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番外編

 夢を見た。最初から夢だとわかっている夢。あの人がいる夢――

 あの人が最後に言った言葉が今でも葵の脳裏に焼き付いて離れない。


 ――母さんとお姉ちゃんを頼んだぞ。


 いつものように、出かける前の父はそう言って葵の頭を撫でた。いつも通りの出張のはずだった。樹海深部の哨戒任務は定期的なパトロールの一種で、いつも通りなら半月ほどで帰ってくる予定だった。でも父は帰ってこなかった。

 真夜中に鳴った電話の音。今にして思えば、電話が鳴った時点で、母は覚悟していたのだろう。終始硬い表情を崩さず、冷静に受け止めて電話を置いた。

「……お母さん、少し出てくるから。二人でお留守番しててちょうだい。」

 揃って起きだして、様子をうかがっていた子供たちに、母はびっくりするほど冷たい声で言いつけた。幼心にも、異常事態であることはわかった。それが、帰ってこない父に関連していることも。厳しい母の横顔を見上げれば、連れて行ってくれとは、とても言えなくて。

 母を見送り、姉と一緒に玄関の上がり框に座り込む。

「どうしちゃったのかな、お母さん。」

「今は待ってるしかないよ。」

 二人肩を寄せ合って、一つ毛布にくるまって、母の帰りを待つ。夜明けはひどく遠かった。

 朝どころか昼近くになってようやく帰ってきた母は、父を連れ帰ってきてくれた。華奢な女の人に抱えられるくらいの、白木の箱に入った父を。つまり、そういうことだった。

 葬儀はすべて母が取り仕切った。父の上官や同僚といった大勢の参列者を前に、家族三人で並んで頭を下げた。

 涙一つ見せない気丈な母に比べて――当時小学生だったことを思えば当たり前なのだけれど――自分は泣きじゃくるだけで何もできなかった。父から母と姉を守るように頼まれたのに。葵は弱くて、小さくて、何もできない子供だった。

 だから、強くなりたかった。大きくなりたかった。家族を守れる男になりたかった。陰で母が泣いていることを知ってからは、その思いをさらに強くした。


 今でも鮮明に思い出す父の姿。頭を撫でる大きな手のひら。見上げていた大きな背中。

 頼もしい大好きな父から家族を任されたことが、どんなに嬉しく、誇らしかったことか。今でもあの日の約束を守ろうと必死だなんて――そんなこと、姉には一生教えない。




 悪夢を見て跳ね起きると、まだ明け方とすら呼べない時間だった。

「……くそっ。」

 荒い息を整えるようにゆっくりと深呼吸する。酷い吐き気がした。片膝を立てて抱え、空いた手は寝間着代わりのTシャツを握りしめる。手が白くなるほど強く。

(大丈夫。あれは夢だ。終わったことだ。……茜は無事に帰ってきた。)

 握りしめているのは、Tシャツの下に隠した魔石のお守りだ。父から貰った、最後の誕生日プレゼント。

 深呼吸を繰り返すうちに、呼吸が整い、吐き気もおさまる。

 あの日の夢を久々に見た。葵が生きてきた中で、最悪の日の夢。電話が鳴ったあの日の夢。

 こんな夢を見たのも、姉のせいだ。彼の姉の茜が、よりによって立ち入り禁止になった名頭の樹海に入り込んだりするから悪いのだ。

 今日の夕食前、青柴はひどくざわついていた。主に大人たちが。葵たちには何事もなかったかのように食事がふるまわれたけれど、騒然とする教官陣とか、寮の前で仁王立ちする寮監とかを見れば異常事態が発生したことは一目瞭然だった。

 竜脈の活性化と、樹海への立ち入り規制。夕刻に出かけたという目撃情報と、食事に来ない生徒の顔を突き合せれば、異常事態の実態は容易に推測できる。

 おかげで、葵は夕食をほとんど食べられなかった。いや、食べることは食べたのだ。規則正しい食事も青柴生徒の義務の一環だから、アレルギーとか体調不良とか、きちんとした理由がなければ残したりできない。ただ、無理やり詰め込んだ砂をかむような夕食を、自室に戻ったとたんにほとんど吐き戻してしまっただけで。

 幸いなことに、姉は無事に帰ってきた。けれど、いつも幸運が味方してくれるとは限らない。弱いくせに無茶をするのは止めろと、何度も言い聞かせているのに。

 ……良い返事はもらったことは一度もないけれど。

(なんだってあの突撃女はこっちの予想をはるかに飛び越える無茶をするんだ。)

 頭を抱えて低く唸る。

 青柴に入学を決めたときもそうだった。姉はいつだって、弟には想像もつかないことをしでかすのだ。


 あれは父の四十九日が終わってすぐのころだった。書類の束を抱えて帰ってきた茜は、やけに嬉しそうにはしゃいでいた。

「葵! 青柴に行こう!」

「はぁ?」

 感想は「なにいってんの、コイツ」だった。

 青柴――東都幼年学校がどれだけ金食い虫か、守備隊関係者なら一度は聞いたことがあるはず。茜だって、もちろん知っているはずだ。それだけじゃない。青柴に進むということは、守備隊に入ることとほとんど一緒だ。葵としては、魔力の弱い茜に守備隊員が務まるとは思えなかったし、なってほしくもなかった。

 だから、冷たい視線で茜を見返した。諦めてくれることを期待して。

「行けるわけないだろ。ウチにはそんな余裕はない。」

「それが行けるんだな~。ほら、ここ見てよ。」

 茜が持ち帰ったのは、青柴のパンフレットと入学試験要項だった。費用について説明したページには、恐ろしく高額な授業料が記載されていたが、茜が指さしたのはそこではなかった。ページ下部にごくごく小さな文字で書かれたそれは――

「学費免除条件?」

「そう! 守備隊関係者なら一定額の減免があるの。それだけじゃない、殉職者の子供の場合、全額免除されるの。あたし、聞いてきたんだから!」

「! 父さんが死んだんだぞ! それを利用してまで青柴に入りたいとか、正気か!?」

「はぁ? あのね、父さんが死んじゃったのはすっごく悲しいけど、だからって遠慮する意味なんかないでしょ! それとこれとは話が別だし、だいたい、あんただって守備隊入りたがってるじゃない! あたし、知ってるんだからね!」

「なんでそれをっ、」

「『なるには本』読んでるでしょ。」

 茜が偉そうに踏ん反り返る。

 なるには本――『守備隊/警護隊の隊員になるには』という、文字通り皇国守備隊か水上警護隊に入隊するためのハウツー本だ。たしかに持っているけれど、ばれているとは思わなかった。一応隠してあるはずなのに。それが見つかったということは。

「勝手に部屋に入ったのか!?」

「洗濯物置きに行ったときに偶然見えちゃったんだよ。枕の下とか、不用心すぎてお姉ちゃん心配だな。隠しておきたいなら引き出しに入れて鍵かけなきゃ。エロ本とかはもっとちゃんと隠しなよ?」

「エロ本なんか持ってねーよっ! ってか、女のくせにエロ本ゆーなバカネ!」

「誰がバカネよ、アホイのくせに!」

 息が上がるまでののしりあって、ようやく本題を思い出す。

「だぁーかぁーらぁっ! あんたもあたしも守備隊に入りたい。そのためには青柴に入学するのが一番でしょうが。あそこが一番設備整ってるんだし。」

「……茜の場合、魔力が足りないだろ?」

 入試要項には魔力値による足切りを行うと書いてある。茜の通常魔力値は規定値以下だから、願書を書くだけ無駄なはず。

 だが肝心の条件を指摘しても、茜はめげなかった。

「魔力検査はギフトの有無も加味するって書いてあるもん。ね? ダメだったら諦めるから。やるだけやってみようよ。」

「……母さんが、納得したらね。」

 父と同じ危険な仕事に就くことに、母が納得するとは思えなかった。だが、茜の説明を聞いた母は、

「本当に覚悟があるなら。」

と、割とあっさりと保護者欄に署名してしまった。

 当てが外れたが、この時点ではまだ、どうせ魔力検査で足切りされるだろうと高をくくっていた。実際、願書提出時に魔力値チェックがあって、受け取りを拒否されかけた。最終的には、ギフトの公的証明書まで持ち込んだ茜が粘り勝ちしたけれど。

 性格的にはバカとしか言いようがない姉ではあるが、残念なことに成績の方は普通……というより割と良い方で。気づけば二人揃って筆記も実技も面接も突破して、特待生待遇で青柴に入学することが決まっていた。

「これで目標に一歩近づいたね! 五年間よろしくね!」

「……弱いんだから、ほかの人に迷惑をかけないようにね。」

 直後、ぎゃんぎゃん喚かれたのは言うまでもない。


 当時を思い出して、葵は深々とため息をついた。

 青柴に入学しても、その二割以上が最初の一年で辞めていくと言う。葵もひそかに、訓練の過酷さに魔力の弱い茜が耐えられないことを期待していたのだが……茜はしぶとかった。猪突猛進な性格が災いして時折問題を起こしながらも、周囲の予想を超えて粘り続けている。今日のように。

(とにかく、茜に青柴を辞めさせないと……。)

 茜が問題を起こし続けるようなら、安心して訓練に集中もできない。どうにかして辞めてもらう方法を考えないと。でもどうやったらあの思いついたら一直線の単純バカの進路を曲げさせられる?

(…………ダメだ。)

 考えてもちっとも思いつかなかった。寝不足で頭が働かないのかもしれない。

 諦めて寝なおそうとした……が、空腹でとても寝られそうになかった。そういえば夕食はほとんど食べていないも同然だった。

 たしか冷蔵庫には牛乳を入れておいたはず。何も食べないよりはましだろうと、葵は起き上がった。ついでに寝汗で気持ち悪いTシャツを着替えることにする。本当は風呂に入って汗を流したいが、さすがにこの時間にシャワーを浴びるのはマズイだろう。着替えるだけで我慢する。

 それでも少しはすっきりできた葵は、寝室を出てキッチンに向かった。常夜灯の薄明りしかないが、暗闇に慣れた目のおかげで問題なく冷蔵庫までたどり着く。ドアポケットから、名前を書いておいた牛乳パックを取り出し、直接口をつけてあおる。もともと飲みかけだった牛乳はあっという間に空になり、おかげで空腹もおさまった。空箱は軽くすすいでゴミ箱へ放り込み、寝室へ戻る。

 再びベッドに横になり、葵は目を閉じた。

 今度は、朝が来るまで目が覚めることはなかった。


 ***


 ごそごそと動き回る気配がして、目が覚めてしまった。

(またか……。)

 上体を起こし、扉の向こうの気配を探る。ルームメイトが真夜中に起きだして何かしているのだ。どうせ、夢見が悪かったとかで目を覚まして、ついでに腹が減ったからと牛乳でもがぶ飲みしてるのだろう。今でも充分デカイのに、これ以上育ってどうするつもりだ? まあ、千歳としては自分の名前が書かれた飲食物でなければ、グラスに注いでから飲もうがラッパ飲みしようが文句をつけるつもりはない。ただ、夜中にのし歩くのは勘弁してほしい。安眠妨害もいいところだ。

 葵の家庭環境や、今日の彼の姉の暴挙を考えると、深夜のヤケ牛乳くらいは大目に見るべきかもしれないが。

(弟は冬眠明けの熊で、姉は突進する猪だもんな……。)

 葵の姉は、良く言えば純粋でまっすぐ。悪く言えば単純で視野が狭い。目標に向かってひたすら突き進む姿は、かわいいと言えないこともない。バカっぽいとも言えるが、その辺りは人それぞれだろう。

 きっと、葵に聞いても素直な回答はもらえないだろうが。

(……明日の朝一番に様子を聞きに行ってみるかな。)

 お姉さんの無事が納得できれば、葵も少しは落ち着くだろうから。できればこんなに気を使っているルームメイトに感謝して、夜中にたたき起こすような真似を控えてくれると嬉しいのだが……たぶん、無理なのだろうな。

 ため息をついた千歳は、横になって目を閉じた。

 次は朝まで葵が起きださないことを期待して。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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