二.
耳を劈く警報に堅く瞑った目を開けると、伸ばした腕と顔の間に、失格の二文字が浮かんでいた。赤と黒で毒々しく縁取られた警告は、ご丁寧にも警報に合わせて点滅を繰り返している。
「……。」
身体が沈み込みそうになるビーズクッションからのろのろと身を起こした茜は、重たい腕を戻して目の前のアラートメッセージに触れる。
とたんに耳障りな警報も目障りな警告も消えて、薄暗い室内に照明が点った。目を慣れさせるためだろう。柔らかい色をした照明は少しずつ光度を増す。
ぱちぱちと瞬いた茜の目に映るのは、すぐ傍まで迫るもこもこにキルティングされた生成りの壁と、同じくキルティングされた床だ。床全体には、茜には構成を理解することもできない複雑な魔法陣が縫い込まれている。魔法陣の中央には一人がけのクッションソファが置かれ、茜がそこに座っていた。
どこか不気味な夜の樹海も、襲い掛かる野犬の群れも、影も形もない。
それもそのはず、先ほどまで茜が体感していたのは、精巧な幻――現実と見紛うほどのリアルな映像を脳内に直接送ることによって、実体験に近い効果が期待できるシミュレーション訓練だったのだから。そしてこの部屋は幻を見せるための仕掛けと、訓練者が夢現に大規模魔術を放っても問題ないように厳重な結界が施されたシミュレーションルーム。
茜はため息をつき、訓練終了を告げるメッセージを消した右手に目を落とした。ぐっと握り込んでは開いて、感覚を確かめる。動かしにくいこともなければ、しびれるような感じもない。特に支障はないようだ。
現実ではないとはいえ、シミュレーション訓練ではほぼ実体験に近い感覚を得られる。だからこそ訓練になるのだが、目覚めた後の身体機能にありがたくない影響が残ることがあった。金縛りのように動けなかったり、負ってもいない傷の痛みを感じたり。抜き差しならない事態に陥る前に安全装置が働いて強制停止させるとはいえ、軽い怪我程度であれば誰しも訓練を続行するから、そういうことになる。
それは茜にも何度か覚えがある感覚だったが、今回は問題なさそうだ。手首に巻いた四葉のクローバーを模したお守りも、訓練前と変わらぬ姿で揺れている。そして頭の上でひらひらと舞う、八匹の紙製の蝶たちも。
はふっと息をついた茜はソファの上で大きく手足を伸ばしてから立ち上がった。
「愛里歌ぁ。」
いろいろと確認したいことはあったが、ここでは現在時刻すらもわからない。
制御室にいるはずの友人に声をかけると、返答はすぐに返ってきた。
「お疲れー。ごめん、今開けるからちょっと待ってて。」
応えがあってからすぐに、どこが出入り口かぱっと見ただけではまったくわからない壁の一部が動いた。茜がいる狭いシミュレーションルームの明かりよりもずっと眩しい光が差し込み、友人が顔を覗かせる。
「大丈夫?」
「……あんまり大丈夫じゃない。」
茜は頭をふるふると横に振りながら、制御室に移動した。訓練のサポート役をお願いしていた友人は、苦笑しながらも水の入ったコップを差し出してくれる。茜も「ありがと」と受け取ったけれど……愛里歌のことだから水は常温に戻されているだろう。コップには水滴も付いていない。
茜としては、正直言えば生ぬるい水より、きりっと冷たい水のほうが嬉しいのだが……喉が渇いているのは確かだ。友人の心遣いをありがたく頂戴することにする。
喉を滑り落ちる水は、やはり生ぬるかった。
「何なのよ、あのシナリオ。」
ぬるくても水は水。水分を補給して少ししゃっきりした茜は、先ほどの訓練の不満を友人にぶつけた。
訓練用のシナリオを作った張本人である愛里歌は、おやと片方だけ眉を持ち上げてみせた。茜に一口大のチョコレートを手渡しながら、首をかしげる。
「気に入らなかった?」
「気に入るわけないでしょうが。」
こちらもありがたく受け取った茜は、包み紙をはがして口に入れながら、肩を落とす。
「わざわざ用意しなくても普通の、定番のシナリオがいくらでもあるじゃない。夜の樹海で魔獣化した野犬の群れに追われるとか、ほとんどトラウマレベルだよ。」
「いや、それ実際に夜の樹海で小遣い稼ぎしてる人が言っていいセリフじゃないぞ?」
呆れたように眉尻を下げる友人に、茜は頬を膨らませて遺憾の意を表す。
アルバイトに関して、文句を言われる筋合いはどこにもない。何しろあれは青柴が――ここ東都幼年学校が公認する採集依頼を請けただけなのだ。文句があるなら、学校側へどうぞ。
「樹海って言っても、あたしが出入りするのは、波打ち際がせいぜいだもん。魔獣なんか出るわけないじゃない、リアリティがないよ。」
「注文が多いなぁ……。わかった。次回は腕によりをかけて、もっと現実味溢れる胸アツのシナリオを準備してあげるから、それで許してくれ。」
「いや、だから、」
言いかけて、どうせ言っても聞かないだろうなと思ってやめる。
手間隙かけてわざわざ自分で作らなくても、シミュレーション訓練用のシナリオは易しいものから難しいものまで、数多く揃っている。ただ、規定のシナリオではどうしてもパターン化するし、先読みは容易だ。愛里歌はどうやらそれが許せないらしく、時折やけに凝った自作シナリオを持ち込むのだ。
……自作シナリオを持ち込むのはいい。ただ、やるなら自分で試せと言いたい。いや、言ったところで聞く耳を持たないのは、すでに実証済みだけど。
首の後ろに手を当てた茜は、はあっとため息をついた。
「まあいいや。ところで何分だった?」
「二十分。潜っていた時間だけなら、十七分だな。」
それはそれは。茜は露骨に顔をしかめる。最短時間を更新こそしなかったものの、それに迫る早さの脱落だ。
解禁されたら三十分も経たずにびっしりと予定が埋まる、壮絶な予約争奪戦を勝ち抜いてせっかく確保したシミュレーションルームだったのに。制限時間いっぱい、とは望まないけれど、せめて半分は潜っていたかった。
「何ならもう一度潜る?」
「…………やめとく。規則違反だし。」
心身への影響を配慮してだろう。授業時間も含め、シミュレーション訓練は一日一回、一時間までと決められていた。全員が全員おとなしく守っているとは思えないけれど、規則は規則だ。
「かなり心惹かれたと見た。ま、妥当な判断だな。聞くところによると、規則違反はシステムが強制停止する上、各所に連絡が行くらしいぞ?」
「……各所?」
嫌な予感がして聞き返すと、友人はにやりと口角を吊り上げた。
「担当教官とか、Rマイヤーとか?」
担当教官はともかく、寮監にも?
苦手とする(逆に得意な人がいるなら会ってみたいよ!)寮監の名を出され、茜は眉をひそめた。うるさ型のRマイヤーにばれたら、間違いなく悲惨なことになる。絶対に罰則付きでガミガミ叱られる。
「止めて、想像しただけで頭が痛くなってくる。」
自分自身を抱きしめるように腕を回して身震いする茜に、愛里歌は「噂だけどね。」と笑う。噂だろうとなんだろうと、悲惨なことになる可能性を知っていながら二回目を勧めるなんて。
頬を膨らませた茜が無言の抗議を込めて見上げると、親友は気まずそうに視線をそらせて肩をすくめた。
「いいじゃないか。本当に叱られたわけじゃなし。蝶も全員健在だし。」
「当たり前だよ、なくしたら芹沢教官に何を言われるか……って、言ってる傍から触ろうとしないでよ!」
すばやく、そして遠慮なく伸ばされた愛里歌の指先から離れるよう、あわてて蝶を退避させた。いたずらが失敗した愛里歌はおとなしく指を引っ込め、ちぇっと口を尖らせる。
「ちぇっじゃない! 触ったら危ないって、愛里歌だって知ってるでしょ!」
「だからだよ。最近は慣れて制御も安定してるから、時々危機感を煽ってやれって。」
「……芹沢教官が?」
「芹沢教官が。この間頼まれた。最近油断してるから、隙があったら狙ってやれって。」
「勘弁してよ……。」
(それはいくらなんでも酷くないですか、教官。)
退避させていた蝶たちを頭上に戻しつつ、茜は頭を抱えた。
茜の頭上でひらひら飛び回る紙製の蝶は、魔力制御の訓練の一環として茜が飛ばしているものだ。一年のときに担当教官に言われて初めた訓練は、一匹から二匹、三匹と順調に数を増やし、今では八匹にまで増えた。軽い紙製の蝶は茜の乏しい魔力でも無理なく飛ばし続けることができるが、風の影響を受けやすく力加減が難しい。その上、何かと接触すると燃え尽きるギミック入りで、最初のころはしょっちゅう灰にしてしまったものだった。物や壁にぶつかったり、蝶同士が接触したり、集中を切らして落としてしまったり。なにしろ平常時はもとより、シミュレーション訓練中も、就寝中すらも飛ばし続けなくてはならない鬼仕様だ。燃え尽きないほうがおかしい。
ええ、ええ、おかげさまで魔力制御は曲芸レベルに達しましたとも! なくすと芹沢教官がペナルティの名目で実に楽しそうに雑用を押し付けてくるからね!
三年前に比べて魔力制御は格段に上達し、蝶のコントロールはすっかり安定した。それが面白くないのか、芹沢教官が手出ししてくることはこれまでもあったけれど……これからはルームメイトの愛里歌の魔手も心配しなくてはならないのか。
寮に戻ってからも続くであろう――むしろ本格化するであろう攻防戦を予感し、茜はがっくりと肩を落とした。
とはいえ、今の時点では愛里歌も手を出すつもりはないようだ。いや、単純に油断しているところを狙っているだけなのはわかるけど。
「まあいいや……。愛里歌はどうする? 潜らなくて大丈夫?」
「わたしも止めておこう。残り三十分じゃあね。準備も合わせるとやっぱり一時間はほしいところだ。」
それもそうか。
となれば、いつまでも狭いシミュレーションルームに閉じこもっている意味はない。訓練記録の詳細は後で確認するとして、ひとまずバックアップを取る。ゴミを片付け、荷物を手早くまとめて忘れ物をチェック。部屋の状態が使用前と変わらないことを確認し、茜と愛里歌はシミュレーションルームを後にした。




