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真田公記  作者: 織田敦
26/33

越後の龍と、越前の鳳凰

天正5年(1577年)正月、越前北ノ庄にて、真田敦は新年の宴を開いていた。

出席をした家臣達は、それぞれ己の楽しみ方をしていた。

南条勝成は、津田勇佑と、どちらが酒を飲めるのを勝負しており、本多正信は、島左近、柳生石舟斎と、若狭で捕れた甘鯛を口にしながら、酒を飲んでいた。

真田夕夏は、お犬、藍御寮人、夫である真田信澄、甥の真田政長と雑談を楽しんでいた。

他の家臣達も、酒を飲み、正月の料理を口にしながら、賑やかにしていた。

真田敦は、あまり飲めぬ酒を口にしながら、その様子を見ていたのであるが、西原詩織が空になった盃にお酒を注ぎに来たのである。

「お殿様、盃が空ですよ。

さっさ、お飲みになってくださいな。」

西原詩織は、徳利からゆっくりとお酒を注ぐのである。

空の盃に、並々とお酒を注がれた真田敦は、西原詩織に、自分の隣に座るように促す。

西原詩織は、すっと真田敦の隣に座り、会話を続ける。

「しかし、余と夕夏だけではなく、そなたまでこの時代に、タイムスリップをしてくるとはな。

本来であれば、平成の世で、やりたい事をやり、楽しい人生を送れたであろうに。」

「師匠と、夕夏のいない世に、もはや興味などありませぬよ。

私も23才、この時代では、行き遅れの女でございますから。

それでも、私を貰って頂ける物好きな殿方がおりますれば、喜んで嫁に行きますが。」

西原詩織は、微笑みながら、返答をする。

この時代、女は早ければ、12から、13才には嫁ぎ、遅くても15才ぐらいまでには、殿方に嫁ぐのが一般的である。

その為に、20を過ぎた女は、行き遅れの女として扱われるのが、普通なのである。

「そうだな、詩織に相応しい、良き殿方を探してみるか。

しかし、詩織の好みのタイプとなると、難しいのではないか?

もしもの場合、余の側室にでもなるか?

あくまでも、冗談だから、真に受けるなよ!」

真田敦は、笑いながら甘鯛を口にするも、そう言われた西原詩織は、どこか悩む姿をしていた。

その2人の前に、すっと、真田政長が姿を出す。

そして、父である、真田敦にあるお願いをしたのである。

「父上に、お願いしたき事がございます。

某も、元服をすでに済ませ、15才になりました。

そろそろ、正室を迎えてもおかしくない、年齢に達した思われまする。」

突然、嫡男である政長より、嫁を欲しいと言われた真田敦は、目を丸くしていた。

しかし、年齢を考えれば、嫁を迎えてもおかしくない年である。

「ふむ、政長。

誰か、意中の娘でもいるのか?

織田家中の娘であれば、余が話を付けてきても構わぬがな。

何方の、娘を嫁に欲しいと望むのだ?

まさかとは思うが、上様の姫を嫁に欲しいと申すか?」

そう、父上に言われた政長は、重たい口を開く。

「京に住む、従三位権中納言四条久継様の次女、四条舞殿を、嫁に欲しいと思います。

父上が南蛮に視察に行っている時に、出会いまして、お互いに文のやり取りなどをしている内に、その、あの。」

政長は、恥ずかしくなったのか、顔を赤らめる。

「従三位権中納言、四条久継殿か。

余の官位は、従四位左近衛中将である。

公家と言うものは、内心では、武家を見下しているからな。

なんとか、やってはみるが、あまり期待は、するなよ。」

真田敦はそう言うと、宴会場から姿を消して、書状を書き始めた。

主君である上様に、上洛をする許しを、貰わなくてはならないからである。

書状を書き終えた真田敦は、岐阜の上様に、書状を送り届け、そして、もう1通の書状を、京の八条様に送り届け、それぞれの返事を待つのであった。

返事を待つ間に、越前、加賀の両国に、立て札を立てていた。

新しく、有能な家臣を召し抱える為に、面接を行うとの、内容を書いたのである。

この立て札を立てた事により、真田家に、有能な人材が増えるのであるが、運が良かったのであろう。



その人材の中に、一際異質な才能を持つ女性がいた。

後の剣聖であり、強い敵に勝つ事に、喜びを持つ女性である。

その女性の名は、塚原夏織。

塚原卜伝の孫娘であり、全国武者修行をしている女性である。

塚原卜伝、上泉信綱亡き後、日の本で1番強いと言われている、真田敦に興味を抱いたのである。

人材登用の面接の時には、あえて祖父の名前を出さず、偽名を用いて面接に参加。

剣の腕前を披露する時には、相手役として真田敦を名指しを、するほどの有り様である。

真田敦を名指しした時には、面接担当である、南条勝成が顔を真っ赤にし、某が相手を務めようと申し出た時には、真田敦自らが勝成を説得をし、塚原夏織の前に立つ。

「面接試験と言えど、真剣を用いる訳にはいかぬ。

この竹刀を用いての、面接とする。

勝負は1本勝負のみとする。

防具が必要であれば、用意をいたそう。

何か、他に聞きたい事があるなら、先に聞いておくがよい。」

真田敦の言葉に、塚原夏織は静かな闘志を燃やしながら、ゆっくりと返答をする。

「真剣でないのが残念だが、面接である以上、それに従いましょう。

防具があれば、防御には優れますが、あえて防御無しで勝負をしたいと思います。

私からは、それぐらいです。」

塚原夏織の返答を聞いた真田敦は、塚原夏織の瞳を見て、本気でやらなければ、こちらが負けると察すると、初手から本気でやると決める。

「よろしい。

ならば、こちらも防御無しで勝負をしよう。

最初に言っておくが、初手から全力で来なければ、後悔をする事になるぞ!」

真田敦の言葉に反応したのか、塚原夏織も竹刀を強く握りしめ、審判である南条勝成の、試合開始の言葉を聞くと、2人とも中段に構えを取る。

「真田一刀流奥義、笹隠れ切り!」

「新当流奥義、引き落とし切り!」

お互い、初手から奥義を繰り出すも、お互いの奥義同士がぶつかり合い、拮抗状態となる。

鍔競り合いの最中、真田敦と塚原夏織は、冷静な顔をしながら、言葉を交わす。

「小娘、お主もしや、塚原卜伝殿の、親類の者か?

だとすれば、わざわざ偽名を使わなくても良かろう!」

「祖父の名を出せば、つまらないだろうが!

私は、私であり、祖父ではない!

祖父の名声にすがる事なく、私個人の力を示す事で、天下に名を売るだけよ!」

真田敦は、力任せに刀を押し込み、塚原夏織との距離を開ける。

(こいつ、塚原卜伝殿の孫娘か!

ならば、あの奥義を繰り出しても、初手で勝てぬ訳だ。

しかし、ここまで俺を楽しませる逸材が、この時代にいるとはな。

師匠である、上泉様以来の、なんとも言えぬ風格を感じ取れるわ。)

間合いを開けられた塚原夏織も、真田敦と同じような事を考えていた。

(さすが、上泉伊勢守から、免許皆伝を許された腕前か。

初手から全力を出していなかったら、力負けをしていかもしれぬ。

武者修行の最中でも、これ程の実力者はそうそう出会えなかったからな。

この男を倒して、天下無双の名を手にいれてやる!)

どことなく、お互いを認めるような考えを持ちながらも、何十回と奥義と奥義のぶつかり合いを繰り返す。

約一刻の時が流れ、真田敦、塚原夏織の息も乱れきり、肩で息をしている有り様である。

審判である南条勝成は、お互いに引き分けを申し入れるも、お互いのプライドがぶつかり合い、簡単にはその提案を受けようとしない。

だが、体力的に不利な真田敦は、次の一撃を繰り出して勝負を終わりにしたいと言い出す。

塚原夏織の方も、最後の力を振り絞り、最後に勝つと言う信念の為に、その提案を飲む。

「真田一刀流最終奥義鳳凰流れ切り!」

「新当流最終奥義一ノ太刀!」

お互いの秘奥義が繰り出され、真田敦は、塚原夏織の心臓を貫くように竹刀を突きだし、塚原夏織の方は、よほどの武芸者にしか見えない程の剣の速度で真田敦に切りかかる。

お互いの竹刀が、お互いの身体に触れる寸前で、南条勝成は強引に試合を止める。

僅かにタイミングが遅ければ、それぞれの竹刀はお互いの身体に触れていたであろう。

身体に触れる数ミリのところで、お互い竹刀を止めているレベルである。

真田敦、塚原夏織は、真剣勝負をしていたら、お互い命を落としていたと感じとる。

相討ちになるほど、真田敦と、塚原夏織は、実力が均衡をしていたのである。

この一件により、塚原夏織は、真田敦からの信頼を得る事になる。

そして、真田敦が、もっとも信頼をする宿老の1人になるのは、そう遠くない事であった。



それから、7日が過ぎ、岐阜の上様と、京の八条様より、返答の書状が届いた。

上様からの書状には、1度岐阜に、来るように書いてあり、八条様よりの書状には、四条殿との仲介をする事を、快く承諾した事を丁寧に書いてあった。

真田敦は、加賀の守りを夕夏に、越前の守りを政長に任せると、100人あまりの兵を引き連れて、岐阜に向かった。

普通であれば、ここまで人数を連れていく事は無いのであるが、カルバリン砲を5門運んでいるからである。

その内、2門を上様に献上をし、残り3門は、志摩の九鬼義隆に渡す為である。

付き従う家臣は、大内勝雄、若葉、土屋優梨、松宮玄四郎、武藤庄九郎である。

だが、志摩での用事が終われば、大内勝雄、土屋優梨の2人を残して、後の3人は越前に帰らせる。

岐阜に向かう途中で、北近江の浅井長政の元に向かった。

上様からの書状の内容に、岐阜に来る前に、浅井長政に会って、ある事を伝えるようにと書かれていたからである。

真田敦は、頭を抱えながら小谷城に到着をして、浅井長政殿との、面会をするのである。

その間、若葉、松宮玄四朗、武藤庄九郎の3人は、浅井長政の娘である、茶々、初、江の3人のお守りをしていた。

小谷城の本丸の、大広間に通された、真田敦、大内勝雄、土屋優梨の3人は、浅井長政、お市御寮人、そして、お市御寮人の腕に抱かれている綺と、会っていた。

最初に口を開いたのは、浅井長政である。

「義兄上、お久し振りでございます。

越前の義姉上は、お元気でしょうか?」

越前の義姉上と言えば、真田敦の妹である、真田夕夏の事である。

真田敦は、素直に最近の事を伝える。

「夕夏は、身心共に元気である。

長政殿と、お市御寮人も、お元気そうで、何よりでございます。」

形式の挨拶を済ませると、お市御寮人が本題を切り出す。

「越前の義兄上が、小谷に参られたのは、岐阜の兄上からの、無理難題を夫に伝えるようにと、言われて来たのでありましょう。

何を言われようとも、覚悟は出来ておりまするが故に、遠慮なく申されて下され。」

そう、お市御寮人に言われた真田敦は、一呼吸置いてから、その口を開く。

「お恐れながら、浅井備前守殿と、お市御寮人に申し上げます。

上様からの書状では、某からではなく、某の左右におりまする、大内勝雄、土屋優梨から、申し上げよとの事にございまする。

この2人より、伝言を聞き及んだ上で、質問がございましたら、この2人が返答を致しまする。」

真田敦は、そう伝えると、浅井備前守長政殿と、お市御寮人に頭を下げる。

その動作と、時を同じくして、大内勝雄、土屋優梨も、頭を下げる。

そして、頭を上げた、土屋優梨が最初に口を開く。

「慎んで、浅井備前守様に申し上げます。

上様は、石山本願寺を征伐なされた後に、四国攻めの総大将に、浅井備前守様を任命されるお考えでございまする。

なお、上様から、2万の兵を借り受け、我等からは、5000の兵を出しまする。

副将には、丹羽長秀様と、我等の主君でありまする、真田敦様をお付け致すとの、お言葉にございまする。」

そこまで言葉を述べると、次には、大内勝雄が口を開く。

「なお、淡路島、讃岐、阿波に攻めいる時に、九鬼水軍と、真田水軍の両方を用いて、海を渡航する予定でございまする。

四国攻めが、完了した後には、淡路島の南半分、讃岐、阿波を、浅井備前守様に。

淡路島の北半分を、九鬼義隆殿にお与えするとの事でございまする。」

土屋優梨、大内勝雄の2人がそれぞれ口を閉ざすと、浅井長政はしばしの間、考え事を始めたのである。

(四国2国と、淡路半国か。

今の所領からすれば、約5倍になるのであるが、北近江と、四国、淡路半国の両方を見る事は、飛び地である事から難しいであろう。

上様は、国替えを考えておるやも知れぬ。

それに、四国2国と淡路半国の意味は、南蛮遠征の時に必要になる、水軍の事も考えておられるのであろう。

初代亮政公が、浅井家を起こし、2代目であり、某の父上である久政が、浅井家を守り、3代目である某が、浅井の家を発展させるか。

前に、真田の義兄が、前に申していた事が、こうして現実になるとは。

某も上様に、どこまでも付いていくと申した以上、はるか南蛮の国まで行って見ようぞ!)

浅井長政は、自分自身の考え方に決断を下して、その口を開く。

「浅井備前守長政は、先程のお言葉を慎んでお受けいたす。

上様には、そう、お伝え下され。」

その言葉を聞いた、真田敦、土屋優梨、大内勝雄は、ほっと胸を撫で下ろした。

もしも、浅井長政が北近江の所領にこだわり続け、物事を大きく見る、大局観を持ち合わせていなかったら、どうするかと心配をしていたのである。

だが、浅井備前守長政公の言葉を聞いた3人は、胸を撫で下ろし安堵をしていた。

そして、真田敦が最後の言葉を述べる。

「それでは、我々は岐阜に向かいまする。

備前守様も、お市の方様も、病気などにご注意をなされて下さいませ。」

そう、真田敦が述べ終わると、3人は頭を下げて、すっと立ち上がり、浅井備前守長政公、お市の方様のいる部屋から、出ていったのである。

そして、庭で遊んでいた、茶々、初、江の元にいる、若葉達に声をかけて、小谷城を後にするのである。

茶々と、初の2人は、もっと遊びたいと駄々をこねたのであるが、母親であるお市の方の説得により、しぶしぶ諦めたのである。



2日後、岐阜の城下町に到着した真田敦一行は、とんでもない人物と、出会う事になる。

徳川家康の家臣であり、三河の刈谷の地を治める、水野忠重の嫡男である、水野勝成である。

真田敦と、水野勝成との初めての出会いは、三方ヶ原の戦いにまでさかのぼる。

徳川家康を救援する為に、岡崎城に立ち寄った時に、父親である水野忠重と、一緒に会っている。

その時は、徳川家康の救援が最優先であった為に、挨拶もそこそこで終えたのであるが、三方ヶ原の戦い後に、岡崎城に立ち寄った時に、再び再会をして、数日の間、槍の稽古をした事があるのである。

だが、三河にいるはずの水野勝成が、なぜ岐阜の城下町にいるのか?

真田敦は、首を傾げながらも、水野勝成を自分の屋敷に連れていき、事情を聞くことにしたのである。

屋敷の大広間に、真田敦、土屋優梨、大内勝雄、水野勝成の4人が、左右に別れて座っていた。

まず最初に口を開いたのは、真田敦である。

「さて、勝成殿。

三河にいるはずのそなたが、なぜ岐阜の城下町におられたのかな?

上様に使わされた使者であれば、別に構わぬのだが、それ以外の理由があればそれを聞かねばならぬ。」

真田敦の問いに、水野勝成はゆっくりと返答をする。

「実は某、親を勘当致しまして、仕官をするべく、岐阜に参ったしだいでございます。

あのくそ親父が、家中に御触れを出したせいで、徳川家中の者達は、某を門前払いの扱い。

さりとて、武田を初めとする大名に仕官をする気もあらず。

越前国に参り、真田敦様に仕官をするべく、岐阜の城下町まで、来たしだいでございます。」

その言葉を聞いた3人は、半ば呆れ顔になっていた。

親から子を勘当するならば、分かるのであるが、子から親を勘当する話など、聞いたことが無いからである。

しかし、将来を期待できる人物を、野に放ったままにしておくのも、勿体ない話であるからだ。

水野勝成の性格などは、真田敦が知っている上に、有能な人材を他人に渡す事も、無いからである。

まさに、天より与えられし物とでも、言うべきであろうか。

天より与えられし物を手に入れれば、栄える事が始まり、天より与えられし物を手放せば、衰退が始まるのである。

天命と言う、運命の悪戯であろうか。

真田敦は、水野勝成に言葉を返す。

「わが家中の取り決めは、かなり厳しい事になっておるが、それに耐えられるか?

耐えられぬのであれば、仕官を諦めた方が良かろう。

お主に、その覚悟はあるのか?」

真田敦からの返答に、水野勝成は平然と答える。

「家中の取り決め事が厳しいのは、何処も同じでございましょう。

家中の取り決め事を守れぬ者は、使い物になりませぬ。

某は、この腕1本にて、真田敦様に、ご奉公を致す所存にございまする。」

そこまで言うと、水野勝成は、自分の胸をドンと叩く。

水野勝成の決意に、真田敦、大内勝雄、土屋優梨の3人は、このところ若者を仕官させる事に決めたのである。

それぞれの思惑が複雑に絡み合うも、真田敦は、また1人優れた人材を手にいれたのである。

翌日、真田敦は、岐阜城に登城していた。

大手門を通った真田敦は、本丸に備えられた、茶室に案内をされる。

上様が真田敦を茶室に通す時は、余人を交えずに話がしたい時である。

やや、緊張をしながらも、真田敦は、上様からの言葉を待っていた。

そして、織田信長は口を開く。

「この度、そちを呼んだのは他でもない。

いくつかの仕事を、して貰う為である。

最初の仕事は、前田家の揉め事を解決せよ。

なにやら、家督の事で、揉めておるらしいからな。

2つ目は、志摩に向かい、九鬼義隆の手伝いをして来い。

それが終れば、そちの用事を済ませて、越前に戻れ。」

上様からの命令は、その命令をやり遂げるまでは、上様の前に出る事は許されない。

真田敦は、頭をすっと下げて、上様の前から姿を消した。

岐阜城から屋敷に戻った真田敦は、水野勝成と、土屋優梨を書斎に呼び出した。

小姓に呼ばれた2人は、すっと姿を見せて、真田敦の前に座る。

2人が見えたのを見て、真田敦は口を開く。

「2人を呼んだのは、他でもない。

明日、前田利家殿の屋敷に参るので、2人は、余の供をするように。

それから、土屋優梨の家臣として、水野勝成を与える。

今後も、真田家を盛り立てるように、忠勤に励むように。」

そう言われた2人は、一瞬の間、ぽかーんとしていた。

前田利家殿の屋敷に参るので、敦様の供をするのは分かるのであるが、昨日家臣として召し抱えたばかりの水野勝成を、土屋優梨の家臣として与える理由が、分からないからである。

だが、頭の切れる土屋優梨は、直ぐにその理由を理解する。

自分は、知将であり、勇将ではない。

自分の手駒として、自由に動かせる水野勝成を、家臣として与えて頂いたのであると。

しかし、まだ若い、水野勝成には、そこまで物事を深く読む力は、不足をしている。

その為に、直接真田敦に問い質す。

「恐れながら申し上げます。

なぜ某が、土屋様の家臣として、働くのでしょうか?

是非とも、その訳を、お聞かせ願いたく存じ上げます。」

その言葉を聞いた真田敦は、若さ故に分からないのであろうと思う。

その為に、水野勝成には、分かりやすく説明をしなくてはならない。

「ふむふむ、なるほどなるほど。

優梨は、1軍を率いる将として、随分と成長をしておる。

だが、勝成は、まだ若いが故に、1軍を率いる大将としては、経験不足であろう。

それが故に、土屋優梨の家臣として働き、1軍を率いる将として学ぶ事が多いのではないかな?

いずれは、1軍を率いる将として、その活躍を期待しておるからな。」

主君である真田敦にそう言われた、水野勝成は、己の思考の無さを深く反省をし、1軍を率いる将として成長をするまで、土屋優梨の元で学ぶ事を承諾したのである。

翌日、若葉達を屋敷に残し、土屋優梨、大内勝雄の2人を引き連れて、真田敦は、前田利家の屋敷に向かったのであるが、その前田利家の屋敷から、罵声が聞こえたのである。

その声の主は、どうやら、前田利家と、前田慶次の2人であるようだ。

「慶次、これまでの奇行の数々、もはや捨て置けぬ。

今すぐ、前田家より出ていけ!」

「義叔父上言われなくとも、養父の葬儀を終えたら、こちらから出ていってやるわ!

上様に上手く取り入って、前田家の家督を盗みとった人間の元に、いつまでもおれるか!」

その様な喧嘩の最中に、真田敦一行が、前田利家の屋敷に到着をする。

そして、下らぬ喧嘩のやり取りを屋敷の外から聞いていた真田敦は、少し切れ気味になり、大声をだす。

「てめえら!

何をごちゃごちゃと、喧嘩をしてやがる!

お客が来たのだから、誰かしらを門前に出すのは、当たり前ではないのか!」

真田敦の大声は、庭にて喧嘩をしていた、前田利家、前田慶治の2人にも聞こえた。

声の主に気が付いた前田利家は、近くにいた小姓に命じて、門前に走らせる一方、お客が来たのだから、このまま慶次と喧嘩を続ける事を止めにする。

前田慶治の方も、お客の前で、無様な喧嘩をしていた見せる事を恥じ入り、そのまま自分の部屋に戻っていく。

小姓に案内をされて、真田の一行は、前田利家の前に姿を出す。

そして、主人である前田利家の方から、声をかける。

「真田様、本日はどの様なご用で、参られましたのかな?」

先程まで喧嘩をしていたとは思えぬほど、落ち着いた様子で口を開く。

「いやなに、上様の命令で、お主と慶次の2人が大喧嘩をしておるから、仲裁をして来いと言われてな。

済まぬが、慶次殿も、この場に連れてきて貰えぬかな?」

真田敦の言葉に、前田利家は額から汗を流しながらも、小姓に命して慶次をこの場に呼ぶように伝える。

そのやり取りを見ながら、真田敦は、更に言葉を繋げていく。

「何が、原因かは知らぬが、あまりつまらぬ事で、上様の耳にまで入るのは、どうかと思うがの。」

真田敦の一言は、前田利家の心に、ちくりと突き刺さる。

どう反論をするかと、額の汗を拭きながら考えていると、あからさまに機嫌の悪い慶次が姿を見せて、真田敦の対面に座る。

それを見た真田敦は、更に言葉を繋ぐ。

「何が原因で、喧嘩をしておるのだ?

余に分かるように、説明をして貰おうか?」

真田敦の言葉に、前田利家、前田慶次の2人が言葉を出せずにいた。

とるに足らない事から、ここまでの大喧嘩に発展したのである。

しかし、何時までも黙っている訳にもいかず、前田利家が重たい口を開いて、喧嘩の始まりを語り始める。

前田利家の説明を聞いていた真田敦は、だんだんと苛立ちを持ち始めた。

些細な事から、ここまでの大喧嘩に発展する理由に、苛立ちを覚えていたからである。

些細な事から大喧嘩に発展するのであれば、前田利家と前田慶次の2人を切り離すしか、方法は無かろう。

くだらない喧嘩の仲裁をとっとと終わらせて、早く志摩の国に向かわなくてはならないからである。

そして、前田利家からの説明を聞き終えると、さっと自分の言いたい事を口にする。

「なるほど、よく分かった。

つまり、お主らが顔を会わせるだけで大喧嘩に発展するのであれば、前田慶次を余が引き取る。

そうすれば、今後はつまらぬ事で、大喧嘩に発展する事もなかろう。

双方、異論はあるか?」

真田敦の怒り顔の前に、前田利家、前田慶次の2人も静かに首を縦に振るより他に、方法が無かったのである。

面倒くさい、真田敦の本音である。

だが、前田慶治のような、有能な家臣を召し抱えるのであれば、それも良かろうと思うのである。

「では、これにて手打ちじゃな。」

真田敦は、土屋優梨と、大内勝雄、それに前田慶治を引き連れて、前田利家の屋敷を後にするのであるが、その時にある事が起きたのである。

前田利家に足軽として召し抱えられていた可児才蔵が、前田利家の器量に見切りを付けて、真田敦に仕えたいと言ってきたのである。

前々から、前田慶治と可児才蔵の両名は、時折酒を酌み交わす仲であり、お互いに才能を認め合う間柄でもある。

真田敦は、前田慶治が才能を認める人物であれば、召し抱えても問題無いと思い、可児才蔵を召し抱えるのである。

この可児才蔵は、後に笹の才蔵と言われる程の武功を立てるのであるが、まだその事を真田敦達は、知る良しも無かったのである。



4日後、岐阜から尾張、そして伊勢と陸路を通り、志摩に到着をした真田敦達は、九鬼水軍の本拠地に来ていた。

志摩での用事は、鉄甲船の建造と、カルバリン砲を3門を、引き渡す為である。

九鬼水軍の館に入った真田敦達は、小さいながらも広間に通されて、九鬼水軍の頭領である、九鬼義隆を待っていた。

そして、九鬼義隆が姿を見せると、広間の上座に座り、会話が始まる。

真田敦が最初に口を開くと、その返答に九鬼義隆が、答えるのである。

「九鬼殿、お久しぶりでございますな。」

「真田様も、木津川口の戦い以来の、再会でございまするな。

あの時は、援軍に来て頂き、助かりましたぞ。」

「いやいや、南蛮に視察に向かった帰り時に、村上水軍と遭遇しただけでござる。

本日こちらに来たのは、九鬼殿に、あるものをお渡しする為でござる。」

真田敦は、手を2回叩くと、大内勝雄が懐から、2つ折りにされた1枚の紙を取り出してから、近くにいた九鬼義隆の配下に手渡す。

その紙を手渡された配下は、九鬼義隆に近寄りその紙を手渡す。

九鬼義隆は、その2つ折りにされた紙を開くと、大型の戦船が描かれていた。

3本マストに、戦船の両側には、いくつもの櫂が書かれている。

更に、黒く色を塗られている部分には、鉄の文字が添えられている。

所々、大砲を設置する為の、吹き抜けのような空間もある。

大きさで言えば、南蛮国にある、ガレアス級を1回りほど、大きくした感じである。

そう、真田敦が考えていた、南蛮に遠征をする為に考えていた、鉄甲船の設計図である。

その絵図面を見た九鬼義隆は、言葉を失う。

これ程の大きさの船は、日の本を探しても無いからである。

更に、鉄の厚さの数字を見ても、そこまで薄い鉄板で、大丈夫なのかと思うのである。

(鉄板の厚さは、約3ミリである。)

しかし、南蛮国に視察に出向くほどの人物が言うのであれば、信じる他は無いであろう。

九鬼義隆は、心の中で決断を下すと、真田敦に返答を述べる。

「この、九鬼義隆。

命に代えましても、新型の戦船の完成を、成し遂げて見せまする。

それと同時に、真田様より賜りし、3門の大砲をも、使いこなせるようになりまする。」

九鬼義隆は、真田敦に対して、すっと頭を下げ、次に頭を上げると2度手を叩き、家臣を呼び寄せる。

素早く家臣が姿を見せると、真田敦様の一行を慰労する為の宴会の準備をしろと命じる。

宴会の準備を命じられた家臣は、まるで空を飛ぶかのように部屋を出ていくと、宴会の準備を速やかにするように、他の家臣達に伝える。

約1刻後には、海の幸が山のように盛り込まれた料理や、伊勢の地酒等が並び、その日の遅くまで、真田敦を筆頭に飲めや歌えの宴会が繰り広げられたのである。



7日後、真田敦の一行が、上京の地に到着した。

近江の国に入った時に、80人の足軽と、武藤庄九郎、松宮玄四郎、若葉、可児才蔵達は、先に越前に戻らせた。

現在、京の都に滞在をしているのは、真田敦、土屋優梨、大内勝雄、前田慶次、水野勝成、そして、20人あまりの親衛隊である。

京の都での用事は、もちろん真田政長の、嫁取りの件である。

真田敦は、書状を書き記しながら、色々と考えをまとめていた。

(近い内に、淀城の改修と、新しい二条城の築城を始めなくてはならぬ。

京の都に大軍を滞在させるのであれば、寺に分散をさせて足軽達を滞在させるのも、おのずと限界があろう。

まぁ、淀城の改修であれば、1年ぐらいで終わるだろう。

二条城の築城に関しては、2年あまりの期間を見た方が良さそうであろう。)

書状を書き終え、書状を届けるように命じたた真田敦は、庭を眺めながら、しばしの休息を取るのであった。

同じ頃、前田慶次と、水野勝成は、下京を散策していた。

上京が公家の屋敷や、朝廷などがあれば、下京は、商店や民衆の住む場所が多くあった。

大きな事件もなく、民が笑顔で過ごしているのを見ていると、上様の政治が上手くいっているとも言えよう。

「勝成殿、いつかは日の本にも、平和な世が訪れるのであろう。

そうなったら、我々の生きる場所はあるのであろうか?」

前田慶次の質問に、水野勝成は淡々と返答をする。

「戦乱の世が終わり、日の本に平和が訪れても、戦乱の世は終わりませぬ。

南蛮の国々は、つまらぬ事でも争いをしていると聞いております。

天下統一の後には、南蛮平定という、大きな仕事がありまする。

まだまだ、我々の生きる場所は、あると言えましょうぞ。」

水野勝成の返答を聞いた前田慶次は、まだ見ぬ新しい世界に出向く事の喜びを覚え始めていた。



それから4日後、真田敦は、大内勝雄のみを連れて、八条直道様の屋敷に出向いていた。

屋敷の中に案内をされ、12畳の部屋に通されてしばらく待っていると、この屋敷の当主である八条直道様と、長女である八条那美様が姿を出す。

「真田左近衛中将殿、待たせて済まぬ。

実は、麿の望みを叶えて貰おうと思って、本日お呼びをしたのである。」

「八条参議様の望みで、ございまするか。

なんなりと、この真田左近衛中将に、申して下さりませ。」

官位も官職も、自分よりも上である、八条参議様からの言葉に、真田敦は頭を下げながら返答をする。

「実はの、麿の長女である那美に、良き殿方の元に、嫁がせようと思っての。

そちの家臣には、かつての名家である、大内家の血を引く者がおると聞き及んでの。

そこで、その大内家の血を引く者を、本日連れてくるように申したのである。」

八条直道様からの言葉に、1番驚いたのは、真田敦ではなく、大内勝雄であろう。

若狭に3500貫の知行を貰っているとは言えど、無位無官の自分に、従四位参議八条直道様の長女である、八条那美様を嫁に出すと言われたからである。

大内勝雄が返答に困っていると、しばらく黙っていた真田敦が、言葉を口にする。

「八条参議様、たしかに大内勝雄は、某の右腕とも言える存在にございまするが、まだ無位無官の者に、大切な長女である那美様を嫁に出す真意はいかに?」

「それはの、真田左近衛中将殿の、右腕とも言える存在であるが故にであろうか。

真田左近衛中将殿が重用していると言うことは、いずれは1国1城の主になる事も可能であろう。

先見の明とでも、言うべきかの。」

八条直道は、扇子で顔を隠しながら、笑みを浮かべている。

八条直道様の目利きに、半ば恐れを感じながらも、真田敦は大内勝雄にそっと目をやる。

大内勝雄は、何事も無かったかのように平然としている。

「八条様、少しの間、2人だけでお話をさせるのも宜しいかと思われますが。」

真田敦は、大内勝雄と、八条那美の事を考えて、庭を散策でもさせながら、お互いの気持ちを表に出させようとする。

それを察したのか、八条直道様も、2人に庭を散策でもしながら、会話を楽しむように伝える。

大内勝雄、八条那美の2人は、すっと立ち上がると、そのまま庭の散策に出向く。

しばらくの間、2人だけでの会話を楽しみ、お互いの気持ちを知るには、良い機会であったのであろう。

同じ年の6月の大安吉日に、大内勝雄と八条那美は、正式に夫婦になるのである。

2人を庭の散策に出向かせ、八条直道様と、真田敦だけになり、遂に本題が切り出されるのである。

真田敦の嫡男である真田政長と、従三位権中納言四条久継様の次女である、四条舞との婚約の話である。

その事を真田敦が切り出そうとした時に、八条直道様からの思わぬ言葉に、真田敦は暗い闇の中に落とされる思いを抱いたのである。

そう、四条舞には、四条久継様が決めた婚約者が、既にいる事を聞かされたからである。

しかし、当人である四条舞は、その婚約を嫌で仕方ないと言うのであるが、この時代の結婚は、政略結婚が普通である。

相手の男性は、正三位権大納言の嫡男であり、後には従二位内大臣にもなるとも言われているほどの、人物であるらしい。

官位も官職も上の人物に舞を嫁がせ、舞が嫡男を出産し、権大納言家を継ぐ事にもなれば、嫁の父親である四条久継自身の、朝廷内での地位の向上も望めるからである。

四条久継の考えている事が、手に取るように分かる真田敦は、頭を抱え始める。

ここで、真田敦が四条久継様の屋敷に乗り込んで、嫡男である政長との婚約話を持ち出しても、即座に拒否をされるのは分かりきっているからである。

さりとて、真田政長、四条舞の2人が、お互いに相手を好きである以上、この2人を一緒にさせたいとの思いもある。

良い名案が浮かばないまま、しばしの時が過ぎた頃、八条直道様の元に、お客が来たとの知らせを小姓が伝えに来る。

なんと、四条舞本人が、八条直道様に会いに来たと言うのである。

それを聞いた八条直道は、直ぐにここに通すように小姓に命じると、その小姓は、直ぐにその場から消える。

数分後、八条直道、真田敦の前に、四条舞が姿を出す。

真田敦は、すっと頭を下げ、八条直道はゆっくりするように、四条舞に伝える。

四条舞は、すっとその場に座ると、八条直道と、名前を知らぬ人物に挨拶をする。

「八条直道様、この度の突然の訪問、ご無礼を致します。

どうしても、八条直道様に、是非ともご相談をしたい事がございます。

ところで、そちらに控えておりまするご仁は、どなた様でございましょうか?」

「このご仁は、真田左近衛中将殿じゃ。

織田内府の、忠臣でもあらせられる。」

その言葉を聞いた四条舞は、頭の中に真田政長の姿が浮かぶ。

人違いとは思えぬが、四条舞は、真田敦の方を向いて、言葉を出す。

「お恐れながら、お聞きいたします。

真田左近衛中将様のご子息は、真田政長様にございまするか?」

「政長は、たしかに某の嫡男であり、いずれは真田家を継ぐ身分であるが。

それが、いかがなされたかな?」

真田敦からの言葉を聞いた四条舞は、まるで天に舞うかのように、心を踊らせていた。

1度だけしか、お逢いした事がないのに、自分の心を虜にした、真田政長様のお父上が、自分の目の前にいるのである。

この機会を逃せば、もう2度と真田政長様と会えないのではないかと、思い詰めている四条舞は、ある言葉を口にする。

「真田左近衛中将様に、お願い事がございます。

自分の望まぬ結婚をするぐらいであれば、自分の好きになった殿方に嫁ぎたいと思います。

四条家を捨て、京の都より越前に参り、真田政長様と夫婦になる事を望みます。

なにとぞ、この願いを、叶えて貰えませぬか?」

四条舞はそこまで口にすると、真田敦の両手を握り、涙を流しながら懇願をしている。

その願い事を聞いた真田敦は、顔を曇らせていたのである。

四条舞の願い事を叶えれば、朝臣である、従三位権中納言四条久継を、敵に回す事になり、後々の災いを引き起こす事もありうる。

しかし、四条舞の願い事を拒否すれば、ここまで思い詰めている四条舞の事であるから、宇治川にでも身を投げる事をやりかねない。

叶えるも地獄、断るも地獄の、二者択一の選択肢を迫られていた真田敦は、今までの人生の中で、1番難しい選択を、しなくてはならないからである。

しばしの間、3人の間に沈黙が訪れると、その沈黙を破ったのは、四条舞であった。

「今宵、もう一度だけ、父上を説得致します。

それでも私の考えを聞き入れて貰えぬ時には、四条の家を捨ててでも、越前の国に参ります。

その時には、越前の国にまで、連れていって貰えますでしょうか?」

そう、四条舞いに言われた真田敦は、八条直道様の顔を見る。

その八条直道も、致し方ないとの、考えに至ったのであろう。

首をゆっくりと縦に振ると、それを見ていた真田敦も腹を決めたのである。

たとえ、従三位権中納言である、四条久継を敵にしようが、若い2人の願いを、叶える方が大切と思ったのである。

そもそも、真田敦は、公卿が嫌いなのである。

武力を持たぬくせに、帝の近くにいると言うだけで

、自分達は偉いのだと、勘違いをしている輩なのである。

鎌倉時代に起こった、元寇を見ても、元の軍勢を撃退したのは、西国の武士が殆どである。

その時、京の都にいた公卿達は、なにもしていないのである。

当時は、鎌倉幕府の力が強すぎて、意見を言えなかった事もあるであろう。

だが、真田敦の心の中にある思惑が生まれ始めていたのであるが、その事が現実に起こるまでには、数年の月日が必要であった。



翌日のお昼過ぎ、真田敦が滞在をしていた寺に、四条舞の姿があった。

やはり、父親の説得に失敗をし、置き手紙を残してここにやって来たのである。

四条舞の決意を感じた真田敦は、岐阜の上様の元に書状を送ると、そのまま手勢を率いて、越前に戻って行った。

朝廷の参内を終え、屋敷に戻って来た四条久継は、娘である舞からの置き手紙を読み、怒りを覚えたのである。

真田敦に唆されて、娘である舞は、この屋敷から出ていったと思った。

四条久継は、越前の真田敦、岐阜の織田内府宛に、書状を書き記し、それを送り付けた。

しかし、それぞれの書状の返答は、四条久継の心を壊すだけの内容であった。

真田敦からは、2人の間を壊す事は、天命に逆らう事であると返答をし、織田内府からの返答は、真田敦が勝手にやった事であり、余には関係無いと書き記してある。

それでも、まだ娘を諦めきれないのか、権大納言である、山科言継に相談をするも、親織田派である山科言継からの説得により、表面上はしぶしぶ認める事になるのであるが。

この事件がきちんと解決をするのに、約2年の歳月が必要であったのである。

越前に戻った真田敦は、嫡男である真田政長と、四条舞との、婚礼の儀式を早々と済ませる。

真田政長は、正室である四条舞との間に、2男3女をもうけ、嫡男は真田家を継ぎ、次男は分家として、後の世まで家を残す。

3人の娘達も、それぞれ高位の家柄の殿方の元に嫁ぎ、子孫を残す事になる。

婚礼の儀式が終ってから、10日後。

岐阜の上様から、1通の書状が届いた。

真田敦は、上様からの書状を開いて内容を見ると、顔が青ざめていくのを、周りの家臣達は見逃さなかった。

書状の内容は、上様の嫡男である、織田信忠と、真田敦の長女である、真田茜との、婚礼の儀式の日時が書かれていた。

11月の吉日に執り行うと書かれれていただけではなく、更に、次女である詩穂を、上様の養女にする。

書状を元に戻した真田敦は、深いため息を掃くと、1人で縁側に向かうと、遠い青空を見ていた。



天正5年(1577年)6月、越後の上杉謙信は、いつものように寺の本堂にて、瞑想をしていた。

織田信長とは、対武田同盟を結んでいるが、設楽ヶ原の戦い以降、織田信長との、同盟維持の存在価値の見直しに迫られていた。

上杉謙信の夢は、室町幕府の再興と、日の本の平和である。

その為には、織田信長を倒し、足利義昭を京の都に呼び戻し、敵対をする大名を滅ぼさなければならない。

自らを、毘沙門天の生まれ変わりと称し、第六天魔王である織田信長の討伐に、向かわねばならぬと、心の中で決断を下す。

天正5年(1577年)7月20日、上杉謙信は、約3万の軍勢を率いて、能登七尾城の制圧を考えて、越後の春日山城を出陣。

当事、能登の当主は、畠山春王丸であったが、事実上は傀儡国主であり、重臣の長続達が実権を握っていた。

長続達は、上杉謙信の侵攻を知らされると、すぐに岐阜の織田信長の元に、援軍要請の使者を派遣し、七尾城にて籠城の備えを急がせる為に、七尾城の大広間に重臣達を集めたのである。

しかし、長続達が籠城の備えをするように言い放つと、降伏を口にする他の重臣達との、意見の食い違いが表に出てくる。

徹底抗戦を言い放つ、親織田派の長続達と、降伏を口にする、親上杉派である遊佐続光の意見が、真っ二つに分かれるも、実権を握っていた長続達は、遊佐続光の意見を退け、籠城の備えを急がせる。

この事に腹を立てた遊佐続光は、一族を集めてから屋敷に閉じ籠り、城に参内をする事を拒否したのである。

この事が後に、上杉謙信に知らされると、力攻めでは、七尾城が落ちないと考え、謀を用いて七尾城の陥落を考える事になるのであるが、まだ先の話である。

天正5年(1577年)7月30日、岐阜の織田信長の元に、能登七尾城からの使者が到着をする。

上座に座る上様に対して、能登七尾城の危急存亡を切実に訴え、上杉謙信を倒して欲しいと、頭を何度も畳に打ち付けながら懇願をする。

上杉謙信の能登侵攻を聞いた織田信長は、越前の真田敦、真田夕夏の2人に、軍勢を速やかに軍勢を集めて、能登七尾城救援に向かうように使者を出す。

越後の龍と、越前の鳳凰の、初の対決となるのであるが、お互いがお互いを好敵手と認め合うのは、手取川の戦いが終わってからの事である。


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