四国征伐、そして、本能寺の変
天正6年(1578年)1月20日、信長は朝廷より、正二位・右大臣に昇任。
それに併せて、織田信忠は、正三位・大納言兼左近衛中将に昇任。
真田敦は、左近衛中将を辞任する代わりに、正三位・権大納言兼中務省の卿に昇進。
真田夕夏は、従三位権中納言に昇任、左近衛少将を兼任している。
中務省の卿と言えば、四品以上の親王が任命される事以外、あり得ない事である。
今回の異例とも言える昇任は、四品以上の親王が見当たらず、正親町天皇が、直々に口にされた事である。
公家の誰しもが、反対意見を言える筈もなく、素直に承諾されたのである。
しかし、この事により、真田敦は、余程の事がなければ京の都から離れる事が出来なくなり、1年の殆どを、京の都で過ごす事になる。
他の家臣達にも、官位が与えられ、正式な朝廷の家臣として認められた事になる。
天正6年3月9日、越後の春日山城にて、ある事が起きた。
厠に立った上杉謙信が、厠にて倒れているのが見つかったのである。
普段から、穀物を余り取らず、梅の実をつまみに、大酒を飲んでいた上杉謙信の事であるから、脳溢血、脳梗塞辺りの病気であろうと思われる。
3月13日には、上杉謙信の意識が戻らぬまま死亡をしてしまう。
上杉謙信の四十九日が過ぎるまでは、上杉家の家督相続の件は、話し合いにて取り決めを行うとするも、上杉景勝の参謀である樋口与六(後の直江兼続)の進言により、上杉景勝は即決に判断を下す。
速やかに春日山城の本丸を押さえると共に、金蔵、兵糧庫、武器庫等を押さえ、内外的に上杉家の家督を継いだと宣伝を始める。
もう片方の後継者の本人である上杉景虎は、騙し討ち同然のやり方に反発をし、越後の地侍達を味方に付け、正式な上杉家の家督を継いだのは、上杉景虎であると宣伝を始める。
お互いが上杉家の家督を継いだと言い張り、話し合いによる決着は無理と判断をしたのか、北条氏康の七男であり、謙信の養子である景虎と、謙信の姉の嫡男であり、同じく謙信の養子である景勝の間に、血を血で洗う上杉家の家督争いが勃発をする。
後の世に言う、御館の乱である。
この越後の内乱は、回りの国々の大名を巻き込む形に、発展までしてしまうのである。
まずは、関東を支配している、北条氏政である。
上杉家の家督争いを知り、自分の弟である景虎が家督を継げば、越後の領地を無傷で入れる事が出来るのである。
念願の関東統一までは、武田勝頼が支配をしている上野1国にまでに、なったからである。
常陸の佐竹義重は、約半年余りの籠城の末、本拠地の太田城を密かに脱出し、その後の行方は、未だに不明である。
北条氏政は、兵を集めながら、甲斐の武田勝頼に使者を送り、上野の領内の通過の許可を貰うまで、相模に待機をしていた。
さて、若狭、越前、加賀、能登の、4国を支配している真田敦は、京の都に滞在をしていた。
中務省の卿として、朝廷の仕事に追われていたのである。
若狭、越前の事は、嫡男の政長に政治を任せ、加賀、能登の事は、妹の夕夏に政治を任せていた。
上杉家の内乱を知った真田夕夏は、この機会に飛騨の地を支配下に治めるべく、2万の兵を率いて飛騨に向かうのである。
飛騨の地を支配下に治めれば、岐阜との道も繋がり、いずれ起こるであろう、甲州征伐の時に大軍を送り込めるからである。
その為には、早々に飛騨の地を手に入れて、道の整備をしなくてはならない。
真田夕夏は、甲州征伐に向けて、密かに準備を始めていたのである。
飛騨に向かう前日、はるばる遠方より、とんでもない客が見えたのである。
その客とは、相模の北条氏政に敗れ、行方知れずと言われていた、佐竹義重の一行である。
常陸から海路を使い、奥羽の地に逃れ、陸奥津軽を支配している、南部家の世話になっていたのであるが、南部一族の内紛に巻き込まれるのを恐れ、再び海路を使い加賀の国にまで、庇護を求めて来たのである。
織田家と佐竹家は、これまで使者のやり取りもなく、無関係の間柄であるが、佐竹義重本人は勿論、家臣達も優れた才能の持ち主である事を知っている真田夕夏は、客分として迎え入れるよりは、正式な家臣として召し抱える方が得であると思い、佐竹義重に対して、家臣として召し抱えたいのであるが、返答はいかにと使者を出す。
流浪の旅を続けるのに疲れ果てていた佐竹義重の一行は、いつの日か、故郷の常陸に戻れる事を信じ、真田夕夏の申し出を受け入れる事を決断する。
こうして、真田夕夏の元に、強力な家臣達を迎え入れたのであるが、佐竹義重達は、真田夕夏はの家臣として、八面六臂の活躍をする事になるのである。
同じ頃、甲斐の武田勝頼は、越後の内乱を知り、静観の立場を取ろうとしていた。
信濃の海津城を守備していた、最後の武田四天王である高坂昌信が、病死をしたからである。
高坂昌信は、武田勝頼が、長篠設楽ヶ原の戦いに負けて以来、越後の上杉謙信との和睦交渉を、熱心に行っていたからである。
高坂昌信の熱意が、上杉謙信に伝わり、甲越同盟が成立するところまで条件が整ったのであるが、正式な誓詞を取り交わす前に、上杉謙信は帰らぬ人となり、更には、上杉謙信の後を追うように、高坂昌信の病死である。
甲越同盟が成立する前に、両者の病死は、武田勝頼にしてみれば、痛手である。
そこに、相模の北条氏政からの使者が来て、上野の領内の通過の許可を貰いに来たのである。
このまま黙って上野の領内の通過の許可を与えれば、いつ上野を奪い取られるのか、分からないのである。
その野望を打ち砕く意味も兼ねて、北信濃の海津城まで兵を進め、更には、上野1国の守りを固めてから、北条氏政の上野通過の許可を出すと、使者に伝える。
だが、武田勝頼が正式に上野通過の許可を出したのは、6月29日であった為に、武田北条の間に、不信感が生まれたのである。
ようやく、上野通過の許可を貰った北条氏政は、相模を出陣し、上野と武蔵の国境に到着をした時には、景虎の戦死を知らされるのである。
この為、北条氏政は、心の底から武田勝頼を恨む事になるのである。
さて、話を越後に戻してみると、上杉景勝と、上杉景虎の争いは、最初は、上杉景虎の方が優勢であった。
上杉家の家臣達は、景虎派と、景勝派に分かれて争いをしていたのであるが、先関東管領である上杉憲政が、景虎側に付いたからである。
更に、上杉景虎は、実兄である北条氏政に援軍を依頼し、甲斐の武田勝頼にも、援軍を依頼したのである。
武田勝頼は、北条氏政の上野通過の許可を出す前に、越後の支配の実益を得る為に、6月2日には、北信濃の海津城まで出陣をしたのである。
この報告に驚いたのは、上杉景勝である。
ただでさえ、戦況が不利であり、北条武田の援軍が越後になだれ込めば、越後の地は火の海になるからである。
その様な時に、上杉謙信の小姓をしていた、樋口与六が意見を進言する。
「景勝様、この劣勢を挽回するには、武田北条の仲を裂くより、他に方法がありませぬ。
我々は、春日山城の本丸だけではなく、兵糧庫と金蔵を押さえてございまする。
金蔵に蓄えてある金子、10000枚を武田勝頼に渡すのです。
その代わりに、中立の立場を保ってもらい、更には、北条氏政の動きを封じて貰うのです。
そして、甲越同盟を結び、北条氏政に対抗をするのです。
時が掛かれば、掛かるほど、我々は更に不利な状況になるのです。
景勝様、どうかご決断を!」
樋口与六の進言を受け入れた上杉景勝は、直ぐに北信濃の武田勝頼の元に使者を送り、樋口与六の言葉をそのまま武田勝頼に伝える。
武田勝頼にしてみれば、甲越同盟に金子10000枚を、無償で受け取れるのであるから、断る理由もなく、上杉景勝の申し出を受け入れる。
そして、越後に介入をする事はなく、中立の立場を取るのである。
その一方で、相模の北条氏政に対しては、わざと上野通過の許可を出すのを遅らせた。
その結果、武田勝頼の援軍も来ない、北条氏政の援軍も、武田勝頼の策略により、援軍が出せない状態になり、上杉景勝は徐々に優勢な立場を取り返すのである。
更には、越中より景勝派の援軍が到着をすると、越後の内乱は終息に向けて動き出す。
劣勢に陥った上杉景虎は、信濃から上野を経由して、武藏に逃れようとするが、その途中で景勝の伏兵に襲われて落命、景虎側に付いた上杉憲政と、その息子も、上杉景勝派の兵により殺害をされる。
上杉家の家督は、上杉景勝が継ぎ、国内の建て直しに取りかかるのであるが、家中を二分した争いは大きな爪痕を残したのである。
結局、越後の内乱は、上杉家の力を落とすだけの結果に終わり、2度と上洛を夢見る事は無かったのである。
時は少し戻り、天正6年4月6日、畿内の摂津有岡城の支配を任されていた荒木村重が、石山本願寺の包囲を勝手に解除し、そのまま有岡城に引き上げただけではなく、上様に対して謀叛を起こす。
村重謀叛の報告を聞いた織田信長は、荒木村重の嫡男に嫁を出している明智光秀や、親交がある松井友閑らを派遣し、突然の謀叛を取り止める為の説得に向かわせ、1度は荒木村重も上様の元に謝罪に向かうと明智光秀、松井友閑らに伝える。
上様に、謀叛を起こした理由を伝えるべく、荒木村重は、有岡城を出発し、その途中で休息を取ろうと思い、配下の高山右近、中川清秀らに会った事が失敗であった。
高山右近、中川清秀らは、1度上様に逆らった者は、絶対に許す筈もない。
必ず騙し討ちに合うので、止めた方が良いと説得をし、その言葉にすっかり納得をしてしまった荒木村重は、そのまま有岡城に戻り、籠城に必要な準備を急がせる。
さて、荒木村重を有岡城に帰した、高山右近は、上様が使者として送り出した宣教師を城に受け入れ、素直に降伏をすれば、罪には問わないとの誘惑にのり、高山右近が降伏を決意。
上様に対する手土産を手に入れる為に、従兄弟の中川清秀のいる城に向かい、中川清秀にも降伏を促す。
理詰めで自分の置かれている状況を、従兄弟の高山右近に言われ、しばしの間、考える振りをした後に、降伏を決意する。
高山右近、中川清秀の2人は、京の都に上洛をし、嫡男を人質として差し出す事で、上様から許しを得るのである。
荒木村重の謀叛については、石山本願寺との繋がり説、毛利家に保護をされている足利義昭による陰謀説、成り上がりの羽柴秀吉の配下として扱われた説など、色々とある。
この報告を知った真田敦は、荒木村重の謀叛の理由は、中国地方の遠征の大将を、成り上がりの羽柴秀吉に奪われた事、村重の配下の足軽達は、浄土真宗を信仰している者が多数おり、密かな噂では、兵糧を石山本願寺に横流し等をしていたとの話もちらほら聞いている。
まぁ、なんの力もない足利義昭の説得をされたからの噂話は、最初から無視をしている。
4月25日、播磨三木城を支配している別所長治も、荒木村重の謀叛の報告を受けると、やはり織田信長に対して謀叛を起こす。
山陽道の入り口に等しい播磨三木城での謀叛は、備前の宇喜多直家の説得に当たっている、羽柴秀吉の軍勢の孤立を意味するのである。
前には、毛利家がおり、後ろには、別所長治に挟まれ、まさに袋の鼠の状態である。
山陰道を経由して、畿内に撤退をしようにも、美作、伯耆は、未だに毛利家が支配をしており、瀬戸内海を使って撤退をしようにも、今度は、瀬戸内海は未だに、村上水軍の支配下にあるのである。
荒木村重の謀叛だけではなく、別所長治の謀叛も起こる事態を重く見た織田信長は、自ら兵を引き連れて、摂津有岡城に向かい、柴田勝家、丹羽長秀らの遠征軍を播磨三木城に向かわせ、備前の羽柴秀吉には、播磨の三木城にまで撤退をし、丹羽長秀、池田恒興らと合流をするように使者を送る。
ここまで、裏切りの連鎖が続くと、背後には黒幕がいるのではないかと、織田信長は考える。
そう、この謀叛の連鎖反応を引き起こした黒幕は、備後鞆の浦に流れ着いた将軍足利義昭である。
荒木村重、別所長治の謀叛のだけではなく、備前を支配している宇喜多直家にも、謀叛を起こし、毛利家に付くように説得工作も行っていたのである。
ある意味、将軍と言う名の権威は、戦国時代においても、それなりの力を持っていたと言えよう。
6月10日、突如織田信長は、右大臣・右近衛大将を辞任。
この事により、朝廷の工作最高責任者は、正三位権大納言・中務省の卿である真田敦が、やる事になるのである。
真田敦は、昼は朝廷の仕事をこなし、夜は各地方の報告をまとめ、上様の元に送るのである。
多忙な日々を送っているのであるが、やりがいのある仕事と割りきり、黙々と仕事をこなしていた。
1通の書状に目を通した時に、真田敦の顔色が変わった。
中国地方の毛利家が、再び瀬戸内海を渡り、石山本願寺に兵糧、弾薬を運び込もうとしているとの報告である。
真田水軍は、日本海にあり、上杉を始めとする奥羽の水軍達の、牽制をしなくてはならない。
志摩の九鬼水軍は、未だに水軍再建の最中であり、鉄鋼船の建造もまだ間に合わない。
だが、毛利水軍も、どんなに早くても秋の収穫後になると、その書状には書いてある。
真田敦は、有岡城に向かった上様に書状を送ると同時に、越前の政長に、どれだけの水軍を此方に回せるかの回答を求める書状を送る。
書状を送り終え、その書状の返答を待ちながら、真田敦は、右手に羽毛扇を持ち、はるか遠くの西の方角を見ていた。
同じ頃、織田信長率いる軍勢は、摂津有岡城に到着をし、有岡城の堅固な守りを知ると、力攻めを止め、兵糧攻めに切り替える為に、有岡城を包囲するように長大な柵を築きあげ、一粒の兵糧、1発の弾すら有岡城に入れさせぬとの、決意である。
柵の完成を見ると、織田信長は、京の都に戻り、政務の続きを始める。
10月8日、備前の宇喜多直家の説得に成功をした黒田官兵衛が、羽柴秀吉の元に戻ってくる。
宇喜多直家の説得の最中に、荒木村重の謀叛の知らせを受け、一刻も早く秀吉様の元に戻る必要があったからである。
黒田官兵衛は、有岡城の荒木村重の説得に向かう。
羽柴秀吉を始め、蜂須賀小六らも反対をしているのであるが、黒田官兵衛は自分の交渉術を過信するあまり、自分の身に災いが降りかかるのを察知出来なかったのである。
有岡城に入城をし、荒木村重と会談を望んだ黒田官兵衛であるが、荒木村重は黒田官兵衛と会うなり早々にその身柄を確保。
有無を言わさず、足も伸ばせぬ程に狭く、じめじめと光の入らぬ土蔵に、黒田官兵衛を閉じ込める。
黒田官兵衛が、有岡城より出てこない報告を受けた上様は、黒田官兵衛の裏切りと思い、人質として預かっていた嫡男の松寿丸の処刑を、三木城包囲網に参加をしている竹中半兵衛に命じる。
黒田官兵衛の無実を信じる竹中半兵衛は、一計を張り巡らし、松寿丸と年齢が近く、更に病死をした子供の遺体を用意し、その首を落とし塩漬けにしてから、わざと日時をかけて上様の元に送る。
本物の松寿丸の身柄は、竹中半兵衛の手により加賀の小松城に届けられる。
実を言えば、黒田官兵衛の裏切りを信じていない真田敦は、密かに竹中半兵衛の元に使者を送り、松寿丸の安全を確保する為に裏で手を回し、上様の目の届かぬ加賀の小松城に更に移動させる為に、真田水軍を使う。
真田夕夏は、小松城に松寿丸を迎え入れると、人目の付かぬように徹底的に監視を強め、小松城に松寿丸が匿われて居ることは、真田敦、真田夕夏以外は、数人の重臣しか知らなかったのである。
11月3日、小早川水軍と村上水軍を合わせた、戦船約700隻あまりが、大量の兵糧、弾薬を積み込み、石山本願寺に向けて出港する。
この知らせを受けた織田信長は、直ぐに志摩に向かい、建造が完成をした鉄鋼船6隻を、堺沖に向けて出港をする。
前もって堺沖に停泊をさせていた真田水軍4隻は、大内勝雄を水軍大将に、副将として真田敦が乗り込み、淡路島の南側に停泊をしていた。
九鬼水軍、真田水軍の共通点は、薄さが約3ミリの鉄を船に張り付けた事にある。
それは、村上水軍の焙烙玉や、焙烙火矢を防ぐ為に取り付けたのである。
この戦いは、第2次木津川口の戦いと呼ばれているのであるが、戦いの結果は一方的であったと言われている。
500隻の村上水軍は、九鬼水軍と対陣し、200隻の小早川水軍は、真田水軍と対陣をしたのであるが、九鬼水軍と、真田水軍から発射される大筒の攻撃の前に、全く歯が立たないのである。
焙烙火矢、焙烙玉を投げつけても、鉄鋼船の前では全くの無意味であり、悪戯に損害を出すだけであった。
「ふん、小早川水軍など、しょせんこの程度よ!
予が考えて考案をした鉄鋼船の前には、雑魚に等しいわ!」
ひときわ上機嫌な発言をしているのは、やはり真田敦である。
その真田敦を見ながら、大内勝雄は次の手を打つ。
「敦様、小早川水軍を徹底的に叩き、そのついでに淡路島の三好水軍も叩きましょう!
ここで三好水軍も壊滅に追い込めば、来年の四国征伐もやりやすくなると思われますが。」
大内勝雄の言葉を聞き、真田敦は大きく頷く。
「よろしい!
蝿に等しい小早川水軍を壊滅に追い込み、ついでの駄賃に三好水軍を壊滅に追い込もうぞ!」
真田敦は、羽毛扇をゆっくりと動かしながら、戦況を冷めた目で見ていた。
一方、堺沖に停泊をしていた九鬼水軍も、村上水軍を徹底的に叩いていたのである。
第1次木津川口の戦いでは、手持ちの戦船を殆ど焼き尽くされる損害を出したのであるが、今回は鉄鋼船のおかげで、殆ど損害が出ていないのである。
「上様、この調子で、村上水軍を壊滅に追い込みましょうぞ!
さすれば、石山本願寺に兵糧、弾薬等を運び込む事は出来ますまい!」
九鬼義隆の言葉に、織田信長も頷く。
「で、あるか。
水軍の戦いは、そちに任せてある。
ここで村上水軍を壊滅に追い込み、石山本願寺に更なる圧力をかけようぞ!」
織田信長もまた、圧倒的な戦況の前に、上機嫌であった。
一方、意気揚々と出港をした、小早川村上水軍の方はと言うと、泣きっ面に蜂の言葉の通り、戦況の悪化になすすべも無かったのである。
「織田信長に真田敦、織田家の最重要人物がこの戦に来ており、討ち取る絶好の機会であるのに、何故に戦況が悪化するのだ!」
小早川水軍の総大将である、小早川隆景は、歯を食い縛りながら、苦悶の顔をする。
言わばこの戦いは、長篠設楽原の戦いの、海戦版と言えよう。
中世の考え方を持つ小早川隆景と、近代の考え方を持つ織田信長、真田敦の戦いである。
約2刻の戦いの後、小早川水軍約10隻、村上水軍約25隻の戦船を残して、撤退を始める。
九鬼義隆は、小早川村上水軍の撤退を見ると、志摩に撤退をし、真田敦は、淡路島の北に本拠地を置く三好水軍を強襲。
三好水軍の全ての戦船を壊滅に追い込むと、砦の中にまで攻め寄せ、蓄えられていた兵糧、弾薬、宝物等を全て船に運び込むと、三好水軍の砦に火を放ち、三好水軍の水兵を捕虜として越前に帰還をする。
淡路島の三好水軍の拠点を失った三好家は、淡路島の支配すら危うくなり、衰退の一途を辿る事になる。
天正7年(1579年)4月2日、丹波の波多野秀治が、攻め手の明智光秀に降伏。
波多野秀治らは、京の三条河原にて斬首をされ、丹波1国は明智光秀の所領となる。
4月10日には、正親町天皇の仲介により、織田信長と、石山本願寺の和睦が成立。
本願寺顕如らは、石山本願寺より追放され、紀伊の高野山に流される。
第2次木津川口の戦いで、兵糧、弾薬の補給が出来なくなり、更には、石山本願寺内に蓄えられていた金子も底を尽き、新たに兵糧、弾薬を購入が出来なかったからである。
織田信長は、石山本願寺の跡地に、新しい城を建築する為に、真田敦に新しい城の設計図を任せる。
石山本願寺との争いが終わると、織田信長は家臣達の追放を命じる。
石山本願寺を包囲をしていた、最高責任者である佐久間信盛、信栄親子の、職務怠慢を責め、有無を言わさず高野山に追放。
尾張時代からの家老である、林秀貞に対しては、約25年近く前の、弟である信行の謀叛の件を持ち出し、やはり有無を言わさず織田家から追放する。
西美濃3人衆の1人である、安藤守就に対しては、一族が武田勝頼と、内通をしているとの、でっち上げに等しい理由で、織田家から追放する。
信長にしてみれば、壊れた道具は、織田家に必要ないとの考え方を、改めて表に出したのである。
林秀貞は、織田家から追放された時に、捨て台詞を残す始末である。
「お主達も、いずれこうなるであろう。
どんなに手柄を立てようとも、信長様の機嫌1つで、水の泡になるからだ!」
林秀貞は、翌年、備前の地で病死をし、佐久間信盛も、同じく翌年、高野山にて病死をしている。
安藤守就は、美濃の山奥に身を潜め、復讐の機会を祈り、数年生きるのであった。
6月20日、安土城がようやく完成をすると、織田信長は岐阜から安土城に拠点を移す。
世界に名だたる名城であり、天下太平の象徴たる城に相応しいものである。
6月25日、三河の松平信康の元に嫁いだ五徳より、1枚の書状が安土城の信長の元に届く。
信長は、その書状をざっと目を通すと、直ぐに京の都にいる真田敦を、安土城に呼びつける。
安土城の大広間に通された真田敦は、上様から書状を受けとり、ざっとその書状に目を通すと、真田敦の顔が豹変をする。
その書状に書かれていた事は、とても信じられない内容であるからだ。
それは、夫である松平信康の事を書いてあるのである。
狩に出向いたおり、獲物が全く取れず、苛々していた時に出会った僧侶を、馬で引きずり回し殺害をしたこと。
村祭りの最中に、下手な踊りを踊った村人を、弓矢で殺害をしたこと。
妊婦の腹を切り裂いて、殺害をしたこと。
舅である徳川家康の正室の築山御前が、医者と親しくなっていること。
その医者を通じて、甲斐の武田勝頼と内通をしているとの事等、12箇条の内容が書かれている。
「う、上様。
この書状の内容は、本当の事なのですか?
某には、どうにも信じられませぬ。」
真田敦は、上様に質問をするも、上様からの返答は簡単であった。
「それが故に、そちを呼んだのだ。
この事が本当であれば、狸がいつ首を取られるか分からん。
そちは、余の代わりに三河に向かい、それとなく真実かどうかを調べて参れ。
京での政は、光秀にやらせておく。」
上様からの返答を聞いた真田敦は、気分が重くなった。
義理の甥の、様子を調べて、詳細な報告をして来いと言うのである。
真田敦は、静かに頭を下げると、そのまま岐阜に向かい、三河の岡崎城城主である松平信康の元に使者を派遣し、その使者が帰ってくるまでの間に、三河に向かう準備を済ませる。
そして、使者か帰ってくると、足早に三河に向かうのである。
7月12日、三河の岡崎城に到着をした真田敦は、大広間に通されると、直ぐに松平信康が姿を見せる。
「義叔父上、本日、この岡崎にまで参られたご用件は、なんでござろうか?
この信康、身体も心も、問題はありませぬぞ。」
豪胆な信康の発言に負けじと、真田敦も言葉を返す。
「本日、この岡崎に参ったのは、義甥の様子伺いでござる。
三河の岡崎城は、尾張と遠江を繋ぐ重要な場所であるが故に、不審な輩が入り込んではいないかと思いましてな。」
真田敦は、がっはははははと、豪快に笑ながらも、目は笑っておらず、信康を補佐する家臣達の僅かな動揺などを見るために、芝居を打つのである。
その言葉に、信康が苛立つ顔付きになる。
「この三河の領内に、不審な輩が入り込んでいると申されるのか?
その様な輩が入り込んでいるのであれば、この信康が直々に成敗を致しましょうぞ。」
いくら、自分の正室の義叔父上であろうとも、領内の不備をいきなり問われては、気分の良いものではない。
まるで、領主失格であると、突き付けられたものである。
本来であれば、その様な感情は表には出さず、自分の心の中に隠す物であるが、まだ若い信康には、その様な芸当は出来ぬのであろう。
「義叔父上、今宵は宴会を設けまするが故に、是非とも参加をして貰いたいですな。」
信康なりの、心使いなのであろう。
信康は、家臣に命じて宴会のである準備をさせると共に、身体を洗ってくると申し、その場から立ち去る。
真田敦は、別室に案内をされ、宴会の準備が整うまでそこで待機をしていた。
(信康殿は、まだ若く、物事の分別も、付かぬのであろう。
聞き及んだ所によると、五徳姫との仲も悪く、姑の築山御前の味方をされるばかりとか。
やはり、未だに今川の栄光を懐かしむ、築山御前が最大の原因と言えよう。
築山御前さえ、亡き者になれば、この事態も急転するのであろうがな。)
だからと言って、真田敦が築山御前を切り殺そうなら、織田信長と、徳川家康の手切れは目に見えている。
ならば、徳川家康が築山御前に自害を進めるように、仕向ければ良いのである。
真田敦の目が怪しく光るのを、松平信康本人は勿論、家臣達すら知るよしも無かったのである。
宴会も進み、皆の者もほろ酔い気分になった頃、宴会のばか騒ぎを聞き付けた築山御前が、宴会場に姿を出す。
「信康殿、この騒ぎはなんとした事であるか?
浜松城の父上が、この事を聞き及べば、なんと言われる事やら。
即刻、この宴会を中止になされよ。」
築山御前の一言で、宴会場が凍りつくのを、誰しもが感じたのである。
しかし、今日の宴会の名目は、信康殿の義叔父上にあたる、真田敦の正三位権大納言昇任の祝いの会である。
信康の、筆頭家老である酒井忠次がその事を説明しようとした矢先に、真田敦が口を開く。
「どこぞの口うるさい女狐のおかげで、せっかくの祝いの席を壊してくれたようだな!
呼ばれもせぬ、どこぞの女ごときが、宴会場に現れる事すら、非常識であろう!
さっさと、この場より立ち去るが良いわ!」
真田敦は、酔っている振りをし、徳川家康の正室であり、信康殿の御生母である築山御前を、口煩く罵るのである。
それに慌てたのが、酒井忠次を始めとする家臣達である。
信康様の御生母と、信康様の義叔父上が喧嘩をされようものなら、下手をしたらこの場にいる者たちは、切腹をさせられる事もありうるからである。
「どこぞの田舎者が、信康殿の側に座るとは。
そちこそ、恥を知りなされ!
信康殿も、信康殿ですぞ。
どこの馬の骨とも知れぬ不審な輩を、側に座るのは言語道断です!」
築山御前の悪口を待っていたとばかりに、真田敦は更に築山御前に言葉を返す。
「帝にお仕えいたし、正三位権大納言である某に対する悪口の数々、決して許されるものではない!
そこの女狐、成敗をしてくれる!」
真田敦は、すっと立ち上がり、腰の刀に手を付ける素振りをすると、松平信康が大声を張り上げる。
「母上も、義叔父上も、いい加減になされて下され!
この岡崎城の城主は、某である!
義叔父上は、刀を収められよ。
母上は、この場より今すぐに立ち去られよ。
岡崎城主、松平信康の命である!」
築山御前は、ばつが悪そうに、宴会場から消え去り、真田敦は、腰の刀から手を離しその場に座り直す。
そのまま宴会はお開きとなり、双方共に後味の悪い結果になるのであるが、この日の出来事が、築山御前の命を縮める事になる事を、誰も知るよしは無かったのである。
10月15日、岡崎城の信康殿の元に、浜松城の父上からの書状を持った使者が来る。
使者から、書状を受け取り、その書状に目をやると、築山御前の身柄を、岡崎城から浜松城に移動をさせよとの命である。
信康は、その書状を持ったまま母上の元に参り、その書状を母上に手渡すと、浜松城に参る準備をされよと言葉を口にする。
突然の事に、築山御前は、必死の抵抗をするも、信康とて、父上の命令に逆らえる訳もなく、母上の部屋を後にする。
3日後、築山御前は、浜松からの駕籠に乗り入れ、浜松城に向けて出発をするのであるが、佐鳴湖の畔で家臣に殺害をされる。
「浜松の殿の命か?
それとも、安土の仇の命か?
死んでも死にきれぬ故に、某が死んだ後には、鬼神となりて、織田徳川の両家を呪い続けてやろうぞ!」
その言葉が、築山御前の最後の言葉であったとされる。
表向きは、突然の病による病死との発表もあり、築山御前の墓は、近くのお寺に埋葬をされる。
さて、築山御前殺害の真相は、岡崎城にて宴会の最中に起きた、軽い口喧嘩が原因であった。
安土城に帰った真田敦は、築山御前が亡き者になれば、信康殿は立ち直ると説明をし、織田信長は、他家の事には口出しをせぬ方向を貫き、五徳には、慰めの書状を送るだけにしたのである。
浜松の徳川家康は、岡崎城での事を聞き及び、顔が真っ青になる。
帝にお仕えする真田殿に対して、無礼な事をしたと聞いたからである。
もしも、朝廷を動かして、逆賊の扱いをされたら、その前に、織田殿が手切れを申し入れて来たら、徳川の家は瞬く間に滅ぼされるであろう。
織田殿を取るか、正室の築山御前を取るかの判断は、一瞬の迷いもなく決断をする。
築山御前を殺害し、何事も無かった事にすればよい。
徳川の家に、余計な火種を作りたくない徳川家康の決断は非情であった。
たが、この1件により、家康と信康の関係は、修復をする事になる。
つまり、築山御前がこの世にいる場合、いつかは、父と子の争いに発展をしたであろう。
真田敦のした事は、そう言う意味では、徳川家の親子の争いを、未然に防いだと言えよう。
親子と言えば、嫡男の政長と、正室の舞姫との間に、長女が誕生をしていた。
真田敦にしてみれば、初孫になり、たいそう喜び、信長様の長女と同じく、徳の名前を付けたほどである。
翌年には、次女の唯、天正10年には、三女の美桜が誕生をする事になる。
親ばかならぬ、祖父ばかになるのは、三女の美桜が生まれた頃であると言われたものである。
11月3日、伊勢の織田信雄は、新しい城の築城に乗り出したのであるが、伊賀の国人衆に妨害をされ立腹をし、父親である信長に許しも得ずに無断で伊賀に攻め入るも、家老を討ち取られるなどの失態をし、結果的には大敗をする。
その事を知った信長は、信雄を厳しく叱責をし、謹慎処分を下す。
これが、第1次天正伊賀の乱である。
飛騨に攻め込んだ真田夕夏は、2ヶ月あまりで、飛騨の制圧に成功をし、本多正信に道の整備を命じると、次は越中の富山城を目標に軍勢を向かわせる。
富山城を包囲した時に、とんでもない客が、使者として来たのである。
それは、上野と信濃の一部の支配を任されている、真田昌幸の忍が使者として来たのである。
海野鷹幸と、山県清夜の2人である。
この2人は、後の真田十勇士の筆頭と、次席になるのであるが、それは、本能寺の変の後の事である。
正式な使者ではなく、むしろ密使の方が正しいであろう。
真田昌幸からの書状を、夕夏の護衛をしている、可児才蔵に手渡し、可児才蔵から、くの一である麻悠に手渡され、そこから夕夏に差し出される。
その書状に目をやると、夕夏の目元が疑いの目付きになる。
あの真田昌幸が、誼を通じたいとの申し出をして来たのである。
時勢を見れば、武田勝頼の元に居ても、いずれは織田信長に滅ぼされるのは、火を見るより明らかであるからだ。
ならば、滅ぼされる前に、真田夕夏、いや、真田敦と誼を通じて、所領の安堵を願い出たいのであろう。
真田夕夏は、取りあえず断る理由もない為に、兄上に報告をしてから、こちらから密使を出すと約束をする。
その言葉を聞いた2人は、すっと真田夕夏の本陣から消え失せる。
「真田昌幸からの申し入れを、信用しても良いと思うか?
信玄公の耳目とも称された人物が、本当に信用できると思うか?」
真田夕夏は、不安を口にする。
「信玄公の耳目と称されたからこそ、時勢を読み取り、誼を通じたいと申し入れをして来たのでしょう。
先ずは、敦様に、ご報告をするべきかと。」
西原詩織がそう述べると、真田夕夏の筆頭軍師である土屋優梨も、賛同意見を述べる。
「夕夏様、詩織殿の申される通り、先ずは京の敦様に報告をなされるべきです。
敦様から、更に上様にご報告をなされ、武田勝頼包囲網の構築を考えるべきです。」
前田慶治や、水野勝成、可児才蔵なども、口々に賛同意見を述べているのを見た真田夕夏は、西原詩織を使者として兄の元に送り出す。
その報告を受けた真田敦は、真田昌幸、真田夕夏の考えている事を逆手にとり、思わぬ策略で真田昌幸を唸らせるのであるが、それは、もう少し後の事である。
その頃、甲斐の武田勝頼は、前に人質として甲斐に連れてきた、織田信長の5男である坊丸、元服を済ませた後には、勝長を岐阜に返している。
おそらくは、織田との和睦を望んでいたものと思われる。
たが、信長の方は武田勝頼を許すつもりは無かったようである。
勝長の名を嫌い、新たに信房の名を与えたからである。
信長は、この5男の事を特に気にかけており、何かにつけて自分の側に置いていたのである。
おそらくは、父親らしい事を何一つしてやれなかった、罪滅ぼしのつもりであったのかもしれない。
11月8日、有岡城の荒木村重は、妻子を見捨てて、有岡城から脱出をし、毛利方の尼崎城に逃げ込んだのであるが、既に尼崎城は真田敦の手に落ちていたのである。
だが、尼崎城に立てられていた旗印は毛利の旗印である為に、なんの疑いも持たずに入城をして、大広間に通されるのであるが、尼崎城主に助けを求めようとした時に、荒木村重が顔を上げ一目城主の顔を見ると、驚愕をするのである。
尼崎城の城主は毛利方の武将ではなく、京の都に滞在をしている筈の真田敦であるからだ。
荒木村重がその場から逃げ出そうとした時には、既に時遅しであった。
荒木村重の家臣達は、既に真田敦の配下に皆殺しにされており、大広間の回りの部屋には、真田敦の配下の者達が槍を持ち構えていたのである。
荒木村重は、己の死を悟り、切腹を希望するも、真田敦は有無を言わさず、荒木村重を斬首刑に処す。
裏切り者の上に、妻子を見捨てて自分だけ助かろうとする腐った根性に、嫌気がしたからである。
なぜ、真田敦が尼崎城にいたかと言えば、実に簡単な事である。
石山本願寺が降伏をし、木津川口の戦いで、毛利村上水軍を壊滅に追い込んだ事により、援軍の来る可能性が無くなった事を考慮し、荒木村重の逃亡先を読んだ末に、1万の兵を引き連れて尼崎城を強襲し、素早く落城をさせ、荒木村重が逃げてくるのを、罠を仕掛けて待ち構えていたのである。
荒木村重が逃亡をした後の有岡城は、脆かったのである。
主君が妻子と兵を残して逃亡した事が兵達の間に広がると、信長様に降伏を考える者と、あくまでも徹底抗戦を貫く者との間で、争いが起きたのである。
その争いを聞き付けた織田軍は、有岡城に総攻撃を開始。
一刻あまりで、有岡城は落城、荒木村重の一族、数百人がすべて処刑をされる。
それだけではなく、有岡城の住民もすべて処刑をされるのである。
有岡城の落城と共に、幽閉をされていた黒田官兵衛も救出をされるのであるが、約1年あまりの幽閉生活の為か、左足の間接に障害を負い、有岡城の落城の時に救出された時には、家臣におんぶをされて救出されたとの逸話も残っている。
黒田官兵衛が、荒木村重により、幽閉をされていた事実を知った信長は、一時の感情に任せ、松寿丸を処刑した事を後悔する。
しかし、竹中半兵衛と、真田敦の計により、松寿丸が生きていた事を知ると、黒田官兵衛、真田敦の2人に謝罪をする。
竹中半兵衛は、三木城包囲戦の最中に陣没をしており、黒田官兵衛は、竹中半兵衛の嫡男の面倒を見る事で、亡き竹中半兵衛の恩義に報いようとする。
天正8年(1580年)1月、三木城の別所長治が、約2年間の籠城の末に降伏、切腹をして三木城は開城をする。
三木城が落城をした事により、再び畿内との連絡網が回復をすると、羽柴秀吉は備前に戻り、毛利家の討伐を再開する。
3月には、浅井長政と、真田敦、九鬼義隆らが、四国攻めを開始。
1ヶ月も経たない内に、淡路島の全域を支配下に治め、四国の阿波讃岐の侵攻を開始する。阿波に対しては浅井長政が担当をし、讃岐に対しては真田敦が担当をする事になる。
4月12日、越中の富山城が落城をする。
真田夕夏は、富山城の改修を始めると共に、加賀の金沢の地に、金沢城の築城を開始する。
七尾城、富山城、飛騨高山城の道の整備を続けながら、金沢城から北ノ庄城まで物資や、兵の移動が楽になるのである。
6月には、因幡の鳥取城に兵を向けた羽柴秀吉は、三木城の約2年間の籠城戦の教訓を生かし、鳥取城の兵糧攻めを開始する。
黒田官兵衛の策略により、因幡国内だけではなく、隣国の余剰米を相場の3倍の値段で、買い占めをしていたのである。
鳥取城の城兵達も、密かに兵糧を商人に売り渡し、銭を稼いでいたのだが、羽柴秀吉が因幡国内に侵攻を開始すると、鳥取城の兵糧を管理している者が備蓄米を調べると、殆どの兵糧が商人に売り下げられていたのである。
急ぎ、出雲の吉川元春に援軍要請と兵糧要請をしたのであるが、吉川元春にしてみても、兵の援軍要請だけならともかく、兵糧の要請まで加えれては、準備に時間が掛かるのであった。
8月下旬、信長は、安土城下にて、来年の馬備えに備えて、準備がされていた。
朝廷からの申し出により、立派な馬備えを開催する為に、奥羽地方や関東から良馬を買い漁る。
それと同時に、織田信長は、正親町帝に譲位を申し出る。
朝廷にしてみれば、約100年ぶりの吉事に当たり、後土御門帝以来の悲願になるからである。
だが、譲位ともなれば、色々と準備も必要となり、朝廷からの返答は、準備の時間を欲しいとの返答と共に、東大寺の蘭奢待の切り取りの許可を出す。
信長は、朝廷からの使者と共に、奈良の東大寺に向かい、取り決めに従って蘭奢待を切り取る。
歴史の中でも、蘭奢待を切り取ったのは、足利8代将軍足利義政、織田信長、明治天皇の3人だけである。
10月吉日、安土城下にて、1組の婚礼の儀式が執り行われた。
婿は森蘭丸、花嫁は真田涼である。
そう、森可成と生前に、真田敦が約束をしていた事である。
真田敦は、四国の讃岐に遠征をしており、真田夕夏は、越中の魚津城包囲に参加をしていたので、涼の兄である真田政長が代理として、出席をしている。
森蘭丸と、涼の夫婦は仲の良い夫婦と言われ、浅井長政、お市夫妻にも劣らぬ、夫婦として言い伝えられるのである。
天正9年正月、織田信長は、明智光秀に命じて、京都にて馬備えの準備を急がせる。
1月26日、京都の内裏の東馬場にて、大規模な馬備えを始める。
織田信長が最初に馬に乗り、京都の町中を歩き始め、次には嫡男の信忠が、3番目には、誰しもが次男の信雄であると信じていたら、なんと、真田政長が3番手を担当をしたのである。
4番目には、次男の信雄、5番手には3男の信孝と、立派な馬備えを進める。
2月1日、因幡の鳥取城が兵糧攻めの為に、わずか半年で落城をする。
その数日後に、因幡の国境沿いに、吉川元春の援軍が到着をするも、羽柴秀吉は川沿いに柵を築き、吉川元春との決戦を避けるのである。
吉川元春にしてみれば、鳥取城を落城させられ、羽柴秀吉との決戦もままならず、苛々している所に、更に凶報がもたらされる。
越前の大内勝雄が、真田水軍を率いて、吉川元春が支配下に治めている、出雲に攻め寄せたとの報告である。
吉川元春は、手にしていた軍配を地面に投げ捨てると、出雲の守りを固める為に、出雲に撤退を開始する。
吉川元春にしてみれば、何一つ得るものがない戦であった。
3月7日、正親町帝は、信長に対して、左大臣の推任する事を決める。
3月9日には、その事を信長に伝えると、信長からの返答は、正親町帝が、誠仁親王に譲位をし、誠仁親王が即位をした後に、左大臣の推任を受けると返答する。
信長からの返答が朝廷に伝えられると、参議以上の公家が全て集められ、朝夕をかけての協議に入る。
3月22日、信長からの返答を受ける方向で協議が終わると、その事を再び信長に伝えると、信長は素直に喜んだと朝廷に伝えられる。
しかし、4月1日、信長は突然「今年は、金神の年であり、譲位をなされるのは不具合があると。」
その事は朝廷に伝えられ、正親町帝の譲位と、誠仁親王の即位、ならびに左大臣就任は、延期をする事になる。
4月28日、信長は、畿内の兵を集め、再び伊賀の国に攻め寄せる。
今度は、信雄の単独ではなく、4方向からの道を使い、総勢10万人の兵を動員し、真田敦、織田信雄、柴田勝家、滝川一益を大将にし、一斉に伊賀の国人衆に攻撃を開始する。
伊賀の国は、破壊と殺戮の嵐にあい、草木も生えぬ有り様であったとゆう。
伊賀に住んでいた忍び達は、各地に散らばり、織田信長に対する復讐を誓い、地に潜るのであった。
6月9日、越中の魚津城が落城をする。
真田夕夏の次の目標は、越後の春日山城であるが、さすがに越後に攻め込む程の余裕もなく、外交を用いて上杉景勝を降伏に追い込む許可を得る為に、安土城の上様に使者を派遣する。
織田信長も、東の土地に対しては、特に興味を持たない為か、真田夕夏の進言を取り入れ、上杉景勝に対する外交交渉を認める。
但し、関東と奥羽地方に関しては、真田敦と、伊達家の支配を確立させる為に、非情な事をやる事になる。
その間に、国内の整備、水軍の強化など、やる事はたくさんあった為に、上杉景勝に対する外交政策は来年に延期をする事になる。
7月4日、紀伊の高野山が、信長に対して兵を上げる。
荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じたりと、信長と敵対関係を持ったからである。
信長は、一族の織田信張に出陣を命じて、高野山を包囲し、数度の戦いで、高野山側は1000人近くの損害を出し、攻め手の織田信張側も200人近くの損害を出した為に、高野山の回りに砦を築城し兵糧攻めにする。
その頃、遠江の高天神城の攻防戦も激しくなり、武田勝頼は高天神城に援軍を出そうとしたのであるが、相模の北条氏政が相甲同盟の破棄を通達してくる。
その為に、相模の北条氏政に対する備えを行うだけではなく、木曽を支配している、木曽義昌が武田勝頼の命令を拒否し、籠城の準備を始める。
木曽義昌は、武田信玄の娘婿であった為に、武田家の団結力にひびが入り始めたのである。
それだけではなく、新府城の築城にも乗りだし、領民に重い重税を課した為に、今度は領民からの恨みも買う事になるのである。
その為に、高天神城の救援に迎えず、高天神城の落城を知ると、顔を真っ赤にして怒り狂う。
武田勝頼の力量不足に見切りを付けた、駿河江尻城主の穴山梅雪も、遠江の徳川家康に使者を送り、来るべき甲州征伐の前に降伏を決意。
甲斐に向かう道案内役を申し出、安土の織田信長も、穴山梅雪の降伏を認め、徳川家康の道案内兼先陣をする事で、領地の安堵の約束を手に入れる。
武田勝頼の外交政策も失敗に終わり、北の上杉景勝を除くと、東は北条氏政、南は徳川家康、西は織田信長と、3方向から包囲網を敷かれる事になる。
それだけではなく、甲斐から見ると北西の地になる飛騨高山からも、真田夕夏の軍勢が、武田勝頼包囲網の一旦を担っている。
手負いの虎は、巣穴に閉じ籠り傷を癒そうとするも、その傷を癒す前に、包囲網の中に閉じ込められていた事が、理解出来なかったのである。
11月10日、真田敦は讃岐制圧に成功。
数千の守備兵を残して、阿波勝端城に向けて進軍を開始する。
勝端城を包囲している浅井長政は、兵糧攻めを開始していたのであるが、来年に迫っている甲州征伐に参加をしたい真田敦は、越前で生産をした10門のカルバリン砲を持ち出し、勝端城に向けて発射を繰り返す。
ここで三好一族を根絶やしにし、返す刀で武田勝頼を切るつもりなのである。
カルバリン砲から発射をされた鉄の球体に、焙烙玉も多数発射をされ、その攻撃を受け続けた勝端城は、わずか1日で防衛能力を奪われる。
火力の集中砲火の前には、昔風の城では耐えられないからである。
カルバリン砲の砲撃を止めた真田敦は、浅井長政の軍勢と共に、徹底的に破壊をされた大手門に攻め寄せ、三ノ丸と、二ノ丸を素早く占拠をする。
本丸に閉じ込められた三好一族は、降伏を決意。
三好一族の全員が切腹をし、勝端城は開城をする。
真田敦は、阿波讃岐、淡路島の南半分を義弟の浅井長政に任せ、淡路島の北半分を九鬼義隆に与える。
土佐の長宗我部元親は、真田敦、浅井長政の電光石火の侵略の早さに恐れ入り、阿波讃岐の侵攻を取り止め、残り東半分になっていた伊予の統一に乗り出す。
真田敦は、九鬼水軍の船に乗り、堺を経由して、京の都に戻り、更にそこから越前に戻る。
来年に迫っている甲州征伐の為に、自らが準備に取り掛かる為であった
天正10年(1582年)正月、真田敦は、北ノ庄の大広間にて、新年の挨拶を行う。
「皆の衆、上様の天下統一まで、あと半歩に迫って来た。
残る敵は、中国地方の毛利家、九州の3大名、甲斐の武田家、奥羽の大名共である!
本年も、皆の衆の働きを楽しみにしておる!
今日は無礼講であるから、心行くまで飲んで食べて、唄うが良い。」
ここで、関東の北条の名前が出なかったのは、北条氏政が恭順の意を示して来たからである。
もっとも、真田敦は、北条氏政の事を信用をしていない。
武田勝頼を滅ぼした後に、北条氏政に対して国替えを命じ、その反応を見てから処分を決めれば良い。
そんな事を考えながら、新年の宴会を開始する。
新年の挨拶も終わり、家臣達は、飲み食べをし、小唄等を唄い始める物もいた。
真田敦の前に座り、新年の挨拶をする物もいた。
そんな中で、西原詩織は、真田敦の右隣に座り、お酌をする。
「敦様、今年は上様の天下統一の年に、なるのでしょうか?
関東の北条は、背面服従をしているように思われますが?」
この日の本を見渡せば、織田家に単独で対抗できる大名は、中国地方の毛利家、関東の北条家ぐらいである。
北条家は、織田家に恭順をするとの使者を送って来ているが、本心から言っているのかは、未だに不明である。
毛利家の方は、羽柴秀吉が備中の国にまで攻め寄せ、近く備中高松城を包囲するとの、報告も来ている。
備中が落ちれば、毛利家の本拠地である安芸の国に、攻め寄せる事も可能になる。
勿論、毛利家の方も、備中高松城にて、羽柴秀吉の動きを止めたい気分であろう。
だが、中国地方の毛利家に関しては、真田敦の専門外である。
真田敦の次の目標は、関東の北条家と、奥羽の大名達である。
本当に北条氏政が恭順をすれば、北条家の領地を相模伊豆の2か国に減らし、後に適当な理由で、別の土地に国替えをすれば良いのである。
奥羽の大名達に関しては、左を見ても右を見ても、伊達家の血縁関係がある為に、やりにくいのは承知をしている。
伊達輝宗殿の祖父になる、伊達稙宗の外交政策のせいである。
自分の娘や息子を他の大名達に、嫁に出したり、養子に出す事で、伊達家と奥羽の大名達とは、複雑な血縁関係が出来てしまったからである。
その為に、伊達の勢力を伸ばそうとしても、どこかで両家に繋がりのある者が出て来て、和睦になるからである。
真田敦にしてみれば、伊達家の血縁関係などは関係ない事である。
正三位権大納言の権威を用いて、奥州地方の統一を打ち出せば良いのである。
つまり、伊達家以外の大名達を、朝敵に仕立て上げ、帝の勅命の名の元に、真田敦が総大将として、遠征軍を指揮すれば良いのである。
その前に、越後の上杉家の処遇を考えなくてはならない。
越後の上杉家に関しては、今月末より外交を用いて、降伏勧告を出す予定である。
その条件は、越後1国の安堵を突き付け、佐渡の支配を放棄させるのである。
佐渡には国内有数の金山があり、ここを早めに押さえる事は、後の南蛮遠征に役立つからである。
真田敦は、西原詩織の頭をぽんぽんしながら、笑顔を見せる。
その西原詩織は、去年の11月に、男子を出産しており、ようやく西原家の跡継ぎが出来たのである。
同じく、加賀の真田夕夏にも、次男が生まれており、二男一女の子供に恵まれたのである。
この時が真田敦の、幸せの絶頂期であったのかも知れなかった。
同じく正月、奥州の伊達家においても、1つの吉事が起こっていた。
伊達家当主である輝宗公が、嫡男である政宗に家督を譲り、自らは隠居する事を決意。
若干16才で家督を継いだ伊達政宗は、早く奥州一帯の統一を夢見ながら、家督相続のお祝いの使者達を出迎えていた。
その内の1人に、真田敦からの使者である、南条勝成の姿もあった。
勝成は、政宗の正室として迎えられた詩穂姫の様子伺いと、真田敦の将来の敵になるであろう、奥州一帯の大名達の使者の態度を、見極める意味で伊達家に来ている。
伊達政宗は、真田家随一の武勇を誇る南条勝成と昼夜を掛けて話し込み、南条勝成の人柄に惚れたのである。
それだけではなく、他の家中の使者達がお祝いの言葉を述べる席にも同席をさせ、政宗の器量の大きさを知らしめるのである。
しかし、好事魔多しの例えもあり、二本松の地を治めている、畠山義継が、お祝いの言葉を述べている時に事件が起きる。
伊達政宗は、言わなくとも良い事を言い、それに追従をする形で、南条勝成も畠山義継に罵声を浴びせたのである。
「噂によると、二本松の松と言うのは、二股と聞き及んでいるが、単なる噂であろうか?」
そう、伊達政宗は畠山義継に述べると、自分の都合に合わせて、あちらこちらに寝返る畠山義継に対して、良い気分ではない南条勝成も言葉を述べる。
「いやいや、二本松の松は、どこまで成長をしても、二股に成長をするのであろう。
どこぞの、人間みたいにな!」
この2人からの痛烈な言葉に、畠山義継は怒りを隠しながら返答をする。
「某の先祖は、鎌倉時代より、この地を任された者でございまする。
奥州探題に従って以来、節操の証しとてして、天下に名だたる名木にございまする。
お戯れも、程々にして頂きたい物です。」
伊達政宗は、そこまで言われれば、ただの戯れ言であるから、気になされるなと言葉を返すも、畠山義継の心中は怒り心頭であった。
この日の出来事が、伊達政宗の人生に影響を与えるとは、誰にも分からなかったのである。
2月10日、武田信玄の娘婿である木曽義昌が、信長に寝返りをする。
2月13日、信長は、甲州征伐の時が来たと悟り、信忠に総動員令を命じる。
駿河から徳川家康、相模から北条氏直、越中から真田夕夏、木曽から織田信忠が、武田勝頼の領内に侵攻を開始する。
信忠の先陣は、柴田勝家、滝川一益、信忠の譜代衆が名を連ね、副将として真田敦が信忠の補佐を任される。
2月15日、真田夕夏の軍勢は、北信濃の海津城を包囲。
同日、木曽義昌の先陣と、信忠の先陣、約2万5000の軍勢が、諏訪上の原に進軍をする。
それに対して、武田勝頼の方は、伊那城の守備兵達が、城主である下條信氏を殺害して織田軍に降伏。
その余波を受けて、南信濃の松尾城主である小笠原信嶺が、2月18日に降伏を申し出る。
対織田・徳川に対する最大の防御拠点である大島城の城主である、勝頼の叔父である武田信廉は、元々戦は得意ではなく、織田徳川の連合軍が大軍を率いて来たとの知らせを受けると、大島城を捨てて甲斐に逃走する。
これらの報告が、甲斐にもたらされると、武田勝頼に従っていた国人衆達は、我先にと武田勝頼を見捨てて逃亡をする。
それでも、武田側も無抵抗であった訳ではない。
高遠城の城主であり、武田勝頼の弟になる、二科盛信が滝川一益らの先陣を、高遠城に籠城をして対抗をする。
しかし、信忠の副将である真田敦が、3月2日に、5000の兵を率いて高遠城に到着をすると、滝川一益を始めとする譜代衆を鼓舞し、激戦のすえ、僅か1日で高遠城を落城させ、二科盛信らの武田家臣を皆殺しにする。
3月3日、海津城を無血開城させた真田夕夏は、岩殿城を支配している小山田信茂の元に使者を送り、無血開城の降伏を促す。
武田勝頼を見限っていた小山田信茂は、即座に降伏をするも、表向きは最後まで、主君である武田勝頼の味方をする振りをしていた。
この間、武田勝頼は諏訪に出陣をしていたが、連合軍の破竹の勢いの前に、諏訪より撤退を決意し、甲斐の新府城に撤退を余儀なくされる。
駿河より攻め込んだ徳川家康は、穴山信君の道案内により、富士川の流れに沿って甲斐に進軍をする。
次から次にと、相次ぐ凶報に、完成間近であった新府城に火を放ち、勝沼城に撤退をする。
柴田勝家、滝川一益らが、信濃の各城を支配下に治めながら甲斐に向けて進軍をする頃、真田夕夏の軍勢はいち早く甲斐に侵攻をし、3月8日に織田信長が軍勢を率いて出陣をした時には、武田領内の本拠地である甲府を占拠しており、そのまま武田勝頼追撃の軍勢を送り出していた。
勝沼城に撤退をした武田勝頼は、小山田信茂の岩殿城に撤退をするか、真田昌幸からの進言である、上野に撤退をするかの決断を迫られていた。
勝沼城から見れば、岩殿城の方が近いという利点がある。
しかし、上野にまで撤退をすれば、織田軍の補給路の関係上、上野で防衛をしやすい利点がある。
小山田信茂にしてみれば、武田勝頼の身柄と、その一族を手土産に、織田信長に降伏をしたい気持ちがあり、真田昌幸にしてみれば、武田勝頼に対する恩義ではなく、今は亡き武田信玄に対する最後の恩返しのつもりである。
其々の思惑を知らぬ武田勝頼は、一族の小山田信茂の進言を受け入れ、岩殿城を目指して撤退を開始する。
武田勝頼の心の底では、真田昌幸は外様であるとの、考えもあったのであろう。
あれだけ一族の寝返りの報告を知りながらも、最後の最後まで、一族の助けを借りようとした武田勝頼は、詰めが甘かったのである。
小山田信茂は、武田勝頼の出迎えの準備をする為に、一足先に岩殿城に戻り、真田昌幸は、自分の領内に戻り守りを固める。
武田勝頼は、岩殿城を目指して撤退を開始するも、岩殿城を目前にして、小山田信茂の裏切りを知る。
後方からは、真田夕夏の軍勢が迫っており、逃げ道を失った勝頼の一行は、武田家のゆかりの地である天目山棲雲寺を目指すも、途中の田野で真田夕夏の軍勢に追い付かれ、多勢に無勢の例えの通り、勝頼の一族はことごとく討ち取られ、武田勝頼自身も自害をする前に、真田夕夏の槍の前に力尽きる。
嫡男の信勝と、北条夫人は勝頼の最後を見届けると、短刀を喉に突き刺し自害をする。
ここに、約450年の歴史を誇る甲斐武田家は、滅亡をするのである。
3月14日、信長は、勝頼らの首実検を執り行うと、甲斐信濃の国割を始める。
甲斐1国は、穴山信君の旧領以外は、河尻秀隆に与え、上野1国は滝川一益に与え、信濃1国は柴田勝家に与える。
徳川家康は駿河1国を賜り、なんの戦功も立てなかった北条氏直には、なんの褒美も与えなかった。
最大の戦功を上げた真田夕夏には、真田昌幸を家臣として与える事で褒美とする。
この褒美は、甲州征伐の前から、真田夕夏が上様に申し出ていた事である。
織田信長は駿河路を通り、徳川家康の接待を受けながら、4月1日に安土に到着をする。
真田敦は、真田夕夏を先に越中に引き上げさせると、真田昌幸と面会をしていた。
面会場所は、北信濃の海津城である。
上座に座っている真田敦は、下座に座る真田昌幸に優しく言葉をかける。
「安房守殿、そなたと会える事を、心より楽しみにしていたぞ。
亡き信玄公の耳目と称されたそなたの才能を、余の為に、いや、世界に向けて活用をして欲しい。」
上座に座っている真田敦が、昌幸に対して頭を下げたのである。
まさか、上座に座っている真田敦から頭を下げられるとは思っていなかった真田昌幸は、慌てて言葉を述べる。
「真田権大納言様に頭を下げられては、真田安房守は、命のある限りお仕え致す所存でございまする。」
昌幸の言葉を聞いた敦は、秘中の策を昌幸に繰り出す。
「安房守殿には、立派な嫡男がおられるとか。
余の4女の薫を、安房守殿の嫡男の正室として、迎え入れて貰えぬだろうか?」
その言葉に、さすがの真田昌幸と言えども、言葉を返せないでいた。
まさか、大事な姫を、降伏したばかりの将の嫡男に、正室として迎え入れて欲しいとの提案は、人質を差し出す行為に等しいからである。
それも、弱者が強者に対して行うのであれば理解が出来るのであるが、強者の方から弱者に対して行うのである。
真田敦の心の底を見抜けぬ昌幸は、器の違いを見せ付けられる。
そして、自分の頭をポンと叩くとすっと頭を下げて、その提案を受け入れる。
因みに、次男の信繁は、真田夕夏の人質として、加賀の金沢城に連れていかれた。
後に、真田夕夏の養女である莉沙を、正室として迎え入れる事になる。
真田敦と、真田昌幸の家は、2重の婚礼により、固い絆で結ばれるのである。
4月28日、正親町天皇は、信長に対して、関白、太政大臣、征夷大将軍のいずれかに任じたいとの意向を、安土に滞在している信長に伝える。
5月3日、信長は、三職推任の返答を、朝廷に伝える。
その内容は、正親町天皇が譲位をされてから、太政大臣の職を引き受けると返答をする。
そのついでに、信忠、真田敦と夕夏、敦の嫡男の政長の官位昇段を要望する。
朝廷は、協議に入るも、僅か3日で官位昇段を取り決める。
信忠は、正二位右大臣兼右近衛大将に、真田敦は、従二位内大臣に、真田夕夏は、正三位大納言兼左近衛中将に、真田政長は、従三位権中納言兼左近衛少将に、それぞれ昇段をする。
なお、信忠は右近衛大将に任じられて以降、居城が美濃岐阜城である事から、岐阜大将と呼ばれる事になる。
ここで、各地の軍団長の目標を確認する。
北陸方面は、真田夕夏、政長の2人が越後の上杉景勝を降伏に追い込む為に、外交交渉を始める。
関東方面は、滝川一益、柴田勝家らを配置し、関東の北条氏政に対する圧力を掛け始めていた。
畿内方面は、真田敦が担当をしており、紀伊の高野山包囲に対する補給や、領内の不穏分子の摘発に乗り出している。
中国地方の山陽道は、羽柴秀吉が担当をしており、現在は備中高松城を、水攻めにして包囲を開始し、援軍に来た毛利輝元、吉川元春、小早川隆景と対峙をしている。
山陰道方面は、明智光秀が担当をしている。
しかし、明智光秀の軍勢は、丹波の亀山城に集結をしており、上様からの命が出ない限り、山陰道の出雲、石見方面には、侵攻が出来ない状態である。
四国方面は、義弟の浅井長政が讃岐、阿波、淡路島半国を支配下に治めながら、土佐と伊予を支配している長宗我部元親の牽制に当たっている。
九州方面は、毛利家の処分が終わってから侵攻を開始する予定であり、奥羽地方に関しては、真田夕夏と、伊達政宗にいずれ任せる予定である。
5月15日、駿河加増と、甲斐での戦勝祝いを兼ねて、徳川家康が安土城に訪ねてくる。
信長は、明智光秀に、徳川家康の接待役を命じると、15日から17日まで、家康を手厚く接待をする。
家康の接待が続く中、信長は備中高松城を包囲している羽柴秀吉からの、援軍要請の書状に目をやる。
そこには、毛利が他国に遠征出来る、約3万の兵を率いて来ているとの知らせである。
事態を重く見た信長は、明智光秀の接待役を解任し、秀吉の援軍として、備中高松城に向かうように命じる。
代わりの接待役には、真田敦に命じ、そのまま家康の接待を続ける事になる。
明智光秀は、居城の丹波亀山城に戻り、遠征の準備に取り掛かる。
だが、甲州征伐以降、明智光秀の態度に疑問を抱く人物がいた。
信長の小姓である、森蘭丸である。
ちまきの葉を取らずに、そのまま食したり、こちらから言葉を掛けても、時々返答が遅れたりと、何かがおかしいと思うからである。
蘭丸は、1度上様に進言をするも、上様からの返答は、ほおって置けとの返答である。
それでも、光秀の態度の異変を不振に思う蘭丸は、今度は敦に相談をする
だが、その真田敦も、ただの疲れであろうと、蘭丸に返答をするだけである。
5月21日、丹波亀山城に戻った明智光秀は、近くの愛宕神社に向かい、おみくじを1枚引くと、凶のおみくじを引き当てる。
不遜と知りながらも、明智光秀は、2枚目のおみくじを引くも、やはり凶のおみくじを引き当てる。
それでも明智光秀は、何を思ったのか、更に3枚目のおみくじを引き、大吉を引き当てる。
5月27日には、吉田神道の後を継いだ吉田兼和、連歌師の里村紹巴や、他の方々を招いて、連歌の会を催す。
吉田兼和は、後に色々な事があり、吉田兼見に改名をする。
明智光秀は、その連歌の会で、この連歌を残している。
「時は今 天が下知る 五月哉」
その次の句を、里村紹巴が繋ぐのである。
「花落つる 池の流れを せきとめて」
なにやら、謎めいたやり取りであるが、連歌の会は何事もなく無事に終わり、光秀は亀山城に戻るのである。
5月29日、信長は、中国遠征の準備の為に、京の本能寺に逗留をする。
信忠も、二条城に逗留をし、美濃尾張から上洛をしてくる軍勢を待っていた。
真田敦は、京都所司代におり、やはり中国遠征の準備に追われていた。
この3人が、同時期に、京の都に滞在をしていた事が、歴史を動かす大事件を引き起こすのである。
そう、言わずと知れた、本能寺の変である。
6月1日、午後23時時頃、明智光秀は丹波亀山城を出陣。
中国地方には向かわず、なぜか京の都に向けての進軍である。
配下の者達には、上様にこの陣容を見せてからの、中国地方に進軍をするとの説明があるだけである。
実は、出陣の少し前に、明智光秀は、重臣の数人だけを集めて、軍議を開いていた。
そこで、明智光秀は、とうとう胸の内を晒すのである。
「上様、いや、第六天魔王である、織田信長を討つ!」
その言葉を聞いた重臣達は、主君を諌めようとするが、筆頭重臣である、斎藤利三が他の重臣達を黙らせる。
「主君が1度口にされた事を、何と心得る!
我々、家臣一堂は、主君の為だけに働くのである!
それ以外に、何が必要であるか!」
斎藤利三の言葉を聞くと、他の重臣達も覚悟を決めたのか、主君の明智光秀に付いていく所存を口にする。
この様なやり取りの後に、京の都に向けて進軍が進み、京の都にあと少しの時に、明智光秀が大声を張り上げる!
「敵は、本能寺にあり!」
歴史にも残る台詞を口にすると、明智光秀の手勢は、一斉に本能寺に向けて襲い掛かるのである。
6月2日の午前5時頃、本能寺は明智光秀の軍勢に包囲をされる。
いち早く火薬の匂いに気が付いた者が、小姓を呼びつける。
「この火薬の匂いは、なんであるか?
もしや、大将か、内府の謀叛か?」
信忠か、敦の謀叛かと小姓に質問をすると、その小姓は簡潔に返答をする。
「ここより見える旗印は、水色桔梗にございまする!
さすれば、明智光秀の軍勢に違いありませぬ!」
小姓からの返答を聞くと、言葉を発する。
「光秀の謀叛だと?
あの金柑頭めが、何を血迷ったのか!
槍と、弓矢を持て!
こうなれば、明智の手勢を少しでも地獄の道連れにしてやろうぞ!」
明智光秀の軍勢は、約1万3000人程であり、本能寺に詰めている人数は、約300人足らずである。
多勢に無勢の言葉を思い出しながら、弓矢を用いて、明智光秀の手勢を討ち取るも、一刻あまりの戦闘の前に、使用していた弓矢の玄が切れ、その代わりに槍を用いて、更に明智光秀の手勢を突き殺して対抗をするも、本能寺の境内に攻め込めぬ事に業を煮やした明智光秀が、弓矢隊に火矢を用いる事を命じ、弓矢隊は本能寺に多数の火矢を放つと、たちまち本能寺が紅蓮の炎に包まれ始める。
最早これまでと諦めがついたのか、炎に包まれている奥の部屋に小姓と共に向かい、扇子を広げて敦盛を舞い始める。
「人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
ひとたび生を受けし者の
滅せぬ者の
あるべきか!
光秀ごときに、この首はやらぬわ!」
その敦盛を唄い終えた約30分後、本能寺は全て焼き尽くされる。
明智光秀は、少しの兵を本能寺に残して、二条城に滞在をしている信忠殺害の為に、新たに兵を回す。
本能寺襲撃と同時に、二条城包囲の為に手勢を回しており、二条城から脱出をしたのは、女子供だけである。
もちろん、女性に変装をして脱出を試みる男は、皆殺しにされている。
二条城に詰めていた人数は、約1000人余りであり、その中には、織田木瓜の旗印だけではなく、真田六文銭の旗印もあり、真田敦が二条城に滞在をしていると、明智光秀は認識をする。
二条城での戦いは、二条城に詰めていた連中の決死の働きにより、3回ほど、明智光秀の軍勢を押し返すも、やはり明智光秀の手勢の前に、二条城も紅蓮の炎に包まれるのである。
織田信長、信忠親子、真田敦らの、殺害に成功をした明智光秀は、焼け跡からそれぞれの遺体を探させるも、見つかる事はなかった。
本能寺に至っては、地下の倉庫に保管をしてある火薬に火が付き、大爆発を引き起こしている為に、信長の遺体も爆風に巻き込まれたと思われる。
二条城に至っては、真田敦が、戦場で常に愛用をしていた軍配が見つかり、その側で、腹を切ったと思われる焼死体も発見をされている。
二条城の焼け跡からは、信忠愛用の鎧も発見されており、その鎧を身に付けていた焼死体が、信忠であろうと明智光秀は思う。
織田信長、信忠親子だけではなく、織田家随一の軍略家である真田敦も、同時に亡き者にした以上、明智光秀には怖い者はいなかった。
だが、明智光秀の唯一の誤算は、真田敦が織田家随一の軍略家ではなく、その妹の夕夏こそが、織田家随一の軍略家である事を、知らなかったのである。
明智光秀は、越後の上杉景勝、中国地方の毛利輝元、関東を支配している北条氏政、四国の長宗我部元親らに、自分のした事を伝え、新しい天下の政に、力を貸して欲しいと連絡を送る。
明智光秀は、直ぐに朝廷に参内をして、自分のやった事を報告すると共に、征夷大将軍の官職を要求するのである。
しかし、依然として、征夷大将軍の官職は、足利義昭に任命をされており、足利義昭より征夷大将軍の官職を取り上げてから、任命をするとの返答しか得られなかったのである。
落胆をした明智光秀は、朝廷を後にすると、先ずは畿内の統一に向けて、出陣をするのである。
最初に凶報が知らされたのは、瀬田の唐橋の管理を任されていた、山岡景隆である。
本能寺と、二条城での出来事を知らされると、居城と、瀬田の唐橋を焼き尽くしてから、さっさと甲賀郡に引き上げてしまう。
次に、京の都での凶報を知らされたのは、安土城を守備していた蒲生賢秀である。
安土城の守備兵だけでは、到底明智光秀の軍勢を抑えられる事はなく、直ぐに伊賀の日野城を守備していた、嫡男の氏郷に使者を送り、多数の人手を集めて安土城に来るように命じる。
父親からの使者の口上を聞いた氏郷は、男手を多数集めて急ぎ安土城に向かい、上様の家族や一族などを引き連れて、日野城に撤退をする。
その次に知らされたのは、若狭の小浜城にいた、真田政長である。
父親である敦の落命と、上様親子の討ち死にを知ると、僅かな手勢を率いて、敵討ちに向かおうとするも、本多正信に引き留められる。
「おのれ、光秀ごときが!
上様親子だけではなく、我れの父上までも殺害をするとは!
父上の仇を討たねば、無念が残るだけである!」
「若様、僅かな手勢を率いて敵討ちに向かいたい気持ちは分かりますが、多数に無勢でございまする!
先ずは、越中の夕夏様にこの事を知らせ、大軍を率いて来て貰い、それから敵討ちをなされるのが筋でございまする。
この小浜城では、明智光秀の軍勢を迎え撃つ事は不可能ですので、敦賀城と、北ノ庄城の守りを固めて、夕夏様の援軍を待つのです。」
真田政長は、苦虫を潰した顔になるも、本多正信の正論の前に、首を縦に振るより仕方がなかったのである。
その直後、真田敦より遣わされた忍者が到着し、真田敦の直筆の書状と、天下の名刀である童子切安綱を、政長に手渡す。
書状の内容は、自分の最後の事、童子切安綱を真田家の家宝とする事が、記されていた。
政長は、その書状と童子切安綱を正信に見せ、速やかに越前北ノ庄にまで撤退をし、越中の叔母上の元に使者を送り、敵討ちの要請をするのであった。
敦賀城の守備をする中に、山口美那の姿もあった。
真田敦により、侍大将に身分を引き上げられ、千石取りの侍として真田敦に仕えていたのであるが、主君の真田敦の死を知らされると、明智光秀の首を必ず取ると叫んでいた。
その次は、堺に逗留をしていた、徳川家康である。
実は、6月2日には、堺を出発をして、京都に滞在をしている信長公に挨拶をしてから、三河に戻る予定であった。
信長公の落命を知ると、僅かな手勢を率いて、信長公の敵討ちをすると宣言をするも、たちまち家臣達から諌められる。
先ずは、三河に戻り、手勢を集めてから上様の敵討ちをされるべきと言われ、冷静を取り戻した徳川家康は、危険を承知で、伊賀越えの道のりを取るのである。
同じく、高野山包囲の援軍として堺に滞在をしていた、丹羽長秀と、信長の三男である神戸信孝の元に、光秀謀叛の報告がはいる。
しかし、その凶報が飛び込んできた時には、丹羽長秀、神戸信孝の両者は軍中に不在であり、情報の漏れが足軽等の、したっぱにまで伝わってしまったのである。
もともと、寄せ集めの軍勢であり、大将不在の不運も加わり、約1万人いた兵が逃亡をし始め、丹羽長秀、神戸信孝がその報告を聞いた時には、時すでに遅しであった。
わずか、2000人足らずまで、兵は逃亡をしてしまい、摂津衆の池田恒興の元に合流をするしかなかったのである。
その堺を経由して、四国の浅井長政の元に知らせが舞い込んだのは、6月4日である。
浅井長政は、使者からの口上を聞くと、座っていた板の間に拳を振り下ろす。
「なぜ、義兄上達が、討たれなければならぬのだ!
なぜ、明智光秀は、謀叛を起こしたのだ!
天下統一まで、あと半歩の所まで来たと言うのに!」
浅井長政も、義兄達の敵討ちをしたかったのであるが、土佐と伊予を支配している、長宗我部元親の動きが気になり、敵討ちの軍勢を出す事を諦めるよりなかったのである。
同じく6月4日に、ある人物の元に知らせが入る。
毛利両川の片割れである、吉川元春である。
明智光秀が、送り出した使者は、瀬戸内海の水運を使い、わずか2日で、備中高松城の救援に来ていた、吉川元春の陣に辿り着いたのである。
明智光秀からの使者から、書状を受け取り、その内容を見てみると、吉川元春にしてみれば、おみくじの大吉を引き当てた感じである。
織田信長、信忠親子、真田敦の殺害成功の知らせと、羽柴秀吉の軍勢を、しばらくの間、備中高松城にて引き付けてほしいとの内容である。
ただでさえ、羽柴秀吉に恨みを抱いている吉川元春は、弟の小早川隆景に知らせる事をしないで、甥である毛利輝元の元に向かうのである。
実は、毛利家が支配をしている、中国地方の5か国を割譲する事で、織田信長との和睦交渉が、羽柴秀吉との間で始まっていたのである。
毛利側は、5か国割譲のみを条件にしているのであるが、羽柴側は、5か国割譲と、備中高松城の開城と、城主である清水宗治の切腹を要請しているのである。
お互いの陣に、何度となく使者が行き交いをし、信長の応援が来る前に交渉をまとめないと、和睦の交渉がご破算になると、羽柴秀吉は恫喝をして来たのである。
全てを失うか、それとも羽柴秀吉の要求を飲んで、家を残すかの決断に迫られていたのである。
しかし、織田信長の死を知った以上は、怖い物など無いのである。
毛利輝元も、叔父である吉川元春から書状を手渡され、内容を確かめると、羽柴秀吉をこの地方から追い出す決断を下す。
小早川隆景は、完全にかやの外に置かれ、信長殺害の件を知らされなかったのである。
さて、備中高松城を水攻めにより包囲をしていた羽柴秀吉の元に、凶報が知らされたのは、6月6日であった。
羽柴秀吉は、上様の死を知ると、たちまち泣き崩れてしまい、誰も取りなす者がいなかったのである。
そこに、黒田官兵衛が秀吉に近寄り、そっと耳打ちをするのである。
「秀吉様、上様の敵討ちをすれば、上様の後継者になる事も、夢ではありませぬ。
信忠様に、真田の親父も亡き今、逆臣である明智光秀を討伐出来るのは、秀吉様だけです。
上様の意思を継ぎ、この国の平和を取り戻すのです。」
秀吉は、黒田官兵衛の言葉を聞いても、直ぐに泣き止むことはなかった。
あくまでも、表向きは泣き崩れていながらも、耳だけは黒田官兵衛の言葉を聞いている。
(天下、天下人になれる機会が、目の前に来たのです!)
黒田官兵衛は、そう秀吉に伝えているのである。
だが、農民の出身で、織田家の重臣にまで上り詰めた秀吉には、天下人よりも、上様の敵討ちの方が大切だったみたいである。
秀吉は、ようやく泣き止むと、毛利輝元との和睦交渉の条件を変更せずに、締結をして来いと、黒田官兵衛に命じるのであるが、時は既に動いていたのである。
羽柴秀吉の元に知らせが来る前に、吉川元春の元に知らせが届いていた事を、秀吉も、官兵衛も知るよしは無かったのである。
さて、真田政長からの使者が越中に到着したのは、6月8日である。
魚津城に滞在をしていた真田夕夏は、使者からの口上を聞くと、あまりの出来事に号泣をしたのである。
「兄上が、兄上が、兄上がなぜ!」
その言葉を繰り返し、号泣をしている姿の真田夕夏に、誰も近寄れなかったのである。
しかし、真田敦の死を知らされた、西原詩織が魚津城に来ると、真田夕夏の元に近寄り、言葉をかける。
「兄上の仇を夕夏が討たねば、誰が仇を取ると言うのだ!
いつまでも泣いていても、兄上は帰っては来ぬ!
幸い、上杉景勝の方は、降伏を受け入れたとの、報告も来ている。
上杉の義を重んじる家風を信じて、兄上と、上様親子の敵討ちに向かう必要がある!
亡き上様と、兄上の南蛮遠征の夢を、夕夏が引き継ぐのだ!」
詩織の言葉を聞きながら、夕夏は顔を手でぬぐう。
涙を手で拭き取ると、何かを決意したような顔付きになり、右手の拳を握り締める。
「南蛮遠征の夢を、私が引き継ぐ?
亡き上様と、兄上の見果てぬ夢を、私が引き継ぐのか!
ならば、私がやってやる!
この国を統一し、南蛮遠征に向かい、亡き上様と、兄上の夢を完成させてやる!
皆の者、急いで出陣の準備に取り掛かれ!
上様親子と、兄上の敵討ちである!
命を惜しむな、名を惜しめ!」
(兄上、兄上の意志は、私が引き継ぎます!
この国を統一し、必ずや南蛮遠征に向かい、世界布武の完成をさせて見せます!)
真田夕夏は、幼馴染みの西原詩織の説得により立ち直り、亡き兄上の夢を叶える為に、明智光秀討伐の軍勢を上げるのである。
しかし、夕夏は疑問を抱いていた。
(兄上が側にいながら、光秀ごときに簡単に討たれたのか?
光秀の用意周到は、それなりには分かる。
しかし、兄上はそこまで無用心だったのか?
いや、今は考える必要はない。
光秀を討ち取り、この恨みを晴らすだけだ!)
信濃の柴田勝家、上野の滝川一益、甲斐の河尻秀隆らは、ある意味不幸としか、言いようが無かったのである。
最初に甲斐の河尻秀隆は、本能寺の変を知らされると、甲斐の国人衆らの謀叛にあう。
しかし、その謀叛の前日に、徳川家康からの使者が来ていたのである。
伊賀越えを無事に果たし、伊勢の白子の港町から船を使い、三河の岡崎城に辿り着いたのである。
家康からの使者の口上を聞いても、河尻秀隆は、使者の言葉を信用をしないどころか、家康の使者を切り殺してしまう。
国人衆らの謀叛を知った河尻秀隆は、徳川領を抜ける事も出来ずに、甲斐の甲府にある小さな館に立て籠ったのであるが、反織田の気持ちが強すぎる国人衆の前に、呆気なく落命をする。
甲斐の国は、無法地帯となり、少しの間、誰の支配下にも置かれない国となっていた。
上野の支配を任された滝川一益は、背面服従をしていた北条氏政の軍勢に襲われ、1度は北条氏政を退けるも、やはり多勢に無勢の通りに、上野より叩き出されてしまい、命からがら南信濃の深志城に辿り着いたのである。
柴田勝家は、南信濃の深志城に滞在をしていたが、やはり国人衆らの謀叛にあい、なんとか国人衆らの謀叛の鎮圧に成功をするも、とても明智光秀討伐の軍勢を出す余裕は無かったのである。
柴田勝家、滝川一益らは、明智光秀討伐に参加を出来なかった為に、今後の織田家での発言力の低下を抑える事は、事実上不可能になる。
そして、真田昌幸を見てみよう。
織田信長信忠親子、真田敦の死を知らされた真田昌幸は、一瞬は独立心を抱くも、直ぐにその考え方を捨てる。
なぜなら、越中の真田夕夏、越前の真田政長が健在であり、明智光秀討伐の後には、織田家の権力争いが勃発しても、あの2人が織田家の権力を握ると、真田昌幸は見ているからである。
亡き信忠の正室は、同じく亡き真田敦の娘であり、信忠の嫡男と次男は、信忠の正室である茜の子供である。
もしも、織田家の家督を信忠の嫡男である三法師が継げば、血縁関係上、真田夕夏、政長が後見人として、面倒を見る筈であるからだ。
たとえ、他の宿老達が明智光秀を討伐しようが、所詮は血縁関係の無い重臣である。
浅井長政が、明智光秀を討伐した場合でも、織田家とは血縁関係はあるが、やはり、真田夕夏、政長らに後見人を譲るであろう。
真田昌幸は、そこまで考えると、真田夕夏が明智光秀を、討伐するのではないかと、囲碁を打ちながら思案をしていた。
天下の行方は、どうなるのかは、誰にも分からないのである。
遂に、本能寺の変まで来ました。
明智光秀の謀叛の理由は、諸説があり、未だに解明をされておりません。
次の第8章の冒頭部分で、私なりの明智光秀の謀叛の理由を、書こうと思います。
織田信長信忠親子に、真田公記の主人公である、真田敦が本能寺の変にて命を落とし、天下の行方は今後どうなるのか?
悲しみを乗り越えた、真田夕夏が、後を継ぐのか?
歴史通り、羽柴秀吉が天下人になるのか?
それとも、明智光秀の逆襲が始まるのか?
正直、今は、何も考えておりません。
ただ言える事は、次の第8章で、天下統一を誰かがします。
作者の立場としては、前々から考えていた、南蛮遠征編を開始します。
誰が、天下統一をするのか?
それは、次の第8章、天下統一から、南蛮遠征編を、お待ちくださいませ。