青年ジレと幸福な街
***独り言の街***
1 青年ジレと幸福な街
――この言葉の意味を、理解できる人は何人いるのかな?
――この言葉を知識として知っていても、実感できる人は、まだ残されているのかな?
ユウキは黒板に向かって、あくびを噛み殺しながらそう思った。
いつものように、教諭が嬉々とした顔で、教科書の内容をそのまま板書している。それに時々注釈を加えたり、自分の昔話を交えたりしているだけ。
つまらない。
教室にいる生徒たちはみんな、私語をつつしんでその教諭の言葉に、真剣に耳を傾けてノートをとり、ときどき教諭がジョークを飛ばせば笑い声をあげる。みんな同じ。
つまらない。
彼女の頭の中は一つの言葉で占められていた。
それは、きっと最近生まれた子なんか知らないだろう死語になってしまった言葉。
『つまらない』
でも、彼女にそれを口にすることはできなかった。誰も、共感してはくれない。それどころか、きっとおかしくなってしまった子だと勘違いされる。心配される。
だからいつもそれは独り言になってしまう。
それも、誰にも気づかれないくらいの小さな独り言で――
「つまらない……」
今日も、そう繰り言をする。
ここは、この『転点』という街に存在する唯一の高校。名前なんて存在しない。ただ高校といえばここを指すことは、住人の誰もが知っている。ユウキはこの高校の二年生だ。成績が中くらい。でも勉強はしなくても問題ない。だって誰にも怒られないから。
彼女はため息をついて教室の、窓側にある自分の席から、廊下側の席をちらりと見る。昨日までとは違って、席が一つなくなっている。きっと、先生だか誰かが、朝のうちにでも家から連絡を受けて、運んで行ったのだろう。そして、そのことをもうすっかり忘れてしまっているに違いない。
誰も彼の存在を覚えてないし、もう思い出すこともないだろう。彼は消えてしまった。
ユウキは不思議だった。
いつもと同じようなことを考えて、いつもと変わらない日常を過ごしている自分が、何の違和感も覚えないまま過ごせる自分が、ユウキは信じられなかった。
昨日までそこにいた生徒――ユウキの双子の弟が消えた。
――昨日家に帰ってこなかった――
それは、この『転点』という街では消えることを意味する。彼は昨日、部活が終わった後に帰ってこなかった。ユウキの両親は心配した。でも朝にはもう弟の存在をケロッと忘れていた。まるで最初からそんな人間は存在していなかったかのように。
ユウキだけは忘れていなかった。でも、彼女に悲しいなんていう気持ちはこれっぽっちも起きなかった。それが彼女を余計に虚しくさせた。
――十二年まえなら、きっと私は泣き叫んだんだろうな……。
彼女は上の空で黒板を見つめながら、そんなことを思った。
そう、彼女の弟――ダイも変わってしまった。みんなと同じように。十二年前に。
教師が「それでは次のページの……」と言うと、生徒の紙をめくる音が教室に響いた。気味の悪いくらいに、クラスのみんなは一斉にめくった。ユウキもあわててページをめくった。
次の瞬間には、もうユウキの頭の中にはダイのことなどすっかり消えてしまっていた。
「ユウキ~。ごはん一緒にたべよ!」
お昼休みになると、クラスメイトの女の子がユウキに話しかけてきた。ユウキはうなずいて微笑みながらもその子の名前を覚えていなかった。確かこの間、やたらと最近できた彼氏の話をしていた気がする。それを、他に一緒に食べている女子のみんなは、本当にうらやましそうな顔で、でも心から祝福するような顔で、聞いていた。
――陰口も嫉妬も嘲笑も存在しないんだから。
ガガガっと他の彼女について来た女子も、机を移動させて大きな四角をつくる。ユウキもそれに協力する。気付くと、他のクラスメイトたちも同じように、机をくっつけて大きな四角を作っている。他のクラスの友達のところに行った人もいるが、あぶれている人は誰もいない。
誰も仲間外れはいない。
仲間外れは不幸だから。
それに、こう見えてクラスに派閥は存在しない。一緒に昼食を食べる人はみんなコロコロ変わるし、全員仲がいい。
――でも、私は誰の顔も名前も覚えられない。
「あっ、そうだアシン? こないだ話してた彼氏とはどうなったの?」
「え! それ聞いちゃう! うふふ」
「あ、またアシンののろけがはじまる!」
「ちょっと、カナー、アシンにその質問はやめろっていったでしょー。あはは」
「昨日あいつと一緒に帰ったときにね……」
「うわ……勝手に始めてるし……」
「恐るべし幸せパワー……」
「ちょっと~! みんなおとなしくアシンの話聞こうよ!」
「そんなスウキにも彼氏ができたらしいですな……ニヤニヤ」
「ちょっ! キキ! それは秘密でしょ!」
「ふふふ。幸せを独り占めするなど許さん」
「え! キキにも彼氏できたの‼」
「マジで‼」
「ううう……まさかこんなに早くバレるとは……」
「キキおめでとう!」
「おめでとう!」
「……ありがと! あんか照れくさいな~」
「それでね。あいつったらまた黄金のからあげに……」
「アシンまだ話続けてるし……」
「あははは!」
「ははは!」
「ははは……」
ユウキは必死に笑ったふりをしていた。
でももう疲れはてていた。
いつまでこんな日々を送るんだろう。――必死でみんなに合わせながら、いつもちょっと外れたことをすると『心配』されないか不安で、怖くて、逃げてばっかりで。
――でももう疲れたよ……。
ユウキは想像した。今、この机をひっくり返して、この無機質な弁当や予定調和な友情を全部床にぶちまけてやったらどうなるだろう? それからみんなに向かって「気持ち悪い!」って思い切り叫んだらどうなるだろう? それからクラスからも、家からも、この街かも出て行けたらどんなにスッキリするだろう?
でも、そんなことは不可能だってユウキにはわかっている。そんなことをしたら、『心配』されて、『調停』に引き取られて、ユウキは消滅する。そしてみんなの記憶からユウキは消える。文字通り、存在ごと『消滅』する。ダイみたいに。
その後もユウキは、表面上は明るい顔をして昼食を食べ続けた。
放課後、部活に入っていないユウキは、いつものように女友達と一緒に、門限まで時間を潰すことにした。『転点』の学生には、全て門限がある。たとえ施設に入っている子でも。
ユウキの家の門限は夜の八時だ。メールを入れれば門限はなくなるけれど、黙って門限を過ぎると、『心配』される可能性があるから、彼女はその門限を破ったことがない。
今日、彼女と友達は、東急で買い物をすることにした。適当に服とかを買って、適当にそこらへんにあるものを食べて、帰る。いつもの行程だ。
ハチ公前はいつものように人が溢れていた。でも、喧噪はない。みんな互いの事を気遣って、必要最低限の声で話している。
ユウキは、一人の女友達が中学にいる後輩と待ち合わせをすると、一緒にハチ公前で待っていた。ユウキも前にはその中学にいた。もちろん名前はない。嫌な思い出だ。
みんなクレープをほおばって待った。友達(ユウキは名前がわからない)は、せわしなく携帯をいじくっている。ユウキはクレープを口に含みながら、人々が激しく行き来するスクランブル交差点を見つめる。
そこには何千人という人間がいるのに、誰も、十二年前に、世界が、自分が、変わってしまったということをわかっていない。ユウキはそのことがとっても気持ち悪いことのように思えた。みんな、見えないなにか、『幸せ』という一つの抽象的なものを形作るために、誰かに動かされているように感じる。
ユウキは小さいころを思い出す。いつも彼女は、幼稚園に向かうバスに乗って、この通りを眺めていた。信号無視をする人や車、それをとがめるクラクション、怒号、そういったその頃にはあったものが、今のここからはすっかりと消えてしまった。みんな信号を正しく守り、行軍のように、お互いに肩をぶつけることもなく綺麗に歩いている。
信号が青になった。人々は一斉に歩き出す。その瞬間に、交差点の奥に屹立する四つのビルの大型ビジョンの映像が全て切り替わった。
その画面に映ったのは、どこか薄汚れた路地裏だった。細かな吐息が聞こえる。
――なに? これ?
ユウキは嫌な胸騒ぎを感じて、隣にいる友達を見る。しかし彼女たちは誰もその映像に気付いていない。それどころかスクランブル交差点をあるく大勢の人々の誰も、その画面を見上げている者はいないように見えた。
映像を録画しているのはハンディカメラのようだった。呼吸に合わせて視点も揺れる。手前の壁に隠れて撮影しているようだ。青いポリバケツや蛇のように壁をつたう配管、ビルの二階に取り付けられた空調や、地面にまかれた白い吐瀉物のようなものが確認できる。
路地裏の奥にはどうやら二人の人間がいるみたいだ。肩幅の大きい黒い服を着た男の背中ごしに、こっちのほうを向いている小さな影が見える。
吐息にまぎれて、鋭い叫び声が聞こえる。それはなにか必死で懇願しているような声だった。
次に瞬間にはその声が消えた。手前の男が右手を突き出した。さっき確認した限りではその手にはなにも握られていなかったが――
奥にいた男はくずおれるように床にあおむけに倒れた。みるみるその体の下から液体が円状に広がって行った。手前にいた男は振り返った。その瞬間にカメラの映像は途切れて、さっきまで大型ビジョンに流れていた知らないアーティストのプロモーションビデオに切り替わった。
残像で一瞬だけ見えたが、手前にいた男はその右手にナイフのようなものを握っていた。
ユウキは大してその映像に頭がいかなかった。ちらちらと見る程度だった。
たしかにこれは異常な映像だ。だけど、そんなもの、気にならないくらい、彼女にとって衝撃的なことが、その瞬間に起こっていた。
――彼はその映像を見ていた――
スクランブル交差点で立ち止まっている背の高いその人、ユウキにはその姿が人々のすれちがう体の合間からきれぎれに見えた。
――あれはうちの制服だ……。
彼は大型ビジョンを確かに見上げていた。
「ユウキー。後輩なんだけど東急に直接行ってて下さいだって。行こう!」
ユウキは友達に腕を引かれた。
「ちょっと待って」ユウキは言った。
「ん?」
「あ、あの男の子知ってる?」
ユウキは彼がいた場所を指差した。
「え? どれどれ?」
しかし、その男はもうそこにはいなかった。姿を消してしまっていた。
「ご、ごめんなんでもない」
「へんなの~。もしかしてユウキ。好きなタイプだったの?」その友達はニヤニヤしながらそう言った。
ユウキは適当にかわしつつも彼のことを考えていた。
その後も、彼女の頭の中は彼の事でいっぱいだった。
――見れば不快になるような映像を彼は見ていた――
――もしかしたら、彼は私と同じ……?