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真田公記  作者: 織田敦
7/33

清洲同盟 

3月に入り真田敦は、尾張から北伊勢に来ていた。

尾張から北伊勢に来たのは、北伊勢攻略中の滝川一益の援軍としてである。

約2000名の兵を率いて、金井城に滞在中の滝川一益の軍と合流をしていた。

「真田殿…援軍に来て頂き、助かりまする。」

上座に座る滝川一益は、真田敦に頭を下げて、援軍の礼に報い、その日の夜には宴会を開き、足軽逹の士気向上を狙っていた。

「滝川様…やはり最大の障害は、神戸家でしょうか?」

酒宴の最中、滝川一益の器にお酒を注ぎながら、さりげなく一益に聞いてみた。

「うむ、神戸家攻略が、北伊勢最大の難関であろう。

外から崩すか、内より崩すかはこれから決めようと思う。

まずは、他の国人衆を降す事から始めてみるか。」

滝川一益は簡単に言うが、北伊勢には48もの国人衆達がいるのだ。

最大勢力は神戸家になるのだが、それでも北伊勢制圧には時間がかかると思われた。

そこで真田敦は滝川一益に、国人衆達に使者を送り織田家に降るか降らないかを、確認してみましょうと提案をしてみた。

「駄目で元々ですな。

使者は何方を、送り込むおつもりですか?」

滝川一益にしてみても、大義名分無くして、北伊勢の国人衆達を攻撃はできない。

使者を厚遇するか追い返すかは、国人衆逹の反応を確める材料にもなる。

降伏をした国人衆を厚遇し、降伏をしなかった国人衆をとり潰して、直接支配の領地を増やせば良いだろうと考えていたからだ。

「某が参ろうかと、考えております。」

真田敦は、一呼吸置いてから滝川一益に返答をした。

「な、なんと。

真田殿自らが、使者になられると申されるか。」

思いもよらぬ返答を聞いた滝川一益は、驚きの声を小さく出していた。

だが、他に適任者がいないのも、現実問題でもあるのだ。

「真田殿、くれぐれも用心に用心を重ねて、お願い致します。」

滝川一益は、頭を下げていた。



「国人衆逹の反応は、意外と敵対心むき出しであったな。」

真田敦は酒宴の翌日から、10日程かけて、まだ制圧していない国人衆逹の館を回っていた。

織田家の使者と聞いただけで、門前払いで追い返した者。

とりあえず館に入れ、館の主と話し合いもせずに時間だけが経過し、館を後にした時もあった。

また、温かく向かい入れ話し合いの後で、降伏はしないが、誼は通じたいとささやかな贈り物をして来た者。

館に入れて貰い、話し合いをした後に、織田家に降伏をした国人衆も2家ほどあった。



そして、北伊勢最大勢力である神戸家に向けて、馬をゆっくりと歩かせていた。

一戦も交えずに、降伏をするとは思っていないが、無駄に争いを好むのも愚か者だと、真田敦は考えていた。

敵を知り自分を知れば、百戦危うからずの言葉を考えれば、無駄な血は流したくない。

戦国時代に生きている者達と、平成と言うある意味平和な時代に生きていた真田敦との考え方の差は、簡単には埋まらないのだろう。



あちらこちらの国人衆達の対応を見ながら、真田敦は神戸具盛の居城に到着した。

「ここが、神戸具盛の居城か。

とりあえず、近付いて名乗りをあげてやるか。」

真田敦は、神戸具盛をまったく評価していなかった。

南伊勢の北畠家であっても、たかだか名門の家柄と言うだけで、世の中を見渡そうとしていないだけで、評価の対象外に見ていたからだ。

戦国時代に必要な物は、生き残る為に武力や知力、判断力や時勢を見抜く目などが必要だと考える。

居城に数メートルの場所迄近付いた時に、大手門を守る見張りに声をかけられた。

「その方は、何方で何処から参った?

ここを、神戸下総守様の居城と知って、近付いておるのか?」

見張りの衛兵は、上から目線で真田敦に声をかけた。

もちろん真田敦は、平然な顔をしながら、衛兵に返答をした。

「某は、織田上総介様の使者にござる。

神戸下総守様に、お目通りを願いたい。」

織田家からの使者と知るも、横柄な態度は変わらず上の者に報告すると言い放ち、その衛兵は大手門より姿を消し、しばしの時が過ぎた時に、大手門が開かれ真田敦は、居城に入った。

(ふん、見張りの衛兵の上から目線…気に入らねえな。

どうせ神戸具盛は降伏しないだろうから、一思いに殺っまおうか。

いやいや…ここから生きて帰れる確率が、低くなるだけだな。

だが、あの見張りの衛兵だけはこの手で、始末してやる。)

神戸具盛が姿を表すまで、殺意満々の姿を見せる訳にはいかないために、深呼吸を深くしながら、気持ちを抑えていた。

その神戸具盛であるが、真田敦を一目見るなり、こんな感想を抱いた。

(あれが、織田上総介からの使者だと?

明らかに、格下を使者に寄越したものだな。)

「織田上総介様のご使者殿、まずは面を上げよ。」

少しでも威厳をみせようと、神戸具盛は使者に声をかけた。

「某は、織田上総介家臣、真田敦と申します。

織田上総介様からの、御言葉をお伝えに参りました。」

真田敦は頭を下げ、使者としての分を守りながら、言葉を発した。

「神戸下総守様、無駄な血を流す前に、織田上総介様に降伏をして貰えませぬか。」

「なに?

織田上総介殿に、降伏をせよだと?

馬鹿馬鹿しい…そちのような者に言われる筋合いは無いわ。

この土地が欲しいなら、力で奪ってみよ。

尾張のうつけに、出来る訳が無いからな。」

あからさまに、神戸具盛は真田敦を罵りながら、拒否の回答を出した。

真田敦もここまで言われても、素直に引き下がろうと思ったが、一言だけ言って下がろうと思った。

「神戸下総守様の御言葉を、確かに賜りました。最後に一言だけ、言わせて頂けないでしょうか?

一言だけ言わせて頂けましたら、退出を致します。」

真田敦は、頭を深々と下げて願い出ていた。

神戸具盛は、一瞬躊躇したが、退出すると口にした以上、一言ぐらいなら許してやると言いはなった。

「この真田敦、先の桶狭間の合戦において、今川治部大輔義元公を討ち取りました。

他の功績も合わせて、織田上総介様の妹君を嫁に迎えました。

神戸下総守様から見たら、下級武士に見えるかと思いますが。

この真田敦を敵に回したことを、後々後悔なされよ!」

逆に、神戸具盛ごときを相手にしていないと、はっきり言い放っていた。

そのまま真田敦は、部屋から早々と退出をしていた。

残された神戸具盛は、冷や汗を流していた。

(あの、今川治部大輔殿を討ち取っただと。

うつけと言えど、妹君を嫁に迎えましただと。

鬼か、もののけを、相手に回したと申すのか?)

神戸具盛は、織田家の攻撃が近いと見抜き、すぐさま家臣達に戦の準備をするように言い放った。

真田敦はそのまま金井城に戻り、滝川一益に交渉の結果を報告していた。

既に、戦の準備を終わらせていた滝川一益は、真田敦より報告を受け、すぐさま軍勢を率いて国人衆達を攻撃開始を始めた。

国人衆達は、まさかすぐに攻め寄せるとは思っていなかったのか、各地で連戦連敗を繰り返し、まるで台風が来たかのような勢いで、わずか10日足らずでほとんどの国人衆達の領地を制圧していった。

15日が経過した時には、神戸家以外の北伊勢を制圧していた。



金井城に滞在していた真田敦は、なんの前触れもなく滝川一益から、大広間に来るように呼ばれた。

どうやら信長様からの書状が届いた見たいであり、滝川一益は真田敦にその書状を渡した。

書状を渡された真田敦は、書状を広げて黙読を始めた。

そして、書状を黙読し終えた真田敦は、滝川一益に言葉を伝えた。

「ふむふむ、滝川様、しばらく北伊勢をお願いいたします。

某は、一度尾張に戻ります。」

書状の内容は、北伊勢はしばらく滝川一益に任せて、真田敦は尾張に戻るようにとの書状であった。

どうやら、美濃の斎藤義龍が重い病に倒れたとの報告が届いたのである。

美濃に攻めいる機会とにらみ、真田敦を必要としているからだ。

すぐさま真田敦は清洲城に戻り、滝川一益は金井城にて制圧した国人衆を監視していた。



北伊勢から尾張に戻った真田敦は、清洲城に登城して、久々に織田信長と会った。

「よく戻ったな真田。

あの憎き義龍めが、重い病に倒れたみたいでな。

今こそ、美濃に攻めいる機会と思いそちを呼び戻したのだ。」

真田敦は平伏しながら、信長の言葉を聞いていた。

そして、義龍の亡くなる日を思い出していた。

永録4年(1561年)5月17日に、斎藤義龍は他界するのだ。

「お館様、義龍は数日後に他界致します。」

「真田、お主の言葉は、毎回当たるからな。

予言の類いか、もしくは、未来を知ってるかのようだな。」

信長の言葉は、真田敦の心を惑わした。

だが、今は美濃制圧を考える事に専念に切り替えた。

「北伊勢から戻る時に、美濃の様子を調べてきたのです。

美濃には名医もいない事から推測するに、回復するのは不可能と思われます。」

あくまでも真田敦は、間者による情報を元に弾き出した答えと信長に伝えた。

信長は真田敦の言葉を信じた訳ではないが、数日なら差し支えは無いと判断をした。

合理化主義の信長ならではの、考え方と言っても差し支えは無かった。



そして、永録4年(1561年)5月17日、斎藤義龍は、病によりこの世を去った。

間者からの報告を受けた信長は、美濃に攻め込む為に清洲城を出陣した。

約1500名を率いて、濃尾国境沿いに兵を進めたが、美濃勢もこちらの様子を察したのか、約6000ほどの兵を率いて対峙をした。

「御館様からの、伝令に御座います。

先陣は真田に任せる、存分に暴れよとの御言葉に御座います。」

信長からの伝令を聞き、真田敦は迫り来る斉藤勢との開戦が切って落とされた。

「斉藤勢の弱虫供がどれだけ来ようが、全て蹴散らしてやれ。」

真田敦は自ら槍を振り回し、前線にいる足軽達を鼓舞しながら、確実に敵兵を倒して行った。

戦の後で知ったのだが、前田利家が参戦していたのだ。

信長の怒りをかい、出仕停止処分を受けていたのだ。

先の桶狭間の合戦にも、無断で参戦していたが、信長からの許しは出なかった。

その為に、今回も無断で参戦していたのだ。

「右翼の柴田様も、左翼の丹羽様も、頑張っておられるのだ!

今に斉藤勢など、蜘蛛のように逃げ出すわ!」

真田敦は大声をだし、斉藤勢の敵将を二人討ち取り、配下の足軽達を鼓舞しながら、まだ最前線で槍を振り回していた。

(さすがに、疲れが出てきたか、あと少しあと少しなのだ!)

状況は織田方に、かなり優勢な勢いを作り出していた。

やはり、武将を討ち取られている斉藤勢の方が、兵の数を生かしきれていないのもあるのだろう。

斉藤勢の本陣の近くで、戦局を見定めていた2人がいた。

「兄上、戦況はこちらが、不利見たいですね。」

弟らしき人物が、兄上と呼ぶ人物に言葉をかける。

「織田方の先陣武将、何と申したかな?

かの人物のせいで、こちら側は数を生かしきれていない。」

兄上と呼ばれた人物は、弟らしき人物に言葉を返す。

「六文銭の旗印、たしか真田敦とか申す武将とか。

駿河の大名である今川義元公を討ち取ったのも、真田敦殿と聞き及んでおります。」

「真田敦、一本槍な武将か、冷静沈着な武将なのか、それとも、両方を兼ね備えた知勇兼備の武将か。」

戦局を見ながら、男は黙っていた。

そう、今孔明こと、竹中半兵衛重治と、その弟の竹中重矩であった。



真田敦は肩で息をしながらも、最前線でまだ槍を振っていた。

(まだかよ、息も粗いし腕も疲れて来たしよ。

このまじゃ、やばいかもな。)

真田敦が弱気になり始めた時に、斎藤勢の方から鐘が突如鳴り始めた。

どうやら、退去を知らせる鐘のようで、一斉に斎藤勢が引き始めた。

もちろん、織田勢にしてみれば、追撃の絶好の機会である。

所々で斎藤勢は討たれていき、屍を多数晒す羽目になったのだ。

戦の決着が付いた後、織田本陣より勝鬨の声が上がり始めた。

両軍の被害を比べて見ても、織田勢は約200程だが、斎藤勢は約1200と、6倍近い損害を出していた。

討たれた兜首にしてみても織田勢は戦死者が無い対して、斎藤勢は約12個の兜首を晒していた。



戦後、斎藤勢の首実験を開始したのたが、数ある斎藤勢の首の中に、足立某の首があった事に驚嘆の声すら上がったのだ。

足立某の1人で、城1つに相当すると言われる程の剛の者だからだ。

その兜首を上げたのが、出仕停止を命じられていた前田利家なのだから、信長の心中は複雑であったのだが、この手柄を持って織田家に復帰する事を許可されたのだ。

「前田様、ようやく復帰出来ましたな。」

木下藤吉郎は、前田利家に近寄り話しかけた。

「藤吉郎、御館様を助けてくれたみたいだな。」

前田利家は、素直な感謝の気持ちを口に出していた。

「ところで、ねね殿は元気でおられるか?」

「亭主留守で、元気が言いと申しますからな。

まつ殿も、元気でおられますか?」

「うむ、まつも元気だ。」

真田敦は、遠くから2人の様子を見ていた。

元々、この2人は仲は良かったのだが、出仕停止を命じられてからも、藤吉郎は利家に援助を隠れながらしていたと言う。

清洲城に帰城してから、家臣達はそれぞれの館に戻っていた。



真田敦も、自分の館に帰っていた。

前回帰って来た時は、直ぐ様美濃に攻めた為に、殆ど館に滞在が出来なかった。

真田敦の帰りを出迎えた犬姫は、笑顔で真田敦の顔を見た。

笑顔で出迎えた犬姫を見て、真田敦は犬姫のお腹に目をやったのだが、犬姫のお腹の大きさに直ぐに気が付いた。

「お犬?

まさかそなた、私の子を身籠ったのか?」

「はい、お殿様の子を、身籠りました。」

真田敦は、その言葉を聞くなり、犬姫の手を優しく握っていた。

「大事な時に側にいてやれなくて、済まなかったな。」

「いえ、兄上の命で北伊勢に向かわれたのです。貴方様が謝る事では、ありませぬ。」

「元気な子を、いや、そなたの健康も大切にしなくてはな。」

真田敦はそう言うなり、犬姫を優しく抱き締めていた。



織田信長は7月にも美濃に攻め寄せたが、竹中半兵衛の伏兵により、手持ちの軍勢を打ち破られ、またもや返り討ちにあっていた。



その頃、真田敦は尾張の知多半島にある瀬戸にいた。

新しい瀬戸焼きのアイデアを、職人達を集めて相談していたのだ。

唐物と言われる茶器が、京の都で高値で取り引きされているのを聞き付けた織田信長が真田敦に瀬戸行きを命じたのだ。

今も昔も、瀬戸物は有名な焼き物である事には変わらないのだ。

それだけではなく、真田敦は奈良よりお酒を取り寄せていた。

この時代にはまだ無い清酒の開発を、本格的に始めてもいた。

商いによる財政再建を、考え出していたのだ。

兵農分離を進める為には、多くの銭が必要になるからだ。

真田敦の考える事は、なかなか尽きる事をさせてはくれなかった。



永禄4年(1561年)8月、東国と西国で3つの出来事が起きて、尾張にも1つの出来事があった。

西国に目をやれば、北近江を支配している浅井久政が、あっけなく病で亡くなった。

とっくに浅井家の家督は嫡男の浅井長政が継いでいたが、隠居をしても家中に意見を述べ、長政を始め家臣達をも困らせていた事には変わりがなかった。

だが、浅井久政の死はこれからの歴史に大きな影響がある事を、織田信長はもちろん、真田敦ですら知るよしもなかった。



東国に目をやれば、北信濃の川中島にて、武田信玄とのちの上杉謙信が争っていた。

約1ヶ月に渡り、川中島を挟んで睨み合いを続けていたが、思わぬ遭遇戦になってしまい、両軍に多大な損害を出したと情報が来ていた。



尾張国内にて、真田敦の嫡男が誕生したのである。

真田敦と犬姫は、嫡男誕生を心から喜び、信長も真田敦の嫡男誕生を知り、元服のおりには信の字を授けるとまで言ってきた程である。

のちの、真田源一郎政長の、誕生の瞬間でもあった。



清洲城に登城した真田敦は、大広間にいた織田信長様に、あるお願いを申し出ていた。

「信長様、某を北近江の浅井家に行かせて貰えませぬか。」

「敦…、行くのは構わぬが、北近江に行く理由を述べてみよ。」

「北近江を支配している、浅井家先代の久政殿が亡くなられたとか。

弔問の使者として北近江に向かい、領内の様子や家臣達の顔触れを見ておきたいと思います。

更には上洛を見据え、今の内に同盟締結の足掛かりになればと思いましたが故に。」

真田敦は、浅井久政の死去を聞いてから、ある考えに至り、その事を主君の織田信長に伝えた。

「同盟締結か。

だが、織田家と浅井家には、繋がりが無いが故に簡単には行かぬだろうな。

そちには、良い案があるのか?」

「御恐れながら、信長様の妹であります市姫様を嫁に出されては如何かと。」

その言葉を聞くなり、信長は暫しの間考え事をしていた。

後々の上洛を考えれば、北近江の浅井家との同盟締結は、悪くない案であると信長は考えていた。

だが、三河の松平家との同盟締結すら、未だになっていないのだ。

同盟締結の下地交渉ならば悪くは無いと思い、真田敦を北近江に行く事を許可したのだ。



真田敦は三河に向かった時と同じく、また商人に変装して北近江の小谷城を目指していた。

「ここが横山城であると、あの山城が小谷城

になるのだろうな。」

そして小谷城の大手門に近付いた時に、北伊勢の時と同じように門番に止められた。

「その方は、何者であるか?」

「某は尾張の織田家に仕える、真田敦と申します。

織田家代表の弔問の使者として、こちらに参りました。」

真田敦は堂々と、浅井家の門番に要件を伝えると、門番は上の者に伝える為に、しばし待たれよと言い放つと、そのまま門の中に消えて行き、しばらくしてから上役が現れて、麓にある寺の一室に案内された。

弔問の使者として浅井家に来たが、元々織田家と浅井家には直接的な繋がりはない。

間者と疑われても、当たり前の時代なのだが、織田信長の花押入りの書状を取り出して、ようやく疑いを晴らすに至ったのだ。

上役は書状を手に取り、更に上役に伝えると言い放ち、更に時間の経過を待たざるを得なかった。



しばらくして、1人の武将が姿を表した。

「某、浅井家臣遠藤直経と申します。」

丁寧な挨拶だが、どことなく僅かながら疑いの目をしていたのを、真田敦は見逃さなかった。

だが真田敦は、それに気が付かない振りをした。

あくまでも弔問の使者として、浅井家に来ているのだ。

「某は、織田家臣真田敦と申します。

この度は、誠に御愁傷様でございました。

乱世と言えど、病にて亡くなったとは言えど、天命を全うなされたかと思われます。」

やはり平成の生まれの為か、言葉使いも戦国の世に合わない言葉だった。

「いえ、やはり武将たるもの、戦場で死ぬのが本望かと。

しかし、浅井家と織田家とはこれまで関わりはありませんでしたが?

突然の弔問の御使者の来訪、本当の狙いは何でございまするか?」

やはり、数ある浅井家の家臣団の中でも、一番警戒しなくてはならない人物であった。

真田敦は一瞬考えたが、同盟締結の話しは主君の浅井長政本人に伝えようと考えた。

「たしかに、これまで直接的な関わりは御座いませんでした。

我が主君である織田上総介様は、浅井備前守様の武勇を聞き付け、素晴らしい御仁だと常に言っておりました。」

浅井長政は、初陣にて南近江を支配していて、更に戦上手と言われていた六角義賢を撃退しているのだ。

真実を言葉にしているのだから、疑い深い遠藤直経といえども言葉を失うしか無かった。

「御使者殿、そろそろ来訪の真の狙いを話して頂けないでしょうか?」

遠藤直経の座っていた後ろの襖がそっと開き、1人の武将が姿を表すと、遠藤直経が慌て出した。

「備前守様、なぜこの場所にお姿を?

他国の使者の対応は、某が対応致しまする。」

先程の声の主は、浅井備前守長政であろう。

真田敦は備前守と聞き付け、この御仁が浅井備前守長政本人であると気が付き、慌て挨拶をしようとした時に、浅井長政は上座に座り先に言葉を発していた。

「お初にお目にかかる。

某は、浅井備前守長政と申す。

たしか、尾張の織田家臣とお聞きいたしたが?」

「こちらこそ、お初にお目にかかりまする。

尾張の織田家が家臣、真田敦と申します。

御高名な浅井備前守様に御目にかかれて、恐悦至極にございまする。」

真田敦は、頭を最大限に下げて挨拶をした。

「真田殿、この度は我が亡き父上の弔問の御使者として、この地に参られたとか。

織田上総守殿の、真の狙いを話して頂けるかな。」

真田敦は、ゆっくりと言葉を選びながら、口を開き出した。

「お恐れながら、浅井備前守様にお伝え致します。

我が主君である、織田上総介様は浅井備前守様との同盟締結を望んでおられまする。」

織田信長にしてみれば、美濃制圧の最中に北近江を支配している浅井家に、美濃制圧の邪魔をされたく無いのだ。

美濃制圧後には、上洛も視野に入れている織田信長ならではの、外交とも言えなくもない。

「ふむ、同盟締結でこざるか。」

浅井備前守長政は、思いもよらぬ言葉を聞き、少し考え事を始めた。

案の定、その言葉を聞いた遠藤直経が、声を高々に上げた。

「同盟締結、弔問の使者が何を言い出すのか!

亡き大殿の事を、なんだと思ってるのか!」

遠藤直経は真田敦に、食って掛かった。

それはそうだろう。

自分達、浅井家臣一同が結託して隠居に追い込んだ先代と言えど、家臣としては言わずにいられなかった。

「遠藤、止さぬか!

余が使者に促して聞いた事であるぞ。」

浅井長政は、遠藤直経に反省を促した。

「いえ、某もとんでもない事を述べてしまいました。」

真田敦は頭を深々と下げて、2人に謝罪を述べた。

「真田殿、同盟締結の話しは、此方からも使者を出して、今後に話し合いを持とうかと思うが、よろしいかな?」

「はい、それで構いませぬ。

今日の無礼、なんとお詫びすればよいか。」

「当方は気にせぬゆえに、御自分を追い詰めぬように。」

真田敦は、浅井長政の態度と、使者に対する対応を見て、改めて浅井備前守長政の器量の広さと、家臣の使いこなしを評価したのだ。

いずれ織田信長の、懐刀になれるのではと考えていた。

左腕になるのは羽柴秀吉、右腕は徳川家康と考えていた。

真田敦は、弔問を何事もなく済ませ、尾張に向けて帰国をした。

のち、浅井長政と遠藤直経はそのまま二人で話し合いをしていた。

「真田敦、ある意味変わった御仁であったな。」

「はい、今川治部大輔殿を、桶狭間山にて討ち取った御仁でございましたからな。」

「弁も立つ上に、容姿端麗、色彩兼備、文武両道と言う所か。」

「織田上総介殿からの同盟締結のお話し。

如何なされますか?」

「とりあえず、此方からも使者を出してみて考えてみるか。」

浅井備前守長政は、ある意味織田上総介信長を尊敬していた節が見られる。

長政の長の字は、信長の長の字を取ったとも言われていたからだ。

この会見より数年後に、お市の方が浅井長政の元に輿入れがなり、織田家と浅井家は親戚関係となるのだが、まだ先の話であることには違いが無かった。



真田敦は、北近江から美濃と尾張の国境ぎりぎりの山道を通り、無事に清洲城に帰城をはたし、織田信長の御前に姿を見せた。

織田信長以外には、また誰もいなかった。

「信長様、只今北近江から戻りました。」

真田敦が頭を下げて言葉を述べた。

「して、北近江の浅井家の反応はどうであった?」

織田信長の言葉は、結果を早く述べよと言いたげである。

「はっ、我が織田家との同盟締結は、かなり気乗りの御様子で御座いました。

亡き先代である浅井下野守様の喪が明けてから、此方に使者を送るとの返事を頂きました。」

「で、あるか。

昨日、三河の竹千代から使者が来てな。

年が明けたら竹千代自らが、この清洲城に参るとの言付けをしに来た。」

「では、織田家と松平家との同盟締結の話が、決まったので御座いますか?」

「そうだ、のう敦。

竹千代との同盟締結後に、本拠地を北の小牧山に移そうかと思う。

だが、配下の連中が不満を隠そうとしないだろう。

何か、よき案は無いか?」

真田敦は、少し考える振りをしながらも、御館様に返答をした。

「小牧山より更に北にある、二ノ宮山に本拠地を移されては如何かと。」

「二ノ宮山か、あんな場所に移転を言い出したら、猛反発をするだろう。

だが、のちに小牧山に移転を言い出したら、素直に従うやも知れぬな。」

信長は顎に手を当てながら、真田敦の返答に満足していた。

「小牧山城の築城は、丹羽長秀に任せればよいか。」

「丹羽様であれば、間違いなく築城なされるかと。」

「ところで、美濃三人衆への工作は、どうなっておる?」

「はっ。

書状は送っておりますが、明確な返答はまだでございます。

おそらくは、尾張方の実力を認めておらぬか、主君の龍興をまだ守り抜くつもりかの、どちらかと思われますが。」

「そちは、前に申したな。

美濃の稲葉山城は、外からは落ちませぬ。

内から落とすべきと。」

「美濃三人衆を織田方に付ければ、稲葉山城制圧はなったも同然ですが。

美濃方を、驚かすような事を成し遂げれば、寝返るやも知れませぬが。」

真田敦は、意味深な言葉を口にしたが、信長はあえて気が付かない振りをした。



年は明けて、永禄5年(1562年)1月15日、清洲城に来客があった。

そう、三河の松平元康が、のちに清洲同盟と言われる同盟を締結に来たのだ。

「三河守様、路はるばる清洲までお越しいただき、恐悦至極にございます。」

「これは、真田殿。

貴殿が出迎えとは、織田殿は手抜かりはござらぬな。」

桶狭間の合戦後に、松平元康と真田敦の2人は三河で同盟の話し合いをしており、また時折三河に使者としても、何度か出向いていたのだ。

松平元康は、真田敦の案内に従いながら、信長のいる大広間に通された。

「よく参られた、竹千代。」

相変わらず信長の態度は、幼き頃の竹千代に対する態度と変わらなかった。

真田敦は、顔を隠しながら苦笑をしており、松平元康は笑顔で返事を返した。

「信長様、竹千代はお止めくだされ。

今は、松平三河守元康でございまするから。」

「分かっておるわ。

今日清洲に参られたのは、同盟締結の申し出を受けると考えて良いのだな?」

相変わらずせっかちな、織田信長であった。

「はい。

松平三河守元康、慎んで織田殿と、同盟締結を致しまする。」

松平元康は頭を深々と下げ、ゆっくりと顔を上げた。



この後の同盟締結の儀式のやり取りを簡単に書くならば、織田信長と松平元康は、相互に助け合う事を偽らないと書かれた公式文章を取り交わし、牛と書かれた誓詞を三等分に切り分け、織田信長、松平元康、真田敦の三人で、酒を入れた器に三等分に切り分けた誓詞を浸し、信長は元々お酒は飲めないのだが、時間を掛けて飲み干し、元康は三度程で飲み干し、真田敦も酒に強くないせいか、ゆっくりとお酒を飲み干した。

これにより、正式に清洲同盟は締結をされたのだ。



会食の準備が整うまでの間、3人は大広間から外に出て、織田信長と松平元康の思い出の地に足を向けていた。

「信長殿、実は某は、名を変えようかと思いまして。」

「名を変える?

なんと変えるつもりなのだ?」

「徳川家康。

元康の元の字は、故今川治部大輔殿の字でございまする。」

元の字を捨てると言う事は、今川家と手を切り、織田家と共に歩む事の決意でもあった。

「徳川家康、よい名ではないか。」

織田信長は、握り飯を口に入れながら、終始笑顔を絶さなかった。

(徳川氏を名乗るか。

最初は藤原氏を名乗り、今回は源氏に変える。

たしか、新田氏の庶子か何かが、それに近い名を名乗っていたが。

正式に徳川家康を名乗れるのは、勅許を頂いた後、たしか永禄10年だったか?

勅許を頂く前の現在は、松平家康が正式な名前であろう。)

真田敦は、徳川家康の歴史を思い出しながら、考え事をしていた。

「竹千代、いや家康殿。

我が長女の五徳と、家康殿の嫡男の竹千代を婚約させてはどうか?

両家の結び付きを更に強固な物にするに、必要かと思うが。」

「ありがたきお話しですが、嫡男の竹千代はまだ駿府に人質として住んでおります。

駿府より取り戻し、のちに婚約であれば承諾致します。」

真田敦は、竹で作られた水筒の水を飲みながら、2人の様子を見ていた。

史実において、お互いに多大な損害が出ようとも、清洲同盟が信長公の死去まで解消されなかったのを、真田敦はある意味納得していた。

「御館様、三河守様、そろそろ清洲城に御戻りになられませぬと。

会食の刻限が、刻々と迫っております。」

真田敦は、もう会食の刻限が近いが故に、勇気を出して2人に声を掛けた。

「仕方ない、竹千代戻るか。」

「信長様、また竹千代と。」

二人の素顔を僅かながら垣間見た感触を覚えながらも、三人は清洲城に戻った。

清洲城の大広間にて会食が始まり、酒井忠次や本多忠勝等の家臣達と、柴田勝家に丹羽長秀といった、家臣達の賑わう姿が伺えた。

真田敦は、家臣としての位が低い為に下座に座っていた。

料理を食べながらも、周りの気配を感じながらも、神経を尖らしていたのだ。

会食も無事に終え、松平家康を始め三河家臣団は三河へと帰って行った。



清洲同盟締結後に、信長は二ノ宮山に本拠地を移すと、家臣達に言い渡した。

美濃を攻めるには、清洲城からでは遠すぎるからだ。

だが、真田敦の読みの通り、家臣達の不満が家中に広まっていた。

頃合いを見て信長は、小牧山に本拠地を移すと言い出すと、家臣達は不満を言わずに従い出した。

織田信長は、小牧山に城を築城する為に、築城に明るい丹羽長秀に普請奉行を命じた。



織田松平両家が結んだ清洲同盟は、周りの国々に少なからず影響を与えていた。



駿河の今川氏を見てみれば、永禄5年3月、駿河の駿府にて、三河衆の人質を皆殺しにしていた。

ただ、松平家康の嫡男の竹千代や正室の瀬名姫は、利用価値があったせいか生き延びていた。

後に松平家康は、人質交換の交渉により築山御寮人と嫡男の竹千代を取り戻していた。



甲斐の武田氏は、当主の信玄と嫡男義信の間に、亀裂が始まっていた。

武田信玄は、今川義元亡き後、遂に駿河侵攻を正式に打ち出したのだ。

嫡男の義信にしてみれば、到底納得出来ない話である。

今川氏真を助け、三国同盟の維持を言い放っていたからだ。

のちに、武田家に暗雲が立ち込める事になるのだが、その事は真田敦以外は知るよしも無かった。



相模の北条氏康にしてみれば、関東統一の夢を諦め切れない為か、武田信玄が駿河に侵攻するなら、同盟破棄をすると武田信玄に通告まで始めた。



越後の上杉謙信は、鎌倉にある鶴岡八幡宮で儀式を執り行い、正式に関東菅領になった後、関東出兵や北信濃の様子を伺うなど、己の信じる正義の為か、自らを毘沙門天の生まれ変わりと言い出し、足軽達の訓練に余念が無かった。



清洲同盟後、真田敦は丹羽長秀と共に、小牧山城築城に取り掛かっていた。

その間、織田信長は美濃に出兵しては叩き出され、また出兵しては叩き出されを繰り返していた。

農繁期などを、気にせずに美濃に出兵する為に、斎藤氏にしてみれば厄介極まりなかった。

だんだんと、言う事を聞かなくなる国人衆も出始め、徐々に真田敦の筋書き通りに進んでいた。

あとは、竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取りと、墨俣の一夜城築城の時期を待つだけになっていた。

もちろん、功労多き臣は天下布武後に、狡兎死して走狗煮らるの言葉も有るように、いずれ誅殺対象になりかねない。

天下布武後には、世界に打って出る信長様は、その様な考え方はしないと心のどこかでは信じていた。



小牧山城建築場に足を運んだ時に、思いがけない使者が訪れた。

「真田様。

お犬御寮人様から、書状が来ておりますが。」

「ご苦労である。

下がってゆっくりと休むがよい。

そうだな、一杯だけならお酒を飲んでも良いぞ。

まぁ、周りに見つからぬようにな。」

真田敦は、周りに聞こえないように小声で、使者の耳元で囁いた。

使者は本当ですか?と言いたげな顔になり、喜びながら真田敦の前から姿を消した。

真田敦は、お犬からの書状に目をやりながら、しだいに顔が緩み出していた。

そう、長女の誕生を知らせる書状であったのだ。

だが、小牧山城築城の最中に、勝手に持ち場を離れる訳には行かない。

今すぐにでも長女の顔を見に行きたいのだが、ぐっと手を握り締めて我慢をして、お犬宛の書状を書き始めた。

「あと、2ヶ月もすれば、清洲の館に戻れそうだ。

源一郎も父親に会えず寂しいだろうが、もう少しの辛抱だ。

それから、長女の名は茜にしようと思う。

早く茜を抱いてみたいが、お犬も身体を休めていて欲しい、お犬の身体も心配だからな。」

簡単に書けば、内容はこんな感じである。

ある意味、親馬鹿と言われるのも、仕方ないと思われる。

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