少女メエとあまりものの王国
***繰り言の王国***
1 少女メエとあまりものの王国
――どこだろう……ここは……?
――なんなんだろ……わからないや……
一人の少年が浜辺に打ち寄せられている。
短い髪はキレイな青色をしていて、あどけない大きな瞳は金色で、肌は真っ白だ。年は十歳くらい。
名前はナナ。
記憶をなくしている。
波の色で、ナナの体は真っ赤に染まっている。瞼の裏は太陽の赤黒い光と、木漏れ日のような点々の金色の光で覆われていた。
――なにも思い出せない……。僕はどこにいて、何をしていたんだろう。ずっと悲しいって叫んでた記憶がある。嫌だって苦しんでいた記憶がある。胸をかきむしられるような思いを、僕はしていた。そこから逃れようと、必死だった。
でも、ナナは『悲しい』や『嫌だ』と心の中で叫んでいた記憶があっても、言葉としてそれが残っていただけで、実際にそれがどんな感情なのかわからなかった。
――そうだ……大切な人がいた。その人に会いにいかなくちゃいけない――でもどうしても思い出せないんだ。きっととても大切なことなのに……。
ナナはもう一度記憶の底を探ってみた。カラッポの器の中から、一滴の水を探り出すように、その中を覗き込むと、一つの暗い悪夢が脳裏に蘇った。
影。
――そう、影に追われていた。一つじゃない。たくさんの影だ。
死体。
そして足もとにはたくさんの死体があり、黒々とした血を口から、体中から流して、屈強な男も、女も、子供も、骸と化して、地面にうずたかく積まれていた。それが足の踏み場をなくしていた。
そんな地獄のような光景のなかで、足を痛めながらも必死に、ナナは無数の影から逃げていた。
――ずっと怖かったんだ。僕は誰かの助けを求めていた。でも、誰の声も聞こえなかった。みんな消えてしまっていた。僕は一人ぼっちで逃げていたんだ……。
ナナは目を開けないでいた。このまま消えてしまうのが一番だとナナは思った。何も見たくない。何も聞きたくない。どうしてか、ナナはこの世界で目覚めることを強く拒んでいた。このまま誰にも見つからずに、何も思い出さずに、独りで無の中に沈んでゆきたかった。
でも、そんな時、歌が聞こえてきた。
少女の鼻歌だ。落ち着いた声、ゆったりとした不思議なメロディーで、どこか寂しそうな響き。はじめて聞いたはずなのに、ナナはその歌をとても懐かしいと感じた。まるで子守唄を聞いているように、悲しみは少しずつ引いていき、落ち着きが戻ってくる。
ーー誰なんだろう……?
ナナはゆっくりと目を開けた。空には真っ赤な太陽が光って、雲を朱色に染め上げている。くちもとまで打ち寄せている波も赤くて、それが鼻に入ってナナは咳をした。
手で半身を起こすと彼は遠くの地平線を見た。空と海の間は薄赤い霧で霞んで境界が曖昧になっていた。地面は灰色の砂が覆い尽くして、それが遥か左右に広がっている。
「目、覚めたんだね」
ナナは振り返った。するとそこには灰色の砂の上で体育座りをしている少女の姿があった。
年齢はナナよりも少し上に見える。真っ黒な髪と黒い大きな瞳が特徴的なかわいらしい顔つきをしていて、ヨコ文字が印刷されている白いシャツを着て、黒いスカートを履いている。
彼女の背中越しに、遠くにある建物の群れが見える。それらはきちんと区画されていなくて、なかには横転しているものや鉄骨がむき出しになっているものまで見えた。
「体ビショビショだよ。大丈夫?」
少女は立ち上がって、砂のついたズボンを手で叩きながらナナの方に歩いていく。
「君は、誰?」
ナナは少女に向って尋ねた。
少女はにこりと笑って、ちょっと首をかしげて微笑んだ。
「私の名前はメエ」
「メエ?」ナナは聞き返した。
「そう、メエ」メエは頷く。「そしてあなたはナナ」
「ナナ……」
彼はその名前を繰り返した。ナナーーそれは確かに自分の名前だった。ナナ。懐かしい響き。でも、どこか不吉な名前。
「君がメエで、僕はナナ? 君はここに住んでいる人なの?」
「そう」メエはうなずいた。「王国のみんなはメエのことをメイって呼ぶけど」
「王国?」
「うん。ここは王国なんだよ」
「王国ってことは王さまがいるの?」ナナは聞いた。
「いや、女王さまだね。ナゾって呼ぶ人も王国の中にはいるけど」
「ナゾ?」
「うん。とっても綺麗で強くて頭が良くて、素敵な人だよ」メエは顔を輝かせてそう言った。
「へぇ。メエはその女王さまのことが大好きなんだね」
「うん。ただ、かわいそうな人だけど」メエは少しさびしげな顔をした。
「かわいそう?」
「ううん。なんでもない。この話は終わり。それで、ナナはなにか覚えてることある?」
「メエは僕が記憶をなくしたって知ってるの?」
「ここにくる人は、みんなそうだよ」
「……?」
ナナは意味が分からず首をかしげた。
「とにかく、何か覚えてることはある?」
ナナは目をつむって首をひねった。
――覚えていること……。
「ううん。何も思い出せない……」
「そう」メエは無表情で言葉を返した。
「ただ……」
「ただ?」
「変な夢を見ていたんだ。死体がそこらじゅうにいっぱいあって、僕はたくさんの黒い影から逃げていた。僕はそれが怖くてしかたがなかった。それに、なぜか悲しくてしかたがなかったんだ」
ナナはそう言うと、立ち上がって頭を片手で抑えた。やけに頭が痛かった。
「…………」
メエはその話を黙って聞いていた。そして、ナナの目を真っ直ぐに見つめていた。ナナはその目が少しだけ不気味に思えた。年齢にそぐわない、まるで、諦観しきった老人のような、奥行きのない黒い瞳――その瞳をみつめていると、頭がわれそうに痛んだ。
――なんだろう……? 僕はこの少女を知っているような気がする。ずっと一緒にいたような気がする……。――君はなにか知っている……?
「君と、僕はあったことがあるの……?」ナナはメエを見下ろしながら言った。
「全部、女王が知ってるよ」メエは微笑んで言った。
「君は僕のこと、何か知ってるの?」
「うん知ってる」
「だったら――」
メエは立ち上がると、ナナの言葉を無視して、海とは反対側の方向へ歩み始めた。
「ちょっ、ちょっと!」ナナはあわててその、自分より少しだけ大きな背中を追いかけた。
「ナナが本当に全てを知りたいんだったら、私について来て。この王国の反対側の最果てにある城に連れて行くから」
メエは歩きながら振り返らずに、答えた。
「城?」
「うん。そこに女王が住んでいるの。そこでナナは、すべてのことを知るの」
「どのくらいかかるの?」メエは灰色の砂を踏んづけながら聞いた。
「わからない。でも、ナナが頑張って歩けば、一日くらいでつけるよ」
「一日⁉」ナナは思わず大きな声をあげた。
――一日歩き続けるのか……。
「大丈夫。ナナは男の子だし体力あるから」
「でもメエは……?」
「私? 私は心配いらないよ。慣れてるから」
メエは淡々と答えた。
「それにその前に、私が色々、王国の事を案内するよ。そんなにあせらなくてもいいからさ」
ナナは釈然としなかった。メエはなにか隠しているし、自分の事をしっているのなら何か教えてくれてもいいのにと思った。でも、どうせ一日くらいで全て知ることができるのならそんなに焦らなくてもいいと思い――
「わかった。じゃあとりあえずメエについていくよ。なにか思い出せるといいけどな……」
ナナがそう言うとメエはくるりと体を反転させて微笑み、右手を差し出し、言った。
「ようこそ、ナナ。この、あまりものの王国へ」




