八.
茜を追いかけていた野犬を最後の一頭まで切り伏せ、芹沢教官は剣を鞘に収めた。
「さて……っと。」
くるりと振り返り、その場にへたり込んでしまっていた茜を頭の先から足の先までじろりと一瞥する。
「怪我はねえな?」
「は、はいっ。」
安心したせいか、それとも気が抜けたせいか。すっかり力の抜けた膝を叱咤して、茜は慌てて立ち上がった。一度姿勢を正してから、勢いよく頭を下げる。
「申し訳ございませんでした、教官!」
「何が申し訳ないんだ、会沢?」
「承認を待たずに外出したことと、ご迷惑をおかけしたことですっ。」
「へえ?」
ただでさえいかつい顔をさらにしかめた教官は、それ以上は何も言おうとしない。
無言のプレッシャーに耐えかね、諸手を上げて降参したのは、当然ながら茜のほうだった。
「……それと、蝶もなくしました。」
「なくしたんじゃなくて、使ったんだろ。……もう一度だけ聞く。何が申し訳ないんだ?」
「っ、」
これはアレだ。回答を間違えるとその場でゲームオーバーになる類の問いだ。
ゆっくりと上体を起こした茜は、内心冷や汗を掻きながら慎重に言葉を選ぶ。
「……今まで問題なかったから今回も大丈夫だろうと、依頼を甘く見てました。外出届にしても、手続きの問題としか思ってなくて、危険性をちゃんと認識していませんでした。」
「時間外の外出に届けが必要な理由は?」
「夜の樹海が特に危険だからです。ある程度の安全が確保できているから外出が承認されるのに、届けを出したからいいだろうと勝手に出かけたのは、自分の勝手な判断でした。自分勝手な判断でご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。」
再び深く頭を下げる。
教官の遠慮ない視線が頭上に突き刺さるのを、ひしひしと感じる。じりじりと焦がすようなまなざしに、だが首をすくめて耐えるしかない。
「ふん。わかってんじゃねえか。……頭を上げろ、会沢。報告は相手の目ぇ見てするもんだ。」
恐る恐る姿勢を戻すと、険しかった教官の表情が少しだけ和らいでいるような気がした。
(これ、もしかして……?)
「無断外出の件は素材業者の依頼を事前に止められなかった、こっちの不手際もある。まずかった点も身に沁みただろうし、これ以上俺から言うことはない。だが次はない。そこんとこ、肝に銘じとけ。」
「はいっ!」
とりあえずゲームオーバー――退学の危機は乗り越えたようだ。茜はほっと胸をなでおろす。
「それとは別だがな、会沢。なんで蝶を使おうと思った? アレをぶつけたところで攻撃力なんぞ期待できないことはわかっていただろう?」
「手持ちの装備は限られていました。魔石は結界を張るのに使いましたし……動物は火に弱いですから、少しでも目くらましになればと思いました。それにコントロールには自信がありますから、遠くの標的にも正確にぶつけられます。」
「使った後のペナルティのことは考えなかったのか?」
「考えましたけど、それどころじゃなかったですし……。」
万一のことがあれば、ペナルティを受けることすらできなくなる。もっとうまい手もあったかもしれないけれど、茜にはあれが精一杯だった。
「ペナルティは覚悟の上ってか。いい覚悟じゃねえか。」
芹沢教官の遠慮のない視線が、再び空っぽの頭上に突き刺さるのを感じた。目を細めてじっと凝視されて、ただひたすらに居心地が悪い。
蝶を野犬にぶつけたのは後悔していない。あれで少しでも足止めできたはずだ。でも。だけど。
(居た堪れないっ……!)
蝶を飛ばす訓練を始めてから、早三年だ。総勢八匹の蝶は、ここ最近、うっかり燃やすことはあっても、一匹か二匹だった。頭上の蝶が全部いなくなることはなかった。それが今はゼロ。空っぽ。なんにもなし。
だからだろうか。どうにもこうにも落ち着かないのは。大事な式典の日にタイを締め忘れてしまったような、上着にトマトケチャップをつけてしまったような、居た堪れない気分になるのは。いつも当たり前にやっていたことを急に取り上げられてしまって、手持ち無沙汰な気がするのは。
だらだらと冷や汗を掻きつつ、教官の反応を待つ。
ペナルティは確定だ。そんなことは茜も承知の上だ。でも、焦らすのは勘弁してほしいっ! 心臓に悪いっ!
腕を組んで何事か考えていた教官が「ふむ」とうなずいた。
「蝶については、よくやった。」
「へ?」
思わず間抜けな声を上げた茜に、教官はごくごく真剣に告げる。
「あの状況だ。使える物を何でも使うってのは間違っちゃいねえ。むしろペナルティを恐れて自分の身を危うくするような奴ぁ、青柴から出てって貰わなきゃならねえからな。」
「それじゃあ……?」
「だがな、会沢。わかっちゃいるだろうが、それとペナルティの有無は別問題だ。自分がやらかしたことの落とし前はきっちりつけてもらう。もちろん、無断外出の件もだ。」
「何も言わないって言ったじゃないですかっ!!」
「俺は、な。この件は六条寮監の管轄だ。せいぜい絞られるんだな。」
「そんなっ!?」
天敵である寮監の名前を出され、茜は恐れおののくしかない。ある意味、野犬と遭遇したときより怯える茜に、教官はどこまでも非情だった。
「帰るぞ。Rマイヤーがてぐすね引いてお待ちかねだ。」
芹沢教官に引きずられるようにして寮まで戻ると、エントランス前に仁王立ちしたRマイヤー――六条寮監が待ち構えていた。
年齢のわりに背の高い寮監は、背中に物差しでも仕込んでいるのではないかと思うくらい、姿勢がいい。そんな彼女が、左右対称の建物のちょうど真ん中で、周囲を威圧しながら直立不動を貫いているのである。攻撃力でも防御力でも、ついでに身長でも、相手の方が一枚も二枚も上手なわけで……茜の足がすくんで動けなくなったとしても、誰も責められないと思うのだが、どうだろうっ!?
「なにしてやがる。ほら、行け。」
「教官~~っ、」
だが、教官は無情にも茜の背を押す。たたらを踏んだ茜が寮監の前にまろび出ると、彼女はただでさえ鋭い視線をさらに剣呑に細める。
「ご、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんっ!」
降り注ぐ視線の圧力に押しつぶされるように、茜が直角に腰を曲げて謝った。怒られることを覚悟して目をぎゅっと瞑る。
頭を下げ続けて、どれほど待っただろうか。待ちに待った末に振ってきた言葉は、叱責ではなかった。
「……怪我は?」
「え、」
その口調に想像していたような怒気や責める調子はない。意表を突かれた茜が顔だけ前を向くと、凍りつくような冷たい視線とかち合った。思わず「ひゃ」っと首をすくめて下を向く。
頭上で、寮監がため息をつくのが聞こえた。
「怪我はありませんね?」
「自分がついてたんです。擦り傷一つありませんよ。」
「そう。」
再び長い長いため息がつかれた。茜は、何か厭味の一つでも言われるのだろうと身を固くして待ったが、いつまで待ってもそのときは来ない。どうしたのだろうと、恐る恐る顔を上げると、寮監は何かに耐えるように顎を引いて目を閉じていた。
「……寮、監?」
「――会沢茜さん。」
「は、はいっ!」
こっそり見ていたのがばれたのだろうか。目を開けた六条寮監は、いつもどおりの冷たい視線――端的に言えば馬鹿を見るような呆れた視線――を向けてきた。
「ついてきなさい。今夜の件について、お話があります。」
「はい……。」
――ああ、やっぱり。
わかっていたこととはいえ、やっぱり怒られるのだ。がっくりと肩を落とす茜の頭を、芹沢教官の固い手のひらがぐしゃりとなでた。
「……何するんですか。セクハラですよ。」
「って、口だけは達者だなあ、おい。セクハラしたくなるほどイイ女に育ってから出直して来いってんだ。んなことより、いい機会だ。たっぷり絞られて来い。」
「人事みたいに。」
「人事だからなあ。」
ぷぅと頬を膨らませる茜に、教官はにやりと笑う。
「一つ忠告しておいてやろう。こういうときは、“迷惑かけてごめんなさい”じゃなく、“心配かけてごめんなさい”っつっとけ。」
「なんですかそれ。何が違うんですか。」
「心証が、なあ。特に相手がRマイヤーみたいなタイプは。」
「何をしているのです。早く来なさい。」
ぐずぐずしていたら、先を行く寮監に睨まれた。「ほら行け。」と背中を押す教官に振り向きざまに頭を下げ、茜は慌てて彼女の後を追った。