死神に、寄り添われて。
こんにちは。
おにいちゃん、だれ?
私は、死神ですよ。
しにがみ?
そうです。あなたは、じきに死んでしまうのです。
でも、その日まで傍にいますから、寂しくないですよ。
死神と名乗った若い男は、少年に向かって優しく微笑んだ。
まだ“死”という物を理解出来ない頃、ぼくは死神と出会った。
その死神は、君はもうすぐ死ぬのだとぼくに言った。
死ぬとはどういうことか。
どうしてぼくは、いつも腹ペコなのか。
どうしてぼくは、いつも一人ぼっちなのか。
そんな事を分かる間もなく、幼くしてぼくは死ぬ事となる。
◇◇◇◇
お父さんとお母さんが結婚してぼくが産まれた。そしてあのアパートに引っ越してきた。お父さんは、ぼくとお母さんのために一生懸命働いた。お母さんも、ぼくとお父さんのために美味しい食事を作ってくれた。たぶん初めは、幸せな家庭だったのだと思う。
不景気になり、やがてお父さんの仕事が減り収入も減って、二人は言い争う事が多くなった。そして口の立つお母さんに、お父さんは手を上げるようになった。
その頃のぼくは怯えていたと思う。怯えて部屋の隅っこにうずくまっていた。
お母さんは叩かれるのが嫌で何度も家出をした。ぼくは叩かれる事はなかったけど、一度だけおむつ姿のまま裸足で外をさ迷った事がある。だけど、次の日にお母さんが迎えに来てあのアパートに連れ戻された。
今思うと、その時に保護してくれていたら、ぼくは死なずにすんだのに。今更言っても仕方のない事。どうしようもなかったんだ。
だんだん、お父さんの暴力はエスカレートした。
ある日昼寝から目覚めると、お母さんはいなくなっていた。それから一度も帰っては来なかった。
お母さんがいなくなっても、お父さんの出掛ける頻度は変わらなかった。
仕事をしないとご飯が食べられないもんね。今なら分かるよ。でもその頃は何も分からなかったから。
誰もいない部屋で真っ暗な部屋で、食べる物もなくて、怖くて泣いても、粗相をしても、誰も帰って来てはくれなかった。
寂しかった。ひもじかった。怖かった。
初めの頃お父さんは、週に五回ぐらい家に帰ってきていた。その時は、必ずお弁当を買ってきてくれた。
ぼくはお父さんが帰って来るのをいつも楽しみに待った。
美味しい物を食べられるし、お腹がいっぱいになるし、寂しくなかったから。
でも、家に居ても携帯をいじってばかりで、お父さんはぼくの相手はしてくれなかった。
それでも、夜は、電気が点いて明るかったし、テレビが映って賑やかだった。
ひと月経つ頃には、週にニ回程しかお父さんは帰って来なくなった。
そんな時、死神さんと出会った。
カラスみたいに、真っ黒のスーツに真っ黒の靴と帽子。痩せた体、色白の肌。狐のような細い目、すっと通った鼻筋、小さくて薄い唇。帽子から覗く髪は黒くウエーブがかかってた。
突然見知らぬ人が部屋の中に現れたけど、なぜだか全然怖くなかった。それどころかぼくは、誰かが傍に居てくれる事が嬉しくさえ感じていた。
たとえそれが、死神だったとしても。
まあ、その時のぼくは、死神が何なのか分からなかったんだけどね。
いつも一人ぼっちだったぼくは、傍に誰かが居てくれるだけで、泣かずにすんだし、おしゃべりができたし、笑顔になれたし、寂しくなかった。
たとえ、食べ物を与えて貰えなくても。飲み物を与えて貰えなくても。それでもぼくは、嬉しかった。
死神さんは、色んな話をしてくれた。めずらしい動物の話や、この世の物とは思えない植物の話し。宇宙にある星の話しや、ぼくには理解できない話し。目を開けている時間は短くなってきたけれど、ぼくが寝ている間もずっと、ずっと一緒に居てくれた。それだけでぼくは安心して眠れた。
ある日目が覚めたぼくは、ぼくを見下ろしていた。
どうしてぼくがもう一人居るのかと死神さんに訊いたら、死んでしまったから体から魂が抜け出たのだと言われた。立っているぼくが魂で、寝ているぼくが体という事らしい。
でもぼくは、死ぬと言う事が何なのかはやっぱり理解できなかった。
ぼくが死んでから、一度だけお父さんが部屋に戻って来たけどお土産のお弁当は持っていなかった。
ぼくが死んでいるのを確認すると、雨戸や部屋の入り口や、色んな場所をガムテープで塞いで回っていた。
ぼくは、「お父さん」と何度も呼びかけたけど、ぼくの方は一度も見てくれなかった。お父さんの行動を死神さんは黙って見てた。
いつも一人ぼっちにさせていたお父さんより、いつも傍に居てくれた死神さんと、ぼくは一緒に行く事にした。
死神さんの仕事は、ぼくを天国に連れて行き、生まれ変わりを見守り、育つ過程を見守る事。そしてぼくの死体が見つかったら、ぼくの前世の記憶を持って行く事。
「君は暖かい家庭の子どもとして生まれ変わるんだよ。今度は愛情をいっぱい貰って、不自由なく食べさせてもらえて、すくすくと育っていけるんだ」
死神さんはそう言ったけど、ぼくにはそれがいい事なのか悪い事なのか、よく分からなかった。
暖かくていい家庭とはどんなものなのか、愛情とはどういうものなのか、幼いぼくには知る機会などなかったのだから。
ぼくは死神さんが言ったように、優しい両親と兄妹の元に産まれた。姉二人と、ぼくと弟の四人兄妹。パン屋を営む明るい両親、祖父母も同居していたから、ぼくは寂しさなんて感じる事はなかった。家にはいつも焼きたてのパンの匂いが充満していていつでもお腹いっぱいの感覚に満たされていた。
死神さんは時々ぼくの様子を見に来てくれた。そのたびに「幸せですか?」と訊いてきた。ぼくはいつも「幸せだよ」と応えていた。でもいつでも前世の記憶が心の中にしこりのように残ってる。
食べられなかった思いが、寂しかった記憶が、幸せなのに楽しいのに、ふと気を抜いた時に、心の中に玉のように残る思いの塊。
前世の記憶は、他人の一生を知っているようなもので、当時感じた、悲しみや寂しさ、苦痛や空腹、そういった心の底から湧きあがるような感情は、ぼくの中に生まれては来ない。レースのカーテンの向こう側にあるというか、フィルターが掛かっているようなそんな感じ。
ただ産まれた時から他人の人生を知っているというだけ。それが自分の生きた人生だと知っているだけ。
死神さんの言った通りぼくは、誰にも虐められることもなく、何不自由なくすくすくと育っていった。
満月がやけに大きく見える夜だった。家を抜け出したぼくと死神さんは、アパートの一室に来ていた。入口には規制線が張られている。
おびただしいゴミの中、わずかに空いた床の隙間に敷かれた布団の上に、横たわった状態でぼくは発見された。
「中学に入学した生徒がまだ一度も登校して来ない」という学校からの通報で、警察が捜索して、白骨化したぼくの遺体が見つかった。その日はぼくの十三回目の誕生日だった。
犯人はすぐに逮捕された。その部屋のアパートの家賃を払い続けていたお父さんが逮捕されたのだった。
アパートのフェンスにはたくさんの花束とお菓子やジュースが供えられていた。
「ニュースを見た人たちが、君の為に供えてくれたんだね」
君の死を悼んでくれてるんだよ。と死神さんは言ったけど、ぼくには、よく分からなかった。
「ぼくは何の為に産まれたんだろう。ぼくが産まれて、お父さんとお母さんは喜んでくれたのかな。お母さんはどうしてぼくを置いて行ったんだろう。……ぼくは愛されていたのかな」
ただ、その頃の疑問が、その当時には抱く事さえなかった想いが、あふれ出した。
そんな思いだけが胸を締めていた。
死神さんを困らせるだけの疑問だった。
「その答えを、私は持っていないけれど、君のお母さんに会えたなら聞いといてあげるよ」
死神さんはそう言ってくれたけど、会えないんだろうな。ぼくの記憶も、もうすぐなくなる。
「これでお別れなの? 死神さんの事、忘れちゃうの?」
「そうだよ」
「ぼくの記憶を持って行ったら、どうなるの?」
「私の評価が上がる……な」
「評価が上がるとどうなるの?」
「天国に行ける」
そうか、いつか天国に行けるんだね。記憶を手放す前に、少年は太陽のように笑った。
生まれ変わりを拒否した私は、死神として働いている。息苦しい天国や地獄で働くつもりはない。死神は人と関われる仕事だし、何より自由だ。
死神は百年単位で働きを審議される。評価が上がって行くと、いずれは天国に行ける。なので、天国に行かされないように、いつも私は少しの違反を犯す。
今回のケースでは、早い段階で対象に自分の正体を晒した事と、余計な話をした事。
おかげで今回の評価もプラスマイナスゼロの筈だ。
死神は辞められない。
ある日、死神はパン屋に来ていた。
明るい主人と奥さん、子どもは四人居る。とても幸せそうな家庭だった。そこの次女の元を訪れた。
「あなたの息子さんの遺体、発見されましたよ。良かったですね」
「うん、良かった。今度は幸せに生きて欲しい」
死神の問いに小学校高学年と思われる少女が答えた。
「あなたも早く見つかると良いですね」
少女は、次の問いには答えなかった。
「そう言えば息子さん、どうしてぼくを置いて家を出たのか、ぼくは愛されていたのか、訊きたかったと言っていましたよ」
死神にそう訊かれ、少女は考え込んだ。
「あんたに言っても、息子には伝わらないんだよね?」
「そうですね」
「じゃあ、言っても意味ないじゃん」
「まあ、そうですけど」
そう言いながらも訊きたそうにしている死神に、決意した引き締まった顔で少女は答える。
「私は、生きて、息子と幸せになりたかった」
少女の口から絞り出すように発せられた言葉に、死神は満足気に頷いた。
アパートの一室で白骨化した男の子の遺体が発見された。
生きていれば中学一年生になっていた。
発見された日はその子の誕生日だった。
父親が逮捕され当時の様子が明らかになって行く。
五歳で置き去りにされた男の子は、電気を点けられたのか、冷蔵庫は開けられたのか、蛇口をひねる事は出来たのか。
暗かっただろう。寂しかっただろう。ひもじかっただろう。そう思うと涙が止まりませんでした。
実際の事件を小説にするなんて不謹慎だと思われるかも知れませんが、せめて最期は誰かと一緒に居られて寂しくなかったと、安心して居られたと、笑う事もあったのだと。
そう思ってこの話を書きました。
私の流した涙がせめてもの供養になりますように。
どうか次に産まれてくる時には、幸せになりますようにと願わずにはいられません。
読んでいただき、有り難うございました。