七.
「はあっ、はあっ、」
自分自身の荒い呼吸音が耳につく。心臓の音はうるさく、手足は鉛でも入っているかのように重い。おまけに足元は木の根や下生えで非常に走りにくい。
だが、止まるわけにはいかなかった。後ろから追ってくる野犬の群れ――それも魔獣化した――の吠え立てる声が、暗闇に光る目が、どんどん近づいてくるのだ。追いつかれたらおしまいだ。
シミュレーション訓練と同様、夜の名頭の樹海で茜は必死に走っていた。
違うのはただ一点。茜の頭上を八匹の蝶がひらひらと舞っていること――これが現実だということだ。
はじめは順調だった。
『妖精の喇叭』の群生地は下調べのとおりの場所にあり、月が上る前にたどり着くことができた。ぽっかりと開けて星空が見えるその場所で、月の出を待つ。
待ち時間は長くはなかった。すぐに月光が差し込むようになり、釣鐘型の花弁がゆっくりと開くのをおとなしく見守った。開ききったところで指定された数だけ摘み取って、固定の魔法をかける。あとはギルドカウンターに持ち込めば、依頼達成だ。支払われるはずの報酬に胸を躍らせながら、『妖精の喇叭』を空気穴の開いた袋に入れてウェストバッグに括りつけた。
順調じゃなくなったのは、依頼からの帰り道。魔獣化した野犬の群れと鉢合わせてからだ。
周囲に漂って付近を照らしていた照明弾が急速に光度を落とし、明滅を始める。こんなところまで訓練と同じなのか。予備の照明弾を周囲にばら撒きながら、ちっと舌打ちする。
(同じだけどっ……でも同じじゃないっ!)
再び明るさを増した獲物に、先頭の二頭が追いすがる。彼らの鼻先めがけ、茜は素早くナイフを投げた。哀れっぽい悲鳴とともに群れに戻るのを横目で確認する。
遠巻きにではあるが、野犬たちは左右に展開して少しずつ茜の進路を塞いでいく。
(このままじゃ、どんどん深みにはまるっ、)
樹海に入る前に確認した地図を思い浮かべる。まずいことに、出口は近いどころか、少しずつ遠ざかっていた。
やはりと言うべきだろうか、この群れのボスは頭がいい。群れという数と機動力に物を言わせ、確実に退路を断ちに来ている。
(なんとかして足止めして方向転換しなきゃ……!)
手持ちの装備は魔石が少々と右手のお守りと。
(考えろ、考えろ、考えろ、)
なにより、冷静に対策を練る自分と――
茜の眼前に続いていた、視界を遮る重苦しい木々が途切れる。
「っ!」
障害物がなくなったことで速度を増した野犬が茜に飛び掛ってきた。
「させないっ!!」
使い切ったナイフに手を伸ばすような無駄はしない。あらかじめ握りこんでおいた魔石を発動させ、構築済みの防御結界を展開する。一頭、二頭、三頭。野犬たちが、鼻先に展開された結界に阻まれはじかれる。後方にいた野犬には頭上の蝶を特攻させた。ぶつかって燃えたとしてもたいした威力はないし、厚い毛皮に阻まれてダメージはゼロに等しい。それでも、目の前で燃えればひるみはするだろう。少しでも隙ができればそれでよかった。
案の定、野犬たちの統制の取れた足並みが乱れる。
(やった!)
この隙に体勢を立て直し、逃げようときびすを返して――
「!!?」
死角から襲ってきた一頭に、茜はとっさに目を固く瞑り、身を守ろうと腕を突き出すしかできなかった。
(……?)
お守りが発動するか、さもなければ噛まれることを覚悟して差し出した腕に、いつまで経っても衝撃はこない。結界が展開した反動もなければ、噛まれた痛みもない。
「無断外出たあ、いい度胸じゃねえか。」
代わりに降ってきたのは、聞きなれただみ声だ。恐る恐る目を開けば、目の前には見慣れた背中があった。理不尽さに憎らしく思うことも多々あるけれど、ぜったいに頼りになることがわかっている、広くて厚い背中が。
「――芹沢、教官。」
茜をその背に庇い、油断なく剣を構える教官が肩越しに振り返る。口の端をにやりと歪め、目を丸くする茜を見下ろす。
「蝶も使い切ったみてえだな。後でたっぷり聞かせてもらうから、言い訳でも考えとけ。」
間違いない。茜の担当教官が、そこにいた。