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十九.

 夢を見た。最初から夢だとわかっている夢。あの人がいる夢――

 頭を撫でてくれる温かい手のひら。いつも見上げていた大きな背中。絶対の安心感があった頼もしい笑顔。

 あの日の前後のことは、正確には覚えていない。覚えているのは、真夜中に鳴った電話のベルの音と、母親の硬い表情。弟と寄り添って迎えた朝の記憶。

 最後に見たあの人は、どんな顔で笑っていた? どんな声だった? 自分は何と話しかけられて、何と答えた……?




 朝ぼらけ。窓の外はうっすらと明るくなってきているけれど、室内は薄暗い。

 目を覚ました茜は、白い天井を見つめて二、三度瞬いた。

(えーっと……、どうなったんだっけ?)

 たしか自分は予選トーナメントの決勝戦で葵と当たって――夢じゃなければ勝ったはずだ。なのに、どうして見覚えのない部屋のベッドで寝てるんだろう?

(ああそうだ。試合後に倒れたんだっけ。)

 寝ぼけ頭が回りだし、ようやく周りを見回す余裕も出てくる。まだ体は重く、手足を動かすのも億劫だから視線だけ。

 気を失ってから運ばれたのだろう。調度品からすると、ここは保健室のようだ。養護教諭が使うスチールデスクと薬品棚。患者が座るような丸椅子に、腰かけて背を丸める男。両膝に肘をついて頭を抱えているから顔はわからないけれど――もちろん誰かはわかる。単にうつむいているせいか、それとも落ち込んでいるせいで気が回らないのか、いつもは服の下に隠してる秘密が丸見えだ。細いチェーンを通した魔石のお守り。茜の緑のクローバーと対になる、ピンクのハート。それに彼がどんな表情をしているのかも、なんとなくわかってしまった。

「……なに泣いてんの。」

「うるさい。」

 泣いてないとは言わないのか。

 不機嫌そうに即座に言い返すあたりが弟らしくて、少し微笑ましくなってしまう。ゆっくりと手を伸ばして、ぎこちない手つきで、弟の表情を隠す前髪をかき上げる。

 さすがに涙が零れ落ちる、ということはなかった。涙の跡もなかった。だけど、目が赤い。

「あたしは大丈夫だよ?」

「倒れた人が言ったところで、説得力なんかあるわけないだろ。」

 それもそうだなぁ、とは思うけれど。それだけじゃないことをわかってほしいから繰り返す。

「大丈夫だよ? 葵が言うほど弱くないし、戦えるよ?」

「……戦えることはわかってる。でも姉さん、守備隊に入るってことは……父さんと同じ道をたどる可能性だってあるってことなんだよ。」

「うん。」

 弟の言う通りだから、素直にうなずいたのに。なぜか弟は泣きそうな顔のままで。

「わかってないだろ。」

「わかってるよ。でもそんなの、葵だっておんなじじゃない。」

「俺はいいんだよ。男だし、姉さんに心配されるほど弱くない。力も、魔力も。そりゃ、今回は負けたけど……。」

「でしょ。弱い力だって使い方次第ってことだよ。魔力が弱いからダメって決めつけないで。逆に強いからって油断しないで。葵だって、危ないんだから。」

 そろそろ持ち上げた腕が重くなってきた。最後に葵の髪をぐしゃぐしゃとかき回して、ぱたりと腕を戻す。

「葵から見たら頼りないんだろうけど、あたしだって頑張れるよ? あたしは誰かの背中に守られたいんじゃない。いつも守ってくれてた父さんと同じ場所に立ちたいの。あの背中が目指していた場所に自分が行きたいの。」

「……。」

「葵は違うの?」

「……もういい。もうちょっと寝てろ。」

 葵が茜の腕をベッドの中にしまい、毛布でくるみなおす。熱を測るように額に手を当て、乱れた髪を整える。

「頼むから心配かけさせないで、茜。」

 たぶん、それが本音なのだろう。意地っ張りで意地悪な、弟の本音――

 たった一人の姉だから。たった一人の弟だから。心配するのは当然のことで、息をするのと同じくらい自然なことで。それはきっと、茜も葵も変わらないはずで。

 夜明けの保健室で、腹を割って話せたから。姉の希望も、弟の心配も、率直に伝え合うことができたはずだから。歩み寄ることができたと、そう思うから。

「あたしは大丈夫だよ。だからね、一緒に頑張ろう?」

 茜はたった一人の弟に微笑みかけるのだった。

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