【87】最後の異世界
イクシスに縋り付いて、散々泣いて。
ふいに、あの逆鱗はどうなったのかなと思う。
イクシスが私にくれた、濃い桜色をした逆鱗。
私のことをイクシスが好いてくれたという証。
せめて、それを手元に置いて置きたかった。
そっとイクシスの詰襟に手をかける。
一度取り外した逆鱗がまた元の位置に戻るとは思えなかったけど。
あの逆鱗のネックレスを、イクシスがしてるんじゃないかと思った。
一つ一つ、詰襟のボタンを外して。
そうして覗いたイクシスの喉元には、水色の逆鱗。
「あ……れ……?」
私が知るイクシスの逆鱗は、濃い桜色をしていたはずなのに。
死んだら逆鱗の色は、水色に戻るのだろうか。
それとも――イクシスは私に呆れて、この四年の間に嫌いになってしまったんだろうか。
その逆鱗に触れる。
色は変わらない。
心臓のように脈打つこともなく、硬質な感触を指先に返すだけだ。
――約束の証さえもう、ない。
そのことに、枯れたと思っていた涙がまた溢れてくる。
「ねぇ、イクシス。私ね……」
人形のようにそこにいるイクシスに、話しかける。
「イクシスを……愛していたよ。ううん、今でも……愛してる」
愛してる、なんて言葉は使ったことがなかった。
けど言葉にしてみたら軽く思えて、足りなくて。
どうしたらこの気持ちを外に出してしまえるんだろうと思う。
きっとこの気持ちがあるから、こんなにも苦しいのに。
捨てることさえできない。
「ゴメンね、馬鹿で。イクシスは私の……ために、頑張ってくれたのに。私は何もできなくて、迷惑ばっかりで」
ここまで言葉にして、ユヅルに言われたことを思い出す。
迷惑かけてごめんねじゃなくて。
一緒にいてくれてありがとうだよと、ユヅルは言っていた。
「いつも……一緒にいてくれて……ありがとう。イクシスが大好き」
言葉にして伝えたいことだったはずなのに、ソレは虚しくイクシスには届かない。
そこにいるのに。
本当は、これからもずっと一緒にいて欲しいのに。
伝えても、どうにもならないことを。
――私は知っていた。
「イクシスの、お嫁さんに、なりたかったよ……」
「なら、なればいい」
それは大きな独り言。
誰も答えてはくれないはずなのに、声がした。
聞きなれた声。
間違えるはずのない、それはイクシスの声だ。
けど目の前のイクシスはやっぱり眠ったままで。
とうとう、幻聴まで聞こえてしまったらしい。
コツコツと、靴が床を打ち鳴らす音。
振り返れば、すぐ近くの柱の後ろからイクシスが現れた。
その体の輪郭は光を纏っていて。
ぼんやりと闇の中で発光していた。
「イク……シス?」
「そうだ。久しぶりだなメイコ」
名前を呼べば、イクシスがふわりと微笑む。
その金色の瞳に、私を映して。
私の――名前を呼ぶ。
側までくると、イクシスは床に膝をついて。
力いっぱい私を抱きしめてくる。
伝わってくる温かさは、夢だと思えないほどにリアルで。
「イク、シス」
「もう大丈夫だ。メイコ」
耳元で名前を呼ばれて。
その響きに冷え切っていた胸の奥に、温かな灯りが灯った気がした。
「ずっとずっと、イクシスに……会いたかった」
「そっか」
震える私の言葉に、イクシスが耳元で笑った気配がする。
それだけのことがとても幸せだった。
「夢だっていいよ。幽霊でもいい――イクシスがいれば、それでいいから。他には何もいらない」
その背中に手を回す。
ちゃんと私の手は、イクシスに届く。
「熱烈な告白だな」
からかうようで、どこか嬉しそうな声。
イクシスらしくて、涙が溢れてくる。
幻だって、なんだって構わないから。
側にいてほしくて。
目の前のイクシスが消えないように、思い切り縋り付く。
よしよしというように、頭を撫でられて。
私の幻想なのに、本当にイクシスがそこに生きているみたいで。
とうとう私もおかしくなってしまったんだな、と笑えてくる。
でも、それでもいいと思った。
「俺もメイコに会いたかった。いきなり消えて、心配したんだからな」
「うん」
目の前でイクシスが怒ってる。
それなのに、嬉しくてしかたない。
体を少し離して見つめ合う。
金の瞳が甘く潤んでいて。
胸の奥から好きだという気持ちが溢れて止まらなくて、それは涙となるように目じりから零れた。
「イクシス、大好きだよ」
会えたら一番言いたかった言葉。
それを口にすれば。
「あぁ、俺も好きだ」
ふっとイクシスが笑って返してくれる。
あぁ幸せだと、そんなことを思う。
唇が重なって、イクシスの舌が私を求めるように動いて。
その熱さに、頭の奥が痺れる。
「んっ……ふっ、あっ?」
何かがおかしい。
唇や舌を通して伝わってくる熱は、驚くほど熱くて。
戸惑って少し舌を引けば、逃がさないというように追いかけてきて、絡めとられる。
間近にあるイクシスの金色の瞳が、私を捕らえていて。
力強い肉食獣のそれのように、強い光を放っていた。
余裕のない口付けに答えながら、さすがにこれは夢ではありえないと気付く。
気持ちよさに押し流されないように、ぐっとイクシスの服を掴んでそれに耐えて。
長い口付けが終わった後で、イクシスの首にかけられた逆鱗のネックレスに気付く。
赤に近い濃い桜色。
それは、私の知っているイクシスの逆鱗の色だった。
「これは、どういうこと……?」
夢見心地から、我に返る。
横を見れば、棺桶に眠ったイクシスがやっぱりそこにいた。
その喉元には水色の逆鱗。
目の前のイクシスの首に下げられている濃い桜色の逆鱗の方に、そっと触れれば。
それは私に反応して、脈打つように色を変える。
「そっちで寝てる俺は、メイコが一緒に過ごした俺じゃない。この世界は、俺たちが過ごしてる世界と近い、ほんの少しずれた世界なんだ。同じ人やモノが存在しているが、微妙に違った生き方をしている――メイコがヒルダにならなかった世界とでも言ったほうがわかりやすいか?」
イクシスがそう言って立ち上がって、私に手を差し伸べてくる。
よろめきながらも立ち上がれば、イクシスが愛おしげに抱きしめてくれた。
「ティリアの罠にかかって、メイコは異世界に飛ばされたんだ。ティリアが異世界のメイコの体に、ヒルダの魂を飛ばしたときのようにな」
戸惑う私に、イクシスが説明してくれる。
私はティリアが使った魔法を、魂を他の体に飛ばす魔法だと思っていた。
けれど正しくは、魂だけを飛ばして異世界へ行くための魔法だったらしい。
元は古代の禁じられた魔法の一つで、異世界へ行きたいと願った魔法使いが作り出した魔法だとのことだ。
ティリアは、自分にかけられた誓約を解くために、ヒルダの魂をどこかへ飛ばそうと考えた。
しかし、この世界の誰かの体にヒルダの魂を入れたところで、すぐに体に戻ってきてしまうのではないか。
ティリアはそんな事を思った。
根拠はないけれど、ヒルダなら軽々とやってのけそうな気がしたらしい。
そしてティリアがヒルダを飛ばす先に選んだのが、私の住んでいた異世界。
その世界には魔力回路が存在せず、魔法の存在がない。
なのでヒルダが、この世界の人の体に入ったところで魔法は使えず。
しかし、魔力自体は存在しているので、その世界でもティリアは魔法が使える。
ヒルダを無効化し自分が優位に立てる異世界に、ティリアはヒルダの魂を飛ばした。
いずれ、ヒルダの魂は殺して誓約を解く。
そのため、ヒルダの魂を送り込んだ私の世界の位置を、ティリアはしっかりと記憶していた。
しかし、一方で。
私をヒルダの体から出したときは、どこにでも行けとばかりにランダムに放ったらしい。
私の魂がどの異世界へ行こうと、ティリアにとってはどうでもよかったのだ。
あの後、皆はティリアを捕まえて。
ニコルとエリオットの魔法で、私の魂の居場所を自白させようとした。
しかし結局、私がどの異世界へ飛ばされたのかはわからなかったらしい。
ティリアによって飛ばされた私が辿りついた世界は。
――イクシスたちと過ごしてきた世界と、よく似た異世界。
同じ人や同じモノが存在しているけれど、微妙にずれていて。
元の世界でやっていた乙女ゲーム『黄昏の王冠』の方に、近い世界のようだった。
棺で眠るイクシスも、確かにイクシスに間違いはなくて。
けれど棺で眠る彼は、私と時間を過ごしてきたイクシスではないのだと、目の前のイクシスが言う。
「……じゃあ、皆生きてるの? クロードも、ベティも、キーファも……皆死んでないの?」
「あたり前だろ。屋敷でメイコの帰りを待ってる」
イクシスの言葉に、安堵から涙が零れる。
「よかっ……た、皆死んで、もう会えなくて。メアも冷たいし、アベルも元に戻ってるし、どうしようって……」
嗚咽混じりの私の頭を、イクシスが少し乱暴な動作で撫でる。
その感触に、余計に喉が詰まる。
私がヒルダになることがなかったこの世界で。
アベルや猫のディオ、メアが私に冷たかったのは当然だ。
そもそも彼らは私を、メイコを知らない。
私と過ごした日々は彼らの中に最初からなかった。
それと同時に、私の知る皆が死んでしまったわけでも、変わってしまったわけでもないことに心からよかったと思う。
あんな目で私を見る皆なんて、嫌で。
皆が不幸になる結末は――絶対にゴメンだった。
「喜んでるとこ悪いけどな、メイコ。屋敷に戻ったら大変だと思うぞ。オーガストが物凄く怒ってる。あとメイコがいなくなってメアが悔し泣きしてるとこなんて、初めて見たからな。反動で何するかわからないぞ?」
「いいよそれでも。叱られたって、何されたって……皆に会いたい!」
覚悟はしとけよと言うイクシスに、望むところだとぎゅっとしがみついた。
ようやくイクシスが迎えにきてくれました!長いシリアスターン、お付き合いいただきありがとうございます。
6/25 少々重複する台詞があったため、修正しました。




