手取川の戦い、戦国の大悪党、松永弾正謀叛
天正5年(1577年)8月24日、越前北ノ庄城に、真田敦を筆頭に、大内勝雄、南条勝成などの重臣、更に義弟の浅井長政、上様からの派遣された将は、柴田勝家、前田利家、佐々成政、羽柴秀吉などである。
真田敦が率いる軍勢は、約1万5000人、浅井長政からの援軍が、約5000人、上様からの援軍が、約2万人。
合計、約4万の兵が、能登七尾城救援の為に、集められたのである。
8月28日、越前北ノ庄を出陣した真田敦は、加賀大聖寺城に向けて、進軍を開始したのである。
同じ頃、加賀南部にある大聖寺城には、真田夕夏を筆頭に、重臣の島左近、水野勝成、前田慶治、可児才蔵らの、家臣達が大広間に滞在をしていた。
真田夕夏が率いる軍勢は、約1万5000人であり、兄である真田敦からの出陣の連絡が入りしだい、出陣をする予定である。
真田夕夏は、兄である真田敦が、岐阜、志摩、京の都と、回っている間に、越前国内にで、新しい人材を3人家臣を手に入れる。
これは、前に真田敦が立てたお触書の噂を聞き付けた、浪人達である。
1人目は、槍を使いこなす松下勇治である。
知将と言うよりは、武勇に優れた人物であり、このまま成長をしていけば、前田慶治に匹敵をする槍の使い手として、真田夕夏が期待を寄せている。
2人目は、元は、上総安房を支配していた里見家に仕官をしていた、元の名は渡辺昌勝、現在は雲斎である。
里見家が、北条氏康の手により滅ぼされて以来、出家をして僧侶として、全国を旅をして、経験や知識を学んでいた。
武将と言うよりは、参謀としての才に恵まれており、後には、真田夕夏の腹心の部下として、活躍をする。
3人目は、剣術、薬学などに長じている、沖田隼である。
沖田隼だけは、真田敦が若狭に戻って来た時に、真田夕夏に仕官をしている。
最初は、真田敦の家臣として召し抱えるつもりでいたのであるが、薬学に長じている事、優れた剣術使い手としての才を見込まれ、真田夕夏が召し抱えたいと、真田敦に直訴をして、家臣にしている。
こうして、新しい人材を手に入れた真田夕夏は、能登七尾城救援の策を、島左近、土屋優梨、雲斎らを交えて、議論をしていた。
最初に口を開いたのは、土屋優梨である。
「忍の者を加賀北部より北に多く派遣し、情報を手に入れるのが、上策かと。
先ずは、手取川まで進軍を致し、3重の柵を築き砦を築く事で、野戦に備えるべきです。」
堅実な策を好む土屋優梨の作戦に、消極的な言葉を口にするのは、島左近である。
「忍の者を加賀北部に派遣する事は、当たり前として。
問題なのは、3重の柵と砦を、手取川に沿って築くのは、いかがなものかと。
相手は、毘沙門天の生まれ変わりを自称している、上杉謙信である。
かつての、墨俣砦のように、上杉謙信からの妨害工作の対策を練らぬ限り、その策には反対を致す。」
土屋優梨と、島左近の意見が対立する中で、雲斎がようやく口を開く。
「夕夏様、北ノ庄に滞在をされている大殿からは、連絡は無いのですか?
大殿の事ですから、何かしらの策を考えているのでは無いでしょうか?」
夕夏が、雲斎に返答をしようとした時に、越前北ノ庄より、大内勝雄率いる真田水軍が到着をしたとの知らせを、小姓が報告をしに来た。
議論は1度中断をし、大内勝雄の到着を待ってから、再び議論の再開をする事で、話は纏まる。
しばらくしてから、大広間に大内勝雄が姿を出す。
一通りの挨拶を終えると、大内勝雄は、懐より書状を取りだし、近くの小姓にその書状を手渡す。
書状を手渡された小姓は、真田夕夏にその書状を手渡し、書状を受け取った真田夕夏は、その書状を開いて目で読み始める。
書状を読み終えた真田夕夏は、大内勝雄に質問をする。
「兄上は、いつ北ノ庄を出陣されたのか?」
「大殿は、8月28日に、北ノ庄を出陣致します。
某が、大聖寺城に到着をしたら、直ぐに手取川に出陣を致し、忍の者を能登加賀北部に派遣を致し、情報を集めると共に、3重の柵と堅固な砦を築くように言われております。
建築に必要な資材は、船に積んで用意してありますので、急ぎ手取川まで、進軍を致しましょうぞ。」
大内勝雄からの返答を聞いた真田夕夏は、直ぐに出陣命令を出す。
なぜか真田夕夏は書状の内容を、誰にも伝える事はなかった。
書状の最初の文章に、夕夏以外に内容を伝える事なかれ、と書かれていたからである。
真田夕夏が大聖寺城を出陣したのは、天正5年8月24日であるのだが、関東で、ある事が起きていた。
関6州を支配している、相模小田原城を拠点にしている、北条氏政が領内より6万の兵をかき集め、常陸を支配している佐竹義重の元に、出陣をしたのである。
初代である、伊勢早雲からの夢である関東王国を築く為に、大号令を掛けたのである。
一方、北条氏政の出陣を聞き付けた佐竹義重は、軍勢の多さに野戦を諦め、佐竹氏の拠点である大田城に籠城の準備をする。
真田夕夏が軍勢を率いて3日目に、思わぬ事に遭遇をする。
越中の一向一揆の連中が、真田夕夏の進軍を妨げたのである。
一向一揆の激しい抵抗により、真田夕夏の進軍速度は落ちていき、一向一揆の軍勢を蹴散らしながら進軍を再開するも、最初の目的地である手取川に到着したのは、当初の予定日である9月8日を過ぎている、9月14日のお昼過ぎである。
既に、大内勝雄率いる5000の軍勢は、手取川に沿って、本陣を据える砦と、3重の馬防柵の普請に取り掛かっていた。
真田夕夏は、大内勝雄に使者を出して、到着の遅延を詫びると共に、普請作業に取り掛かる命を下す。
それと同時に、手下の忍の者達に、北加賀と、能登の情報収集を命じる。
しかし、翌日の9月15日に、能登七尾城にて、真田兄妹にとって、不都合な事が起きた。
前々から、長続連の専横に、嫌気をさしていた、遊佐続光、温井景隆らの重臣達は、七尾城を包囲している上杉謙信の元に使者を派遣して、降伏を申し出ると共に内応を申し出る。
親上杉派である遊佐続光、温井景隆らの内応により謀叛を引き起こし、親織田派である長続連を筆頭に、長一族を皆殺しにする事に成功。
そのまま七尾城を、上杉謙信に明け渡したのである。
翌日の9月16日。
能登七尾城にて、真田夕夏率いる軍勢が、手取川付近まで到着をした事を知らされると、上杉謙信は七尾城を出陣。
手取川付近にある松任城に、2万5000の兵を率いて入城。
能登七尾城には、2000の守備兵を、越中魚津城には、3000の守備兵を残しているだけである。
恐らくは、この1戦にて織田真田浅井の主力を、叩き潰すつもりなのであろう。
それと同じくして、手下の忍の集団である軒猿衆に命じて、真田忍の始末をさせ、徹底的に情報収集の妨害工作をする。
その為、真田夕夏の元には、一切の情報が上がってこず、ただいたずらに時を過ごすだけになっていた。
9月19日、越前の真田敦らが率いる4万の軍勢が、手取川に到着をする。
だが、軍議を開く前から、内部統制の乱れの兆しが見え隠れをしていた。
以前から不仲である、柴田勝家と、羽柴秀吉の意見の対立が発端である。
積極的に七尾城の救援を口にする柴田勝家と、慎重な進軍を提案している羽柴秀吉である。
もしも、柴田勝家が主将で、羽柴秀吉が与力の立場であったならば、羽柴秀吉は勝手に、戦線離脱をしていたであろう。
しかし、七尾城救援の主将は真田敦であり、副将は浅井長政、真田夕夏であるがゆえに、柴田勝家と羽柴秀吉の言い争いが起きても、真田敦が止めれば良いのである。
しかし、柴田勝家と羽柴秀吉の争いを、このままにしておく訳にもいかない為に、真田敦は折衷案を軍議の席で口にする。
先ずは、手取川に沿って、馬防柵と堅固な陣地を築く。
その間に、忍を多数派遣をして、能登、越中の情報を入手する。
七尾城が落城していなければ、七尾城救援に向かい、七尾城が落城していれば、即座に全軍撤退をする。
真田敦がその策を伝えると、柴田勝家と羽柴秀吉の両者は、素直にその策に従う様子を示す。
柴田勝家にしてみれば、がむしゃらに進軍をして、正確な情報を手に入れずに、全軍を危機に陥らせる事を避けたいと思い直す。
羽柴秀吉にしてみれば、慎重な進軍に拘りすぎて、七尾城救援の期を逃がす事を避けたいのである。
なお、副将の真田夕夏は、七尾城救援の別動隊の大将として、約1万5000の兵を率いて、真田敦の元を離れる。
9月22日、上杉謙信は、闇夜に紛れて密かに松任城を出陣。
朝方に襲撃を仕掛け、手取川に築かれた馬防柵の破壊を目的にし、夜を通して進軍をする。
同じ頃、真田敦の元に、ある情報がもたらされる。
真田敦の配下である、鉢屋美海本人が全身に傷を負いながら、手に入れた情報である。
七尾城は、9月16日に落城をしており、上杉謙信率いる軍勢は、手取川近くの松任城に、既に入城しているとの事である。
その報告を聞いた真田敦は、自ら鉢屋美海の身体に傷薬を塗り、素早く手当てを済ませると、ゆっくり休むように美海に伝える。
鉢屋美海は、素早く頭を下げると、すぐに気配を消し、その場から消えていなくなる。
鉢屋美海の気配を感じなくなると、真田敦は、なぜか笑みを浮かべる。
七尾城落城の事は、既に想定内であり、上杉謙信が松任城に入城する事も、やはり想定内である。
手取川に、馬防柵と堅固な陣地を構築させたのも、上杉謙信の目を此方に引き寄せる為の餌でしかない。
手取川を挟んで、両者がにらみ合いを続けるほど、真田敦の策の成功率が高まるのである。
笑みを浮かべた真田敦は、直ぐに柴田勝家と、南条勝成の2名を、本陣に呼び寄せる。
寝る前とは言えど、2名共に鎧を纏っており、いつでも出陣が出来そうな手際である。
真田敦は、本陣にやって来た2名に対して、七尾城落城と、上杉謙信の動きを伝える。
その報告を聞いたそれぞれの反応は、柴田勝家は、直ぐに顔面蒼白になり、南条勝成は、指を鳴らしながら、やる気満々のようである。
最初に口を開いたのは、柴田勝家である。
「真田様、既に七尾城が落城しているのであれば、これ以上の進軍は意味がありませぬ。
上杉謙信の追撃を受ける前に、明日にでも、撤退をするべきです。」
勝家の意見に、南条勝成は、直ぐに反対をする。
「上杉謙信が近くに来ているのであれば、迎え撃つべきです。
3重の馬防柵と、堅固な陣地を構築したのは、野戦を視野に入れていたからでありましょう。
ここで、上杉謙信に背を向ければ、戦わずして敗けを認めるようなものです。」
「馬鹿な事を、軽々しく申すな!
謙信の兵は、あの武田信玄と戦い続けてきた、精鋭部隊であろうが!
個々の武勇で、戦を決められるほど、上杉謙信は、容易い相手ではないわ!」
「柴田様は、上杉謙信の名声に、怯えておられるのですかな?
我々は、上杉謙信よりも多くの兵を率いております。
三方ヶ原の戦いの時にも、甲斐の虎こと、武田信玄を打ち破った我々でござる。
越後の龍の名声に、惑わされていては、勝てる戦にも勝てませぬ。」
暫しの間、2人のやり取りを聞いていた真田敦であったが、総大将として、このままにしておく訳にもいかない為に、1度2人に水を飲ませ頭を冷やさせてから、真田敦と、真田夕夏以外は誰も知らない、秘中の策を2人に囁く。
その秘中の策を聞いた2人は、お互いの顔を見てから、真田敦の顔を見直す。
「明日の朝、全軍を率いて手取川を渡り、越後の龍こと、上杉謙信を完璧に打ち破る。
今日はもう遅いがゆえに、ゆっくりと休まれよ。」
真田敦は、柴田勝家と、南条勝成の両名を下がらせると、小さい声で若葉を呼ぶ。
若葉は、幼いながらも、真田敦がその才能を高く評価しているくの一であり、後の真田四天王の1人に数えられる人物である。
真田敦は、若葉に言葉をかける。
「若葉、美海の容態はどうである?」
「塗布をされた薬が効いているのか、ゆっくりと休まれておりますが、しばらく動くのは無理かと思われます。」
若葉からの返答を聞いた真田敦は、顎に手を当てながら考え事を始める。
少しの間、考え事をしていた真田敦が口を開く。
「若葉、明日の朝に手取川を渡り、上杉謙信の軍勢を打ち破る。
戦の最中には、余の背中を守るように。
もう、下がってよいぞ。」
その言葉を聞いた若葉は、真田敦の前から姿を消した。
だが、真田敦の予想を越える出来事が、起ころうとしていた事を、真田敦は知る良しも無かったのである。
翌朝、午前5時頃であろうか、朝靄が消えようとしていた頃、手取川に沿って軍勢を布陣させていた人物がいた。
誰知ろう、越後の龍こと、上杉謙信である。
上杉謙信は、手取川を渡る前に、油の入った壺を、現代の砲丸投げの要領で、3重に構築をされておる馬防柵の1番手前の柵に向けて、どんどん投げさせる。
馬防柵に壺が当たり、その壺が割れて、中にはいっている油がどんどん馬防柵に垂れていく。
その次に、大量の火弓を馬防柵に打ち込むと、油を含んだ馬防柵がどんどん、燃え始めたのである。
柴田勝家の軍勢の見張りが、異変に気が付いた時には既に遅く、鎮火をするには、時間が足りなかったのである。
柴田勝家の陣だけではなく、前田利家、南条勝成らを始めとする、各陣地の馬防柵を燃やし始めたのである。
それぞれの大将の元に、連絡が届いた時には、1番前の馬防柵が焼け落ちる有り様である。
それでも、柴田勝家を筆頭に、2番目の馬防柵の守備の強化を徹底し、上杉謙信の猛攻を防ぐだけで、とても反撃の機会を伺う所ではない。
幾度となく前線の各地より、真田敦の本陣に多数の使者が送られ、その都度、真田敦は的確な返答を出す。
とにかく、現在出来る事は、時間を稼ぐ事である。
別動隊を率いている、真田夕夏からの連絡さえ来れば、本陣を前線に進めて、反撃の狼煙を上げる事が出来るのであるが、今はまだその時ではない。
日数的に考えても、余程の狂いが発生しなければ、2~3日後には、連絡が入る筈である。
真田敦は、羽毛扇をゆっくりと動かしながら、遥か遠くにいる上杉謙信と、真田夕夏の姿を見ようとしていた。
同じ頃、真田敦の前線部隊にしてみれば、猛攻を開始した上杉謙信の動きは、苛烈と言うものである。
かの名将である、武田信玄と川中島を巡り、5度の戦いを繰り広げ、その他にも数多くの戦いを経験してきた越後兵にとって、油と火矢を用いて馬防柵を燃やす事など、簡単な事である。
上杉が素早く手取川を渡り終え、乱戦に近い接近戦に持ち込めたのであれば、上杉謙信の完勝の結果に終わるであろう。
だが、史実の手取川の戦いではなく、真田敦がこの戦場に居ることは、手取川の戦いの結果すらも変えられる事も不可能ではない。
1段目の馬防柵を燃やし尽くす事に成功をした上杉軍は、2段目の馬防柵の破壊準備を進めると共に、手取川の上流より軍勢を押し進めて、更なる猛攻を開始しようとする。
「織田の軍勢も、大した事はない。
この場にて、織田の主力を叩き潰し、北陸の地を手にいれようぞ!」
上杉の本陣にて、各戦線の動きを報告されている上杉謙信は、笑みを浮かべる。
しかし、上杉謙信の軍師格である直江景綱が進言をする。
「御館様、たしかに織田の軍勢は弱いものですが、この戦に置いて、最も警戒するべきは相手は、総大将の真田公でございましょう。
かのご仁は、武田信玄公にも、勝るとも劣らぬ人物。
無策のまま、戦線の拡大には反対を致します。」
「ならば、その鳳凰が空高く羽ばたく前に、地に叩き落とさねばならぬ。
毘沙門天の加護を持つ某と、第六天魔王の庇護の元におる真田。
どちらが戦上手か、この目で目極めようぞ!」
謙信はそう言うと、本陣を手取川の近くにまで押し進める。
その動きを見た越後兵達は、己の士気を高め意気揚々と、油の入った容器を投げつけ、更なる馬防柵の破壊に向けて火弓を放ち、戦況を優位に進めようとする。
それに対して、真田敦は、まだ本陣を前線に進めようとはしない。
先に手取川を渡り終え、上杉軍に先制攻撃を仕掛ける予定が、上杉謙信の先手を打たれたからである。
表面上は冷静沈着を装っているも、内心では打つ手の無さに、苛立ちを持ち始めていた。
(あの策を成功させるには、もう少し時を稼がなければならぬ。
やはり、本陣を前線に進めて、上杉謙信の注意を、此方に引き寄せなくてはならぬか。)
真田敦は、決断を下すと、近くにいる馬廻り衆に本陣を5町程、前線に進める事を伝える。
命を受けた馬廻り衆は、てきぱきと伝令をあちら此方に送り、本陣を前線に進める準備を急がせる。
約1刻後には、全ての準備を終え、真田敦の指示の元に、本陣を前線に進める。
最前線まで、約2町の地点まで本陣を進めると、真田敦は改めて、最前線の武将達に使者を送り、前線の維持を伝える。
その指示を出し終えると、真田敦は空を見上げる。
どんよりとした雨雲が、空一面を覆っていた。
この分であれば、今宵から大雨が降るのではないのかと。
もしも、2~3日ほど、大雨が続けば、手取川の水位は上昇をし、両軍ともに手取川を渡る事は不可能になる。
時間稼ぎを祈りたい真田敦は、空を見上げながら大雨が降る事を期待していた。
戦いは夕刻近くまで続き、双方とも、損害のあまり出ない結果のまま、その日の戦いを終えたのである。
その夜、真田敦の予測通り、大雨が降り始める。
両軍共に、手取川を挟んでの対陣であったが、真田敦はにやりとしており、上杉謙信は苦虫を潰していた。
もしも、真田敦が手取川を渡り終えていたならば、上杉謙信も、奇襲の日時をずらしたであろう。
この大雨の影響で、真田敦が直ぐに退却をするにしても、水量の増えた手取川を渡るのに、非常に困難であるからだ。
そうなっていたのであれば、真田敦が率いる織田真田連合軍が退却する背後から、強烈な一撃を与えれば、多くの溺死者や、討ち死にをする者が多かったであろう。
だが、元々長期戦を考えていた真田敦は、手取川を無理やり渡り、能登七尾城の救援に向かう事は、最初から考えてはいないのである。
魏囲趙救の計を、頭の中に浮かべた瞬間から、真田敦の戦略は出来上がっていたのである。
魏囲趙救の計とは、古代の春秋戦国時代にあった計略である。
昔、斉の国に孫子と言う、兵法家がいたのである。
魏の国に攻められた趙の国は、斉の国に救援を要請する。
趙からの救援を要請された斉の国は、援軍の将軍の補佐役として、孫子を同行させる。
斉の将軍は、真っ直ぐに趙の国に向かい、救援をしようとしたのであるが、それを孫子が止める。
このまま趙の救援に向かうよりは、手薄な魏本国に攻めいれば、魏の本隊は魏に撤退をしなくてはならない。
そうなると、自然と趙の救援になると、孫子は将軍に献策をする。
ただ、趙の救援だけではなく、帰国途中の魏の軍勢を叩きのめせば、趙を救援し、更には、魏の国力も落とす事になり、一挙両得にもなるのである。
孫子の読みの通り、手薄な魏の本国に斉の軍勢を向けると、趙を囲んでいた魏の将軍は、急ぎ魏に撤退を開始する。
そして、魏の軍勢の帰り道に兵を伏せていた孫子は、魏の軍勢を散々に打ち破り、意気揚々と、斉の国に帰国をしたのである。
この故事を、現状に当てはめれば、加賀北部を趙に、上杉謙信の軍勢を魏に、真田敦の軍勢を斉に置き換えるのである。
となれば、魏の本国を越後に見立てれば、真田夕夏の別動隊がどこを狙うのかは自明の理である。
そう、上杉謙信の本拠地である、越後の春日山城を包囲するのである。
春日山城を包囲してしまえば、いかな上杉謙信とて、本国に撤退をしなくてはならない。
その退却の時を狙い、上杉謙信の軍勢を背後から襲いかかり、散々に打ち破った後に、能登七尾城の攻略に乗り出せば良いのである。
最初の計画では、越後の春日山城ではなく、能登七尾城を包囲する予定であったのだが、仮に七尾城を包囲しても、上杉謙信の撤退が想像以上に早ければ、能登七尾城を包囲している、こちらの別動隊が散々に打ち破られる事になる。
そこで、能登七尾城の包囲を諦め、その代わりに、越後の春日山城を包囲する事にしたのである。
越後の春日山城を包囲してしまえば、北加賀の手取川に陣を敷いている上杉謙信の元に使者を出しても、早くとも3日は、掛かると見ている。
真田敦は、顎に右手を当てながら、越後の方角を見ていた。
その頃、手取川から海に抜け、海路を越後に向けて出発した、真田夕夏の別動隊は、天候にも恵まれたお陰もあり、早々に越後に到着をした。
真田夕夏の指示の元に、越後に上陸をした翌日には春日山城を包囲、砦を2重に建築をするなどの、堅固な包囲網の構築に専念をする一方で、海路を使い、春日山城を包囲した事を、兄である真田敦に知らせる。
春日山城を包囲された事に驚いたのは、留守役を任された家臣達である。
春日山城は、攻めにくく守りやすい地形に築城をされている事から、1番有効的な攻め方は、兵糧攻めである。
だが今回に関しては、上杉謙信を越後に引き上げさせる事が目的なので、5日間ほど包囲をすれば良いのである。
本陣から、春日山城を見上げている真田夕夏は、大内勝雄の水軍の一部と、配下の忍びに命じて、北加賀に滞在をしている兄上に使者を送る。
これは、時間との戦いでもあるからだ。
上杉謙信の元に、春日山城を包囲された忍びが到着するのが先か、大内勝雄の水軍と、配下の忍びが先に到着するかである。
「さぁ、戦国の軍神よ。
我が兄上と共に、練りに練り上げた策略を、打ち破る事は出来るかな?
春日山城を放置する事は出来ないから、手取川の布陣を引き上げて、春日山城に急いで撤退をするだけだろう。
加賀の小松城や、越中の魚津城、更には、能登の七尾城にまで、手を回す時間は無いであろう。
お手並み拝見と、行きましょうか!」
真田夕夏は、羽毛扇をゆっくりと動かしながら、春日山城と、北加賀の方を時折交互に見ていた。
9月27日の夕刻頃、真田敦の元に、大内勝雄の配下が、報告の為に、本陣を訪れる。
予定通りに、春日山城の包囲を完成させ、10月1日には春日山城の包囲を解き、海路を使い能登七尾城に、攻め寄せるとの報告である。
その報告を聞いた真田敦は、諸将達を本陣に呼び寄せ、真田夕夏からの報告を諸将達に伝える。
「さて、これからの、我々の取るべき行動であるが、皆の衆の意見を聞きたい。
身分の差を考えずに、己の意見を述べて欲しい。」
北陸地方の総大将である、真田敦からの言葉を聞き、最初に口を開いたのは、柴田勝家である。
「某は、このまま能登の七尾城に攻めいるべきと、発言を致す。
能登の七尾城を攻め落とせば、越中と越後に攻めいる機会を得られまする。」
柴田勝家の発言は、どんどん行けの、強気発言である。
その発言に対して、反対意見を述べたのは、羽柴秀吉である。
「某は、此処での撤退を発言致す。
元々、能登七尾城の救援の為に、軍勢を率いてきたのであり、能登七尾城の落城を知ったからには、無用な戦は避けるべきです。
このまま、能登七尾城に攻めいり、余計な損害を出すよりも、損害の少ない内に越前に引き上げる方が、上様の考えに添うと思います。」
積極的な柴田勝家と、消極的な羽柴秀吉の意見に混じり、折衷案の発言をしたのは、池田恒興である。
「某は、上様の元に使者を送り、改めて新しい指示を受ける事を発言致す。
能登七尾城の落城の報告は、まだ上様の元に届いておらぬと思われまする。
上様のが、能登七尾城を攻めよと申されれば、能登七尾城に攻めいり、手取川より越前に引き上げよと申されれば、素直に越前に引き上げるべきと思われます。」
柴田勝家の意見に賛同する者、羽柴秀吉の意見に賛同する者、池田恒興の意見に賛同する者、それぞれが自由に発言をしており、なかなか会議の終わりが見えないのである。
真田敦は、皆の衆の意見を聞き終え、決断を下す。
「皆の衆の意見は、良く分かった。
では、余の意見を、皆の衆に伝える。
先ずは、上様の元に使者を出す。
忍の者の足であれば、2日もあれば京の都に辿り着こう。
その間、少し余裕を見て、6日間は手取川に沿って布陣を続ける。
その間に、上杉の軍勢が越中に引き上げる事があれば、上杉の軍勢を追撃をし、能登と越中に向けて進軍を致す。
6日間の間に、上杉の軍勢が引き上げる事がなければ、手取川より越前に引き上げる。
6日経過する前に上様からの返事が来れば、上様からの指示に従う。
この意見に、異存のある者は、この場にて発言をするように。」
真田敦がそう述べると、がやがやと少しの間はうるさくなるも、その意見が1番有効的であると考え直したのか、素直にその意見に従う。
本来であれば、総大将の権限を持って、決断を下せば良いのであるが、今回は真田敦の軍勢だけではなく、上様からの援軍もいるのである。
それぞれの自尊心を傷付ける事なく、物事を穏便に済ませるには、最善の策を施す必要がある。
積極的な柴田勝家、消極的な羽柴秀吉、折衷案の池田恒興の、自尊心を考えての事である。
柴田勝家にしてみれば、上杉の軍勢が引き上げれば、追撃をするとの意見に満足をしている。
羽柴秀吉にしてみれば、6日の間様子を見て、上杉の軍勢が引き上げなければ、越前に引き上げるとの事であるから、やや不満はあるが、総大将の真田敦が発言をしている以上、これ以上のこじれは回避をしたいのが本音である。
池田恒興にしてみれば、上様に使者を送るとの意見を、取り上げてくれた以上、反対意見などはありもしない。
真田敦は、話し合いの解散を命じると、それぞれの陣に引き上げて、身体を休めよとの命を下す。
皆の衆が引き上げた後で、ただ1人、浅井長政だけは、その場に残っていた。
いつもの義兄らしくないのを、疑問に思ったからである。
「義兄、いつもの義兄らしくありませんが、何か悩み事でもあるのですか?
もしも、悩み事があるのでしたら、何でも相談をしてください。
この浅井長政、いかなる時でも、義兄の手助けをする所存にございまする。」
義弟である、浅井長政の心使いに、少し照れながらも、いつもよりも低い声で言葉を発する。
その言葉を聞いた浅井長政は、真っ直ぐに義兄の目を見る。
義兄のやる事は、博打に等しい事である。
しかし、神の如くの采配と、知謀を持つ義兄の事であるから、何かしらの考えがあっての事であろうと、浅井長政は考える。
そして、義兄に頭を下げると、自分の陣に戻っていく。
1人残った真田敦は、ぽつりと呟く。
「松永の爺、目の前の餌に食らい付くか、それとも警戒心を強めて、目の前の餌を見過ごすか。
どちらを取るかは、奴にしか分からん。」
真田敦は、白羽扇をゆっくりと動かしながら、上杉謙信の今後の動きを見ていた。
9月29日の朝、上杉謙信の元に、春日山城からの使者が到着をする。
使者からの口上を聞いた上杉謙信は、真田敦が用いた戦法は、川中島の戦いにおいて、武田信玄が用いた啄木鳥の戦法であると素早く判断をする。
このまま手取川に陣を敷いていれば、春日山城の包囲を解く事は出来ない。
しかし、手取川の向こう側には、我々の撤退を今か今かと待ち構えている、真田敦の姿が見え隠れをしている。
手取川に留まる事も許されず、引く事も困難である事を痛感した上杉謙信は、暫しの間考え事をせざるを得なかった。
暫しの間、思案をしていた上杉謙信は、決断を下す。
能登、越中、加賀の国境に位置をしている、越中の蓮沼城に引き上げる事を決断する。
真田敦が追撃をしてくれば、越中にある蓮沼城の手前にある、倶利伽羅峠を拠点に迎え撃ち、追撃をしてこなければ、越中の蓮沼城、越中の魚津城に守備兵を残して越後に帰還する。
己が信じる大義を大切にしている以上、本拠地である越後に帰還する事は当たり前である。
本拠地である春日山城を奪われてしまえば、大義もへったくれも無いからである。
それどころか、自分に従っている家臣達も、他家に乗り換えたり、独立を企む輩も出現をするかも知れない。
上杉謙信は、苦渋の決断を下すと、夜半に紛れて加賀の小松城に撤退を開始するのであった。
翌日の、9月28日、対岸にある上杉謙信の陣から、朝食を作る為の水煙が上がらない事を不審に思った浅井長政は、直ぐに真田敦の元に使者を出す。
浅井長政からの口上を聞いた真田敦は、直ぐに諸将に対して、上杉謙信の追撃をするとの伝令を伝える。
おそらくは、春日山城の包囲の報告を聞いた上杉謙信が、前日の夜半に紛れて、撤退を開始したのであろうと察したのである。
手取川の水量は、数日晴れた事により、水量は普段に比べても弱冠多い程度であり、手取川を渡るには、それほどの不便を感じない程度である。
柴田勝家を先陣にし、第2陣に浅井長政の軍勢を、どんどん手取川を渡らせる。
第3陣には、池田恒興の軍勢を、第4陣には、真田敦の本隊を、最後の第5陣には、羽柴秀吉の軍勢を置く。
全軍が手取川を渡り終え、全軍が整列を済ませてから、柴田勝家の軍勢から、上杉謙信の追撃を開始する。
だが、相手は、戦国の軍神と言われている、上杉謙信である。
もしも、真田敦と、真田夕夏の2人が、啄木鳥の戦法を練り直した、啄木鳥改の戦法を、裏の裏まで読んでいたとしたら。
真田夕夏の別動隊が、本気で春日山城を落城させるつもりが無いと、そこまで見抜いていたとしたら。
北加賀に滞在をしている上杉謙信を、本拠地である越後の春日山城に、撤退をさせるだけの偽兵の策略だと、全て見抜いたならば。
上杉の全軍を、どこかで反転をさせ、こちらの全軍が手取川を渡る事を待ち構えていたら。
きっと、とてつもない間違いをしたのではないかと。
一抹の不安を抱えながら、真田敦は、上杉謙信の追撃をするのであった。
9月30日、倶利伽羅峠まで、20町(約2キロ)ほどの地点に到着した柴田勝家の軍勢は、既に伏兵を潜ませていた上杉謙信の奇襲を受けていた。
上杉謙信が、越中の蓮沼城まで撤退をすると思い込んでいた柴田勝家にしてみれば、思わぬ報告である。
柴田勝家は、急ぎ陣形を整えようとするも、その前に上杉謙信の先陣が襲い掛かる。
「天魔の部下である、柴田勝家を始めとする、真田の軍勢を叩きのめせ!
出陣太鼓を鳴らし、先陣の中條と、鰺坂に、出陣を促せ!」
上杉謙信の先陣を任されている、先陣大将の斎藤朝信は、馬上から槍を持ち、中條景泰と、鰺坂長実の2名に開戦の合図を出す。
「中條様、ここは、柴田勝家の先陣を蹴散らし、第2陣まで攻め寄せては如何かと。」
鰺坂長実の提案に、中條景泰も首を縦に振る。
「うむ、斎藤様も、ここで真田の軍勢を叩きのめせとの、御命令を出されておる。
上杉の軍勢が、織田の軍勢などに負ける事はないのだ!」
中條景泰はそう言うと、下を手勢引き連れて、柴田勝家の軍勢に襲いかかり、鰺坂長実も、配下の手勢を引き連れて、中條様に遅れてはならぬとばかりに、柴田勝家の軍勢に襲いかかる。
一方、柴田勝家の方は、動揺を抑え切れずにいた為か、上杉の先陣である、中條、鰺坂の両名の軍勢に押されぎみである。
だが、ここで約1刻(約2時間)も、耐え抜いていれば、第2陣を率いている、浅井長政の援軍が到着をするのである。
柴田勝家も、馬上から、大声を張り上げて、兵を鼓舞する。
「上杉の軍勢を叩きのすのは、この一戦にあり!
命を惜しむな、名を惜しめ!」
その声を聞いた足軽達も、槍を構え、上杉の軍勢に負けじと襲いかかる。
配下の佐久間盛政や、勝政らの、猛将は、この戦で手柄を立てて、柴田家の家督を継ぎたいとの、思惑が強くなっていたのである。
実の処、勝家と、養嗣子である勝豊との仲は、険悪と迄は行かないが、少しずつ疎遠になり始めていたのである。
特別な才能もなく、体も弱く、控えめな性格の勝豊よりも、豪勇を誇示している盛政や、勝政の方に、家督を譲る方が良いのではないかと、勝家は考え始めていたのである。
養嗣子の勝豊は、この戦には、参加をしてはいるのであるが、越前の北ノ庄に留め置かれ、遠征部隊の補給の管理を任されているだけである。
話は逸れたが、柴田勝家の軍勢と上杉謙信の軍勢が、激しく槍を合わせていた頃、第2陣を率いている浅井長政の元に、柴田勝家からの使者が急いで向かっていた。
上杉謙信の軍勢が、倶利伽羅峠の手前にて、こちらを待ち受けており、某の手持ちの軍勢だけでは、上杉謙信の全軍を支えきれないので、至急救援を乞う。
その口上を伝えるべく、急いで馬を走らせて、向かっていたのである。
柴田勝家が上杉謙信の軍勢と槍を合わせていた頃、第4陣の本隊を率いている真田敦は、忍び者から、ある報告を受けていた。
その報告を聞いた真田敦は、白羽毛扇で顔を隠しながら、笑みを浮かべていた。
上杉謙信、恐れるべからず。
今の心境を言葉にするのであれば、そう言葉にしたのであろう。
例外を上げるとすれば、越中の倶利伽羅峠にて、上杉謙信がこちらを迎え撃つ事を除外すれば、概ね予想通りに事が運んでいるからである。
軍神と呼ばれようとも、上杉謙信の才能だけに頼っている上杉軍と、真田夕夏を筆頭に、夜空の星の数の如く、有能な人材を手にしている真田敦を比べれば、どちらが有利なのかは自明の理である。
上杉謙信を撃破し、北陸地方の覇権を握る。
真田敦は、遥か遠くの、能登の地を見ていた。
「雑兵が、何人来ようが、簡単に討たれる余ではないわ!」
佐久間盛政が大声を張り上げて槍を振り回し、そのすぐ側で、勝政達が先陣を切って、上杉の雑兵達を蹴散らしているのに対し、中條景泰や、鰺坂長実らは、織田の将を討ち取る事を考えて、約一刻ほど戦っていた。
「猪武者を討ち取るには、徐々に後退をして、本隊から引き離し、孤立させる事が大事な事ですね。」
景泰が、そう述べると、隣にいる長実も、首を縦に振る。
「撤退の太鼓を鳴らし、織田の軍勢などに奴等を、輪の中に引き寄せますか。」
長実はそう口にすると、配下に命じて退却の太鼓を鳴らす。
ドンドンドンドンドンドン!!!
その退却の太鼓を聞いた上杉の軍勢が、まるで波が引くように戦場から引き上げ始める。
上杉の軍勢が引き上げるのを見た、盛政や勝政らは、ここで追撃をして徹底的に先陣を蹴散らし、そのまま上杉の本陣にまで攻め込めるのではないか?
そんな希望を夢を見、軍勢を前に前にと進める。
上杉の退却の太鼓を聞き付けた柴田勝家は、じっと静かに戦況を見つめていた。
上杉の退却の早さに、どことなく違和感を覚えたのである。
歴戦の将ともなれば、僅かな空気の流れの変わり目や、戦での勘働きなどの感覚が鋭くなる。
(上杉の撤退は、明らかにおかしい。
こちらを誘い込んで、罠を仕掛けているのか?)
嫌な予感を感じた柴田勝家は、先陣の将兵に退却を知らせる太鼓を鳴らす。
それだけでは不安を感じたのか、何人もの使者を送り出して、退却命令を徹底させる。
ドンドンドン ドンドンドン
撤退の合図を繰り返す事で、損害を出切るだけ少なくしようと思ったのだが、知より武を好む佐久間盛政や、勝政には、柴田勝家の考え方を理解しようとしない。
罠があれば、その罠を破壊すれば良いとの、楽観的な考え方の方を取るからである。
柴田勝家の思惑通りにはいかず、佐久間盛政や、勝政達が、上杉謙信の罠に掛かった時には、既に遅かったのである。
「罠に掛かった猪武者を討ち取れ!」
鰺坂長実が声を張り上げた時には、佐久間盛政や、勝政達は、上杉の伏兵に、何十にも包囲をされてしまったのである。
「ええい!
囲みを打ち破って、退却をするぞ!
雑兵が、どれだけいようとも、怖れるわしではないわ!」
佐久間盛政が、鎗を振るい、勝政が、雑兵の胴丸を鎗で貫き、縦横無尽に暴れまわり、囲みを突破しようとしても、上杉の兵に邪魔をされて、なかなか脱出が出来ずにいた。
倒しても倒しても、迫り来る敵兵に対して、盛政や、勝政らは、安易な追撃をした事を後悔したのであるが、後悔先に立たずである。
「勝政、なんとしてでも、親爺殿の元に帰ろうぞ!」
「お主に言われなくとも、そのつもりよ!」
お互いの背中を併せながら、上杉の雑兵達に、プレッシャーを与えているのであるが、やはり多数に無勢である。
じりじりと迫り来る、多数の鎗に、対応が出来なくなり始めて来たのであるが、囲みの外から聞き覚えのある声が聞こえたのである。
「己らごときに、この鬼柴田が討てるものか!
命を惜しむものは、道を開けよ!
我の道を塞ぎし、命が要らぬ者は、なぎ払うのみよ!」
織田家随一の猛将と言える、柴田勝家が手勢を率いて、先陣の盛政と、勝政の救援に来たのである。
いや、それだけではなく、第2陣を率いている、浅井長政の軍勢も救援に駆け付けたのである。
浅井家の先陣を率いているのは、猛将の磯野員昌である。
「柴田勝家殿の軍勢を助け、上杉の軍勢を打ち破れ!
浅井家の名を天下に轟かすのは、この戦にあるぞ!」
磯野員昌が一度、鎗を振るえば、上杉の雑兵達はどんどん蹴散らされていく。
織田家随一の猛将が柴田勝家ならば、浅井家随一の猛将は、磯野員昌になる。
両家の猛将が、戦場を所狭しと暴れまわったならば、上杉の雑兵程度では、太刀打ちが出来ないのも当然である。
上杉の雑兵達は、大半が農民であるが故に、命あっての物種とばかりに、少しずつ距離を空け始める。
その僅かな、包囲網の綻びを見た、盛政や、勝政らは、柴田勝家や、磯野員昌らの助力を得て、上杉の包囲網を突破し、そのまま、柴田勝家や浅井長政らの軍勢は、仕切り直しの意味も含めて退却を余儀なくされる。
その光景を見ていた上杉謙信は、追撃をする事を中止する。
小魚に気を取られて、大魚を逃がす事に我慢が出来ないからである。
上杉謙信が、大魚を誰に例えているのかは、一目瞭然である。
真田敦と、真田夕夏の兄妹である。
その日の夜、真田敦の本陣に、柴田勝家と、佐久間盛政や、勝政らの、先陣の将クラスの連中が来ていた。
昼間の無様な戦いの、報告をする為である。
部下の不始末は、上司の責任である。
その意識が強い、柴田勝家が発言をする。
「本日の戦の不手際の責任は、先陣大将である、某の責任でございます。
どの様な罰も、お受けいたす所存に御座いまする。」
その言葉に続くように、佐久間盛政や、勝政らも、軽率な行動をした事を、頭を下げて謝罪をする。
その姿を見た真田敦は、柴田勝家らに、言葉を返す。
「柴田殿を先陣大将に任命したのは、某である。
現場の最高責任者が、責任を取るのが当たり前である。
それが故に、その方達には、なんの落ち度もない。
今回の事を良い経験として学び、次の戦の時に、同じ間違いを起こさぬ事が大切である。」
真田敦は、柴田勝家等にそう伝えると、椅子に腰を掛けるように促す。
勝家等が椅子に腰を下ろすと、顎に手を当てながら言葉を繋ぐ。
「やはり、上杉謙信の軍勢は手強い。
明日の戦は、某が先陣を勤める事にする。
柴田殿と、長政殿は、後ろに下がり後方の守りを固めて欲しい。
池田殿は、某の後ろにて、臨機応変に対応をお願いする。
なお、羽柴殿は、この場には居らぬが、手取川に橋を建築しておるから、この場には来ないものと思って頂きたい。
それでは、明日に備えて、ゆっくりと休まれるが良い。」
真田敦は、軍議を終わらせ、
皆の者達を其々の陣地に帰らせる。
その場に残ったのは、真田敦と嫡男である政長だけである。
先程の軍議では、一言も発言をする事は無かったが、それは総大将の心得を学ぶ為である。
たが、明日の戦の事を思うと、口を開かずには、いられなかったのである。
「父上、いえ、真田様。
明日の戦は、本当に先陣に立つ、気でおりまするか?
相手は、軍神とも言われる上杉謙信公に御座いまする。
勝てる勝算もなく、先陣に立つ事は、無謀と言えまする。
お考え直す事は、出来ませぬか?」
この戦で、父上が命を落とす事にでもなれば、真田家はどうなるのか?
真田家の家督を、父上より譲られてもいないので、自分が真田家の長として、一癖も二癖もある連中を、纏める事が出来るのか?
そんな、不安が強くなったのであろう。
真田敦とは、政長のそんな気持ちを察したのか、1通の書状を政長に手渡す。
受け取った書状を開き、ざっとその書状に目を通すと、自分の目を疑うのであった。
翌朝、真田敦と嫡男である政長は、白銀の鎧兜を真田敦が、朱の鎧兜を政長が身に纏い、槍を手に持ち軍勢の先陣に立っていた。
本陣にいる時は、右手に羽毛扇を持っているのであるが、今日は本陣を守備している、副将に預けている。
腰の刀は、伊勢の刀匠である村正を、同じく槍の穂先も、村正であり、それを今日は身に付けている。
嫡男の政長も、村正の槍と刀を持ち、今日の戦に備えていた。
本来であれば、総大将である真田敦は、本陣に構えている筈なのであるが、相手が軍神と称されている上杉謙信であれば、相手に取って不足はない。
味方の兵を鼓舞する意味も兼ねて、真田敦が槍を天に向けて掲げてから、声を出す。
「今日の敵は、三方ヶ原で戦った、武田信玄の軍勢にも引けを取らないであろう!
しかし、その武田信玄の軍勢を、三河より退けた我々である!
どんな強敵であろうと前だけを向き、我々が天下最強の軍勢である事を、天下に知らしめるのだ!
天の時、地の利、人の和の3つの要素は、上杉謙信の軍勢を遥かに上回る物である!
我々は、死を恐れず、名を惜しめ!
天下最強の軍勢の力を、越後の田舎侍共に、見せ付けてやるのだ!」
やはり、総大将が先陣に立つ存在感は、兵の意識を高めるには、最も効果的なのであろう。
兵の士気が高まったのを見た真田政長は、出陣太鼓を鳴らすように指示を出す。
ドンドンドンドンドンドン ドンドンドンドンドンドン!!
真田敦の方から出陣太鼓を鳴らされたのを確認した上杉謙信も、遅れを取ってはならぬとばかりに、勢いよく出陣太鼓を鳴らすのであった。
ドンドンドンドンドン ドンドンドンドンドン!!
上杉謙信の先陣は昨日と代わり、上杉家の猛将として名高い、柿崎景家、春家の親子である。
「真田の先陣は、真田親子であるみたいだな。」
景家が、息子の春家に言葉をかける。
「真田親子が、先陣を切ると言うことは、真田方はよほど本気なのでしょう。
ですが、敵の大将がのこのこと目の前に来ておるのですから、大きな手柄を立てるには持ってこいでしょうな。」
柿崎親子は、槍を持ち真田の先陣に戦を仕掛けたのである。
真田親子と、柿崎親子の戦は、約一刻あまり続き、戦況は柿崎勢の優勢となっていた。
真田敦は、少しづつ先陣を下げながら、上杉の軍勢を引き寄せ始める。
上杉謙信は、真田討伐の絶好の機会と思い、本陣である中陣を先陣近くまで進め、更に真田敦、政長の軍勢を追い詰めていた。
しかし、戦国の軍神と言われ、甲斐の武田信玄とも互角の戦いを繰り広げていた上杉謙信が、生涯で1度だけの大失態を犯すのである。
過去に、1度足りとも、春日山城を包囲された事が無かった事が、軍神上杉謙信の判断を鈍らせたのであろう。
上杉謙信の後陣の背後に、白い悪魔が近付きつつあるのを、察する事が出来なかったのである。
約1万2000の軍勢が、能登より北加賀に進行をしていたのである。
武将だけではなく、足軽に至るまで、白の鎧兜や、白の陣笠を身に付けている軍勢である。
「上杉謙信の軍勢など、私達の敵ではないな。
さっさと兄上の軍勢と、合流をしなくてはならぬ。」
馬上にあり、白の軍配を持ち、上杉の軍勢に戦を仕掛けた張本人は、越後の春日山城を包囲している筈の、真田夕夏である。
その隣には、西原詩織の姿もあった。
「戦国の軍神と言われた、上杉謙信。
どれだけの強さを持つのか、試して見たいわね。」
どことなくのんびりしている2人の前には、上杉謙信の軍勢に襲い掛かっている武将達もいた。
南條勝成、前田慶治、水野勝成らである。
「前田殿、水野殿、某にも、敵を残して置いてくだされよ!」
槍を振るい回し、上杉謙信の軍勢を蹴散らしている。
「口を動かす暇があれば、槍を振るい、少しでも敵を倒したらどうだ?」
南條勝成の言葉に、次々と上杉謙信の兵を軽々と倒していく前田慶治が返答をする。
「南條殿、我々だけでも、上杉の軍勢を蹴散らしてやりましょうぞ!
某は、先に行かせて貰いますぞ!」
水野勝成は、馬の腹を蹴ると、そのまま上杉の軍勢の中に突撃をしていく。
上杉謙信が、後陣が攻撃をされている報告を受けたのは、第2陣の直江信綱の陣に到着した時である。
「真田の軍勢に、後陣が攻撃を受けているだと!
どこから、出て来たと申すのだ?」
上杉謙信は、馬上杯を地面に投げつけ、怒りをあわらにしていた。
その姿を見た直江信綱は、冷静に状況を判断し、1つの仮説を口にする。
「もしや、春日山城を包囲している真田の軍勢ではありませぬか?
春日山城の包囲を早々に止めて、真田水軍を使い、北加賀辺りに上陸をして、我々の背後に回り込んだと思われまするが。」
その意見には、どことなく無理がある。
確かに、春日山城の包囲を早々と止めて、北加賀に上陸をする事は出来るであろう。
たが、そんなに簡単に、我々の勢力圏内である、北加賀に上陸ができるのか?
誰しもが、口を閉ざしていたのである。
しかし、1人の小姓が、お恐れながらと、言葉を発する。
「某の考えでは、やはり春日山城を包囲していた、真田夕夏の軍勢であると思われます。
春日山城を包囲している時は短く、忍の者が我々に知らせに向かったのを見計らい、春日山城の包囲を解除し、待機をさせていた真田水軍に素早く乗り込み、そのまま能登半島の北側に上陸をし、七尾城を攻略してから北加賀に進行を開始し、我々の背後に回り込んだと推測いたします。」
その小姓の名前は、樋口与六、後の、直江兼続である。
「七尾城を攻略してからだと?
あの堅城か、いとも簡単に落ちたと申すのか?
我々ですら、内側から崩したと申すのに。
馬鹿な事を、軽々しく申すな!」
直江信綱は、樋口与六を叱りつける。
しかし、上杉謙信は、樋口与六の言葉を頭の中に叩き込み、少しの間、考え事をする。
(与六の申した事は、ある意味考えられる。
堅城の七尾城を早々と攻略したのは、真田の持っている南蛮渡来の武器ではないか?
それとも、我が上杉の旗印を入手し、偽兵の計を用いて、七尾城の守備兵を騙したのではないか?
ともかく、これ以上の損害を出す前に、越後に引き上げるべきである。
前面の鳳凰、後方の麒麟に挟まれては、いたずらに抵抗をしても、損害が増すだけか。
せめて、後方の真田夕夏の軍勢だけでも、叩くだけ叩いてから、越後に引き上げようぞ!)
上杉謙信は、撤退する事をいち早く決断をすると、越後に引き上げる事を口にする。
「2方面より挟み撃ちにされた以上、ここで耐えしのぐには、不利な状況下にある。
1度、越後に引き上げ、来年の雪解けを待って、再び北陸の地に遠征をしようぞ!」
上杉謙信は、退却の太鼓を鳴ららように命じると、素早く馬に乗り、自ら先頭に立ち、倶利伽羅峠を目指して、馬を走らせる。
殿は、直江信綱に任せ、全軍が倶利伽羅峠を目指して、退却を始める。
上杉の退却の合図である太鼓の音を聞いた真田敦は、温存をしていた池田恒興の軍勢に追撃を命じる。
同じく、真田夕夏も、上杉謙信の追撃を始めるべく、土屋優梨に命じ、松宮暁と、武藤仁の両名に5000の兵を与え、追撃の先陣を命じる。
前にも書いたが、戦死者が多く出るのは、戦の勝敗が決まり、片方の退却を始めた時である。
どんなに上杉の兵が強かろうが、退却をしながらの戦いは、我々の想像を絶する物である。
追撃を開始してから、わずか半刻足らずで、1000近い上杉の足軽達が討ち取られ、2人の武将も討ち取られていた。
殿を勤めた直江信綱も、からくも倶利伽羅峠を越える地点まで退却をし、命からがら越中の魚津城に、辿り着いたのである。
上杉謙信は、魚津城にて3日間の休息を取り被害の報告を受けても、被害の少なさに少なからず安堵をした。
この被害であれば、来年の出兵にさほど影響は無いからである。
来年の雪解けを待って、再度、真田兄妹に対して再戦を誓うと、春日山城に引き上げて行った。
上杉謙信の軍勢を多数討ち取った事により、北陸地方の優勢を勝ち取った真田敦は、能登加賀の2か国の統治を妹の夕夏に任せ、自分は越前に戻り、来年の四国攻めの準備に取り掛かる予定である。
柴田勝家を始めとする織田の援軍と、浅井長政の軍勢は、岐阜と北近江に引き上げる。
引き上げの最中に、真田敦は、馬上にて考え事をする。
(此度の戦はなんとか勝ちを拾えたが、次はそうは、いかぬであろう。
もっと緻密な策を練り、兵の強化を計らなくては、越後に攻めいる事は不可能ではないか?)
真田敦は、上杉謙信の事は全て妹の夕夏に任せ、四国の三好攻めの策略を考える為に、10月3日の夜に、北ノ庄に到着をしたのである。
そして、翌年の1月中旬頃に、越後の上杉謙信に対して、一通の書状を後に送る事になる。
その内容は、甲斐の虎こと、武田信玄公に続いて、越後の龍こと、上杉謙信公と戦を交えた事を生涯の宝とし、誇りに思うと書かれていた。
その書状を受け取った上杉謙信は、うっすらと笑みを浮かべた後に、関東の北条氏政討伐の為の兵を集めるのであった。
10月4日、京の都において、ある噂が流布をしていた。
越前の真田敦が、関東管領である上杉謙信に、散々に打ち負かされたとの噂である。
ある者は、真田敦が討ち死にをしたのだの、ある者は、手下の半分以上を失っただの、ある者は、勢いに乗った上杉謙信が、そのたま越前に攻め行っただの、様々な噂があちこちで聞こえていた。
京の都に流布をしていた噂は、周りの国々にも広まり、摂津の石山本願寺を包囲していた、松永久秀の元にも届いていた。
元々、松永の爺は、誰かに飼い慣らされる器ではなく、独立独歩の心が強い野心家である。
戦国の軍神とも言われている上杉謙信が、常勝無敗の真田敦をとうとう打ち破ったのであれば、越前の北ノ庄城辺りで、真田敦と上杉謙信による、激しい攻防戦が繰り広げられている筈である。
松永久秀は、3度目の謀叛を決意すると、石山本願寺の包囲を勝手に解き、そのまま大和の多聞山城に無断で引き上げる。
そして、兵糧や武具を国内から集められるだけ集めると、打倒織田信長を国内外に表明して、大和国の統一の為に兵を出す。
松永弾正の兵は、数日後には、大和1国の統一に成功し、各城に蓄えられていた兵糧や弾薬等を、多聞山城に運び込むと、摂津の石山本願寺や、紀伊の雑賀衆にも使者を出して、織田信長の牽制をお願いする有り様である。
それだけではなく、備後の鞆の裏に落ち着いている足利義昭にも書状を送り、毛利を動かすようにも工作をする。
更には、長篠設楽原の戦いに敗れた武田勝頼にも、書状を出して信長の同盟者である徳川家康の動きも、牽制を依頼する。
壮大な信長包囲網を構築し直し、北陸の上杉謙信の動きに合わせて、自らも挙兵をしたのである。
北陸からは上杉謙信、畿内には、石山本願寺や傭兵部隊を率いる雑賀衆、中国地方からは毛利一族と一斉に反信長連合軍が動き出したのであれば、信長だけではなく、家康も危なかったであろう。
しかし、松永弾正の思惑は、大きく外れる事になる。
加賀での戦の詳細や各地からの情報が、忍の報告により知らされるからである。
北陸の上杉謙信は、真田敦と夕夏の軍勢に敗れ越中に撤退。
更には、冬将軍の到来に合わせて越後に撤退。
摂津の石山本願寺や、紀伊の雑賀衆は、籠城を決めており、松永弾正の援軍には向かわない。
甲斐の武田勝頼は、遠江の高天神城の攻防戦に手を焼いていた。
中国地方の毛利一族は、中国地方に侵攻中の、明智光秀や、羽柴長秀、黒田官兵衛等の軍勢と交戦をしていた。
それらの報告が、松永弾正に上がる頃には、織田信長は自ら松永弾正の討伐の軍勢を素早くかき集め、大和の出城等を1つ1つ叩き潰しながら、松永弾正の籠る多聞山城の包囲を始める。
松永弾正は、信長公に対する3回目の謀反を起こしたのであるが、それでも信長は松永弾正を許そうとする。
松永弾正が有能な人材であり、茶人としても高名でもあり、更には築城の才能にも秀でているからである。
たが、松永弾正の方は、最後の機会を逃がした敗北感に取り憑かれており、今さら降伏をする気にもなれなかった。
「この白髪頭を信長に渡すぐらいなら、最後の最後に、後世に名を残す死に方をしてやる!」
松永弾正は、身体中に火薬を巻き付け、松明の火で火薬の導火線に火をつける。
多聞山城のあちこちに仕掛けられた火薬が爆発を始めると、たちまち業火の炎が、多聞山城を包み込む。
壮絶な死に方を織田信長達に見せ付け、その巨大な爆発に、多聞山城の天守閣は、爆風と共に崩れ落ちる。
その光景を見ていた織田信長は、愚かな爺よと、口にし、早々に岐阜に引き上げた。
11月上旬のある日、越前の真田敦は、長女の茜と、次女の詩穂、三女の涼を連れて、岐阜城に来ていた。
言うまでもなく、長女の茜と、上様の嫡男である信忠公の、婚礼の儀の為に、来ていたのである。
式の当日、真田茜は、美しい花嫁姿に着替えており、次女の詩穂は、その手伝いをしていた。
父親である真田敦は、夜明け前から尾張の港に向かい、漁船に自ら乗り込むと、漁を始めていた。
お昼過ぎから、婚礼の儀が始まり、真田敦は、婚礼の式には参加をせずに、台所で婚礼の儀式の主菜の料理を作っていた。
あまり料理が出来ない真田敦であるが、この時代に来てから、鯛の塩焼きだけを、何10回と練習していたのである。
「茜と信忠様に似合う料理は、鯛の塩焼きしかあるまい。
鯛は、古来より魚の王様とも言われておる。
私が学び覚えた技術の全てを、この料理に注ぎ込む!」
真田敦が、料理に専念している時に、婚礼の式の場所には、次々と料理とお酒が大量に並べられていた。
唄に踊り、時には、上様自らが舞をする程である。
中でも、三女の涼と、その踊りの師匠てある真千の踊りは、その場にいた者達を魅了する程の、美しい踊りであったと後世にまで語り継がれていた。
真田敦が、婚礼の式の部屋に料理を運び込むと、上様から質問が出てきた。
「敦、この婚礼の式に、主菜として、鯛の塩焼きを出した意図はなんである?
お主の事であるから、何かしらの意図があるのであろう。
ここにいる者達に、分かりやすく説明をせよ。」
上様から質問をされた真田敦は、鯛の塩焼きを主菜として出した説明をする。
「本日の婚礼の式の主菜として、鯛の塩焼きを出した説明をさせて頂きます。
鯛は、平安の頃より、魚の王様として、縁起の良い魚として伝えられております。
それだけではなく、別の意味も含まれております。
尾張の海で取れた鯛と、尾張の海辺で作られた塩を用いております。
母なる海から生まれし、鯛と塩。
同じ祖父をもつ、信忠公と、我が娘の茜。
この2人が、夫婦になる事は、鯛と塩を用いて作られた、鯛の塩焼きに等しいのです。
お互い助け合う事が、この味を出すのです。
ここまで説明をすれば、鯛の塩焼きを出した理由が、分かるかと思われます。」
真田敦は、説明を終えると、自分の席に着く。
その説明を聞いた真田夕夏、真田政長だけが、その意味を理解する。
鯛の意味は、公家であり、塩の意味は、武家を意味しているのであろう。
いずれは、公武合体を狙っているのではないのか?
信忠公が太政大臣と、征夷大将軍に任命され、信忠公の正室の茜が、娘を生めば、次代の帝の皇后として、朝廷に送り込む策である。
そうすれば、公家と、武家の頂点に立つ事が出来るのである。
壮大な策であり、織田信長と、真田敦が、考えに考えた事である。
無事に婚礼の式も終わり、翌日、真田敦は、次女の詩穂を連れて、岐阜城の大広間に来ていた。
越前を出発する時に、何故詩穂を連れてくるように言われたのであろうか?
色々と考えている時に、上様が姿を出す。
「さて、敦に、詩穂を連れてくるように申し付けたのは、他でもない。
奥羽の、伊達輝宗殿の嫡男である、藤次郎に、そちの次女を、嫁に出そうと思う。
余の養女として約2年間ほど、教育をする。
そちの昔から言っていた策を、実行に移す事である。
そちは、異存は無いであろう?」
真田敦は、上様からの言葉を聞き、思わず絶句したのである。
上様の娘を嫁に出す方向で考えたのに、まさか自分の娘を嫁には、考えていなかったのである。
父親である真田敦が、なにも言えない状態にあるのを見た詩穂は、父親の代わりに口を開く。
「お恐れながら、上様に申し上げます。
上様のそのお言葉に従い、天下太平の為に、喜んでこの身を捧げる所存にございまする。
奥羽の伊達藤次郎様の元に嫁ぎ、織田と伊達の橋渡しを、立派にに果たして見せまする。
父上、今日まで、立派に育てて頂き、ありがとうございます。
詩穂は、三国一の幸せ者にございます。
ここで父上が、上様の命令を拒否をなされれば、真田家はどうなると思いますか?
上様と、父上の夢である、南蛮に遠征を行く為にも、伊達に奥羽の地を任せるおつもりなのでしょう。
ならば、伊達が謀叛を企まないように、私が監視を致します!」
詩穂の思わぬ言葉は、上様、真田敦の2人を、黙らせるには、充分であった。
真田敦は、自分の娘がそこまで大人の考えを持っているとは、思っていなかった。
上様は、そこまで腹を括っている詩穂を見て、満足をしていた。
この娘が男であれば、良き名将に慣れたのではなかったのか?
岳父の斎藤道三の娘であり、上様の正室であった濃姫も、男の子に生まれていればと、嘆いた事もあったらしい。
真田詩穂は、上様の養女になり、奥羽の伊達藤次郎の元に嫁ぐのは、約2年後の事である。