織田信長の次の野望
桶狭間の合戦より、約2ヶ月あまりが過ぎようとしたいた。
今川義元の討死の報は、瞬く間に日ノ本全土に伝わっていた。
今川義元を打ち破った織田信長の名前も、同時に伝わる事になってもいた。
織田信長の次の目的は、隣国である美濃制圧である。
息子である斎藤義龍の謀反により、岳父斎藤道三は討ち死にをしてしまい、後を継いだ斎藤義龍とは険悪な関係が続いていたからだ。
もちろん古来より、美濃を制圧する者は天下を征すと言われているほど、交通の便や戦略的観点から見ても、必要不可欠な土地と言えよう。
だが、尾張の隣国を見てみれば、北伊勢には数多くの土豪達が乱立しており、三河の松平元康とも、友好関係にあるとは言えない。
下手をすれば、北近江を支配する浅井長政か、もしくは甲斐信濃を支配する武田信玄が美濃に侵攻してくる可能性も、まったく否定出来ない状況にあるとも言える。
そこで、織田信長は真田敦を清洲城に呼び、良い案があるかどうかを聞くことにしたのだ。
「敦…ようやく来たか。
今日そちを呼んだのは、他でもない。
尾張を取り巻く状況の打破と、そちの考えを聞きたい。」
もちろん真田敦は、ある程度の質問を予測していたためか、一呼吸置いてから信長に回答をしていた。
「まず、北伊勢でございますが、美濃攻めの最中に後方を騒がれても困りますが故に、早めに制圧をする事が必要と思います。
次に三河でございますが、松平元康殿の考えを読みますれば、今川より独立を果たし、三河統一に乗り出すことは明らかでございます。
こちらから使者を出して、良くて同盟締結、悪くとも相互不可侵条約を取り付ける事かと申し上げます。
北近江の浅井長政は、それほど脅威とは感じられません。
南近江を支配する、六角氏とは犬猿の中でございまするが故に、こちらの味方に引き入れるべきかと。
甲斐の武田信玄は、越後の上杉謙信と幾度も刃を交えてますので、すぐさま美濃制圧に来るとは考え難いかと思います。」
何の迷いもなく、すらすらと自分の考えを信長に回答していた。
信長は顎に手を当てながら、真田敦の言葉を聞いていた。
ある程度までは、自分の考えと同じであるとゆう事を、心の中で感心していた。
「ふむ、では敦。
まず北伊勢制圧には、誰を派遣すれば良いと思う?」
信長の頭の中には、ある武将が浮かんでいたが、敦の考え方を試す意味でも、聞いてみたのだ。
「お恐れながら、滝川一益殿を派遣されるがよろしいかと思われます。
滝川様は、甲賀の出と聞き及んでおりますが、故に隣国の地形にも詳しいかと。」
信長は敦の言葉を黙って聞いていたが、手に持っていた扇子をたたみ、満足そうな顔をしていた。
実は少し前に、滝川一益より北伊勢制圧のお願いをされていたからだ。
織田信長は、真田敦の回答に満足したのかは分からないが、北伊勢の事を早々に切り上げ、次に三河の事に話題を変えた。
「では、三河の松平元康はどうする?
こちらからの使者の対応しだいでは、生きて帰れぬ事もあるからな。」
真田敦は、しばらく考え事をしていたが、意を決したのか言葉を発していた。
「お恐れながら、松平元康殿の使者には…某が参りたいと思います。」
「そちが、三河の元康の所にまいるだと?」
意外とも言える答えを聞いた信長は、扇子で手を叩きながら考えていた。
(義元を討ち果たした真田敦が使者になれば、三河衆の感情もどうなるか?
今川衆に虐げられていた分、同盟締結に乗り気になる可能性も、あるやも知れぬ。
だが、さすがに今すぐにとはいかぬだろう……駿府には元康を始め、配下の者達の人質もいるやも知れぬ。
とりあえずは、同盟締結の下地交渉で構わぬか。)
信長は決断を下すと、真田敦に使者として三河に向かうように命じていた。
真田敦は、素早く頭を下げ信長の元から、姿を消していた。
清洲城から一度自宅に帰宅して、商人の着物や商売用の品物を用意し、次の日には三河の岡崎城に向けて歩き出していた。
一方信長の方は、秋の収穫を待ってから、美濃攻めの兵を集め、北伊勢には滝川一益を派遣する兵を集めるべく、出兵準備を整え始めていた。
「ここが岡崎城の城下町か。
清洲の城下町と比べたら、殺風景としか言えないな。」
尾張から三河に向かって歩いている時から、真田敦は領内の治安の変わり方を感じていた。
信長様の治める尾張は、人々の活気を感じられるのだが、三河の人々からには活気を感じられなかった。
約十年近くも今川の支配下にあった為に、おそらく重い税を強いられたのではなかろうか?
市場で品物を売り、帰りの旅費を稼いでから、松平家の菩提寺に足を向けていた。
さすがに、岡崎城にいきなり向かって、松平元康様に面会を申しても、断られるに決まっている。
ならば、菩提寺の住職様にお願いをして、信長様からの手紙を、松平元康殿に届けて貰おうと考えたのだ。
住職様に訳を話し、しばしの宿と手紙を届けて欲しいと申したら、快く承諾をしてくれたのだ。
しばし寺で待っていたら、明日のお昼に菩提寺にて面会をするとの言伝てを住職様から言われたのだ。
次の日の昼頃、城主である松平元康と、重臣の酒井忠次が寺に参り、真田敦と初めての面会が始まっていた。
「お初にお目にかかる。
某は織田家家臣、真田敦と申します。」
下座に座り深々と頭を下げて、元康からの返事を待っていた。
「遠路はるばる、よく三河まで来なさったな。
某は、岡崎城城主松平元康である。
隣に控えるは、家臣の酒井忠次である。
真田殿とやら、先ずは面を上げて貰いたい。」
そこまで言われてから、真田敦はゆっくりと面を上げていながらも、元康と忠次の表情を観察していた。
松平元康は表情を変えなかったが、酒井忠次はすぐに言葉を発していた。
「織田殿からの書状に目を通したが、織田殿は勘違いをされてなかろうか?」
「勘違い、と申されますと?」
真田敦は、書状の内容を知らされていなかったのたが、ある程度の内容は分かっているのだ。
「その方は、書状の内容を知らぬと見える。
今川から独立をし、織田家と同盟を結べなど。」
酒井忠次は、怒りを込めて言葉を出す。
「別に、今すぐに同盟やら手切れとは言いませぬ。
しかし、治部大輔義元殿の亡き後、後継者である今川氏真殿に、領内を保てましょうか?
甲斐の虎辺りが、駿河侵攻を企てるのが見えていますが。」
真田敦は返答に付け加えて、史実に記されている歴史を知っているだけに、甲斐の虎こと武田信玄の野望を口にしていた。
「治部大輔殿亡き後は、駿相甲の三国同盟も壊れたも同然かと。
松平元康様が、駿府より人質を取り返し、三河一国を統一なされてから同盟締結でも構いませぬ。」
真田敦の次の言葉に、松平元康は無言を貫いていたが、酒井忠次はそうでも無かった。
松平元康と酒井忠次の二人は、武田信玄の野望を忍びからの報告を受けていたからであろうか。
「もしも、信長殿と同盟締結になれば、どのような条件を取り交わす事になるのか?」
松平元康は、真田敦の顔を見ながら言葉を発していた。
真田敦は、しばし考えていた。
もちろん、事前に信長様と相談をしていたのだが、直ぐに答えてはかえって足元を見られると考えたのだ。
「信長様は、西国に興味がありますが、東国には興味はありませぬ。
西に向かい、東国は松平様に任せたいと申されました。
それから、松平様の嫡男の竹千代様と信長様の長女の五徳姫の、縁談を話しておられました。」
松平元康は、真田敦よりの返答を聞き、しばし考えていた。
少なくとも、尾張の信長殿と同盟を結べば、後方を気にせずに三河統一から、遠江に侵攻も期待出来る上に、今川領を制圧した後に武田や北条から攻められても、信長殿からの援軍も期待が出来るのだ。
(悪くは無いが、しばしは様子を見なくてはな。
とりあえずは、尾三不可侵だけでも取り付ければ良いか。)
松平元康は意を決したのか、真田敦に言葉をかける。
「信長殿と同盟を結ぶ時期が未だに悪いので、当座の間は尾三不可侵で宜しいかな?」
これを聞いた真田敦は、内心安堵をしていた。
「それでようございます。」
真田敦は素直に返答をする。
「済まぬが、最後に一つだけ聞きたいことがある。
治部大輔殿を討ち取ったのは、何方であろうか?」
真田敦は、素直に答えなければならぬだろうと思い、言葉を返していた。
「今川治部大輔義元殿を討ち取ったのは、某にございます。」
真田敦は深々と頭を下げ、松平元康、酒井忠次、真田敦の会談は無事に終了をした。
真田敦は尾張に向け出発をして行き、後に残った松平元康と酒井忠次は、そのまま寺に残っていた。
「のう忠次、あの真田とかもうす者、只者ではなかろう。」
「はい、元康様。
治部大輔殿を討ち取った運もございましょうが、どうも得体の知れぬ者でございましたな。」
元康と忠次の会話はある意味、的確な的を射ていた。
真田敦は平成の世から来た人物であり、戦国時代の歴史をある程度知っていたからだ。
後に、真田敦の鬼才を目の当たりにするのだが、まだ数年後になる事を、二人はまだ知らなかった。
最初から、同盟締結は難しい為に、不可侵だけでも取り付ければ良かったのだ。
信長様も、その約束だけでも良いと言っていたからだ。
真田敦は、尾張に戻る最中に、今回の外交の成功に、胸を撫で下ろしていた。
三河から戻った真田敦は、身体を清めてから清洲城に向かい、大広間で待っていた織田信長と会った。
「信長様、只今三河より帰国致しました。」
真田敦は清洲城に上がり、外交の結果を信長に伝えていた。
「なるほど、尾三相互不可侵の誓紙一枚だけとはな。
まぁ今回は、それぐらいで良かろう。
ところで敦、新しい事を考えていたのだが、そちの考えを聞きたい。
足軽と農民の隔てを、無くそうと思うのだ。
いつまでも、農民達を足軽にしていたら、戦を好きな時に起こせぬ。」
信長の言いたいことは、後に言う兵農分離である。
戦国時代には、農繁期を避けて戦をしなければ無かった。
農繁期に戦をしていたら、田畑の世話が疎かになり、秋の収穫が凶作になりかねない。
東北や北陸、更に山陰地方で言えば、雪が大敵になるのである。
その地方では、戦は雪解けまで中止になり、春頃に改めて戦の仕切り直しと言う事もある。
織田信長は、今思い出したかのように、真田敦に言葉を出す。
「そう言えば敦には、まだ褒美を与えていなかったな。」
桶狭間山での合戦以降、鳴海城と義元の首一つで交換をしたりと外交を行ったり、尾張国内には色々と課題が山積していたからだ。
「今日より真田敦を侍大将にすると共に、嫁をめとれ。
嫁は、余の妹の犬じゃ。」
真田敦は、織田信長の言葉を聞き、とっさには言葉を出せずにいた。
侍大将に昇進するのは、褒美としては不足は無いが、まさか犬姫を嫁に貰うとは、予想外であった。
「の、信長様、いくらなんでも犬姫様を嫁に貰うのは、周りの家臣の要らぬ反発を引き起こすかと思われますが。」
真田敦は平伏をしながら、信長様の考え直しを申し出ていた。
いくら、桶狭間山の戦いで今川義元を討ち取り、三河の松平元康との、相互不可侵の誓紙を持って帰ってきても、周りの家臣達は納得しないだろう。
だが、織田信長は真田敦の言葉を抑えるように次の言葉を出した。
「市をそちの嫁に出せば、猛反発も出よう。
だが犬であれば、そちと年も近いからな。
余は、そちの才能が必要と思ったからだけだ。」
真田敦は、そこまで言われては黙るしか無かった。
だが、信長の連枝衆になれば、家臣団の中でも発言力も強くなる上に、今後の織田家を守る事にも繋がると思い直した。
「承知致しました。
真田敦、喜んで犬姫様を嫁に頂きます。」
再び深々と平伏をした真田敦は、信長に言葉を返していた。
その返事に信長は大層納得しており、真田敦と犬姫が住むための新しい屋敷を造らねばならない。
信長はすぐさま小姓を呼び、御用商人を呼ぶように命じた。
御用商人が来ると、新しい屋敷の建造に必要な物を早急に手配するように伝えると、御用商人は織田信長様の前から失礼をして、急いで店に戻って行った。
そして織田家で祝宴が開かれようとしていた頃、東国の甲斐ではある問題点が上がっていた。
武田信玄と嫡男の義信の間に、すきま風が徐々に吹き荒れていたのだ。
今川義元亡き後の、今川領の事についてだった。
武田信玄は、駿河と遠江の併合を密かに計画していたが、嫡男の義信は氏真を助ける事を考えていた。
未だにお互いの考え方は表には出していないが、川中島の合戦以降にお互いの考え方の違いが表面に出て、武田家に不吉な雲行きが吹き荒れるのだが、まだ来年の事である。
もちろん真田敦は、それを知っている以上、武田家の駿河侵攻を遅らせる策略を、着々と考え出していたのだが、信長様にすら内緒にしていた。
美濃に攻め込んだ織田信長の軍勢は、斎藤義龍の軍勢に対して、連戦連敗をしていた。
当時の尾張兵は、日の本最弱と言われており、対する美濃兵は強兵と言われていた。
これは、それぞれの国の特徴を表していたのかも知れなかった。
その為に、兵農分離による今で言うところの傭兵のシステム、鉄砲の大量配備や敵よりも長い槍など、戦い方の工夫を凝らしていた。
尾張兵は一年中戦えるのに対し、美濃兵はほとんどが農民の為か農繁期には兵が集めにくく、次第に士気の低下に繋がるのだが、今はそれに気が付く事が出来なかったのだ。
更に美濃を治めていた斎藤義龍の身体にも病魔と言う魔物が、静かに斎藤義龍に対して襲い始めていた。
同じ頃、清洲城にて再び軍議が始まっていた。
(まぁ、まだ気は早いか
まだ、11月だからな。)
真田敦は、清洲城の美濃攻めの軍議の席にいた。
「誰か、今後の美濃攻めに、意見のあるものは述べてみよ。」
織田信長は、口を開き意見を聞き始めた。
「某の意見は、力攻めを取るべきと思われます。」
発言の主は、織田家随一の猛将である柴田勝家である。
「それはどうかと。
力攻めだけでは、損害が大きいかと。
稲葉山城は堅城であるし、別の方法を考えるべきかと。」
慎重論を唱えたのは、堅実な性格の丹羽長秀である。
大筋で言えば、この二つの意見を支持する議論が起きていた。
信長はしばらく黙っていたが、一言も発言をしない真田敦に目をやり、発言を促した。
「おおそれながら、先ずは清洲城より本拠地を北に動かすべきと思われます。
清洲より美濃を攻めるには時間が掛かりすぎ、美濃方に防御の時間を与えると思われます。」
本拠地を動かす。
この発想はまだ戦国時代には無かったが、一人だけ考えていた人物がいた。
誰知ろう、織田信長その人である。
「お主は、何を馬鹿な事を言うのだ。
この清洲から、北に本拠地を動かすなど。」
柴田勝家を始め、多くの家臣達は一斉に真田敦を非難し始めた。
それはそうだろう。
尾張の国府として、約150年も栄えてきた城下町なのだ。
今さら、他の場所に本拠地を動かしたら、不満や不便を感じるだけだからだ。
真田敦は、それ以降発言を控えていた。
織田信長は、真田敦の発言と同じ事を考えていたが、口には出さなかった。
いずれ噂程度で流すつもりでいたのだが、真田敦の考え方に満足していた。
自分と同じ事を考え付く人物を、間近に持つ事を良しとしていた。
だが今なす事は、美濃制圧である事に違いはない。
「しばらくは、兵の訓練と兵糧集め、更に弓矢と槍集めに専念するように。」
織田信長は、柴田勝家や丹羽長秀達には兵の訓練を命じ、木下藤吉郎には弓矢と槍、更には兵糧集めを命じていた。
そして真田敦のみを残して、軍議の解散を言い放った。
家臣達は、評定の間から姿を消し、織田信長と真田敦だけが残った。
「のう…敦。
稲葉山城を落とす方法は、何か無いのか?」
信長らしく、単刀直入に真田敦に聞いてきた。
「稲葉山城は、力攻めでは落ちません。
外から落とせぬなら、内から落とすべきと思います。
しかし、義龍が健在な内は落とせぬと思います。
統治能力に、軍事能力もなかなか高いと思います。
しかし…嫡男の龍興は、統治や軍事に関する才能は無いかと。
しばらくは、内政にいそしみ、外堀を埋める事が大切かと。」
織田信長は、真田敦の返答を聞きながら考え事をしていた。
「なるほど、竹千代と同盟を結び、清洲より北に本拠地を動かす。
しかるのちに、計略を美濃に仕掛けよと申すのだな。
お主の機転の早さには、いつも感謝するわ。
ところで話しは変わるが、犬は元気にしておるか?」
そう…真田敦は犬姫と正式に結婚をしたのだ。
一緒に暮らしてから、1ヶ月余り経過していたが、夫婦中は良くいつも笑いの絶えない家庭生活を送っていた。「さてと…信長様は美濃、滝川様は北伊勢に出陣か。」
秋の収穫を終えた織田家は、美濃と北伊勢制圧を目標に出陣をしていた。
留守を任された真田敦は、東国の情報収集に専念していた。
三河の松平家は、速やかに西三河を統一し、東三河制圧に一進一退を繰り返していた。
駿河の今川家は、後を継いだ氏真の器量不足の為か、敵討ちの為の尾張侵攻はおろか、領内の乱れが起き始めていた。
相模の北条氏康は、駿河と甲斐の様子を調べながらも、関東統一の為に内政重視に専念していた。
そして、真田敦が一番気にしていた甲斐の武田信玄だが、川中島の辺りが越後の長尾景虎に狙われているとの噂を聞きつけ、海津城の改築を山本勘助に命じていた。
今川武田北条の三国同盟の崩壊が近い事を知っている真田敦は、美濃や尾張に目を向けさせぬ為に、色々と策略を練り始めていたが、謀略の手本にする毛利元就を思い出していた。
手紙1枚で尼子家の新宮党を滅ぼした、毛利元就の謀略の凄さを思い出していたのだ。
(あの謀略は、尼子晴久だから通用したからな。
武田信玄相手では、即座に見抜かれるか。
だが…川中島の合戦の前に氏真と氏康の2人に、晴信の野望を知らせれば駿相同盟は壊れず、甲だけを孤立させて見たらどうなるか。
北に長尾、東に北条、南に今川、西に織田と松平か。
しばらくの時間稼ぎにはなるが、やはり駿河は武田家に落ちるか。
遠江は松平家の支配下になるだろうが、織田家は機内をどこまで支配下に置けるかか…石山本願寺の力は強大だからな。
上洛の後は、紀伊の雑賀党の引き抜きから始めてみるか。
浅井の裏切りを封じるには、将軍に対する新年の挨拶の時に上洛をしてもらい、朝倉攻めを予め了承させるしか無いな。)
真田敦は、ありとあらゆる可能性を考えながら、天下布武を少しでも早める事を考えていた。
美濃制圧に関しても、7年の期間を4年に短縮する事を考えていた。
(やれるだけやってみるか。
武田信玄相手なら、見破られても仕方ないしな。
何しろ、戦国武将最強と謳われた人物だしな。)
真田敦は、頭の中にあった考えを、紙に書き出してていた。
後に、思い出すのに必要になると思ったからだ。
真田敦は、今川氏真宛、北条氏康宛更、武田義信宛の書状の文章を巧みに変えながら書き上げて、その書状を織田家御用商人を通じて、それぞれの書状を駿河相模甲斐に運ばせていた。
もちろん、織田家からの書状と分からぬように、様々な工夫を凝らしていた。
例えば、武田義信宛には今川氏真から、北条氏康宛には、武田義信から、今川氏真宛には北条氏康からと、三国同盟を逆手に取る工夫もしていた。
もちろん、北条氏康は見抜くと見ているが、愚直な今川氏真と、正直過ぎる武田義信は信じると見ていた。
もちろん裏を取ると、忍びの暗躍も活動になると見抜き、疑心暗鬼の相互効果を産み出せば、お互いが牽制をしあい動きを封じる目的も兼ねていた。
さて、相模の北条氏康は書状を受け取り、考え事をしていた。
(この書状は真偽かどうかは関係無いが、あやつの野望を考えればやりかねぬ。
念の為に、小太郎に命じて甲斐を見張らせるか。)
氏康は風魔小太郎を呼び、甲斐に忍びを派遣させて、武田晴信の行動を監視させる事にしたのだ。
甲斐の武田義信は、書状を見るなり憤慨していた。
今川家と武田家は、婚姻を持って同盟維持をして来た事から、義兄弟の氏真を助ける方向でいたのだ。
だが、父親の晴信の意見を聞かない内に、行動をする訳にはいかなかった。
この手元の書状が、偽物の可能性もあるからだ。
それに今は、北信濃の情勢が怪しい事もあり、沈黙を保つ事にした。
三国同盟の中で、一番慌てたのが今川氏真であった。
書状を読むなり、配下を駿府館に呼び寄せ、事の真偽を確かめる事を大げさに言い出していた。
義信と氏康の二人は、事の審議を確かめる為に、忍びを使ったりや当面の静観を決めて、派手に騒ぐのを止めていた。
ところが、桶狭間山の戦い以降に、駿河と遠江の領内の乱れも加わった為か、先に上げた二人とは違い、今川氏真の馬鹿騒ぎの為に、上から下まで混乱の渦に巻き込まれてしまったのだ。
やはり、今川氏真には、当主としての力量が、不足していたのかも知れなかった。
年が変わり、永録4年(1561年)正月。
信長は清洲城にて、新年の宴を開いていた。
真田敦も出席はしていたが、信長様の表情から何かを読み取ろうと必死でもあった。
「敦…来月の頭には北伊勢に行って貰おう。
滝川を助け、早々に北伊勢を制圧すべし。」
宴も終わりになろうかとゆう頃に、織田信長は真田敦に言葉をかけた。
「はっ、この真田敦。
全力を持ちまして滝川様をお助けし、北伊勢を速やかに制圧致します。」
頭を深々と下げ、信長からの命に従う真田敦であった。「犬は相変わらず元気で、家の事をこなしております。」
敦は、きちんと信長に返答をしていた。
「ならばよい。
そちの娘と、予の奇妙丸との縁談を早く見てみたいな。」
信長は、半分冗談半分真面目に敦に答えた。
真田敦は奇妙丸の最初の婚約者である、武田信玄の五女の松姫を思い出していた。
叶わぬ夢と知りながらも、信忠を思い続ける後世の姿を目に浮かべていた。
「信長様、北伊勢の方は、どの様になっておりますか?」
敦は、北伊勢の情勢を気にしていた。
もちろん、滝川一益が統率しているので、不安は全く無かったのだが。
「一益は、着実に駒を進めておるわ。
来年中には、北伊勢を制圧下に治めるだろう。」
信長は、一益の仕事に満足をしていた。
だが、信長はこの程度で満足する人物ではない事を、真田敦は知っていた。
「北伊勢の神戸家をどうするか。
今の当主には一人娘が、いただけであったな。」
「何方かを、婿養子として送り込みますか?
和睦の席で言い出せば、すんなり決まるかと。」
「気が早いわ。
だが、悪くは無いな。
敦の案も、いずれ視野に入れて置こうか。
敦、来年にはそちも北伊勢に向かって貰う。
美濃の事は北伊勢を制圧してから、改めて策を考えよう。」
織田信長はそこまで述べると、真田敦との北伊勢に関する会話を止めた。
夕刻近くになり、信長は夕食の支度をするように小姓に伝え、しばらくしてから夕食の準備が整い、織田信長と真田敦の前に膳が運ばれた。
信長と敦は夕食を共に食べながら、しばしの雑談をしていた。
この時代には、主君と家臣が同じ時間に食事をする事は、許されていなかった。
家臣は時間をずらして、食事をするのが作法とされていたからだ。
だが、信長は昔からのしきたりを嫌い、新しい革新を試みていた。
信長との雑談内容は家庭の事や、子供や家臣達の教育内容、時には隣国の状況も交えていた。
信長の夢を知っている敦は、念の為に信長様にそれとなく夢を聞いてみた。
「信長様の夢は、どの様な物でしょうか?」
「日の国の統一。
戦国の世を終わらせ、人々の笑顔を見てみたい。」
「信長様……日の国統一後は、やはり世界に向かいますか?」
「ふっ、やはりそちには見通しか。
うむ、いずれ大船を大量に造り、南蛮の国々と戦い、日の国の発展をして見たいわ。
敦、そちには予の乗る船の指揮を取らせ、戦を楽しみたいわ。」
信長はお茶を口元に運び、笑いを浮かべながら敦を見ていた。
「信長様
その為には、南蛮の情報を手に入れなくてはならないかと。
ただ、南蛮船を造船する事は出来ます。
昨日…船の設計図と、船の模型を完成させました。」
真田敦は、信長に重要な報告をしていた。
「なんだと?
それはまことか?
今は造れぬが、いずれ大量に造れるか。
真田…それだけではあるまい。
そちの顔には、まだ言いたい事があるのだろう。」
信長様の鋭い目を気にせずに、真田敦は更に報告を上げた。
「南蛮人達は、我々に秘密にしている武器がございます。
一般的には大筒と言われる、武器にございます。
我々には鉄砲は伝えましたが、それよりも距離も長く、鉄砲よりも数倍の威力もある武器にございます。」
「敦…そちはどこで情報を手にしている?
堺の商人達でも、知り得ぬ情報であろう。
まるで、別の時代から来たように思えるわ。」
信長は、顎髭に手をやりながら敦を見ていた。
真田敦は、事実を伝えるかどうかを悩んでいた。
そう…最初に織田信長と出会った時から、ずっと考えていたからだ。
「まぁよい。
そちが何者であろうと、予の有能な家臣である事には間違いない。
そちと、世界の海に乗り出すのが、今から楽しみになったわ。」
信長は上機嫌になり、真田敦との雑談を終えた。
翌日、南蛮船の設計図と南蛮船の帆船模型を、信長に献上する事をきちんとしていた。
信長は、敦にどんどん質問をしていたが、南蛮船よりも強い船は造れぬかと敦に聞いた。
真田敦は、造る事は可能ですが、しばし時間が必要と答えるだけに止めていた。
真田敦の頭の中には、村上水軍の炮烙に対抗するべく、鉄を船に張り付けた鉄甲船を頭に浮かべていた。
鉄甲船が早めに完成すれば、予想している石山本願寺との戦いを、有利に運べると見ていた。
「鉄甲船を造るには、鉄を薄く伸ばす技術が必要か。
しかも、南蛮船の大筒に耐えられる厚さを調べないとな。」
織田信長は、真田敦からの説明を聞いて、考え事を始めた。
織田家は水軍を所有していない為に、鉄甲船の製造にはしばしの間が空いてしまう。
その為か信長の頭の中には、美濃制圧後には南伊勢を素早く制圧し、志摩の九鬼水軍を支配下に置く事を考えていた。
のちに、織田信長と真田敦の乗る鉄甲船の指揮を取る事になる九鬼義隆は、主君である北畠家から心が離れつつあった。
真田敦は、織田信長の前から退出し自宅の屋敷に帰宅した。
「お帰りなさいませ、お殿様。」
「うむ、犬も元気で何よりだ。
春には、北伊勢に向かう事になろう。
すまぬが、留守を頼みたい。」
出迎えたのは織田信長の妹であり、現在は真田敦の嫁である犬姫である。
夫婦仲はとても良く、笑顔の絶えない屋敷だと、他の家臣達からも言われていた。
永録4年(1561年)8月には、真田敦の嫡男になる、真田源一郎政長が産まれるのだが、真田敦はまだ知るよしも無かった。
更にのちにも、真田の娘達も誕生をし、それぞれの娘達が有名な戦国武将に嫁ぐのだが、真田敦がそのたびにかなり荒れたのは、後に織田家で有名な話しになる。