【82】兄は病的なシスコンです
「お帰り、大分遅かったね。初めての学園生活はどうだった?」
学園近くに借りているアパートに帰れば、兄のユヅルが出迎えてくれる。
「うん、皆いい人たちでうまくやっていけそうだよ」
泣いてしまったことによって腫れぼったくなった目元を隠すように俯きながら、その横を通り過ぎようとすれば、手首を掴まれた。
「……何かあったね?」
確信を持ったユヅルの声。
「何もないよ! それより今日はもう疲れたから夕飯はいらないかな。そのまま眠るね!」
さっさと部屋に逃げてしまおうと思ったのに、その手から抜け出すことはできなかった。
「困ったことがあったなら、兄に言うんだヤヨイ。兄は、お前が苦しんでいる姿を見るのが一番辛い」
ユヅルが私の両手を取って、床に膝をついた。
私を見上げるような体勢で、心の中まで見透かそうとするようにじっと見つめてくる。
「ヤヨイが兄に言えない何かを抱え込んでることは、わかってるよ。この学園に来たことにも、何か目的があるんだろう? ヤヨイはここにこだわっているみたいだったから」
言ってごらんと、優しくユヅルが促す。
今心の中にあるもやもやを吐き出してしまえば、少しは楽になるかもしれない。
でもそれは、逃げで甘えな気がした。
私は酷いことをしたんだから、苦しむべきだ。
「大丈夫だよ、兄さん」
そこまで誰かに頼り切ることはできない。
甘えたら、自分が嫌いになってしまいそうだった。
これは自分が蒔いた種だ。
「……兄には言えないこと?」
悲しげな顔でユヅルは口にする。
それを見て心が痛む。
ヤヨイを心配してくれているユヅルに、隠し事をしているという事にも、心苦しいものを感じていた。
「もしかして、ヤヨイがヤヨイじゃないことと……やっぱり関係があるのかな」
ユヅルのその言葉に目を見開く。
気付いていたなんて、全く思わなかった。
「そんなに驚いた顔をしなくてもいいじゃないか。最初から知ってたよ。ヤヨイの魂はいつ消えてもおかしくなかった。だから、そこにあると確認するために……常にゼルンの魔法を使った状態を僕は保っていたからね」
少し悲しげに笑いながら、ユヅルは告げた。
闇属性の魔法ゼルンは、幽霊などの普通は見えないものを見たり触れたりする魔法。
死に掛けていたヤヨイの魂が出て行ったら引きとめようと、ユヅルはずっとゼルンを使いっぱなしにしていたらしい。
それを聞いて、初めて会った時、ユヅルの体が薄い闇色の光の膜に覆われていたことを思い出す。
「魂が見えていれば、消える直前に食い止められることもあるんじゃないかと思ったんだ。結局できなかったけどね」
ヤヨイの魂は、ユヅルの目の前で消滅した。
そこに私の魂がどこかから入ってきたらしい。
それをしっかりとユヅルは見ていた。
「君が僕のために、妹として振舞おうとしてくれてるのも気付いていたんだ。でもそれに甘えてしまった。認めたくなかったんだ……ヤヨイが死んでしまったことを」
ゆっくりとユヅルが呟く。
その気持ちは、痛いほどによくわかる気がした。
私も、イクシスや皆が死んでしまったことを、認めたくはなかったから。
「僕はね、君に泣いてほしくない。辛い思いはしてほしくない。だから、僕にできることを言って。何でも力になるよ。僕はやっぱり君の兄だからね」
「ユヅル……兄さん」
優しい言葉に胸の奥が暖かくなる。
全く知らない他人の私を、ユヅルはそれでも妹だと言ってくれた。
四年間一緒に過ごしてきて、いつも側にいてくれた。
甲斐甲斐しくて、優しい兄のユヅル。
他人と思うには近くにいすぎて、情も湧いている。
「ほら、言ってごらん。お前の顔を曇らすモノは、全部兄がやっつけてあげるから」
頭もよくて、運動神経もよくて、料理もできて、家事もできる。
何もかも完璧に見えるのに、どうにもユヅルは出来の悪い妹に弱くて甘すぎた。
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「そうか、本当の名前は……メイコっていうんだね」
事情を話して本当の名前を言えば。
噛み締めるように、ユヅルが呟く。
メイコ、メイコと確かめるように口にして、嬉しそうに笑った。
「それでメイコはこれからどうしたい? 兄はいつだってお前の味方だよ」
「ありがとう兄さん。兄さんが驚かずに話を聞いてくれて、私を受け入れてくれただけで十分だよ」
優しく問いかけてくる兄に、笑みを返す。
私の周りには本当にいい人ばっかりだ。
これから私がどうしたいか。
ユヅルに話しているうちに、少しまとまってきた。
皆に謝りたい。
もしもあの時に戻れるなら、やり直したい。
それが私の本当の願いだ。
けど――過去に戻りたいと願ったって、どうにもならないことはよく知ってる。
あの日あぁしていれば、あの人は死なずにすんだかもしれない。
そんな事は思ったところで、何も変わらない。
……父さんが死んだ時を思い出す。
あの日父さんは体調が悪そうだった。
会社を休んだらともっと強くすすめていたら。
せめてバイクじゃなくてバスで行けばと言っていたら。
――父さんは事故に遭って死なずにすんだかもしれなかった。
そんなことをいくら後悔したって、何の意味もなかったし、現実は何も変わらない。
謝ったところで、あの時はこうすればよかったと悔やんだところで、死んだ人は戻ってこない。
――やり直しはきかない。
なら考えるべきは、今の自分にできることは何か……だ。
「屋敷がどうなってるか、自分の目で確かめたい」
皆が死んだなんて、認めたくはない。
けど確かめなければ、前には進めなかった。
うじうじ泣いて立ち止まったら、自分が嫌いになってしまう。
辛くたって、自分が導いてしまった現実に向き合う義務が私にはある。
弱虫な自分を奮い立たせるように――ぐっと右手を強く握り締めた。
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転校してきた次の日に、長期のお休みを取って旅立つことにした。
表向きは病気が再発して、病院に検査に行くという名目にしてくれとユヅルには頼んだ。
「メイコは兄を置いていくつもりでいるの?」
玄関先でユヅルに引き止められる。
そんな顔をされると弱かった。
「これは私の問題だから、一人で行かせて。ごめんね。わがまま言って、この学園に入学させてもらったのに」
「そんなことはどうでもいいよ」
甘えるのも巻き込むのも嫌でそう言えば、ユヅルは泣きそうな顔になった。
「ねぇ、置いていかないで。兄はメイコがいないと死んでしまう」
「兄さんは私がいなくても大丈夫。こんな私がいたところで、迷惑しかかけてないし、いない方が兄さんももっと自由に生きられるはずだよ」
懇願するように言うユヅルに、わかってほしいと口にする。
ユヅルには多方面の才能があった。
何でもそつなくこなすユヅルは、いわゆる天才肌というやつだ。
剣の腕も、弓の腕も。
オンミョウドウの才能だけでなく、お花にお茶に書道に、絵画と何でも人並み以上にできた。
それだけではなくユヅルは、勉学だって得意だった。
ヒルダだった私がこの国の言葉を読み書きできるのはいいとして、ユヅルにとっては異国の言葉だ。
なのにユヅルはそれをあっさりと覚え、元々教師だったといえ、異国で同じ職に着いて教鞭を取っている。
皆が羨むような兄。
それがユヅルだ。
けどそのユヅルは、妹のためならあっさりと何でも捨ててしまう。
剣の腕前を競う大会の時も、代表の選手に選ばれながら、その日は私の誕生日だからとあっさり下りた。
多くの人がその選手になるために、日々頑張っているのにだ。
教師の仕事だって、もっといい学校からオファーが来ていたのに、私と離れたくないからと地域にある小さな学校の教師をしていた。
宝の持ち腐れだと心から思う。
ユヅルが心を砕くべきは、もっと他にあるはずだ。
そう言っているのに、一向にユヅルは聞いてくれない。
「メイコがいないなら自由も何もかも、兄にとって価値はないよ」
どうしてそう言い切れてしまうのかが、私にはわからない。
怖いと思うほどの澄んだ瞳でいつもユヅルは言うから、今までヤヨイではなくメイコだと私は言い出せなかった。
「どうして兄さんは……こんなにヤヨイに執着しているの?」
「今は、ヤヨイにというのはちょっと違う気がするけどね……僕には昔から夢中になれるものが何もなかったんだ」
ずっと思っていた疑問を口にすれば、苦笑するようにユヅルが呟く。
眉をハの字にした困り顔は、大人の男の人なのに可愛さがあった。
「自慢じゃないけど、僕は何でもできたからね。手間をかけて、夢中になれるものが欲しくてしかたなかった。それで両親にお願いしたんだ。兄妹が欲しいって。そしたら、しばらくして両親が赤ん坊のヤヨイをつれてきたんだ」
幸せそうな顔で、ユヅルは口にする。
それはユヅルが心から望んでいたものだったというように。
「ヤヨイはとっても病弱で、僕が守ってあげなきゃと思えたんだ。可愛くて可愛くてしかたなかった。ヤヨイの世話をしていると、心が満たされたんだ」
もう、ヤヨイはいないんだけどねと、悲しげな声でユヅルは呟く。
「僕はね――誰かの世話を焼いていたいんだ。困らされて、振り回されて、思いっきり迷惑をかけられたい。そうでないと僕の人生は、とびっきりつまらないものになってしまうんだよ」
真っ直ぐにユヅルが私の目を見てくる。
「その誰かは、誰だっていいわけじゃないんだ。メイコは僕を頼ってくれて、僕を想ってくれただろう? メイコに想われるのは心地よかったし……何よりメイコといれば騒動が起きて、退屈する暇もない。迷惑だっていっぱいかけてくれる。その度に僕は、メイコの兄である幸せを噛み締めるんだ」
恍惚とした表情で呟く。
やっぱりユヅルは変だ。
折角高いポテンシャルを持っているのに、どこかがずれまくっている。
そして暗にユヅルは……いや思いっきり私をトラブルメーカーだと言っているように聞こえた。
否定したいのに、否定できないのが悲しい。
「僕はね、大切な妹のための――メイコの兄でいたいんだ。兄のことを少しでも想ってくれるなら、兄を頼って?」
とても甘く響く声が、私を駄目にしようとする。
頼って縋ったら駄目だ、迷惑をかけてしまうと思うのに。
それをユヅルは一番に欲しているんだと、目で声で全身で訴えてくる。
「駄目だよそれじゃ、いけないの」
それでも、私は躊躇った。
「何が駄目なの? メイコが頼ってくれないのなら、兄は……」
黙っていたら、ユヅルの声から感情が急に消える。
その瞳の奥に暗い灯りが宿るのを見た。
あっ、これヤバイ。
今までの経験から気付いたときには……もう遅かった。
ゆらりとユヅルから、闇色のオーラのようなものが立ち上る。
「兄さん、落ち着いて!」
「……メイコは兄を必要としてない? それじゃあ兄の……僕が存在している意味はないよね」
私の声が届いてない。
独り言のように、暗い瞳でユヅルが呟く。
オーラはドンドン拡散して行って、通学路の方へと流れていく。
このアパートは、学園の近くにある。
すぐそこには、学園へと向かう生徒たちの姿が見えた。
ユヅルのオーラがまるで植物の蔓のように伸びて、その先端が彼らの体に触れる。
「俺……何のために生きてるのかな」
ユヅルのオーラに当てられた少年が、いきなり道の真ん中でしゃがみこむ。
女の子と一緒に手を繋ぎながら登校という、何ともうらやましい事をして青春を謳歌していたはずの彼は、絶望しきった顔をしていた。
「いきなりどうしたの! 大丈夫!?」
心配して声をあげた女の子にも、ユヅルのオーラがその蔦を伸ばして絡みつく。
女の子は男の子の横に、ゆっくりとした動作で座り込んだ。
膝を抱えてそこに顔をうずめて。
「あぁ……明日世界が滅亡してしまえばいいのに」
彼女は、低い声で物凄く物騒なことを口にした。
「気分が悪いの? 平気? 先生を呼んで……くる必要も……ないよね。もう何もかもがどうでもいい……」
慌てて助けようとした子にもオーラの蔦が触れ、その子も動作をやめてその場でしゃがみこんでしまう。
被害はどんどん拡大して。
通学路であるアパートの前に、しゃがみこむ生徒の集団ができつつあった。
物凄く異様な光景だ。
しかもここは学園へ向かう一本道の途中。
後から来た生徒たちが、面白いくらいにユヅルの力に侵食されていっていた。
「兄さん、しっかり! このままじゃ私が休む前に学級閉鎖になっちゃう!」
「しっかり……僕がしっかりしてないから……メイコは頼ってくれないのかな……」
ふふっと力なく、ユヅルは笑う。
この状態のユヅルに何を言ってもネガティブに捉えるだけだった。
一見完璧なユヅルの、最大の欠点。
それがこのネガティブ感染だ。
感情が落ち込みすぎると、体から闇属性の魔力が漏れ出し。
周りを――ネガティブな思考に巻き込んでしまう。
このままじゃユヅルがシスコン一直線だと心配して、もう構わないでと一度突き放したことがあったのだけれど。
その時にユヅルはこの力を発動してしまい、それ以来癖のようになってしまっている。
私に拒絶されたりするとこの通りだ。
ちなみに元の乙女ゲーム『黄昏の王冠』の攻略対象であるユヅルは、こんな変な技は使えなかった。
「兄さん、私兄さんのこと、超頼りにしてるから!」
ぐっと拳を握ってそう口にする。
お願いだから、そのオーラをどうにかしてほしい。
この事態に慌てて学園から出てきた先生が、オーラの出所であるユヅルに気付いてこっちに走ってこようとするのが見えた。
しかし、オーラの餌食になって地面に人差し指で絵を描きはじめている。
「……でも頼ってくれないんだろ?」
甘えを含む、拗ねた表情でユヅルが私を見る。
なぜかこのネガティブオーラ、私にだけはきかなかった。
つまりは止められるのは私しかいない。
「頼る、頼るから! 兄さんがいなくちゃ駄目だからっ!」
「本当?」
必死に口にすれば、ぴたりとオーラがその場で止まった気配がした。
「本当だよ! 私だって、兄さんが力になってくれたら心強いもの! ただ、迷惑をかけたくなかったし、甘えるのが嫌だったから駄目って言っただけで!」
これは嘘偽りない私の気持ちだった。
ユヅルはとても頼りになる兄だ。それは、間違いない事実だった。
「ね、お願い兄さん。兄さんさえよければ、私に力を貸してくれないかな?」
必殺の上目遣い……ヤヨイになってから使うようになった、ウサギの獣人・ベティを真似たこの技は、ユヅル相手に効果はばつぐんだった。
幸せそうにはにかんだユヅルから、闇色のオーラが消えうせる。
ぱぁっと花が周りに咲く幻覚が見えてしまうくらいに顔を綻ばせて。
「うん……もちろんだよ、メイコ。だって僕はお前の兄だからね。兄は妹に頼られるために存在しているんだから」
妹に甘すぎる兄は、ぎゅーっと音がするほどに抱きついてくる。
普段なら、暑苦しいと押し返すところだけれど、されるがままにしておく。
「あぁ、メイコが側にいて頼ってくれれば……それだけで兄は幸せなんだ」
頬をすりすりと擦り付けて、ユヅルはうっとりと呟いた。




