【72】彼がヒルダを殺した理由
あちらの世界へ行く準備を済ませ、次の日早速出かけることにする。
屋敷のホールで留守中の最終確認をしていたら、騒がしい音を立てて玄関の扉が開いた。
「屋敷の主人はいるかしら! 話があるのよ!」
屋敷の警備をしている使用人に止められながら入ってきたのは、三十代くらいの女性。
こけた頬に、ギラギラした目はどこか熱に浮かされたよう。
煌びやかなドレスは彼女を着飾るというよりも、その痩せた体をより貧相に見せ、妙な迫力を醸し出していた。
「私に何か用かしら」
なんとなく舐められないように、ヒルダ仕様の口調で前に進み出た。
女性がふんと鼻を鳴らして、値踏みするような視線を送ってくる。
「あらヒルダ様。ご機嫌麗しゅう。ここでアベルが働いているでしょう? そのお給金をいただきにきましたの」
尊大な態度だなと思っていたら、クロードがアベルの母親ですと耳打ちしてくる。
男の間を渡り歩く魔性の女。
かなりの美貌の持ち主だと聞いていたのに、髪の毛には艶がなく目は落ち窪んでいる。
肌が土気色をしていて、病気じゃないかと思えるくらいだ。
けれどその瞳だけが、生気というか妙な熱に浮かされた色をしていた。
「アベルに関する一切の権利は、私に譲渡してもらったはずですが」
「何を言ってるの。私はあの子の母親なのよ。あの子はここであなたに奉仕した分のお金は、母親である私に受け取る権利があるのよ」
毅然とした態度で言えば、さぁ早く出しなさいとアベルの母親は手を差し出してくる。
この人は何を言っているんだろう。
アベルに関する一切の権利は、ヒルダに譲渡されている。
母親としてアベルを引き渡せというならまだわかる。
この人はそうじゃなくて、お金を寄越せと言っていた。
お金でアベルを喜んで手放しておいて、今更母親面。
アベルは彼女の事をずっと想っていたのに、手紙の一つも寄越さないで。
母親というその立場を――アベルの存在を。
お金を得るための、道具としか考えていない。
腹の底に言い表せない怒りが溜まるみたいだった。
なんでこんな人にお金を渡さないといけないのか。
アベルの母親を名乗る資格は、この人にないと思った。
「あなたに渡すお金はありません」
「あるでしょう? こんなにいい屋敷に住んでいるんだもの。ちょっとくらい、いいじゃない!」
自分勝手な理屈を振りかざす彼女を睨みつければ、機嫌を損ねたらしい。
ヒステリックに怒鳴り散らすその瞳には、狂気にも似た色があって思わず怯む。
「いいからお金をよこしなさいよ! 薬がないと私は生きていけないの!」
鬼気迫る顔で叫ぶ彼女は、かなりお酒臭い。
私に近づこうとした彼女を、イクシスが止めた。
「いい加減にしろ。出て行け」
「あらぁ……? いい男じゃない。竜族だなんて素敵」
彼女はさっきまでの鬼の形相はどこへやら、甘ったるい声を出してイクシスに色目を使ってくる。
マニキュアを塗った指先でイクシスに触れようとしたのが見えて、思わずその手を叩き間に入るようにして睨みつける。
「あなたに渡すお金は一切ないわ。立ち去りなさい」
「母さん!」
毅然とした態度で言ってやった時、こちらに走ってくる足音が聞こえた。
「あぁアベルじゃないの! 聞いてアベル。あなたの雇い主は酷いのよ。病気の私に薬を買うお金さえくれないの」
やってきたアベルに、彼女は弱々しい声を作って縋りつく。
「病気? その様子じゃ病気というより、ヤバイ薬をやってるようにしか見えないんだがな」
嫌悪感を露に呟くオウガに、私も同意見だった。
「何をしているのです。その女を追い出しなさい。許可なく入れないように」
クロードが屋敷を警護していた使用人二人に告げる。
すいませんでしたと謝って、使用人が暴れるアベルの母親を外へと引きずって行く。
「母さん!」
母親を追いかけようとしたアベルを、イクシスが掴まえた。
「行くな。どうせお前に金を持ってくるよう頼むだけだ」
「何で母さんを助けてくれないんだ! あんなに顔色も悪くて辛そうなのに!」
イクシスの正論も、興奮したアベルには届かない。
アベルは私達を睨んで、憤りをぶつけてきた。
「助けるも何も、あの女は自分から望んでああなったんだろ。自業自得だ」
淡々とオウガが呟く。
「病気はなりたくてなるものじゃないだろ。どうしてソフィアは助けるのに、母さんは見捨てるんだ!」
アベルは半狂乱で、私に訴えてきた。
ソフィアというのはマリアの娘だ。
あの子は確かに病気で、手術代もその後の一切の面倒も私が見ている。
でもあの母親は病気じゃない。
明らかに、悪い薬をやっている。
それを伝えたけれど、アベルは理解してくれなかった。
「お願いだ。母さんに薬を買ってやって。何でもするから……お願いします。薬を買ってください。お願いだから……母さんを殺さないで」
ぐっと私の手を掴んで、必死にアベルは訴えてくる。
その表情は、母親を失うことを恐れているみたいだった。
「アベル、あなたのお母さんは病気じゃないの。薬をあげたら駄目なのよ」
「あれは病気だ。どこからどうみたってそうだろ! 苦しそうで、薬が欲しいってずっと叫んでたじゃないか! 何で買ってあげないんだ!」
優しく諭そうとするけれど、アベルは聞く耳を持ってくれない。
そもそもアベルは、悪い薬というものを知らないのかもしれなかった。
「母さんを見捨てたら、お前は僕が必ず殺してやる……!」
散々説得を試みたものの、駄目で。
憎しみのこもった目で私を睨みつけ、アベルはその場から立ち去って行った。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●
執務室のソファーに座る私に、クロードがお茶を出してくれる。
私の世界へ出かける前に、やっかいな問題ができてしまった。
元の世界で私がやっていた乙女ゲーム『黄昏の王冠』の攻略対象の一人・アベル。
ゲーム内ではヒルダの財産を全て奪った上で殺して、オースティン家の若き当主として登場していた。
つまりゲーム本編が始まる前に、私はアベルによって殺される運命。
それを回避するために、今まであがいてきた。
最近はアベルも丸くなって。
このまま行けば、私は無事に生きられるんじゃないかと思っていた矢先にこれだ。
病気の母親を私が見殺しにするつもりだと、アベルは思い込んでしまっている。
「……アベルの母親は、お金持ちと再婚したはずよね?」
ヒルダにアベルを売り飛ばし、母親が手に入れたお金は普通に暮らしたら、一生に困らない額。
それを彼女はすぐに使い果たし、別の金持ちな男と再婚していた。
クロードによれば、その貴族のお金を使い込み破産させ、また別の男に乗り換えていたようだ。
原作の乙女ゲームの中で、アベルが自分の生い立ちを主人公に語るシーンがある。
アベルはヒルダに虐げられていたことをそこで語るのだけれど。
その中で、ヒルダが病気である自分の母親を見殺しにして、死に際にも会わせようとしなかったと言っていたことを思い出す。
自分が殺したオースティン家の当主であるヒルダが、どんな酷い女だったか。
アベルが語るシーンの一つのエピソードだ。
ゲーム中で、アベルの母親がこんなロクデナシである事は一切語られない。
母親と二人暮らしでつつましく暮らしていたところ、ヒルダに無理やり金で買われたのだとアベルは主人公に説明していた。
もしかして、今のこの出来事がそのエピソードの一つじゃないのか。
そんな事を思う。
ゲームの中のヒルダは、アベルの母親が薬物依存だと気付いていて、薬を与えなかったんだろう。
ヒルダの事だから詳しく説明なんてしてあげなさそうだ。
助けられるはずの自分の母親に、ヒルダが薬を与えずに見殺しにした。
そうアベルが勘違いしてもおかしくはない。
推測を口にすれば、その場にいる全員が考えこむような顔になった。
「ありえるな。それでヒルダを恨んで、殺したってことか。オースティン家を乗っ取ったのも、お金さえあれば母親が救えたのにって思ったのかもな」
イクシスが口にした言葉は、間違っていない気がした。
アベルは野心家だったけれど、目指しているものは民の平和のようでもあった。
ヒルダのようなどうしようもない貴族がゴロゴロしているこの国を、自らの手で変えたい。
アベルは王子に取り入って、国を内側から変えようとしている。
ゲーム内でのアベルからは、何となくそう感じ取ることができた。
「薬物依存を治す施設とかってある?」
「あっちの世界じゃともかく、ここにはないと思うぜ? そもそもこういうものが国内に出回っている事自体、恥ずかしいことだからな」
私の問いにオウガが答える。
「ただ体内の巡りをゲテルの魔法でよくして、早く薬物の影響下から抜け出させることは可能だと思う。まぁどちらにしろ薬をやめさせることからはじめないといけないな。メイコが望むなら、手を貸してやる」
「ありがとうオウガ」
心強いオウガの言葉に礼を言い、早速クロードに頼んで母親を屋敷に連れてきてもらうことにした。
お金を都合してくれると思ったのか、母親はすぐにやってきたので、それを屋敷の地下にある牢へ閉じ込める。
薬の影響下から出られるまで、そこに閉じ込めた上、オウガにゲテルをかけ続けてもらうことにした。
もちろんアベルには内密でだ。
けどこれで問題が解決したわけじゃない。
薬が抜けたところで、この母親はまた薬をやりそうだ。
全く反省している節がない。
お金だって一度与えれば、何度だってたかりにきそうだった。
……アベルは一生母親に振り回されることになるんだろうか。
ヒルダがアベルの母親を見殺しにしたのは、ある意味アベルのためだったんじゃないのか。
「死んでよかったわ、あんなあばずれ。これであなたは完全に私のモノ」
ゲーム内でアベルがヒルダに言われたという台詞。
これの意味も、何となくわかるような……そんな気がした。




