決戦! 桶狭間山の死闘
時の流れはと言うものは、とても早いもので、俺が戦国時代にタイムスリップしてから、1年あまりが経とうとしていた。
永録2年(1559年)4月15日に、織田信長と、木下藤吉郎に出会ってしまった。
成り行きと言うか、勢いと言うか、半ば脅迫と言うか、織田信長に仕官をしてしまった。
清洲城に連れて行かれ、城下町の片隅にある小さな部屋を与えられた。
4畳半の部屋が2つある、小さな家と言えば良いのだろうか。
最初の仕事は、硝石集めと、硝石の生産体制の確立である。
尾張の国は、農村が多いからか田畑も多く、硝石生産の土台には事欠かなかった。
1年あまりの硝石生産の土台作りに明け暮れていたが、毎日刀槍の訓練を欠かした事は無かった。
そうそう、熊に喧嘩を売られた時には、少しびびった事もあったな。
熊とは、柴田権六勝家の事だけどさ。
どこの馬の骨とも知れぬ輩を、信長様は雇うとか言い出しやがってさ。
頭に来たから、槍の稽古と言い張って、熊の奴を引っ張り出して、半時あまり槍で対決もしてやったな。
もちろん結果は、引き分けだけど、熊の奴は素直に俺の実力を認めたけどね。
と、昔話を思い出していた時に、後ろから丹羽長秀様の声が聞こえた。
「真田殿、こちらにいらしたのですか。」
真田敦は、声のする方に振り向くとそこには、丹羽長秀様が立っていた。
「これは、丹羽様。
私に何か、ご用でございまするか?」
後々の、織田四天王の1人である丹羽様には、乱暴な言葉使いは許されない。
だからこそ、丁寧な言葉使いと、時折野生の鳥等を差し入れに出向くこともある。
「うむ、信長様が真田殿をお呼びである。
急いで、城に向かわれるが良かろう。」
今川義元が出陣したか?
いや、まだ約3週間は猶予があるはず。
真田敦は、頭に色々と考えたが。
「丹羽様、ありがとうございます。
直ぐに、信長様の元に向かいます。」
真田敦は、丹羽長秀殿に頭を下げ、礼を言ってから、清洲城に向けて走り出していた。
丹羽長秀殿は馬に乗り、先に清洲城に向けて馬を、走り出していた。
たまたま、清洲城に近い畑にいたために、ほどなくして清洲城の大手門を潜り抜け、控え室に通され手拭いで汗を拭き取り、信長様の面前に通された。
「のう、敦。
そろそろ義元めが、この尾張に攻めて来るだろうな。」
信長の回りには、太刀持ちの小姓1人すらいなかった。
信長が人払いを、命じたのだろう。
「はい。
鳴海城を我々の手に、奪い返されたくなければ、必ず出陣して来ると思われます。」
尾張を取り巻く現状を考えれば、当たり前の事だろう。
今川にして見れば、上洛の為には尾張を手に入れなければならない。
尾張を支配し、美濃近江と上洛に必要な国を支配して、足利幕府を守るか、もしくは今川幕府を作り出すかの、可能性もあるからだ。
「嵐が尾張に来るか。
真に厄介だな。」
信長は顎に手を当てて、考え事をしていた。
真田敦は、今川軍の進軍ルートを思い出しながらも、口には出せないでいた。
当たり前だが迂闊に口に出せば、今川の間者に聞かれる恐れもあるが、それ以前に歴史を変えてしまう可能性があるからだ。
「信長様。
梁田政綱様から、今川軍の様子は上がっていませんか?」
真田敦は、今思い出したかのように装いながら、信長にお伺いをしていた。
「まだ来ぬ。」
信長は短く答える。
信長様はおそらく、尾張と三河の国境沿いに、間者を放っているのだろう。
真田敦が考えるに、駿河から尾張の距離をを考えれば、今川義元が駿府を出陣していてもおかしくないのだ。
遠江の曳馬城を経由してから、おそらく三河の岡崎城に入る。
岡崎城から先発隊を出陣させて尾張方の砦を潰させながら、今川義元は本陣をゆっくり進めながら、大高城に向かうはず。
歴史に従うなら、今川義元を討つ機会は、お昼の休息の時で、田楽狭間か桶狭間に本陣を置いた時だけだ。
真田敦は静かにしながら、今川義元を討つ事だけを考えていた。
「敦?
何を考えておる?」
考え事をしている真田敦を信長は見て、真田敦に言葉をかけた。
「今川義元をいかにして、討ち取るかだけでございます。」
真田敦は、慎重に言葉を選びながら、信長様に言葉を返していた。
「なるほどな。
大軍といえど、今川義元を討ち取れば、残された軍は烏合の衆に成り果てるだけだからな。」
織田信長は、真田敦の回答に半ば満足していた。
「敦、今日はもう下がれ。」
信長は、真田敦に手を振り、退出を求めた。
真田敦は、素早く頭を下げ部屋から退出をする。
清洲城の大手門を後にした真田敦は、再び考え事をしていた。
(岡崎城よりも、尾張国境に近くて、大軍を入れられる場所。
そうか、沓掛城か!)
真田敦は、思い出したのだ。
沓掛城から先陣の松平元康が出発して、大高城に兵糧を運び入れる。
そしてまもなく、丸根砦と鷲津砦に攻撃を開始する。
真田敦はそこまで思い出してから、狭い我が家に辿り着いた。
(5月19日、あと21日後か。
私が、今川義元を、必ず討ち取る!)
様々な思いを持ちながらも、けっして表には一切出さない。
それが真田敦であり、他人には見せない部分と言えるだろう。
そして時は流れ、5月17日の朝を迎えていた。
この日に、今川義元は沓掛城に入城をする。
松平元康は大高城に兵糧を入れるべく、18日の夜に向けて出陣の準備をしていた。
同じ頃、当の今川義元はと言うと。
「ふっおほほほほ。
この大軍ならば、尾張なぞすぐに制圧出来るだろうて。」
いつになく上機嫌で上座に座り、配下の顔を見渡している大名がいた。
今川治部大輔義元である。
駿河衆を始め、遠江衆三河衆らを引き連れ、総勢約2万5000あまりを従え、先ほど沓掛城に入城したのだ。
「尾張を制圧したら、そのまま美濃まで、制圧してしまうかの。」
機嫌の良い今川義元は、更に言葉を続けた。
駿河遠江に守備兵を割いて、さらにこれだけの遠征用の大軍を集められるのは、日の本を探しても今川義元だけだろう。
「元康、明日は大高城に兵糧をなんとしても運び入れよ。
大高城より、尾張制圧の指揮を取らねばならぬからな。」
今川義元は、突如思い付いたように言葉を発した。
その言葉を聞き、ある者は安堵し、またある者は回りに見えぬように、嫌な顔をしていた。
詳しく述べるなら、駿河遠江衆は安堵し、三河衆は嫌な顔をしていた。
「はっ。
松平元康、大高城に兵糧を必ず運び入れて見せまする。」
今川義元から、元康と名を呼ばれた人物こそ、松平元康。
のちの、徳川家康その人である。
松平元康は頭を下げ、今川義元の前から去り、兵糧の準備をする為に、米蔵の前に来たのだが、その米蔵の前には怒り心頭の本多忠勝の姿があった。
「元康様、あのようなやり方は、明らかに、我々三河衆を磨り潰すに違いありません。」
本多忠勝が声を上げても、周りの騒音や騒がしい声でかき消されていた。
そう、大高城に兵糧を運び入れるべく、兵糧蔵から兵糧を足軽逹が運んでいるからだ。
「平八郎の言いたい気持ちは、私とて分かる。
しかし、今川様に反旗を翻して、本当に勝てると思うか?
駿府を出るときに、約束をしてくれたではないか。
今回の尾張制圧で功績を上げれば、三河に帰してやると。」
平八郎忠勝をなだめるように、松平元康は諭すが、忠勝の怒りは収まらない。
「軍議の席での口約束を、信用出来ません。
功績を上げようとも、あとでその様な事を言ったかの?
とか、言い出すに決まっております。」
松平元康も、そこをだいぶ懸念していた。
今川義元の狙いは、上洛をするまで三河衆を磨り潰し、やがては三河の完全支配が目的だろうと、密かに考えていたのだ。
(この状況を、信長殿はどうなされるかな?
信長殿の性格からして、籠城策は取らないだろうと思われるが。)
松平元康はまだ竹千代と呼ばれていた幼い頃に、尾張に人質として過ごした期間があった。
その時に、織田三郎信長と出会い、2年あまりの人質生活を尾張で過ごしていた。
その後、駿府に身柄を移され現在に至る。
「それで、元康様。
出陣は何時になりますか?」
本多平八郎忠勝は、主君である松平元康に聞いてみた。
「早くても、明日の夜になるだろうな。
今日準備を終らせ、兵逹に休憩を取らせる。
まさか、昼間堂々と兵糧を運び入れる事も出来ぬからな。」
主君からの返答に、本多平八郎忠勝は、かなりの部分が納得出来た。
現在大高城は、丸根砦と鷲巣砦に包囲されているのだ。
そこに兵糧を運び入れるのは、虎の口にわざわざ飛び込むようなものだ。
元康様は、何か考えがあるのだろうか?
本多平八郎忠勝は、主君の元康様の考えている事を頭を捻りながら考えていた。
5月18日、丸根砦から一つの報告が上がっていた。
松平元康の策略に引っ掛かり、大高城に兵糧を運び込まれたとの報告である。
その事を聞いた織田信長は、速やかに家臣達を召集し、軍議を開いたのだが、籠城策を取るのか、一か八かの賭けに出て戦うべきと、家臣達の意見は割れていた。
業を煮やした柴田勝家が頭を下げ、配下の者を代表して、主君の信長様に意見を伺ってみた。
「信長様。
信長様の考えを皆の衆にお聞かせ願えないでしょうか。」
だが信長は、あえて一呼吸を置いてから、自分の考えを述べた。
「軍議は解散だ。
それぞれ身体を休めるように。」
信長はそう述べると、部屋を後にして消えていった。
残された配下の者達は、諦めの声や嘆きの声が上がっていた。
もちろん柴田勝家も、その1人であった。
(とてつもない災難の前では、信長様の才も曇ってしまうのか。)
配下の者達も、肩を落としながら部屋を後にしていた。
同じ頃、足軽の真田敦は自宅にいた。
(今頃清洲城は、上から下まで大騒ぎだろうな。
早めに寝て、熱田神社に向かわねばならぬからな。)
真田敦は、早めに床に着いていた。
信長様は、たしか朝3時位に起きて、敦盛を唄ったのちに熱田神社に向かうはずだからな。
槍と刀、そして足軽の簡単な胴丸の点検を既に終わらしていた。
この時代に飛ばれたものの、運が良かったのだろう。
平成の世から、身に付けていた道具も、あったからだ。
とはいえ、せいぜい携帯や、購入したばかりの、薬箱であったが。
携帯は、少し前に流行った、太陽電池の携帯(更に防水加工)である為に、少なくとも時間だけは分かるのだ。
薬箱の中には、包帯を始め、ある程度の医薬品もあるので、少しの安心感からか、そのまま眠りについていた。
5月19日、歴史上有名な戦いでもある、桶狭間の戦いの日は、あと数刻に迫っていたのだ。
「もう時間か。
急がねばならぬな。」
午前2時に目覚めた真田敦は、準備を終えると熱田神社に向けて歩き出していた。
早めに到着して、裏工作と言うか、色々と準備があるのだ。
真田敦が熱田神社に向けて歩き出した頃に、織田信長も午前3時には起きていた。
今川軍が、丸根砦と鷲津砦に攻撃を開始したとの報告が上がってきていた。
信長はスッと立ち上がり、扇を手に取り静かに敦盛を唄い始めた。
「人間50年
下天の内をくらぶれば
夢幻の如くなり
ひとたび生を受けしものの
滅せぬ者の滅せぬ者の
あるべきか」
敦盛を3度唄った後に、鎧兜を身に付け馬に乗り、熱田神社に向けて出発をした。
従うのは馬廻りを含め、僅か五騎のみである。
信長の出陣を聞き付け、のちに配下達も熱田神社に集まるのだが、まだ時間がかかる。
信長は焦る気持ちを抑えながらも、馬を走らせ熱田神社に向かっていた。
「ようやく、熱田神社か。」
真田敦は、午前7時に熱田神社に到着して、神主さんに許しを頂き、信長様の到着までに色々と工作を始めた。
午前八時、織田信長と馬廻り五騎が熱田神社に到着する。
信長と馬廻り5騎は、後続部隊が到着するまで、しばしの休息を取ることにした。
「信長様、こちらにおられたのですか。」
まるで今到着したかのように、装いながら信長様の前に現れた。
「真田、もう来たのか。
それとも、予がここに来るのを察したのか?」
真田敦の姿を見て、一種の閃きと言うべきか、言葉に出来ない感覚を信長は持った。
目に見えない物を信じない信長だが、真田敦の行動を半ば感心していた。
もしも予の考えを見抜いていたならば、何かを考えているのだろうと。
後続部隊を待ち、更に梁田政綱からの連絡を熱田神社で待っていた。
そして時が過ぎて行き、午前10時過ぎ辺りに後続部隊が熱田神社に到着する。
総勢約3000名程の足軽や、数少ない騎馬隊である。
真田敦は、少し前から信長の前から姿を消していた。
信長は熱田神社の本殿の前で、手を合わせていた。
神仏を信じない信長だが、配下の者達はそうでもない。
その時に、本殿の中からと思われるが、音が鳴り響いた。
信長は神主を呼び、吉兆かどうかを聞いた。
「戦の前に、音が鳴るのは吉兆と申されます。」
神主はそう答えた。
その音の後で、突如無数の白い鳥が空に向けて羽ばたいていた。
「皆の者!
この戦には、我々に神仏の加護が付いておるぞ!」
信長がそう言うなり、足軽達は大きな声を張り上げていた。
信長は、兵達の士気の高さを確認した上で、善照寺砦に向かった。
信長は、真田敦の姿を見つけ、先ほどの細工を仕掛けたのは、真田敦であろうと見抜いていた。
その事には追及をせず、そのまま馬を走らせ熱田神社を後にした。
善照寺砦に到着した信長達は、しばしの休息と共に、改めて梁田政綱からの報告を待っていた。
「信長様、今川義元の居場所をつきとめました。」
梁田政綱の手の者が、信長の前に膝をついていた。
「即答を許す。」
織田信長の声は、どことなく緊張をしていたが、そのような素振りは見せなかった。
まちに待っていた報告なのだからであろうか。
真田敦は、今川本隊の位置をある程度までの地点であれば、頭の中に想像が出来ていた。
(おそらくは、桶狭間山の山頂の気がするな。
織田軍の奇襲に備えて、高所から周りを見渡す気だろうか。)
「今川本隊は、桶狭間山の山頂に陣を敷き、昼食を取る模様にございます。」
梁田政綱の手の者は頭を下げ、してからである信長に正確な情報を伝えていた。
「桶狭間山か。」
信長は少しの間、考え事をしていた。
旧街道からの奇襲か、今川の裏をかき正面突破かの、二者択一の選択をしなければならないからだ。
信長の判断が決まった時に、突如天候が悪くなり、大雨が降りだしたのだ。
(雨大将の異名は、正しかったみたいだな。)
真田敦は、織田信長とって何故かは知らないが、大切な戦の時には必ず雨が降ることを思い出していた。
史実の書物に書き記してある事では、桶狭間の戦い。
そして、長篠の戦いの時にも、必ずと言っても過言ではなく、雨が降っていたからだ。
「皆の命を、余に預けて欲しい。」
信長は意を決したのか、声を高らかに上げて、武将達や足軽達に頭を下げた。
武将達や足軽達は、一瞬我を忘れたが、信長様の決意を知り声を高らかに上げて、命を預けると信長様に申していた。
(初陣が、桶狭間か。
死ぬも生きるも天のみ知るか。)
真田敦は決意を決め、織田信長の命を待っていた。
「我らはこれより、今川本隊に正面より攻撃をする。
義元の首以外は、手柄と認めぬ。」
信長はそう言うなり、馬にまたがり大雨の中を疾走していた。
既に、丸根鳥でと鷲津砦は、今川軍の先鋒隊の攻撃を激しく受け、防戦虚しく陥落をしていた。
織田信長達が馬を走らしている最中に、佐久間大学の討死等の報告も上がっていた。
信長率いる軍勢は、約2000名ほどであったが、士気は高かった。
一方で、今川軍の方は、突然の大雨の為か、部隊は小規模になり始め、雨宿り等をし始めていた。
昼食の最中に、温かい食事を濡らされてはかなわないと考えたからであろうか。
今川義元の軍勢が突然の大雨により、雨宿りを開始したのは、織田信長達に取って、幸運であったのやも知れなかった。
その光景を見た真田敦は、声を高々に上げて今川軍に切り込みを始めた。
「命の惜しい奴は、退きやがれ!
命の惜しくない奴は、掛かって来いや!」
真田敦は、槍を上から下に降り下ろしながら、今川軍の足軽達を蹴散らしながら、今川本隊に向けて、足をを止めなかった。
この時代の槍の使い方は、敵の頭に槍を降り下ろし、相手に対して脳震盪を引き起こし、相手の動きを封じて戦闘不能にするのが一般的である。
その為か、それほど死傷率は高くはなが、死傷率が比較的に高まる原因は、合戦での敗北が決まり敵に背を向けて逃亡している時が、高いと言われている。
織田信長率いる軍勢は、今川軍の小規模の軍勢を蹴散らしながら真っ直ぐに進んで行った。
もちろん、今川軍にも油断は無かったのだが、丸根砦と鷲津砦陥落の報告を受けていた事と、大軍で有るがゆえに、織田方が籠城を取るだろうとの読みが、大半を占めていたのだろう。
もちろん、今川義元は油断なく桶狭間山に陣を張ったのも、その為としか言いようが無かった。
「大変です!
織田軍がこちらに向けて、迫っております。」
斥候の物見部隊の報告が、主君である今川義元に進言をしたが、当の本人である今川義元の反応は鈍かった。
「ほっほほほ。
ただの悪あがきであろう。
気にする事など、必要あるのじゃろうか?」
大軍を率いているせいなのか、危機感が無いのだろうか?
周りの配下が注意を促すも、相変わらず義元の判断は鈍かった。
そうこうしている内に、織田軍の軍勢が数里に迫って来た時に、今川義元は万が一の事を考え始め、後方の陣に移動を始めようとしたのだが、織田軍の素早さは今川義元の予測を遥かに超えていた。
桶狭間山の麓に到着した織田軍と今川軍が激突して、敵味方が入り乱れた混戦になってしまったのだ。
混戦に乗じて真田敦は、今川義元を狙うべく桶狭間山の山頂を目指した。
(こんな所で、死ぬ訳にはいかぬ。
生きて現代に戻り、あかねの元に戻らねばならぬ!
その為には、今川義元を討ち取り、歴史を変える!)
その生きて現代に戻りたい気持ちが、心の中で強いのであろう。
殺される前に相手を殺す。
この強い気持ちが、口に出ているからである。
「今川義元!
どこに居やがる!
織田家の真田敦様が、てめえの首を貰いに、来てやったぜ!」
邪魔をする足軽達に槍を叩きつけ、義元目掛けて突き進んで行く。
初陣の興奮もあるのだろうが、戦の恐怖を忘れようとした為なのかは、正直な事を言えば、真田敦本人にも分からなかったのだ。
思わぬ戦況に慌てていたのか、今川義元は情けない言葉を口に出した。
「はよう、はよう輿を用意せぬか。」
義元は輿を準備せよと、周りの配下達に言い放つが、突然の大雨に降られている上に、織田軍の正面突破の策に慌てふためいていたのか、大軍の利点を全く活用出来ずにいた。
ある者は前に進み織田軍と交戦を始め、またある者は後方に向けて逃げ出す者もいたのだ。
もちろん、主君である今川義元が乗る輿を探しに行く者もいたが、敵味方入り乱れての混戦の最中に見失う者もいた。
義元の周りの配下の者達も、混乱の為か防戦一方になり始め、すぐ側まで織田軍の声も聞こえ出していた。
自分の身を大切にしたいのか、今川義元は急に臆病風に吹かれ出したのだ。
「このような場所で、死ぬわけにはいかぬ。」
今川義元は、愛刀である宗三左文字を引き抜き、織田軍の足軽達を蹴散らしながら後方の陣に退却を始める。
迫り来る織田の足軽を5人程退け、もう少しで後方の味方の陣に逃げ込める時に、魔に魅いられたのか、それとも天に見放されたのか、真田敦に姿を発見されてしまったのだ。
真田敦にしてみれば、運が舞い込んだのか、それとも天に愛されたのかは分からないが、偶然にも今川式部大輔義元を発見したのだ。
「高価な陣羽織に、口のお歯黒、てめえが義元か!」
戦場の為か、言葉使いも荒っぽくなっていた。
「下がれ下郎!
今川式部大輔と知って、邪魔をするか!」
「うるせえ!
戦場に官職なんか関係ねえんだよ!」
そう言うなり、槍を義元の胸元に向けて繰り出すも、義元の刀さばきに封じられる。
「義元様、お逃げ、グホ」
「邪魔するんじゃねえよ!」
真田敦の背後から足軽が槍を繰り出すも、素早く反応した真田敦が、足軽に槍を上から叩きつける。
その僅かな隙を見つけ、義元はその場から逃げ出そうとするが、真田敦の繰り出した槍に阻まれる。
「義元!
逃がさないって言ってんだろ!
さっさとその首をよこしやがれ!」
真田敦がそこまで言葉を発すると、腕に全身の力を込めて、渾身の一撃を込めた槍を義元の胸元に繰り出す。
鋭い槍の動きを見切れぬ今川義元は、真田敦の放った槍が自分の胸元に来るのが分かった時には、既に時遅かったのである。
「グホ!
下郎の手に掛かるなんて。」
今川義元はそこまで言葉を発すると、その後の言葉を遮るように真田敦が言葉を発した。
「下郎じゃねえ!
織田家の真田敦だ!」
そう言うなり、槍を更に深く突き刺していた。
「ここで命を、落とすなどと。
京に、今川幕府を。」
そこまで言うと、今川義元の意識は暗い闇に包まれていき、言葉を発する事も無くなっていた。
そして今川義元の右手から宗三左文字が、自然とこぼれ落ちていた。
真田敦は地面に落ちた刀を見て、即座に名刀宗三左文字と分かったのだ。
今川義元の愛刀の事は全国的にも有名でもあり、地面に落ちた宗三左文字を拾い上げてから、一刀両断の気迫を込めて今川義元の首を胴体から切り落とした。
「今川式部大輔義元!
織田家家臣、真田敦が討ち取った!」
声を張り上げ、義元の首を高らかに上げていた。
その声を聞き付けた家臣や足軽達は、大将の今川義元落命が判明するなり、命が欲しいのかその場から逃げ出していた。
その後も真田敦は、今川義元の首を持ちながら、今川義元を討ち取ったと戦場のあちらこちらで言い周り、今川軍の統率をぶち壊していったのだ。
そして主君である織田信長の前に帰還した時には、今川軍は桶狭間からほとんど退却をしていた。
一部は、鳴海城と大高城に向けて逃げていたが、今川配下の武将も何人か討ち取られていた。
桶狭間の合戦後に、今川家は没落していき、織田家は急成長を遂げる事になったのだ。