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真田公記  作者: 織田敦
30/33

山崎の戦いと、光秀の大誤算 

本能寺にて、織田信長を討ち取り、二条城の戦いにおいて、織田信忠、真田敦等を討ち取る事に成功をした明智光秀。

光秀の突然の謀叛の理由は、大きく分けると、2つである。

1つ目は、明智家の将来を考えてである。

嫡男の光慶は、生まれてからの病弱であり、槍働きも満足に出来ないのではないか?

自分が光慶に家督を譲った後に、上様からどのような難癖を付けられて、明智一族は、織田家から追放されるのではないかとの思いである。

織田家から追放された、林通勝の残した言葉が、光秀の脳裏に残っていたのである。

2つ目は、自分に対する仕打ちである

織田家の出世頭として、軍団長にまで上り詰めたのであるが、本来の任務である山陰道の出兵を止められただけではなく、丹波1国と、近江坂本城から、出雲石見の2か国の国代えの突然の命令に、不満を抱いたのである。

出雲石見は、未だに毛利の領地であり、出雲石見を切り取るまで、根なし草として過ごさなくてはならないからである。

その上、格下の秀吉の援軍に向かえとの命令まで出されては、出雲石見の切り取りをする事すら不可能になる。

上様の本来の目的は、秀吉の援軍に向かい、毛利に対して新たな圧力を掛ける事で、毛利家の完全な服従をさせ、更に大幅な領地の取り仕上げである。

その中には、出雲石見も含まれており、恫喝外交で領地を手に入れる予定であった。

しかし、そこまで上様の考えを見抜けなかった光秀は、一時の感情に流されて、謀叛を決意したのである。

補足を、付け足すのであれば、信長から朝廷を護りたいとの考え方もあるかも知れぬ。

本能寺を襲撃し、二条城も落城させ、信長信忠親子、真田敦の殺害に成功をし、光秀の天下取りはこれからであった。

しかし、思わぬ誤算の数々に、頭を悩ませていた。

信長信忠親子、真田敦の遺体を発見できず、朝廷からは軽く扱われ、安土城に向かうのに必要な、瀬田の唐橋は焼かれてしまい、盟友である細川藤孝には、援軍要請だけではなく、親類としての関係も断絶をされる。

だが、明智光秀は、瀬田の唐橋の修復を急がせながら、各地の大名や国人衆に使者を送り、自分の味方を増やす努力をしていた。

6月4日には、西近江一帯を占拠し6月5日には、修復の終わった瀬田の唐橋を渡り、安土城を占拠する。

6月7日には、誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土に派遣をし、京の治安維持を任されている。

この時、朝廷に参内をした光秀は、安土城に蓄えられていた銀子500枚を献上し、各地の寺にも銀子を献上している。

この行為により、表向き朝廷は明智光秀を、一応朝廷の守護者として認める事になる。

その間に、若狭近江大和の3か国を手に入れ、光秀の手勢の数は、約1万3000人から、約2万8000人にまで膨れ上がる。

そのおり、各地の織田残党の動きを気にしていた斎藤利三は、主君の光秀にある進言をする。

北の真田夕夏に対して、賤ヶ岳に防衛拠点を設ける事、西の羽柴秀吉に対しては、山崎の地に防衛拠点を設ける事、信濃の柴田勝家や、三河の徳川家康に対しては、美濃の関ヶ原に防衛拠点を設ける事である。

その進言を聞き入れた光秀は、斎藤利三を山崎の地に、一族の明智秀満を賤ヶ岳に、光秀に降伏をしたばかりで、降伏の手土産代わりに近江長浜城を占拠をした、阿閉貞征を美濃の関ヶ原に、それぞれ1000人の兵を与え派遣をする。

光秀の次の目的は、伊賀の蒲生親子と、伊勢の北畠信雄の討伐である。

しかし、その討伐を行う前に、凶報が知らされる。

そう、中国地方に遠征をしていた羽柴秀吉が、中国大返しを成功させて、摂津の地にまで進軍をして来たとの報告である。

光秀は、各地の城にわずかな守備兵を残すと、約2万2000の兵を引き連れて、山崎の地に向かうのである。



さて、信長落命の報を聴いた羽柴秀吉は、毛利輝元との和睦交渉に難航をしていた。

5か国割譲をする事は、お互い了承をしたのであるが、備中高松城の開城と、清水宗治の切腹の要求に、毛利側が必死の抵抗をしているからである。

ところが、秀吉に元に信長落命の報告が入る前に、吉川元春の元に報告が知らされ、主君の毛利輝元も、信長の援軍が来ないのであれば、和議締結の事を蹴るつもりでいたのである。

しかし、小早川隆景の元に、信長落命の報告が知らされると、主君であり甥の毛利輝元、兄の吉川元春の元に姿を見せて、信長落命の報告をする。

しかし、既に信長落命の情報を知っている両者は、秀吉に対して、こちらも情報を掴んでいるとそれとなく匂わせながらも、高松城の開城と清水宗治の切腹要求は、蹴るつもりでいる。

両者からの言い分を聞いた小早川隆景は、必死の説得を試み、秀吉が天下を取る可能性も否定できないと言い、もしも本当に秀吉が天下を取る場合、毛利家を確実に残す為には、ここで5か国割譲の和議締結だけは結ぶべきである。

理路整然とした小早川隆景の説得に、毛利輝元、吉川元春の両者も考え方を改めるも、備中高松城の開城と、清水宗治の切腹だけは受け入れぬと、念を押すのである。

こうなった以上、小早川隆景は、黒田官兵衛との交渉に当たっていた安国寺恵瓊に代わり、自らが黒田官兵衛との交渉に臨むのである。

黒田官兵衛は、安国寺恵瓊に代わり、小早川隆景自らが出てきた事に不審を抱き、言葉巧みに毛利側が情報を知っていると知り得ると、1度秀吉の元に戻り他の家臣達との意見交換を交えてから、再び協議を始める。

結局は、秀吉の方が折れる形で、毛利輝元との和議締結をするのである。

しかし、和議締結に時間を費やした事が、秀吉達に不運を呼び込んだのは間違いなかった。

秀吉は、毛利輝元との和議締結を済ませると、6月10日に備中高松城を水攻めに使用をしていた堤防を壊し、全速力で播磨の姫路城に退却を開始する。

6月12日には、沼(岡山城東方)に到着、13日には、姫路城に到着をし、そこで秀吉は、一世一代の博打を打つのである。

姫路城に蓄えられていた金銀財宝だけではなく兵糧等の全てを、家臣や足軽達に分け与えたのである。

当初、秀吉が目指していたのは、信長様の敵討ちであったが、姫路城に到着し、暫しの休息を取る間に考えが変わったのである。

嫡男の信忠様も討ち死にをされた以上、もはや織田家は終わりである。

織田家を乗っとり、自分が天下を取る!

天下人になりたいとの、野望を抱いた秀吉は、少しずつ人格が変わっていくのである。

17日には、尼崎城に到着をし、摂津衆からの返事を待っていた。

姫路城に到着した時に、摂津衆の池田恒興、高山右近、中川清秀らに書状を送り、上様と右近衛大将信忠は、生きておるとの偽書を送りつけていた。

明智光秀が、摂津方面を重要視しなかった事もあり、摂津衆の池田恒興、高山右近、中川清秀らは、秀吉の元に参戦をする。

同じく、高野山包囲の援軍として堺に滞在をしていた、神戸信孝、丹羽長秀らも、秀吉の元に参戦をする。

これにより、秀吉の軍勢は約3万人にまで増え、18日には富田で軍議を開く。

秀吉は、最初に総大将を長秀、その次に信孝を推すも、両者から逆に総大将になる事を薦められ、事実上の総大将になる。

名目上の総大将は、信孝である。

山崎の地を決戦場所として想定をして、各部署の配置を決めた後に進軍を開始する。

6月19日、山崎の地に、羽柴秀吉の軍勢が到着をするも、既に、明智光秀の軍勢が待ち構えている。

円明寺川に沿って、長延な柵を築くだけではなく、天王山にも兵を配置し、秀吉達の進軍を阻むのである。

天王山を守備するのは、斎藤利三率いる約4000人、円明寺川には、約1万2000人を配置、光秀本陣には約5000人、勝竜寺城には約1000人を配置。

対する秀吉の方は、先陣を任された、高山右近、中川清秀等が約2000人を率い、丹羽長秀、神戸信孝等が約3000人を率い、残りの約2万人は、秀吉本隊として陣を敷く。

天候は雲が多く、13日に降っていた雨の影響で地面は濡れていたが、ここ数日晴天が続いた為か、すっかり地面も乾いていて進軍に影響はない。

光秀側の思惑は、長期戦に持ち込む事で、更に自分の味方を増やせる利点を有効活用したいのである。

秀吉の思惑は、短期決戦に持ち込む事で、寄せ集めの軍勢がばらばらになる前に、光秀との決着を付けたいのである。

戦いの火蓋は、朝が明けようとしていた頃であり、まだ深い霧が発生していた時である。

秀吉側の先陣を任された中川清秀が、対岸に陣を敷いている明智秀満の陣に、火縄銃を撃ち込んだのである。

「逆賊の光秀の首を取り、功名を立てようぞ!」

中川清秀が大声を張り上げると、足軽達は円明寺川に入り、対岸の明智秀満の陣に襲い掛かる。

対岸に陣を敷く対する秀満も、火縄銃で応戦をし、円明寺川に侵入をして来た、中川清秀の兵を迎え撃つ。

「猪武者の、清秀ごときに、我々が負ける事はない!

陣を固く守り、足場の悪く、動きの鈍い敵兵を皆殺しにしろ!」

やはり、秀満側も、火縄銃と、弓矢を用いて、清秀の軍勢を押し返そうと奮戦をする。

その少し後、中川清秀の陣から火縄銃の音を聞き付けた高山右近も、対岸に陣を敷く松田政近に攻め寄せる。

「我々には、ゼウスの加護がある!

死を怖れず、神の敵を討つのだ!」

キリシタン大名としても有名な高山右近は、配下の者達もキリスト教の信者が多い。

火縄銃を撃ち、弓矢で応戦しながら、戦の主導権を握りたいのであろう。

高山右近に攻め込まれた松田政近は、板盾を多数並べて、火縄銃の弾を防ぎながら、火縄銃と弓矢で応戦をする。

「南蛮の宗教を信仰している高山右近を、絶対に許すな!

やつらは、仏敵であるぞ!」

松田政近は、仏敵の言葉を用いて、兵を鼓舞しながら応戦する。



前にも書いたが、山崎の地は湿地帯であり、それほど多くの兵を展開出来る場所ではない。

更に、天王山に続く山道と、湿地帯の小道を塞ぐように長延の柵を築く事により、そこそこの防衛能力を光秀側は持つのである。

対する秀吉側は、柵を築く暇もなく、天王山の敵と、円明寺川の向こうにいる敵を迎え撃つように兵を配置しており、なかなか突破口を見いだせずにいた。

前にも上げたが、山崎の地から京の都に向かうには、湿地帯の中にあるいくつかの小道を進むか、天王山の山道を使うしか無いのである。

その2つの道を、明智光秀に押さえられている以上、多大な損害を覚悟して、天王山を攻め落とし、そこから逆落としの要領で攻めかかるか、両軍を合わせても、約3000人程しか展開出来ない湿地帯を、占拠するしか無いのである。

もう1つの策は、奈良方面を大きく迂回し、京の都を経由してから、光秀の背後を突く方法である。

しかし、奈良方面を大きく迂回する方法は、大きな危険を持つ。

迂回をする事で、時間の消費も大きく、短期決戦を望んでいる秀吉には、どうしても取れない策である。

一方、光秀側も、秀吉よりも総兵力が劣るために、別動隊の編成が出来ないのである。

だが、光秀には、ある秘策があった。

安土城を占拠した時の、副産物とでも言うべきか。

真田敦が、上様に献上をした2門の大筒である。

もちろん、たった2門の大筒で、戦況をいきなり変えられる力は無いことを、光秀自身も分かっている。

使いどころを間違えなければ、ある程度の効果は出るだろう。

光秀の考えは、その様な事である。

一進一退の戦いは、約一刻を過ぎようとしていた。

中川清秀が、明智秀満の軍勢を押し切ろうとすると、隣の陣を守る松田政近の別動隊に阻まれ、逆に、高山右近の軍勢を押し切ろうとすると、隣の陣を守る池田恒興の援軍に阻まれる。

そんな、いたちごっこを繰り返すだけである。

それでも、天王山の明智秀満は、一向に動こうとしない。

まるで、何かを待つかのように、静かに戦況を見ている。

一方、秀吉の方は、一進一退の戦況を嫌い、天王山を奪い取り、戦況を動かそうとする。

実弟の秀長を動かし、天王山を守備している斎藤利三を攻撃するのである。

その軍勢の中には、福島正則や、加藤清正、秀吉の嫡男である秀勝の姿もあった。

更に一刻が過ぎ、戦況に変化が起きる。

中川清秀の軍勢が、明智秀満の軍勢を打ち破り、隣の陣を守る松田政近の軍勢に襲い掛かる時に、1発の流れ弾が、不幸にも中川清秀の眉間を貫き、中川清秀は即死。

「戦場では、運の見放された者から散っていく。

それは、避けられようもない天命である。」

本能寺の変で散ったある人物の言葉を思い出しながら、中川清秀は暗い闇の中に消えていく。

中川清秀の軍勢がちりじりになると、中川清秀の軍勢に押し込まれ後方に撤退をしていた明智秀満は、再び軍勢の隊列をどうにか直すと、円明寺川を渡り、そのまま高山右近の陣に、北側から襲い掛かる。

東から松田政近、北から明智秀満の軍勢に押し込まれ始めた高山右近は、秀吉本陣と、隣の池田恒興に援軍要請の使者を送り出す。

はたして、池田恒興及び、秀吉からの援軍到着までこの軍勢が持ちこたえられるのか?

高山右近は、胸から下げている十字架を握り締めながら、戦況を見ながら指揮を取る。

一方、天王山の戦いも、一進一退の戦況であった。

元々、天王山に通じる山道は狭く、1度に多くの兵を送り込めない為に、福島正則、加藤清正、羽柴秀勝らは、戦況が良くならない事に、いらいらするだけである。

それでも、最初の麓の陣を奪い取る事に成功をし、残りの陣を奪い取る為に、更に新手の兵を送り出し、少しずつ山頂に近付きつつある。

斎藤利三の方は、一番下の麓の陣を奪われても、冷静沈着でいた。

最初の計画では、一番下の麓の陣を奪われても、影響はないと考えていたからである。

いや、わざと麓の陣を奪わせたのであろう。

秀勝らの軍勢が、麓の陣にたどり着いた頃を見計らい、山頂から大きな石や岩を落とし始める。

落石の計を用いて、攻め手に多大な損害を与える計画である。

更に、2番目の麓の陣には、約200丁の鉄砲隊と、約800の弓隊に、槍を持つ足軽舘が多数控えている。

ただでさえ、狭い山道の上に、山頂からの落石に、鉄砲隊と、弓隊の雨嵐のような攻撃の前に、命知らずの福島正則や、加藤清正達でも、どうしようもなかったのである。



中川清秀を撃ち取り、高山右近の陣にまで攻め込んだとの報告を受けた明智光秀は、天王山の守備をしている斎藤利三に、狼煙による新たな攻撃開始の連絡をする。

光秀本陣から昇る狼煙を見た斎藤利三は、2門の大筒の使用を開始する。

狙いは、天王山の麓に陣を敷く、秀吉本陣である。

大筒の性能から考えても、ぎりぎり秀吉本陣に着弾するかしないかの瀬戸際であるが、弓や鉄砲よりも、遥かに恐怖を与える事が出来る大筒の恐ろしさを、秀吉を筆頭に誰も知らなかった。

いや、鉄鋼戦での海戦は耳にしているであろうが、この山崎の戦いにおいて、その大筒が使用される事を知らなかったと、言い直そう。

「狙いを定めて、秀吉本陣目掛けて放て!」

斉藤利三は、2門の大筒を管理している武将に、発射命令を下す。

この時代の大筒は、先込め式である。

丸い鉄の塊を、砲身の後ろから入れるのではなく、火縄銃のように前から入れて、固定をした後に発射をするのである。

真田敦が上様に献上したのは、セーカー砲である。

正確に言えば、カノン砲は、まだこの時代にはない。

16世紀末に、カノン砲が出てくるのであるが、真田敦が南蛮視察より帰国をした数年後に、カノン砲がスペイン国において、発明をされたのである。

であるからして、一般的にこの時代の鉄製の大筒と言えば、カルバリン砲と、セーカー砲である。

青銅製の大筒と言えば、フランキ砲である。

フランキ砲を日本で最初に使用したのは、九州の大友宗麟だと言われている。

だが、青銅製のフランキ砲は、命中率も悪く、射程距離も短い事から、真田敦は、鉄製のカルバリン砲や、セーカー砲を欲しがったのである。

その為だけではなく、真田敦が上様を説得して南蛮視察に向かったのは、当時の南蛮の経済事情を学ぶ事であった。

世界最強の国である、イスパニア国は、真田敦が南蛮視察に向かった頃には、既に国名が、スペインに変更になっていた。

当時、南蛮国に出回っていた、銀の産出量の約3分の1を日本が、更に約3分の1を南米にあるポトシ銀山から、産出をしていたのである。

銅に関して言えば、日本が世界最大の産出国である。

その大量の銀が南蛮国に、もたらされた事により、銀の価値が大暴落をし、現在の銀の価値になっているのであるから、ある意味で不幸な事である。

銀の価値を正しく知る者は、南蛮経済に明るい真田敦と、天才と言える織田信長ぐらいであろう。

日本と、南蛮国との間で、銀の価値が約10倍も違う事を知れば、南蛮貿易に対する、銀の支払い額も違うからである。

真田敦は、少なくとも、アラビア半島、出来れば、喜望峰と呼ばれている、ケープタウンまで南蛮遠征を考えていた。

そこまで日本の勢力を伸ばしておけば、南蛮貿易だけではなく、新大陸制圧の夢を実現にする為に、様々な知識を学ぶ必要があったのである。

だが、本能寺の変が起きた事により、南蛮遠征の夢は、上様と真田の後を継ぐ人物に、委ねるしかないのである。

秀吉本陣の近くに、球体の塊が落ちてきたのは、それからまもなくの事である。

雷でも落ちたような轟音が、辺りに響いたかと思った瞬間に、いきなり空高くから、見慣れぬ物体が落下してきたのである。

幸いにして、損害は無かったのであるが、聞き慣れぬ轟音と、謎の球体を目にした足軽達の動揺は隠せない。

なにしろ、次から次にと、轟音が鳴り響き、謎の球体が空から落ちてくるのである。

天王山からの攻撃を受けていると、秀吉の元に報告がなされた時には、砲撃による4発目の攻撃を受けた頃である。

なぜそこまで報告が遅れたかと言えば、天王山からの砲撃による2発目までは、正確な状況を読み込めず、ただ混乱をしていたからである。

同じ頃、神戸信孝は、いらいらしていた。

名目上の総大将と言えど、前線に回されたあげく、秀吉の元に何度も援軍要請をしても、同じ返事が返ってくるからである。

「今しばらく、持ちこたえて下され。

天王山を奪い取れば、形勢が優位になりますが故に。」

何度、この言葉を聞いたのであろう。

元々、信孝は、大の秀吉嫌いで有名である。

父上や、兄である信忠や、自分の補佐役である丹羽長秀、前田利家らのわずか数人しか、秀吉を好きではないからである。

今は亡き義叔父である、真田敦は中立の立場を取っていたが、義叔母である真田夕夏、従兄弟の真田政長らは、秀吉嫌いを通していた。

神戸信孝は、ある疑問を心の中に抱く。

(父上と、織田家の家督を継いだ兄信忠が亡き今、あの憎たらしい秀吉の奴は、織田家の乗っ取りを考えてるのではないか?

この戦にて、謀反人の光秀を討ち取っても、結局は秀吉の功績になるのではないか?

それどころか、この戦のどさくさに紛れて、自分を亡き者にしようとするのではないか?)

信孝の心の中に、疑心暗鬼が生まれ始めると、自分自身を止める事は出来なかったのである。

速やかに、この場より摂津に向けて撤退をする。

もはや、この戦に勝てる見込みはない。

さっさと撤退をして、仕切り直しをするべきである。

1度決意をすると、配下の者を集めて、撤退の準備を始めさせる。

この場に、丹羽長秀がいたのであれば、その様な事を止めたであろうが、あいにく、丹羽長秀は前線の指揮を取っており、本陣でのやり取りを知るよしもない。

普段の神戸信孝であれば、補佐役である丹羽長秀に、相談をしていたのであるが、あの日、ある人物からの使者が来て以来、心の中に疑念を抱いていたのである。

そう、北陸の支配を任されている、義叔母である真田夕夏からの使者である。

夕夏からの書状を読み終えた信孝は、前にも増して秀吉に対する疑念を大きくしたのである。

信孝が総大将になり、信孝が全軍を指揮を取るのであれば、秀吉は織田家の宿老としての使命を果たそうとするであろう。

しかし、信孝が総大将になり、秀吉が全軍の戦の指揮を取るのであれば、織田家の簒奪を考えていると、疑いを持たなければならない。

自分の手勢を後方に置き、摂津衆の池田達や、信孝らの軍勢を最前線に送り込み、すり潰しても構わない態度を取れば、疑惑は確信に変わるであろう。

そして書状の最後には、秀吉は必ず総大将を信孝公に任せ、自分は兵力の多さをちらつかせて、全軍の指揮を取ると言い出すであろう。

信孝は、その書状を懐に収めてから、秀吉の誘いに乗ったのである。

秀吉の態度は、名を捨て実を取る態度を示していた。

信孝を、名目上の総大将に祭り上げ、事実上の総大将は、秀吉が就いたのである。

秀吉の口の上手さは、信孝は前々から知っていたために、名目上の総大将にされても、不満を言わずにいたのである。

更に、敵討ちの戦に望んで、勝ち目がないと判断をした場合には、戦略的撤退をするべきである。

その為に、逆賊の光秀に負けようが、責任は名目上の信孝ではなく、事実上の総大将である秀吉が取るべきである。

そう書状に書かれていたからこそ、戦略的撤退を決意したのである。

「もはや、この戦に勝てる見込みはない!

仕切り直しの為に、大坂城に撤退をする!

殿は、猿にやらせておけ!」

神戸信孝は、そう言い放つと、手勢をまとめ、さっさと大坂城に向けて撤退を開始する。

もちろん、勝手に戦線離脱をすれば、あとで大問題になるのは、分かっている。

予め、猿と、池田恒興等に、戦略的撤退をする事を、使者を出して知らせてある。

猿嫌いの信孝であるから、猿からの、返事を待つ前に撤退を始める始末である。

ここに、丹羽長秀が居たとしても、信孝の考え方を改める事は、不可能である。

前線より丹羽長秀が本陣に戻って来た時には、信孝は1里先に撤退をしてた。

長秀は、深い溜め息を吐くと、残りの手勢をまとめ、大坂城に向けて撤退をする。

池田恒興も、信孝からの使者の言葉を聞くと、握り締めていた軍配を地面に叩き付け、怒り込めて撤退を口にする。

羽柴側の前線の崩壊、まさにそれである。

中川隊は壊滅、神戸信孝、池田恒興は摂津と、大坂城に向けて撤退。

1人残された高山隊も、北東南の3方向より一斉に攻め込まれ、乱戦の内に高山右近も討ち死にをする。



秀吉本陣に、信孝からの使者が訪れた時には、全てが終わっていた。

信孝隊は、秀吉本陣の脇をすり抜けて、さっさと撤退。

それに続いて、池田恒興隊も、我先にと撤退をする。

もちろん、秀吉もそれを黙って見過ごす訳もなく、使者を送るだけではなく、部隊を回して撤退を諦めさせようとするも、信孝隊や、池田恒興隊の、邪魔者は全て切り捨てるような気迫の前に、命を捨ててまで止めようとする者はいなかった。

加えて、秀吉本陣は、天王山からの砲撃を受けており、座して死を待つより死中に活を求めん。

ようやく、本陣を前線に進めようと、秀吉が決断を下すのが遅すぎた。

「あの、くそ餓鬼が!

余計な事をして、わしの計算を狂わせる気か!」

秀吉は、怒りのあまり、地面を何度も蹴る。

上様の敵討ちを無事に終わらせ、織田家簒奪の目論見が、神戸信孝のせいでご破算になったからである。

こうなった以上、仕切り直しの為に、1度摂津の大阪城辺りまで、撤退をしなくてはならない。

殿は、天王山を攻略中である羽柴秀長達に、任せる他はない。

秀吉は、天王山攻略中の秀長の元に、使者を送るとともに、天王山からの砲撃による損害を少しでも抑える為に、少しずつ撤退を開始する。

秀長の元に、秀吉からの使者が到着をした時には、秀吉は山崎の地から撤退をした後であった。

秀長は、手勢を素早くまとめ上げると、天王山を破竹の勢いで掛け下り、麓を占拠していた斉藤利三の軍勢に、全軍での突撃を開始。

殿の役目を果たすには、斉藤利三の陣を抜き、陣形を立て直し、追っての軍勢を迎え撃たねばならないからである。

幸い、福島正則や加藤清正らの、豪の者達がいたお陰で、すんなりと斉藤利三の陣を突破し、秀吉本陣に追い付く為に、追ってとの戦闘を繰り返しながら、摂津の大阪城に向けて退却をして行く。

さて、秀吉の撤退を知らされた明智光秀は、直ぐ秀吉の追撃をするつもりでいたのであるが、幸運と言うものは簡単には転んでは来ない物である。

むしろ、凶報がもたらされたのである。

越中魚津城に滞在中の真田夕夏が、越前北ノ庄に到着をしたのである。

秀吉達を亡き者にする絶好の機会を逃がした光秀は、手勢をまとめると近江の賤ヶ岳に向けて進軍を開始する。

もしも、真田夕夏が越前北ノ庄に到着をしていなければ、秀吉の命運は尽きていたであろう。

播磨の姫路城に退却をしても、金銀兵糧を保管している倉の中は全て空であり、とても籠城をする状態ではない。

仮に、大阪城に籠城をしようとも、城主である神戸信孝と、仲違い状態にある以上、秀吉の大阪城入場を許す事はない。

その秀吉は、明智光秀の追撃が無かった為に、九死に一生を得るのであるが、摂津大阪城に到着をするも、城主である神戸信孝からの入城拒否にあい、信孝に対する恨みを増大させたまま、播磨姫路城に退却をせざるをえなかった。

秀吉は、再起をする為に、備前を支配している宇喜多家に黒田官兵衛を使者として送り込み、援軍と兵糧を出させる交渉を企む。

秀吉の再起が先か、光秀の攻撃再開が先か、先の読めない状況に追いやられたのである。

6月18日の早朝、越前北ノ庄に到着をした真田夕夏は、大広間に家臣一同を集め、大規模な軍議を開催する。

上座には、真田家当主真田政長が座り、太刀持ちとして山口美那と、警護役として柳生綾夏が、政長の後ろに控える。

政長に一番近い左側の上座には、一族の長老として真田夕夏が座り、右側の上座には、夕夏の夫である信澄が座る。

以下、大内勝雄、南条勝成を始め、真田家において、位の高い順に次々と座っていく。

家臣の数で言えば、織田家が全国一であろうが、家臣の質に関して言えば、真田家が全国一であろう。

政長は、皆が揃うのを見届けてから、その口を開く。

「皆の者、ご苦労である!

さて、我々は明日の朝、逆賊である光秀を討ち取るべく、賤ヶ岳に進軍をする予定である!

この場は、位の高さは関係ない。

無礼講であるがゆえに、自由に発言をして貰いたい。」

政長は、そう皆の者に伝えると、ずっしりと構える。

まず最初に手を上げ発言をするのは、宿老の地位にある大内勝雄である。

「先ずは、某が発言をいたす。

逆賊の光秀めは、大殿を亡き者にしただけではなく、上様と大将様も、亡き者に致した事は、この日の本中に知れ渡っております。

直ぐにでも、主力部隊を賤ヶ岳に向かわせ、私の率いる水軍は、安土城の奪還に向かい、更に、京の都奪還の為に、別動隊を出すべきです。」

大内勝雄の進言は、正論と言える。

しかし、その正論に反論を述べる者がいた。

真田家の初代参謀、土屋優梨である。

真田夕夏は、参謀と言うよりは、ご意見番の立場と言うべきであろう。

「古来より、兵の分散は、慎むべきとの教えもあります。

水軍を用いての安土城の奪還に向かうだけであれば、賛同致しますが、別動隊を編成して、京の都の奪還に向かうのは反対致します。

別動隊に兵を割くのであれば、本隊と共に進軍をし、賤ヶ岳に向かわせるべきです。」

これもまた、一理ある発言である。

孫子の兵法書にも、兵の分散を慎むべきとの言葉も残されている。

大内勝雄の意見に、賛同する者、土屋優梨の意見に、賛同する者。

それぞれが、激しい論争を引き起こし、大広間は収拾の付かない状態になる。

その光景を上座で見ている政長は、自分の父親の偉大さを、改めて知るのである。

(父上の時であれば、ここまでの論争は、起きないだろう。

父上が一言発すれば、皆はそれに従うだけだからだ。

しかし、私は、父上のやり方とは違う。

皆の衆の意見を聞き入れ、その中での最良の方法を取る。

父上は、よく言われた言葉がある。

初代が家を起こし、2代目が家を守り、3代目が家を発展させる。

2代目の某は、父上が起こした家を守るのが本分である。)

政長は、そう自分に言い聞かせてる最中に、小姓が大広間に表れる。

小姓の姿を見た政長は、皆に静まるように伝える。

主君からの言葉を聞いた家臣達は、直ぐに静まる。

この辺は、初代が徹底的に教育をしたのであろう。

静まり返った大広間に、小姓が言葉を発する。

「岐阜の茜様と、伊勢の北畠信雄様より、使者が参っております。

この場に、お通ししても、よろしいでしょうか?」

その言葉に即座に反応したのは、夕夏である。

直ぐに、上座に座る政長殿に目で合図をすると、政長はここにお通すように小姓に命じる。

小姓が、頭を下げて大広間から去ると、小姓に案内をされた2人の使者が大広間に姿を見せる。

先に言葉を口にしたのは、岐阜の茜からの使者である。

「我が主、茜御寮人よりのお言葉を、お伝え致します。

先日、三河の松平信康様より、逆賊である光秀討伐に、お力を貸して頂ける事になりました。

既に信康様は、三河の岡崎城を出発しており、恐らくは明日にでも、岐阜城にご到着をなされると思われます。」

三河の、松平信康の参戦。

この報告に、真田政長を始めとする者達は、喜びを隠せない。

強兵を従える松平信康の援軍は、美濃より近江に向けて、出陣をして貰えるからである。

更に、伊勢の北畠信雄からの使者の口上は、更に真田家の者達の、士気を高める事になる。

「我が主、北畠少将からのお言葉をお伝え致します。

伊勢にある全軍を率いて、安土城の奪還に向けて伊賀に出陣を致しまする。

安土城の奪還を果たし、逆賊光秀の退路を断つとの、お言葉で御座います。」

安土城の奪還。

これが叶えば、光秀の退路を断つだけではなく、賤ヶ岳の地にて、光秀包囲網を構築する事が可能になる。

美濃の関ヶ原方面は、岐阜の織田軍と三河の松平信康が、光秀の退路を封鎖する。

京都に退却をしようにも、南近江の安土城は、伊勢の北畠信雄が退却を封鎖する。

最後に、琵琶湖と若狭越前方面は、真田政長、夕夏等が光秀の逃げ道を封鎖する。

真田夕夏は、ここまで考えを巡らせると、この策を考えた人物は誰であろうかと考え始める。

正直な話、上様、岐阜大将、兄上亡き後で、ここまで早急に手を打てる人物は、織田家中には存在をしない。

強いて上げれば、秀吉の与力の黒田官兵衛、兄上の与力である真田昌幸、あとは、優梨か、詩織であろう。

その誰も、この策を考えるとは思えない。

いや、考え付いても、実行には移せないのが当たり前である。

黒田官兵衛は、姫路城に撤退中であり、外様の真田昌幸の意見では、誰も従わない。

優梨や、詩織が、私に無断でやる事もない。

真田夕夏は、北畠少将からの使者に質問をする。

「北畠少将からの使者に、質問をする。

北畠少将の出陣は、自らの考えであろうか?

それとも、誰かからの指示であろうか?」

夕夏からの質問に、使者は簡潔に答える。

「岐阜の茜御寮人からの使者である、天海と申す僧侶の命令で御座います。

すべての権限を任され、我が主の北畠少将の説得にも当たられましたが。」

夕夏は、その言葉を聞くと、2人の使者に下がるように伝える。

その一方で、ちらっと天井を見上げると、天井裏に気配を消して待機をしていた、綾と、彩夏の2人に、天海と名乗る僧侶の正体を探るように命じる。

綾と、彩夏は、一礼をすると素早くその場より姿を消し、北畠少将の陣と、岐阜に向けて出発をする。

使者からの言葉を聞いた政長は、戦略の決断を下す。

賤ヶ岳に進軍、水軍による安土城奪還、そして、京の都と、帝の身柄の保護。

真田の軍勢だけであれば、賤ヶ岳と、水軍だけに兵を集中させるつもりでいたが、三河と伊勢からの援軍を聞き付けた以上、悩む必要が無くなったからである。

「明日、賤ヶ岳に向けて進軍を開始する。

賤ヶ岳方面の総大将は、私が勤める!

北畠少将による安土城奪還の為の、水軍による支援の総大将は、大内勝雄に任せる!

京の都の奪還及び、帝の身柄の確保の為の総大将は、叔父の信澄殿に任せる!

皆の者、この戦は亡き上様、大将、父上の敵討ちだけではない!

織田家の、いや、日の国の将来を担う戦いと思え!

命を惜しむな、名を惜しめ!

そなたらの名を、後の世に残す為に、死力を尽くすのだ!」

政長の演説は、まるで先代が乗り移ったかのようである。

ある者は、涙を流し、またある者は、拳を握り締めて決戦に備え、またある者は、主君の成長を素直に喜んでいた。

真田政長率いる軍勢が、越前北ノ庄を出陣したのは翌日の事である。



伊勢田丸城にて。

伊勢の統治を任されている北畠信雄の前に、岐阜よりの使者である天海が座っていた。

茜御寮人からの書状を読み終えているのに、いつまでも決断を下さない信雄に対して、天海はいらいらしていた。

上様の子供でなければ、殴り付ける事ぐらいはしているであろう。

いや、上様の子供であろうとも、殴る事ぐらいは、天海であれば平気でやるであろう。

しかし、天海は信雄の説得に、1刻あまりを時間を費やしている。

信雄の不安は、ただ1つである。

自分に軍才が無い事を知っているだけに、安土城奪還が成功するかどうかで悩んでいるのである。

成功すればともかく、失敗を恐れるあまり、なかなか決断を下さない。

元々は気の長い天海であったが、信雄のあまりの優柔不断の態度に、遂に怒りを爆発させる。

すっと立ち上がると、ずかずかと信雄の元に近寄り、信雄の胸ぐらを掴み言葉を発する。

「このくそ餓鬼!

いつまで悩んでいるんだ!

失敗を恐れてる暇があれば、亡き上様、大将、真田公の敵討ちをするのが先決だろうが!

そんな事も出来ないのであれば、軍勢の指揮を余に渡せ!

臆病者は、田丸城にていつまでも、震えておれ!」

天海の鋭い眼光を見た信雄は、一瞬にして天海の気配に飲まれる。

そして、信雄は、ようやく言葉を発するのである。

「わ・・分かった。

伊勢の軍勢の全軍の指揮を、そなたに任せる。

だから、手を離して欲しい。」

信雄の言葉を聞いた天海は、胸ぐらを掴んでいた手を離し、信雄から数歩離れる。

こうして、北畠信雄は、ようやく出陣を決意し、越前北ノ庄に向けて使者を送る。

伊勢の軍勢、約1万5000人を引き連れ、天海は、伊賀の蒲生一族が支配をしている日野城に向け、進軍を開始する。

美濃岐阜城にて。

岐阜城城主である、織田信忠が二条城にて、落命をしてから7日後。

信忠の正室であり、真田敦の長女でもある、茜御寮人は、岐阜城に詰めている家臣一同を、大広間に集めていた。

岳父、夫、実父の3人を同時に亡くした身であるが、心までは折れてはいない。

「濃尾の混乱を早急に収め、一刻も早く逆賊討伐の軍勢を起こすのです!

三河の松平信康殿にも援軍要請をした以上、恥の上塗りをするべきではなかろう!

浅井備前や、真田中納言に、柴田達もいる。

逆賊である光秀めが、畿内を手に入れようとも、各方面よりの軍勢が立ち上がれば、何も恐れる事はない!

職務を全うし、軍勢の立て直しに取り掛かるのです!」

茜御寮人の力強い演説は、意気消沈をしていた家臣達に、活を入れる事になる。

家臣達が、それぞれの仕事に向かったのと同時に、入れ替わるように天海僧侶が姿を見せる。

元々は、美濃正徳寺の住職であったらしいが、ここ数年は、正徳寺を離れていたようである。

正徳寺に戻って来たのが、つい昨日である事から、茜御寮人は天海僧侶を岐阜城に招き寄せ、この事態の収集策を相談していた。

そして、伊勢の北畠信雄の元に使者として向かったのは、この日の翌日の事である。

その天海僧侶には、1人の供がいた。

名を胡桃と言い、新陰流の剣の使い手である。

天海僧侶も、若い頃に新陰流を学んでおり、剣と、槍の腕前は免許皆伝を許されている。

胡桃も、師範代ぐらいの腕前であり、数人の山賊ぐらいであれば、簡単に蹴散らせるであろう。

後に、黒衣の宰相として名を馳せる天海僧侶が、表舞台に出た瞬間でもあった。

「上様、大将も亡き今、織田家の当主の座を継ぐのは、三法師様しかおるまい。

柴田辺りは、三男の信孝を推挙し、羽柴辺りは、四男の秀勝を推挙するやも知れぬ。

更に言えば、信忠の嫡男である三法師を推挙する者は、夕夏殿か、政長殿辺りであろう。

余計な家督争いが、起きなければ良いのだが。」

天海の言葉を聞いた胡桃は、不気味な笑みを浮かべる。

この人は、心にもない事を述べると。

織田家の家督争いに、興味も無いくせに。

今、天海僧侶が興味があるのは、逆賊討伐の事ぐらいであろう。

後は、三法師殿の後見人が誰がやるのかぐらいであろう。

胡桃は、天を見上げながら、雲の切れ間から、晴れ間が見えるのを、期待するようであった。


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