ほど続いたあるとき、俺はジルが生業にしている刻奏師クロッカーという仕事を手伝うことになった。

 以前に、なんとなくジルがやっている仕事について聞いたとき、彼は自分がやっているのは「ただの便利屋」だと言っていた。鍋の修理から人捜し、さらには森に現れる怪物の退治まで、依頼されればなんでもこなすのだと。

 そして、実際に彼の仕事を目にして俺は驚いた。

 確かにそれは鍵の修理や害獣の駆除といったものだったが、それを解決する手段が普通ではなかった。ジルが使ったのは符と呼ばれる紙切れと黒い指輪だけだった。

 それらを使って彼は刻奏術クロックと呼ばれる術を行使した。それは、ときに時間を巻き戻すかのように壊れた物を復元し、ときに凶暴な獣を一瞬で灰へと変えた。

 まるで手品か魔法のようなそれは、しかし現実に現象として目の前に存在した。

 世界の可能性を操作する術。それが刻奏術だとジルは言った。そして、世界の一部である人間の誰もが持っている力だとも。

 それを見た瞬間、俺の中で何かが動いたような気がした。

 そして気がついたときには、俺はジルに刻奏術を教えてくれと言っていた。

 しかし、ジルが俺に刻奏術を教えてくれることはなかった。

 代わりにジルは、俺をクロノ・スフィア13と呼ばれる刻奏術を専門に学ぶための全寮制の学園へと放り込み、そこで俺は上位の成績は愚か、順位さえもつかない落ちこぼれ――No Numbersの烙印を押された。

 まあ、刻奏術のことだけでなく知識全般が乏しい俺は筆記試験で全滅し、実技で素養だけは見出されてかろうじて入学を認められたのだから、当然と言えば当然の結果だった。

 そして俺は、学園の第一六〇期生として通称「最低十三組」とも呼ばれるNo Numbersだけが集められたクラスに在籍することとなった。

 卒業すれば弟子にしてやってもいいとジルは言っていたが、実際のところ、それはかなり厳しい現実だった。

 それは成績のことだけではなく、ジルと二人で暮らしていたときには気づかなかった自分の生活習慣というか、体質の問題も大きく影響していた。こればかりは努力でなんとかなるものではなく、そのせいで俺は学園中から変わり者として奇異の視線を向けられ、実技でも失敗続きだった。

 そんな状態が一年、二年と続き、俺はいつしか学園にいることに疑問を覚え始めていた。


【第一章】

 寮から校舎へと続く赤レンガの道を歩きながら、俺は手にした缶の中身を喉の奥へと流し込んだ。

「ふう、やっぱり朝はしっかり食べないとな」

 五臓六腑に染み渡る感覚に、朝食はまだかと腹の中でうるさかった虫の音もようやく

落ち着き、俺はゆっくりと一つ息を吐いた。

 左手奥にそびえる石造りの校舎は三階建てで、連続する水平窓が真っ直ぐに日の光を受けて輝いている。そして、その周囲には等間隔で整然と植えられた木々がどこまでも立ち並び、時折吹く朝の爽やかな風に緑の葉を揺らしていた。

 俺は風になびく伸び放題になった長い黒髪を押さえながら、気持ちのいい風を大きく吸い込み空を見上げた。そこには白い雲と、それより高い位置に一つ大陸が浮いている。

 シフト。それが、あの大陸の名前だ。大陸と言っても実際は超巨大浮遊艦で、全部で七つあるらしい。どれも空を移動しながら互いに交流していて、大陸を浮かせるだけでなく生活のすべてに刻奏術が使われているのだとジルは言っていた。

 世界人口の約四割が生活するシフト。そして、その根幹技術である刻奏術。そんなものが俺に扱えるのか。

 重い気分を吐き出すようにため息をついて、それでも俺は校舎へと歩いて行く。

 すると、背後から近づいてくる足音とともに肩を叩かれた。

「よお、クウロ」

 聞き慣れた声が俺の名を呼ぶ。

「シンか。おはよう」

 友の名を呼んで、俺は隣に並んだ男に目を向けた。そこには茶髪のいかにもチャラチャラした感じの男――シン=ビットレイの顔があった。

 シンは爽やかな笑顔で「おはよう」と返すと、俺が手にした缶を見て途端に苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

「また、そんなもの飲んでるのか? いい加減、まともな朝食にしろよ」

 半ば呆れたように言う友の言葉に、俺は缶に描かれた美味しそうなイラストを見せつけながら言った。

「何を言ってるんだ。今日は焼き魚定食味。しかも焼き海苔フレーバー付きだぞ。これ以上まともな朝食があるか?」

「焼き……」

 そこでシンの言葉が止まる。そして顔を缶から背けながらも、こう訊いてきた。

「ちなみに魚はなんなんだ?」

 気のせいか少し青ざめた顔のシンに、俺は缶を近づけながら答えた。

「鯖だ。旬の時期に捕れたものを使ってるから脂がのってて旨いぞ。飲むか?」

「いや、遠慮しとくよ」

「そうか? 旨いのに……」

 差し出した缶を押し戻して言うシンに、俺は焼き魚定食ドリンクの残りを一気に飲み干すと、近くにあったくずかごへと空き缶を放り投げた。缶はゆっくりと弧を描いて、狙い通りにカゴの中へ吸い込まれていく。小気味よい金属の音が響き、今日は少しはいいことがありそうな気がしてきた。

「シン! おっはよー!」

 すると、今度は元気な鈴の音を思わせる可愛らしい声が右から聞こえてきた。そちらへ視線を向ければ、女子寮へと続く道から小さな影が手を振りながら駆け足で近づいてくる。

 その影は軽い身のこなしでシンに跳びかかると、その体に抱きついた。

「チーちゃん。おはよ」

 その小さな体を抱きとめながらシンは彼女の名を呼ぶ、そして地面へ彼女を下ろすと、シンは彼女の頭を撫で回した。

 チーちゃんことチルト=タルトは、くすぐったそうに目を細めながら、もっと撫でてとでも言うようにシンを見上げる。それはまるで猫のような仕草で、しかし仕草以上に彼女の姿は猫だった。

 その頭には茶トラ猫を思わせるふさふさの毛が生えた三角形の耳があり、そして制服のミニスカートからは同じく毛で覆われた長い尻尾が伸びて、左右にピョコピョコと嬉しそうに揺れている。

 臓器付加アド・オーガン

 彼女は、一般的にそう呼ばれる人間だった。

 この世界には大きく分けて二つの勢力がある。

 一つは、自分たちに合わせて環境を変えるべきだと考える者たちのグループ。もう一つは、環境に合わせて自分たちのほうを変えるべきだという考えを持つ者達だ。前者はシフト、後者はフィッツと呼ばれていた。

 そして、ナルはフィッツ側の人間だった。

 地上を捨ててまで理想的な生活環境を追い求めたシフトに対し、フィッツは地上に残り自らの食生活や習慣、極端な場合は彼女のように肉体まで変化させて自然環境に適応しようとした。

 ちなみにシンはシフトの出身だ。

「クウロもおはよ」

「おう」

 頭を撫でられながらチルトが片目だけ開けて、気持ちよさそうな声で言ってくる。そして十分堪能するとシンから離れて、俺たちの前を後ろ向きで歩きながら彼女は訊いてきた。

「ねえ、シン、クウロ。知ってる?」

「いや、知らん」

 耳を傾けながら、いかにも聞いて欲しそうに目を輝かせて言うチルトに俺は即答した。 途端にチルトは頬を膨らませて俺を睨みつけ、

「もう! まだ何も言ってないでしょ? クウロには教えてあげない!」

 そう言ってそっぽを向くと、捨てられた猫のような上目遣いでシンのほうをじっと見つめる。

 シンは少し考えるような仕草をしたが、あっさり降参すると彼女に訊いた。

「何かあるの?」

 すると彼女の顔に満面の笑みが浮かび、

「あのねあのね、今日、編入生がやって来るんだって!」

 そう楽しげにチルトは答え、シンは思い出したように相づちを打つ。

「ああ、そういえばそんな噂が男子寮でも流れてたな。たしか、腰まである流れるような白髪のきれいな女性だとか……」

「く、詳しいのね」

 シンの言葉にチルトの顔が少し引きつったような気がしたが、シンは記憶をたぐり寄せるように空を見ていて気付いていない。

「ああ、結構な美人らしいってことで男子寮でも盛り上がってたからね」

「ふ、ふーん。で、シンはどうなの?」

 チルトは俯きながら、器用に後ろ歩きのまま低い声で尋ねた。

「どうって?」

 軽い声で聞き返すシンに、チルトは指をモジモジさせながら窺うように上目遣いで言った。

「だ、だから……、編入生のこと、気になる?」

「まぁ、美人なら一目見ておきたいかな」

「へ、へぇ、そうなんだ……」

 チルトの周囲が一段沈んだように暗くなった気がした。

「チーちゃん?」

 俯いて黙り込むチルトにシンが不安そうに声をかける。

 チルトの耳と尻尾は力なく垂れ下がり、その足取りがピタリと止まる。

「シンの……」

 俯いたままのチルトから声が漏れ、同時に授業開始の五分前を告げる予鈴が鳴った。

「何? チーちゃん」

 そしてシンが耳を近づけ、その耳にチルトも手を添えて口を近づける。そして、

「シンのばかーーーっ!」

「―――――――!?」

 真っ赤な顔で大声を上げると、彼女は砂煙を上げる勢いで校舎へと走り去っていった。

「え? ちょっと、チーちゃん?」

 片手で耳を押さえながらシンはもう一方の手を伸ばすが、そこにチルトの姿はもうなかった。

 わけがわからないといった顔を向けてくる友に、俺も首を左右に振ってため息をつく。

 やっぱり今日も、面倒ばかりでいいことのない一日になりそうな気がしてきた。

       ◆

「えー、我々がシーリアと呼んでいるこの世界は、多数の国家と呼ばれる組織体が大小様々な土地を領土として支配していた混沌による統一時代――ユニオンを経て……」

 スフィア13の校舎。その二階端にある十三組の教室では、二十名ほどの受講生を前に講師が世界史の講義を行っていた。

 講師の後ろにある壁には一面に模式図が投影され、講師の手の動きに合わせてユニオンを示す図が、シフトとフィッツを表す図へと変化する。

 俺は窓際の席でテキストを広げながら、ぼんやりと外へ視線を移した。

 外は昼間だというのに薄暗く、空には暗い大きな陰が三つ浮かんでいる。

 空を覆い日を隠すシフト艦の群れ。

 朝に見たもののほかに、それぞれ形の違う艦が二つ、L字になるように接舷している。

 あそこに世界の四割近くの人が住み、それぞれの生活を営んでいるのだ。

「……その結果、考え方の違いから人間は大きく二つの勢力に分かれました。一つは、ユニオンにおいて、これほどまでに人間が自分勝手に世界を変えてしまった以上、今後も人間が責任を持って世界を管理しなければならないという絶対管理主義に基づく勢力。もう一つは、あくまで人間は自然の一部なのだから、どんなに自然が荒廃しようともそれを受け入れ、同じ過ちを犯さないように今後は自らを自然に合わせ、自然へと回帰すべきだとする自然回帰主義による勢力。これら二大勢力はシフト、そしてフィッツと呼ばれ……」

 講師の説明を聞き流しながら、俺は斜め前へと視線を向ける。そこにはシンがいて、困り顔で隣のチルトに何か話しかけている。しかし、当の獣耳けもみみ少女は聞く耳を持たないといった感じで耳の向きを器用にシンから逸らし、頬を膨らませたまま頑なに前を向いていた。

 周囲を見回しても彼女のような身体的特徴を備えた者はいない。

 フィッツの中でも臓器付加はレアキャラ。

 シンから最初に彼女を紹介されたとき、チルトはそう言って笑いながらも少し影のある表情を浮かべていた。

(まあ、いろいろあるんだろうな)

 シフトとフィッツ。かつての混沌とした時代を教訓として大きな争いはないものの、互いに相容れない考えを持つ二つの勢力。

「俺は……」

 そこまで言って、俺は視線を空へと戻してため息をつく。

 すると、後ろのほうから囁くような小さな声で話し声が聞こえてきた。

「ねえねえ、編入生の話聞いた?」

 横目で見れば、ツインテールの女子が隣のメガネ女子に話しかけている。

「編入生って、例のあれに似てるっていう?」

「え? 何、その話」

 メガネの話にツインテールのほうが興味津々といった感じで聞き返す。

「知らないの? 今度来た編入生って七不思議に出てくるアレに似てるらしいわよ」

 メガネは心なしか暗い声で答え、含み笑いを浮かべる。それに対してツインテールは、少し躊躇いがちにだが先を促した。

「あ、あれって?」

 メガネは少し俯き加減でゆっくり息を吸うと、口の端をつり上げて低い声で言う。

「音楽室の幽霊」

「えっ!? マジで!?」

 思わず立ち上がって声を上げたツインテールに講師の話は止まり、周囲の視線が彼女に集中する。

 静まり返った教室の中でツインテールは我に返り、

「……す、すみません」

 そう小さな声で謝ると、席に座り直して縮こまった。

 それを見て周りの受講生が何人かくすくすと笑い、講師は咳払いを一つして授業を再開する。

「えー、そして、統一時代末期に開発された技術――刻奏術によって人間は可能性そのものを操作できるようになりました。それは未来という無限の可能性を、現在そして過去へと変える術。すなわち能動的な時間操作とも言えます。ただ、過去から未来へは……」

 受講生達も講師のほうへと視線を戻し、好奇の目から解放されたツインテールは、周囲を多少気にしつつも懲りずに再びメガネに話しかける。

「それって、本当なの?」

「ええ、幽霊を実際に見たっていう子が言うには、足下まである長い白髪に顔立ちまで何もかもがそっくりだって」

「何それ。こわーい」

 言葉とは裏腹に、どこか楽しげに言うツインテールとメガネから目を逸らして、俺は天井を見上げた。

 たしか、音楽室は三階にあったはずだ。

 よくある学園七不思議に出てくる音楽室の幽霊。

 そして、それにそっくりな編入生。

 考えただけで既に面倒そうな雰囲気に、俺は肩を落として机の上に突っ伏した。

       ◆

「なあ、幽霊って見たことあるか?」

 教室で昼食のドリンクを手にしながら、俺は隣に来ていたチルトとシンに話しかけた。

「何よ、いきなり」

 フォークに刺した拳サイズの鶏肉の唐揚げをシンの口に詰め込みながら、

「私は見たことないし、見たくもないわ」

 と、フォークを押し込みながら彼女は答えた。

 シンはと言えば、なんとか肉の塊を半分だけ口に入れ、

「ほれって、ななふひひの?」

 と、もごもごと頬を膨らませたまま何か言っている。

「もう、食べながらしゃべらないのっ! それに残さないで最後まで食べる!」

 チルトに勢いよく残りの唐揚げを突っ込まれたシンは、顔を青ざめさせ白目を剥いて黙り込む。

 そんな彼に俺は御愁傷様と取り敢えず視線だけを送って話を続ける。

「なんか、編入生が学園の七不思議に出てくる幽霊に似てるんだと……」

「ふーん。どうせ色白で病弱な感じってだけなんでしょ?」

 なんとか肉を呑み込んだシンの口に、これまた彼女の腕くらいの長さはあるバゲットでできたサンドイッチを突っ込みながら彼女は興味なさそうに言った。

 涙目で助けを求めるシンから俺は窓の外へと目を向け、手にしたドリンクの残りを飲み干す。タマネギの甘味とポン酢の酸味が爽やかな香りとなって鼻から抜けていく。

 空には二つ。午前中とは別のシフト艦が並んで浮かび、いつもと変わらない平和な日常に俺は一息ついた。

「それにしても、相変わらずドリンクだけでよく飽きないわね」

 平穏を味わっていた俺に、チルトが柔らかそうな白パンにローストビーフとチーズをたっぷり挟んだサンドイッチを手にして言ってきた。

 ふとシンの様子を窺えば、そこにはシマリスのように頬を膨らませた友の安らかな顔が横たわっている。

「…………」

 俺は視線を戻して話を続けた。

「ん? そりゃ、毎日メニューが違うからな。ちなみにこれは玉ねぎポン酢ソースハンバーグ定食だ」

「えっ、玉ねぎで定食? よくそんなの飲めるわね」

 チルトは明らかに気持ち悪そうな顔で言った。

 そんな彼女に、俺は空き缶に描かれた虹色に輝く筋肉料理人マッスルコックを見せながら言い聞かせる。

「おまえ、レイエナのドリンクを馬鹿にするなよ?」

「れい……何?」

「おいおい、まさか知らないのか!? レインボーエナジー社。略してレイエナ! ドリンク業界の魔術師! レイエナにドリンク化できない物はないと言われるほど、ドリンク業界じゃ有名だぞ!」

「へ、へぇー。ソウナンダ」

 なんにもわかってない様子のチルトに、俺はさらに缶に書かれた成分表を見せなから懇切丁寧に教えてやる。

「ご飯や味噌汁はもちろん。付け合わせの茹でたブロッコリーにポテト、それにキャロットグラッセまで再現するとか。もはや神だろッ!」

「いや、神かどうかは知らないけど。す、すごいことだけはなんとなくわかったわ」

 缶を押し返しながら顔を引きつらせて言うチルトに、俺はため息をつく。

 目の前でサンドイッチを頬張り始めた彼女の口からは鋭い犬歯、こいつの場合は猫歯か?が覗き、それがパンと肉を容赦なく噛み切っていく。

 その光景に俺の背筋に悪寒が走り、慌てて俺は彼女から目を逸らした。

 すると、教室の扉の向こうに人影が集まっている。そして直後に扉が開いた。

「ここが君の教室だ」

 そう言って入ってきた講師に続いて、見覚えのない女性が現れる。しかし、その特徴的な姿に俺は一目で気付いた。

 あれが噂の幽霊編入生か……。

 教室内がさざ波のように静かにざわついた。

 それは噂どおりの足下まで伸びる長い白髪で、細身の体がまとう黒いシャツとズボンに映えていた。そして、その隙間からのぞく色白の肌は陶器のようになめらかで、卵のような丸みを帯びた小顔には青い瞳が静かな色を添えている。

(幽霊と言うより人形みたいだな)

 そう思っていると、不意に彼女と目が合った。しかし、その瞳はどこか遠くを見ているようで俺ではない何かを見ているように思えた。

 講師は教壇に立つと、隣に彼女を置いて言った。

「彼女は、今日編入してきたナル=レクト君だ」

 彼女――ナル=レクトは、周囲から向けられる好奇の視線にも動じることなく周囲を見回すと、

「よろしくお願いします」

 それだけ言って軽くお辞儀をした。そして再び顔を上げると、扉のほうへ向いてさっさと教室を去ろうとする。

「おい、レクト。ちょっと待て」

 講師の声にレクトは振り向いて首をかしげ、講師は教室内を見回してこっちを向くと、

「クウロ。クウロ=ルワーノ」

 見下ろすような視線とともに俺の名を呼んだ。

 嫌な予感しかしないが、講師は俺の気持ちなど気にせず続きを口にした。

「おまえ、レクトに学園内を案内してやれ」

「げっ」

 思わず声を漏らした俺に、講師は大げさに拝むような仕草をして言う。

「午後は講義無いだろ? 頼むよ?」

 しかし、その目は笑っている。

 知っているのだ。俺が断れないことを。

「なんで俺が……」

 視線を逸らし「嫌です」と言おうとして、俺は締め付けるような頭痛に顔をしかめた。

 いつもこれだ。わかっていても、どうしようもない。 ――不断症――

 何かを断ろうとすると、頭痛や吐き気、息苦しさと言った原因不明の症状に襲われる。

 このせいで俺は、周囲から使い勝手のいいお人好しだと思われていた。

 鈍い痛みを逃がすように大きく息を吐くと、俺は苦痛を引かせるために仕方なく了解の言葉を口にする。

「……わかりましたよ」

 途端に講師はしたり顔になって、

「さすが、便利屋クウロ。じゃあ、頼んだぞ」

 と、変なあだ名とともにレクトを残してさっさと去って行く。

 残されたレクトを半眼で睨むが、彼女は何も言わずに俺のほうを向いたまま、その場で静かに立っていた。その青い瞳はガラスのように澄んでいて、見ているとまるで吸い込まれそうなほど、何も映ってはいない。

 動かない彼女に俺は一度大きくため息をつくと、重い腰を持ち上げて彼女に言った。

「じゃあ、さっさと行きますか」

       ◆

「今いる二階の俺たちがいる十三組の並びがCクラス。で、ここの下が講師室……」

 俺は廊下を歩きながら、コの字型をした学園校舎について端から説明していく。

「で、角を曲がるとAクラスの教室で、さらに曲がって奥がBクラスの教室。で、各階の角には階段とトイレ。Cクラスの上には備品室と音楽室。Aクラスの上には特Aクラス。で、Bクラスの下には実習室がある」

 ちょうどAクラスの廊下が見える角に来たところで俺の説明は終わった。だから俺は、ついてきているはずのレクトに視線を向けて、

「以上だ」

 そう締めくくる。 しかし、そこにあったのは目をつり上げたチルトの顔だった。

「ちょっとクウロ、あんた、ちゃんと案内しなさいよね」

「はぁ? 今ので十分だろ?」

「あんたねぇ、レクトさんはここに慣れてないんだから、わからないところはないかとか聞きなさいよね。それにAクラスの下とBクラスの上が抜けてるわよ」

 俺はチルトの後ろでこっちを見ていたレクトに言う。

「Aクラスの下は昇降口、Bクラスの上は……仮工房が二つあったな。これでわかったか?」

「はい」

 不満そうな顔もせず、彼女は頷いた。

「じゃ、そんな感じで終わりだが」

「だぁああっ、そうじゃなくて!」

 用が済んだので教室に戻ろうとする俺に、なぜかチルトは地団駄を踏んで怒り出す。そんな彼女の様子に、俺はどうすればいいんだと視線でシンに助けを求める。

「仕方ない。あとは俺に任せろ」

 不敵な笑みを浮かべるとシンはレクトの肩に手を置いて、髪をかき上げながら、

「じゃあ早速。ナルさん、スリーサイズは?」

 そう言った。

「あんたは、いきなり何訊いてるのよ!?」

「いたたた。か、噛むな! 手を噛むなよ!」

 手に食らいついたチルトを振り払おうとするシンの横で、レクトが考え込むようにつぶやく。

「えーと、上から……」

「あんたも答えないっ!」

 とっさに突っ込んだチルトに、俺は呆れながら言う。

「おいおい、初対面であんた呼ばわりかよ」

 するとチルトは慌てて口に手を当て、

「あ、レクトさん、ごめんなさい。つい勢いで」

 そう言うと眉尻を下げた上目遣いでレクトの様子を窺った。

「ううん。構いませんけど……」

「けど?」

「レクトじゃなくてナルで構いませんよ?」

 途端にチルトは目を輝かせ、顔をほころばせかけたものの俯くと胸の前で手をぎゅっと握り黙り込む。

「あの……、チルトさん?」

 黙り込んだチルトにレクトは不思議そうに声をかけ、それにチルトは再び上目遣いでレクトを見つめる。その視線は真っ直ぐで、しかし瞳は不安に揺れている。

 それでもチルトは口をゆっくりと開き、唇を震わせながらも彼女の名前を口にした。

「……ナ、ナル?」

「はい」

 目を細めて微笑みながら返事をするレクトに、チルトは満面の笑みで飛びつきながら彼女の細い体に抱きついた。

「よろしくね。ナル!」

 少し大げさな喜びようにレクトは少し驚いているようだったが、それでもしっかりとチルトを受け止め、レクトは彼女の頭を優しく撫でた。

 二人の間に少し近寄りがたい華やかな謎空間が生まれる。

「なあ、クウロ」

「なんだ?」

「なんか俺たち蚊帳の外?」

「そうだな」

 シンは二人を見て困ったように頬をかき、俺はため息をついて廊下の窓から空を見上げた。

 相変わらず、空にはシフト艦がのどかに浮かんでいる。

「ところでシン?」

 そんな穏やかなムードを遮って、チルトがレクトに抱きついたまま低い声で言った。

「ん? 何? チーちゃん」

 呼ばれて少し嬉しそうに返事をするシンに、チルトはレクトを後ろにかばうようにして言った。

「あんた、ナルに謝りなさいよね」

「え? なんで?」

「彼女のスリーサイズ訊いたでしょ?」

「いや、だってほら、案内するにも相手のこと知らないと。失礼があったらいけないし……」

 シンは後ずさりながら、睨みつけるチルトに説明を試みる。しかし、彼女はダンッと足音を立てて一歩詰め寄ると、

「女性にスリーサイズ聞いてる時点で失礼よ!」

 鼻息荒くそう言った。

「いや、でも、大事なことだし……」

 顔を近づけ睨みつけるチルトから目を逸らそうと俯いたシンは、ふと、そこにあるスラリとしたチルトの体を見下ろし黙り込む。そして、顔を上げると真面目な顔で、

「なんか、すまん」

 そう言って彼女の肩をぽんぽんと軽く叩いた。

「シィーーーーンンンンン!」

 尻尾と毛を逆立ててチルトが業火のごとく真っ赤な顔で牙を剥く。

「ひぃっ!」

 とっさに俺の後ろに隠れてガクガク震えるシンにため息をついて、俺は面倒ながらも友をかばうべく、チルトにそれくらいにしておけと言おうとして、

「ふふっ」

 突然聞こえた笑い声に、迫る猫娘の後ろへと目を向ける。

「え? 何?」

 チルトも驚いて振り返れば、そこには口元を手で押さえたレクトの姿があった。

 突然笑い出したレクトに、チルトの尻尾と耳はしぼんだように垂れ下がり、

「わ、笑われた……」

 そう言うと、よほどショックだったのかその場にパタンと座り込んだ。

「ご、ごめんなさい。でも……」

「でも?」

 上目遣い訊いてくるチルトに、レクトは微笑みながら答える。

「可愛らしいなと思って……」

「か、可愛い!?」

 途端に耳まで真っ赤にして、チルトは尻尾を激しくくねらせた。

 そんなチルトをよそに、俺は内心レクトの言葉に驚いていた。

(チルトが可愛い?)

 今まで学園内でそんなことを言った奴を、俺はシン以外に知らない。

 いつの間にか隣に立っていたシンに視線を向ければ、彼も驚いたような目でレクトを見ていた。

「ま、まったく。しょうがないわね」

 そう言って立ち上がると、チルトはレクトの手をとって楽しげに言った。

「失礼な男どもなんて放っておいて行きましょ。見ておきたい所とかある?」

「見ておきたいところですか?」

 レクトは少し考えて、

「……七不思議……」

 と、つぶやくようにそう言った。

「七不思議?」

「ええ。なんだか私を見て皆さんがそうおっしゃっていたので……」

「ああ、それね……」

 途端にチルトは困った顔で、どう説明したものかと唸り始める。

(本当に表情がころころと変わる奴だな)

 そんなことを思いながらも、俺はチルトを見るレクトの視線に異質なものを感じていた。

       ◆

「よくある学園七不思議の一つに、たまたまナルに似た女の子がいてね」

「そうだったんですか」

 チルトの話に、レクトは特に気にした素振りもなくそう言った。

「まあ、似てるって言っても色白で髪が長いってことだけだから気にしないで」

 心配そうにチルトはレクトの顔色を窺ったが、

「それで音楽室の幽霊のほかには、どんなものがあるんですか?」

 と、当の彼女は自分が幽霊に似ているということよりも、七不思議のほうが気になるようだった。

「え? ほ、ほかには? えーとね、願いの叶う井戸に神隠しでしょ、実習室の動く人体模型に終わらない階段、開かずの扉。これにさっきの音楽室を入れて六つだから、あとは……」

 親指から順に指折り数えていたチルトの指が小指を立てたまま止まる。

「…………」

 レクトと俺とシンの視線が小指に集まり、チルトは思わせぶりに俺たちを見回すと、

「誰も知らないのよね」

 お手上げといった感じでそう言った。

「は? 知らないのかよ!」

 思わず声を上げた俺に、チルトはふて腐れたように口を尖らせて視線を逸らす。

「知らないっていうかぁ、誰も知らないこと自体が七つ目の不思議? みたいな?」

「おまえな……」

「まあ、よく最後の不思議を知ると不幸になるとか死ぬとか言うからね」

 シンのフォローに、チルトはそれが言いたかったとばかりに「そうそう」と頷いた。

 レクトは少し残念そうな声で「そうなんですか」と言ったものの、

「よければ、その一つ一つについて、もっと詳しく教えていただけませんか?」

 と、熱心にチルトの手を握って真っ直ぐな瞳を向けた。

「いいけど、もしかしてナルさんって怖いもの好き?」

「え? ええ、まあ、そんなところです」

 そう言って浮かべたレクトの笑みは少しぎこちない感じがしたが、チルトは「ふーん」と少し考える素振りを見せただけで、彼女の手を握り返すと笑顔を浮かべ、

「わかったわ。じゃあ、説明しながら実際にその場所にも案内してあげるね」

 そう言って嬉しそうにレクトの手を引っ張って歩き始める。

「はい。お願いします」

 それに続いてレクトも歩き出し、手を繋いで仲良く歩く獣耳少女と幽霊少女の背中を見ながら、俺はふと当初の目的を思い出してため息をついた。

「チルトだって人のこと言えないじゃないか」

「まったくだね。本当は幽霊とか苦手なくせに世話が焼けるよ」

 隣を見れば、やれやれとえらそうに友が首を振っている。

「だったら、さっさと世話を焼きに行くぞ」

 俺はシンの首に腕を巻き付け絞めつけると、取り敢えず二人の後を追うことにした。

       ◆

「ここがチルトさんのお部屋ですか……」

 そう言ってレクトさん、じゃなくてナルは私の部屋に入ると室内を見回した。

 奥の窓側には机が二つ、手前の廊下側には壁際にベッドが二つあり、ベッドと机は部屋の真ん中を広く使えるように左右対称に並んでいる。

 入って左側は私が使っていて資料や道具が並んでいるけど、もう一方にそういったものは何もなく、荷物の入った箱が三つ、ぽつんと置いてあるだけだった。

「本当にこの部屋で……、私と一緒の部屋でいいの?」

 私は隣で部屋を眺めるナルに尋ねた。

 七不思議を中心に一通り学園を案内し終えて、私達は男どもと分かれて女子寮に戻ってきた。そして、寮長からナルの荷物が部屋に運んであると聞いて彼女の部屋へと向かったのだけれど、それは私の部屋だった。

「机やベッドもありますし、荷物もちゃんと届いてますから、特に問題ないと思いますけど?」

 事も無げにナルは言う。

「えと、あの、そういう意味じゃなくて……。〝私〟との相部屋でいいのかなって……」

「?」

 〝私〟の部分を気持ち強調して言ったつもりだったけど、彼女は小首をかしげてこっちを見るだけだった。じっと見つめるその視線から逃げるように、私は絨毯の敷かれた床へと視線を落とす。

 彼女を疑うわけではないけれど、どうしても胸でざわめく不安を私は口にする。

「いや、あの……。私、こんな姿だし……。ナルは、その、可愛いって言ってくれたけど……。大抵の人は気味悪がるから……。こんな私と一緒にいるとナルに迷惑が……」

 チラリと横目で窺うと、彼女は相変わらず小首をかしげたままぽつりと口を開いた。

「迷惑、ですか……」

 彼女の声には肯定も否定もなくて、私に向けられたものかどうかもわからなくて、どうしようもなく不安になる。

「わ、私は迷惑じゃないし嬉しいんだけど、けど……」

 自分の気持ちをなんとか伝えようとして、でも出てきた言葉は言い訳みたいで私は自分の弱さに虚しくなった。

「チルトさん」

 名前とともに私の手が握られる。

 少し冷たいその感触に、私は視線を上げてナルを見る。目の前の彼女は私を真っ直ぐに見つめていた。

「チルトさんは自分のことが嫌いですか?」

 穏やかなナルの声が私の耳を打ち、直後、私の耳と尻尾の毛がぞわぞわと逆立って、自分でもわかるほどに顔が熱くなる。

「そんなこと、ないけど……」

 思わず視線を逸らした私に、

「私は気にしませんから、あなたも気にしないでください」

 彼女はそう言って、ふわりと私を抱きしめた。

「ナル?」

 彼女の体は手と同じように少し冷たくて、でも、それは海に包まれているように心地よかった。

 頬から次第に熱が引いて、体から余計な力が抜けていく。

(なんだか落ち着く)

 そんなことを思いながら、自然と私も彼女を抱きしめ返そうと腕を伸ばし、

「あ、荷ほどきをしないと。チルトさんも手伝ってくれますか?」

 そう言ってナルは私の腕からするりと抜けるように、白い髪をなびかせて行ってしまう。

 伸ばした腕の中には、もう何もない。

 私は箱を開け始めたナルの背中を見つめ、少しふて腐れながら彼女に向かってこう言った。

「……チルト……」

「え?」

 聞き返す彼女に、私は掴み損ねた手を握りしめて、自分の気持ちを絞り出すように声にする。

「だから……チルトって呼んで! ナルも私のこと、呼び捨てにして!」

 思わず大きくなった声に顔が熱くなる。でも、私はナルから目を逸らさず、じっと彼女を見つめた。

 時間が伸びるような感覚に頭がくらくらし始め、そんな私にナルは微笑を浮かべて手を伸ばす。

「では、手伝ってくれますか? チルト」

 待っていたその言葉に私は、

「うん!」

 と大きく返事をすると、彼女の手をとって二人で荷物を片付け始めた。

       ◇

「えっ!? あの子、神隠しに遭ったの?」

 静かな廊下に女生徒の声が響いた。

「しーっ! 今、Aクラスは授業中よ!」

 もう一人の女生徒が慌てて横の教室を指さし言う。

 廊下には彼女たち二人しかおらず、耳を澄ませば教室から聞こえる年老いた講師の声が変わらず講義を続けている。

「でも、掲示板には退学だって……」

「そりゃそうよ。神隠しに遭ったなんて言えるわけないでしょ」

 互いに顔を寄せ合って二人は声を潜めて話を続ける。

「それに彼女、いなくなる前日の夜に願いの井戸の近くにいたんだって」

「嘘っ!? それって……!」

「だーかーら、いちいち驚かないでよ」

 驚いた女生徒の口を手でふさぎ、もう一人が教室のほうを気にしながら注意する。

「…………」

「え? あんた、何? 急に震えて、どうしたの?」

 口をふさがれた女生徒が青ざめた顔で声を震わせ言葉を漏らす。

「ど、どうしよう。私、お願いしちゃった……」

「お願いって……。えっ!? マジで?」

 今度は自分の口を慌てて押さえ、さすがに場所を変えようと震える女生徒の肩を抱いて歩き出す。しかし、ふと立ち止まると彼女は俯く女生徒の耳元に話しかけた。

「で、何をお願いしたのよ?」

「え? そ、それは……」

 聞かれた彼女の顔が、みるみるうちに青から赤へと変わっていく。

「もしかして彼のこと?」

「ち、違うわよ!」

 慌てて彼女は否定するが、それを見てもう一人が意味ありげに笑みを浮かべた。

「ちょっとぉ、何をお願いしたか詳しく教えなさいよぉ」

「嫌よ! なんだっていいでしょ?」

 肩に回してきた腕をはねのけて、女生徒はもう一人にあかんべーをすると一目散に廊下を走り去っていく。

「あっ、待てーーーっ!」

 狙った獲物を逃すまいと、それを追いかけてもう一人も廊下の先へと消えていく。

 誰もいなくなった廊下は静けさを取り戻し、ただ講義の音だけが変わらずしていた。

 そんな廊下の壁には教室と同様に、講座案内やサークルの催し物などの連絡事項が賑やかに投影され、そして、そうした通常の連絡事項から少し離れた場所に、飾り気のない文字列で一つの通告が表示されていた。

『告 以下の者を学則第三十八条に基づき退学処分とする。 第一四九期生 ナルミ=ユウノ 時間監視局員養成所 第十三学園長』

       ◆

「さて、今日は一般的な符の実習をやってもらう」

 教室三つ分はある広い実習室で、厳ついタンクトップ姿の講師が赤い縁取りの紙切れを一枚手にして説明をしている。

 正面にある教壇を中心に受講生達は思い思いの場所に椅子を置き、講師を囲むように座っていた。

 二クラス合同ということで受講生の数は多いが、それでも机などの余計な物は一切ないので十分な広さがある。ただ、黒一色に塗りつぶされた天井と床、そして普通の教室よりも小さな窓のせいで多少の圧迫感はあった。

「それから、わかっていると思うが今回の実習には危険が伴うから決して注意を怠らないように。いいな?」

 睨むように見回して言う講師に、受講生達からは「はーい」と言う声や頷きがまばらに生まれる。

 俺は天井や床に付いた無数の傷や爆発跡を見ながら「へーい」と適当に答える。

(この程度で危険か)

 思わず頭をよぎったジルの怪物討伐と比べてしまい、俺はため息をついた。

 今一つ緊張感のない雰囲気のまま、講師は半ば諦めた感じで話を続ける。

「まったくおまえらは……。まあいい、では実習の前に軽く符のおさらいといこう」

 そして俺のほうを向くと、

「チルト=タルト。おまえ言ってみろ」

 と、俺の隣にいたチルトを指名した。

「えっ? 私ですか?」

「そうだ」

 緊張するチルトをよそに、俺はほっとして高みの見物を決め込む。

「えーと、符とは鍵の集合体で……、鍵は、えっと鍵は……」

 立ち上がったチルトがたどたどしく符の説明を始める。その視線はすぐさま助けを求めるように周囲を彷徨い、しかし逆に自分に集まる視線で余計にオロオロし始める。

「あの、その……」

 言葉が続かないチルトに、周囲からはくすくすと笑う声が聞こえ始め、それは明らかな嘲りの色を持った視線となって、その数を増やしていく。

「うぅ、えっと…………」

 ついには俯いたまま力なく耳と尻尾を垂らしてチルトは黙り込んだ。

 俺は思わずこめかみを押さえ、講師は呆れたような視線を彼女に向けてこう言った。

「もういい。ビットレイ、代わりに答えてみろ」

 その言葉にチルトを挟んで反対側にいたシンは「はい」と短く返事をして立ち上がり、泣きそうな顔で立ち尽くすチルトの頭を撫でて座らせる。そして周囲をゆっくり見回すと、鋭く息を吸って一気に説明を開始した。

「符とは鍵の集合体であり、鍵とは過去の源を意味します。そして鍵は、万物の可能性である可変素子が量子状態にある時相、すなわち来相に触れることで錠と呼ばれる過去の土台を構築し、その周囲に門が形成されることで来相は過相へと相転移します。その中間というか来相と過相の境界面こそが、我々が認識する今、すなわち現相であり、符とは特定の過去、簡単に言えば現象の起源を固定化させたものと言えます。また広義では、未来という本来は未確定な可能性を意図した過去へと確定的に転移させるための手法、またはそのために使われる符を実体化させた道具も符と呼んでいます」

 そして、それは途切れることなくまだ続く。

「ただし、その作成には鍵を集積させるために多少なりとも期間が必要で、低次符と呼ばれる物質を基にした符の場合は、作成にかかった期間によって三年物や十年物などという等級が存在します。また、単純で小規模な現象しか引き起こせない低次符に対して、複雑で大規模な現象を起こせる高次符は生命体を基盤とし、それゆえに人間は自らを用いて……」

「ストップ、ストップ!。もういい。それくらいでいいだろう」

 講師の声に、シンは開いた口を閉じると黙って席に着いた。

 いつの間にか周囲の受講生達は静まり返り、講師は咳払いを一つして視線を集める。

「つまり、符とは特定の現象を発現させるトリガーということだ。では、これから符を配る」

 そう言って前にいる受講生達に紙の束を渡して後ろに回すように指示を出す。

「符には発動条件があるが、今渡した符の条件は一般的なキー・ワード・アクション方式で……」

 そう言って、講師は手にした符を親指と人差し指で挟んで立てると前に掲げた。

閉紋ロック:バースト!」

 その言葉の直後、符は赤い光を放って先端を一気に燃え上がらせる。そして、符はたいまつのように炎を揺らめかせながら周囲に光と熱を放ち続けた。

「このように〝バースト〟というワードと親指と人差し指で挟むというアクションによって発動する」

 紙の部分が短くなってくると、講師は符を床に捨てて踏んで消火する。そして周囲を見回して、

「全員、符は行き渡ったか? 無い者がいたら手を上げろ」

 誰も手を上げないことを確認すると、

「じゃあ、全員立って椅子は端によけろ。それから、それぞれ距離をとって符を構えろ」

 そう言って受講生に散らばるように指示を出す。

 俺も符を手にして距離をとると、次の指示を待って講師を見る。

 すると講師はこちらを見て、

「おい、レクト。編入早々だが、おまえが最初に使ってみろ」

 チルトの後ろにいたレクトに声をかけた。

「はい」

 レクトは言われたとおりに、符を親指と人差し指で挟んで立てるとワードを口にする。

「閉紋:バースト」

 それは抑揚のない声で、すぐに沈黙が訪れる。

 周囲は明るくも熱くもならず、レクトの手には真っ直ぐに立ったままの符が変わらずあった。

 それを見て白髪の少女は小首をかしげる。

 そんなレクトに、講師は困ったような呆れたような表情を向けながら言った。

「あのな、レクト。発動条件は、ただそれをすればいいってもんじゃないんだ。鍵で構成される符は精震に反応する。発動条件は、その精震を符へと伝えるための方向付けに過ぎないってことも知らないのか?」

「……すみません」

 レクトは符を掲げたまま、視線だけを講師に向けて淡々と謝った。

 講師は大きくため息をついて、仕方ないという感じで説明する。

「幾ら条件どおりにやったって肝心の精震が弱かったら符も反応しない。大事なのは、その現象が起きる未来のイメージだ。そんな冷めた言い方で燃えるような未来が起きると思うのか? 人形じゃないんだから、もっと気合いを入れてやってみろ」

 講師の言葉にレクトは少し黙り込み、符へと視線を戻すと再びワードを口にする。

「閉紋:バースト!」

 今度は気持ち少し大きな声だった。

「…………」

 しかし、結果は変わらない。手にした符がお辞儀をするようにヘニャリと曲がり、講師もがっくり頭を垂らす。

「もういい。しばらく後ろのほうで一人で続けていろ」

「……はい」

 呆れる講師にそれでも大して表情を変えず、レクトは素直に指示に従った。

 教室の後ろ、壁際まで下がると符を構えたまま、「バースト」「バースト」とまるで呪文のようにワードを繰り返す。

 その様子に周囲はそれこそ幽霊でも見るかのように距離をとり、チルトはそれを遠くから心配そうに見つめ、俺とシンは困り顔で苦笑を浮かべていた。

 すると、誰かが俺の肩をつかんだ。

 嫌な予感に振り返れば、暑苦しい講師の顔がそこにある。

「クウロ。じゃあ、次はおまえがやってみろ」

「はぁ、俺ですか……」

 肩を落として言う俺に、講師は見下ろすような視線を向けながら言う。

「汚名挽回のチャンスだ。今度は壁に穴を開けるなよ?」

 その言葉に俺は「それを言うなら返上だろ」と思いながらも大人しく符を前にかざす。そしてレクトと似たような感じで、やる気なくワードを口にした。

「閉紋:バースト」

 直後、符はまばゆいほどの赤光を放ち、天に昇る龍のように天井へと炎を吹き上がらせる。それは暴風のような風音ともに天井を瞬く間に火の海へと変え、俺は講師の言葉に不本意ながらも納得せざるをえなかった。

       ◆

「ねえ、あなた。ちょっといいかしら」

 夜の帳が降り始めた夕方。学園の廊下に女性の声がする。

 教室の明かりはすべて消え、廊下の壁に一定間隔で備え付けられた球体ガラスが、白く無機質な光を発していた。

 窓の外は暗く、ほのかな月明かりは闇を余計に濃く感じさせる。

「は、はい?」

 廊下を歩いていた女生徒は声に振り返って、

「ひっ!?」

 目の前に現れた白い人影に思わず息を呑んだ。

 色白の肌に長い白髪。まるで人形を思わせる無表情で端整な顔。

 女生徒は、目の前にある透き通った髪の流れに沿って、ゆっくり下へと視線だけを動かす。そして、床についた足を見つけて安堵のため息をついた。

「あなた、この学園の七不思議は知っているかしら?」

 よくよく見れば、その人影は同じ学園の女生徒だった。

 そういえば幽霊みたいな編入生が来たって噂になってたっけと思いながら、青い瞳をこちらに向ける彼女に女生徒は聞き返す。

「……七不思議、ですか?」

「知っているの?」

 詰め寄るように訊いてくる彼女に、女生徒は少し怯えながらも答える。

「知ってはいますけど……」

「じゃあ、開かずの扉があるっていう廃校舎の場所は知ってる?」

 さらに詰め寄りながら、彼女は立て続けに訊いてくる。

 その勢いに少し気圧されながらも女生徒は、

「は、廃校舎ですか? それなら……」

 と、校舎の北側を指さしながら答えた。

 彼女はそちらへ青い瞳をじっと向け、そのまま無言で女生徒の横を通り過ぎる。

 その動きを追うように、彼女の長い白髪が揺れて廊下の明かりをさらさらと反射し、その光景に女生徒は目を奪われて息を呑んだ。

「ありがとう」

 白い背中越しに抑揚のない静かな声が礼を言い、そして彼女は廊下の先へと消えていった。

       ◆

「ナ……ル?」

 廊下を曲がると見えたナルの白髪にチルトは声をかけようとして、しかし彼女ではない悲鳴に思わず角に身を潜めた。

 角から廊下の向こうへ目を凝らせば、ナルの背中越しに見知らぬ女生徒がちらりと見える。

「何してるのかな?」

 耳をそばだてると二人の声が微かに聞こえる。しかし、何か話していることはわかっても内容まではわからなかった。

 チルトは気になって、二人の話をよく聞こうと背を低くしながら壁伝いに近づいていく。

 しかし、数歩進んだところで不意にナルの白髪が揺れて、

「あっ!」

 廊下の向こうへと消えていく彼女の背中に、チルトは慌ててその後を追いかけた。

       ◆

「この先って、廃校舎だよね?」

 ナルを追って校舎北にある森の手前まで来たチルトは、思わず立ち止まって怪訝な視線をその先に向けた。

 森と言っても人工的につくられたそれは整然と並んだ木々の集まりで、白髪は躊躇うことなく真っ直ぐに奥へと進んでいく。

 雲越しに周囲を照らす月明かりは頼りなく、木々の影は隙間なく地面を黒く塗りつぶし、奥に行くほど闇は深さをしていく。

 思わず身震いして周囲を見ても、背後に人気のない校舎が壁のようにあるだけだった。

「うぅ……」

 視線を戻せば白い影は闇に溶けかけ、チルトは勇気を出して一歩を踏み出そうとして、

「ひっ!?」

 急に聞こえた不気味な鳥の鳴き声に、後ろへ思わず跳び退いた。

 直後にドスッという鈍い音が二階の壁から聞こえ、そこからチルトが落ちてくる。

 彼女は素早く体勢を整え四つん這いで着地すると、背中をさすり顔をしかめた。

「いったぁ……もう何よぉ」

 文句を言いつつ森を見れば、そこに白い人影はもう無かった。

       ◆

 朽ちた二階建ての木造校舎を前にして、ナル=レクトは小さく頷くと迷うことなくその中へと入っていく。

 窓ガラスは砕けて床に散らばり、壁や天井には大きな穴が空いていた。しかし吹き抜ける風は重く、歩くと変化を拒むように淀んだ空気が肌にまとわりつく。

 ある程度壁の残っている一階とは違い、二階はほとんど柱だけの状態だった。

 見上げれば視界を遮る物は何も無く、すっかり暗くなった空の雲間には月が浮かんでいる。そして、その丸みを帯びた静かな明かりを遮るように、大きな直線的な影が二つ並んで、微かな重低音とともに空をゆっくり横切っていく。

 レクトは懐から一本の小さなライトを取り出すと、明かりをつけて廃校舎の中へと歩みを進めた。

 外から眺めた感じでは廃校舎はL字型をしているようだったと脳裏に思い浮かべながら、自分が入ってきた正面玄関らしき入口のあるL字の短部から長いほうへと、彼女は周囲にライトの光を向けながら慎重に進んでいく。

 左側には窓が並び右側には扉が幾つか見えるが、レクトは一番近くにあった木製扉の取っ手に指をかけると力を込めた。

「!」

 バキメキッという音とともに扉は取っ手ごと真横に裂け、上部は支えを失って崩れ落ちる。

 鈍い音とともに砂埃が舞い上がり、レクトは鼻と口を覆うように手を顔に当て、扉を失った開口部から部屋の中へと明かりを向けた。

 入口正面には教壇らしき机と段差があったが、机にはキノコが密集し、床には草が生い茂っていた。そして、光の届かない部屋の隅や闇が濃い物陰からは時折、複数の赤い点がレクトを窺うように光っていた。その点へと明かりを向けると、丸みを帯びた小さな影を伴って、それはチチチッという鳴き声とともに別の暗闇へと逃げていく。

 しかし、レクトはそんな様子を特に気にすることなく、周囲を見回して特に変わった点がないことがわかると次の部屋へと向かった。

 その後も、収穫のないままそんなことを繰り返し、ついにレクトはL字の一番奥、廊下の突き当たりまで来る。そこには、ただ行き止まりの壁があり、左右には朽ち果てた壁と外の闇が広がっているだけだった。

 見上げれば天井は無く、いつの間にか空は晴れ、浮かんでいた二つの大きな影も見当たらない。

 ただ、月だけは変わらずあって壁を一枚の石碑のように冷たく照らしていた。

「ここね」

 レクトはそう言うと、キノコも苔も生えていない壁に向かって手を伸ばす。

 すると壁に触れる直前、ガタッと大きな物音が右側から聞こえる。

「――!?」

 音のほうへと振り向けば、そこには一体の人体模型がこちらを向いて立っていた。

 隣には薬品棚が一つあり、その扉が風も無いのに開いてゆっくり揺れている。

 その下辺りで何かが動いたような気配がしてレクトが明かりを向ければ、赤い点が二つ、こちらを窺うように鈍く光っていた。

 その正体にレクトは一息つくと、気を取り直して壁に向かって手を触れた。しかし、それはなんの変哲もない木の感触で、彼女は軽く握り拳をつくると壁を二回叩く。

 トン、トン。

 短く軽い音が、ほとんど響くことなく消えていく。

「?」

 その音に違和感を覚えたレクトは、壁の横に回り込んで厚さを確認する。

(手のひらほどの厚みにしては音が軽い気がする)

 レクトはもう一度、今度は壁に耳をあてて反対側から強めに壁を叩いた。

 トン、トン。

 しかし、それは先程と同じように小さく、まるで遠くで叩いたようだった。

「……圧縮空間……」

 そう小さくつぶやいて、レクトは壁の正面に立ち直ると今度は自分の胸に手を当てた。そして、鋭く息を吸って声を放つ。

「リミテッド・リリース」

 直後、彼女の胸から淡い光が溢れ、

《精震限定解放自動承認》

 彼女と同じ声が静かに響いて消えた。

 静けさを取り戻した闇の中、レクトはズボンのポケットから一枚の紙片を取り出す。そこには黒い線で複雑な幾何学模様と文字が描かれている。それを壁に当て、親指を中心に当てたまま彼女はワードを口にする。

「閉紋:ディス・ケーシング」

 すると紙は壁の中へと吸い込まれるように消え去り、代わりに木でできた両開きの大きな扉が壁面に浮かび上がった。

 扉は周囲の瓦礫とは違い、今も使われているかのように、どこにも壊れた様子は見られない。

 レクトが丸いノブに手をかけゆっくり回すと、それはカチャリと小さな音をたてた。手前へ引けばスムーズにそれは開き、彼女はそのままゆっくり扉を引いていく。

 扉の奥には闇に浮かぶように、銀色の柵に囲まれた銀色の床が広がっていた。

 レクトが一歩を踏み出せば、床が高い金属音を響かせる。

 周囲を見渡せば床は正方形をしており、扉はその一辺の中央に位置していた。床の辺に沿って立てられた柵は床と同じ金属製で、扉から正面を見れば、胸の高さまである柵が指の爪ほどの高さに見える。柵の向こう側には何もなく、ただ真っ暗な空間が広がっているだけのようだった。

 レクトはライトで周囲を照らしながら目を凝らす。すると、正面にある柵に一カ所だけ光を反射しない部分があった。

 どうやらそこだけ柵がないようで、近くへ行って確かめてみれば、そこには地下へと続く銀色の螺旋階段があった。

 下へと明かりを向けるが階段の終わりは見えず、闇の中へと螺旋の先端は消えていく。

 しかし、レクトは迷うことなく階段を降り始めた。

       ◆

 約一時間後。

 レクトは階段の終わりにいた。

 ライトで照らした正面には、鏡のように静かに暗闇を映す銀色の巨大な両開きの扉があって、見上げれば倒れてきそうなほどの高さがある。

 扉には複雑な模様が刻まれ、まるで無数の蛇が這っているようだった。

 レクトは扉を見回して取っ手のようなものを探すが、扉には模様以外は何もない。

 試しに押してみるがびくともしない扉に、彼女は再びポケットから模様の描かれた紙片を取り出すと、それを扉に貼り付け人差し指と中指で上から下へとなぞりながら口を開いた。

「閉紋:ディス・ボルト」

 言葉とともに、紙は溶け込むように扉の中へと消えていく。そして、扉は金属の軋むような音とともに震えだし、それは十秒もしないうちに収まると、扉は開かないまま再び黙り込んだ。

「?」

 レクトはもう一度紙を取り出し同じことを繰り返す。しかし、結果は変わらない。

 試しにもう一度押してみても、やはり扉は動かなかった。

 闇にそびえる扉を見上げて、彼女はため息をつく。

「今日はここまでね」

 そう言ってレクトは踵を返すと螺旋階段を上り始める。そして、数段昇ったところで、ふと何気なく後ろを振り返った。

 そこには相変わらず大きな扉と闇があるだけで、何も変わった様子はない。

 レクトは扉の中央をじっと見つめ、

「…………」

 しかし、それだけで彼女は再び階段を上り始める。

 残された扉は、離れていく明かりとともに再び闇の中へと沈んでいった。

       ◆ 薄暗い部屋に低い男の声が響く。

「ここ、スフィア13の地下に研究施設があるはずだ」

 一辺が大人の背丈二つ分くらいしかない狭い部屋には、中央に大きなテーブルが一つあるだけで、その上には今、淡い光を放つ地図が投影されている。

 光で描かれた地図には、中央にコの字型の建物とスフィア13の文字があった。

 その明かりに照らされて浮かぶ人影は二つ。

 一つは、ぼさぼさの髪に無精ひげを生やし、迷彩服に身を包んだ男のもの。

 もう一つは、細身に黒いシャツとズボンをまとい、長い白髪をさらりと背中に流した少女のものだった。

「ナル。おまえは編入生としてここに入り施設を探せ」

 そう言うと、男は地図の上に彼女の顔写真入りのカードと書類を置く。

「生徒証と推薦状だ。ほかに必要なものは既に寮へ届けてある」

 男はテーブルから少女――ナル=レクトへと視線を移して確認する。

「いいな? ナル」

「はい。マスター」

 レクトは生徒証と推薦状を手にとると、男を真っ直ぐに見て頷き応えた。

「よし。じゃあ、行け」

「はい」

 レクトは出口の扉へと向かう。

 その後ろ姿をじっと男は見つめ、

「……何かあったら必ず連絡しろ」

 そう言って薄明かりに揺れる白髪からテーブルへと視線を落とした。

 レクトは立ち止まり、しかし振り返ることなく「わかりました」とだけ言って部屋を出て行く。

 扉の閉まる音が部屋に響き、それが消えるのを待って男は地図を消した。そして、代わりに一枚の写真をテーブルに表示させる。

 そこにはレクトと同じ姿をした少女と若い男の姿が写っていた。

「もう少しだ。もう少しだけ待ってくれ、ナルミ……」

 男はそう言って、満面の笑みを浮かべる少女の顔にそっと指を触れた。

       ◆

「なんか騒がしいな」

 昼休みの廊下を歩きながら、俺は隣を歩くシンに話しかける。

「ああ、どうやら学園の生徒が神隠しに遭ったらしい」

「神隠し? あの学園七不思議のか?」

 周りをよく見れば、相変わらずレクトに向けられる視線は多いが、それは好奇のものから疑惑のそれへと変わっていた。

 後ろにいるレクトは気にした風もなく歩いているが、隣のチルトはひそひそとした話し声や視線を気にしてか、耳をせわしなく動かしてはレクトの顔色を窺っている。

「神隠しに遭った彼女、その直前にレクトさんと一緒にいたんでしょ?」

 廊下の端にいる女生徒二人組から、そんな声が聞こえてくる。

「放課後、二人で何か話してるのを見てた子がいるって」

「もしかして、レクトさんが彼女を?」

(想像力がたくましいことで……)

 そんなことを思っていると、不意に後ろから勢いよく人影が飛び出した。

 それは二人組に向かって突進すると、勢いのままに彼女たちを壁に押しつける。

 背中を打ちつけ苦悶の表情を浮かべる二人に向かって、

「勝手なこと言わないでッ!」

 そう怒鳴りつけたのはチルトだった。

 女生徒二人の肩を掴み、全身を小刻みに震わせながらチルトは二人を睨みつける。

「ちょっと、チーちゃん……」

 シンがチルトを落ち着けようと手を伸ばすが、それを尻尾で振り払って彼女は言った。

「ナルがそんなことするわけないでしょ! いいかげんなこと言わないでッ!」

 しかし女生徒の一人は、厄介ごとに巻き込まれたとでも言うように嫌そうな顔をしながら小声で言い返す。

「でも、神隠しに遭った子は彼女に怯えてたみたいだって……。それに、いろいろと七不思議のことも聞き回ってたし……」

「それは……」

 途端にチルトの声が小さくなる。

「チーちゃん……」

 シンは心配そうにチルトへ声をかけるが、彼女は二人を壁に押しつけたまま悔しそうに唇を噛み締めていた。

(はぁ、まったく面倒臭い)

 俺はチルトの頭に手を乗せると、鋭い目つきで俺を睨む彼女に言ってやる。

「本人に聞いていみればいいじゃないか」

「え?」

 驚き、直後に不安げな表情を浮かべた彼女は、戸惑いながらもレクトへ視線を移す。

 そこには、さっきからずっとチルトに青い瞳を向ける彼女の顔があって、

「レクトが、その子を隠したのか?」

「いいえ。その方に七不思議のことを聞いたのは本当ですが、それ以降彼女には会っていませんし、神隠しに遭ったということも今初めて知りました」

 と、俺の質問に彼女は顔色一つ変えることなく淡々と答えた。

 俺は二人組を見ると、彼女たちに尋ねる。

「だとさ。ほかに何か聞きたいことはあるか?」

 二人は互いに困ったように顔を見合わせると、

「えーっと……」

「ない、かな?」

 そう言って引きつった笑みを浮かべた。

 俺が二人をチルトから解放すると、二人は軽くお辞儀をして小走りに走り去っていった。

 周囲に残った鬱陶しい視線の群れを払うように見回せば、蜘蛛の子を散らすように野次馬どもも普段の学園生活へと戻っていく。

「まったく……」

「お疲れさま」

 大きくため息をついた俺の肩を叩きながらシンが楽しげに言った。

「まったくだ。面倒臭い」

 俺は肩を落として言葉を返す。

 すると、俺の服を誰かが軽く引っ張った。

 何かと視線を向ければ、そこにはそっぽを向いたチルトがいて、

「あのさ。クウロ」

 彼女は少し唇を尖らせながら俺の名を口にする。

「なんだ?」

「……あ、ありがと」

 ちらりと俺を見て礼を言うチルトの頭をポンと軽く撫で、

「気にすんな。それより……」

 と、彼女を見つめていたレクトへ視線を向ける。

 チルトは真っ直ぐ自分を見つめるレクトに何かを言おうとして、

「チルト……」

「な、何? ナル」

 先に名前を呼ばれて、そう緊張した声で聞き返す。

 そんな彼女にレクトは近づいて手を握ると、目を細めてこう言った。

「ありがとう」

「え?……う、うん」

 一瞬浮かんだ驚きの表情は、すぐに眉尻を下げた照れた笑みへと変わり、チルトはレクトの手をしっかり握り返した。

       ◆

「チルト、大丈夫ですか?」

「うん、私は大丈夫。でも、ごめんね」

 女子寮の自室で、チルトはナルに膝枕をしてもらいながらベッドの上で丸まっていた。

「なんか、自分勝手なことしちゃって……。余計なことしたよね?」

「そんなことありませんよ。それに、大した問題でもありませんし」

 チルトの頭を優しく撫でながらナルは言うが、チルトの耳は力なく俯いている。

「ナルは強いね」

 腰に巻き付けた尻尾の先をさすりながら、チルトはつぶやくように言った。

「そんなことは……」

「ううん、強いよ」

 ナルの言葉を遮ってチルトは言い、そして沈黙が訪れる。

 強い風は窓を叩き、カタカタと音をたてた。

 チルトは体をぎゅっと小さく抱きしめ直すと、ぽつりと話し始める。

「私ね、去年まで、この見た目が原因でいじめられてたんだ」

「…………」

 ため息のようにチルトの口から漏れ出る言葉を、ナルは無言で聞いていた。

「故郷を出るときに、そういうことがあるって言うことは聞いてたし覚悟もしてたけど……。でも……」

 チルトは何かを思い出すように黙り込み、そしてぽつりと言った。

「許せなかったの」

「…………」

「おまえは人間じゃない。化け物から生まれた怪物だって……」

 体を震わせる彼女にナルは手を伸ばしかけ、しかし触れることなく代わりに一つの言葉を口にした。

「人間、じゃない」

 それは独り言のようで、しかしチルトはうずくまったまま震える声で話を続ける。

「お父さんとお母さんは化け物じゃない。人間だよ。私だって……」

 ナルは静かにチルトの頭に手を乗せた。

「だから、ナルは幽霊じゃないし神隠しだって関係ない! 私の友達なんだから!」

 唇を噛んで肩を震わすチルトを見下ろし、ナルは穏やかな声で言う。

「羨ましい、ですね」

「え?」

 驚き見上げようとするチルトを遮るように、ナルは獣耳の間に置いた手をゆっくりと動かした。それに、チルトはくすぐったそうに目を細める。

「私には……」

 どこか遠くを見つめながらナルは言う。

「そう思えるものがあるのでしょうか」

 その少し悲しげな響きが気になりながらも、チルトは頭に置かれた手を邪険にすることもできず、されるがままに撫でられていた。


【第二章】

 青白い月明かりが差し込む音楽室。

 音を奏でる者のいない室内は静まり返り、代わりに冷たく柔らかな光が、波のように漂う埃に反射して白く輝いている。

 窓から室内へと入り込む光は、奥へ行くほど白から青そして黒へとグラデーションを奏で、その光と闇の波間に白い人影が浮かび上がった。

 人影は透けるような白いワンピースを身にまとい、足首まである白髪を背中に流して、丸みを帯びた小さな顔を窓の外へと向けている。

 視線の先には女子寮があり、まだ幾つかの窓には明かりが灯って人影も見える。

《……私は……》

 白いそれは唇を動かすが、声は空気を揺らすことなく月明かりに溶けていく。

 白い人影の見つめる部屋には二つの影。一つはベッドに腰掛け、もう一つはその影に重なり丸くなっている。

 白いそれは腰掛けたほうの影をじっと見つめ、そして自分の髪をかき上げる。

 髪は手のひらからさらさらとこぼれ落ち、月光を反射して白いオーロラのように光を揺らした。

 しかしすべてが落ちきる前に、それは窓から差し込む闇によって輝きを失ってしまう。

 何かと窓から空を見れば、そこには大きな黒い塊が一つ浮かんでいた。

 塊は、その輪郭を示すように赤い点の連なりをゆっくりと点滅させている。

《……父さん……》

 白い影は黒い塊を見つめたままそうつぶやき、きつく自分の体を抱きしめた。

 その瞳は遠い憧れに揺れ、口元は悲しみに歪み、視線は再び地上の明かりへと落ちる。そして、そこにある温もりに強ばった表情は緩んでいく。

《……母さん……》

 その声が聞こえたかのように丸まった影がぴくりと反応し、二つの三角形を載せた頭が現れる。それは何かを探すような動きを見せ、しかし、もう一つの影が頭を撫でると再び丸くなっていく。

 白い影はベッドに腰掛ける黒い影に視線を移す。

《……私が……》

 月明かりを遮る巨大な影は遠ざかり、再び白い光が音楽室を、そして女子寮へと続く幾何学的な森を照らしていく。

《……私の、夢……》

 互いに体を寄せる二つの影を見ながら、白い影はもう一度、今度は優しく自分の体を抱きしめた。

 ふと俯いて自分の体を見下ろせば、そこには足先の代わりに床が見える。

 しかし彼女は気にすることなく窓の外へと視線を戻し、

《……叶え、ないと……》

 そうつぶやくと、よろめくように輪郭を歪ませた。

 風もなく揺れる影は、まるでノイズに浸食されるように徐々に引き裂かれ、音もなく人の形を失っていく。そして、ついには陽炎が消えるように白いそれは姿を消した。

 人影のなくなった音楽室には青白い月明かりだけが残り、室内は何事もなかったかのように静かなままだった。

       ◆

 神隠しの噂から数日後。

「今度はなんだ?」

 いつもの校舎へ続くレンガ道をシンとともに歩きながら、俺は周囲の明らかに浮ついた雰囲気に朝から少し疲れていた。

(せっかくの爽やかな朝が台無しだ)

 朝食のカツ丼ドリンクを飲みつつ周囲を窺えば、数日前まで怯えるように沈んでいた空気が嘘のように、今朝は周囲から明るい声がよく聞こえる。

 それも、特に女生徒を中心に。

 ある女生徒は小さな声だが興奮気味に何かを熱心に話し、それを聞いた別の女生徒は驚きの声を上げ、しかしすぐに慌てて口を噤む。そして、少し赤面しながらも再び小声で話し始める。

 そんな光景があちこちで繰り返され、たまたま目が合ったと思えば、なぜか非難がましい目で睨まれた。

(なんだ? この面倒な状況は……)

 自分の顔が険しくなっていくのを感じながら、俺は彼女たちと目を合わせないように少し視線を下げて歩くことにした。すると、そんな女生徒達にある共通点があることに気がついた。

 それは、彼女たちが人目をはばかるように同じような仕草をしていることだった。

 体を抱くように胸を腕で隠したり、胸の辺りに手をやったりしている。

 それを見て俺は、さらなる共通点に気がつく。

 それは、彼女たちの体型が一様にスレンダーだということだった。

「なあ、シン。何か新しいダイエットでも流行ってるのか?」

 隣で楽しげに周囲を眺めていたシンに話しかける。

「ん? 違うよ。その逆」

「逆?」

「それがさ……」

 シンは、なぜか周囲を気にすると耳元に口を寄せて小声で続けた。

「胸が大きくなったんだって」

「は?」

 シンが何を言ったのか一瞬理解できず、俺は疑問符を浮かべて彼を見た。

「だから、願いの井戸にお願いしたら一晩で胸が3サイズもアップしたんだって?」

「えーと……」

 なんだろう。単語の意味はわかるが、状況がイメージできない。

 俺は自分の体を見下ろして、シンの言葉を四、五回頭の中で反芻してみる。

 しかし、どうにも女生徒達が浮かれている意味がわからない。

(胸ねぇ……)

 大きい・小さいくらいしかわからない俺は、素直に疑問を口にした。

「なぁ、それって騒ぐほどのことか?」

「はぁっ!? おまえな、3サイズって言ったら平地に山ができる天変地異レベルだぞ!」

「お、おう……」

 詰め寄るシンに気圧されながら、俺は平地がゴゴゴゴという地鳴りとともに隆起して山になる姿を思い浮かべる。

「それは……、すごいかもな」

 女性の体と大地では、なんか違うような気がしなくもないが、俺は取り敢えず納得しておくことにした。

「平地がどうかした?」

 後ろからかけられた声に振り向けば、そこにはチルトの姿があった。

 横にはレクトの姿もあって、チルトは彼女の腕に抱きついて嬉しそうな顔をしている。

「おまえらも何かあったのか?」

 俺はレクトに尋ねるが、彼女は微笑むだけで何も答えない。それに二人の体を見ても、スラリとした体に特に変化は見られなかった。

「いやー、朝からナルさんの笑顔を見られるとは今日はついてるな」

 爽やかな笑顔でシンはそう言ってレクトに近づくと、その手を取ろうとする。しかし、それをチルトが立ちはだかって邪魔をする。

「ちょっと、何するのよ? 私のナルに気安く触れないで」

 小さな牙を剥いて威嚇する彼女にシンは少し考え込むように顎に手を当て、そして目の前に立ちはだかるチルトの体を、上から下へと真剣な眼差しでじっと眺め始める。

「な、何よ?」

 無言で自分を見つめるシンに、チルトは怯える猫のようにその凹凸の少ない体を抱きしめた。

 そんな彼女の肩に手を置くと、シンは一つ頷きチルトの瞳を真っ直ぐ見つめてこう言った。

「チーちゃん。井戸に行こう」

「は? なんでよ?」

 意図がわからず怪訝な目を向けるチルトに、シンはさらに両肩を掴んで答える。

「チーちゃんのちっぱいをおっぱいに……」

 その瞬間、チルトのこめかみがひくつき彼女の体から殺気がほとばしる。そして、

「ちっぱい言うなッ!!」

 怒号とともに放たれた彼女の回し蹴りは、見事にシンのこめかみを直撃した。

       ◆

「それって本当なの!?」

 チルトが俺の襟首を掴みながら、血走るような目で睨みつけ言ってくる。

 横目で地面を見ればシンは白目を剥いて倒れ、その頬をレクトが無表情でつついている。

 シンの暴言の説明を迫られ、胸が大きくなるという話をした途端に俺はこうなっていた。

「で、具体的にはどれくらい?」

 チルトは俺の首を絞めながら訊いてくる。

「なんでも、3サイズアップしたとか……」

「3サイズもっ!?」

「ぐぉ! く、くるし……」

 興奮するチルトの手には力が入り、その目は獲物を追い詰めた獣のように輝きを増す。そして、弓なりに歪んだ口からは「くくく」と不気味な笑い声が漏れ始めた。

 その声に応えるように、足下からシンの声が聞こえてくる。

「……そうだ、チーちゃん。今こそ……」

 声の主は、ゆらゆらと立ち上がり、自分の服の胸元を両手で掴むと勢いよく左右に引きちぎって叫んだ。

「今こそ、ちっぱいメガ進化のとき!」

「だから、大声でちっぱい言うなぁあああああああ!」

 チルトは俺から手を離すと素早く腰だめに構え、拳を大砲のような勢いで剥き出しになったシンの上半身へと発射した。

「ぐぼぉがああああっ!?」

 絶叫だけを残してシンが俺の目の前から消える。

 ようやく解放された首をさすりながら、俺は真っ直ぐ続く赤レンガの上を低空で飛んでいく友を見送った。

 突然の人間砲弾に道行く生徒達は驚き、絶叫に気付いて紙一重で避けながらも呆然と彼の行方へと視線を向ける。

 そして、それは学園を囲む森の中へと消えていった。

 直後に鈍く重い音が一つ響き、木々の間から十数羽の鳥が空へと羽ばたいていく。

 俺は空を見ながら友の安らかな眠りを祈ると、チルトへと視線を戻した。

 そこには拳を突き出したまま真っ赤な顔で荒い息を吐く獣耳少女の姿があった。

 そして、いつの間にか俺の後ろに隠れていたレクトがぽつりとつぶやいた。

「後で行ってみないと」

「「え?」」

 チルトと俺が同時に驚きの声を上げる。

 レクトはちょうど井戸のある方角を見つめたまま、考え事をするように小難しい顔をしている。

「レクトも、もしかして気になるのか?」

 俺の質問に、しかし彼女は意味がよくわからないというように首を傾げるだけだった。

「ちょっとクウロ、〝も〟ってどういう意味!?」

 そしてチルトは、なぜか不機嫌そうに睨んでくる。

 拳を握るチルトから微妙に距離をとりつつ、俺は話を続けた。

「……いや、胸の、じゃなくて体型のこと、なんだけど……」

 レクトの反応が気になるのか、チルトも彼女を見て動きを止める。

 二人の視線に彼女は口を開きかけ、しかし、それを遮るように予鈴の音が鳴り響いた。

「あ、皆さん、急がないと」

 レクトはそう言うと、さっさと先に行ってしまう。

「え? ちょっと、ナル?」

 チルトも慌てて彼女のあとを追いかける。

 残された俺はほっとしながら、女性って奴は面倒だなと空を見上げてため息をついた。

       ◆

 空に三つの大きな影と三日月が浮かぶ空の下、月明かりの届かない影の濃くなった校舎の壁沿いを、小さな明かりがきょろきょろと動いている。

 動く明かりは地面を照らし、光源を上へと辿れば小さなライトが、そして、そのすぐ後ろには長い髪を揺らす人影があった。

 人影は時折、周囲を素早く照らして人気がないことを確認しながら、足音を立てないようにゆっくりと、しかし迷うことなく歩みを進める。

 校舎の角、ちょうど音楽室の下へと来ると人影は立ち止まり、目の前にある丸い石積みの井戸へと明かりを向けた。

 井戸には木の蓋がされ、開かないように鎖が何重にも巻き付けられている。そして、蓋の表面には文字のような模様が大きく描かれ、鎖にも細かな模様が刻まれていた。

 人影はしばらく模様を眺め、それから再び周囲を見回して誰もいないことを確認すると、胸に手を当て小さく息を吸う。そして、つぶやくように言葉を放った。

「リミテッド・リリース」

 胸から漏れ出る淡い光に浮かび上がったのは、長い白髪に包まれたナル=レクトの無表情な顔だった。

《精震限定解放自動承認》

 機械的な声が聞こえ、それもすぐに夜の闇と静寂に消えていく。

 そんな中、彼女はポケットから一振りのナイフを取り出した。

 その刃は月明かりを吸い込むように艶なく黒く、表面には直線で構成された幾何学模様が微かに凹凸を浮かび上がらせている。

 レクトはナイフをゆっくり鎖へ近づけ、その鋭い先端が無骨な鎖に触れて澄んだ金属音を響かせた瞬間、ワードを口にしようとして、

《閉紋:シャドー・シフト》

 突然頭に響いた音の無い言葉に動きを止めた。

 今まで目の前にあった鎖と蓋が消えている。

「???」

 驚きに目を見開くレクトの前で、口を開けた井戸は息をするかのように周囲の空気を吸い込み始めた。

 その勢いはすさまじく、井戸へと流れ込む風はナイフを持ったレクトの腕に絡みつき、彼女の体を井戸の中へと引きずり込もうとする。

「くっ!」

 引っ張られていく体を、レクトは下半身の踏ん張りでなんとか耐えるが、今度は空気の流れを無視するように井戸の中から何か濃い霧のようなものが溢れだしてきた。

 それはライトの光とは関係なく、闇の中でもオーロラのように様々な色を見せる。

「これは来相……いや、疑似可変素子(ヴィナール)!?」

 思わず漏れたレクトの声に反応するかのように霧は無数の腕の形をとって、ナイフだけでなく彼女の体へまとわりついていく。と同時に井戸の口、ナイフの先端近くに顔のようなものが浮かび上がる。

 目鼻立ちや輪郭さえも揺らめいて曖昧なそれは、しかし歪んだ口で言葉を紡ぐ。

《あなたの願いは何?》

 それは頭に直接響き、直後にレクトをめまいが襲った。途端に体から力が抜け、手から抜けそうになったナイフを、彼女はライトを捨てて両手で掴む。それでも体は一気に井戸へと引っ張られる。 なんとか井戸の縁に体を引っかけながら、レクトは疑問を口にする。

「私の……願い?」

《願いを聞かせて》

 しかし霧の顔は同じ言葉を繰り返し、無数の手は勢いを増す風とともに少しずつレクトを井戸の中へと引きずり込む。

《もっと近くで》

 それは耳元で囁くように、しかし頭を締め付けるようにレクトの意識を奪っていく。

《もっと》

 ついには井戸の底へ向かって体が傾き、頭は完全に井戸の中へと呑み込まれ、無数の色が嵐のように視界を埋め尽くす。

《もっと》

 そして、完全に力の抜けた手からナイフがこぼれ落ちた直後、

「ねぇ、あなた……」

 突然、背後から女性の声が聞こえ、レクトは手放しかけた意識をすんでのところで掴み直した。

 声のほうへと視線を向ければ、そこには自分によく似た顔がある。

 レクトを見下ろす彼女は透けるような白のワンピースを着て、同じく白い長髪を風に揺らしていた。そして、その全身は淡く青白い光に包まれていた。

 彼女は、なぜか悲しげな表情を浮かべながら青い瞳をレクトに向けている。

 自分にそっくりで明らかに自分でない存在に、レクトは目を見開き唇を震わせる。

「あなたは……」

《逃がさない》

 レクトの言葉を遮るように再び歪んだ声が頭に響き、井戸から伸びた手はレクトの顔を覆って首を締め付け、その全身を包み込むと、ついには彼女を井戸の真上へ持ち上げた。

 そして次の瞬間、ぽっかり空いた井戸の口がレクトの体を呑み込んだ。

 それを白いワンピースの影は、井戸の縁から黙って見下ろしていた。

       ◇

「いったい、これはどういうことなんですか!」

 男の怒鳴り声が理事長室に響き渡る。

 落ち着いた色の赤絨毯が敷かれた室内には高級そうな執務机があり、そこに手をついて男は怒りの形相を浮かべていた。男は無精ヒゲに皺だらけのスーツと、いかにもこの部屋に似つかわしくない格好をしている。

 その対面には、でっぷりとした体格にブランドもののスーツを身にまとった理事長が椅子に腰掛け、額に吹き出た脂のような汗を金の刺繍入りの白いハンカチで拭いていた。

「どういうことかと言われても……」

 理事長は、立派な革張りの椅子に腰掛けながら顔をしかめて口籠もる。そして隣にチラチラと視線を送る。

 そこには、理事長とは対照的にひょろりとした体型の教頭が立っていた。

「ユウノさん」

 教頭は冷たい声で、神経質そうにメガネを直しながら言った。

「少し落ち着いてください。我が校としても事件性がない以上、無断欠席が続けば退学とするしかないのです」

「なっ……!?」

 男のこめかみに青筋が浮かぶ。

「娘が! ナルミが無断欠席なんてあるはずがないっ!」

 詰め寄る男に、しかし教頭は動じることなく淡々と話を続けた。

「ですが、理由もなく欠席しているのは事実。窃盗や傷害といった事件性を示すものがあれば話は別ですが、ただ姿を消しただけということであれば、当学園としては校則に従って対処するしかありません」

「しかし、たった一週間で捜索を打ち切るなんてっ!」

 拳を執務机に叩きつけて男は苦渋の表情を浮かべる。

 それを見下ろすように教頭は大きく息をつくと、いかにも申し訳なさそうな表情で男に言った。

「残念ながら当学園は最低ランクのスフィアですから、現実という壁を突きつけられて夢を諦める生徒も数多くいます。もちろん、娘さんも努力はされていたとは思います。が、最低ランクといえども世界の時を監視する機関――時間監視局クロノフィスの局員を養成するのが当学園の役目。やはり彼女の成績ですと、刻奏士になるのは……」

 そして大げさに首を横に振る教頭に、男は唇を震わせ血走った目で睨みつけながら言葉を絞り出す。

「たとえそうだとしても、ナルミが私に何も言わずにいなくなるなんて、自分の夢を諦めるなんて、あるはずがないッ!」

 それでも教頭は動じることなく、変わらず淡々と話を続けた。

「ここのところの試験でも彼女は成績不振が続いていたようですし、そのことで悩んでいたという話も聞いています。それに、監視局から捜査官として派遣された刻奏士による報告では、願いの井戸とかいう根も葉もない噂にも頼っていたとか……」

 男を見る教頭の目が、眼鏡の奥で嘲るように歪む。

 男の拳にはますます力が籠もり、血の気を失い白くなっていく。

 男は歯がみして教頭を睨みつけ、教頭も男を見たまま表情を変えなかった。

 張り詰めた沈黙がピリピリと空気を震わせる中、それまで無言だった理事長が吐き捨てるようにぼそりとつぶやいた。

「これだから身の程を知らない無能は……」

 瞬間的に男は理事長へと振り向き、同時に拳を振り上げる。

「貴様ぁああああああああああッ!」

 怒号とともに男は、それを躊躇なく振り下ろした。

「ひぃいいいいいっ!?」

 理事長は短い悲鳴を上げて椅子から転げ落ち、男の拳は目標を失って鈍い音ともに執務机を凹ませた。

 怯える目で見上げる理事長と、その横で冷ややかに見下ろす教頭を順番に睨みつけ、男は荒い息をつきながら言葉を吐き出す。

「とにかく娘の退学は認めないからなっ! 娘は事件に巻き込まれたんだ! 敷地内を全部掘り返してでも探してもらうぞッ!!」

「そ、そんな無茶苦茶な……」

 椅子によじ登りながら理事長は冷や汗を浮かべて困惑を口にする。

 その態度に男は理事長を睨みつけ、

「おまえらができないなら俺がやってやる!」

 言うと同時に再び机を殴りつける。

 理事長は座りかけた椅子から再びずり落ち、しかし、慌てて言い返す。

「し、敷地内を勝手に掘り返すことは許さん!」

 その顔は青ざめ、二重顎からは冷や汗が滴り落ち、唇は紫色になっていた。

「そうですね。それは困ります」

 続いて聞こえた教頭の声はやけに冷たく、それに理事長は、なぜか怯えた視線を彼へと向ける。

 男は二人の様子に怪訝な視線を向けるが、教頭はメガネに手をやると二人の視線を無視してこう言った。

「一週間です」

「何?」

 男は意味がわからず聞き返す。

 それに教頭は短く息を吐くと話を続けた。

「あと一週間だけ捜索を続けましょう。それで何も事件性を示すものが出なければ、彼女は無断欠席により退学。それでいかがですか?」

「いや、少なくとも一カ月くらいは……」

 譲歩に難色を示す男に、教頭は疲れたように首を横に振る。

「さすがに、それでは授業に支障が出ます。たった一人の生徒のために、ほかの将来有望な生徒達の貴重な時間を浪費することは、それこそ、ナルミさんも望んでいないのではありませんか?」

 娘の名前を出され、男は言葉に詰まる。

 その様子に理事長は、椅子に深く腰掛け直すと大きく息をついた。そして、懲りずに小声でぼそりとつぶやいた。

「これだからフィッツに関わる者どもは……」

 その言葉に男の顔が再び真っ赤に染まる。

「また貴様はッ! 娘だけでなく妻までバカにするのかッ!!」

 そう怒鳴りながら、男は机を乗り越え理事長に殴りかかった。

 しかし振り下ろされた男の拳は、理事長の眼前でピタリと止まる。

「暴力はいけません」

 教頭はやれやれとため息をつきながら、男の手首を掴んだまま涼しい顔をして言った。

 男は教頭を睨みつけ、しかし椅子から再び転げ落ちた理事長を見下ろすと、腕から力を抜いて教頭へと視線を向ける。

「あと一週間は捜索してくれるんだな」

「はい」

 感情を抑えて言う男に、教頭は手首を放しながら慇懃に一礼して答えた。

 男は白く血の気を失った手首をさすりながら、教頭を一瞥すると出口へと振り返る。そして、その場で二人を見ることなくこう言った。

「わかった。だが……」

「だが?」

 教頭が短く聞き返す。

「ナルミは俺の娘だ。俺も探させてもらう」

 そう言って男は、決意を込めた表情とともに歩き出す。

「おい! 君、それは……!」

 理事長が男を呼び止めようとするが、男は無視して理事長室をあとにする。

 拒絶するように勢いよく閉じられた扉を呆然と見つめる理事長の横で、教頭はメガネに手をやりながら微かに口の端をつり上げていた。

       ◇

 濃い緑の生い茂った深い森の中、乱立する木々の影は重なり、起伏の激しい地面を濃淡の影が黒く染めている。

 そんな暗い中を、ぼさぼさの髪によれよれのミリタリーコートを着た男が一人で歩いていた。

 男は泥で汚れた顔に玉の汗を浮かべ、伸ばし放題の髭の間から息を吐きつつ前を見る。

 視界を埋め尽くすように立ち並ぶ太い幹の間から、白い日差しが細く見え、そして男は森の開けた場所へと辿り着く。

 そこにはクレーターのような巨大な穴があった。

「ここが、現相炉の関連施設跡か」

 穴の縁から底を見下ろし男はつぶやく。

 くぼんだ穴の中には、まるでゴミ溜めのように施設の残骸らしき崩れた柱や壁、ベルトコンベアやダクトのパーツが散乱している。

「? あれは……」

 男はコートから双眼鏡を取り出し、穴の中心付近へ向ける。

 そこには人の手足や胴などが山積みになっていた。

 しかし、よく見ると手足の関節部分は球体になっていて、皮膚を失った部分は黒く、頭髪のない頭部も黒く整った卵形をしている。

「施設で動いていたパペットか? しかし、それにしては数が多すぎる気が……」

 男は無数の人形がバラバラに絡み合った光景に顔をしかめながらも、茨のように石と鉄が生い茂る急斜面を慎重に降りていく。

 人形の山へと辿り着いた男は近くにあった真っ黒な頭部を一つ手に取り、人間であれば耳のある部分に開いた丸い穴の縁を見た。

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 そこには縁に沿って小さな文字の羅列が刻印されている。

「八四式。統制管理用か。かなり高性能なパペットだな」

 男はそう言ってコートの中から端末を取り出すと、その端から細いケーブルを引き出した。そして、その先端にある探針を穴の奥へと差し込み端末を操作し始める。

「何か情報が引き出せればいいが……」

 すると頭部の内側が微かに青白い光を放ち、

「いけるか?」

 そう思った矢先、焦げたような臭いが立ち込める。

「……熱っ!?」

 手のひらに感じた熱さに、男は思わず頭部から手を離した。

 落ちた頭部は堅い木のような音をたてて瓦礫の上を転がり、すぐに止まると目や口の穴から白い煙を上げ始める。

「まあ、そう簡単にはいかないか」

 ため息をついて、男は人形の頭から立ち上る煙を追うように空を見上げる。

 そこには巨大な長方形の板を思わせるシフト艦が一つ。そして、その下を薄暗い雲の群れが浜辺に押し寄せる波のようにゆっくりと流れていく。

 男は視線を人形の山に戻すと別の頭部を手に取り、先ほどと同じように探針を頭部に差し込んだ。

 そんなことを何十、何百と男は淡々と繰り返した。

 いつしか降りだした雨は男の全身を濡らし、雨雲は日差しを遮って影を濃くする。

 それでも男は、人形の頭や胴を山から引っ張り出しては端末を繋ぎ、調べ終わったパーツを背後へ捨てていく。

 日が落ち、男の後ろに背丈ほどの山ができはじめた頃、男は棺のようなものを人形の中から見つけた。

「ん? こいつは……」

 周囲のパーツをどけて引き抜いてみれば、棺の端部には肩幅ほどの巨大な接続端子があり、棺自体が何かの機器に繋いで使用する大きなカートリッジパーツのようになっていた。

 男は、接続端子に手にした端末の探針を接触させて状態を確かめる。

「これで開くか?」

 端末を操作すると、棺からプシュッという空気を吸い込む短い音がして、蓋が少し浮かび上がった。

 男はゆっくりと蓋を開く。すると、そこには一体の女型パペットが横たわっていた。

「……ナルミ?」

 思わず口にしたその名前に、男は慌てて首を振る。

 よく見れば、その皮膚は白色半透明で奥の黒い体がうっすらと透けて見える。そして、傷一つない艶やかな肌を優しく包むように、長く白い髪が足首まで伸びていた。

 男はパペットの頭を起こして耳裏を見る。

 しかし皮膚に透けて見えるはずの文字列は、そこにはなかった。

「ノーナンバー? 個体識別子がないってことは、出荷直前で廃棄されたのか?」

 固有の番号を持たない人形は、まるで死体のように静かに目を閉じている。

「たしか、初回起動は物理スイッチで奥歯の裏側に……」

 男はパペットを起動させようと、その小さな唇を親指と中指で器用に開く。そして、口の奥へと人差し指を進めた。歯に沿って指を進め、歯とは違う角張った感触を探り当てると、指先を曲げてそれを押す。

 するとスイッチの凹む感触とともに、半透明だった全身を覆う皮膚の表面を淡い光が波のように走り始める。

「おおっ!?」

 驚く男の目の前で、パペットは口を開くことなく起動を告げる。

《起動シークエンスを実行しています》

 そして、次第に皮膚は透明感を失い色白な肌へと変わり、同時に体全体が引き締まって肌に張りが生まれる。

 人の形をしたただの塊から力の流れる体となったパペットは、その上半身をゆっくりと起こし、男のほうへと目を閉じたまま顔を向ける。

 白髪は雨に濡れてその細い体に張り付き、長いまつげや柔らかな唇、そして肌を幾つもの水滴が流れ落ちていく。

《起動シークエンス終了。命令待機モードへ移行します》

 起動終了を告げたパペットはまぶたをゆっくりと開き、そこにある青い瞳を男に向けながら小首をかしげた。そして、そのまま動かなかった。

       ◇

「このように生体人形――通称パペットは性能の向上とともに当初の用途であった愛玩道具という枠を越え、その汎用性及びヒトとの親和性の高さから医療・介護または研究開発の分野まで幅広く活躍の場を広げていった」

 そう言って男は無精髭の生えた顎を撫でながら一息ついた。

 中央に大きなテーブルが一つだけ置かれた狭い部屋には、男女が向かい合わせで椅子に座っている。

 男は薄い板状の端末を見ながら話を続け、女は手にした男と同型の端末を熱心に見ながら頷いている。

 その青い瞳は好奇心旺盛な子供のようにせわしなく動き、しかしその顔を包むように左右に流れる長い白髪は落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 男は、そんな彼女の様子に苦笑を浮かべながらも説明を続ける。

「汎用性については、ヒト型という形態上の理由だけでなく、動力機関である疑似精零シェム・スフィアが基本的には水さえあれば動作可能であるため、ヒトの消化器に当たる部分のスペースを利用して、用途に応じた拡張機能を搭載可能であることも理由となっている」

 男は端末に表示された文字列を読みながらも、目の前の女――施設跡で拾った女型パペットのことを考えていた。

 このパペットが廃棄されていた施設跡は、スフィア13ができる前に同じ敷地にあったとある研究所の関連施設のものだった。

 そして、そこで行われていたある計画に男は疑念を抱いていた。

 〝現相炉計画〟

 それは現在から万能性を持つ未来を、すなわち現相から来相という量子状態の可変素子を人工的につくり出す計画だったらしい。

 刻奏術のように時を上書きするのではなく、時を破壊して巻き戻す。

 そんな夢語りのような計画の存在を知ったとき、男はそれが実現していれば娘がいた頃に戻れるのだろうかと思わず考え、すぐにそんな自分に呆れた。

 計画は成功したかどうかも不明で、計画の存在自体も確たる証拠がなく曖昧な情報が多い。

 しかし、それでも男は現相炉計画と研究所の存在を調べずにはいられなかった。

 スフィア13によって続けられた娘の捜索では結局何も手がかりは見つからず、男も独自に調べてみたが結果は同じだった。だから、わずかな情報でも男にとっては希望だった。

 そして現相炉計画にはもう一つ、男にとって気になることがあった。

 それは現相炉の燃料として使われる、あるものの存在。

 噂レベルの情報で隠語だと思われるそれは〝プエラ〟と呼ばれていた。

 その意味は少女・処女・娘で、いずれにしても男の不安をかき立てるには十分だった。

 男は目の前にいる人形をじっと見つめる。

(こいつから何か情報が引き出せれば)

 彼女には生体活動を維持する基本行動はインプットされていた。しかし、それ以外は言語設定さえもされていないようで、精震感応ディバイン・エコーによる意思伝達以外はまともに会話すらできない状態だった。

(情報に対する認識力と理解力は高くて、言葉はすぐに覚えてくれたが……)

 男は顎を手でさすりながら端末の画面へ視線を落とす。

「あの、マスター」

 パペットが呼びかけても、男は画面を見たまま考え込んで視線を上げない。

(会話をするには、ある程度の共通認識が必要だからな……)

「マスター?」

(それにしても、まさか俺が教師のまねごとをすることになるとは……)

「マスター。聞こえていますか?」

(ナルミにだって、父親らしいことは何もしてやれなかった俺が……)

「マスター!!」

「おおっ!? なんだ、ナル……」

 そこまで言って、男は自分の口から出た娘の名を慌てて呑み込んだ。

「……ナル?」

 目の前のパペットは白髪を小さく揺らし、小首をかしげて男を見つめる。

 一人と一体の間に無言が生まれ、次の一言を先に発したのは人形だった。

「ナルとは何ですか?」

 首を傾けたまま向けられる青い瞳に、男は居心地の悪さを感じて目を逸らす。

「………………」

 黙ったままの人形に、男はちらりと視線を向けて様子を窺う。しかし、彼女は変わらず男を見ている。

「名前……かな?」

 観念するように、男はそう答えて再びパペットから目を逸らした。

 男の耳に、パペットの声で「名前、名称、識別するための言葉……」などという言葉の羅列が聞こえてくる。

 そして、それが終わると一呼吸置いて、人形は男に一つの質問をした。

「それは何の名前ですか?」

「それは……」

 傷に触れられたような引きつった顔を人形に向け、男は言葉を詰まらせ黙り込む。

「マスター?」

 さっきからずっと首を傾け自分を見つめる人形に、男は娘の顔を思い出す。

(……ナルミ……私の、娘……)

 しかし、その言葉は声にならず男の口を微かに動かしただけだった。

 それを見ていたパペットが、まねをするように口を動かす。

「……わた、し?」

 出てきた言葉を理解しようと彼女は何度か口を動かして、一つの推論を口にする。

「もしかして、それが私の名前ですか?」

 勘違いするパペットに男は苦笑を浮かべながら、そういえば彼女に名前をつけていなかったと、今さらながら気がついた。

(〝おい〟とか〝おまえ〟じゃ不便かもな)

 男は大きく息を吐くと、背筋を伸ばして彼女を真っ直ぐ見て答える。

「ああ、そうだ。それがおまえの名前だ」

 それを聞いたパペットは、目を閉じて胸に手を当てゆっくり一つ頷いた。そして再び顔を上げると、男を見て無表情にこう言う。

「了解です。私の名前はナル。認識・登録しました」

 そして彼女――ナルは軽くお辞儀をしながら言葉を続ける。

「今後ともナルをよろしくお願いいたします。マスター」

 その仕草に男は顔を気まずそうに視線を外すと、鼻をかきつつ端末へと視線を向ける。

「そういえば前から気になっていたんだが、そのマスターって呼び方は変えられたりするのか?」

 端末を見たまま言う男に、ナルは頷いて答える。

「はい。ご希望の呼び方を教えていただければ、そのようにお呼びいたします」

「そうか。じゃあ……」

 男は少し考えると、端末の画面に表示されていたゴミ箱のアイコンを見て言った。

「ウェイス。これからはウェイスと呼んでくれるか?」

 それは捨てられたものを意味する言葉だった。

「わかりました。ウェイス様」

 しかしナルは無表情に、そのまま彼の名を了承する。

 そんな彼女に男――ウェイスは苦笑を浮かべる。

 その瞳は悲しげで、しかし優しい色を微かに帯びていた。


【第三章】

「ねえ、どうしよう……」

 朝の登校時間帯。

 いつもの赤レンガの通りを歩く俺の横で、チルトが不安そうに左右にいる俺とシンを見上げて言う。

 レクトが行方不明になってから既に四日。

 短期間に連続して行方不明者が出たことで学園側も事件性を感じたのか、昨日の朝から保安部の腕章を着けた連中が学園内のあちこちにいる。

 授業はまだ通常どおり行われていたが、時間監視局から派遣された捜査官の邪魔にならないよう学園生達の行動は制限され、授業以外で不必要に校内に留まることは禁止されていた。もし保安部に見つかれば、強制的に寮へと退去させられるらしい。

(ほとんど学園内に軟禁状態だな)

 そんなことを思いながら俺たち三人はいつもどおりに、しかし普段より静かな学園内を歩く。

 レクトの姿が見えなくなった直後から、学園中は噂の幽霊編入生が消えたという話で持ち切りだった。

 それは今でも変わらないが、静かになったことで余計にざわざわとした不安な空気となって学園全体を包み込んでいた。

 俺たちはといえば面倒なことに、レクトに一番近かった者として保安部の直接監視下に置かれている。

 そんな中、尻尾を自分の足に巻き付けて体を縮こまらせ、オロオロと左右を気にするチルトに俺は肩を竦めて言う。

「どうしようって言われてもな。レクトの行きそうな場所なんて俺にはわからないしな」

 そのまま横目で後ろを窺えば、俺たちの後ろを保安部の男が一人、隠れることなくついてきている。

 しかし、それ以外にも少なくとも三つ、俺たちを監視するような視線があった。

(動物のほうが隠れるのはうまいな)

 師匠との生活を思い出しながら、俺は気付いていない振りをして隣のシンを見る。

 すると彼は、まるで姫を護衛する騎士といった感じで、チルトをかばうように鋭い視線を周囲に向けていた。

「チーちゃん、大丈夫だ。さあ、好奇心旺盛な女性達よ、遠慮なく私を見るがいい!」

 そう大仰に言って両腕を左右に勢いよく広げる。

 すると、それまで周囲にあったまとわりつくような視線が一瞬で消え去った。

 俺は友をじと目で眺め、しかしチルトをさりげなく背後にかばう彼に、これはこれでいいかとため息をつく。

 対してチルトは、そんなシンの様子を一切気にすることなく、眉根を寄せた真剣な眼差しで彼の上着の裾を引っ張って言う。

「シン、私のことはいいから、早くナルを探さないと」

「えーっと……チーちゃん?」

 困惑の表情を浮かべるシンに、彼女は歩みを止めると上目遣いでじっとシンを見つめた。

 俺とシンも足を止め、黙り込む三人の横を生徒達が遠巻きに通り過ぎていく。

 シンを見るチルトの瞳は微かに潤んで、不安と心配に揺れていた。

 彼女は自分の感情を抑えるように、それでも震える唇を開いてシンに言う。

「こういうことには慣れてるし、それに、私には二人がいれば大丈夫だから……。私より早くナルを……」

 その頼りなくも真っ直ぐな瞳に、シンは観念すると口を開いた。

「わかったよ」

 その言葉に、チルトの足に巻かれた尻尾が緩む。

 シンは彼女の頭に手を乗せると耳の間を軽く撫で、彼女はくすぐったそうにしながらも素直にそれを受け入れる。

 そんな二人の場違いな空気に、俺はさっさと話を進めることにした。

「で、シン、何かレクトについてわかったことはあるのか? 女性に見境のないおまえのことだ、彼女のことは当然調べてあるんだろ?」

 俺の言葉にチルトの耳がピンと立ち、頭を撫でていたシンの手がピタリと止まる。

「クウロ、ちょっと待て。何か勘違いしているようだが、俺は女性に見境が無いんじゃなくて平等に扱ってるだけだ」

「平等?」

 シンの手を頭に載せながらチルトは疑いの眼差しを向け、それにシンは一瞬動揺したものの胸を張ると大きく頷いた。

「おまえの嗜好についてはどうでもいいんだが……」

 俺の指摘にシンは不満げな視線を向けるが、無言で先を促すと彼は腕を組んで目を閉じ、一瞬だけ片目を開けて俺たちの後方を見た。そこには暇そうに木によりかかる保安部の男がいる。

 そして一呼吸置くと、シンは俺とチルトを見て話を始めた。

「やっぱり七不思議が怪しいかな」

「七不思議か」

 俺とシンの会話にチルトは三角耳を傾けて熱心に聞いている。

「最初に会ったときも結構興味があるみたいだったけど、その後も一人で調べていたらしいしね」

 俺はレクトと出会ったときのことを思い出して頷く。

「じゃあ、取り敢えず七不思議を一つずつ調べていくか」

「それが妥当じゃないかな」

 シンも俺も手短に話をまとめる。

 すると、それまで黙っていたチルトが口を開いた。

「ねえ。シン、クウロ」

 彼女は、なぜか気まずそうに視線をそらして、

「私、それなら気になる場所があるんだけど……」

 小さな声でそう言うと、再びシンの制服をぎゅっと掴んだ。

       ◆

「ここか」

 俺は、月明かりに浮かび上がる廃校舎を見上げて言った。

 夜空を横切る巨大な影が、その直線で構成された輪郭で月の曲線を切り取っていく。

「よくこんな状態で残ってたな」

 隣でシンも、手にしたライトで廃校舎の中を照らしながら物珍しそうに感想を口にする。

 その後ろを見れば、シンの背後に隠れるようにしてチルトが周囲をキョロキョロと窺い、頭の上でピンと立った二つの耳も、まるで別々の生き物のようにそれぞれが俊敏な動きで周囲を警戒していた。

 彼女は左手でシンの制服を掴み、もう片方の手で腰に巻き付けた尻尾の先を握りしめている。その腰はすっかり引けて、危うくスカートの中が見えそうなほど尻が突き出されていた。

「おい、チルト」

「ひゃっ!! ひゃにッ!?」

 注意しようと声をかけただけなのにチルトはシンの背後から彼に抱きついて、その背中に顔を埋めて彼ごと自分を尻尾で縛った。

「え? ちょっと、チーちゃん?」

 突然のことにシンは慌てるが、チルトは耳を閉じていて彼の声は届かない。しかも抱きついたまま、彼女は両腕に力を込めて締めていく。

「ちょ、うぉ、ぐるじ……」

 呻き苦悶の表情を浮かべるシンだったが、俺は気にせずライトでチルトの顔を照らすと一つ訊いた。

「で、いちゃつくのは勝手だが、レクトはここに来たのか?」

「え?」

 眩しそうに目を細めながら、チルトは自分の腕の中で白目を剥いたシンに気がつく。

「わっ、わわわっ!?」

 そして、泡を吹くシンから慌てて離れようとするものの尻尾がうまくほどけず、チルトはバランスを崩して彼を地面に押し倒した。

 地面に顔面から激突したシンはくぐもった声を上げ、チルトは動かなくなった彼を下敷きにしたまま、何とか尻尾をほどいて上半身を起こす。

「うう、鼻痛ぁい」

 シンの背中に跨がったまま鼻をさするチルトに、俺は光を当てたまま質問を繰り返す。

「だから、いちゃつくのは勝手だが、本当にレクトはここに来たのか?」

「うう、えっと……、私が見たのは森に入っていくまでだから、実際にここに来たかは……。でも、こっちにある七不思議に関係する場所はここだけだし……」

 チルトはシンの背中から退きつつ、自信なさげに答えた。

「そうか。まあ、ほかに手がかりもないしな」

 俺は再び周囲を照らしながら見回すが、暗闇の中で浮かび上がるのは静かに佇む壁や柱の残骸と、時折明かりから逃げるように動く小さな赤い点だけだった。

「いててて」

 声のほうを見れば、シンが顔に手をやりながら起き上がる。

「チーちゃん、抱きついて押し倒すなら、もう少しおしとやかにしてくれるかな?」

「へ、変な言い方しないでよっ!」

 仲良く揃って鼻の頭を赤くした二人に呆れつつ、俺はチルトの頭に手を乗せて言う。

「夜行性だからって興奮しすぎだ。ちょっとは落ち着け」

「もう! クウロまで!」

 手を払い除けてチルトは牙を剥いて爪を立てて見せた。

「とは言え、今回はそれが頼りになりそうだけどな」

「え?」

 俺の言葉にチルトの動きが止まる。

「チーちゃんは夜目が利くからね。さあ、ナルさんを一刻も早く見つけよう」

 続けてシンが彼女に真剣な顔を向けて言った。

「あ……、うん。任せて! 私、頑張るから!」

 自分を奮い立たせるようにチルトは拳を握りしめ、俺とシンはそれを見て頷き合う。

「じゃあ、俺はこっちを調べるから、三人で手分けしていこう」

「え?」

 途端に固まるチルトの表情。

「クウロ、おまえな……」

 そして呆れた目で見てくる友に、俺は頬をかきつつ口を開く。

「あー、そうだな……、シンを一人にするとレクトを見つけたときに彼女が危険だから、チルトはシンと二人で向こうを調べてくれるか? 俺は一人でこっちを調べるから」

「そ、そうね。それなら仕方ないわね。わかったわ。任せといて」

 そう言ってチルトはシンの手をぎゅっと握ると「さあ、行くわよ」と彼を連れて歩き出す。

 シンは俺に不満そうな顔を向けながらも彼女に引かれて後に続き、そして俺を指さしぽつりと言った。

「貸しだからな?」

「ああ。わかってるよ」

 ため息をつきつつそう答え、俺たちは二手に分かれて廃校舎を調べ始めた。

       ◆

「おい、クウロ!」

 夜の空をゆっくり動いていた大きな影はいつの間にか姿を消し、虫の鳴き声さえも眠りに就いた頃、俺を呼ぶシンの声が闇の中に響いた。

 腰までの高さしかない朽ちた壁に囲まれた教室から出ると、俺は所々に穴の開いた廊下へと出て声のほうへと目を向ける。

 そこには廊下の突き当たりを示す壁があり、その前に明かりを手にした人影が二つあった。

「どうした?」

「いいから、ちょっとこれを見てくれ」

 明かりを壁に向けながら手招きするシンのほうへ歩いていくと、そこには彼の手を握るチルトの姿と、その前に立ちはだかるように垂直に伸びる木の壁がある。

 それは二階部分まであったが二階の床などは一切なく、ただの大きな板のようで多少の傷が表面にはあるものの特におかしいところは見当たらない。

「クウロ。これ、どう思う?」

 シンの問い掛けに俺は手にしたライトで壁を上から下へと照らす。

 まるで廃墟に建てられた石碑のように壁は堂々とそびえ立ち、闇の中でその存在を浮かび上がらせている。

「なんか変だな」

 漠然とした違和感を口にする俺に、シンが俺たちを見ていたチルトに一つ頷き、彼女も頷き返す。

 何かと思ってチルトを見ると、彼女は壁を指さしさながらおずおずと口を開いた。

「あのね、クウロ。この壁に何か描いてあるんだけど……」

 指された部分を見るが、そこには木目があるだけだった。

「どこにあるんだ?」

「ここに、こーんな感じで」

 そう言ってチルトが壁を指でなぞっていく。

 それは床から上へと、人一人が通れるくらいの縦長の長方形をしていた。

「チーちゃんには見えるんだって」

「ぼんやり光ってる感じなんだけど……」

 俺を見て言うチルトの瞳は瞳孔が大きく開き、黄色い満月のようになっている。

「夜目が役に立ったな。で、ほかに何か見えるか?」

「えーとね。関係者以外立入禁止って書いてある」

 俺は思わず言葉を失いシンを見た。すると、そこには俺と同じく怪訝な表情があって、

「怪しいだろ?」

「怪しすぎるな」

 そう言って俺とシンは壁をじっと見て考え込む。

 そんな俺たちにチルトは心配そうな視線を向けて言う。

「どう? 何かわかりそう?」

 じっと見つめる彼女に、俺は取り敢えず浮かんだ思考を口にする。

「立入禁止ってことは、立ち入ることができるってことだよな?」

「じゃあ、入ってみるか? 壁の中に……」

 シンは壁を見たままそう言って、

「入れるの? どうやって?」

 続いたチルトの言葉に、俺とシンは壁を見たまま黙り込んだ。

 しかし、目の前の壁はいつまでも壁のままで何も答えてはくれない。

「ねえ、二人して黙らないでよ」

 俺たちを交互に見るチルトに、俺は何かいい案があるか?とシンの様子を窺った。

 しかし、その顔は俺やチルトではなく俺たちの右後方を向いて固まっていた。

 彼はそちらへと明かりを向け、

「おい、あれ……」

 と指をさす。

「な、何?」

 チルトは恐る恐る振り返り、俺もそちらに目を向ける。

 すると、そこには裸というか内蔵までオープンにした人体模型が立っていた。

「ひっ……」

 チルトの息を呑む音が聞こえ、その背後に口の端を歪めたシンが忍び寄ると、彼は毛の先までピンと立ったチルトの獣耳に口を近づけ、

「ふー」

 と息を吹きかけた。

「いっやぁああああッ!」

 悲鳴とともにチルトの回し蹴りがシンの体をなぎ払う。

「ぶほっ!!」

 というよくわからない音とともに、くの字に折れたシンの体が背中から壁へとぶつかり、しかし壁は軋むことなくボンという分厚い金属のような音を響かせて彼の体を跳ね返した。

「いやぁあ! 耳! 私の耳が何かざわって、ざわってなった!」

 その横でチルトは飛び跳ねながら両耳を手でパタパタと払い、その場にしゃがむと抱えた膝に顔を埋めて耳を伏せる。そして、何やらブツブツとつぶやき始めた。

 地面に倒れて痙攣するシンと体を丸めて震えるチルトにため息をついて、俺は人体模型を照らしながら獣耳少女に言ってやる。

「ちょっとは落ち着け。ただのシンのいたずらだ。それにあれも、ただの人体模型だ」

「え? あ、あれ?」

 俺の言葉に、チルトは周囲を見回し戸惑いの表情を浮かべる。

 しかし、そんな彼女は放っておいて、俺は気になったことを確かめるべく壁を軽く叩いてみた。

 すると、シンがぶつかったときとは違い、今度はコンコンという木の音が聞こえる。が、それもよく聞くと、どこかくぐもったような感じがしなくもない。

「何か術でもかかっているのか?」

「術?」

 落ち着いたのか、チルトがシンをまたいで俺と同じように壁を叩くが、よくわからないのか首をかしげる。

「だとしたら、恐らく封印系の術だと思うが……」

「どうやら、俺の機転が役になったようだな。あとは俺に、任せろ」

 地面から聞こえる声に下を向けば、シンが仰向けに寝転がったままゾンビのように弱々しく両手を上げている。片方にはライトを持ち、その明かりはチルトを下から照らしていた。そして、もう片方の手は彼女のスカートへと伸びて、

「ちょっと、何するのよッ!」

 慌ててスカートの裾を押さえたチルトの足が、最小限の動きで鋭く上げ下ろされる。

「え?」

 その言葉を残してシンの頭が地面にめり込んだ。

「この変態ッ!」

 そして、続く罵声とともにチルトは何度もシンを踏みつける。

「ぐっ、ちょ、ひょっと待っへ!」

 顔を踏まれながらも、シンは手を上げたまま何かを訴え続けた。

「うるさいっ! 黙れ! この女たらし! さっきはよくもッ!」

 しかし、チルトはそれを無視して容赦なくシンを足蹴にする。

 それを傍観しながら俺は、スカートへ伸びたシンの手に一枚の小さな紙切れが握られていることに気がついた。

「これは……、符か?」

 シンの手から引き抜いた紙切れには、両面ともにびっしりと文字や幾何学模様が描かれている。

「クウロ。ひょれを、ふかえ。ワードは……」

 そこまで言ってシンは力尽きた。

「シン。おまえの尊い犠牲は無駄にはしない」

 俺は、地に伏して動かなくなった友と蹴り疲れて息を切らしているチルトから視線を外し、目の前の壁へと手にした符を当てる。

 放つワードは、力尽きる直前に見せたシンの清々しい笑顔が教えてくれた。

「閉紋:ジ・エロスッ!」

「あんたも変態かっ!」

 鋭いチルトの突っ込みが、即座に俺の後頭部に炸裂する。

「……痛い目に遭った上に何も起こらないとは、シンよ、いったいどういうことだ?」

 後頭部をさすりながら言う俺の視線の先で、シンが自分の顔をライトで照らしながら恨めしそうに見上げてつぶやいた。

「おまえまで、そんな目で俺を見てたのか……」

 そして、ゆらりとゾンビのごとく立ち上がると、俺から符を取り返して壁に勢いよく当てて叫んだ。

「閉紋:ダイス・キー・オブ・パイ!」

 直後、背後から俺の蹴りとチルトの正拳突きを同時にくらったシンは、現れた扉を押し開けて闇の向こうへと消えていった。

       ◆

「それにしても、あんなのでよく封印を解除できたな?」

「あんなのって……。おまえな、あの符は学会員も密かに利用するという店で手に入れた十年ものだぞ」

 俺とシンは、扉の先にあった地下へと向かう螺旋階段を降りながら話していた。

 周囲に明かりはなく、あるのは遙か下でライトの光を反射する三階分の高さはあろうかという銀色のやたらと背の高い扉だけだった。

「学会って、シフトにある学術研究の最高機関でしょ?」

 後ろを歩くチルトの声に振り返れば、彼女は疑いに満ちた眼差しをシンの後頭部に突き刺しながら話を続ける。

「学会御用達の十年もののワードがアレなの?」

 語気を強めて言うチルトに、シンは顔を引きつらせながらも懸命に説明する。

「いやいやいや! よく聞いて、ダイス・キー・オブ・パイ、円周率の運命鍵って意味だから! 別に他意はないから!」

「んなわけあるかっ! どう聞いても〝大好きおっぱい〟でしょうが! この変態ッ!」

「ひいっ!」

 牙を剥きだし拳を振り上げるチルトに、シンは一目散に階段を駆け下りた。

 その姿はあっという間に闇に消え、途中で短い悲鳴が聞こえたかと思うとガランゴロンという音とともにライトの明かりを散乱させながら何度も何度も円を描いていく。

「結構、下まであるみたいだな」

 歩きながら俺は、拳を振り上げたまま立ち尽くすチルトに振り返って言った。

「何呑気に言ってるの? 追いかけないと!」

 我に返ったチルトは慌ててシンの後を追って走り出す。

 俺も仕方なくチルトの前を照らすようにライトを向けながら追いかけ、そして、まるで同じ所を何度も回っているような錯覚を覚え始めた頃、俺たちはようやくシンに追いついた。

 彼は少し広めの踊り場で、まだまだ続く螺旋階段の下へと明かりを向けている。

「どうした?」

 そう訊くと、シンは無言で下を見たまま首をかしげ、そんな彼の顔を覗き込むようにチルトも尋ねる。

「目が回って気持ち悪いとか?」

 しかし、それにもシンは答えず、明かりの先を指さすと不思議そうに疑問を口にした。

「なあ、あれって逃げたりするのか?」

 何を言っているのかとチルトとともに下を見れば、そこには降り始めた頃とまったく変わらない大きさで、何もなかったかのように銀色の扉が静かに光を反射していた。

       ◆

 そこは薄暗い空間だった。

 ナル=レクトは金属製の細長いテーブルに横たわり、目を閉じて眠っている。

 そばには大人の背丈で十数人分の高さと幅を持つ巨大な黒い球体が宙に浮かび、低く呻るような音を一定のリズムで響かせている。

 その球体からは大小様々なケーブルが伸び、ぼんやりとした光を放つモニターや計器類が並ぶ大型コンソールへと繋がっていた。

「ん……ここは……?」

 ゆっくり目を開けたレクトが、視線を周囲に向けながらつぶやく。

 すると近くから足音が聞こえ、それはレクトのそばまで来ると人影となって彼女の上へ覆い被さった。

 よく見れば、それは白衣を着てレクトとよく似た顔をしている。

「壊れてはいないようだな」

 淡々とした声で、白衣の女は青い瞳をレクトに向けながら言った。

「あなたは……」

 誰?と言おうとしたレクトだったが、口が思うように動かず言葉は途切れた。

 しかし白衣の女は、レクトの問いに機械的に答える。

「安心しろ。私はB9。ここで現相炉の維持管理を任されている者だ」

 そして長い白髪を揺らして首をかしげると、彼女は言葉を続けた。

「それにしても、なぜ、そんな格好をしている?」

 レクトは自分の体を見ようとするが頭が重くて動かない。しかたなく視線だけを下げて見れば、そこには学園の制服が見えるだけだった。

 白衣の女へと視線を戻せば、彼女は品定めをするようにじっとレクトを見ている。

 その瞳を見返したレクトは、まるで万華鏡に囚われたかのように自分が曖昧になる感覚に襲われた。

「それは……」

 自然と漏れ出た声に、レクトはすんでのところで口を噤む。

(余計なことを話している場合じゃない)

 はっきりしない思考を無理矢理動かして、レクトは自分のすべきことを思い出す。

(……現相炉……)

 B9と名乗った女はそう言った。そして、その言葉はレクトが欲していたものだった。

 自分が探していたものをB9は知っている。

(それなら、彼女から情報を聞き出さなければ)

 その一心でレクトは自分の体に起き上がるよう指示を出す。

「くっ……」

 しかし、体は言うことを聞いてくれない。テーブルに張り付いたように四肢は動かず、込めた力はわずかな呻き声となって口からこぼれるだけだった。

「無意味なことをするな」

「む、いみ?」

 B9の淡々とした言葉がレクトの神経を逆撫でし、その言葉を否定しようとムキになってみても結果は変わらなかった。

「そうだ。おまえは、ただそこにいればいい。そのための存在なのだから」

「それは、どういう……」

 感情のこもらないB9の声に疑問を返しながら、レクトはその言葉に嫌な予感を覚え始めていた。

 しかし彼女はレクトのことなど気にせず、ただ質問に答えを返す。

「おまえにP2IDはないだろう?」

「P2ID……」

 当然のように言うB9だったが、レクトはその問いに答えられなかった。

 しかし、それでいいとでも言うようにB9は話を続ける。

「我々パペットを識別・管理するための個体識別子。それすらも知らないことが、何よりの証拠だ」

(……私のP2ID……)

 その言葉を頭の中で反芻し、レクトは浮かんだ言葉を口にする。

「私は……、ナル」

「ナル? それはP2IDがないという意味だろう?」

 B9はそう言って不思議そうに聞き返し、レクトは自分の理解とは違う意味に戸惑いを口にする。

「何も……ない?」

「ナルとは、そういう意味の言葉だと記憶しているが違ったか?」

 B9は怪訝そうな顔でレクトを見下ろす。

 薄暗い闇を背に自分と同じ青い瞳が二つ。それは昔の自分を見透かすようで、レクトをひどく不安にさせた。

「……違う」

 否定の言葉を口にして視線を逸らしても、一度生まれた不安はゆっくりとだが確実にレクトの思考を蝕んでいく。

(私はナル=レクト。ウェイス様のパペット)

 レクトは崩れ落ちそうな何かを抱きとめるように、自分の名前と存在意義を思い浮かべる。

「……ウェイス様……」

 そして大切な人の名を口にした。

 それを訊いたB9は、怪訝な表情を嘲りを含んだものへと変えて言う。

「ウェイス? まさか名前だけでなくマスターまでいるのか? 燃料のおまえに?」

「……燃料? 違う。私はウェイス様のパペットで……」

 虚ろな思考でレクトはB9の間違いを訂正するが、なおもB9は呆れた顔で言葉を続ける。

「違う。おまえは人という可能性を模した実験用生体燃料――プエラ。識別する必要のない消費されるだけの存在。だからP2IDもない」

「そんな、ことは……」

 私には名前があるとレクトは自分に言い聞かせる。それがどんな意味だろうとマスターがつけてくれた名前に違いはない。

 でも……、

(……燃料……?)

 B9の言葉はレクトを不安にさせる。

「おまえのマスターは何を思って燃料に名前を付けたのか……。理解に苦しむな」

「やめてッ!!」

 思わず叫んだ直後、目眩とともにレクトの全身から力が抜けていく。

 意識も薄れ始め、それでも球体から聞こえる鼓動のような音だけはやけに心地よく、レクトの目蓋は徐々に重くなっていく。

 狭くなるレクトの視界からB9は視線を外すと何も言わずに離れ、そして完全な闇が訪れる。

《……ウェイス様》

 レクトは闇の中でマスターへと呼びかけた。

 通信の返事を待つ数秒さえも、止まった時のようにもどかしい。

 胸が締め付けられるような苦しさの中、

《……どうした?》

 ノイズに混じって頭の中に聞き慣れた声が響いた。

 その声にレクトはゆっくり一つ息を吐き、自分の役目を実行する。

《現相炉とおぼしきものを見つけました》

《……そうか。よくやった。それで何か人体実験のような、人を犠牲にしている証拠のようなものはあったか?》

《……それは……》

 急くようなマスターの口調に、レクトはなぜか距離を感じて言葉に詰まる。

 今は自分の現状をマスターに伝えることが先決。そう自分に言い聞かせ、

《一つ確認したいことがあるのですが?》

 しかし彼女が言葉にしたのは報告ではなく質問だった。

《……なんだ?》

 マスターは少し訝しそうにしながらも先を促す。

 言葉と思考の乖離に戸惑いながらもレクトは言葉を続けた。

《私のP2IDを教えていただけますか?》

《…………》

 相手はしばし沈黙し、そして思い出すように彼女に答える。

《P2ID? そういえば、たしか、おまえにはなかったと思うが……。もしかして証拠を掴むのに必要なのか?》

《いえ。そういうわけではないのですが……》

《そうか? 必要なら偽装P2IDを早急に用意す……》

 ノイズでマスターの言葉が途切れ、レクトはその間に浅く息を吐くと、

《いいえ、大丈夫です。私にはウェイス様から頂いた名前がありますから》

 と、普段どおりの口調で話を続けた。

《証拠については、恐らくもう少しで決定的な情報が手に入ると思います》

《そうか。では、俺も今から学園内に入る。マーカーは残しているな?》

《はい》

 レクトは、そう返事をしながら別のことを考えていた。

 周囲の状況とB9の言ったことだけでは、マスターの求める証拠にはまだ足りない。

(でも、彼女が言ったことが本当なら)

 自分に似ているからか、それとも自分とは違うパペットとしてのあるべき姿を彼女に見たからか、レクトにとってB9の話は真実めいて聞こえた。

 パペットなら誰もが当然のように持っている自分の存在理由。

 それを自分も手に入れることができるかもしれない。

 そのことにレクトは自分の奥底で蠢いていた靄が消えていくのを感じ、同時にそれは今の自分を否定することだと自覚していた。

(……ウェイス様……)

 人の形をしながら人との関係を望まれない、ただ可能性を閉じ込めるためだけの器。

(消えることが存在理由なら、確かに名前なんて必要ない)

《じゃあ、俺が行くまで引き続き情報収集を続けてくれ。頼んだぞ、ナル》

 聞こえるマスターの声に、レクトは名前を付けてもらったときのことを思い出し、

《了解です。ウェイス様》

 そう答えながら自分の名を呼ぶマスターの声を記憶の底へと保存した。

 そして通信が終わる。

 ノイズの無い静寂の中へと意識がゆっくりと溶けて、レクトの脳裏に一つの言葉が浮かんだ。

(さようなら)

 それは誰に向けた言葉なのか、もう彼女自身にもよくわからなくなっていた。

       ◆

「隠し扉の次は無限ループかよ」

 螺旋階段の下を覗きながら、シンがうんざりした顔で言った。

 俺は真っ黒な底に浮かぶように佇む扉にライトを向けてぽつりとつぶやく。

「いっそのこと飛び降りてみるか」

「ちょっと本気?」

 目を見開いて驚くチルトに俺は、

「いや。冗談だが?」

 と即答する。

 口を開けて唖然とするチルトの横で、シンは後ろを向いて背中を震わせている。

 そんな彼に、チルトはこめかみをひくつかせながらも笑顔を向けると、その肩に優しく手を置いて言った。

「……シン。あんたが行ってきなさい」

 そして軽々とシンを両手で持ち上げ階段の外へ放り投げようとする。

「へっ……」

 突然のことに気の抜けた声を上げるシンだったが、すぐに自分が仰向けで持ち上げられていることに気付くと、チルトの腕を後ろ手に掴んで彼女に言う。

「えーっと、チーちゃん? 落ち着いて?」

「放しなさい。そして落ちなさい」

 頭上でシンを揺らしながらチルトは淡々と告げ、

「ちょ、ちょっと待って、チーちゃん! 落ちる! 落ちるから! 危ないからッ!」

 シンは慌てて体を捻り、無理矢理チルトの腕にしがみついた。すると、彼女の小刻みな揺れが大きく背後へ傾いていく。

「あっ!?」

 チルトはバランスを取ろうと尻尾を前の手すりに巻き付けるが、そっちに意識が集中したせいで両手が一瞬おろそかになった。

「うぉわわわっ!?」

 宙へと放り投げ出される形になったシンはチルトの手を掴み直そうとして、しかし、彼女の手が目の前から急に消えたことに驚いた。

 よく見れば、手すりの近くでうずくまったチルトが尻尾の付け根をさすりながら目尻に涙を浮かべている。

 シンは放物線を描きつつ、諦めの笑みを浮かべて落ちていく。そして、「またかああああああッー!」という言葉を響かせながら再び階段を転がっていった。

 俺は先に行く友を見送ると、ズボンのポケットから一枚のコインを取り出す。

「仕方ない。これを落とすか」

 そう言って隣を見れば、チルトは涙を拭いながら立ち上がり、

「そうね。あいつより役に立ちそうだわ」

 と自分のお尻をさすりながら同意する。

「大丈夫か?」

「大丈夫よ。それより、人のお尻をじろじろ見ないで」

 彼女の鋭い視線に、俺はすぐに目を逸らして手すりの外、扉のほうへと顔を向ける。そして気を取り直すと、「いくぞ」と言ってコインを闇の中へ落とした。

 銀色の硬貨はゆっくり回転し、ライトの明かりを反射しながら音もなく落ちていく。

 次第にそれは明滅する光の点となって、しばらくすると動かなくなった。

「底についたの?」

「いや。何も音はしなかったし、今もコインは回転してるみたいだな……」

 落としたコインは見えなくなるわけでもなく、同じ強さで明滅し続けている。

「もしかして、シフト艦と同じ力が働いているのか?」

「どういうこと?」

「シフト艦は一見すると宙に浮かんでるけど、実際は落ち続けているだろ。あのコインも、それと同じじゃないかってことさ」

「止まってるのに落ちてる?」

 小首を傾げて疑問符を浮かべるチルトに、俺は思わずあ然とした。

 シフト艦の浮遊機構には刻奏術が使われている。その事は講義でやったはずだが、なぜこの猫娘はそれを覚えていないのか。

 理解に苦しんでいると下のほうから声が聞こえてきた。

「チーちゃん、ちゃんと講義受けてるの? シフト艦の浮遊機構は移動系の講義でやったでしょ?」

 そう言ったのは、息を切らしつつ階段を上ってくるシンだった。

「そ、そういえば……講義で、やったかも?」

 チルトはシンから目を逸らして乾いた笑みを浮かべて答える。

 俺は呆れつつも、取り敢えず話を進めることにした。

「まあ、復習も兼ねて説明すると、物を浮かせる基本的な方法としては流体を噴出してその反動を使う方法か、翼なんかで揚力を生み出して使うのが一般的だけど、シフト艦の規模でそれをやると超大型台風並みの流体渦が発生して、浮かんでも地上やシフト艦自体に大きな影響が出る。かといって、流体の影響を弱めると浮力を弱めることに繋がる。それで、代わりに考え出されたのが圧縮空間を使う方法」

 そこまで一気に話して、俺はチルトの顔を窺った。

「圧縮空間……」

 そこには先程と同じように小首をかしげるチルトがいて、それを見たシンは愕然とした表情で一歩後ずさった。

「チーちゃん。そんな……」

 その反応にチルトは慌てて、

「な、何よ!? 圧縮空間くらい知ってるわよ! 圧縮した空間でしょ?」

 と説明になっていない説明を口にする。

「いや、まあ、そうなんだけどね……」

 シンは、さらに冷ややかな眼差しを向けて苦笑を浮かべた。

 チルトは腕を組んで頷きながら「やっぱりね。そうでしょ。そうに決まってるわ」などと一人で納得している。

 俺は猛烈に不安を覚えつつも、咳払いをして無理矢理気を取り直すと話を続けた。

「空間の圧縮自体は統一時代より以前から理論的に可能であることは知られていたから、過相抵抗――つまり刻奏術を阻害する可能性の否定もほとんどないし、空間自体はほぼ無限にある。そんなわけで、一般的には倉庫なんかで使ったりするんだけど……」

「あっ、知ってる知ってる! 中に入るとやたらに広いアレでしょ?」

 今度は知っていたらしくチルトがやたらと食いついてくるが、俺は気にせず続ける。

「それで、それを立体じゃなく平面に展開して空間密度をできるだけ高めたのが空間障壁……」

「あ、それも知ってる! 実習でやったあれでしょ? 入ると人が消えちゃうやつ」

「チーちゃん、手品じゃないんだから、もう少し学園生らしい発言を……」

 そう言ったシンは、チルトの「黙って」の一言とともに肘鉄を腹に食らってその場に崩れ落ちた。

 俺はやる気を大量にそがれつつも、なんとか惰性で話を続ける。

「空間障壁の場合、圧縮される空間の距離は最低でも惑星の円周くらいはあるからな」

「でも、それだとシフト艦も消えちゃうんじゃない?」

「お、チーちゃんにしては、いい質問だね」

 腹を押さえて膝をついたシンが、苦しげな笑みとともに人差し指を立てて言う。

 その指を無言であらぬ方向に曲げながら、チルトは先を促すように笑顔を俺に向けた。

「……あー、まあ、シフト艦を呑み込むくらい広ければな」

 俺は見なかったことにして話を続ける。

「違うの?」

「ああ。ここがポイントで、空間障壁を浮かせたい物より小さくする。そうすると、どうなると思う?」

「うーん。浮かせる物より小さいってことは、空間障壁の中に入らないってことだよね?」

 考えるような仕草をしたものの、すぐにチルトはお手上げというように肩をすくめた。と同時に、指を解放されたシンが恨めしそうにチルトを見上げている。

 俺は面倒が起きる前に、さっさと話を進めることにした。

「距離的に圧縮されてるだけで、空間障壁もただの空間だから通過はできる。でも、通常空間との密度差によって、この場合、空間障壁に接触している部分が障壁を抜けるまで、それ以外の部分はほとんど移動しないんだ」

「うーん……つまり?」

 眉間に深い皺を寄せてチルトは訊いてくる。

「そうだな。イメージで言うと机に置いた氷の上に熱した鉄板を置くような感じか」

「えーっと、氷が溶けきるまで下に落ちないってこと?」

 大きく首をかしげるチルトの隣で、シンが指をさすりながら立ち上がると俺に言った。

「でも、ここが空間障壁内だとすれば、氷を溶かすようにはいかないぜ」

「ああ。そうなんだよな。どうしたものかな」

 俺は未だに回り続けるコインを見下ろす。

「術で解除すればいいんじゃないの?」

 気楽に言うチルトに俺とシンは顔を見合わせてため息をついた。

「チーちゃん。頼むから本当に勉強してくれ」

「う、うるさいわね。あのエロ解除符でもだめなの?」

 顔を赤くして言うチルトに、シンは懐から出した小さな符をひらひらさせながら言った。

「これは封印を解除する符だからな。空間障壁は封印じゃないし……」

「それに圧縮空間を下手に解除すると周囲の空間ごと一気に膨張して爆発する」

「じゃあ、どうするのよ?」

 ふて腐れたように手すりに寄り掛かるチルトにシンは肩を竦めて苦笑を浮かべ、俺は腕を組んで考え込んだ。

「穴を開けるように部分的に解除できればいいんだが、符でそこまで細かいことはできないしな……」

 そのとき、不意にくぐもった振動音が俺の懐から響いた。

「な、何っ!?」

 尻尾を抱きしめて怯えるチルトをよそに、俺は制服の胸ポケットから携帯端末を取り出す。

 光を放つ画面に表示された着信マークと相手の名前を確認すると、俺は端末を耳に当てて相手に呼びかけた。

「師匠。どうかしたんですか?」

 相手は俺の師匠――ジル=イルスだった。

       ◆

「おいおい! 師匠って、もしかしてジルさんか?」

「ジルって誰?」

 俺の端末に耳を近づけようとするシンの頭をがっちり背後から両腕でホールドして、チルトが俺に尋ねてきた。「知らないのか!? マスタークラスの刻奏師だぞ! まあ、俺としてはもう一つの顔のほうに興味があるんだけど」

 そう興奮気味に、俺ではなくシンが早口で答える。

 なおも、しつこく顔を近づけようとする彼から一歩離れて、俺は端末から聞こえる声に耳を傾けた。

《おい、聞いているのか? おまえが困っていると思って連絡してやったのに、まったく……》

「はい、聞いてますよって……、えっ、今、師匠なんて?」

 自分の現状をずばり言い当てられて俺は思わず聞き返した。

《どうもスフィアが騒がしくなってるようだし、なんか怪しいやつも動き出したから、どうかと思って連絡したんだが、困ってないんだったらいいんだ。じゃあな》

「待ってください、師匠! 困ってます。困ってますから切らないでください!」

 慌てて言って、俺は師匠に行方不明になった編入生と彼女が来てから起きた一連の事件、そして現状をかいつまんで伝える。

《なるほど。それなら、ちょうどいい物がある。ちょっと、そのまま待ってろ》

 そう言うと端末の向こうから何やらごそごそと音がし始める。

「なぁ、クウロ。ジルさんは何だって?」

 チルトに頭を抱えられ若干のけ反りつつも、シンが俺の制服を引っ張ってくる。

 俺はその鬱陶しい手を払うと、端末に耳を傾けつつ二人に言った。

「よくわからないけど、なんかいい物があるらしい」

「おお、さすがは地獄耳のジル! 情報が早いな!」

 感嘆の声とともに、シンが師匠の二つ名を口にする。

「地獄耳?」

 獣耳をぴょこぴょこと動かして言うチルトに、シンは嬉々とした表情で答える。

「そう! ジルさんは刻奏師としてだけでなく情報屋としても凄腕なんだ。なんたって、あの学会内部の情報さえも入手できるって噂だからな」

 しかしチルトは、「へー」と余りよくわかっていない様子でシンの頭をぎりぎりと締め、シンはそれでも師匠の凄さを延々と話し続けていた。

《おい、クウロ》

 再び聞こえた師匠の声に、俺は携帯端末へと意識を戻す。

 視線の端ではシンとチルトがじゃれ合っているが、俺は気にせず話を続けた。

「はい、師匠」

《今から刻器を送るから使ってみろ》

 まるで果物ナイフでも渡すかのように師匠は気軽に言うが、俺はそこに含まれた単語をすぐには理解できず思わず聞き返していた。

「……コッキ?」

「何をアホみたいな声を出してる。刻器も知らんのか。いいから、さっさと受け取れ」

「て、まさか!? あの刻器ですか?」

「は? 刻器だと!? それ、いい物ってレベルじゃないぞ!」

 シンも俺の言葉に驚きの声を上げる。

「刻器って、あの凄い人達が持ってるやつだよね?」

 チルトでさえも知っている刻器とは、使い手(ユーザー:刻奏使)、学士(スカラー:刻奏士)の上にある、師範(マスター:刻奏師)クラスの者だけが持つ専用の道具だ。

 高次符を使用・制御するための道具で強力な刻奏術が使えるが、使用者ごとのカスタマイズが必要で、それに加えて常に大きな代償も必要とされる。そのため使用者の個性が刻器には強く反映され、刻奏師のシンボルにもなっている。

 確かに師匠はマスタークラスの刻奏師だから刻器は持っているし、見たこともある。

《その刻器だ。ゲートを開くから早く受け取れ》

「いや、でも……」

 師匠の刻器を送られても使えないと言おうとしたが、問答無用で端末から響いたゲート展開音に、俺はライトをチルトに渡すと端末を耳から離して目の前にかざした。

 すると、端末の画面から小さな光の輪が浮かび上がり手のひら大に広がる。そして、その何もない中心部分から剣の先端のようなものが伸びてきた。

 それはレイピアを二枚貼り合わせたような形で、しかし尖っているはずの剣先も鋭く研ぎ澄まされているはずの刃も丸みを帯びていた。また、柄に当たる部分には拳より少し大きめのリングが刀身と同じく二枚重なって水平にあり、まるでΦの字ようになっている。

 そして、そのすべてが真っ白だった。

 俺はゲートから現れた刻器を手に取ると、端末のゲートを閉じて無事受け取ったことを師匠に伝える。

「受け取りましたけど、これ、師匠のじゃないですよね?」

《当たり前だ。そいつの名はハクセン。まあ、プロトタイプだが、一応おまえの刻器だ》

 手にした白い剣状の刻器を見ながら、俺は師匠の言葉を繰り返す。

「俺の、刻器?」

「おいおい。マジかよ」

「それ、クウロのなの?」

 シンとチルトもそう言って、驚きの眼差しを刻器に向けてくる。

《そいつなら、狙った部分の空間障壁だけを切断して通り道をつくれるはずだ》

「つくれるはずだって、いきなり言われても……。それに、よりによって切断……うっ!」

 切断をイメージした瞬間、こめかみを突き刺すような痛みが走り膝の力が抜ける。

「おい、どうした!?」

「クウロ!?」

 とっさに刻器を杖代わりにしたものの、俺は片膝立ちの状態から動くことができなかった。

 心配する二人に短く「大丈夫」とだけ言って、俺はいつものように目を閉じ息を整える。

 そして、ゆっくり目を開くと、もう一度大きく深呼吸をした。

 他人の頼みを断るだけでなく、何かを断つという行為自体に俺の体は拒否を示す。そんな不断症の俺が、この刻器を扱えるはずがない。

 目の前に立つ白い剣を見ながらそんなことを考えていると、

《余計なことは考えるな。いいから、取り敢えず認証してみろ》

 心を見透かすように師匠の言葉が落ちていた端末から聞こえてくる。

「認証……?」

《刻器に触れて名を呼ぶだけで済むはずだ》

 俺は端末から刻器へ視線を向けると、手に力を込めてその名を口にした。

「ハクセン!」

 すると、手に吸い付くような感触とともにハクセンの重さがほとんどなくなる。そして、重なる刀身の隙間から青白い光が漏れ出す。

《構戒錠文を確認。認証完了》

 それは聞いたことのない女性の声で告げられ、直後、光が消えるとハクセンに重さが戻ってくる。しかし、それはちょうど扱いやすい程度の重さで、立ち上がって軽く振れば腕の延長のような一体感があった。

(これが、俺の刻器……)

 違和感のなさを不思議に思っていると、気付けば頭の痛みやふらつきもいつの間にかなくなっている。

《おい。認証は済んだか?》

 どこか急かすように言う師匠の声に、俺は端末を拾うとすっきりした気分でハクセンを見ながら答える。

「はい。で、これ、どうやって使うんですか?」

《符と基本的には同じだ。対象をイメージしてワードを言えば発動する》

 そして師匠はワードを言うと、

《あとは実際に試してみろ。細かいことは刻器が教えてくれる》

 そう言って、さっさと通信を切った。

「え? 師匠!?」

 突然のことに俺は、通信終了の表示を浮かべた端末をしばらく見つめていた。

「クウロ?」

「で、それ、使えるのか?」

 二人の声に、俺は気を取り直すと端末をポケットにしまい、

「よくわからないが、使えるみたいだな」

 と、掲げたハクセンを見ながら答えた。

 人が自分の体を理解していなくても動かせるように、この刻器も俺にとっては既に体の一部なのだと、そんな感覚が次第に強くなっていく。

「よくわからないって……」

「それって、大丈夫なの?」

 不安そうに言う二人をよそに俺は手すりに近寄ると、眼下で明滅を続ける小さな光と下の扉を見下ろし、

「取り敢えずやってみるさ」

 そう言ってハクセンの切っ先を光と扉を結ぶ直線上に向けた。

 シンとチルトは俺の両隣でライトを手に成り行きを見守り、そんな二人に目配せをして俺はハクセンに意識を集中する。

 一瞬、脳裏を不断症のイメージがよぎるが、それが具現化する前に俺は障壁を切断するイメージとともに言葉を放った。

「閉紋:千里刃!」

始錠シフト:閉紋→来相転移》

 再び、あの女性の声が頭に響き、それがハクセンのものであることを俺は確信する。そして、

構過セット:来相@事象範囲》

 声なき刻器の音は連続し、

顕現アクト:事象∽千里刃》

 刻まれた時の噛み合う音が空間を振るわせた。

 それは視界の先に一つの変化をもたらす。

 さっきまで同じ位置にあった光が静かに下へと落ちていき、それはあっという間に闇へと呑み込まれると、しばらくしてから微かな金属音を響かせた。

「……うまく、いったのか?」

 シンが闇へと明かりを向けながら目を細めて言い、その隣でチルトは、手すりから身を乗り出して同じように下を覗きながら「うーん」と目を光らせている。

 そんな二人の横で、俺は未だに頭痛も目眩もないことに一抹の不安を覚えていた。

(症状がないってことは……)

 もしかして切断に失敗したのかと思っていると、

「あ、床が見えるよ!」

 と、チルトが上半身を逆さまにする勢いで下を指さした。

「チーちゃん!? 落ちる! 落ちるから!」

 シンが慌ててチルトの上半身を起こそうとしがみつく。

「ちょ、ちょっと!? どこ触ってるのよ!」

 シンの両手はチルトの胸らしき部分をがっしりと掴んで、

「危ないから! 暴れると危ないから!」

 それに気付いていないのか、なおも必死で手すりから下ろそうとするシンの顔に、暴れるチルトの後ろ蹴りが炸裂した。

「ぶっ!?」

 下から鋭く蹴り上げられた足はシンの顎を直撃し、彼は白目を剥いて崩れ落ちる。

 その横で、手すりから降りたチルトは胸を隠すように自分の体を抱き、少し目に涙を浮かべて真っ赤な顔でシンを睨みつけた。

「そのまま寝てろッ! このエロバカッ!!」

 そんな二人にため息をついて、俺は落ちていたシンのライトを拾うと、一人先へと階段を降り始める。そして、数段降りたところで振り返ってこう言った。

「さっさと先へ行くぞ。このバカップル」

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