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真田公記  作者: 織田敦
24/33

設楽原の決戦! 

15757年(天正3年)5月21日昼過ぎ、武田勝頼は、織田徳川浅井連合軍に対しての、最後の軍議を開く。

それぞれの配置の決定と、戦を開始する大まかな時間の取り決めなとである。

最後まで、この決戦に反対をしていた者達も、この戦にて散る決意を胸に秘め、早々と持ち場に戻る。

真田夕夏率いる軍勢は、21日の午前4時頃に、長篠城の南西に位置をする船着山の麓にある観音堂に到着する。

問題なのは、ここから山を2つ越えなければ、鳶ヶ巢山砦に到着をしない事である。

兵卒の疲労を考え、今日は観音堂にて休息を取り、翌日の早朝に奇襲を仕掛ける事を決める。

「兄上、必ずやこの戦にて、武田勝頼の首を取り、意気揚々と凱旋を致しまする。

兄上もどうか、無事に帰国をされる事を望みます。」

そんな夕夏の側には、幼馴染みの志織がいた。

「夕夏、必ず生きて帰ろう。

私は、夕夏がいないと駄目だから。」

夕夏は志織を、志織は夕夏のお互いの目を見ながら、お互いの両手を固く握る。

負けない、絶対に負けられない、必ず勝って明日を生きる。

この戦に、兄上が、敦様が居てくれたらと、お互い思っていても、決してその事を口にしない。

それが、夕夏と志織の思いである。



5月22日、真田夕夏率いる1万の軍と、先陣大将である、酒井忠次率いる2000の軍勢は、もうじき朝が明けようとしている時刻(午前5時過ぎ頃)に、長篠城を監視をしていた鳶巣ヶ山砦を急襲した。

鳶巣ヶ山砦の兵士達は、それほど起ている者は少なかった。

精々、長篠城からの夜襲を警戒して、僅かな見張りを立てているだけである。

夜明けであれば、武田側も警戒を強めたであろう。

ところが、長篠城からの夜襲も行われない上に、毎日、長篠城を監視をするだけの退屈な仕事に、飽き飽きしていたのであろう。

所々で、居眠りをする足軽もいたぐらいであるからだ。

緊張感を無くした者から、戦場では散っていく。

夜明け少し前に、見張りをしていた足軽が、異変を感じた時には、既に遅かったのである。

酒井忠次率いる2000の足軽が、鳶巣ヶ山砦に攻め寄せて来ていたからである。

それどころではなく、残りの4つの支砦にも、真田夕夏が率いる1万の軍勢を、5つに別けて急襲を仕掛けたのである。

真田政長、島左近、南条勝成、真田信澄らの4人を大将にし、それぞれ1500の足軽を引き連れ、支砦を攻撃。

真田夕夏率いる本隊である、4000の軍勢は、鳶巣ヶ山砦攻撃をする、酒井忠次の後詰めを担う。



「鳶巣ヶ山砦を陥落させよ!

長篠城を救援する為にも、必ずやらなくてはならぬ!」

酒井忠次は、自ら槍を振るいながら、鳶巣ヶ山砦を南側から攻撃している。

「我々は東側から、攻撃を開始する!

命を惜しむな!

名を惜しめ!」

真田夕夏が、声を張り上げると、それが合図になったのか、太鼓が勢い良く叩きだし、真田夕夏率いる4000の軍勢は、鳶巣ヶ山砦を攻撃を始めたのである。

島左近率いる1500の軍勢は、支砦の1つである中山砦を急襲。

「敵は500足らずである!

こちらは、守備側の約3倍の兵力であるぞ!

臆するな、怯むな、死中に活を求めよ!」

島左近の見事な采配により、中山砦は数度の攻防を繰り返した後に、中山砦は島左近の軍勢の前に陥落。

中山砦の主将である、飯尾助友を討ち取る功績を上げる。

中山砦を陥落をさせた島左近は、真田夕夏に、中山砦を陥落させた事を知らせる狼煙を上げる。

同じ頃、南条勝成率いる1500の軍勢は、

久間山砦に対して、怒濤の攻撃をする。

大将自らが先頭に立ち、槍を縦横無尽に振るいながら、目の前の敵を次々と刺し殺していく。

「近くにいる者は、我の姿を見よ!

遠くにいる者は、我の声を聞け!

我は、真田敦様に仕える南条勝成!

命の惜しい者は、ここより去れ!

命を惜しまぬ者は、掛かってこい!」

その声を聞き付けた、久間山砦の主将である、和田業繁が立ちはだかる。

「我は、久間山砦主将、和田業繁なり!

南条勝成とやら、その方と一騎打ちを所望する!

命を惜しむならば、逃げ出すがよい!

命を惜しまぬならば、掛かって参れ!」

突然、敵の主将から一騎打ちを申し込まれた南条勝成は、口許を一瞬の間だけ緩める。

久しぶりの一騎打ちに、身体がぞくぞくしてきたからである。

「和田業繁とやら、その一騎打ち、お望みとあれば、喜んでお引き受けいたそう!」

南条勝成の乗る馬と、和田業繁が乗る馬がお互いに近寄り、幾多の槍を合わせる。

十数度槍を合わせた南条勝成は、和田業繁とやらの力量を知り、一言を口にする。

「和田業繁とやら、そなたの腕前では、某には勝てぬ!

命だけは助けてやるから、武田勝頼の元に逃げ出すがよいわ!」

南条勝成にしてみれば、むざむざと命を捨てる事は無いであろうとの思いやりであったのだが、それを和田業繁は武士に対する侮辱と捉える。

「ふざけた事を申すな!

目の前の敵を逃がす事など、某には出来ぬ事である!

某を侮辱した罪を、地獄で後悔するがよいわ!」

和田業繁は、槍を持ち替え、馬を操り直して、南条勝成に突撃をする。

それを見た南条勝成も、和田業繁に突撃をする。

お互いの槍が相手の胸元(心臓の辺り)を狙い、手にしている槍をお互いに突き出すも、南条勝成の槍の穂先が先に、和田業繁の漆黒銅丸鎧を貫通して、和田業繁の息の根を止める。

「だから、勝頼の元に逃げよと申したであろう!

真田敦が家臣、南条勝成!

武田勝頼が家臣、和田業繁を撃ち取ったなり!」

その声を聞いた武田方の足軽達は、武田勝頼の本陣に向けて敗走をする。

だが、南条勝成率いる足軽達は、武田方の足軽を逃がさぬとばかりに、武田方の追撃を行う。

南条勝成率いる足軽達の強さに匹敵する軍勢と言えば、三河の徳川家康、九州の島津家、真田敦率いる馬廻り衆ぐらいである。

あと、強いて言えば、イスパニア国王フェリペ2世率いる、ハプスブルク家の正規軍であろう。

久間山砦を陥落させた南条勝成は、真田夕夏に久間山砦陥落を知らせる為に、狼煙を上げる。

姥ヶ懐砦を急襲したのは、真田信澄である。

元々、堅実な戦い方を好む人物であり、足軽達の命をを無駄に散らさない事を好む。

中山砦、久間山砦から狼煙が上がったのを見た真田信澄は、大声を張り上げる。

「姥ヶ懐砦の者共に申す!

中山砦及び、久間山砦は既に陥落をしたのである!

その証拠に、両方の砦から上がる狼煙を見よ!

姥ヶ懐砦より撤収するのであれば、命までは取らぬ!

負け戦と分かったのであれば、その命を大切になされよ!」

真田信澄の声は、姥ヶ懐砦の足軽達に瞬く間に広がり、動揺が伝わり始める。

元々、武田勝頼率いる足軽の大半は、農民から徴兵をした者達である。

織田信長や、真田敦が長い年月を掛けて兵農分離を押し進めた足軽達とは違い、普段は農作業や山林の仕事をしている者達である。

命を惜しむ1人の足軽が逃げ出したのを機会に、続々と足軽達が姥ヶ懐砦より逃げ出したのである。

それを見た、姥ヶ懐砦主将である和名宗安は、残った200の決死隊を率いて、真田信澄の軍勢に突撃をする。

だが、決死隊による突撃を見抜いていた真田信澄は、長槍隊を前面に配置をし、その少し後方の両側に、100の騎馬隊をそれぞれ配置をする。

真田信澄率いる長槍隊と、和名宗安率いる決死隊が、お互いの槍を合わせた時に、真田信澄は騎馬隊に合図を送り、和名宗安率いる決死隊の左右から騎馬隊の突撃をさせる。

左右からの騎馬隊の突撃により、決死隊の陣形は崩れ、陣形が乱れた所を長槍隊の突撃を許してしまい、乱戦の最中に多数の死者を出しただけではなく、姥ヶ懐砦主将である、和名宗安も、討ち死にをしてしまうのである。

和名宗安の死を確認した真田信澄は、無人となっていた姥ヶ懐砦を攻撃、そして姥ヶ懐砦を奪い取る。

姥ヶ懐砦陥落を、真田夕夏に知らせる為に、急いで狼煙を上げる。



最後の支砦である、君ヶ伏所砦を急襲したのは、真田敦の嫡男である、真田政長である。

真田政長は、この戦が初陣でもあり、上手く指示が出せない為か、君ヶ伏所砦の攻略に手間取る。

軽い焦りを覚えた真田政長を見て、目付役として同行をしていた鉢屋美海が進言をする。

「政長様に、慎んで進言を致しまする。

このまま、前方よりの攻撃だけでは、君ヶ伏所砦は陥落致しませぬ。

私の手勢を君ヶ伏所砦の後方に回り込ませ、砦の後方より火を放ち、敵兵の注意を前方だけではなく、後方にも剃らしまする。

前面の兵が少なくなった時を計らい、総攻撃を開始して頂けませぬか?」

初陣で、戦のいろはも知らぬ真田政長は、鉢屋美海の進言を承諾する。

真田政長より許しを得た鉢屋美海は、30人あまりの手勢と、甲賀衆15人を率いる綾の両名は、君ヶ伏所砦の背後に回り込み、後方にも蓄積をされていた兵糧庫に火を放つ。

一人の足軽が、兵糧庫が燃えている事に気が付いて、急ぎ大声を張り上げ、他の足軽達に火を消すように応援を頼む。

だが、簡単に火を消されては困る鉢屋美海と、甲賀忍である綾の二人は、火を消そうとしている足軽達の中に突撃をする。

「簡単に火を消されては、こちらが困るのですよ!」

美海は、忍び刀を抜き、真田流剣術を華麗に使いながら、足軽達を次々と切り捨てていく。

「美海だけに、手柄を立てさせる訳にはいかない!」

忍び刀を使わず、体術を得意とする綾は、足軽の背後に素早く回り込み、足軽の首をいとも簡単に捻り、首を捻ったその足軽の命を奪い取る。

そして、次の獲物を狙い、次々と足軽達の背後に回り込み、綾の通った後には、首が曲がり、落命をしている足軽達の死体の姿があるだけである。

「相変わらず、残酷な殺害をしますわね。

殺しとは、華麗な舞を見せるように、するものではなくて?」

「殺しに、華麗な舞など、必要ない。

生き延びる為に、目の前の敵を殺す。

戦とは、そう言う物ではないかな?」

鉢屋美海と、綾の2人の殺しに対する考え方は違えども、それぞれの主君の為に、己の命を張るのは違いない事である。

君ヶ伏所砦の前面の兵力が少なくなったのを感じた真田政長は、全軍突撃の命令を下す。

「今こそ、君ヶ伏所砦を落とす時である!

者共、我に続け!」

虎の子は、虎なのであろう。

初陣であるのにも関わらず、真田政長は自ら先頭に立ち、君ヶ伏所砦を目指して突撃をする。

それを見た足軽達は、若様を死なせてはならぬと必死に走り、君ヶ伏所砦の門に向けて総攻撃をする。

前方と後方の両面から攻撃をされ、君ヶ伏所砦主将である、五味貞成は、瞬く間に乱戦に巻き込まれてしまい、真田政長の義叔父の配下である、津田勇介に討ち取られる。

「真田信澄が家臣、津田勇介!

君ヶ伏所砦主将、五味貞成を討ち取ったなり!」

君ヶ伏所砦を陥落させた真田政長は、叔母である真田夕夏に君ヶ伏砦陥落を知らせるべく、急いで狼煙を上げる。

真田政長、島左近、南条勝成、真田信澄の4将達の活躍により、4つの支砦を全て陥落させる事が出来たのである。

4つの支砦が全て陥落した頃、鳶ヶ巣山砦の攻防戦は、終盤戦を迎えていた。

背後から攻め寄せた酒井忠次の部隊と、東側から攻め寄せた真田夕夏の部隊は、残り200足らずの守備兵を蹴散らすべく、前進をしていたのであるが、主将である河窪信実(勝頼の叔父)は、起死回生の策を打つ。

武田勝頼が信頼をしており、武田家の中でも、十本指に入る猛者である、田中次郎丸澤昌に、精鋭である50の兵を与え、真田夕夏の本陣に突撃をさせたのである。

武田十本指に入る田中次郎丸澤昌の武勇の前に、次々と真田夕夏率いる足軽が蹴散らされていく。

その光景を見た真田夕夏は、唇を強く噛んだ為に、唇から血を流す。

あれだけの猛者を倒すには、南条勝成以外には居ないからである。

南条勝成は、支砦攻略の為に本陣にはおらず、このままでは本陣に突撃をされてしまう可能性が高くなったのである。

酒井忠次に後を任せて、速やかに撤退をするか、精鋭部隊を集めて防御を固めるかの決断を決めかねていた時に、真田夕夏の左側に立っていた西原詩織が口を開く。

「ねえ夕夏、あの山猿は、この本陣に突撃をしてくるのか?」

西原詩織の思わぬ言葉に、真田夕夏は言葉を失うが、直ぐに気を取り直し口を開く。

「そうみたいね。

どうやら敵は、起死回生の策を打ったみたいね。

う~ん、困ったわね。

あれだけの猛者を倒すには、勝成以外にはいないだろうし。」

そんな会話をしている内に、田中次郎丸澤昌はどんどん、真田夕夏の本陣に近付く。

「勝成殿以外には、猛者はいないの?

そんなに、真田家は人材不足なの?

なら、私があの山猿を打ち取るわ!

夕夏を傷付ける輩は、絶対に許さない!」

そう言うと、西原詩織は馬に乗り入れ、真っ直ぐに田中次郎丸澤昌の元に向かう。

あまりの早業に、真田夕夏は速やかな対応が出来ずにいた。

「えっ?ち、ちょっと!

詩織、今すぐ、本陣に戻りなさい!

ええい!

皆の者共、詩織を討たせるな!」

真田夕夏は軍配を握り直して、手持ちの軍勢を前に進める。

「弱い、弱すぎるぜ、てめえら!

地獄に落としてやるから、どんどんかかって来いや!」

田中次郎丸澤昌の振るう槍の前に、真田夕夏の足軽達は、物を言わぬ死体となっていく。

「おい、そこの山猿!

足軽ばかり相手にしていないで、私と一騎討ちの勝負をしろ!」

其処まで山猿に言うと、西原詩織は馬を走らせる。

突然、見知らぬ女から山猿扱いをされた、田中次郎丸澤昌は、顔を真っ赤にする。

「誰が山猿だと?

某は、武田勝頼様にお仕えをする、田中次郎丸」

そこまで言葉を発した田中次郎丸澤昌は、澤昌の名前を言えなかった。

西原詩織の突き出した槍の穂先が、田中次郎丸澤昌の喉元を貫いたのである。

しっかりとした手応えを感じた西原詩織は、山猿から槍を引き抜く。

槍を引き抜かれた田中次郎丸澤昌の喉元からは、勢いよく血が吹き出て馬から落馬をする。

「真田夕夏が幼なじみ、西原詩織!

誰だか知らない、山猿を討ち取った!」

田中次郎丸澤昌の討ち死にを知った武田家の足軽達は、命惜しさにその場から逃げ出したのである。

西原詩織が、田中次郎丸澤昌を討ち取った瞬間に、真田夕夏率いる本隊がようやく到着をする。

「詩織、頼むから単騎駆けは止めて。

詩織に何かあれば、兄上に顔向けが出来なくなるから!」

真田夕夏が、西原詩織に近寄り、言葉をかけるも、西原詩織は返事を返さない。

よく見てみると、西原詩織の全身が震えているのである。

初陣に等しいが故に、恐怖心が今ごろ出てきたのではないかと、真田夕夏は考えたのであるが、そうではなかったみたいである。

「ねえ、夕夏、これが戦なの?

この時代では、自分が生きる為に敵を殺しても、犯罪じゃないのよね?

ねえ、夕夏、答えてくれない?」

右手に持つ槍の穂先から、血をぽたぽたと垂らしながら、詩織は、夕夏に質問をする。

「そうよ、詩織の言う通りよ。

自分が生き残る為に、戦場では目の前の敵を殺す事で、自分を守るの。

分かりやすい理由だよね。」

夕夏の言葉に、詩織は自分自身のした事が、間違っていない事を確認する。

「私は、夕夏を守る為に、この槍を振るうしかないの。

例え敵が、閻魔大王だろうと、釈迦様だろうと、夕夏の敵は全て叩き潰ぶしてやるから!」

西原詩織がそう吠える頃、酒井忠次の軍勢が、主将である河窪信実、副将である三枝守友を討ち取ったのである。

酒井忠次の軍勢は、鳶ヶ巣山砦を下り、長篠城の西側にある有海村に滞在をしていた、高坂昌澄の軍勢を攻撃。

勢いに乗る酒井忠次の軍勢を押さえきれず、主将である高坂昌澄も討ち死にをする。

しかし、退却をする武田軍を深追いしすぎた、徳川家臣の深溝松平伊忠は、小山田昌行の反撃を受けて、討ち死にをする。



鳶ヶ巣山砦の攻防戦が終了した頃、長篠城の西方にある設楽原では、織田、徳川、浅井連合軍と、武田軍の戦いが始まっていたのである。

武田軍の先陣は、武田二十四将に数えられた、原昌胤である。

「あのような馬防柵など、我らの武田騎馬隊の突撃で、徹底的に壊してしまえ!」

原昌胤は、騎馬隊200、足軽600を率いて、浅井長政の陣に攻めかかる。

浅井長政は、馬防柵の内側に立て籠り、鉄砲隊と長槍隊、それに弓矢隊を用いて、対抗する。

「こちらからは、撃って出るな!

馬防柵を守りながら、守備を固めるだけで良い!

鉄砲隊、よく敵の騎馬隊を引き付けてから狙え!」

武田騎馬隊と、浅井長政が立て籠る馬防柵の距離が、約一町を切った時に、火縄銃が一斉に火を拭く。



ダダーン! ダダーン! ダダーン!



「これしきの鉄砲ごときに、怯むでない!

次の火縄銃を撃つまでに、我々の武田騎馬隊であれば、あの馬防柵までたどり着ける!

浅井長政の軍勢を蹴散らしてやれ!」

原昌胤の言う通りである。

火縄銃は一発打つと、次の発射までに、約30秒ほどの時間が発生するのである。

しかしそれは、鉄砲が伝来をした頃の話であり、鉄砲伝来より約30年ほど経った現在では、早合と呼ばれる物(現在の薬莢)を使う事で、約10秒足らずで、次の発射をする事が出来たのである。

その事を知らない原昌胤は、騎馬隊の突撃に合わせて、一番前に姿を表して突撃をしたのであるが、早合の準備を済ませた浅井鉄砲隊は、2回目の一斉発射をしたのである。



ダダーン! ダダーン! ダダーン!



下手な鉄砲、数打ちゃ当たる、の言葉もあるように、浅井鉄砲隊の一斉発射の前に、武田騎馬隊の鎧武者達は、火縄銃の玉が当たり、次々と落馬をしていく。

その一斉発射をした中に、5発の玉が原昌胤の身体に当たる。

その中のたった1発が、原昌胤のこめかみに命中をして、原昌胤は、落馬をする前に即死をした。

原昌胤の即死を見た、足軽達と、騎馬隊は速やかに、元の陣に逃げ帰る。

原昌胤の討ち死にの報告を聞いた武田勝頼は、原盛胤に出陣を命じる。

原盛胤は、浅井長政の陣を攻めず、その隣に陣を張る前田利家の陣に突撃をする。

「原昌胤殿の、弔い合戦だ!

馬防柵を壊し、織田信長の首を取るぞ!」

原盛胤は、騎馬隊、弓矢隊、長槍隊等を引き連れて、前田利家の陣に攻め寄せるも、鉄砲隊の一斉発射の前に、立ち往生をしてしまう。

4度目の一斉発射の時に、原盛胤も数発の玉を身体に浴びて即死をしてしまう。

武田勝頼は、一部隊ずつを突撃させる、戦法を取るも、無駄に武将の討ち死にを生ませるだけであった。

兵力の逐次投入は、最も行ってはならない、愚策の戦法だからである。

名のある武将だけで、真田信綱、昌輝兄弟、土屋昌続、土屋直規、安中景繁らである。

更には、武田四天王の1人である、内藤昌豊の討ち死には、痛手どころの騒ぎではない。

内藤昌豊は織田本陣に向けて突撃をする前に、こう言い残したと伝わっている。

「先代の御館様に従い、40数度の合戦に参加をしたが、一度も御館様より感状を頂けなかった。

せめて、あの世にて、御館様より感状を頂きたいものよ!」

内藤昌豊率いる部隊は、信長本陣を目指して突撃を行い、3段構えの馬防柵の2段目にまで侵入をして激しく暴れまわる。

そして、3段目の馬防柵に攻めかかった時に、全身を火縄銃にて撃ち抜かれて、即死をしたのである。

内藤昌豊の討ち死には、瞬く間に武田勝頼にまで報告が上がり、約7時間ほど続いた戦を止めて、信濃に撤退する事を決める。

「信濃に撤退をする!

望月信永、米倉重継、その方達に1000の兵を与えるゆえに、殿を命じる!」

武田勝頼は、そう命じると、2000あまりの馬廻り衆を引き連れて、設楽原より撤退する。

「米倉殿、どのせ討ち死にをするのであれば、最期ぐらいは華々しく散ろうぞ!」

「望月殿の、申される事は道理である!

亡くなった同胞達の無念を、少しでも晴らすべく、死を恐れずに戦おうぞ!」

望月信永と、米倉重継の両人は、その場にとどまり、織田、徳川、浅井連合軍の追撃に備えたのであるが、思わぬ所から攻撃を受けるとは思わなかったのである。

そう、武田勝頼の撤退に気が付いた、真田夕夏率いる1万の軍勢が、武田勝頼の追撃に動いていたのである。

「絶対に、勝頼を逃がすな!

ここで、勝頼を討ち果たし、武田家を滅亡に追い込むのだ!

勝頼を討ち果たした者には、特別の褒美を与えようぞ!」

真田夕夏の怒りを込めた発言に、末端の足軽達まで、特別の褒美を狙う者達が多数いたのである。

「勝頼は、どこだ!」

「特別の褒美を貰うのは、おらだ!」

狩人と言うよりは、餌を求めて大地を走る虎のようである。

それに気が付いた望月、米倉の両人は、真田夕夏の追撃を阻止する為に、真田夕夏の軍勢の前に立ちはだかるも、餌に飢えた虎の前では、無力であった。

次々と足軽達は、討ち取られていき、望月、米倉の両人が気が付いた時には、多数の足軽達に囲まれており、足軽たちが突き上げた無数の槍が、馬上にいた、望月、米倉の両人の全身を貫く。

「御館様、どうか、無事に落ち延び」

「このような者達に、討ち取られ」

それが、望月、米倉の最期の言葉であった。

そして、静かに馬から落馬をすると、それを見届けた真田政長と、南条勝成が、鎧通しを用いて、望月、米倉の両人の首を切り落とす。

その首を腰に下げ、南条勝成と、真田政長は、望月、米倉の首の無い死体に、両手を合わせていた。

「両人の無念、計り知る事は出来ぬが、せめてもの供養でござる。」

「若様、戦は終わってはおりませぬ。

武田勝頼の首を取ることで、この戦を終わらせましょうぞ!」

南条勝成の言葉に、真田政長は静かに頷く。

武田勝頼を討ち果たし、甲斐と信濃を支配下に置き、天下布武の完成を急がなくてはならないからである。

槍を持ち、馬に乗り込んだ、真田政長と、南条勝成は、家臣達を引き連れて、武田勝頼の追撃に向かったのである。

一方、信濃に撤退する武田勝頼は、2000あまりの兵を連れて撤退をしていたのであるが、殿を命じた望月、米倉の討ち死にを知るや、後ろを一度も見る事もなく、一目散に信濃に逃げていったのである。

そして、信濃の深志城に逃げ込んで、なんとか命だけは助かったのである。

数日の間、深志城にて兵の集まりを確認していたのであるが、無事に深志城まで落ち延びたのはわずか5000足らずである。

約1万の損害を出した武田勝頼は、失意の念に落ちていた。

そして、父親である武田信玄の遺言を、思い出していた。

最期の言葉であった、真田の言葉の意味を、ようやく理解したのである。

真田の首を取り、余の墓前に捧げよ、ではなく、真田に注意をしろとの、遺言である事にようやく気が付いたのである。

譜代の家臣だけではなく、武田四天王の一人である、内藤昌豊の討ち死にも、ほとんどは真田のせいである。

鳶ヶ巣山砦の急襲といい、設楽原から撤退を開始した時にも、武田勝頼を追撃して来た将は、まぎれもなく真田である。

武田勝頼は、床に手を何度も叩き付けながら、真田に対する復讐の気持ちを抱いたのである。

深志城の防備を固めた武田勝頼は、甲斐に戻る為に、道を急いでいたのであるが、途中で信濃の川中島にある、海津城城主である高坂昌信が出迎えをしているとの報告を受ける。

どうせ、敗残の将である余を笑いに来たのであろうと、武田勝頼は考えたのであるが、出迎えた高坂昌信は、武田勝頼に対して優しい慰めをする。

「勝頼様、勝敗は時の運と申します。

勝頼様が気落ちをなされたまま帰国をされては、領民達も不安を抱きましょう。

せめて、海津城にて新しい鎧に着替え、堂々と甲斐に帰国をなされて下さりませ。」

高坂昌信の心尽くしに、ようやく安堵をしたのか、そのまま海津城に入り、新しい鎧に着替えを済ませ、新しい馬に乗り換えて、堂々と甲斐の国に帰国をしたのである。



織田信長は、速やかに岐阜に戻り、畿内の守りを固めて、次の進行先を考えていた。

中国地方、四国地方、そして、北陸地方の進行である。

中国地方には、羽柴秀吉を山陽道に、明智光秀を、山陰道を派遣させる事を決断。

四国地方の、淡路島、讃岐、阿波を支配している三好家の討伐には、義弟である浅井長政を大将にして、遠征を行う事を考えていた。

そして、北陸地方は、真田夕夏に任せるつもりでいたのである。

もちろん、南蛮国の視察に向かった真田敦が帰国をすれば、真田敦を大将にするべきであると考える。

徳川家康は、武田勝頼が反撃をしてくる前に、武田信玄の時代に奪われた城を攻めていた。

二俣城や、高天神城等の、遠江支配に必要不可欠の地を奪還するべく、全力を尽くしていた。

そして、武田勝頼の追撃に失敗をした真田夕夏は、苛々しながら北近江の小谷城にいた。

越前の帰国途中に、浅井長政公より、お市と娘達に会って欲しいと願われたのである。

義弟である、浅井長政殿に頼まれては、真田夕夏も嫌とは言えず、数日の間小谷城に滞在をする事になったのである。

越前に帰国をする前日、真田夕夏と、西原詩織の2人は、小谷御寮人(お市の方)と会っていた。

「小谷御寮人も、お元気でなによりです。」

真田夕夏の一言に、小谷御寮人も返答をする。

「夕夏殿も、お元気でなによりです。

義兄上は、お元気であられますか?」

真田敦の事を聞かれた真田夕夏は、簡潔に答える。

「兄上は、まだ南蛮の地に滞在をしております。

来年には帰国をしますが、何かご用がありましたか?」

真田夕夏は、小谷御寮人に質問をする。

「ええ、実は、長政様の四女である、この娘の名前を付けて頂こうと思っていたのですが。

南蛮の地に滞在をしておりますか。」

小谷御寮人は、少し顔を下にして、生まれたばかりの赤子の顔を見る。

「恐れながら、小谷御寮人に申し上げたき事がございます。

その、名前をお付けする事を、私にさせて頂けませぬか?」

西原詩織の提案に、小谷御寮人は首を捻る。

それは、そうであろう。

義姉の真田夕夏の幼なじみであるらしいが、そこまで西原詩織の事を、信用出来るわけでもない。

やんわりと断ろうとした時に、義姉である真田夕夏も口を開く。

「小谷御寮人、その事に関して、私からもお願いを致します。

詩織は、私の兄からも、信頼を得ている人物であります。

きっと、よい名を付けてくれましょう。」

義姉である真田夕夏からも頼まれては、小谷御寮人も首を縦に振るより他はない。

「浅井綺は、どうでしょうか?」

西原詩織のは、浅井綺と紙に書いた物を、小谷御寮人に手渡す。

綺の意味は、きらびやかである、華やかであるの、意味も含まれている。

その様な女性に育って欲しいとの、願いを込めたのであろう。

「実は、綺の名前は、私の兄が、次に女の子が生まれたら、名付けたいと言っておりましてね。

まぁ、兄上には内緒で、この度、使わせて頂きましたが。」

真田夕夏は、そう言うと、微笑みを浮かべる。

どうやら、前もって2人で相談をしていたのであろう。

やはり、義姉には勝てぬと、小谷御寮人も呆れ返ってしまったのである。

「そうですか、分かりました。

この子の名前に、綺の名を使わせて頂きまする。」

小谷御寮人は、綺と名前の付いた赤子を、いつまでも見ていた。

長女茶々、次女初、三女江、四女綺の四姉妹は、後に、長女茶々を除く三姉妹は、それぞれ立派な殿方に嫁ぐのであるが、それはまだ先の話である。



越前に戻った真田夕夏達は、北ノ庄の大広間にて、長篠設楽原の戦いでの皆の働きを称え、家臣達に褒美を与えていた。

島左近には、越前の地で2000貫の領地を与え、他の家臣達にも、若狭の地で1500貫の領地を与えていた。

その中でも、最も功績の高い、南条勝成と、西原詩織の褒美に関しては、なかなか決まらなかったのである。

「先ず、最初に聞くが、勝成殿は、どの様な褒美を望む?

何でも構わぬが故に、素直に申してみよ。」

真田夕夏から、そう言われた南条勝成は、真田夕夏の前に足を運び正座をしてから床に頭を付けて、こう述べた。

「お恐れながら、夕夏様に申し上げます。

領地は、若狭の地にて、2500貫を頂いておりますが故に、新たな領地を頂く事はご遠慮申し上げます。

その代わりに、某に、嫁を頂きたく存じ上げます。」

勝成の提案に、夕夏は驚いたのである。

領地を頂きたいと申すならば、いくらでも与えられるのだが、まさか、嫁を頂きたいと申して来るとは思わなかったのである。

勝成の身分であれば、どの様な女子でも嫁に迎える事は出来るはずなのに、わざわざ褒美として頂きたいと申したのかが、夕夏には分からなかったのである。

夕夏は、扇を開いて静かに動かしながら、勝成にその真意を確かめる。

「しかし、勝成殿の身分であれば、如何様な身分の女子も嫁に迎えられるであろうに?

さては、意中の女子でもおられると申されるのか?」

「お恐れながら、夕夏様のお言葉通りにございまする。

この事だけは、夕夏様の許しがなくば、叶わぬ事にございまする。」

勝成の返答に、夕夏はどことなく理由が分かったような気がした。

兄上の娘を、嫁に迎えたいと考えたのである。

主君の娘を嫁に迎えたいのであれば、確かに簡単には行かない話である。

長女、三女は既に、他家に嫁に行く事が決まっているが故に、次女か、四女辺りが妥当かと、夕夏は考えたのである。

「それであれば、兄上の娘と話をするが故に、暫し待たれよ。

次女か、四女を嫁に欲しいのであれば、兄上が帰国をされてからである。」

夕夏の言葉に、慌てたのは勝成である。

「ゆ、夕夏様、何か勘違いをなされているのでは無いでしょうか?

某は別に、殿の息女を嫁に頂きたいとは、申しておりませぬ。

某が嫁に頂きたい女子は、鍛冶屋の梨那殿にございまする。」

勝成の言葉に、今度は夕夏が驚く番であったのだ。

てっきり、兄上の娘を嫁に頂きたいと思っていただけに、梨那を嫁に頂きたいと言われたからである。

「勝成殿、正気であるのか?

兄上の娘を嫁に頂きたいのではなく、梨那殿を嫁に頂きたいと申されるのか?」

夕夏の言葉に、勝成は首を縦に振る。

それを見た夕夏は、手を叩いて小姓を呼びつけ、梨那殿をこの場に呼ぶように申し付ける。

その小姓は、まるで空を飛ぶかのように、大広間を出ていったのである。

それから数分後、梨那殿は大広間に姿を出した。

そして、夕夏の前に正座をしてから、頭を下げ、頭を戻してから言葉を出す。

「夕夏様、何か私めに、ご用でございまするか?」

「梨那殿、突然で申し訳ないのだが、実は、梨那殿の隣に座る、南条勝成と夫婦になっては貰えぬか?

勝成殿は、梨那殿を嫁に頂きたいと、申されてな。

梨那殿の気持ちを聞きたくて、この場に来ていただいたのである。」

夕夏の言葉を聞いた梨那は、少し下に顔を落とし、少し考えた後に返答をする。

「夕夏様、そのお言葉通りに致しまする。

ふつつかな嫁にございまするが、この身を嫁に貰って頂けるのであれば、贅沢は申しませぬ。」

「勝成殿、梨那殿のお言葉を聞いたであろう。

近い内に、大安吉日を選んで、式を挙げようぞ。

梨那殿は、もう下がられよ。」

夕夏にそう言われた梨那は、大広間から姿を消した。

南条勝成は、恐悦至極でございますると述べると、元の場所に戻る。

最後は、西原詩織の褒美である。

夕夏の領地である、越前敦賀5万石の領地を頂いているので、家臣に知行地を褒美として与えるのは問題は無いのであるが、その西原詩織は、知行地よりも、人材を褒美として欲しいと言い出していたのである。

「人材か、自由に使える家臣が欲しいと申すのか?

与騎であれば、私の采配でどうにか出来るが。

正式な家臣が欲しいならば、兄上の許可を貰わなくては、出来ぬ相談である。

知行地であれば、越前敦賀の地にて、2000石を与えよう。」

真田夕夏からの褒美に、西原詩織は、とくに不満を抱かなかったのである。

1石を1両と考え、1両を現代の価値にしてみれば、年収が約4000万~6000万円に、相当するからである。

それだけの知行があれば、足軽を集める事も出来るし、もしかしたら、有能な人材が足軽の中にいるかも知れないからである。

そう、考えた西原詩織は、知行を褒美として貰うだけで、引き下がったのである。

そして、真田夕夏は、真田政長だけを残して、会議を解散したのである。

皆がいなくなり、一時の静けさの中で、真田夕夏は、真田政長に声をかける。

「政長殿に、頼みたい事があります。

私の代理として、従三位権中納言四条久継様に、付け届けをして来て頂きたい。

本来であれば、私が行くのであるが、この身では、無理が出来ぬゆえに。

何卒、引き受けては、貰えぬだろうか?」

真田夕夏は、お腹に手を当てながら、真田政長に頭を下げて頼んでいた。

真田夕夏は、次の子供をお腹の中に、宿しているのである。

本来であれば、設楽原の戦いにも、不参加をする予定であったのだが、恨みのある武田勝頼が相手であれば、そうも言えなかった。

ちょうど、3ヶ月になろうかとする時であったので、無理をしない程度に、設楽原の戦いに参戦をしたのである。

お腹に宿した子を、無事に出産するまでは、しばらくの間、真田夕夏は無理をする事は厳禁である。

その為に、甥である真田政長殿に、付け届けをお願いしたのである。

そんな叔母を見た真田政長は、お腹をさする真田夕夏に、ゆっくりと返答をする。

「叔母上、某にお任せ下され!

従五位下真田加賀守の代理として、役目を果たして参ります。」

真田政長は、叔母上に頭を下げて、大広間を出ていき、上洛の準備を整えてから、京の都に向けて出発をしたのである。



さて、真田政長が京の都に向けて出発をした頃、岐阜の織田信長の元に、四国の長宗我部元親からの使者と、奥州探題に任命されている伊達輝宗からの使者が来ていた。

長宗我部元親からの使者は、織田信長公の功績を称えつつ、四国の切り取り自由を希望するも、讃岐、阿波、淡路の三ヵ国を得るつもりである織田信長にしてみれば、邪魔な話である。

長宗我部元親からの使者に対して、土佐、伊予の切り取り自由の許可を与えるだけにしたのである。

その返答を貰った使者は、伊予の切り取り自由を認めて貰っただけで、今回は引き下がる考えを抱き、伊予を切り取った後に、讃岐、阿波の切り取り自由を望む事で、土佐に戻って行ったのである。

(この時、長宗我部元親は、土佐一国を統一しており、隣国である、阿波、伊予に対して、侵攻を既に開始している。)

翌日、伊達輝宗からの使者はと言うと、織田信長公と、友好関係を結びたいとの申し出に、織田信長の態度はと言うと、終始機嫌が良かったのである。

なぜ、織田信長が終始機嫌が良かったと言えば、前々から真田敦より、奥州地方の大名と友好関係を築くべきだと、提言をされていたからである。

奥州地方が1つの大名の元に統一をされるのであれば、その後の交渉がやり易いからである。

伊達輝宗からの使者に対して、多大な贈り物をする事で、織田家の底力を見せ付ける事も、織田信長にしてみれば抜かりがない。

多大な贈り物を受け取った使者は、笑顔で奥州地方に戻っていき、約半年に一度、織田信長の元に使者を送る事をしたのである。

元々、織田信長の興味は西国にあり、東国に関しては、あまり興味を示していないのである。

天下布武が完成をした時には、柴田勝家を筆頭とする重臣達を、九州地方に配置をし、来るべき南蛮遠征の準備をさせるつもりでいたのである。

畿内、中国、甲信、東海地方の一部を、織田家の直轄地にして、阿波、讃岐、淡路の半国を浅井長政に任せ、北陸地方は、真田夕夏に、そして関東は、真田敦に任せる構想を持っているのである。

残る、奥州地方は、織田家の一族か、婚姻関係のある大名に任せる考えを持っていた。

奥州地方の一大名である伊達輝宗は、いち早く織田信長公と友好関係を持つことで、奥州地方の覇権を握ろうとしていたのである。

その為には、織田信長公と友好関係を持つだけではなく、決定的な後ろ楯になったとの、証が必要である。

そう、織田信長公の娘を、伊達輝宗の嫡男である、伊達藤次郎の正室として、迎え入れるのである。

そうなれば、伊達家を攻める者は、中央の権力者である、織田信長を敵に回す事に、即座に繋がるからである。

石山本願寺との、講和を望んでいる織田信長は、朝廷に勅命による石山本願寺との講和を依頼。

勅命による講和を依頼された朝廷は、数日の会議を経て、織田信長公と、石山本願寺との、勅命による講和を実現するべく、双方に勅使を派遣し、お互いが条件なしの講和を成立させる。

これにより、来年3月に予定をしている、三好攻めの準備に取り掛かった織田信長は、浅井長政にも、三好攻めの準備をするように命じる。

更に、越前の真田夕夏には、加賀侵攻の準備を命じてもいた。

これは、石山本願寺が、講和を破棄して、再び敵対をする事を、前以て予想しているからである。



9月20日、京の都に着いた真田政長は、従三位権中納言四条久継の所に、訪れていた。

朝廷に対する献金と、今後の朝廷工作の、下地作りの為である。

半刻あまりの、短い会話であったが、どことなく良い感触を得たと、真田政長は思ったのである。

それだけではなく、四条久継の娘である、四条舞との出会いは、真田政長の今後の人生に、大きな影響を与える事を、真田政長自身も、四条舞自身も、まだ知らなかったのである。

一方で、10月1日、嫡男である織田信忠に2万の軍勢を率いさせて、東美濃の要である、岩村城を攻めさせる。

織田信忠は、堅固な岩村城を力攻めをする事をせず、兵糧攻めの方法を取るのである。

設楽原の戦いで惨敗をした、甲斐の武田勝頼には、東美濃の岩村城にまで援軍を出す余裕が無い事を見通した、織田信忠の考え方である。

天正3年(1575年)11月4日、織田信長は、従三位権大納言に任命をされ、11月7日には、右近衛大将を兼任する。

(征夷大将軍に匹敵する官職であり、武家には、武門の頭領のみに許される)

同日、嫡男である織田信忠は、秋田城介に任命をされる。

(鎮守府将軍に、なるための前官)

そして、真田敦を、従四位・左近衛中将に、真田夕夏を、正五位上・左近衛少将に、任命をされる。

将軍足利義昭は、右近衛中将である為に、内裏の近衛府の中では、織田信長と、真田敦の2人が、足利義昭の上司になったのである。

11月21日、東美濃の要である、岩村城が落城をする。

城主である秋山信友夫妻(秋山信友の後妻は、織田信長の叔母になる)は、織田方と結んだ助命嘆願を約束を信用して、家臣達を引き連れて岩村城を出るが、最初から助命嘆願の約束を反故にするつもりの、織田信忠の命により、秋山信友の家臣達を、騙し討ち同然に殺害。

秋山信友夫妻に関しては、長良川にて逆さ磔により処刑。

信友の後妻である、おつやの方は、絶命をする時まで、約束を反古にした信長や信忠達を罵り、呪いの言葉を吐いて絶命をしたと言われている。

11月28日、岩村城を落城させた織田信忠は、美濃岐阜城にて、父である織田信長から、織田家の家督を譲られる。

ならびに、尾張美濃などの領国を与えられる。

しかし、依然として、織田信長は、織田政権の政治面、軍事面での総括の立場にいた。

天正4年(1576年)1月、織田信長は、岐阜城に代わる新しい城を築城する為に、信長自らの指揮のもと、近江の琵琶湖の湖畔に、安土城の築城を開始する。

信長はここを拠点にして、天下取りの夢を実現させるべく、邁進をしていくのである。

天正4年(1576年)1月20日、信長と好を通じていた丹波の波多野秀治が、突然謀反を起こす。

その報告を聞いた織田信長は、明智光秀を大将に、1万5000の兵を与えて、波多野秀治討伐に向かわせる。

波多野秀治が立て籠る八上城は、地形の関係もあり、力攻めによる攻略は事実上不可能である為に、明智光秀は、兵糧攻めによる八上城攻略に切り替えたのである。

同じ頃、播磨にいた羽柴秀吉は、新しく与力として与えられた、黒田官兵衛と会っていた。

黒田官兵衛は、元は、小寺勘兵衛と名乗っていたのであるが、主君である小寺政職を説得して、織田信長に降伏を勧め、その使者として、岐阜の織田信長と面会をしていた。

そして、山陽道方面大将の羽柴秀吉の与力として播磨に戻った時に、小寺官兵衛から、黒田官兵衛と改名をしている。

羽柴秀吉と、初めて会った時に、黒田官兵衛は、ある事を口にする。

「播磨の土地勘に関しましては、誰にも負けぬと自負をしております。

羽柴様が、どこの土地を望もうと、数日の内に手に入れて見ましょうぞ。」

そう、言葉を吐いた黒田官兵衛であるが、その言葉通りに、播磨のどこの土地であろうと、数日の内に攻め落としていたのでいる。

官兵衛の智謀に、羽柴秀吉はすっかり参ってしまい、竹中半兵衛と共に、羽柴の両兵衛として、その智謀を使い、中国地方の制圧に乗り出して行くのである。



天正4年(1576年)4月3日、今度は、摂津の石山本願寺が先年に結んだ講和を破り、再び挙兵をする。

それを知った織田信長は、明智光秀、荒木村重、塙直政らを大将にして、3万の兵を率いさせて、石山本願寺を包囲するように砦の構築をさせる。

だが、石山本願寺の攻勢の前に、塙直政が伏兵により落命をし、明智光秀は天王寺砦に立て籠り抵抗をするも、石山本願寺の軍勢は天王寺砦を包囲する。

明智光秀率いる織田軍は、天王寺砦にて窮地に追い込まれるも、なんとか織田信長の元に、援軍要請の使者を出す事に成功をする。

5月5日、若江城に入った織田信長は、兵を集めるべく、動員令を命じるも、あまりにも急な事の為に、わずか3000人あまりしか集らなかったのであるが、翌日の5月6日に、北近江の浅井長政が、約4000人、越前の真田夕夏が、約6000人を引き連れて若江城に到着する。

浅井長政、真田夕夏の援軍を得た織田信長は、5月7日の早朝、中央に信長本隊、右側に浅井長政の軍勢、左側に真田夕夏の軍勢を置き、天王寺砦を包囲する、石山本願寺の軍勢、1万5000に攻めかかる。

織田信長は、自ら軍勢の先頭に立ち、出陣をした事により、天を突き破らんほどの勢いで、信長本隊の足軽達の戦意が高揚をし、信長本隊の足軽達は、石山本願寺の僧兵に立ち向かって行くのであるが、乱戦とも言える戦いの最中に、信長自身も銃撃をされて、右足に負傷をするほどの激戦となったが、信長本隊の右側に陣を敷く浅井長政の軍勢は、石山本願寺の僧兵達と、五分と五分の戦いを強いられていた。

その状況を見た真田夕夏は、最初に南条勝成に、上様救援に向かうように命じる。

「勝成、勇祐、そなた達に、兵を2000人ほど与えるがゆえに、上様の救援に向かえ!」

その命令を受けた南条勝成、津田勇祐の2人は、2000人の足軽を率いて、上様救援に向かう。

そして、自ら先頭に立ち、愛用の槍を振り回し、次から次にと、僧兵達を刺し殺していく。

「講和を平気で破る犬畜生共めが!

貴様らの逝く場所は、仏のいる極楽ではなく、地獄で閻魔様の裁きを受けよ!」

その近くで、副将である津田勇祐も、槍を振り回し、僧兵を突き殺していた。

「上様に逆らう者は、天に唾を吐くようなものであるわ!

地獄の閻魔様に代わり、私が貴様らの悪行を、裁いてやるわ!」

南条勝成、津田勇祐の武勇により、上様の軍勢に攻め寄せていた僧兵達は、ずるずると後ろに後退を始めた。

2人の活躍を見た真田夕夏は、残りの4000人あまりを率いて、天王寺砦に向かって進軍を開始した。

「天王寺砦で、窮地に追い込まれている、明智光秀殿を救援するのです!

坊主共の悪行を、決して許してはなりません!

命を惜しむな、名を惜しめ!

真田親衛兵、全軍突撃せよ!」

真田夕夏が将旗号令を掛けると、真田夕夏が数年かけて育て上げた精鋭部隊が、石山本願寺の僧兵達に向かって突撃をする。

その頃、天王寺砦に立て籠る明智光秀は、上様率いる援軍と、天王寺砦を包囲している石山本願寺の僧兵達との戦いを見て、2500の兵を率いて天王寺砦より出陣。

そして、真田親衛隊と連携・合流に成功をする。

前に織田信長率いる軍勢、後に天王寺砦より出陣した明智光秀の軍勢と、両方から挟まれた本願寺の軍勢は、戦線を維持出来ずに撤退を開始するも、真田夕夏が率いる、真田親衛隊に追撃をされ、約500人余りの損害を出す事になる。

この時、出陣をしていた松永久秀の背後にて監視をしていたのは、真田夕夏である。

元々、松永久秀を信用していない夕夏は、約2000の親衛隊を引き連れ、近すぎず離れ過ぎずの微妙な距離を取りながら、天王寺砦の門前まで到着をする。

石山本願寺の軍勢を追い払った信長は、天王寺砦に入る。

羽柴秀吉や他の重臣達、松永久秀等も天王寺砦に入る。

天王寺砦の守りを固めながらも、真田夕夏は、松永久秀の動きを監視。

南条勝成を始めとする真田家の豪傑達が、昼夜問わず久秀の回りを歩き回る為に、久秀の方が先に根負けをする。

あわよくば、信長の暗殺を考えていた久秀は、真田夕夏の必要以上の監視の前に、暗殺計画を断念。

次に訪れる機会まで、雌伏の時を待つ事になる。

そして、天王寺砦から、再び出陣をした信長は、本願寺の軍勢を叩けるだけか叩き、約5000の首を取る大勝利に終わる。

一方、多大な損害を出した本願寺は、石山本願寺に籠城をして、時を稼ぐ戦法を取る。

籠城策を取られた信長は、石山本願寺攻めの総大将を佐久間信盛に任せ、石山本願寺を、陸海からの包囲を形成し、兵糧攻めを執り行う。

海の包囲を担当するのは、志摩の九鬼義隆であり、約300の戦船と、6隻の安宅船を率いて、大阪湾を封鎖する。

石山本願寺の包囲が完成すると、織田信長は岐阜に、浅井長政は北近江に、真田夕夏は越前に引き上げた。

6月15日、真田夕夏は、春に生まれた長女である、千尋を抱いていた。

母親である夕夏の才能と、父親である信澄の美形を受け継ぎ、美しい女性に育ち、真田家の才女として、その名を全国に知らしめるのであるが、この時はまだ、可愛いだけの赤子であった。



7月8日、堺の港に、南蛮船らしき船が、6隻到着した。

その船団の大将らしき人物を見てみると、南蛮の帽子、黒のマント、左目に銀製の眼帯、右手には、ガチョウの羽で作った白羽扇を持ち、怪しい人物と間違えそうな姿である。

その後ろに、副官らしき人物が立っており、船団の大将声をかける。

「3年ぶりの、日の本ですね。

山に川、そして、空などが、懐かしく感じられますが、大将はどう思われますか?」

副官がそう質問をすると、船団の大将は簡潔に答える。

「3年前、日の本を旅立ってから、我々は幾多の困難を乗り越えて南蛮国に向かい、そして無事に帰って来たのだ。

天の加護などではなく、我々の団結力の賜物であると言いたい。

そう、思わぬか?

真田水軍大将の、大内勝雄よ。」

そう、言葉を掛けられた大内勝雄は、色々と考えながら言葉を選ぶ。

「台風、凪、海賊など色々と学ぶ事もありました。

日の本だけに拘っていたら、狭い視野しか持てなかったでしょうな。

南蛮国を始め、まだまだ我々の見知らぬ土地も、数多くございましょう。

はやく、日の本を統一して、南蛮遠征に乗り出しましょうぞ!

しかし、そのお姿は、何度見ても、やはり似合いまするな。

越前に残してきた夕夏様が見たら、どのような反応をなされるのか?

私には、想像も付きませぬ。

しかし、どのようなお姿をされようとも、お殿様はそのままでしょうな。」

勝雄は、扇子で口許を隠しながら、真田敦に返答をする。

そう、先程の怪しい人物の姿をしていたのは、越前真田家当主、真田敦本人である。

「衣類や身に付ける物を変えようとも、余は変わらぬ。

しかし、嫌な雲行きとは思わぬか?

先程まで晴天であったのに、数日の内に、まるで嵐が来るかのような気がするのだが?」

真田敦は、甲板の上から望遠鏡を覗きながら、素直な自分の考えを口にする。

大内勝雄も、どことなく、嫌な雲行きを案じていた。

2人の嫌な予感は、数日後に的中する。

瀬戸内の制海権を握っている村上、因島、来島水軍の大軍が、大坂の石山本願寺救援の為に、約800隻の大艦隊を引き連れていたのである。

なぜ、村上、因島、来島水軍が石山本願寺救援に乗り出したかと言えば、本願寺顕如から、中国地方の覇者である毛利家に、兵糧と弾薬の救援要請を行ったからである。

更には、備後鞆の浦に逃亡をしていた、将軍足利義昭からも、毛利輝元に何度も意見を述べていたからである。

毛利家当主である、毛利輝元は、2人の叔父である、吉川元春と、小早川隆景に相談をし、村上、因島、来島水軍に石山本願寺救援を依頼したのである。

7月13日、大坂湾を封鎖している九鬼水軍約300隻に対して、村上、因島、来島水軍約800隻が、襲い掛かったのである。

村上、因島、来島水軍は、焙烙玉や焙烙火矢を使い、九鬼水軍の戦船をどんどん燃やしていく。

九鬼義隆にしてみれば、今まで見た事もない武器に対して、有効な対策を打てずにいた。

更に、九鬼水軍の約半数の戦船が燃やされると、大坂湾の封鎖どころではなくなる。

九鬼義隆は、残存している戦船を撤退させるべく指示を出そうとしたのであるが、思わぬ救援がやって来たのである。

そう、堺沖に停泊をしていた、真田水軍6隻が、大坂湾に姿を出したのである。

「あれは、真田六文銭の旗印?

まさか、若狭の真田水軍の救援が来たのか?」

九鬼義隆は、目を擦りながら、どんどん近寄ってくる真田水軍の旗印を見ていた。

「ふん、やはり村上水軍の大軍が来たか。

一方的に九鬼水軍を叩いているみたいだが、少し懲らしめてやらねばの。

勝雄、この海戦の総指揮を任せる!

思う存分、我々の恐ろしさを教えてやれ!」

真田敦は、そう、大内勝雄に伝えると、大内勝雄もその期待に答えるべく、6隻の戦船を縦に並べていく。

そして、焙烙大砲80門と、南蛮国で極秘に入手したカルバリン砲60門を、村上、因島、来島水軍に対して、6隻の戦船から一斉に発射する。

一方、九鬼水軍を一方的に叩いていた村上水軍の総大将である村上元吉は、機嫌が良かった。

父親である、村上武吉より、石山本願寺救援部隊の総大将にされた事、更には、九鬼水軍を一方的に叩いていたからである。

「手持ちの焙烙を全て使い、九鬼水軍を壊滅に追い込んでやれ!」

そう、村上元吉が命じた時に、思わぬ出来事が起きたのである。

九鬼水軍の近くに、安宅船よりも、遥かに大きい戦船が6隻も姿を出したからである。

最初は、南蛮船が紛れ込んだかと思ったのであるが、その南蛮船から、攻撃を受けたのである。

驚く事に、南蛮船から、焙烙玉や焙烙火矢だけではなく、球体の形をした、鉄の塊が飛んで来たのである。

飛距離も、こちらの2倍はあるのであろう。

回りの戦船から、次々と火の手が上がり、炎上をし始める戦船だけではなく、球体の鉄の塊が命中した戦船も、どんどん海の藻屑になっていくのである。

「ええい!

一部の戦船を淡路島の南側に回し、そちらから石山本願寺に兵糧と弾薬を運び込め!」

村上元吉は、関船に指令を伝えるために、機動力の早い、小早を何隻も送り出して、一部の関船を淡路島の南側に向けて、進路を変更させる。

だが、その間にも、関船を200隻あまり、安宅船も2隻を失う事になる。

こちらの攻撃が届かず、向こうの攻撃が届く状態では、まったく勝ち目の無い戦に変わろうとしていた。

村上元吉は、怒りを込めた目で、南蛮船らしき船の旗印を見ると、真田六文銭と、信じられない旗印を見る事になる。

約20年前に、毛利元就によって滅ぼされたはずの、大内家の旗印が見えたからである。

「大内家?

そんな筈はない!

それとも、大内家の生き残りがいたと言うのか?」

その言葉を、聞いている人物が、村上元吉に話しかける。

「元吉殿、この戦は敗けであろう。

これ以上、損害を出す前に、引き上げるのが得策ではなかろうか?

真田六文銭の旗印、大内家の旗印、恐らくは真田敦と、大内勝雄の2人が指揮を取っているのであろう。

数で勝ろうと、こちらの攻撃が届かぬのであれば、仕切り直しをするのが妥当ではなのかな?」

軍目付である、清水義勝が、村上元吉に進言をするも、頭に血が上っている村上元吉は、その言葉を聞き入れない。

「そなたは、軍目付であろうが!

この水軍の総大将は、この私である!

そなたは、余計な事を口にするな!」

村上元吉は、清水義勝に対して、後方に下がるように命じる。

安宅船から関船に乗り換えた清水義勝は、この戦の行く末を見守っていた。

(織田家随一の軍略家である、真田敦。

それを相手にしていたら、勝っていた戦も、たちまちひっくり返され、負け戦になるのか。

あの化け物に勝つ為には、小早川の叔父上の知略しかないであろう。

しかし、それでも、どこまで対抗出来るのやら。

真田敦の後ろにいる、真田夕夏も、恐ろしい存在であるし。

あの兄妹に勝てぬ限り、毛利家の未来は無いやも知れぬな。)

清水義勝は、そんな事を考えながら、海戦を冷静に見ていた。

「村上水軍は、まだ戦うつもりなのか?

損害を大きくする前に、撤退するのが上法であろうに、敵の大将は、戦のいろはも、知らぬのか?

まぁ、こちらに、抵抗するのであれば、すべてを海の藻屑にしてやるわ!」

大内勝雄は、更に攻撃の手を緩めず、あるだけの焙烙玉や、焙烙火矢、カルバリン砲を活動させ、次々と安宅船、関船などを、海の藻屑にしていく。

開戦から、約2刻(4時間)が過ぎた頃、村上元吉は、あまりの損害の大きさに絶望をして、全船に撤退命令を下した。

九鬼水軍約300隻の内、安宅船3隻、関船約250隻が沈没をした損害に対して、村上、因島、来島水軍の損害は、安宅船6隻、関船650隻と、壊滅的な損害を出したのである。

村上元吉は、安宅船1隻、関船100隻あまりを率いて、本拠地に逃げて行ったのである。

しかし、淡路島の南側から回り込んだ50隻の関船は、石山本願寺に兵糧と弾薬の搬入に成功をし、無事に本隊と合流をして撤退をしていた。

九鬼水軍の壊滅的状況を見た真田敦は、本格的に鉄甲船の建造に乗り出すのである。

そして、堺にて補給を済ませると、四国の南側を迂回、九州南端にある種子島を経由して、進路を北上させて、肥前長崎の地にて、再び補給を済ませると、日本海を経由して若狭に戻って行ったのである。



7月18日、越後の上杉謙信が、越中に侵攻を開始。

約3か月の月日を費やして、越中の支配に成功をする。

上杉謙信は、石山本願寺と、和睦を成立させて、織田信長打倒の宣言をしたのである。

一方、越前の真田夕夏も、上杉謙信の越中侵攻を聞き付けて、7月25日に加賀に侵攻を開始。

約2か月あまりの月日を費やして、加賀の制圧に成功をする。

越後の上杉謙信、越前の真田敦、真田夕夏との戦は、避けられない状態になろうとしていたのである。

上杉謙信を盟主に、石山本願寺、毛利輝元、波多野秀治が、反信長同盟を結成。

11月20日、真田敦は、岐阜に向かい、上様になった織田信長と久しぶりに対面をする。

南蛮国で学んだ事の報告や、色々な書物等を献上をする。

そして、自分が、従四位・左近衛中将に任命をされていた事に驚くのである。

翌日、11月21日、織田信長は、正三位・内大臣に任命をされる。

越前に戻った真田敦は、三女である涼を、書斎に呼んでいた。

書斎に呼ばれた涼は、静かに書斎に入ると、父親である真田敦と、見知らぬ女性が座っていた。

真田敦の左の席に座っているのは、真知と申す踊り子である。

堺にて、歌舞伎踊りを披露している時に、真田敦に見初められて、2000貫の知行を持って、召し抱えられたのである。

「そう言えば、涼は、踊りを学びたいと言っていたな。

余の隣に座る女性は、踊りの名人であるがゆえに、高禄で召し抱えた。

この者の名は、真知と申す。

さっそく、今日より、踊りを学ぶがよい。」

父親である真田敦からそう言われた、真田涼は、踊りの師匠である真知に頭を下げる。

それを見た、真知は、弟子である真田涼に、言葉をかける。

「今日より私が、涼様の踊りの師匠になります。

厳しく教えますので、決して弱音を吐かないように。」

その言葉を聞いた真田涼は、笑みを浮かべて返答をする。

「師匠の教えを、全て学ばせて頂きます。

弱音を吐いたら、父親から笑われてしまいますので、吐いたりは致しませぬ!」

そんな2人のやり取りを、真田敦は静かに見ていた。

そして、天正5年(1577年)を迎え、織田信長、真田敦の前に、新たな試練が訪れようとしていた。


第6章も、これにて終了です。


さて、次の第7章は、本能寺の変までを、書く予定です。


史実通りなら、織田信長信忠親子、森乱丸が、明智光秀の謀反により、京都にて散る事になりますが、平成の世からタイムスリップをして来た、真田敦、真田夕夏、西原詩織の3人の存在が、今後の歴史の流れにどう影響を及ぼすのか?

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