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真田公記  作者: 織田敦
33/33

天下統一 そして、夢の果てに (加筆途中)

安土会議より、3ヶ月が経過をしていた。

それぞれの方面軍団長は、来年の戦に備えて準備に追われていた。

柴田勝家と、滝川一益は、来年行われる北条征伐の為に、信濃深志城に滞在。

北条征伐には、上様自らが、10万を越える兵を率いる予定である。

浅井長政は、九州征伐に備えて、水軍の強化に乗り出していた。

九鬼義隆の協力の得て、鉄甲船の造船を急がせる。

羽柴秀吉は、中国地方を支配している毛利家との、再交渉に時間を割いていた。

前に和議を結んだ条件では、上様が納得をしなかったからである。

改めて、備中、備後、安芸を除く7か国を上様に差し出す事で、毛利家の存続を認めると言うのである。

この和議の条件に、吉川元春は大反対をしており、和議の締結に難航をしていたのである。

さて、天海と名を変えた真田敦と、その妹の真田夕夏は、越前北ノ庄城に滞在をしていた。

だが、外に対しては天海、真田家及び、一部の織田家家臣達に関しては、真田敦と呼ぶように使い分けていた。

真田敦の生存は、いまだに公表をされておらず、空位となっていた内大臣の位は、真田夕夏が継ぐ事で帝より採決を許される。

天海、真田夕夏の兄妹は、来年の奥羽征伐に備えて、新たな謀略を相談していた。

「奥羽の大名は、大きな勢力は存在しないが、どこも伊達家との血縁関係がある。

そこが、実に厄介だな。」

扇子をゆっくり動かしながら、奥羽地方の地図を見ながら、天海が夕夏に語る。

夕夏も、その点を考慮しているも、血縁関係が必ずしも、良好な関係を結べるとは限らないと考える。

真田の支配している土地で最も近い最上氏は、越後の上杉を使い、戦を行わせるとして、会津を支配している芦名氏と、陸奥を支配している南部氏、北出羽を支配している安東氏を攻略してしまえば、残りの弱小大名など、真田夕夏らの敵ではない。

ある程度の考えがまとまり、兄の天海に伝えようとした時に、西原詩織、土屋優梨、細川遊美が、揃って姿を見せる。

「揃いも揃って、何事か?

緊急を要する事なのか?」

夕夏は、3人に質問をすると、3人のを代表して、西原詩織が言葉を伝える。

「先程、奥羽の伊達家より使者が参りました。

その使者と政長様がお会いになられ、天海様と夕夏様に大広間まで、お越し頂きたいとの事です。」

「それならば、分かった。

今すぐに、向かおう。

しかし、何故3人も来る必要がある?

1人で、済む話だと思うが。」

天海が疑問を口にすると、すかさず優梨が返答をする。

「たしかに、1人で済む話なのですが、天海様は風来坊ゆえに、不在の時には探して来いと、言われておりますがゆえに。」

優梨の言葉に、遊美がくすくす笑う。

(俺は子供か!

まぁ、風来坊は、当たってるやも知れぬがな。)

そんな事を思いつつも、天海一行は、大広間に姿を見せそのまま畳の上に座る。

上座には、政長殿が座っており、その前には伊達家の使者である遠藤基信の姿があった。

遠藤基信と面識がある人間は、前に伊達家に使者として赴いた、南条勝成だけである。

しかし、この時期に、伊達家の家老が使者として来るのは珍しい事である。

最初は、遠藤本人が使者として赴いていたのであるが、年賀の挨拶以外は、書状と進物を贈ってくるのが、ここ数年のやり方である。

皆が揃った所で、遠藤基信は書状を政長公に差し出す。

小姓から書状を受け取り、内容を確認した政長は、叔母の夕夏に書状を手渡し、夕夏もその書状の内容を確認したのち、天海に手渡すと、天海も内容を斜め読みしただけで書状を閉じる。

「御使者殿。

盟友である伊達家からの協力要請の事は、家臣と話し合いの後に返答をする故に、しばらくは別室にて身体を休まれよ。」

遠藤基信は、頭を下げると、小姓に連れられて別室に消えていく。

残った政長らは、伊達政宗からの協力要請について、議論を始める。

上座に座る政長は、家臣達の顔を見て口を開く。

「さて、書状の内容だが、先先代の晴宗公が亡くなってから、2年余りが経つが、隣国の相馬が伊達家の領地の一部を、隠居をしていた晴宗公より譲り受けたとの言い掛かりを付けて、戦になっているらしい。

伊達家の現状は、内憂外患との事。

この内憂とは、隠居をした先代の輝宗公の正室である、東の方の実家である最上氏の事であり、外患は、芦名や相馬を始めとする周りの大名であろう。

伊達家の救援要請に協力に賛成の者と、反対の者が居れば、それぞれ手を上げるように。

先ずは、反対の者は手を上げよ。」

政長の言葉に反応をして、手を上げる者はいない。

手を上げないと言う事は、皆が賛成に同意したと政長は思う。

何しろ、真田家当主の妹が、政宗の正室である以上、反対をする者は最初からいない。

前に伊達家に使者として赴いた南条勝成は、伊達家の現状を知り、早い段階から奥羽征伐を進言していたほどである。

その場に南条勝成は、手を上げて発言の許しを求め、政長も意見の発言を許す。

「我が、真田家の親類と言える伊達家からの救援要請に、反対をする者はいないと分かりました。

ここは、数千と言えども出陣を致し、救援要請に答えるべきです。

本隊は、来年の雪解けを待って出陣を致し、奥羽征伐を開始するべきです。

真田家6万の軍勢の前には、例え奥羽の大名共が連合軍を結成しようが、何も恐れる事はございませぬ。

むしろ、朝敵として征伐をなされるべきです。」

朝敵を言い出すほど南条勝成は、伊達家の家風に興味を抱いたのか?

それとも、伊達家の家臣との心の繋がりを重要したのか?

どちらにせよ、朝敵については、天海、夕夏、政長の共通の考え方である。

「他に意見のあるものはいるか?

身分の差を無くし、各々が自由に意見を述べよ。」

次に手を上げたのは、細川遊美である。

「私の意見は、勝成殿の考え方に、一部反対を致します。

反対の点は、数千と言えども、先陣としていきなり兵を送り込むのは、余計な混乱を生むだけです。

ここは、調停の使者を送り込み、伊達相馬の和睦を計るべきです。

そうして時間稼ぎをしたのち、来年の雪解けを待って奥羽征伐を行うべきと、私の意見として申し上げます。」

勝成の案に賛成する者、遊美の案に賛成する者、別の意見を提案する者、議論は活発するのであるが、なかなか意見の統一を見いだせない。

あとは、主君である政長の決断を待つのみであるが、その前にちらりと、天海と夕夏の方を政長は見る。

天海と夕夏の2人は、1度も意見を述べていないからである。

だが、天海の方は、夕夏に意見を述べよと、目で合図を送るのみである。

天海の正体を知る者は、真田家家中の者と、織田家の宿老の連中だけである。

今の自分は、僧侶の身であり、自分が意見を述べる事で、政長殿の成長の妨げになってはならぬ。

天海はそう考えている為に、政長の叔母である夕夏に任せる。

視線に気付いた夕夏は、いつまでも知らぬ顔をしている訳にもいかず、真田家分家の意見として述べ始める。

「あくまでも、私個人の意見として申し上げます。

政宗殿には、正五位左京大夫と、奥羽官領の地位を与えます。

それから、調停の使者として、天海殿を送ります。

こちらから調停の使者を送りますが、本音を言えば、相馬に対する宣戦布告の意味になります。

先に真田水軍を動かし、約8000の兵を用いて、相馬の本拠地を一気に叩きます。

相馬の領地を奪ったのちにひたすら守りを固め、来年の雪解けを待って奥羽征伐に乗り出します。

伊達を除く奥羽の大名達は、全て朝敵として扱い、滅ぼします。

奥羽征伐を終えた後に、余裕があれば関東征伐にも向かいます。

この事は、前もって上様と岐阜大将に伝えておきます。

来年には、天下布武の完成をさせます。」

奥羽官領と言っても、事実上は対した位でもなく、正五位左京大夫の官位も、対した事はない。

あくまでも、朝廷に対する、勤皇の心を持てばよいのである。

夕夏の言葉に、天海は満足をしており、政長は表情には出さないが、叔母の慧眼に心服をしており、他の家臣達は言葉が出ないほど、静まり返っていた。

軽い咳払いをしたのち、政長が言葉を発する。

「今の叔母上の意見に、皆の意見を聞きたい。

意見のあるものは、手を上げるように。」

政長の言葉に反応をして手を上げたのは、西原詩織である。

「夕夏様の意見に、賛成いたす。

補足を付け足しますと、奥羽地方に私達の拠点もなく、奥羽地方に攻め上るには、越後領内を通るか、真田水軍を用いて適当な土地に上陸するかです。

相馬領の北には、陸前の仙台の港もあり、別動隊はそこを占拠してから相馬の領地を攻め上るには、最も適切な地形です。

本隊は、羽前の酒田の港を占拠してから、そのまま羽前地方の最上か、陸中地方の安東に攻め上るのも手です。

いずれにせよ、越後の上杉領内を通るか、水軍を用いる他はございません。

政長様、ご決断を。」

詩織の発言に、反対意見を述べる者はいない。

むしろ、賛同をする声が上がるだけである。

家臣達の意見の一致を確認した政長は、己の心を決めてから決断を下す。

「皆の、意見の統一が分かった。

早急に、別動隊の兵を集めると共に、本隊と別動隊の指揮を執る人物の選別を行う。

来月には別動隊を出陣させるが故に、準備を怠らぬよう。」

政長がこう締め括ると、会議は解散となる。

残り1ヶ月足らずで、全ての準備を行わなくてはならない。

大広間を出ていった家臣達は、自分の仕事に取り掛かる。

その大広間に残ったのは、天海、政長、夕夏、詩織の4人である。

この4人が残った理由は、言うまでもない。

それぞれの人選を、決める為である。

真田領内の留守を守るのは、真田政長、本多正信、真田信澄、雲斎、梨那、和花。

天海、胡桃、真李、塚原夏織、鉢屋葉は、相馬家に使者として向かう。

別動隊の総大将は、南条勝成を任命。

副将として、鳳野朝冶、佐竹義重。

別動隊の先陣を任せるのは、松宮暁、武藤仁、津田勇祐。

本隊の総大将は、真田夕夏。

副将には、島左近、土屋優梨、松下勇治、真田泰臣。

本隊の先陣を任せるのは、真田信繁、沖田隼、水野勝成、前田慶治、可児才蔵。

真田水軍総大将は、大内勝雄。

副将は、九里原昌邦。

真田親衛隊の隊長は、細川遊美。

隊員は、柳生綾夏、山口美那。

忍びの者達は、既に奥羽地方に向かっており、情報収集に余念がない。

だが、天海は念には念を入れる。

愚か者にも千に1つは、良いことをする。

賢者にも、千に1つは、間違いを起こす。

似たような言葉があるが、天海はこう覚えている。

天海も人間である。

いつかは、間違いを起こす。

それは、自分自身が良く分かっている。

問題なのは、その間違いを大きくするか、小さくするかの手際である。

「人事を尽くして、天命を待つ

某が、やれる事をやるしかないか。

乱世を終わらせ、日の本に平和を取り戻す。

南蛮人の脅威を取り除くまで、歩みを止める訳には行かぬ。」

天海がそう呟くと、詩織が天海の側に近寄り、そっと天海の手を握る。

「天海様は、まだまだこの世に必要なお方。

南蛮遠征後も、やる事は沢山あるのですからね。」

その後も、数刻の間、4人による密談は続くのであった。

翌日、遠藤基信に、援軍を出すとの返答をすると共に、安土の上様の元に使者を送り、伊達家救援の許しを願い出る。

真田政長からの書状を読んだ上様は、即座に伊達家救援の許しを出す。

天下布武の完成を急ぐ上様にしてみれば、渡りに船である。

奥羽地方の遠征の成功を確信した上様は、自ら出陣を計画している関東の北条征伐と、信忠率いる九州遠征軍の準備を急がせると共に、南蛮遠征の事も頭の中で考えていた。

(やはり、あやつを配下にしておいて、良かったやも知れぬな。

あやつ自身の才覚はもとより、人間的魅力も備えておるから、あそこまで有能な人材が集まるのであろう。

与えれば、破られるか。

恐怖で人を支配する余と、仁の心で人と接するあやつ。

時には、仁の心も必要かも知れぬな。)

信長は家臣に対する信頼が強すぎる為に、その信頼に答えられない家臣を、平気で切り捨てる。

逆に言えば、信長様の信頼に答えられる人物は、有能な証なのである。

信長は、手元にある金平糖を1つ口の中に入れ、暫しの間、思案をしていた。



天海が奥羽地方に向かってから3日後、真田夕夏の元に、ある書状が届けられる。

それは、6月12日に、光秀が直筆で書いた書状である。

足利義昭を京に呼び戻し、足利幕府の復活を宣言する内容である。

この内容を見た夕夏は、直ぐに安土の上様の元に出向き、足利義昭の征夷大将軍の剥奪と、身柄の捕獲の許しを願い出る。

信長も、光秀の直筆の書状を本物であると確認をすると、帝の元に参内をし、足利義昭の官位と、征夷大将軍の官職剥奪の、嘆願書を提出。

帝は、生き残った公家と、官位を持つ武家を参内させ、わずか1日で、足利義昭の官位と、官職の剥奪の採決を下す。

帝からの勅書を貰い受けた信長は、直ぐに夕夏に、備後鞆の浦に滞在をしている、足利義昭の身柄の捕獲を命じる。

上様の前から越前に戻った夕夏は、備後鞆の浦に向かうために、数人の護衛を引き連れて、備後鞆の浦に向かう。

天海が相馬の領地にたどり着き、伊達相馬の和睦を成立させ、伊達の領内に向かう途中であり、夕夏も備後鞆の裏に到着した頃、伊達家にも厄介な問題が起きていた。

二本松を支配している畠山義継が、伊達政宗の勢いの前に対抗できないと考え、降伏を申し出てきたのである。

だが、政宗は、畠山義継の人間性を疑い、降伏の証として、二本松の領地を大幅に狭めるだけではなく、倅を人質として差し出せと使者を送る。

そこ返答を聞いた畠山義継は、家臣と話し合いを設けるも、大幅な領地削減をされては、畠山一族朗党が飢え苦しむと判断をする。

だが、表向きはその条件を飲むと言いつつ、人を疑う事を知らない、既に隠居をしている輝宗公にとりなしを願い出る。

人が良すぎる輝宗公は、現当主の政宗の元に参り、畠山義継の降伏を正式に認めて欲しいと言い始める。

父からの言葉を聞きながら、政宗は心の中では、畠山義継を全く信用していないだけではなく、どこまでも人が良すぎる父に、呆れ返っていた。

しかし、隠居をしたとは言え、実父からの願いを断る訳にもいかず、今回だけと言う条件を付けることで、取り上げる予定の領地の、北側だけの領地の取り上げに譲歩をする。

その事は、直ちに畠山義継に知らされ、内心しめしめと思いながらも、翌日には礼物を持参し、50人余りの家臣に礼物を持たせながら、小浜城に姿を見せる。

この時、政宗は軍中の検分に出ており不在であり、代わりに隠居の輝宗公が、代わりに対応する事になる。

しかし、畠山義継の悪巧みに気が付かない輝宗公は、主従固めの盃を義継に施し、返杯の盃を返す瞬間を見計らい、脇差しを抜いて輝宗公の袖をとり、輝宗公を人質にとる。

輝宗公は、丸く収まったのに、馬鹿なを事をするなと説得するも、畠山義継の自尊心がその言葉を聞き入れる事は出来なかったのである。

輝宗公を人質に取りながら、小浜城からゆっくりと出ていき、伊達家臣達は、大殿の身柄を取り戻すべく後を追い掛けるも、むやみに近付けば隠居を殺すと脅されれば、一定の距離を取りながら追い掛ける事しか出来ない。

やがて、伊達畠山の国境沿いの川岸まで逃げてきた畠山義継の前に、前もって迎えに来るように命じていた畠山家臣達が川の向こう側に姿を見せる。

川を渡りきってしまえば、そこは二本松領内であり、伊達家臣達では、迂闊に攻め寄せる事は不可能になる。

だが、川の半ばまで来た時に、輝宗公は家臣達に自分と一緒に、義継を討てと命じる。

このまま二本松に連れていかれたら、政宗の今後の行動を大幅に制限をされる事を、輝宗は嫌がったのである。

義継は、輝宗を黙らせようとするも、輝宗は義継の脇差しを自分の胸に突き刺し、見事な自決をして果てる。

その光景を見た伊達家臣達は、畠山義継を始めとする畠山家臣達に、200の鉄砲を撃ち放ち、そのまま切り込みを仕掛ける。

もちろん、畠山義継の家臣達も、伊達勢に向けて切り込みを行う。

双方の家臣達の血と血で川が埋め尽くされ、畠山家臣達を皆殺しにしたのち、輝宗の遺体が小浜城に到着した翌日、伊達と相馬の和睦を終えた天海と、仙台の港に上陸をしていた真田の軍勢がその騒ぎを聞き付け、米沢城に向けて進軍を早めていた。

まだ若い政宗の行った事を聞いた天海は、一刻も米沢城に到着をし、政宗を叱り飛ばすつもりでいた。

畠山義継の首を城下に晒しただけではなく、目をくりぬき、耳を削いだのである。

目には目を、歯には歯をの、憎悪の行為は、決して良いことには転じないからである。

弱冠15才の政宗には、目の前の怒りに身を任せて行ったら行為は、大きな利益の損失を出す事を、計算出来なかったのである。

輝宗の遺体が米沢城に到着した翌日、天海率いる8000の軍勢が米沢城に到着をする。

その日は、輝宗の葬儀を執り行う日であり、天台宗の僧正である天海も、輝宗公の葬儀に参列。

伊達家臣達の顔ぶれをそっと見ながら、資福寺を後にする。

輝宗公の葬儀が終わり3日経過した日、天海は政宗との初の顔合わせを行う。

「お初にお目にかかります。

某、天台宗の僧正を任されております、天海と申します。

奥羽管領様は、ご機嫌麗しゅうにて。」

天海の丁寧な挨拶を適当に聞いていた政宗は、早く対面を終わらせたい気分である。

早く畠山の領内に攻めこみ、父の敵討ちをしなくては、ならないからである。

だが、天海は、政宗の気持ちを知っている上で、更に会話を続ける。

「来年には、上様が直々に関東征伐を行い、内府殿も奥羽征伐に乗りだし、右府様も九州征伐に乗りだしなされるとか。

来年には、日の本から、戦乱の火が消える事になりますな。

奥羽管領様は、内府様の手足となり奥羽統一の為に働いて欲しいものですな。」

いつになく、天海の口調は滑らかである。

いつまでも止まらぬ一方的な会話に、、政宗はしびれを切らす。

「ご使者殿のお言葉、この政宗確かに賜りました。

本日は、このあとの用事がございまするゆえ、日を改めてお話を聞かせて頂きます。」

政宗が立ち上がり、部屋を後にしようとすると、天海は痛烈な一言を政宗に浴びせる。

「そこまでして、父上の敵討ちをされたいのか?

二本松に残された遺児は、9才の子供ではないか?

攻めるぞ、攻めるぞと、圧力を掛ければ落ちる城を、力攻めにする訳がどこにある?

貴様のような若造には、この奥羽一体を任せることは出来ぬ。

この米沢にて、大人しくしておれ!

いや、貴様のような無能に、伊達家の当主の資格はない。

さっさと、弟に家督を譲り隠居でもしろ!」

内府の使者とは言え、1国の当主のに向けて吐いてよい、言葉ではない。

だが、天海は、政宗の器量を確かめる為に、わざと悪口を言い放つのである。

天海がそこまで言葉を放った時に、政宗の正室である詩穂が、姿を見せる。

実家の真田家より、使者が来たと聞きつけ、身なりを整えてから歩き始めた為に、少し遅れて来たのである。

詩穂は挨拶を済ませると、さっさと座り込むも、伊達家当主であり夫である政宗は、勝手に来た詩穂を部屋に返そうとするとするも、詩穂の実家の力の差と、自分よりも年上と言う事もあり、しぶしぶ同席を認める。

その詩穂は、使者の天海の目を見るなり、思わず息を飲み込む。

天海の目を見た瞬間に、よく似た目を知っているからである。

実父である、敦の目である。

詩穂は、失礼を承知で言葉を言う。

「ご使者殿、失礼を承知でお願いを申し上げます。

その、頭巾を、取ることは出来ましょうか?

なんとなくですが、私の知っている方に目がそっくりなものですから。」

だが、天海はそれを拒否する。

いずれ時が来れば、この頭巾を取ると約束をするだけである。

天海は、政宗との会見を終え、米沢の近くにある至福寺に数日の間、宿泊をする。

しかし、その数日の間に、事態は急変をする。

先代の輝宗の家臣であり、家老の遠藤基信が、殉死をしたのである。

それだけではなく、同じく家老の須田伯耆や、内馬場右衛門といった、政宗を支える筈の人材が殉死をした。

この報告を受けた政宗は、遂に怒りを抑えられなくなり、二本松を攻めるために小浜城に移動を開始。

片倉小十郎と、従兄弟の伊達成実に二本松攻めの先陣を任せるも、小十郎は二本松を攻めることの延期を申し出る。

だが、政宗は守りを固められる前に出陣をし、二本松を占拠する事に固執する。

それでも小十郎は、二本松を救援する為に、南に出る街道六家(芦名、相馬、白川、石川、岩城、畠山)の、連合軍を形成される事を政宗に苦言を申し出、更にこの地に政宗が釘付けにされると、北が動き出す恐れも合わせて伝える。

政宗は、母が自分を嫌っている事を知っているだけに、かえって二本松を占拠する事に、固執をしてしまう。

二本松を攻める事は年内に決まり、意気揚々と伊達勢が出陣をするも、次の日から4日間猛吹雪に見舞われ、これ以上の進軍は無理と判断をした政宗は小浜城に撤退をする。

ところが、この猛吹雪により、街道六家が国王丸を討たせるなと、救援軍を派遣し、総勢約3万の連合軍が小浜城に攻め寄せたのである。

伊達軍と、街道六家との火蓋は、高倉城にて切って落とされ、城将の一人である伊東肥前守は、400あまりの手勢を率いて、城から討って出て街道六家に切り込みを行うも、数十倍近い敵の前に全滅をするしかなくなる。

それを本陣の近くで見ていた、伊達家の家老鬼庭左月入道が、300あまりの手勢を率いて伊東の救援に向かい、それを見て政宗も入道を討たせるなと敵陣に切り込む。

しかし、平地の戦では、数がものを言う。

作戦もなく、兵力も少ないのであれば、戦に勝てる道理はない。

まだ若い政宗の、冷静さに欠け、激昂に身を任せた結果である。

いつしか主戦場は人取り橋に移り、戦が更に激しくなった頃、鬼庭左月入道の討ち死にの報告が、政宗の元に入る。

人取り橋の上では、政宗が奮戦をしており、そこに駆けつけた小十郎が、政宗の身代わりとして代わって奮戦をし、その間に政宗は人取り橋より撤退をするも、あちこち傷付いた馬の限界が来たのか、馬が横に倒れるとそのまま政宗も横に投げ飛ばされてしまう。

打ち所が悪かったのか、政宗はそのまま気を失ってしまう。

戦場も闇に包まれ始めた頃にも、怒号と悲鳴は続いていた。

しかし、米沢から、天海率いる真田勢が戦場に到着すると、街道六家は戦を切り上げ伊達勢との距離を置く。

伊達勢との戦を行っても、この国の最強の支配者に歯向かう勇気はないからである。

翌日の朝、天海は街道六家に使者を送り、これ以上戦を継続するなら、真田勢が相手、いや朝敵に指定をすると恫喝外交を始める。

さすがに、朝敵に指定をされる事だけは避けたい街道六家は、軍勢をまとめるとお昼過ぎには撤退を始める。

翌日のお昼前に、ようやく意識を取り戻した政宗の前には、師匠である虎哉禅師がおり、政宗に永遠と説教をしていた。

時には杖で、政宗の肩や背中を叩き、罵声を政宗に浴びせながらの説教である。

天海は、その光景を近くで見ながら、静かにしていた。

翌日、政宗は小浜城に戻り、数日軍勢を休めた後に米沢に戻る。

天海は、翌日には米沢に向けて移動を開始。

北の最上の動きが気になるのと、政宗の母である東の方の動向も気になるからである。



天正11年(1583年)1月、それぞれの大名家は、新年の挨拶を行っていた。

天海は、伊達家の新年の挨拶に参加をしていたが、1月4日には、芦名を始めとする奥羽地方の大名の元を回り、伊達政宗の奥州官領就任の祝いの使者を送れと伝えていた。

素直に応じれば征伐の対象から外し、拒否をすれば征伐をする。

その、線引きを行う為に、天海自らが使者として出向くのである。

だが、天海はいじが悪いのである。

真田家の使者として出向くのではなく、無断で伊達家の家臣を名乗り、使者として出向くのである。

真田家の使者としてならば、奥州の大名達も、内心は嫌々ながらも、使者を出すことを承知したであろう。

しかし、敵対をしている大名や、伊達家を格下に見ている大名達は、天海の要求を拒否する。

それどころか、それぞれの大名達は反伊達連合軍を組む為に、各地の大名に密使を送り、同盟の意思を統一させていく。

天海は、奥羽地方の大名達に連合軍を組ませる為に、あえて芝居を打ったのである。

大義名分もなく、伊達家を討とうとするならば、朝敵として堂々と真田家による奥州征伐が行える。

天海は、そうそうに、越前に使者を送り、奥州征伐の時が来た事を伝える。

唯一、使者を出すのを承諾したのは、最上家だけてある。

やはり、最上家当主の最上義光の実の妹が、伊達家に嫁いでいるために、表面上は友好の態度を示していだけである。

伊達家に隙あれば、いつでも伊達家の乗っ取りに行動を実行してもおかしくないのである。

1月20日、伊達家を揺るがす事になる、大事件が起こる。

政宗の生母であり、先代輝宗公の正室である東ノ方が、実の息子の政宗の毒殺による暗殺計画を実行したのである。

事の発端は、前々から政宗の最上家に対する態度である。

お互い表面上は、友好関係を保ちながら、お互いの領地を狙って、水面下での争いが激しさを増したのである。

外交を見ても、だんだんと伊達家の発言力が増し、最上家の発言力の低下を感じ取って来た故の、焦りもあったのであろう。

このままでは、最上家は伊達家の属国になりかねない。

そうなる前に、政宗を毒殺し、弟の小次郎に伊達家を継がせ、ゆるりと伊達家を最上家の属国にすればいい。

伊達輝宗に嫁いだ時から胸の中に秘めていた野心を、とうとう表に出したのである。

東ノ方は、自から料理を作り、3月に計画をしている芦名討伐の成功を祝うと申し、政宗を食事に誘い出す。

政宗は素直に応じ、東ノ方の前に姿を表し、天海も護衛を率いて隣の部屋に待機をしている。

元から、東ノ方を信用していない天海と夏織は、息を殺しながら隣の部屋の様子を伺い、胡桃、真李、葉の忍びの者達は天井裏に待機をしている。

「母上の手料理など、どれぐらいぶりであろうか。

この政宗、ありがたく頂戴致します。」

「政宗殿に喜んで貰えるとは。

この母は、なんとも言えぬ喜びである。」

2人会話を聞いていた天海は内心、狐と狸の化かしあいのようであるな。

そんな事を考えながらも、仕込み杖を手に持つ。

政宗は実母に礼を申してから、箸を取り鯛の刺身を一切れ取り、その刺身を一口食べるなり、舌に僅かな痺れを感じとり、あわてて部屋を飛び出し、廊下の縁側で口から物を吐き出す。

「兄上、如何なされました?」

政宗を追って、弟の小次郎が政宗に近寄りながら、刀を鞘から抜いて政宗に切りかかろうとした瞬間、その小次郎の首が胴体から切り離されていた。

天海が仕込み杖から刀を抜いた瞬間には、夏織が横一線に刀を動かし、小次郎の首を切り落としていた。

あまりの早業に、東ノ方はなにがおきたのか分からなかったが、胴体から噴水のように血が吹き上がっているのを見て、思わず悲鳴を上げたのである。

その悲鳴を聞いた瞬間に、天井裏の板を踏み抜いた、胡桃、真李、葉が部屋に入るなり、天海が大声を上げる。

「胡桃、真李、葉、その女狐を取り押さえよ!

政宗殿の暗殺を企んだ、張本人である!」

天海が大声を上げる前に、胡桃、真李、葉の3人は既に、東ノ方の身柄を拘束していた。

刀を持ちゆっくりと東ノ方に近寄る天海は、刀の先端を東ノ方の顔に突き付ける。

「女狐、ようやく本性を現したな。

真田政長殿の義弟であり、伊達家の当主である政宗殿の暗殺を企むとは、まさに天を恐れぬ悪逆無道である!

その命で、これまでの悪行を詫びよ!」

天海が刀を振り下ろそうとした時に、政宗の一言が天海の動きを止める。

「て、天海殿。

私の実母に、罪はない。

だから、命を取るのだけは、辞めて欲しい。」

そこまで言葉を伝えると、政宗はそのまま気を失う。

政宗が、気を失うと同時に、騒ぎを聞き付けた家臣達が駆けつけ、辺りの惨状を目の当たりにする。

「て、天海殿!

こ、この有り様は、何事でござるか!」

政宗の守役である、片倉小十郎景綱が、天海に近寄り詰問をする。

それは、そうであろう。

政宗は、異物吐き出して廊下で倒れており、政宗の弟の小次郎は、首を切り落とされ絶命。

更には、東ノ方の身柄は、3人の女によって拘束をされている。

いくら、真田家からの使者と言えども、伊達家の中で好き勝手にやって言い訳ではない。

次に言葉を吐いたのは、政宗の従兄弟の伊達成実である。

「天海殿!

この状況を、きちんと説明してくだされ!

事と場合によっては、貴殿方を処罰しなくてはなりませぬ!」

景綱と、成実の両人から詰問をされた天海が口を開く前に、夏織が口を開く。

「あっ?

この女狐は、政宗殿を毒殺しようとした。

そこの首なし死体は、政宗殿を殺そうとしたから、私が殺した。

政宗殿を助けた私達を、処罰するだと?

無実の者を処罰するのが、伊達家の流儀なのか?」

夏織の言葉を繋ぐように、次は胡桃が口を開く。

「無礼者!

天海様は、上様の義弟にして、従二位内大臣に任命をされた、真田敦様である!

更には、政宗殿の岳父になるお方でもある。

朝廷の臣を疑うなど、朝廷に弓を引く行為と見なす!

黙って下がりおれ!」

景綱、成実だけではなく、他の家臣達も、絶句をするしかなかった。

伊達家当主である政宗の岳父であり、本能寺の変にて死んだと言われている真田敦が、目の前にいるのである。

ただただ震えながら、景綱を始めとする伊達家の家臣達は、その場に膝を付くだけである。

「先内府として、そなた達に命じる。

政宗殿を部屋に連れていき、早く医者に診察をさせよ!

この死体は、そのまま川に流せ!

それと、この女狐は、牢獄に閉じ込めよ!

政宗殿の容態が回復するまで、余が伊達家の内政と軍事ををやる!

さっさと、言われた事を始めよ!」

そう言われた家臣達は、その命を忠実に執り行う。

政宗は、自室に連れていかれ、布団に寝かされると、御殿医を直ぐに呼び寄せ、容態を調べさせる。

物を言わぬ首なし死体の小十郎は、近くの鬼面川に、胴体と首をそのまま流される。

謀叛人の死体を、寺に葬る事を天海は、決して許さなかったからである。

東ノ方の身柄は、牢獄に投獄をされ、四六時中監視の元に置かれる事になる。

天海は、政宗毒殺計画の一連の黒幕は、最上義光であると睨んでいた。

その為、天海は加賀の夕夏の元に使者を送り、最上討伐の軍勢を上杉景勝にやらせよと書状を送る。

毒殺などと言う、極悪非道の行いを平気で命じる最上義光に鉄槌を下すのは、義を重んじる上杉家に任せるの妥当であると考えたからである。



それから10日後には、政宗の容態が回復をし、政務を取れるまでになると、天海は会津地方を支配している芦名家に出向いていた。

先代の芦名盛氏が亡くなって以降、芦名家の力が段々衰えていき、現在の当主は二階堂家より養子に貰っていた芦名盛隆である。

だが、その盛隆も、今年の正月に、家臣の大庭三左衛門に暗殺をされてしまう。

盛隆には子供なく、家臣達が揉めに揉めている時に、越前真田家の使者として、天海が乗り込んで来たのである。

芦名家臣達が一斉に揃っているなか、天海はずかずかと大広間に入り、作法を無視する様に、床に腰を下ろす。

そして、芦名家臣達が口を開く前に、さっさと用件を述べ始める。

「某が本日ここに来たのは、芦名家の後継者問題の解決である。

恐れ多くも、帝より綸旨を預かってきた。

慎んで聞くように!」

内容を簡潔に書けば、芦名家の次の当主に、佐竹義重の次男である、佐竹義広を養子として迎えよと書かれていた。

当然、帝本人が言い出した事ではなく、内大臣の真田夕夏が朝廷に進言をし、3日間の協議の後に採択をされた。

勅使に選ばれたのは、天台宗の僧正であり、先内大臣真田敦である。

この時には、既に真田敦は天海を名乗っており、伊達家に使者として向かう次いでに、芦名家に寄った感覚である。

だが、芦名家臣達は、帝の綸旨を出された以上、逆らう力もなくその綸旨を素直に受け入れ、佐竹義広を次の芦名家の当主として迎え入れる事になる。

これにより、事実上は、芦名家は真田家の家臣になり、無断で芦名家を攻める者は朝敵の扱いになる。

天海は、加賀の夕夏の元に使者を送り、佐竹義広とそれに従う家臣達を会津に送るように書状を送る。

そこまでの仕事を終えると、天海は会津を後にして米沢に帰る。

米沢に戻った天海は、3月の雪解けの頃に、芦名を外した街道四家を滅ぼしてから最後の相馬を攻める。

相馬を滅ぼしてから更に北上をして、大崎葛西の両家を滅ぼすつもりでいた。

同じ頃、加賀の夕夏も、北出羽を支配している安東家、陸奥を支配している南部家、後細かい領地を支配している小大名を滅ぼしてから、南下を開始。

大崎葛西を滅ぼす予定である。

つまり、北から夕夏が、南から天海、政宗が奥羽地方を統一するのである。

南出羽地方を支配している最上家は、越後の上杉家を使い滅ぼす。

天海と夕夏の考えは、使える大名は全て使う。

その上で、功績を検討して褒美を与える。

上様から奥羽地方の全権を任されている、天海、夕夏だからこそやれるのである。

奥羽征伐の軍勢は、真田夕夏率いる約6万、天海率いる約6000、上杉景勝率いる約1万である。

数日後、天海からの書状を読んだ夕夏は、安土の上様の元に参り、奥羽地方の、情勢を報告する。

出陣の準備も整い、春の雪解けを待って、奥羽征伐に乗り出す前に、最終確認の為である。

上様も、天海からの書状を軽く目を通すと、直ぐに命令を下す。

「春の雪解けがなれば、奥羽地方を制圧開始せよ。

制圧の仕方は、全て任せる。

奥羽地方を制圧し終えたら、そのまま関東に南下し、北条征伐に参加せよ。」

夕夏は、上様の言葉を聞き終えると、直ぐに越前北ノ庄城に向かう。

政長殿の、出陣の準備の確認と、兄上の家族と久しぶりに会うからである。

同じ頃、信濃深志城を拠点にしている柴田勝家の機嫌は良かった。

領内も安定を取り戻し、もうじき北条征伐が開始されるからである。

北条征伐で功績を認められれば、関東の領地を任されると信じているからである。

関八州と昔から言うが、少なくとも三州か、四州は任されると、取らぬ狸の皮算用の計算もしていた。

奥羽征伐や九州征伐と違い、上様自ら出陣をなされる北条征伐は、直接上様に功績を認めて貰えるからだ。

九州征伐の総大将は、上様の後を継がれた信忠様であるが、どんなに功績を認めて貰おうが、せいぜい1国を任される程度であろう。

奥羽征伐に関しては、勝家の興味すら持てない代物である。

奥羽征伐の総大将は、真田夕夏であり、伊達家の助力を借りての征伐になるから、功績を認めて貰いにくいと勝家は考えていた。

関東の北条征伐の軍勢は、上様自ら約20万を率い、柴田勝家、滝川一益率いる約2万、徳川家康率いる約1万が、各々の攻め口から北条征伐に向かう。



更に同じ頃、中国地方の毛利家の元に居たのは、秀吉の参謀を任されている黒田官兵衛である。

安土会議の後、毛利家が支配をしている石見出雲の2か国割譲の交渉を、開始していたからである。

毛利家にしてみれば、5か国の領地を割譲して正式な和議を結んだ事で、これ以上の領地問題はないと考えていた。

しかし、本能寺の変を生き延びた上様の命により、石見出雲の領地を割譲させよと命じられた以上、官兵衛はひたすら毛利輝元を説得するしか無かったのであるが、なかなか交渉が進展をしない。

それは、輝元の叔父である吉川元春が、石見出雲の割譲に、大反対をしているからである。

石見出雲の領地は、吉川元春の領地であり、それを織田に割譲したら、自分の領地を全て失うからである。

困り果てた官兵衛は、最後の手段を用いる事にする。

毛利家に向かう前に、真田夕夏から1通の書状を預かっていたのである。

本当であれば、その書状を使わずに交渉を終えたかったのであるが、ここまで話がこじれてしまうと、仕方ないと自分に言い聞かせてから、その書状を輝元公に差し出す。

官兵衛より書状を受け取った輝元は、その書状に目をやると、徐々に顔が顔面蒼白になる。

同席をしていた、もう1人の叔父である小早川隆景が、輝元の元に近寄り、許しを得てからその書状の内容を確認する。

簡単に内容を記すと、秀吉が勝手に結んだ和議は無効である。

毛利家が生き残りたいのであれば、備後、備中、安芸以外の、7か国を割譲せよ。

その代わり、九州征伐に参加をして、功績を上げれば改めて領地を与える。

九州征伐を終わるまでは、領地を割譲しなくともよい。

上から目線の内容であるが、輝元が顔面蒼白になった本当の理由は、差出人の署名である。

内大臣 真田夕夏

先内府 真田敦

先右府 織田信長

である。

真田夕夏はともかく、本能寺の変にて死んだはずの、信長や敦の署名があるとなると、普段は冷静沈着な輝元と言えど、内心は穏やかではない。

隆景も、内容を確認したのち、官兵衛に書状の確認をする。

「官兵衛殿、この書状は本物でござろうな?

まさか、偽物を用いて、我々を欺こうとしているのではなかろうな?」

官兵衛は、隆景の顔を真っ直ぐ見ながらゆっくりと返答をする。

「その書状は、某が当家に出向く前に、真田内府より安土にてお預かりした書状にございます。

上様と、先内府の生存は、織田家の最高機密にございますが、お二方の許しを得て、当家に明かす事を許されました。

もしも、当家がこのまま交渉を先伸ばしにされるのであれば、お二方も決して毛利家を許さぬ事でしょう。

今、この書状の内容を全てお受けして、毛利家を残すか。

それとも、この内容をお蹴りして、織田家の討伐軍を改めて向かわせか。

新しい討伐軍の総大将は、上様であり、副大将は、先内府殿でしょうな。

あのお二方を敵に回して、毛利家の安泰はありますか?」

官兵衛からの、最終通告の恫喝外交である。

さすがに、強硬派である元春ですら、言葉を発する事は出来ない。

毛利家の存亡に関わる事であり、己の所領問題どころではない。

信長による中国攻めの被害にあっていた毛利家の内情は、瀕死に等しいものである。

軍資金も、兵糧も、兵力も、ほとんど尽き掛けていたからである。

もしも、本能寺の変があと、1年遅ければ、毛利家は日の国から、完璧に消え去っていたであろう。

だが、九州攻めで功績を上げれば、改めて領地を与えるとの文言がある以上、石見出雲両国とは言わないが、どちらか1国を返して貰える可能性もある。

もしかしたら、最初の和議の内容で、信長が満足をするかも知れない。

その僅かな可能性に期待をして、元春は口を開く。

「輝元様、毛利家の安泰の為にも、この条件を飲むべきです。

亡き元就公の望みは、天下を狙う事ではなく、家の安泰を願っておりました。

領地割譲は辛い事ですが、毛利家の安泰の為にも。」

強硬派の元春が折れた事で、小早川隆景も、兄である元春の意見に賛成をする。

2人の叔父から、賛成を言い出されると、当主の輝元も弱気になる。

元々、優柔不断であり、決断を下すのに時間が掛かる人物である。

だが、毛利家の安泰の為には、この条件を飲むしかないと分かっている。

輝元は、あえて苦渋の決断の振りをしながら、和議締結の条件を飲むと官兵衛に伝える。

官兵衛は、輝元の演技を見抜きながらも、あえて気付かない振りをし、織田家と毛利家の和議締結を結べた事を良しとして、にこやかな顔をしていた。

さて、九州を見てみると、大友、龍造寺、島津の三強がそれぞれ覇を競っていたが、徐々に島津の勢力が伸び始めていた。

薩摩大隅だけではなく、日向の伊東氏を倒し、肥後の阿蘇氏に圧力を掛けながら、肥後進行の機会を狙っていた。

豊後を支配する大友氏は、豊前筑前を支配する大名であるが、つい先程まで、筑前を巡って毛利家と争いを続けていた。

肥前の龍造寺は、筑後の支配に成功をし、続けて筑前の攻略か、肥後の攻略かで悩んでいた時に、本能寺の変が起きたのである。

それぞれの大名も、九州統一を目標にしており、迂闊に動けない状態に陥る。

もしも、島津が肥後の阿蘇氏を攻めれば、豊後の大友は、日向攻略に乗り出すであろう。

大友氏が先に、日向攻略に出向けば、肥前の龍造寺が、筑前豊前攻略に乗り出す。

龍造寺が、肥後の攻略に向かえば、大友が筑後の攻略に乗り出すのである。

まさに、先に動けば損をする状態である。

九州の情報を集めていた上様は、どこを潰して、どこを残すかを検討していた。

本能寺の変の前には、大友宗麟は信長と友好関係を結ぶ為に、色々と贈り物を届けていた。

成り上がりの龍造寺は、肥前統一に手間取っており、そこまでの余裕はなかった。

薩摩大隅を支配していた島津は、中央政権の織田の存在を軽く見ていた。

薩摩隼人の強さと、有能な兄弟の絆の強さを過信するあまり、信長の脅威を軽く見ていた。

島津の強さは、主君を筆頭に、四人兄弟の能力の高さと、薩摩隼人の勇猛が強いであろう。

大友の強さは、立花道雪らの家臣の能力と、南蛮の大筒を所有している事である。

龍造寺の強さは、主君の龍造寺隆信の戦の強さと、義弟の鍋島直茂の能力の高さであろう。

どこを滅ぼすのにも、手間が掛かりすぎる。

その為、信長は、安土会議の後、天海、真田夕夏、森蘭丸、蒲生氏郷、細川忠興等を集め、3日間の協議の末、九州征伐の基本方針を決める。

先ず、それぞれの大名に降伏を言い出す。

大友宗麟には、豊後1国を。

龍造寺隆信には、肥前1国を。

島津義久には、薩摩大隅の2か国を残す。

この外交交渉が成功すれば、残りの4か国及び、肥後の阿蘇氏を織田の支配下に納め、九州の治安を回復させる。

しかし、上様と友好関係を結んでいる大友宗麟はともかく、龍造寺隆信や、島津義久がこの条件を飲むとは思えない。

上様に逆らう者は、朝廷に逆らう逆賊であると天下に示し、九州征伐の大義名分を手に入れる。

大友宗麟には、羽柴秀長を送り、島津義久には、羽柴秀吉を送り、龍造寺隆信には、蜂須賀正勝を送り込んである。

九州征伐の軍勢は、織田信忠率いる約8万、浅井長政率いる約1万、長宗我部元親率いる約8000、毛利輝元率いる約3万の軍勢を予定している。

大友宗麟は、織田家からの提案に乗り、豊後1国安堵の条件で、織田家に降伏をする。

龍造寺隆信は、最後まで抵抗を試みるつもりでいたが、鍋島直茂の理詰めによる説得の前に、とうとう心が折れる。

肥前1国の安堵の条件で、織田家に降伏をする。

しかし、最後の島津義久は、1度も戦わずに降伏をするのは武門の恥だと言い返し、織田家との決戦を決意。

秀吉の説得もむなしく徒労に終わり、上様に事の顛末を報告する。

上様はその報告を聞いても激怒をする事もなく、大友、龍造寺に改めて使者を出して、島津征伐の兵を出せと指示を出す。

奥羽、関東、九州にて、日の本統一の最後の戦いが、行われようとしていた。



天正11年3月、織田信長による天下武布完成の為の遠征軍が、進軍を開始する。

伊達政宗と天海は、南奥羽の街道4家を攻略のち、北上して大崎葛西を征伐。

真田夕夏は、北出羽を支配する安東から南部、その他の小大名を征伐したのち、南下政策に従い大崎葛西征伐に向かう。

上様は、中仙道を通り、関東の上野から下野に向かう軍勢と、そのまま武蔵に向かい北条征伐に向かう。

徳川家康は、東海道を通り、伊豆から相模の攻略を予定している。

織田信忠は、毛利、長曽我部、大友、龍造寺らの大名を引き連れて島津征伐に向かう。

信忠の軍勢には、真田政長の軍勢も参加をしていた。

当初の予定では、越前にて留守をしている筈であったが、信忠年が近い事と、信忠政権が樹立した時には、首席の立場になるであろう政長の立場固めにも九州征伐参加は必要だからである。

豊後から日向に向かうのは、大友宗麟を先陣とし、第2陣を率いるのは真田政長であり、第3陣を浅井長政が率い、織田信忠は第4陣を本隊として進軍をする。

こちらは、東側から薩摩を目指すので、征東軍と言われる。

肥後から薩摩に向けて先陣を切るのは、龍造寺隆信であり、第2陣を率いるのは毛利輝元。

第3陣を本隊として進軍をするのは、羽柴秀吉である。

こちらは、西側から薩摩を目指すので、征西軍と言われる。

毛利村上連合水軍は、肥前長崎より南下を始め、島津の本拠地である内城を包囲するべく船を走らせる。

九州島津攻めは、予想を超えていた。

大友宗麟率いる軍勢は、5年前の耳川の戦いで島津軍に負けている影響も残っていたのか、戦意があまり高くない状態である。

それでも、約1万5000を率いている大友軍は、約8000あまりの島津軍に対して、やや有利な戦いをしていた。

四半時あまりの戦いをしたのちに、島津軍は後方の森林に向けて撤退を始める。

もしも、先陣を任されていたのが、真田敦か、夕夏のどちらかであれば、即座に釣り野伏せの戦法であると見抜いたであろう。

慎重な真田政長であったとしても、深追いは禁じた筈である。

しかし、大友軍の先陣大将であり、大友宗麟の義兄である田原親賢は、全軍に島津の追撃を命じる。

だがこの追撃が、島津の釣り野伏せ戦法に、まんまと引っ掛かる事になる。

しばらく追撃をしたのちに、森林を抜けた先にある草原に到着した時には、すべての罠が発動をしていた。

突然左右の草むらから、島津の旗印が立ち上がり、後ろに後退をしていた島津の軍勢も向きを変えて、大友軍の前に立ちふさがる。

いくら数で勝る大友軍と言えど、3方向より同時に攻められてはどうしょうも無かった。

大友軍の軍勢は、どんどん数を減らしていき、大友宗麟の本陣すら危うくなりかけた時に、第2陣を任されていた真田政長の軍勢が到着をする。

即時に状況を見極めた政長は、約2000の兵を島左近に任せ、島津の右翼を攻めさせると同時に、6門用意をしていたカルバリン砲を島津の左翼に向けて発射をさせる。

政長が持ち込んだカルバリン砲は、大型の台車に乗せている砲であり、機動力の高さを売りにしている。

それだけではなく、即座に玉を打てるように改良もしていた。

いくら精強な島津軍と言えども、6門のカルバリン砲から次々と発射をされる、焙烙玉の前には手が出せない。

左翼の動きが止まったのを見た島左近は、島津の右翼と数的には互角であったが、約1000丁の鉄砲隊を3段に分けての、連続発射で島津軍に対抗をしている。

右翼と左翼での戦いは、徐々に真田軍が島津軍を押し始めていた。

政長の戦法は、至近距離の戦いではなく、遠距離を特化した戦いである。

島津軍の戦法は、至近距離を得意としており、遠距離はどちらかと言えば苦手な部類である。

何しろ、至近距離に持ち込もうとしても、尽きる事のない焙烙玉と、約1000丁の鉄砲による3段撃ちをされては、動きようがないのである。

政長は、残りの1000人を率いて大友宗麟の本隊と合流に成功。

ここにいたり、ようやく形勢の逆転をした大友軍も、中央の島津軍に向けて突撃を開始する。

島津軍の総大将である島津義弘は、釣り野伏せが失敗に終わった以上、これ以上の戦は無用であると判断を下し、日向の飫肥城に撤退を始める。

島津義弘の撤退を見ていた政長は、これ以上の追撃を止めると同時に、信忠の元に使者を送る。

そして、大友宗麟の本陣にて、田原親賢の責任問題を追求する。

しかし、宗麟の必死の説得により、田原親賢の処分は島津攻めが終わるまでの延期として、一応の決着を見る。

日向攻めがこうであったように、龍造寺隆信と、毛利輝元、羽柴秀吉率いる征西軍は、緒戦から大打撃を受けていた。

当初は、肥後に向かいそこで島津軍を迎え撃つ予定であったが、島津軍が島原半島に上陸をした事により、進路を変更せざるをえなかった。

この戦いが、沖田畷の戦いである。

龍造寺隆信を迎え撃つのは、島津4兄弟の3男の歳久と、4男の家久である。

初戦は龍造寺隆信の陣頭指揮により、島津軍を問いつめていくも、島津家久の軍才は、4兄弟の中でもずば抜けている。

島津軍の得意の戦法である釣り伏せを、仕掛けるのである。

島津軍が撤退をしたのを見届けた龍造寺隆信は、義弟である鍋島直茂の諫めを無視して、島津軍を追撃するも、案の定3方向からの伏兵に襲われ、龍造寺隆信の軍勢は壊滅状態に陥るだけではなく、総大将である龍造寺隆信本人も、退却の最中に泥沼に足を取られてしまい、あっけなく島津軍に撃ち取られる始末である。

九州征伐が、困難な状況であるのに対して、奥羽征伐と、北条征伐の方はどちらかと言うと、さほど困難ではなかったようである。

奥羽征伐の総大将は、天海であり、北条征伐の総大将は、上様である。

奥羽征伐の流れは、このような感じてあるとゆう。

天海率いる真田軍と、政宗率いる伊達軍は、街道四家と戦に及ぶも、戦はわずか2刻あまりで終結をしている。

いつものように、天海自ら先陣の陣頭に立ち、足軽達と共に最前線で槍を振るうからである。

「てめえらごときが、どれだけ集まろうが、余の敵ではないわ!

死にたく無いものは、ここから立ち去れ!

死にたい者は、余が相手をしてやる!」

天海が敵兵を、数人討ち取ると、天海の近くにいた塚原夏織は、その数倍の敵兵を討ち取っていた。

「弱い、弱すぎる!

私を満足させられる武将は、ここにはいないの?

死にたい者は、前に出なさい!」

まさに、一方的な殺戮である。

街道四家の軍勢は、やはり寄せ集めの軍勢であり、指揮系統に乱れがあるのに対して、天海率いる真田軍は、臨時の総大将を任されている鉢屋葉の指揮のもと、次々と戦線を押し上げていく。

「松宮率いる騎馬隊は、右翼から回り込み、白河の軍勢を潰せ!

武藤率いる長槍隊は、そのまま中央より戦線を押し上げよ!

津田率いる弓矢隊は、長槍隊の援護をせよ!

鳳野率いる足軽隊は、左翼より回り込み、岩城の軍勢を押し返せ!」

別動隊の軍勢は、約6000余りであるが、一騎当千の豪傑達が揃っているためか、末端の足軽達まで士気が高い。

強将の元に弱卒なし。

まさに、この言葉が似合う。

臨時の総大将と言えど、やはり血であろう。

あの方の才能を、引き継いでいるとしか言えない。

正式な総大将である南条勝成も、自ら先陣に立ち、天海の背中を守るように槍を使いこなす。

「まったくよ!

この熱い心を満足させられる武者は、いないのかよ!

不完全燃焼のまま、戦を終わらせたく無いんだがよ!」

天海、夏織、勝成の通った後には、敵の屍しかない。

街道四家が、弱いのではない。

この3人が、化け物なのである。

だが、この3人を相手に出来る人物が、相馬家の客将として鍛練をしていた。

その人物の名前は、真柄直隆。

かつて、越前朝倉家に仕官をしており、主家滅亡のおりには、一向一揆の追撃を振り切り、九死に一生を得る。

五尺三寸の太郎太刀を使い、戦場をところ狭しと、暴れまわった豪傑である。

そんな真柄直隆が、今回の真田夕夏による奥羽征伐の話を聞きつけ、意気揚々と戦場に赴くのである。

別動隊が、街道四家を圧倒している頃、北の地では真田夕夏率いる本体が、安東、南部、小野寺などの奥羽連合軍と、死闘を繰り広げていた。

何しろ、奥羽連合軍は勝利をしなければ、生き延びる事が出来ない。

負けてしまえば、すべてを失うだけではなく一族の存亡にも関わるからである。

安東、南部、小野寺などの奥羽連合軍約2万と、真田本隊約6万である。

安東家当主の、安東愛季、南部家当主の、南部信直らは、一流の名将と言える能力を持っているも、相手が悪すぎたのである。

真田夕夏、真田信繁、島左近らは、軍才と軍略に関しては超一流であり、前田慶治、可児才蔵、水野勝成らは、指揮官としては、一流だからである。

それに、戦の経験の差も大きいと言える。

武田信玄、上杉謙信との戦を始め、多くの戦を生き延び、多くの経験を積んでいる事も、要因の1つである。

それと、兵の熟練度の差もある。

機内や北陸で戦い続けてきた真田家に対して、南部、安東を始めとする奥羽地方の大名は、そこまで年がら年中戦をしている訳ではない。

むしろ、血縁関係の影響で、相手を完全に滅ぼすまでの戦にならないからである。

一方、真田夕夏の方は、滅ばさなければ、こちらが滅ぼされるのを知っている為に、降伏をしない敵には情けは無用と、徹底的に滅ぼしてきた。

その、考え方の違いも大きいのである。

東北での戦いが継続されていた頃、関東方面は、やや難解な展開であった。

北条氏政は、すべての支配領内から、15才から70才までの男性をすべて徴兵する。

その集めた男性約10万人を、小田原城に籠城させたのである。

残りの支城には数百人程度の守備兵力を置き、籠城戦に備えさせていた。

氏政の頭の中には、武田信玄や上杉謙信が、小田原城を包囲した時の戦の経験がある。

大軍であればあるほど、兵糧の減りは早い。

小田原城に籠城していれば、いずれは兵糧不足により撤退をすると考えている。

それは、ある意味正しく、ある意味間違っている。

兵糧不足により撤退をする考え方は、正しいと言える。

しかし、兵糧不足になる前に、長期城攻めに耐えられる兵糧の運搬、及び鉄砲を使用するに必要な火薬などの補給が、完璧に行われていれば、長期の城攻めも可能なのである。

家康率いる三河衆は、伊豆の韮崎城を攻めており、信長本隊が率いる先陣大将柴田勝家らは、上野の厩橋城を攻めている。

前田利家率いる別動隊は、下野、常陸を攻撃している。

信長の頭の中には、的確な戦略が出来ていた。

相模の小田原城以外の支城を全て落とし、遠征軍の全軍を持って小田原城を完全に包囲。

更には、東北地方制圧を目的としている真田敦の軍勢も小田原城包囲に参加させ、北条氏政の徹底抗戦の気持ちを落とすと、最初から決めていた。

信長本人は、信濃深志城にて、各地の報告を受けながら、次々と新しい指示を各地に出していた。



遠征開始より、約3ヶ月の月日が経過した。

九州地方は、島津軍の必死の抵抗むなしく、薩摩1国を残すのみに追い詰められていた。

総大将の信忠は、これ以上の戦闘は無意味であると、島津義久に使者を出し、降伏勧告を行っていた。

信長率いる北条征伐は、小田原城以外の支城を全て落とし、小田原城の完全な包囲網を構築していた。

北条家のほとんどの重臣達が、小田原城に立て籠っており、信長は静かに時を待っていた。

堺や安土からの補給が途絶える事なく、包囲を続けられているのは、水軍の活躍が大きい。

そして最後に、東北地方征伐に向かっている真田敦達は、最後の大詰めに来ていた。

南部、安東、最上らの大名らは既に滅亡していた。

残る敵は、相馬だけであるにも関わらず、なかなか相馬の本拠の中村城を攻め落とせないでいた。

その原因は、真柄直隆の存在である。

南条勝成や、真田敦の武勇を持ってしても、真柄直隆の強さに歯が立たないからである。

真柄直隆を討ち取れなければ、相馬を滅ぼせない。

焦りを感じ始めた真田敦の前に、葛西大崎を滅ぼした真田夕夏の軍勢が合流をする。

真田敦は、夕夏を始めとする別動隊の大将達を本陣に呼び寄せ、軍議を開始した。

最初に口を開いたのは、妹の夕夏である。

「まず始めに、安東、南部、最上を始めとする大名らは全て滅びました。

この奥羽地方にて、我々にに敵対をするのは相馬だけになりました。

兄上が別動隊を、率いていながらにして、あのような弱小大名を滅ぼせない理由を述べてください。」

夕夏の辛辣な言葉に、別動隊を率いている天海こと、真田敦は重たい口を開く。

「言い訳じみた事は、言いたくないのだが、敵の総大将があまりにも強すぎて、我々では歯が立たない事が証明されている。

あの、朝倉家家臣であった、真柄直隆がいるからだ。

朝倉の滅亡と共に、死んだと思っていたあやつが生きておった。

3度中村城を攻め寄せたが、中村城の守護神のように、無類の強さを発揮し、我々にはの攻撃を見事に防いでおる。

何か、よい策は無いであろうか?」

さすがの天海と言えど、今回ばかりはお手上げとばかりに、頭をぽんぽんしていた。

兄上の情けない姿を見ながらも、夕夏はしばらく考え事をしていた。

そして、夕夏が口を開こうとした時に、静かに軍議を見ていた詩織が口を開く。

「明日の戦の先陣に、私を参加させて下さいませ。

真柄だろうが、誰が相手であろうが、私が討ち取ります。

明日には相馬を滅ぼし、早く関東に攻め込まなくては、上様から叱られましょう。」

詩織の言葉に、賛同したのは夕夏である。

「詩織の参戦に賛同すると同時に、よい策を思い付きました。

この策であれば、真柄と相馬を滅ぼす事が出来ましょう。」

そう述べてから、夕夏は思い付いた策を軍議にて披露をする。

その見事な策に、天海は唸るだけであった。

翌日、天海率いている別動隊は、正面の真柄隊を攻め、夕夏率いている本隊は、迂回道を使い直接、相馬の本拠地である中村城に攻め寄せる。

「真柄のゲス野郎!

今日こそ、てめえを討ち取ってやる!

さっさと、出てこいや!

それとも、俺様にびびって、出てこれねえのか!

腰抜け野郎は、さっさと中村城に帰りやがれ!」

口汚く真柄直隆を挑発するのは、南条勝成である。

それだけではなく、天海も真柄直隆を挑発する。

「まぐれで俺様を引かせた程度で、思い上がってるのか?

てめえごときに、俺が本気を出すと思うのか?

山猿を討ち取るには、俺は必要ないからな!

返答出来ないのなら、さっさと降伏したらどうだ?

今なら、助命ぐらいはしてやるぞ!」

天海が大声で真柄直隆を挑発すると、回りにいた足軽達も、個別に挑発をしていた。

武将としての誇りを傷つけられた真柄直隆は、回りの諌めも聞かず、全軍を進め戦を仕掛ける。

「今日こそ、お前らを討ち取り、これまでの苦しみから抜け出す!

今日は、さっさと逃げんなよ!」

両手で、自慢の得物である太郎太刀を豪快に振り回しながら、天海と、勝成の元に進んでいく。

その様子を、別動隊本陣から葉が見ている。

「まだです。

もう少し深入りをさせて、進退を困らせるまで引き込むのです。

父上と勝成殿であれば、必ずや真柄を孤立させられる。

あとは、叔母上の本隊が、中村城に近寄れる時間稼ぎをしなくては。」

葉は、前線に使者を送り、少しずつ後退をするように命じる。

相馬本隊と、真柄隊を引き離す事が、今回の作戦の要である。

詩織率いる部隊の目的は、真柄隊と相馬本隊の間に入り込み、相馬本隊による真柄隊の救援を阻止し、真柄隊の包囲網を完成させる事である。

「猪武者の真柄の野郎が、こちらに来てますぜ!

そろそろ、少しずつ後退しやすか?

それとも、もう少し時間稼ぎをしやすか?」

勝成の言葉に、天海は笑みを浮かべながら返答をする。

「猪武者の相手は、俺達でやろうじゃねえか!

その間に、兵を少しずつ後退させ、俺達もそれに合わせて、後退すればいい。

それと同時に、さらに真柄を挑発してやれば、必ずや包囲網の中に自ら飛び込んでくるさ!」

天海と勝成の2人は、お互い目配せを終えると、真柄直隆に向けて突撃を開始する。

お互いのプライドとプライドの、ぶつかり合いが始まろうとしていた。

そして、夕夏率いている本隊は、中村城に向けて進軍をしていた頃、中村城にて煙が上がっていた。

軽騎兵を率いている塚原香織と、真田忍軍を率いている鉢屋美海達が、夜明け間近の頃に中村城に奇襲を開始。

守備兵力で劣る相馬の守備兵は、大手門を突破されるも、柵や土嚢などで防御力を保ちながら、必死の抵抗を続けていた。

しかし、お昼近くに夕夏率いる真田本隊が到着をすると、それまで保っていた均衡は破られ、流れは夕夏の方に向き始める。

「さっさと中村城を落城させて、兄上の援軍に向かうわよ!

4万の兵がいて、こんな小城1つ落とせないなんて、生涯の恥になるわ!」

中村城にの守備兵力は、約3000人あまりであり、真田夕夏の率いる攻撃兵力は、約4万5000人あまりである。

昔から、城攻めには守備兵力の約3倍の兵力が必要と言われているが、約15倍の兵力差の前には、どんな守備力の高い城でも守りを保つのは難しい。

もはや、落城は免れぬと悟った、中村城の守備大将である相馬隆胤は、家臣の大森義孝を伴い、決死の突撃を開始する。

どうせ死ぬなら、後世に名を残し、見事な死に花を咲かせたい。

そんな気持ちが、あったのであろう。

「相馬家当主、盛胤が次男隆胤である!

勇気有るものは、我と戦いを挑まんか!」

それと同じく、相馬家でも、3本指に入る剛の者である、

大森義たかも名乗りをあげる。

「相馬3豪傑が1人、大森義孝である!

攻め手の真田家に、武勇自慢がおれば、我と勝負をいたせ!

4万もの兵がおりながら、我に戦いを挑む者はおらんのか!」

そこまで言われて、黙っていないのは、塚原香織と、鉢屋美海である。

剣術の腕前であれば、真田敦を越える香織と、素早さと剣舞の美しさでは、右に出る者はいない美海がその一騎討ちに応じる。

「真田家家臣、塚原香織。

相馬隆胤とやら、その勝負を受けようではないか!

貴様ごときに、鹿島新当流奥義を使うまでもないな!」

香織の挑発と同時に、美海も、義孝の一騎討ちに名乗りをあげる。

「真田家家臣が、鉢屋美海。

可憐な剣舞も持って、貴方を討ち取りましょう!」

どちらも、おなごが名乗りをあげた事により、隆胤も義孝もその事を侮辱と捉える。

ならは、この2人を血祭りにあげて、少しでも真田家の戦力を削ぐ気持ちを抱く。

「おなご相手では、本気になれぬわ!

死にたくなければ、さっさと道を明けよ!」

隆胤はそう言い放つと、香織に向けて槍を振り回しながら、威嚇をする。

同じく義孝も、自慢の朱槍を手に持ち、美海に槍を突きつける。

「小娘。命が惜しければ、この場より去れ。

あくまでも敵対をするなら、容赦しないぞ!」

戦場では、怒号と、太鼓の音、悲鳴等か響いている。

その中で、4人の武将達が、一騎討ちを行っていた。

「全く、遅いな。

あいつの方が、まだ剣術の使い手としては手応えがある。

興醒めでしかない。

もう終わりにしようか。

鹿島新当流奥義、笹隠れ!」

槍合わせを何度か行う内に香織は、隆胤の力量を知る。

たしかに剛の者と言えるが、真田敦と比べると数段落ちる。

物足りなさを感じた香織は、自ら作り出した奥義を、隆胤に繰り出す。

最初の数擊は、槍を受けていた隆胤であったが、一撃の重さに腕が痺れ始める。

そして、香織の最後の槍の突きを回避しきれず、鎧を槍で貫かれて討ち取られる。

同じく、美海の方も、機敏な素早さを生かし、義孝を翻弄し続け、その素早さに義孝が付いていけなくなると、僅かな隙を狙い喉笛を忍び刀で切り裂く。

喉笛を切られた義孝は、しばらくは口を動かしているも、物言わぬ死体に成り果てる。

「あのお方に比べたら、数段格下ね。

あのお方なら、私の機敏さに付いて来れるし。」

香織と、美海は、手勢を纏めると、中村城の城内にいる残党の始末に向かった。

真田敦と南城勝成の2人は、当初の予定通り、真柄直隆を挑発し、徐々に押される振りをしながら後退を始める。

ここで、大将首を取れば、戦況は相馬の有利になる。

そう感じた真柄直隆は、直属の兵のみを引き連れ追撃を開始。

相馬の総大将である、相馬盛胤は真田軍の撤退は、誘因の計であると直ぐに見破ると全軍を進軍させようとするも、わずかな隊列の間隔を見逃さなかった西原詩織の軍勢が、真柄と相馬の間に入り込み、真柄相馬の連携を絶つ。

兵力では、相馬本隊が約1万、真柄の別動隊が約3000に対して、西原詩織率いる軍勢は約8000である。

言わば、死地に入り込んだ物である。

だが、西原詩織は、焦ることなく兵を鼓舞する。

「死中に活を求めよ!

こちらが兵数で劣ろうとも、百戦錬磨の我々の敵ではない!

今こそ、真田兵の強さを発揮する時ぞ!

命を惜しむな名を惜しめ!」

詩織は、自ら最前線に立ち、槍を振るい足軽達の鼓舞をする。

総大将の奮起により、足軽達は元より、他の家臣達も槍を振るい、弓や鉄砲を効率よく使い、相馬と真柄の両方の軍勢を1度に相手にしていても、一歩も引かない善戦をしている。

だが、時が経過すればするほど、挟み撃ちにされている状態は変わらず、いずれは相馬に飲み込まれてしまうのは時間の問題である。

しかし、別動隊が到着をすれば事態は改善できる。

詩織は、兵を鼓舞しながら槍を振るい、別動隊の到着まで踏ん張るのである。

その頃、別動隊を率いる細川遊美は、相馬本隊が見えるところまで進軍をしていた。

しかし、相馬本陣の後方守備に当たっていた舞台も、真田の軍勢を見渡せる地域に陣を構えていた。

「中村城は、既に落城をした。

命を惜しむ者は、今すぐここから立ち去れ!」

大声が出せる足軽がそう叫ぶと、相馬の軍勢が多少乱れ始める。

やはり、本拠地の喪失は、精神的にも衝撃が大きいからである。

僅かな隊列の乱れを見逃さなかった、細川遊美は全軍に突撃を命じる。

「生きたければ、敵を殲滅せよ!

敵を殺さなければ、こちらが殺られるだけだ!

敵を、皆殺しにしてやれ!」

遊美の右手には軍配があり、それを上から下に振り下ろすと、中央最前線の足軽達は、突撃を開始する。

遊美は、軍配を片付けると、肩に背負っていた新型の鉄砲を手に持つ。

南蛮では、マスケット銃と言われている鉄砲である。

火縄ではなく、火打ち石を使うことにより、更なる密集陣形を可能にした鉄砲である。

真田敦は、ある程度のマスケット銃の量産をしており、指揮官クラスのメンバーには、マスケット銃の配布を終わらせていた。

「右翼の鉄砲隊は、一斉射撃を開始しろ!

敵陣の混乱の最中に、徹底的に叩けるだけ叩け!」

遊美が一声発すると、約400丁の火縄銃が火を噴く。

右翼の相馬本隊が乱れたのを見て、その隙に左翼からは騎馬隊が突撃、中央からは、足軽達の後方から真田親衛隊が、相馬本隊目掛けて突撃をする。

両軍が乱戦に持ち込まれた時に、別の戦場では動きがあった。

真柄隊を率いる真柄直隆と、天海率いる軍勢の戦いが終結をしたのである。

天海、勝成らは、伏兵のいる地点まで、真柄直隆を始めとする部隊の誘導に成功し、東西南の三方向より約1000丁余りの火縄銃の一斉射撃を開始。

数回目の一斉射撃の時には、真柄隊は全滅をしていた。

真柄直隆も、4度目の一斉射撃の時に、全身に鉛の玉を貰っており、ほぼ即死状態であった。

南の鉄砲隊を率いていたのが、侍大将の泰臣である。

泰臣は、真柄直隆の首を切り落とし、自分の手柄とすると、真柄直隆の遺体の側に落ちていた太郎太刀を両手で持ち上げると、それも戦利品として持ち帰っていた。

真柄隊の全滅は、相馬本隊に更なる動揺を与える事になる。

南から、天海、詩織率いる軍勢が襲いかかり、北からは真田本隊を率いる真田夕夏の軍勢に包囲殲滅作戦をされ、約四半刻後には、相馬本隊の生き残りは誰もいなかったら程の、殺戮が行われていた。

もちろん、真田側にも2000を越える負傷者や、死亡者を出していたから、無傷とは言い難い状態であった。

天海達は、1度中村城に入城をし、2日間の休養を取ると、夕夏を始めとする真田本隊を中村城に残し、天海は真田夕夏に奥州の仕置きを命じる。



天海本人は、約8000人の軍勢を率いて常陸に侵攻を開始。

小田原城を包囲している上様に合流をする為に、疾風怒濤の如くに水戸城、太田城などを落城させ、そのまま武蔵に侵攻をする。

柴田勝家率いる軍勢は、上野の忍城の攻略に手を焼いていた。

忍城の回りは湿地帯であり、攻めにくく守りやすい地形であるために、柴田勝家の攻撃を何度も跳ね返していた。

その為、柴田勝家は、抑えの兵を残して小田原城に侵攻を開始する。

そして、小田原城を包囲している上様は、小田原城の近くにある山の中に、城を築いていた。

史実における、秀吉の一夜城である。

上様は、相模から駿河迄の街道の整備をすると共に、水陸の両方を使いながら、弾薬や、兵糧の補給を行っていた。

そこに、柴田勝家と、天海の両名が上様の前に姿を見せる。

「上様、奥州を制圧し、政宗と夕夏に仕置きを命じて馳せ参じました。」

天海の口上が終わると、勝家が口を開く。

「上様、上野の忍城でございますが、抑えの兵を残してこちらに参りました。

忍城は、攻めにくく守りやすい湿地帯に城を築いており、無理攻めをすれば多大な損害を出すことになります。」

信長は、天海の報告を聞くと上機嫌となるも、勝家の報告を聞くと、眉を曲げ不機嫌になる。

しかし、忍城は、攻めにくく守りやすい城と最初から分かっていた事から、眉を元に戻し、冷静に報告を受け止めている。

実は、天海、勝家が、本陣に来た頃には、九州は制圧を完了しており、信忠率いる軍勢は、船を使い畿内にまで戻ってきている報告を受けていた。

北条の領地も、相模の小田原城と、上野の忍城だけになっており、忍城の落城は、小田原城を落としたからでもいいと考える。

「であるか。

勝家、敦、お主達は我が陣に加われ。

北条を滅ぼし、天下布武の完成を見せようぞ。」

そう言うと、上様はゆっくりと立ち上がり、右腕を上に真っ直ぐ上げる。

それが、合図であるかのように、石垣山の斜面より一斉に木を切り倒す音が聞こえ始める。

上様は、小田原城を包囲すると同時に、石垣山に城を築城をしていたのである。

石垣山の方から大きな音が聞こえた北条氏政達は、小田原城の天守閣に登り、音が聞こえた石垣山の方を見ると、大きな城が築城されているのを見る。

「い、いつの間に城が出来ていたんだ?

信長の財力は、一夜にして城を築城出来るほどなのか?

もう、降伏をするしかないのでは?」

5代目当主である、北条氏直は思わず口にしてしまう。

その氏直の言葉に、怒りを覚えたのは、先代当主である氏政である。

「何を、弱気になっておる。

天下の名城である、小田原城は無敵である。

上杉謙信や、武田信玄からの猛攻にも耐えたのだ。

やつらも、補給が持たなくなり、いずれ撤退をするわ。

その時まで、我慢比べじゃ。」

その言葉に、弟である氏照も賛同する。

「兄上の言う通りである。

亡き父上の時にも、小田原城に籠ったからこそ、あの二人を撃退出来たのである。

小田原城は、天下の名城。

小田原城を落とせる軍勢など、この世に存在しない。」

強硬派である2人に対して、氏直と、氏房、他の重臣達は、早期の和睦からの停戦を言い出す。

ここに、月に2回ほど行われていた小田原評定が始まるのである。



そして、小田原評定が始まってから1ヶ月が経過した。

上野の忍城は、水攻めの方法を取り、人的被害を最小限にする事で降伏を待つことになる。

一方、小田原城の方は、相変わらず交戦か降伏かで、意見の統一が決まらずにいた。

その間、奥羽に滞在していた大内勝雄率いる真田水軍が、小田原城包囲に参加をする。

その翌日、上様は諸将を集めて軍議を開く。

「そろそろ、小田原城を攻めようと思う。

今回は、皆の衆の意見を聞こうと思う。

各々、意見があれば述べてみよ。」

その言葉に、天海を筆頭に皆驚く。

いつもの軍議であれば、上様の言葉を聞いて、それを実行するだけである。

しかし、天下布武の完成間近とあり、上様は1度ぐらいは皆の衆の、意見を聞くことにしたのである。

突然の上様のやり方に、誰しもがお互いの顔を見ているが、真田敦は平然とした顔をしながら、挙手をしてから意見を述べる。

「この日本国内で、上様に逆らうのは北条のみになりました。

これからの戦は、大量の火力を用いた戦いになりましょう。

ここは、大砲を用いて小田原城を攻め落としましょう。

上様の元に5門、それがしの元に4門、真田水軍の元に16門ありまする。

昼夜問わず、大砲を打ち続ければ、大手門は元より、三の丸や二の丸、本丸にすら玉は届きましょう。

小田原城と、忍城以外の北条方の城は落城しました。

もう、天下布武の完成も間近です。

この国から争いを無くし、平和な世を作る時が来たのです。

上様、何卒ご決断を。」

信長は、他の家臣達からの意見を促すべく、軽く顎を動かす。

それに反応をしたのは、柴田勝家である。

「お恐れながら、上様に申し上げます。

ここに来ての北条に対する小細工は、不要かと思われます。

北条方は、毎日結論の出ない話し合いを続けているとか。

期日を切り、総攻撃か降伏勧告の使者を出すかのみです。」

勝家の発言は、残りの家臣達の意見を代表していると言える。

これだけを見ると、天海と勝家の意見が割れているように見える。

どちらの案を採用しても、2人の仲が悪くなるのではないのか?

他の家臣達は、固唾を飲んで静かに見守るだけである。

信長は、他の意見が出ないのを見ると口を開く。

「明日、敦を使者として小田原城に送る。

期日を切り、降伏か徹底抗戦かを選ばせる。

各々、北条がどちららの道を取るにしても、用意だけは怠らぬよう。

勝家と、敦を除いて、それぞれの陣に戻るように。」

天海殿ではなく、古くから仕えている勝家殿の面目を取ったのか。

他の家臣達は、そんな思いを抱きながらも、上様から命じられ、勝家と敦以外は皆その場から出ていく。

「上様、上手くいきましたな。

おそらくここに忍び込んでいる北条の忍びも、先程の決定を聞き、小田原城に戻ってる頃でしょうな。」

勝家は、笑いながら言葉を吐く。

敦は、どことなく気掛かりを持ちながら、口を開く。

「上手の手から水が漏る。

その言葉もありますがゆえに、すべての準備が整うまでは、油断はされぬが宜しいかと。」

どこでも慎重な敦と、小細工を好まない勝家。

一見すると、水と油に近いが、この2人は実は仲が良い。

お互いに足りない物を補う間柄として、お互いに信頼をしているからである。

信長は、その2人を見ながら口を開く。

「勝家も、なかなか演技をやるものだな。

昔の勝家であれば、そこまで演技は出来なかったであろう。

それに、敦も勝家に、そこまで演技を学ばせたものだな。

芸達者のお主だからこそ、出来たのやも知れぬがな。

しかし、よく勝家が我慢出来たな?

演技と言えど、己の本心を隠すのであるから。」

信長の言葉に、勝家が返答をする。

「某も、我慢はしておりまする。

しかし、敦殿から、旨い酒を大量に贈られて来ては、我慢も出来ましょうぞ!

旨い酒を飲み、旨い料理を食べ、槍の鍛練をしていれば、嫌な事も忘れると言うものです。」

ようは、敦が造っている日本酒の前に、勝家が参ったのである。

「上様、明日は早朝にでも動けるように、準備を急がせます。

早朝から、お昼まで大砲を打ち込み、大砲を止めてからの総攻撃であれば、天下の名城である小田原城と言えど、その偉容を保つ事は出来ますまい。

勝家殿、総攻撃の時には、よろしくお願いいたしまするぞ。

織田家随一の、猛将の意気込み。

軟弱な北条の者共に、見せ付けて下され!」

おだてと分かっていても、そこまでおだてられたら、勝家も上機嫌になる。

信長は2人を下がらせると、そのまま日が暮れていく。

そして運命の7月10日、日の本の歴史が変わる日が来る。

天海こと、真田敦は、真田水軍を率いる大内勝雄に命じ、鉄甲船より大砲を小田原城に向けて発射させると同時に、真田敦の陣からも大砲を小田原城に向けて放つ。

その轟音は、天地がひっくり返るような音であったと、記載が残る程であった。

大砲を使用してから約一刻後には、無数の櫓や大手門、兵糧庫などから、火の手が上がる。

三ノ丸や、二ノ丸からも、黒煙が立ち上ぼり、小田原城の防御力は大幅に低下したと言える。

信長は、大砲による攻撃を止めると、勝家らに命じて、総攻撃を開始する。

一方、早朝に轟音を聞きつけ、飛び起きた氏政は、状況を把握できずにいた。

そして、近くにいた小姓に質問をする。

「この音は、何事だ!

こんな早朝から、この音はうるさいぞ!

何事が起きたのか、説明をしろ!」

いきなり怒鳴られた小姓は、ただおろおろするだけであったが、異変に気が付いた松田憲秀が、急ぎ足で氏政のもとに駆けつける。

「う、氏政様!

織田からの、攻撃にございます!

海上と陸から、南蛮の兵器を用いて、小田原城を攻撃しております。

速やかに防御体勢を整えなくては、小田原城は落城致しまするぞ!」

松田憲秀の言葉に、氏政は強く反論をする。

「馬鹿な事を申すな。

小田原城は、天下の名城である!

そんなに簡単に、落城をするものか!

だが、防御体勢を整えるのは、必然である。

起きている者は、各城門や櫓を固めよ!

寝ぼけているものは、叩き起こせ!」

松田憲秀に、切れ気味に返答をすると、氏政自身も鎧を身に付け戦の準備を始める。

氏政を筆頭に、油断をしていたのは否めないのである。

忍びからの報告により、織田方は、翌日に使者を送ってくると知っていたからである。

もちろん、その報告を半分疑っていた氏政は、密かに守りを固めるように命じてはいたが、大砲による攻撃までは想定をしていなかったのである。

小田原城の防御力を過信するあまり、小田原城を固く守るだけで城から出撃をする方法を、氏政は最初から捨てていたのである。

だがそれは、仕方ないのかも知れない。

父親である氏康と共に、小田原城に籠城をして、上杉謙信や、武田信玄を撃退した経験が、氏政にあったのであろう。

籠城をしていれば、敵は兵糧が尽きて撤退をする。

その甘い考え方が、氏政にあったのであろう。

しかし、現実は無惨な物である。

南蛮の新しい武器が、日本に持ち込まれた事により、日本国内の戦い方も変化をしたのである。

その変化について行けなかったのが、北条家の運命を左右したのである。

新しい時代を切り開く上様、真田敦達に対して、古い時代を脱却出来なかった北条氏政の差であろう。

大手門を始め、櫓はおろか、四ノ丸、三ノ丸、二ノ丸からも、火の手が上がり、本丸にも砲弾が届き始めていた。

もはや、城の守りを固めるよりは、撃って出て武士の意地を見せ付けるべきと、上総入道道感(北条綱成)は思い、主君である氏政の許可も取らずに、大手門より出陣をする。

その姿を見つけた天海は、全軍に砲撃を止めるように命令を下す。

もっとも、大砲が熱を持ち、これ以上の砲撃が無理な事もあるからである。

砲撃が止むのを見届けると、上総入道道感は、大声を上げて名乗りを上げる。

「某は、上総入道道感である!

上方の武士の中に、我と一騎打ちをする、強者はおらぬか!

それとも、謀には長けていても、武芸には精通している武士はおらぬのか!

関東武士は、武門を何よりも尊ぶ!

さぁ、これだけ言われても、名乗りを上げるものがいなければ、臆病者の集まりだと、天下に知らしめるだけである!」

既に、70近くの高齢でありながら、若い頃に鍛えた身体は、いまだに健在のようである。

その上総入道道感の言葉に、真っ先に反応したのは、南条勝成である。

「天海殿!

あの者は、某にお任せくだされ!

あの、老いぼれは、死に場所を探しておるのです。

ならば、その願いを叶えてやるのは、武士の本懐ではありませぬか?」

勝成の言葉を遮るように、次は、塚原夏織が言葉を上げる。

「いやいや、関東武士を持ち出されては、同じ関東武士である、私こそが相手に相応しいかと。

塚原卜伝が孫、この塚原夏織こそが、あの上総殿の相手に相応しいかと!

何卒、私にお命じ下さい!」

いきなり言葉を遮られた勝成は、夏織に怒りをぶちまける。

「おい!

横からしゃしゃり出て、某の出番を奪おうとするとは何事だ!

上総入道道感と言えば、武田信玄や上杉謙信と言えど、相手に不足はなかった人物!

ならばこそ、真田家の宿老たる某が相応しいであろう。

おなごには、荷が重すぎるであろう!」

勝成の言葉に、カチンときた夏織は、勝成に反論を放つ。

「戦場において、男子と、女子の区別はおかしいであろう!

しょせん、上方の武士など、武芸よりも謀を好むであろうに!

関東武士が一騎打ちを望むのであれば、同じ関東武士がお相手をするのが筋であろう!」

勝成と、夏織の言い争いは、いつまで経っても終わらないと諦めた天海は、仲裁の提案を出す。

「双方、言い争いを止めよ!

ならば、上総入道道感殿の前に、我を含めた3人で行き、道感殿に相手を選んで貰えば良かろう。

それが、不公平のない選択であると思うが?」

確かに、相手を道感殿に選ばせれば、不公平は無いと言える。

選ばれれば名誉であるが、選ばれなくとも面目は立つ。

それでも、夏織と、勝成の2人は、不安を抱きつつも、馬を走らせ、上総入道道感の前に姿を見せる。

「上総入道道感殿とお見受けいたす。

そちらの心意気に感銘を受け、我々3人が名乗りを上げ申す。

相手は、上総入道殿が、決めて頂ければ宜しいかと思われる。

それぞれ、名乗りをするが故に、ゆっくりと考えられよ。」

そう上総入道に、言葉を伝えるのは天海である。

そして、最初に名乗りを上げたのは、南条勝成である。

「我こそは、真田家にその人ありと言われた、南条勝成である!

上総入道殿のお相手として、某こそが相応しかろう。

選ぶのであれば、某を選ぶ他はあるまい!」

南条勝成と言えば、真田家最強の武将として、全国にも名が知られている。

真田家の先代当主である、真田敦の右腕とも言われており、全国においても、10本指に入る強者と言えよう。

次に名乗りを上げたのは、塚原夏織である。

「私こそは、かつて剣聖と呼ばれた塚原卜伝が孫、塚原夏織である。

名こそ、祖父には及ばずとも、鹿島新当流の正式な継承者として、相手に不足は無かろう!

いさ、尋常に勝負をいたせ!」

塚原夏織も、東日本において、武者修行を行い、自らの鍛練を怠らないだけではなく、剣術の腕前で言えば、真田敦と引き分ける実力者であり、勝成程ではないが、武将としての知名度も全国に知れ渡っている。

上総入道にてみれば、どちらも自分の相手に不足はないと思う。

真田家最強か、剣聖の孫娘か。

心が悩む中、天海が名乗りを上げる。

「某は、天海。

ただの、坊主じゃ!

この2人が、上総入道殿と、一騎打ちを所望するので、付き添いの身分としてここに来ておる。

戦場において、坊主を殺すのは、地獄に落ちる所業らしいのう。

それでも、某を選ぶのであれば、後で念仏ぐらいは唱えてやろうがのう。」

完璧に上総入道殿を、馬鹿にするような言い方をしている。

この時代、戦場において、坊主を殺す事は禁忌とされているのである。

戦が終わったのちに、近隣から坊主を呼び寄せ、死者に対する、念仏を唱えてもらうのに必要だからである。

しかし、ただの坊主が、この強者達を抑えられる力があるのかと、上総入道は疑問視を持つ。

そこで上総入道は、坊主が出家をする前の、名前を聞くことにする。

たとえ、かつて名のある人物であろうと、今の身分は坊主である。

坊主に対して、一騎打ちを所望する事はない。

そんな事を知らない天海は、しぶしぶ名を名乗るのである。

「それほどまで、余の名を知りたいと申すか。

ならば、この老いぼれの名を知って、驚愕するがよい!

かつて、街道一の弓取りと言われた今川義元を撃ち取り、甲斐の虎と言われた武田信玄と、劣勢の兵力でありながら互角に戦い、越後の龍こと、上杉謙信を手取川の戦いで見事な勝利を納め、越後の軍神を追い払った、日の本一の神将と呼ばれた真田敦である!

ただし、今はただの坊主じゃ!

かっかかかかかかか!」

そこまで言葉を発すると、天海は豪快に笑い始める。

その言葉を聞いた上総入道は、言葉を発する事ができなかったのである。

この国において、その名を知らぬ者はいないと言われた伝説の人物が目の前にいるからである。

しかし、真田敦と言えば、本能寺の変で明智光秀に討たれた筈である。

だが、信長の軍勢が、小田原城に攻め寄せて来ているのであるから、真田敦が生きていても不思議ではない。

上総入道は、槍を持ち直すと、南条勝成を一騎打ちの相手に指名をする。

「南条勝成とやら!

私の一騎打ちの、相手に指名をしよう!

いざ、参られい!」

勝成の方も、上総入道から直々に指名をされた以上、断るのは武士の面目を潰すと思い、大声で返答をする。

「北条のその人ありと言われた、上総入道殿の相手が出来るのは、武士としてこの上ない名誉である。

いざ、尋常に勝負といたそう!」

指名をされなかった塚原夏織は、つまらなそうな顔をしており、一騎打ちの見届け人である天海は、静かに両人の一騎打ちを見守るのである。

上総入道が馬を走らせ、瞬く間に勝成との距離を、縮めて行くのに対して、南条勝成は動かざること山の如しのように、槍を持ち直しながら、上総入道を待ち受けている。

「行くぞ!」

「威勢だけでは、其がには勝てぬぞ!」

上総入道の戦法は、馬を走らせ、勢いを付けて素早く槍を繰り出し、相手の動きがその槍に対して防御の体勢を取らせ、相手のペースを乱しながら戦いを優位に持ち込むのである。

しかし、南条勝成の戦い方は変幻自在を得意としており、臨機応変に戦い方を出来るように、実戦を積んできたのである。

それが故に、相手の初手を見れば、ある程度の対応を取れる。

(初手は、勢いを付けて槍を素早く繰り出し、こちらがその槍に対して防御の体勢を取らせる事により、自分のペースを保つ戦法か。

ならば、その勢いを殺す為には、相手よりも先に槍を繰り出して、こちらのペースを保つのが最良か。)

勝成は、即座に戦い方を決めると、右手に力を込めて槍を繰り出すタイミングを計算している。

両軍がその姿を見守る中、一軍を任されている柳生綾夏は、黒煙が立ち上る大手門を見ていた。

勝成殿の勝利を確信しているので、あとは突撃の時を伺っているのである。

副将を任されている細川遊美も、一騎打ちが終わった僅かな機会を見逃さず、突撃の命令を待っている。

いや、四方を取り囲む織田の軍勢も、真田軍による大砲攻撃が止み、少しでも手柄を立てようと殺気立っていた。

四方の門は元より、三ノ丸の矢倉、武器庫、二ノ丸の門、物見矢倉、北側にある柵や出城などからも火の手が上がり、北条家の自慢の小田原城も落城もやむ無しの状態に追い込まれていた。

それでも、北条氏政は降伏をしようとしない。

つまらない意地の為に、敗軍の将になるのを拒む。

そして、とうとう最後の決断を下す事になる。

そう、全軍突撃の命令である。

大広間に家臣達を集め、北条氏政は、大声を張り上げる。

「この小田原城も、落城やむなしに追い詰められた。

しかし、窮鼠かえって猫を噛むの言葉もある。

この戦に勝つ為には、信長の首を取るしかない!

全将兵に、突撃命令を下す。

後ろを見るな、前だけを見よ!」

先の北条家の4代目当主である、北条氏政の言葉に家臣達は拳を握りしめ、大広間から出ていくと、馬にのり槍を手にし、信長の本陣がある南側の大手門に集結をする。

一騎打ちを見守っていた天海は、戦場の空気の変化に気付き始めていた。

長年の経験と勘が、それを感じさせたのであろう。

天海は、馬を走らせ、2人の間に無理やり入り込み、一騎打ちの中止を伝える

「勝成、一騎打ちはそこまでだ!

状況が変わった!

速やかに陣に戻るぞ!」

いきなり、一騎打ちの中止を言われた、勝成と、上総入道は納得をするわけもない。

「納得できませぬ!

一騎打ちは、武士の誉れ!

何故、止めねばならぬのです!」

勝成の言葉に、上総入道も同意をする。

「勝成殿の、申される通りでござる。

どのような理由で、一騎打ちを止めよと申されるのか!

しかと、返答を願いたい。」

そう2人から言われた、真田敦は、一瞬考えるも、素直に返答をする。

「どうやら、北条氏政は、最後の決戦に望むようである。

その方らには、感じ取れぬか?

小田原城より放たれる、ただならぬ殺気と熱意が?

このまま一騎打ちを続けても、北条氏政が全軍突撃を命じれば、ここも戦場になるだけだ。

他人に邪魔をされるのが嫌なら、戦場において、華々しく一騎打ちを再開されよ。

その為に、一騎打ちの中止を申したのだ!」

天海にそう言われれば、2人は黙る他はない。

例え、天海の言葉を無視して一騎打ちを続けても、戦に興奮をしている兵が邪魔に入るのは想定出来る事である。

2人はしぶしぶ、一騎打ちを中止にして、小田原城と陣に戻るのである。

同じ頃、石垣山城に本陣を置く上様も、小田原城の動きを見極めていた。

少なくとも、籠城戦を捨て、一斉に総攻撃を仕掛けてくると、上様は見ていた。

それが故に、広い平野で行われていた一騎打ちを見ながらも、各陣に使者を送り、北条からの総攻撃に備えるようにと、命令を下す。

上様自身も、石垣山城の麓にある、堅固な陣に本陣を移動させ、戦の指揮を取る。

ここに、戦国最後にして最大の野戦が行われようとしていた。

上様と真田敦の読み通り、北条氏政は、農兵を含む総勢10万人を、東西南北の大手門や出丸より出撃をする。

東門からは北条氏照、南門からは北条氏邦、西の出丸からは北条氏政、北の出丸から上総入道道感がそれそれ、2万5000人を率いて出陣をする。

それに対応するのは、東に陣を敷く柴田勝家、南に陣を敷く徳川家康、西は石垣山に本陣を置く上様、北に陣を敷く天海である。

それと、南側には九鬼水軍も控えており、徳川勢の援護を行える準備は整っている。

西側には、上様の本陣がある為か、最大兵力を率いているので、そう簡単には石垣山城にまでは、到達するのは困難と言えよう。

問題なのは、率いている軍勢の少ない勝家と、天海である。

勝家は約1万5000あまりであり、主力部隊を奥羽に残しており、約8000の兵士かいないのである。

攻めか守りかの選択肢を、2人は素早く決断をしなくてはならない。

即決即断を下したのは、勝家であった。

勝家は、砦を守るよりも、攻勢に出て勢いを作り出す事を選ぶ。

一方天海は、8000対2万の兵力差を考え、守りを固めて敵の勢いを削ぐ作戦を取る。

時間さえ稼げれば、北条の軍勢を打ち破れる準備が整うのである。

天海は、天を眺めながら、てきぱきと指揮を出し北条の激しい攻撃を、受け止める事に専念をしていた。

「今は守備を固めよ!

好機は必ず来る!

皆の衆の力を集結させ、この砦を守りきるのだ!」

最前線で、自ら槍を振るい敵を倒す事で、足軽達の士気の低下を防ぐべく、多量の返り血を全身に浴びながらも、次々と敵兵を刺し殺していく。

南条勝成、塚原夏織らも、左右の最前線にて、獅子奮迅の働きをしていたが、一本の流れ矢が戦況を左右するとは、考えられなかったのである。

26人目の敵を倒した塚原夏織の前に、突如一本の流れ矢が飛んで来たのである。

敵の身体を貫いた槍を引き抜いた瞬間に、塚原夏織の左目に矢が突き刺さる。

あまりの激痛のあまり、塚原夏織は馬から落馬。

慌てて回りの足軽達が、後方の本陣に塚原夏織を連れていくも、左翼の大将不在の隙を見逃さなかった上総入道は、手持ちの兵力を左翼に突撃をさせ、押したり押されたりしていた戦況が、一気に北条側に有利になる。

夏織の負傷を、馬回りより知らされた天海は、唾を吐き捨てる。

「あの、大馬鹿者が!

急ぎ本陣にいる副将に命じ、左翼の指揮を取るようにせよ!

左翼が崩れれば、この中央の状況も悪くなるだけだ!

そして、右翼からも!」

そこまで言葉を発した天海は、右の脇腹より痛みを感じ始めていた。

どうやら、奥羽遠征の時に受けた傷口が開いたようである。

傷の完治を待つ前に、関東遠征に乗りだし、休むまもなく戦場で指揮を取り続けていたために、1度は塞がった傷口が、再び開いてしまったのである。

こうなると、全軍の指揮を取るレベルではない。

出血による痛みと、疲労困憊、更には意識の保てなくなる状態に徐々に追い詰められていく。

さすがの天海と言えど、天下統一と言う肝心な大戦の時に采配を取れない責任を感じ、本陣に戻り改めて治療を受けながらの采配を取るしか選択肢がない。

もしもここに、長男の政長、妹の夕夏、愛娘の葉、初代軍師の詩織の誰か1人でもいれば、敦の代わりに全軍の指揮を任せられるのであるが、ここにはその3人はいない。

顔面蒼白になりながらも、板の上で横になり、さらしを何枚も身体に巻きながら、出せる声で全軍の指揮を取り続けていたが、さすがに出血の多さから、口数も減り続け、とうとう深い眠りにを落ちてしまうのである。

真田敦が深い眠りに落ちていた頃、左翼右翼中央では、新しい命令が届かない為に、必死で守りを固めている状態である。

敵の動きが鈍くなったのを感じ取った上総入道は、攻勢を徐々に強めていき、三段に作っていた砦の防御柵の二段目まで破壊する事に成功をする。

しかし、最後の三段目の柵となると、それまで以上の鉄砲の弾の嵐を受ける事になる。

真田軍にとっては、最終防衛ラインであり、北条軍にとっては、最後の攻撃ラインと言えよう。

双方必死の攻防戦が続く中、時は無情にも過ぎていき、とうとう夕刻を迎えようとしてた。

兵の死傷者の多さと、兵士達の疲れの限界を感じ取り、北条氏政は小田原城に全軍を退却させ、翌日の総攻撃に備えた。

一歩、信長様率いる軍勢も、北条よりは少ないももの、死傷者も多からず無い状態であった。

そして夜が開けると、再びお互いの死力を尽くす戦いが再開をされる。

一晩休んだ天海であるが、やはり傷口は塞がる程度であり、本日も全軍の指揮を取れる状態ではなかった。

天海は、悩んだ末に、全軍の指揮を南条勝成に任せると、右筆を呼び奥州の夕夏宛に手紙を出す。

夕夏か、詩織のどちらかであれば、真田全軍の指揮を取れるからである。

そして、手紙を出し終えるとそのまま横になり、約一刻ほど時間が経過した頃に、外の警護をしていた足軽に起こされる事になる。

「天海様!

夕夏様からの、ご使者が参られました。

ここに、お通しされても宜しいでしょうか?」

天海は、ゆっくりと体を起こし、ここに通すように伝える。

少し経つと、懐かしい者達の姿が見える。

真田敦がまだ若く、若狭を任された頃に、足軽として登用した者の娘達であるからだ。

今は、妹の夕夏の元で実務経験を積みながら、いずれは副将か、一軍の大将にするべく育てている娘達である。

そして1人1人の顔を見ながら雑談をしていると夜も遅くなり、真田敦も布団に入り横になるとそのまま深い眠りに付く事になる。

そして夜が明け朝になると、奥州から真田夕夏の大軍が到着をする。

これでほぼ真田家が動員できる兵力の6割近くは、小田原城包囲戦に参加。

残りの1割は北陸地方の守備をしており、残りの3割は真田政長が東海道を東に進みながら小田原城を目指している。

そして夕夏に全軍の指揮を任せると、そのまま上様の本陣に真田敦は向かい始め現在の状況を説明。

そしてしばらく玉縄城にて養生する事を上様から許可されると、真田敦は戦場から離れて玉縄城に向かいつつ真田夕夏は真田軍の全軍を指揮をする。

しかし、本日も北条側が打って出てくると予想をしていたのであるが、昨日までの激戦が嘘であるかのように北条側は籠城戦に切り替える手段に変更。

しかし元から長期戦の事を考えていた織田軍は、新たな陣地の構築や補給ルートの整備などに時間を費やす様になる。



そして4ヶ月余りが過ぎそろそろ本格な冬が訪れようとしていた頃、小田原城にて不安な空気が流れ始めていた。

これまでの北条側の作戦は強敵相手には堅牢な小田原城に立て篭もり相手が撤退をするまでひたすら粘る作戦を取り続けていたのである。

しかし今回はどれだけ籠城戦を続けていようが、相手が撤退をする様子すら見えてこない。

それどころか新しい陣地の構築や道の整備などを行っている報告が上がるたびに永遠と会議を繰り返す様になる。

これが後に伝わる小田原評定である。

そして永遠と続くかと思われた小田原評定であるが、重臣である松田憲秀はもう北条家は持たないと独自に判断。

嫡男である笠原政晴と共に織田方に密かに降伏をしようと相談をしており、二人の意見が合意をした事により次男である松田直秀にその事を伝えると直秀は激怒。

唖然とする二人をその場に残して、主君である北条氏政にこの事を報告。

この知らせを聞いた北条氏政はすぐに笠原政晴を処断、松田憲秀は蟄居閉門の裁きを下すも北条家の重臣である松田憲秀の裏切り行為は北条方の士気の低下を招き、とうとう織田信長に降伏をする決断をする事を家臣一同の前で宣言。

そして使者を遣わし正式に織田信長に降伏。

この時傷の癒えた真田敦も軍議に参加しており、北条家の処罰は真田敦の一存にて執り行われる事になる。

北条氏政と弟の氏照は切腹、大道寺政繁と松田憲秀も切腹を言い渡される。

嫡男の氏直と他の一族は高野山に追放。

ただし10年間の謹慎の後に大名としての復帰をさせるとの約束も北条氏直に同時に伝える。

そして本来であれば論功行賞に入るのであるが4ヶ月に及ぶ長期出陣の為、一度安土城に帰還してから論功行賞を行うと発表。

各地の大名や配下の者共は一度国に帰ってから改めて安土城に顔を出す事でそれぞれの国元に帰国。

真田敦も若狭城に帰城した後いち早く安土城に向かい上様と茶室にて茶を楽しんでいた。

「上様、この度の北条征伐お疲れ様でございました。

4ヶ月に及ぶ長期対陣故に、さぞお疲れで御座いましょうが論功行賞も色々大変かと思われまする。」

上様が点てたお茶を飲みながら言葉を発する真田敦に対していつもの甲高い声ではなくやや低めの声で上様は返答をしていく。

「うむ。

敦も途中で療養の為に一時戦線離脱をしていたが、お主の配下達はよく働いておったな。

やはり敦の妹である夕夏の働きは目覚ましものである。

やはり敦にしか関東を治める事は難しいであろうな。

勝家を始め、他の者共ではあの広大な東国を纏め上げる事は出来ぬ。

秀吉辺りなら出来るやも知れるが、あやつは西国向きの人であるからな。」

当時の東日本は商業と言うより農業の方が発展しており、大きな港も数える程度しかない事を考えると秀吉には関東を任せられないとの判断をする。

その点敦は上総出身であり、農業商業どちらにも精通しているからである。

さらに言えば上様の義弟の立場から、東日本を統括する立場にも相応しいと言うよう。

ただ関東と若狭越前の全10カ国を全て支配しきれるかといえばそれは無理である。

その為、若狭越前を上様に返上した後に恩賞として関八州を賜る形式として他の家臣達からの不満を抑えようと相談をしている。

さらに勝家を始めとして多くの家臣達を九州と中国地方に配置をする事により、いずれ行う南蛮遠征の準備にも早めに行わなくてはならない。

上様と真田敦の共通認識は約3年の準備期間を設けた後、南蛮遠征を行う事でお互いの考えを一致させている。

その為には何よりも戦船の建造に力を入れなくてはならない。

これまでの日本の船は近海を渡る程度の船であり、外洋を渡れる程の強度を持っている船の建造を殆どした事はない。

強いて言えば遣隋使や遣唐使等で使われた船ぐらいであろう。

だが今は竜骨式を用いた船の建造を出来る造船技術を持ち、外洋を渡るのに必要な航海技術も真田敦を筆頭に少なからずいる。

それに南蛮遠征は、成功をすれば莫大な利益を得られるのも分かっている。

もちろん失敗をすれば、織田の天下は一瞬で終わる事も理解をしている。

南蛮遠征に必要な戦船と言えば鉄甲船は必須であり、悪くても銅板貼りの戦船の建造は急がせなくてはならない。

その為、織田家の最高機密と言える鉄甲船の建造の技術を各地の大名に教える事もやむなしと判断。

論功行賞の後にこれを発表する事で、各地の大名や配下の者共にも新しい天下を目指す事を認識させる事になる。

茶を飲み終え更に飯まで食べ終えた上様と敦は、お互いの目を見ながら3日後に行われる論功行賞の準備を執り行う為に、先に敦は茶室から退出をして準備に取り掛かり上様は小姓達に命じてこちらも準備に取り掛かるのである。

そして問題になると思われていた論功行賞もそれ程大きな混乱を招く事もなく無事に終わりを告げた。

織田家の重臣である柴田勝家や羽柴秀吉、丹羽長秀と言った者達は九州に領地の配置換えを行う。

中堅クラスの人材と言える前田利家や佐々成政等の連中は山陰地方に配置。

前々から検討をしていた真田敦の処遇に関しては、若狭越前の両方の領土をを上様に返上すると共に改めて関東八州を与えられる事になる。

北陸の加賀能登越中を治めている真田夕夏は、そのまま引き続き3カ国の領地を安堵する事と真田家分家として正式に認められる事になる。

この論功行賞を終えた後に解決した問題があった。

三職推任問題の件である。

前々から朝廷より打診をされていにも関わらず、上様はのらりくらりと返答を避けていた。

しかし天下平定をなされこれからは3年後に行われる予定の南蛮遠征に備えて、国内の問題を片付ける必要性が出ていた為である。

上様より正式な返答が行われ上様は太政大臣になる事、嫡子である信忠に対しては征夷大将軍兼右大臣に。

そして真田敦を左大臣になる事を改めて朝廷に対しての正式な返答として使者である村井貞勝を派遣。



真田夕夏率いる真田遠征軍の、奥羽地方での戦も終結に向かい始めた頃、遠くヨーロッパの方では、イングランドと、スペインの争いが激化。

新大陸からの定期便を、度々イングランドに襲われたスペインは、船団の強化をすると同時に、イングランド本国に対する侵攻計画を立て始めていた。

しかし、大掛かりな遠征となると、莫大な戦費と資源、人材の被害妄想等を計算しなくてはならない。

その為、スペイン国王であるフェリペ2世は、当面は国内問題の解決力を注ぎ、対外問題は、オスマン帝国の問題を除き、東地中海には兵を出さない方針を固める。

最大の問題であるイングランドに関しては、船団の強化と人材の育成に専念をし、数年後にはイングランド本国に遠征をする事で、なんとか国内の問題を沈静化する。

リスボン王宮のある部屋では、日本に滞在をしている、宣教師からの報告が上がっていた。

この時代、どんなに早くとも、日本からヨーロッパまで情報が伝わるのには、約半年の時間を有する。

なので、最新情報となると、ほとんど手にはいる事は難しいと言える。

アヤカ・フランソワーズは、宣教師からの書面に目を通すも、やや疑いの目をしていた。

宣教師からの報告内容は、織田信長と、真田敦の死亡に関する事である。

配下に謀反を起こされ、京の都にて命を落としたと、報告書に書かれているが、アヤカは、この報告書に誤りがあると考えていた。

あの、真田敦が、簡単には命を落とすとは考えにくい。

あの時、初めて真田敦と出会った時から、生涯において、最強最悪の敵になると直感で分かっていたからである。

なので、この報告書は自分の手で握り潰していた。

アヤカ・フランソワーズの指摘は正しかった。

それから約1年半後の報告書には、真田敦の生存と、信長による日本統一の詳細が記されていた。



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