【90】大切なものの代わりは
「……なぁメイコ、俺はさっきまで……何を口走ってた?」
ユヅルのオーラに当てられていたイクシスが正気に戻って呟く。
「あーそれは、えっと」
「やっぱり言わなくていい。何となく覚えてはいるんだ……」
自分で聞いたくせに、イクシスはそれを遮る。
顔が物凄く赤かった。
「兄さんのオーラに当てられて、あることないこと言っちゃってただけだからそんなに気にすることないよ!」
「あれは言わないようにしてただけで……俺の本心ではあるんだが……その、聞かなかったことにしといてくれ」
慰めの言葉をかければ、ふいっとイクシス私に背を向けてしまう。
恥ずかしくて居たたまれないというようだった。
そんなイクシスが可愛くて、思わずその背中に抱きつく。
「……ヤキモチ焼いてくれたんだ?」
「そんなこと確認するな。あと、そうやって簡単にくっつかれると……嬉しいんだが、少し持て余す」
困ったような声を出してイクシスが私を見る。
何を持て余すというのかよくわからなくて首を傾げれば、イクシスは溜息を吐いて私の体を軽く離した。
「しかし、相当時間を食ったな。もう日が沈みかけてる」
話を変えたイクシスの声は、少し焦った様子だった。
「もしかしてイクシスが異世界にいられる時間が決まってるの?」
「俺が一定時間戻らなかったら……この異世界が解体される」
イクシスが気まずそうに口にした。
この異世界に入るということは、同じ魂を持つこの世界の自分と同化してしまう危険が付きまとう。
世界の外側からは、世界の内側にいる自分が死んでいるのかどうかもわからない。
この世界に入るにあたり、イクシスがこの世界のイクシスと同化してしまわないように、ニコルが制限時間を設けていたみたいだった。
「制限時間は半日。大体、日が沈むまでってところだ。俺が出てこない場合は、父さんがこの世界を破壊して俺だけ取り出すつもりらしい」
なんともまぁ、大胆なことをニコルくんはしてくれようとしている。
そんな事ができるのかと聞くのは野暮なんだろう。
やるといったらやる、それがニコルくんだ。
「どうにか……日が暮れる前に話をつけないと」
「そう言えば、どうやって元の世界に戻るの?」
すでに空は茜色だ。
空間を裂いて移動しようとするイクシスに尋ねる。
「異世界へ行くには、黒竜の力を借りる必要がある。本当はオーガストがいたらよかったんだけどな」
「オーガストなら、イクシスが空間に引きこもって捜しに行ったまま戻ってこないぞ。父さんが言うには、異世界に反応が消えたと言っていた」
私に説明してくれたイクシスに、アルザスが答える。
「……いや、この世界のオーガストは異世界に行ってないと思う。この世界にオーガストがいないなら、俺の世界のオーガストがここに入れたはずだからな」
「それはどういうことだイクシス」
イクシスの言葉に、アルザスが眉を寄せた。
「オーガストはたぶん、空間で眠りについてる。この世界の空間を渡る時に気配を感じたんだ。もしかしたら異世界から帰ってきて……俺が死んだことに気付いて、永遠に眠ることを選んだのかもしれない」
悲痛な表情で呟いたイクシスに、アルザスが青ざめた。
「なんてことだ……あいつまで、何で……っ」
「大丈夫だアル兄。今は時間がないから無理だが、後でまたこの世界に戻ってきて俺がオーガストを起こすから。俺の世界のオーガストなら、本人だからなんとなく場所がわかると思うし……絶対に俺がなんとかする」
嘆くアルザスに、イクシスは強い口調で請け負う。
この世界のオウガが眠りについてしまったことに、イクシスは責任を感じているようだった。
世界が違っても自分は自分で。
そもそもオウガは異空間に引きこもったイクシスを探すために旅をしていた。
それがこんな形の結末を迎えて。
イクシスは、それに対してやり切れない気持ちを抱いているようだった。
「それよりも今はもう一人の黒竜であるこの世界の父さんに、俺たちを外へ出してもらえるように急いでお願いしないと……この世界もメイコも消えてしまう」
頭を切り替えるように、イクシスは一息吐いてそう口にした。
確かに今はそれが優先だ。
イクシスに連れられて、私達は屋敷へと移動した。
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この世界のニコルに、この世界から外へ出るため力を貸してもらおう。
そう決めてエルトーゴ家の敷地に足を踏み入れ、門をくぐれば。
「……イクシス!」
すぐに私達の目の前に、ニコルくんが現れた。
ただしいつものように八歳くらいの見た目ではなくて。
イクシスとそっくりな顔立ちをした青年の姿で現れたニコルは、切羽詰った表情をしていた。
ニコルは屋敷内の空間を管理していると、以前に言っていた。
神出鬼没に人前に現れては、事態をひっかきまわすのがニコルの必殺技だ。
おそらくはその力の一部で、イクシスが屋敷を訪れたのがきっとわかったんだろう。
肩下まである黒髪を、一房結った髪型。
黒曜石のような角と、意志の強そうな瞳。
イクシスと間違えそうなほどよく似た顔立ちをしているけれど、その翼も尻尾も赤いイクシスとは違い漆黒だ。
二年経ったことでイクシスの髪が伸びて、ニコルと同じような長さになったせいで、余計に似ているとそんなことを思う。
けど、似ているのは外見だけで纏う空気や表情は全く違っていた。
「父さん、久しぶり」
「……お前は」
イクシスが話しかければ、眉間にシワを寄せて。
ニコルは、苦虫を噛み締めたような表情になる。
「別の世界の……イクシスか」
イクシスと似た面立ちの中で、真っ黒な瞳に落胆の色が映る。
いつもふてぶてしいニコルくんらしくない、沈んだ声。
分かっていたのに期待してしまった自分に、嫌気が差すというような顏だった。
「それで……何のようだ」
「この世界の外に俺たちを出す手助けをして欲しいんです」
低く呟くニコルに、イクシスは真摯な顔で告げる。
今までの事情を話せば、はっとニコルは鼻で笑った。
「折角戻ってきた息子を帰すとでも思っているのか?」
「父さんは、例え俺自身でも代わりを作ったりしないだろ」
威圧的に問いかけたニコルに、冷静にイクシスは答える。
「父さんは、大切なものに代わりを作ったりしない。そういう竜だ」
「……向こうのオレの入れ知恵か」
真っ直ぐ目を見て言うイクシスに、ニコルがチッと舌打ちする。
「例え世界が違っても、俺は父さんの息子だからそれくらいはわかる。俺のために悲しんでくれてることも、愛されてることもちゃんとわかってるから」
「……なら、最期まで生きてからそれを言え」
全ては、イクシスの言葉どおりなんだろう。
ニコルは歯噛みしながら悪態を付く。
傲慢に見えるニコルが息子達に対して愛情深いことを、私もよく知っていた。
目の前のニコルの体からは、圧倒的な力が滲み出している。
そこにいるだけでひれ伏したくなるような魔力が漏れ出していて、今すぐにでも膝を負ってしまいたいような気分だ。
前に会った時のニコルくんの比じゃない。
ピリピリとしたその空気に、喉が張り付くようだった。
隣を見ればユヅルもそれを感じ取っているらしく、冷や汗をかいている。
「父さん、力を抑えてくれ。メイコが気に当てられている」
「最愛の息子を殺されて、冷静でいろと? エルフの国一つ壊した程度で、この苛立ちが収まると思っているのか……?」
イクシスが言えば、ニコルが冷ややかな声で吐き捨てた。
てっきりフェアリークレイヴにいたアルザスが、エルフの国を滅ぼしたとばかり思っていたけれど。
どうやら滅ぼしたのはニコルくんらしいと気づく。
よく考えれば、エルフは魔力が高いことで有名で。
例え竜でも、普通に倒せるような相手ではなかった。
それが可能なのは、かつてこの世界から魔族という強い魔力を持った一族を滅ぼした、元魔王のニコルくんくらいのものだ。
大きな姿をしているのは怒りで魔力が制御できなくなっている……もしくは制御する気がないからなのかもしれないと思う。
普段のニコルは妻のオリヴィアさんの封印魔法を受け入れて、自分の魔力に制限をかけ、小さな姿でいることが多かった。
いつも人を小馬鹿にしたような態度で、余裕たっぷりのニコルくんはそこにいない。
どこに怒りの矛先を向けていいかわからずに、その牙を尖らせている獣のようだと思う。
「父さんごめん。勝手に眠りについて、戻ってきたら死体で驚いたよな。もう十分だ。ありがとう。俺父さんの息子でよかったと思ってる」
イクシスがニコルに微笑みかける。
その言葉はどこまでも澄んでいて、嘘偽りないイクシスの心からの言葉なんだろう。
「うるさい……そんなことでオレの怒りは収まらない」
そうやって呟くニコルの声は小さかった。
手が白むほどに拳を握りしめて。
俯いて、唇を噛み締めて。
それから大きくニコルは息を吐いて、空を仰いだ。
つられてみれば、もう日が地平線の向こう側に沈みかけていて。
ゆっくりとニコルが、オレンジと紺の混じる夕空に向けて手を伸ばす。
歌うような呪文が、その口から紡がれていく。
「父さん、ありがとう」
イクシスの言葉から、ニコルが私達をこの世界から出すために魔法を使おうとしてくれてるのだと察する。
ヒルダの時とは違って、魔法陣を見ることが今の私にはできないけれど。
方向性を持った魔力が、私たちを包み始めたのが分かった。
「……イクシス、お前は今幸せか」
「あぁ」
ゆっくりと尋ねられた問いに、イクシスが頷く。
淡い光が私とイクシス、それとユヅルの体を包んで。
段々と周りの景色が滲んでいく。
まるでピントがぼやけて行く様に。
ぐっと力強く、イクシスが手を握っていてくれて。
「……こっちのイクシスの分まで幸せになれ。命令だ」
ふいに目の前のニコルが偉そうにそんな事を言う。
けれど、その顏はニコルくんらしくない、少し泣きそうな優しい顔で。
「あぁ、もちろんだ」
そうイクシスが答えて、私の腰を抱き寄せれば。
どこか嬉しそうで、それでいて悲しそうな複雑な顔でニコルが目を細める。
目の前のイクシスの幸せが嬉しいけれど、この幸せをこの世界の本当の息子が得られなかったことが苦しいんだろう。
それを見て、ニコルくんはやっぱりイクシスの父親なんだなと思った。
「花嫁を離すなよ」
ニコルくんがそう呟いたのを合図に。
目の前で白が弾けて、私たちはこの世界を後にした。




