第7章 登場人物
村上水軍との、木津川口の戦いに、なんとか勝利をした、真田敦。
しかし、流れ将軍足利義昭は、第2次反信長同盟を結ぶことに成功をする。
そして、毛利両川の1人、小早川隆景の謀略により、荒木村重、松永弾正らの、織田家重臣の謀叛を裏で操る。
更には、将軍足利義昭の要請により、越後の龍こと上杉謙信が、能登を制圧したのちに、真田夕夏が守備を固めている加賀に、大軍を率いて進攻を始める。
織田信長と真田敦は、この困難にどう立ち向かうのか?
そして、日本史に残る、最大のミステリーも、ある人物の元で、着々と動き始めていた。
戦国奇話、第7章、佳境に突入する。
松下勇治
読みは、まつした ゆうじ
大和国の、奈良の町に住んでいた若者。
幼い頃から自己流のやり方で、蒼天流槍術を作り出し、日ノ本一の武芸者になるべく、修行の旅をしている。
東北地方から、北陸の地を旅している時に、越前の国の北ノ庄の城下町に辿り着き、宿に泊まった隣の部屋に滞在をしていた、元武士である雲斎と名乗る坊主と出会う。
一目見て、只者ではないと気付いた勇治は、雲斎の教えを請う。
後に、越前国内に立てられた立て札を見て、真田家に仕官をするべく、真田夕夏との面接及び、実技に合格をして、真田夕夏の家臣として仕官をする事になる。
(真田敦曰く)良き人物は、風格だけでわかる。
日の本一の武芸者にも、なれるやも知れぬな。
雲斎
読みは、うんさい
元、渡辺真一郎昌勝と名乗っていたが、主家が北条家に滅ぼされた時を契機に、出家をして天台宗の僧となる。
30才の時に、全国行脚の旅に出る。
九州から四国、中国地方から畿内などを旅し、北陸の地に足を踏み入れた時に、北ノ庄の城下町にて、同じ宿の隣の部屋に泊まった、松下勇治と出会う。
酒を酌み交わし、お互いの事を話し合う内に、松下勇治と意気投合をする。
後、松下勇治と共に、真田夕夏に仕官をして、真田夕夏、土屋優梨、島左近とは違うタイプの参謀として、真田敦の王道の手助けをする。
仏に仕える坊主の癖に、無精髭を生やしていて、時々、真田敦達の娘達に、無精髭で遊ばれる事もある。
(真田敦曰く)勝ちに負けに拘らず、将棋の駒のように、戦の流れを楽しむか。
変わった人物だが、それもまた、乱世に生まれし者の定めかもな。
真田徳
読みは、さなだ のり
真田政長の長女。
母親は、真田政長の正室である、舞御寮人。
名付け親は、祖父である真田敦。
生まれたばかりの赤子を見て、徳の文字が浮かんだと言われている。
大人しく、おっとりな性格で、その場の和み役として人々の笑顔を誘う。
その微笑みは、氷の心を持つ人ですら、ゆっくりと氷の心を溶かしていく程の、魅力的な物である。
真田敦の初孫でもあり、舞御寮人の血を引いている為か、色彩兼備の女性でもあり、どことなく不思議な魅力を持つ。
(真田敦曰く)口数は少ないが、それもまた良しとする。
余の孫娘でなければ、側室にでも。
あくまでも、冗談だからな!
沖田隼
読みは、おきた じゅん
天性の剣術使いであり、99回の真剣勝負をして、一度も敗けを知らぬ伝説の剣豪。
兵学、薬学にも精通をしており、日本各地を旅をしながら、己の見聞を広げる。
100回目の真剣勝負の相手を探して、若狭の国に足を踏み入れた時に、南条勝成の姿を見つけ、真剣勝負を挑む事になるが、真田敦の仲裁により、真剣勝負を取り止める。
剣術の腕前を真田敦に認めてもらい、真田夕夏に仕官をする事になる。
後に、真田敦の六女である、真田磨梨の娘婿になる。
(真田敦曰く)お転婆で、我が儘な娘を、宜しく頼む。
剣術使いとしてだけではなく、その才を広く使って欲しいものよ。
真田唯
読みは、さなだ ゆい
真田政長の次女。
母親は、真田政長の正室の、舞御寮人。
名付け親は、やはり祖父である真田敦。
人と人との結び付きを大切にする心を持って欲しいとの、願いを込められた才女。
姉である徳姫とは違う魅力を持ち、人と人との和を重視する。
美術的才覚に優れ、多くの日本画を後に残す。
特に、鳥をモチーフにした作品は、評価が一番高く、その中でも、特に鶴を描いた日本画は、後に数点が国宝にも指定されている。
(真田敦曰く)余が持たぬ才を、孫娘が持つか。
画家として、その才をどこまでも、生かせるように、精進を忘れぬように。
真田美桜
読みは、さなだ みお
真田政長の三女。
母親は、正室の舞御寮人。
名付け親は、祖父である真田敦。
真田三姉妹の末娘であり、花よ蝶よと、大切に育てられる。
清廉潔白、真っ直ぐで素直でもあり、嘘を嫌う性格であり、嘘をつく者には、絶対に許す事はしない。
(真田敦曰く)素直な事は良いのだが、それに拘りすぎると、意固地になりかねぬ。
人生、ほどほどを知ってほしいものよ。
真田建治
読みは、さなだ けんじ
真田夕夏の次男。
国を建国して、善き治世を行うようにと、名を付けられる。
武の才よりも、文の才に長けており、後の世に名君として、その名を残す。
家庭内の事に関しては、正室と、二人の側室の間に、二男四女を残す。
領内の発展に関しては天才的であり、少ない耕作地を補う為に、さまざまな特産品を作ることに熱心である。
(真田敦曰く)民の幸せを望み、領内の治世の王道を歩む事は、容易ではない。
しかし、そのうち心を忘れなければ、良き名君と言われるであろう。
海野鷹幸
読みは、うんの たかゆき
真田昌幸の忍の者であり、真田昌幸の次男、真田源次郎信繁(幸村)と同い年。
海野本家の血を引いている。(真田家は、海野家の分家)
性格は明るく、義に拘り、情を軽んじ、忍びに絶対に必要である、運動神経に関しては、真田忍の中でも右に出る者はいない。
武田家が、織田信長により滅ぼされた時に、真田昌幸が生き残る為に、次男である源次郎信繁が人質として、織田信長に差し出された時にも、共に同行をする。
真田十勇士の筆頭を努め、家臣達からの信頼は高い。
(真田敦曰く)余の忍び達も敵わぬ程の、良き才覚の持ち主であろう。
いつの日か、闇の世界から日の当たる世界に出てきた時には、共に酒を酌み交わそうぞ。
山県清夜
読みは、やまがた せいや
山県一族であり、遠縁であるが、武田四天王の一人である山県昌景がいる。
山県一族の家に生まれるも、三方原の戦いにおいて、山県昌景が討ち死にをして以来、山県一族の力が弱まり、真田昌幸の忍びとして預けられる事になる。
元々、忍の素質があったのか、成長と共に、めきめきと実力を付けて、真田忍の海野鷹幸の補佐役として、真田忍の次席を担う。
基本的な性格は、普段の時は、太陽のように温かく、そして明るいが、任務を担う時には、陰を好むように、冷酷非道の性格に早変わりをする。
(真田敦曰く)心技体を兼ね備える若者か。
その才を、更なる高みに行けるように、努力を惜しまぬようにな。
水野勝成
読みは、みずの かつなり
三河の徳川家康の家臣である、水野忠重の嫡男。
13才にして元服を済ませ、14才にして初陣を済ませ、初陣の時に、武田勝頼の配下を1人討ち取るも、父である忠重より、葉武者のような真似をするなと叱られ、それが切っ掛けとなり、父である忠重と、大喧嘩をしてしまい、怒った忠重より勘当を言い渡され、そのまま水野家を出奔する。
槍の腕に自信があった水野勝成は、岐阜の織田信長に仕えようとして、岐阜の城下町にて、織田信長の重臣である真田敦と知り合う。
猛将を欲していた真田敦は、水野勝成の身分を知り、父親である水野忠重との和解を、まだ若い水野勝成に進めるも、1人前の武将になり、父親である忠重の方から頭を下げぬ限り、水野家には戻らぬと言い張り、根負けをした真田敦が、自分の家臣として召し抱える。
その事が後日、水野忠重に知られる事になり、真田敦と、水野忠重との間に一悶着が起こるのである。
南条勝成と、水野勝成の、2人勝成と揶揄されるが、主君である真田敦は、南条勝成が、余の左腕ならば、水野勝成は、余の太刀であると言い、揶揄する者を言い含めたとされている。
(真田敦曰く)戦国時代最強の歌舞伎者。
豪胆にして、気前の良さもあるが、多少、短気な所もあるが、若気の至りであろう。
前田慶治
読みは、まえだ けいじ
養父は、前田利久であり、前田利家の長兄になる。
実父は、滝川一益の一族であるが、誰であるかは不明。
天正5年(1577年)に、養父である利久の死亡により、前田家との縁が切れた事により、前田家当主である、前田利家から前田家を追い出されるのであるが、前田利家のやり方を気に入らない真田敦が、前田利家に対して、前田慶治を真田家臣として引き取ると、喧嘩を吹っ掛ける。
重臣の1人であり、主君である織田信長公からの信頼が最も高い真田敦を、敵に回したくない前田利家は、しぶしぶそれを認める。
真田敦、真田政長の2代に仕え、戦場においては、朱槍を用いて暴れまわる。
(真田家において、朱槍を持つ事を許されているのは、南条勝成、前田慶治、水野勝成の3人だけである。)
誕生年は、諸説ありますが、天文10年(1541年)生まれにさせて頂きます。
(真田敦曰く)酒豪にして、大胆不敵、天下に名だたる歌舞伎者よな。
水野勝成、南条勝成と共に、戦場にて、存分に暴れるがよい!
可児才蔵
読みは、かに さいぞう
最初は、斎藤龍興に仕官をしていたが、織田信長により、斎藤氏が滅ぼされた時に、織田信長に仕える。
柴田勝家、明智光秀、前田利家と、主君を変えていたが、前田利家と、前田慶治の争いを見て、前田利家の器量を見切り、前田慶治を引き取った真田敦に、仕官をする事になる。
真田敦に仕官をした後に、ある戦場にて、討ち取った武将などの口に、笹の葉をくわえさせた事から、笹の才蔵の異名を取る。
可児才蔵は、真田敦に仕官するまでは、武将と言うよりは、足軽の身分であったが、武功の高さや、戦場の働きを真田敦が大いに認め、真田家の重臣の身分まで上り詰める事になる。
(もっとも、本人は重臣の身分を嫌がっていたのであるが、真田敦の人柄に惚れ込んでいたためか、数万石を越える知行を頂いても、殆ど有能な家臣に与えていた程である。)
(真田敦曰く)槍の扱いにおいては、前田慶治や、南条勝成、水野勝成にも、引けを取らぬであろう。
才蔵の槍は、余の宝である。
佐竹義重
読みは、さたけ よししげ
常陸を支配している、佐竹氏の18代目当主。
父である、佐竹義昭より家督を譲られて以来、数年後には、常陸統一をする。
しかし、常陸統一をした後に、関東統一を企む北条氏政、奥羽地方の会津を支配している、芦名盛氏などから、2方面からの侵略に悩み、巧みな外交を駆使し、危機を乗り越える。
しかし、天正5年(1577年)8月下旬に、関東6州を支配する北条氏政の、5万の大軍の前に、本拠である太田城にて、籠城を余儀なくされる。
半年に及ぶ籠城の末に、佐竹義重は、ある決断を余儀なくされる。
(真田敦曰く)鬼義重の名は、伊達ではないな。
まさしく、関東武士を代表する、人物であろう。
山口美那
読みは、やまぐち はるな
織田信長が、比叡山延暦寺焼き討ちをした時に、坂本の町より若狭に連れていかれた少女。
13才の時に、真田家の剣術師範である、柳生石舟斎の道場に通い始める。
天性の才能が開花した事により、剣術、槍術の使い手として、3年後には越前国内でも、剣術使い、槍術使いとしても、名を広める。
柳生石舟斎の推挙により、真田敦と面接及び、実技の試験を軽くこなして、真田敦の家臣の1人として仕官をする。
西原詩織と仲が良く、真田家の双璧と言われる事もある。
武家の出身ではない為に、名字が無いことから、主君である真田敦より、山口の姓を賜る。
(真田敦曰く)その天性の才能を、生かすも殺すも、美那しだいであろう。
願わくば、世の為、人の為に、使って欲しいものよ。
麻悠
読みは、まゆみ
幼い頃より、くの一として育てられ、18才の時に、中忍として認められる。
剣の使い手としても、有能であり、剣客クラスの腕前を持つ。
綾と、幼馴染みであり、彩夏の教育係も兼ねている。
真田夕夏からの信頼もあり、綾が夕夏の懐刀であれば、夕夏の背中を守る存在である。
第六感に優れており、直感においては、真田忍の中でも、最強の逸材である。
変装術に優れ、情報収集の最高責任者でもある。
(真田敦曰く)天性の才能に溺れる事なく、今後も精進を忘れるべからず。
将の将の器ではなく、兵の将の器であろうが、大いに期待をしておるぞ。
森蘭丸
読みは、もり らんまる
日本一有名な小姓。
1577年、弟達と共に、織田信長の小姓として仕える。
信長は、緒大名や、側近に対して、自慢できる物の1つに上げている。
(1番目は、奥州から贈られた白斑の鷹、2番目は、青い鳥、そして、3番目に蘭丸である。)
眉目秀麗の美少年であり、織田信長からは寵愛をされ、真田敦からは、三女の涼を蘭丸の正室にと、嫁を頂く程の信頼を持っている。
(真田敦曰く)いずれ成長すれば、ひとかどの人物となろう。
三女の涼を、幸せにして欲しい。
塚原夏織
読みは、つかはら かおり
塚原卜伝の孫娘。
物心が付いた頃には、祖父の卜伝は高齢にあり、鹿島新当流を卜伝の弟子より学ぶ。
元亀2年(1571年)祖父の卜伝の亡き後、若干14才にして武者修行の旅に出る。
関東から奥羽を経て、北陸の越前に到着した時に、真田流及び新陰流の使い手として、既に剣聖と言われていた、真田一刀斎(真田敦)と真剣勝負をする。
真剣勝負は、約1刻に及ぶ長期戦になるも、勝負なしの引き分けに終わるが、お互いの強さを認め合う事により、強引に押し掛けて真田敦に仕官をする。
流派は違えども、山口美那、柳生綾夏の、剣術を始めとする、あらゆる武芸の師匠でもある。
真田夕夏、西原詩織に勝るとも劣らぬ女傑であり、真田夕夏、西原詩織、塚原夏織の3人が、真田家最強の3女傑と言われている。
真田家において、今は亡き真田敦以外に、眼帯を付ける事を許された、唯一の人物でもある。