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真田公記  作者: 織田敦
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小牧山城完成

永禄6年(1563年)8月、小牧山城が完成をした。

清洲城の城下町の機能を、小牧山城に移す予定なのだ。

現実主義者の信長の考え方は、織田家その物がそっくり動かなければ、新しい時代を切り開けないと言うだろう。

信長の考え方を家臣達は、まったく理解をしていなかったのだろう。

史実において、信長の後継者を決めるのに、とっくの昔に信長が捨てた清洲城に戻って、会議を開いているからだ。

もしも、織田信長が生きていたら、真田敦と同じように思うに違いないと。

「信長様、ようやく小牧山城が完成を致しました。」

普請奉行の丹羽長秀は、小牧山城に残り斎藤勢からの攻撃に備えていた。

その為、真田敦が清洲城に戻って信長に報告をしていた。

「とりあえず美濃制圧の足場は、完成したな。

一週間以内に、小牧山城に移転をするように。

何人たりとも、余の命を聞かぬものは、厳罰に処す。」

信長の強い口調で、織田家臣達に瞬く間に命令が行き渡った。



「御館様の命令は絶対だ。

皆の衆、早々に荷物を纏めて、小牧山城に向かうのだ。」

真田敦は、清洲城下にある屋敷に戻るなり、荷物を纏め始めた。

清洲城から、小牧山城移転命令である。

史実において、この信長からの命令をを無視して清洲城の城下町に残った一部の家臣達は、切腹や国内追放といった風に厳罰に処されているのだ。

真田敦は、産まれたばかりの茜を優しく抱っこしており、お犬御寮人は、源一郎を抱っこしながらの会話である。

「兄上の考え方は、ほとんどの方々は理解出来ぬかと。」

「御館様の考え方は、先の時代を見ておられるからな。」

「せめて、この子達が大きくなる頃には、平和な世が訪れれば良いのですが。」

「そうよな。

源一郎が元服する頃には、平和な世を作らねばならぬ。」

突然泣き出した茜を、一生懸命あやしながら、真田敦は考え事をしていた。

(今年は、西三河で一向一揆か。

松平殿は、さぞかし苦労なされるだろうな。)

真田敦は、忘れていたのだ。

史実において、三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、伊賀越えの三つの出来事は、徳川家康の三大危機に数えられていた事を。



真田敦は、清洲城に登城し織田信長と会っていた。

「小牧山城移転の準備は出来ておるか?」

そう、織田信長が真田敦に質問をする。

「明日には、小牧山城に向かいまする。

それよりも、内密の相談がございます。」

西三河一向一揆と、防諜に関してであった。

西三河一向一揆に関しては、松平家康に任せるしか無かったが、防諜に関しては、織田信長も考えていたみたいであった。

梁田政綱に防諜や諜略を任せていたが、それだけではいずれ手が足りなくなると。

「敦、いずれそちに、忍の育成を任せたい。

だが、今は早いだろう。」

「信長様、いずれ伊賀衆や甲賀衆を、支配下に?」

「甲賀衆は、六角氏が支配下に置いている。

伊賀は、金穀で忍を各地に送り、仕事をしているとの事であるが故に、金穀しだいで寝返ると言う事であろう。」

「甲賀衆であれば、六角氏を打ち破り、支配下に置けば良いかと。

伊賀は、やはり滅ぼさねばなりませぬか?」

「何人たりとも余に従わねば、滅ぼさねばならぬ。」

織田信長の強い決意を知り、真田敦は信長の前から姿を消した。



西三河一向一揆は、宗教の力を思い知らされた戦いでもあった。

犬のように主君に尽くすと言われていた、徳川家康の家臣達が、主君の徳川家康ではなく、一向一揆の側に付いたからだ。

実に、西三河一向一揆の鎮圧に約半年も掛かった事を考えれば、史実において石山本願寺の挙兵により、織田信長の主力部隊を約10年間も、石山本願寺の包囲に費やさなくてはならなかったからだ。

約10年間も、石山本願寺の包囲に費やすならば、それを約5年間に減らす事は出来ないかと、真田敦は頭を悩ませていた。

石山本願寺包囲作戦は、簡単に言えば兵糧攻めである為、石山本願寺に兵糧が届かなければ、確実に包囲期間は短く出来ると考えていた。

最大の問題は、毛利水軍(村上水軍)の力である。

焙烙を用いて、木造船の敵船を燃やしてしまうと言う方法に対抗するには、やはり鉄甲船の配備しか考えが付かなかった。

早めに伊勢を制圧して、九鬼嘉隆率いる九鬼水軍を支配下に置き、石山本願寺挙兵までに鉄甲船を建造しなくてはと、頭の中に置いていた。



永禄7年(1564年)正月に、西三河一向一揆は遂に鎮圧されたのだ。

徳川家康は根気よく、一向一揆側に回った配下の者達を説得していたのだ。

その結果、ほとんどの家臣達が主君の徳川家康の元に帰ってきたのだ。



永禄7年(1564年)2月、2つの事が起きた。

1つ目は、北近江の浅井長政と、お市御寮人との婚約が成立し、お市御寮人は浅井長政の元に嫁いだのだ。

これにより、織田家と浅井家は同盟を結ぶ事に至った。

2つ目は、なんと竹中半兵衛が僅か、16人の手勢で、稲葉山城を1日で乗っ取りに成功したのだ。

それを知った信長は、美濃半国と引き換えに稲葉山城の引き渡し交渉を持ち掛けたが、竹中半兵衛はあくまでも主君の斎藤龍興を諫める為だと、信長の申し出を拒否したのだ。



その頃、真田敦は清洲の屋敷にいた。

知多半島の焼き物の管理や、東国の諜報結果の情報処理等に追われていたからだ。

ある日、1杯のお茶を貰いに来た浪人との出会いが、真田敦に初めての家臣を得る機会がやって来るとは思わなかったのである。

「すみませぬが、お茶を一杯頂けないでしょうか?」

1人の浪人が、真田敦の屋敷にお茶を頼みに来た。

本来ならば、家中の者が対応するのだが、ほとんどの者が小牧山城に行ってしまっていたために、真田敦1人しか居なかったのだ。

「旅の方ですな。

私、1人しかいないので、宜しかったら縁側にどうぞ。」

真田敦は、自分で飲むつもりでいたお湯とお茶の葉を持ち、旅の方が座っていた縁側に向かった。

「お熱いお茶ですので、火傷をなされぬように。」

真田敦は、旅の方に熱いお茶を差し出した。

旅の方は、ゆっくりと熱いお茶を飲みながら、世間話を始めた。

「尾張の殿様は、やけに美濃制圧にこだわってますな?」

「今は、戦国の世ですからな。

隣国を攻め取るは、ある意味仕方ないかと。」

真田敦は、旅の方の話し方に、何やら引っ掛かる物を感じ取った。

(こやつは、ただ者ではなかろう。

普通に考えれば、他国の間者と思うが、しかし間者ならば姿を見られぬようにするはず。)

真田敦は、警戒心を強めながら、旅の方と世間話を続けた。

「旅の方は、どちらから参られたのですが?」

旅の方は、一瞬戸惑いをしながらも、すぐに冷静沈着に言葉を返した。

「某は、三河から参ったのですよ。」

(三河国?

その言葉が本当ならば、間者ではなかろう。)

「では、これからどちらに参られるのですかな?」

「特に決めてはおりませぬが、大和の方に行って見ようかと思いましてな。」

(三河から大和に?

縁もゆかりもなく、なぜ他国に向かうのだ?

いや、待てよ?

まさかと思うが、このご仁が、かの人物ならば辻褄があう。)

「旅の方、お名前をお訊きしてもよろしいでしょうか?

某は、織田信長様にお仕えする、真田敦と申します。」

その名前を聞いた瞬間、旅の方の対応が変わった。

桶狭間山にて今川義元を討ち、清洲同盟締結に尽力し、更には浅井家との同盟締結の陰の功労者としても、一部の間には知れ渡っていたからだ。

「某は、本多正信と申します。

主君の説得を聞かず、三河から逃げ出した者です。」

今度は、真田敦がびっくりする番であった。

(ほ、本多正信だと?

徳川家康に友と言わせ、天下の謀臣と言われた、本多正信本人だと言うのか?)

真田敦は、本多正信の人生を思い出していた。

三河を飛び出した後、大和の松永弾正に仕え、更に松永弾正の元を後にし、一向一揆に再び参加をして各地を飛び回り、最後には徳川家康の元に帰って行った。

「本多殿、もし宜しかったら、今宵一晩お泊まりになられぬか?

夕刻に近い故に、今から宿を探すのも大変かと思われるが。」

「ふむ、確かに今から宿を探すのも苦労致しまするな。

真田様が良ければ、一晩の宿をお願い致したい。」

「たしか本多殿は、お酒が好きとか聞きましたが?」

「ほっほほ、たしかに某はお酒には目がないのですが。」

「ならば、秘蔵のお酒がござってな。」

のちの世に、清酒と言われるようになるお酒を、本多正信との夕食の時に出した。

本多正信は、いたく清酒を気に入り、清酒を飲みながら夜を明かすまで、真田敦と語り合った。

真田敦と本多正信は、意気投合をしたのか、次の日には真田敦の家臣として、働く事になったのである。



翌日、真田敦と本多正信は、稲葉山城の攻略方法を、話し合っていた。

「正信、稲葉山城を落とすには、どうすればよいと思う?」

「ほほほっ。

真田様、某には軍事の才能はありませぬぞ。

ですが、美濃三人衆と斎藤龍興の仲を裂く謀略並ば浮かびまするぞ。」

本多正信は謀略を言うので、褒美のお酒を所望しているのだ。

真田敦も、正信の性格を知り尽くしているので、茶碗にお酒を並々注いだ。

正信はお酒を一口飲み、茶碗を床に置いた。

「現在は、稲葉山城は竹中半兵衛殿が占拠なされてますな。

狙いは、主君の斎藤龍興を諫める事でしょうが、岳父の安藤守就は美濃の実権を握りたいのでしょう。

しかし、他の稲葉氏や氏家氏らの家臣達が、協力するとは思えませぬ。

いずれ、稲葉山城を返還するのではなかろうかと。」

真田敦も、本多正信と同じ事を考えていた。

永禄7年(1564年)8月には、竹中半兵衛は稲葉山城を斎藤龍興に返還をし、近江の浅井家にやっかいになるのだ。

稲葉山城占拠を狙うならば、引き渡し後の僅かな瞬間を狙うしかない。

簡単な稲葉山城の見取り図を頭に浮かべながら、更に策を練っていた。

「しかし、竹中半兵衛殿から稲葉山城を還されましても、還された側の斎藤龍興の心情はどうですかな。」

「なるほど。

龍興にしてみれば、恥をかかされたと思うだろうな。

下手をしたら、竹中半兵衛達は、誅殺されかねないからな。」

「左様でございます。

しかし、美濃三人衆と斎藤龍興の仲は、修復不可能になりましょうな。」

正信は、茶碗のお酒を飲み干し、2杯目のお酒を所望し、真田敦は仕方ない奴だなと思いながらも、正信の茶碗にお酒を注いだ。

のちに織田信長と面会した本多正信の印象は、独楽のようであったと言う。

もちろん独楽は、それだけでは回らない。

信長曰く、自分と似た人物は、極悪人松永弾正に、織田信長の岳父斎藤道三、そして、真田敦と、その家臣である本多正信だと。

同席していた真田敦は、なんとなく信長様の言いたいことを理解できたが、後の世に極悪人と言われた人物達と、同じにされた事に笑わずにいられなかった。

(たしか稲葉山城には、使われていない裏門があったな。

たしか藤吉郎は裏門から侵入して、火を放って混乱を煽ったのだったな。

墨俣の一夜城を成し遂げ、美濃三人衆を寝返らせるのも時間の問題だな。)

真田敦は、おぼろ気な記憶を思い出していた。



真田敦と本多正信の話し合いの数日後、小牧山城の大広間にて、美濃攻めの話し合いが始まった。

「のう敦、美濃制圧によき策はないか?」

「今は打ち捨てられてますが、墨俣に砦を築かれては如何でしょうか?」

「墨俣か、しかし斎藤勢が見逃すとも思えぬが。」

信長と敦のやり取りを聞いていた柴田勝家が、発言の許しを信長から貰い発言をした。

「御館様、佐久間殿に築城を命じられては。」

「佐久間か。

ふむ、佐久間、そちがやってみよ。」

佐久間信盛は頭を下げ、墨俣築城の準備を始めた。



館に戻った真田敦は、お犬御寮人、源一郎と茜、更に正信と共に、夕飯を食べようとしたが、本多正信は慌てて固辞をした。

前にも書いたが、特別な時以外には、この時代は主君と家臣が共に食事をする事は許されていなかった。

真田敦の考え方は、共に食事をして仲間意識を高める事が、この世に大切ではないかと考えていたのだ。

真田敦は、正信に分かりやすく説明をして、今後の真田家では、家臣達と食事を共にする事になったのだ。

もちろん戦場においては、足軽達とも食事を共にする事で、士気高揚を忘れなかった。



1か月後、墨俣築城に失敗した佐久間信盛が、頭を下げていた。

「情けない、佐久間ともあろうものが。」

言葉から分かるように、信長の機嫌は悪い。

「面目しだいもありませぬ。」

佐久間信盛の墨俣築城は、安藤守就の手勢に阻止された。

築城の最中に墨俣に攻め寄せ、建築途中の塀等を焼き払われたのだ。

「勝家、次はそちが墨俣に築城をしてみよ。」

織田家一の猛将である柴田勝家に、信長は期待してみたのだ。

「はっ、必ずや墨俣築城を成功させてみまする。」

墨俣築城の2番目には、柴田勝家が命じられ、軍議は解散された。

(柴田殿は軍勢を二手に分け、片方で敵を防ぎながら、もう片方で築城なされる気であろう。

悪くはないが、相手があの竹中半兵衛ではな。)

真田敦は、まるで気が付かなかった。

そう、歴史の進み方が早まっていた事に。

本多正信の仕官もあり得ない上に、この時期の墨俣築城までもが、真田敦の知っている歴史の流れと違う事に。

いや、知っていて知らぬ振りをしたのかも知れなかった。

桶狭間山にて、今川義元を討ち果たしてから、自分の知っている歴史の流れが違う事に。



再び、1か月後に、今度は柴田勝家が頭を下げていた。

「勝家、そちまでもが失敗するとわな。」

今度は困ったと言うよりも、心の中では怒り心頭の信長であった。

「面目しだいも。」

佐久間信盛に引き続き、柴田勝家も墨俣築城に失敗をした。

信長の機嫌はますます悪くなり、次は誰に任せるか思案していた。

真田敦に命じようかと思い付き、真田敦を指名しようかと思った瞬間に、木下藤吉郎が手を挙げた。

「御館様、某にお任せ頂けませぬか?」

信長は真田敦に視線を向け、真田敦も任せた方が宜しいかと視線で答えた。

「良かろう、そちに任せる。

だが、失敗は許さぬぞ。」

信長が命じたのではなく、サルが自らから言い出したのだ。

真田敦は、木下藤吉郎なら成功させると確信していた。

川並衆を使い、木材を最初に加工する。

次に加工した木材を筏に仕立て、上流より墨俣の地に流す。

それを引き上げ、回りの柵や壁などに使用する。

墨俣の一夜城の完成なのだが、実質的には数日はかかったと思われる。



時は流れて、もうじき永禄7年(1564年)8月になろうとしていた。

竹中半兵衛は、主君の斎藤龍興に稲葉山城を返還するのだ。

「兄者、どうやって墨俣築城をするんじゃ?」

木下小一郎は、兄の藤吉郎に聞いていた。

「川並衆の小六どんに、頼むのじゃ。

さいわい、わしと小六どんは顔見知り。

なんとか頼み込んで、やるしかなかろう。」

木下藤吉郎は、小一郎を引き連れ、蜂須賀小六の元に向かった。

同じ頃、竹中半兵衛は主君の斎藤龍興に稲葉山城を返還。

斎藤龍興からの刺客の襲撃を切り抜け、北近江の浅井家の城下町まで逃亡したのだ。

稲葉山城が、斎藤龍興の元に戻ったのを織田信長は、小牧山城の大広間にて報告を受けていた。

「敦、稲葉山城が龍興の元に戻ったそうだ。」

「その様にございますな。」

「さて、そちを呼んだのは他でもない。」

「美濃三人衆に対する、寝返り工作でございまするな。」

「さすがに、余の言いたい事を先読みしたか。」

織田家の配下には、織田信長の考え方を先読みする能力は、必要不可欠と言えた。

「では、手始めに安藤守就辺りから切り崩しますか。」

真田敦の目から、怪しい光が一瞬輝いた。

実は、真田敦は裏では前々から美濃に対して謀略の限りを尽くしていた。

一つ例を言えば、美濃三人衆を謀殺し、美濃三人衆の領地を主君の斎藤龍興の直轄地にすると言うものである。

もちろん、そんなに簡単にはいかないが、旅人を装い噂をばら撒けば、次第に龍興と美濃三人衆の間に、疑心暗鬼の心が生まれてもおかしくは無いのだ。

だいたい、若くして酒と女に溺れた龍興の器量を見て、心あるものならば諫言をするのだが、龍興はそう言う人物を蔑ろにし、自分に都合の良い奸臣ばかりを回りに集め出す。

竹中半兵衛が斎藤龍興に稲葉山城を返還しても、恥をかかされたと思い込んでいる斎藤龍興は、竹中半兵衛を謀殺するべく刺客を放つのが良い例であろう。



そのような中、木下藤吉郎による墨俣の一夜城が完成したのだ。

一夜にして砦を築かれた斎藤勢にしてみれば、あっと驚くしかなく、慌てて墨俣の砦に攻撃を開始するも、木下藤吉郎の反撃にあい散々打ち破られ、更に小牧山城からの信長の援軍も間に合い、美濃制圧の新しい拠点を手に入れたのだ。

真田敦は、まず商人に変装して、安藤守就の居城である北方城に赴いた。

北方城の門番には、密かに袖の下を渡し、安藤守就との面会まで持ち込んだのだ。

「そちが商人か?

何やら南蛮渡来の品を扱っているそうだな?」

安藤守就は、商人に変装した真田敦には気が付かず、まず話をし始めた。

「安藤のお殿様、ご機嫌麗しゅう御座います。

南蛮渡来の珍しい珍品を、安藤のお殿様に献上致したく、本日は参りました。」

頭を下げながら、真田敦は言葉を返した。

「よいよい、先ずは頭を上げられよ。

珍しい珍品、いったいどのような珍品なのじゃ?」

真田敦は、ゆっくりと頭を上げて、後ろに置いてある箱の中から、細かい細工の入った箱を取りだし安藤守就に献上した。

「ほう、これは珍品じゃの。

じゃが、そなたの目的は、この珍品の献上ではあるまい。

のう、真田敦殿。」

真田敦は、一瞬の間動揺したが、直ぐに冷静を取り戻す。

「安藤様、私はただの商人に御座います。

どなた様かと、勘違いをなされてるのでは無いでしょうか?」

「いや、真田殿であろう。

娘婿の半兵衛の言い残した言葉では、いずれ余の元に寝返りを説得する使者が参ろうと。

その使者は、十中八九は、真田殿であろうとな。」

さすがの真田敦と言えども、竹中半兵衛の智謀の前では、赤子同然であった。

「半兵衛殿に見破られたなら、観念致します。

某はたしかに、真田敦で御座います。

それで、某を殺害致しまするか?」

敵対している国の、武将が目の前にいるのだ。

すぐさま配下を呼び、討ち取るのは当たり前と言えよう。

「殺害などは致さぬ。

主君の斎藤龍興様の器量に、呆れ果てたのだ。

あれでは、美濃の国をいつまでも治められぬとな。

某は、今日より織田家に仕えようと思う。

その事を、真田殿に伝えるべく、ここに通したのだ。」

真田敦にしてみれば、棚からぼたもちの気分であったが、まだ安藤守就を信用した訳ではない。

織田家に差し出す人質も、武士の誓いになる誓詞も受け取っていないからだ。

「織田家に降るに、一つぐらいは手柄を土産にせねばな。

そうさな、氏家直元を織田家帰参の、手土産にしてみるか。」

「氏家直元殿を?」

「うむ、奴には日頃から書状のやり取りをしておるからな。

これを奴に見せれば、わしの言いたい事を理解するはずだ。

それと、稲葉宛の書状も手渡そう。」

真田敦は、安藤守就より2枚の書状を預かり、その足で氏家直元の居城である大垣城に向かった。



大垣城に到着した真田敦は、大手門を警護している門番に、安藤守就様からのお届け物を命令されたと言い、そのまま大垣城の中に入り大広間に通された。

しばらくして、城主の氏家直元が姿を表した。

「安藤からの使者だそうだな。

いったい、何を預かって来たのだ?」

真田敦は、安藤守就から預かった書状を、氏家直元の近くの床に置いて、そのまま後ろに下がった。

氏家直元は書状を拾い上げ、書状の内容を見てみるなり、直ぐにうなだれた。

「安藤の奴、織田家帰参を決め込んだようだか、と言うことは、そちは安藤家の家臣ではあるまい。

察するに、織田家の真田殿であろうか。」

「はっ、某は織田家家臣、真田敦で御座います。」

「やはり、真田殿か。

さてと、某も織田家に帰参するしか無さそうだな。

手土産だが、残りの一人である稲葉良道を、織田家に下らせるか。

奴は頑固者だが、我々二人が織田家に降ったと知れば、直ぐ様に判断を下すだろう。」

真田敦は、氏家直元から稲葉良道宛の書状を受け取り、稲葉山の城下町に戻り宿を取った。



翌日に、稲葉良道の居城である曽根城に向かった。

商人に変装した真田敦は、いつものように門番に袖の下を渡し、大広間に通された。

「氏家直元からの使者だと?」

「はい、氏家様より、書状を預かって参りました。」

真田敦は、2枚の書状を床に置き、後ろに下がった。

「ふん!

商人と言っておるが、そなたの正体は織田家の真田殿であろう。」

「やはり、ばれましたか。」

「見抜いておるわ。

その書状の内容も、おおよその検討は付いているわ!」

「さすが、稲葉様、すべてお見通しですか。」

「ふん。

こうなったら、わしも織田家に帰参するしかないな。

今から言うことを、織田信長様に伝えて欲しい。

信長様が出陣なされたら、我々美濃三人衆が稲葉山城を攻め落とすとな。」

「わかりました。

かならず、稲葉様の御言葉を信長様にお伝え致します。」

真田敦は、曽根城を急ぎ後にして、尾張に戻った。



そして小牧山城に滞在中の織田信長様に、稲葉良道の伝言を伝えた。

真田敦より伝言を聞いた織田信長は、速やかに尾張から兵を集めて、永禄7年(1564年)12月3日に、小牧山城を出陣した。

慌てて斎藤龍興も兵を集め出したが、予想出来ない出来事が起きたのだ。

美濃三人衆が、稲葉山城に突如攻め寄せたのだ。

兵も集まらぬうちに、味方から攻められたのだ。

ほどなくして稲葉山城は呆気なく陥落し、斎藤龍興は、僅かな兵に守られながら、長良川を船で長島城に向けて下っていった。

稲葉山城を攻め落とした美濃三人衆は、織田信長にこの事をすぐさま知らせた。

報告を聞いた織田信長は、稲葉山城に入城した。



織田信長は、真田敦のみを連れて稲葉山城の天守に向かった。

「美しい。

そう思わぬか、敦。

岳父斎藤道三の治めていた地、美濃制圧が半ば完了したな。」

「はっ、残るは東美濃だけで御座いまするが、柴田様に丹羽様が攻められておられますので、直ぐにでも落ちましょう。」

「来年には、伊勢を平定せねばならぬな。」

「上洛に備えて、側面から攻められては困りますからな。」

「それもあるが、早めに水軍も欲しいからな。」

「志摩に割拠している、九鬼水軍で御座いまするな。」

「尾張に美濃だけでは、上洛には兵力不足だな。

伊勢と南近江まで支配下に置き、上洛の準備をせねばならぬ。

そちには、まだまだ働いて貰うからな。」

「先ずは、北伊勢の神戸氏を降し、中伊勢に南伊勢まで一気に制圧しますか。」

「そうしたいが、問題は南伊勢の北畠氏だな。

先ずは、北伊勢と中伊勢を制圧し、のちに南伊勢に攻めかかるか。」

「そうですな。

一気に南伊勢まで制圧は、難しいかと。

我々の留守を、武田辺りに狙われても困りますからな。」

織田信長と真田敦は、次の戦略を考えていた。



永禄7年(1564年)12月25日、東美濃にある、岩村城が無欠開城をして、美濃の完全制圧が完了したのである。

そして、織田信長は名実共に、美濃の支配者になったのだ。



年が明けて永禄8年(1565年)には、織田信長による伊勢制圧も始まるのだが、東国の様子も変わり始めていた。

甲斐の武田家では、当主の武田信玄と嫡男の武田信義が真っ正面より激突。

激怒した武田信玄は、嫡男の義信を幽閉、更には切腹に追い込んだのだ。

武田家に暗雲が立ち込めたのだが、当主の武田信玄を始め、家臣達も気が付かなかった。



そして、真田家にもまた新しい命が産まれた。

次女の詩穂が誕生したのだ。

真田敦は、ことのほか次女の詩穂を可愛がるが、もちろん嫡男の源一郎や長女の茜にも、きちんと愛情を注ぐ事を忘れなかった。

のちに、三女涼、四女薫、五女未知、六女磨梨が産まれても、すべての子供達に愛情を注いでいた。

当時の常識では、女子は政略結婚の道具に過ぎなかったのに。

やはり、平成生まれの人間は、戦国時代の人間とは、考え方が違うのであろうか。

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