【102】寂しさを教えたのは
「……多分この先にいるはずだ」
「屋上?」
イクシスが案内してくれたのは、あの日私がティリアにこの世界から飛ばされた場所。
イクシスはここで待っているというので、私はドアを開けて一人屋上へと足を踏み入れた。
フード付の上着に、短いズボン。
普段は深く被っているフードを風になびかせながら、金色の髪を夕日色に染めてメアがそこに立っていた。
視線の先には沈む夕焼けがあって。
長く伸びたメアの影からは、彼の幻獣である蛇たちが四体、メアと同じ方向を見つめている。
これは私の知っているメアなのかな、と一瞬不安になる。
二年の内に少年から青年に近づいたメアは、大人びた顔をしていた。
何よりも常に笑みを絶やさなかったその顔は、どこか苦しそうに見えて。
そういう人らしい顔をするメアを、あまり見たことがなかった。
気配に聡いメアだ。
私が来たことに気付いているはずなのに、こっちを見ようともしない。
「メア」
呼びかければ、ゆっくりとメアは私を見る。
体をこっちに向けたメアの、紫色の神秘的な瞳と目が合う。
四体の蛇も、それにあわせるように私の方に顔を向ける。
眉を寄せて、メアは何も言おうとしない。
でもその瞳が何かを訴えてくるようだった。
「ただいま。帰ってきたよ、メア」
「……っ!」
会えてよかったと思いながらそう口にすれば、くしゃりとメアの顔が歪む。
知らない表情。
けれど、これは私の知っているメアだと心の奥が叫んだ。
「ゴメンね、私の不注意のせいでメアに心配たくさんかけちゃったよね」
近づけばメアが少し後ずさる。
「あれはおれのミスだよ。ティリアが何かしかけてくることはわかってたし、メイコお姉ちゃんがバイスからハンカチをねだられたって報告もサミュエルから聞いてた。買う場にもいた。なのに……止められなかった」
苦しそうな声。メアが唇を噛んで、拳を握り締める。
「メアのせいじゃないよ。それにイクシスたちから聞いたけど、あのハンカチがなくたって異世界に飛ばされてたみたいだし」
てっきりあのハンカチによって、私は異世界へと飛ばされることになっていたのだけれど。
実はあのハンカチには魔法の完成速度や、術の成功率を格段にアップさせる効果しかなかったらしい。
実はあの屋上には、黒幕のティリアの本体であるティルもいたのだ。
私達が彼女の操る魔法人形であるバイスに気をとられている隙に、近くで私に術をかけていた。
ヒルダにも同じ手で、ティリアはこの魔法をかけたとのことだ。
わざと自分に似せた囮のバイスに注意を引かせ、自分自身はか弱い幼児を演じることで相手の警戒心を解く。
それがティリアの作戦だった。
これに、まんまと私やヒルダはひっかかってしまったのだ。
「それにもう、全部終わったんだよ。ルーカスもティリアも捕まって処罰されたし、私もここにちゃんと帰ってこれた」
それでいいじゃないと笑いかける。
私がいなくなって後、アベルの父であるルーカスは反逆罪と麻薬に関わる罪で捕まった。ティリアも共犯として一緒に処罰されることになったのだ。
すでに、問題は全て片付いていた。
「サミュエルたちには五人の宿主の記憶があるけど、おれたちの話を全部理解してるわけじゃない。簡単なことしかわからないってことは、わかってたのに。バイスがハンカチを欲しがった意味を、お姉ちゃんを一人呼び出すための罠だとしか……おれは思わなかったんだ」
もっと疑ってかかるべきだったと、メアが悔しそうに言う。
「ティリアの本体がその場にいたのに気付けなかった。メイコお姉ちゃんに術をかけるのを見逃した。影にいるおれたちが一番近かったのに!」
メアの叫びと一緒に、サミュエルくんたちが咆哮するように口を開ける。
その怒りの感情に呼応しているかのようだった。
メアの中にこんな激しい感情があることに驚く。
笑みを浮かべてはいるけれど、どこか空虚で。
誰がどうなろうと本当はどうでもよくて。何事にも冷静で冷めていて、熱くなる事なんてないんじゃないかと思っていた。
自分の命にさえ執着がない、そんな少年だったのに。
目の前のメアは、私がいなくなったことを悲しんでくれていた。
それを阻止することができなかったことを、ずっと悔やんでくれていた。
想われているんだなと感じて――嬉しくなる。
ゆっくりとメアに近づく。
逃げることを、メアはしなかった。
そのままゆっくりと抱きしめれば、その体が少し強張る。
「ありがとう、メア」
「なんでお礼なんて言うの? おれ、お姉ちゃんのこと守れなかったんだけど」
自嘲するようにメアは笑う。
「メアがそうやって、私を守ろうとしてくれたのが嬉しいよ。寂しがってくれてたんだね」
「……」
メアは何も言わなかった。
もしかして、ちょっと自意識過剰だったかな……なんて不安になる。
しゅるりと、私の体にサミュエルくんが寄り添う。
あんなに苦手な蛇だったのに、怖いなんて思えなかった。
会いたかったんだと伝えてくるように、他の蛇たちもメアごと私を抱きしめるように巻きついてくる。
「サミュエルたちのこと……もう、怖がらないの?」
「あっちの世界でね、メアに会ったんだ。当たり前だけど私の事なんか知らなくて、どうでもよさそうで。私の知ってるメアだって思ってたから、それが物凄く嫌だった」
ぽつりと呟くメアに、静かに語りかける。
「メアなら違う姿をしていても、きっと私に気付いてくれるって何の疑いもなくそう思ってた。出会った頃みたいなメアを見て……私は私の知ってるメアやサミュエルくんたちが、凄く好きだったんだなって思ったの」
笑顔で血を浴びるメアを見て、最初は正直相容れないとも思った。
蛇は苦手だし、その空虚な目が怖かった。
でも今はその紫の瞳も、影の蛇も。
その存在がどれだけ頼もしいものか、私は知ってる。
「メアとまた会えてよかった。私が寂しいなって思ってたように、メアもそう思ってくれてたって……思ってもいい?」
「寂しいとかそういうの。おれ、よくわからないんだけど」
問いかければ、メアがそんな事を言う。
少し体を離して覗き込めば、戸惑ったような顔をしていた。
メアは寂しいという感情を知らないようだった。
暗殺者という育った環境が、そうさせたのかもしれない。
誰かがいなくなって悲しいとか、恋しいとか。大切だとか。
そういう感情を抱くこともなく、日々を過ごしてきたんだろう。
それはきっと、暗殺者にとって不必要なもので。
だからこそ、あっさりとメアは人を殺す事ができていたのかもしれない。
「寂しいっていうのはね。気付けばその人の事を考えて、会いたいなって思って。でも会えなくて、苦しくて胸の奥がぎゅーってなるような感じの事だよ。それでね、こうやって会えたら――今の私みたいに物凄く幸せな気持ちになるんだよ」
今までの空白を埋めるように、メアを抱きしめる腕に力をこめる。
「……じゃあ、おれも寂しいってやつだ。メイコお姉ちゃんがいない間、ずっとお姉ちゃんのことばっかり考えてた。誰かがいなくなって、苦しくなることなんて初めてだったんだ」
ふっと耳元でメアが笑った気配がして。
自分の気持ちを一つずつ紡ぐように口にする。
「おれ、おかしくなっちゃったんだよね。誰かが消えようが、そいつが弱くて運がなかっただけの話でしょ? 玩具が一つ減ったところで、次の代わりを探せばいいだけの話なんだよ。それなのに納得できなかったんだ」
ゆっくりとメアが体を離す。
少し私と距離をとった。
そこにあるのは、見慣れたメアの笑み。
けど感情が読めない空白を感じさせていた瞳は、苦しげに揺れて。
人間らしい表情をしていた。
「おれをおかしくした、お姉ちゃんのことをいっそ殺したいって思ったよ。でもさ、それでお姉ちゃんが死ぬのは嫌だった。矛盾してるよね。自分でもよくわからなくてさ。苦しくて……どうしたらいいのかわからなかったんだよね」
メアの両手が私の首に触れる。
一瞬その瞳に暗いものが宿った気がしたけれど、その手は優しく私の肌をなぞっただけですぐに離れた。
「……おかえりなさい、メイコお姉ちゃん。次はもう、お姉ちゃんを誰かに傷つけさせはしないから!」
ふっきれたように、にっとメアが悪戯っぽく笑う。
軽い口調の中には確かな強い意志があって。
「うん、よろしくねメア!」
そう言って笑えば、チロリと出されたサミュエルくんの舌が、私の肌をくすぐる。
「ひっ!」
多少は平気になったとは言え、舐められるのはまだ抵抗があった。
四体の蛇が、赤い瞳を私に向ける。
その中に――獲物を狙うような色を見つけてしまった。
「め、メア?」
名前を呼べば、紫の瞳が私を見て細められる。
爬虫類を思わせる、静かで熱のこもった瞳を私に向けていた。
「まぁ、それはそれとして。おれたちに寂しいなんて思いを教えた責任は――ちゃんととって貰わなきゃね?」
嗜虐的な光を瞳に宿して、メアがにぃっと笑う。
蛇たちが、舌をチロチロと出しながら私に絡みついてくる。
「さ、さっき誰にも傷つけさせないって……」
「うんおれ以外にはね?」
にっこりといい笑みで、メアは言ってくれる。
この子ドSだよ!
いや……何となく気付いてましたけど!
「覚悟はできてるよね?」
「ちょ、メア! サミュエルくんその動きは無理……! ひっ、いやぁァァァ!!」
この日、屋上に私の悲鳴が響き渡った。
すいません。寝坊しました!




