長篠城攻防戦から、設楽原の戦いに向かう
足利義昭を京都より追放をした織田信長は、真田夕夏の手勢も合流させて、約8万の兵を引き連れて京の都に上洛した。
今回の上洛の目的は、元亀から天正に改元をする事である。
改元をすると言う事は、事実上の天下人であると朝廷より認めて貰う事である。
その改元の為に、半ば恫喝の意味も込めて8万と言う大軍を京の都に滞在させたのである。
かねてより親交のあった、正二位権大納言山科言継に改元の工作を依頼する。
天文2年(1533年)尾張の織田信秀の元を訪れて、織田信秀や家臣達に、和歌や蹴鞠等の伝授を行い、人脈を作ることに成功。
後に、天皇の即位の儀式に必要な費用の捻出の為に、再び尾張の織田信秀と再会をし、朝廷に対する献金を織田信秀より出させる事にも成功をする。
恐らくは、その時に、若き頃の織田信長と出会ったものと思われる。
その経緯もあり、織田信長にしてみれば、正二位権大納言山科言継を説き伏せる事が出来れば、速やかな改元が出来ると見たのである。
さて、織田信長に従い京の都に上洛した真田夕夏は、改元をする為の工作が成功するまでの間、曲直瀬道三の元を訪ねていた。
兄である真田敦より、ある程度の事情は聞いていたのであるが、曲直瀬道三本人に会うのは、今回が初めてである。
真田夕夏は、曲直瀬道三の邸を訪れ、声を出した。
「こちらは、曲直瀬道三殿の邸であろうか?
何方か、いらっしゃらぬか?」
その声に反応したのは、やはり莉沙である。
「先生は御在宅でございますが、どちら様であられますか?」
莉沙の言葉に、真田夕夏は顎に指を軽く当てる。
この小娘の年齢や年格好から判断をすると、兄から聞いていた莉沙とか言う、小娘であろうと、思ったのである。
「私は、越前に住んでいる真田夕夏と申します。
ご高名な曲直瀬道三殿に、御伝えしなくてはならぬ事がありますので、本日参った次第にございます。
曲直瀬道三殿に、取り次ぎを、お願い出来ませぬか?
それと、この書状もお渡し下さいませ。」
夕夏の柔らかい物言いに、莉沙は素直に頷き、書状を受け取ってから、邸の奥に消えていった。
そして、薬の調合を終えて、その薬の整理をしていた曲直瀬道三殿の元に、莉沙が姿を出した。
「先生、越前の真田様がお見えになられました。
あっ、女性の真田様です。
それと、この書状をお渡しするように、頼まれました。」
「越前の真田様?
真田敦殿ではなく、女性の真田様?」
曲直瀬道三は、一度首を捻るも、とりあえず莉沙から手渡された書状を開き、その書状に目を通す。
その書状を読み終えた曲直瀬道三は、莉沙にこう伝える。
「ふむ、今は患者もおらぬから、奥の部屋の方にお通ししなさい。」
曲直瀬道三は、そう莉沙に伝えると、書状をしまい、残りの薬の整理を始めたのである。
「先生が、お会いになられるそうです。
こちらに、ご案内致します。」
莉沙は、真田夕夏の元に姿を見せて、真田夕夏を奥の部屋に案内をする。
真田夕夏は、莉沙の後ろを歩きながら、奥の部屋にまで案内をされる。
「こちらで、少々お待ちくださいませ。
先生は、間もなく参られます。」
莉沙は真田夕夏に頭を下げて、その場からそっと去る。
それから少しして、部屋の襖が開く。
この邸の主人である、曲直瀬道三殿が姿を出し、真田夕夏の前に座る。
「御初にお目にかかります。
私は、織田信長様より、越前の支配を任されている、真田敦の妹の真田夕夏と申します。」
真田夕夏は、曲直瀬道三殿に頭を下げて挨拶をする。
その言葉を聞き、曲直瀬道三は、なるほどと納得をする。
「さようでございまするか。
あの、真田殿の妹君でありますか
先程頂いた書状には、夕夏殿の事が書かれておりましたからな。
して、本日の御用件はどの様な物ですかな?」
曲直瀬道三は、真田夕夏の目を真っ直ぐに見て、言葉を繋いでゆく。
「実は、私の口からは、少々申し上げ憎い事なのですが。
曲直瀬殿の養女である莉沙殿を、私の養女として引き取りたいのですが。
いかがでしょうか?」
真田夕夏からの突然の申し出に、曲直瀬道三の、慌てぶりは尋常ではなかった。
それはそうであろう。
いきなりやって来て、莉沙を養女として引き取りたいと言ってきたからである。
どうするべきか。
このまま莉沙を育てるも良いのだが、自分の生活などを考えれば、大名の妹である夕夏殿にお預けするのも悪くはないと、心のどこかでは思い始めてもいた。
しかし、こればかりは本人が決める事であろうと考え直した曲直瀬道三は、手を叩いて莉沙を部屋に呼び出した。
その音を聞いた莉沙は、すっと部屋に入ると、曲直瀬道三に用件を聞く。
「曲直瀬様、どの様なご用でございますか?」
「実は、こちらにいる夕夏殿が、莉沙を養女に欲しいと申されてな。
こればかりは、私の独断で決める事ではないからな。」
突然の申し出に、莉沙は動揺を隠せないでいた。
それはそうであろう。
先程、初めて会ったばかりの女性から、養女縁組みを申し出られたのである。
しばしの沈黙の後に、莉沙は口を開く。
「真田様は、なぜ私を養女として、欲しいと申されますか?
見ず知らずの私など、とるに足らぬ存在と思われますが。」
莉沙の、素直な気持ちであろう。
夕夏は、笑みを浮かべて返答をする。
「莉沙殿の事は、兄上より聞いております。
それ以来、ずっと考えておりました。
莉沙殿は、天下を守護する、麒麟のような逸材なのではなかろうか?
いや、まだ幼いが故に、麒麟の子供なのやも知れぬが。
私と共に、天下を相手にその才を使ってみて頂けないだろうか?」
真田夕夏の真剣な言葉に、どことなく莉沙の心が揺れ始めていた。
両親を山賊に殺されて以来、心を閉ざしてきた莉沙にとって、真田夕夏の言葉は、自分の存在価値を認めてくれたのではないのか?
自分の存在価値を認めてくれた真田夕夏に対して、私は何が出来るのか?
そこまで考えた莉沙は、ある決意をする。
そして、真田夕夏に言葉を出す。
「まだ幼い私ごときに、勿体ないお言葉を頂き、真にありがとうございます。
この私が、どこまでお役に立つかは分かりませぬが、夕夏様の養女になる事を、決断致しました。
これから、よろしくお願いいたします。」
莉沙は、夕夏に対して、深々と頭を下げて挨拶をする。
「そう言って頂き、こちらも安堵致しました。
曲直瀬殿、莉沙を私の養女とする事を、お許し頂けますか?」
夕夏の言葉に、曲直瀬道三は、頭を縦に振る。
「夕夏様であれば、莉沙を立派に育てられるでしょう。
莉沙の事を、よろしくお願いいたします。」
曲直瀬道三が頭を下げると、真田夕夏も頭を下げていた。
元亀4年(1573年)7月25日、莉沙は真田夕夏の養女となり、真田莉沙と名乗る事になる。
この事が、ある意味歴史の流れに影響するかと言えば、それほど影響は無かったであろう。
ただし、別の意味では、影響はあったと言えよう。
元亀4年(1573年)朝廷は、1年前より議論をしていた改元に決断を下し、同年7月28日、元亀より天正に改元を実施したのである。
あくまでも、この改元は、朝廷の主導であり、形式的には、織田信長は朝廷の型式を重視した結果である。
天正に年号が代わったのと同時に、天正元年(1573年)8月4日、織田信長の官職は、弾正忠から、参議になり、官位は正四位下より、従三位に上がっている。
この時、蘭奢待の切り取りを、正新町天皇に奏請をしようとしたが、真田夕夏からの諫言により取り止めている。
「公卿になりましたが、足利義昭が右近衛中将の位にある以上、左近衛大将か、右近衛大将に任じられた時に、蘭奢待の切り取りを奏請されてはいかがでしょうか」
と、言われたからである。
足利義昭の位を越え、更に、蘭奢待の切り取りを許可されれば、事実上の天下人として、朝廷に認められた事になるからである。
天下人に認められてから、蘭奢待の切り取りを行えば、足利義昭は無用な存在として、世間に知らしめる事になるからである。
公卿になった織田信長は、朝廷に対して、多額の献金をする事で、朝廷に対する礼として返答をしたのである。
天正元年(1573年)8月6日、京の都より伊勢長島に向けて、織田信長は6万の兵を引き連れて進軍を開始した。
前回の伊勢長島攻めでの失敗の原因を考えて、今回は兵糧攻めを取ることにしたのだ。
まず、長島城以外の城を一向衆から取り返し、捕虜を含む一般人(老若男女)を、長島城に追いやるのである。
織田信長の嫡男であり、今回が初陣になる、織田信忠の補佐役に真田夕夏を付ける。
戦のいろはも知らぬ信忠の為に、歴戦の将とまでは言わぬが、戦の経験が豊富な真田夕夏の戦い方を学べれば、今後の良い糧になるのではないかと、信長が考えたのである。
それだけではなく、志摩を支配している九鬼嘉隆に命じて、大安宅船を5隻、関船200隻などの水軍を率いさせて、伊勢長島城を完璧に包囲する予定である。
伊勢長島城は、木曽三川に囲まれたデルタ地帯にある為に、兵糧攻めをするには、水運を完璧に封鎖する必要があったのである。
その信忠は、陸からは東の市江口から攻めていた。
そして、信忠は義叔母である、真田夕夏を側に置き、戦況を見ていた。
「義叔母上、総大将たる者は、どうあるべきなのですか?」
市江口方面の総大将でもある織田信忠は、真田夕夏に質問をする。
その質問に、なぜか笑みを浮かべながら、夕夏は返答をする。
「その質問の返答前に、総大将の立場を教えなくてはなりませぬ。
総大将とは、自らは先に行かず、後方にて構えていればよいのです。
自らの武勇を示す為に、真っ先に先陣を切るような輩は、猪武者のする事です。
時には必要かも知れませぬが、余程の事がなければ、避けるべき行動です。
戦は生き物であるが故に、その都度の状況に応じて、新たな指示を出す事が、総大将の役目。
今は分からなくとも、戦の経験を積めば、自然と覚える物です。
さて、先程の質問の返答ですが、敵が攻めては退き、敵が退いたらこちらは攻めるを繰り返せば、敵は進退に困りましょう。
前線からの新たな報告が来なければ、このままでもよろしいかと。」
夕夏の教えは、総大将の立場を分からせる物である。
猪武者と皮肉っている人物は、信忠から見れば義叔父に当たる、真田敦の事ではないのか。
目先の事にとらわれず、広く視野を持つ事の大切さを、教えようとしているのではないのか?
信忠は、夕夏の教えを頭の中で、何度も考えていたのである。
伊勢長島攻めも1ヶ月が過ぎた頃、長島城以外の城は降伏勧告の受け入れや、降伏勧告を拒否した城を攻め落とした。
織田信長は、一向衆の坊主や信者達の身柄を、伊勢長島城に追いやったのである。
先にも述べたが、伊勢長島城は、デルタ地帯に築城されており、水運を封鎖してしまえば、兵糧攻めが一番効果的な方法である。
しかも、規模の小さい長島城に、約2万人の人間が入れば、兵糧の減り方は尋常ではない。
その内に、ただでさえ少ない兵糧の奪い合いが始まり、多数の死者と餓死者が出始めたのである。
伊勢長島城の兵糧攻めが開始されてから約4か月後、信長の兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者達は、降伏を申し出て、長島城から船を使い、大坂方面に逃げ出す準備に取りかかったのである。
だが、織田信長はこれを許さず、船を使い大坂方面に逃げようとした一向衆門徒達を多数射殺や、切り捨てる等をして多数殺害、残っていた屋長島、中江の2城を幾田も柵で取り囲み、火攻めにして場内にいた約2万人の男女を焼き殺したのである。
しかし、この長島攻めは、大きな代償を支払う事になる。
信長の兄である信広、弟秀成、従兄弟の信成等などの、一門衆の討ち死にが数多く報告され、これに激怒した信長は、森長可、真田夕夏に、一向宗門徒殲滅を命じる。
父を坊主に殺された森長可と、越前の一向宗門徒の殲滅を経験している真田夕夏の軍勢は、返り血を多数浴びながらも、一向宗門徒を殲滅させる。
多数の犠牲を支払うも、伊勢長島方面の一向衆門徒の壊滅に成功し、長島城は、滝川一益に与えられたのである。
時は少し戻るが、一向衆からの降伏の申し出を聞いた土屋優梨は、これを和睦の条件として使う事を、真田夕夏に提案をしたのであるが、即座に却下されたのである。
夕夏の考え方であれば、降伏した者達を大坂方面に逃がしてしまうと、また上様に刃向かう事が分かっていたからである。
確かに、和睦の条件として使う方法も取れたであろう。
一向衆門徒達の命を助け、大坂にある石山本願寺に連れていけば、本願寺第十一世でもある本願寺顕如も、ある程度は態度を軟化する事も考えられた。
しかし、最初から信長様に刃向かわなければ、こんな結果にはならなかったのも事実である。
それでも優梨は、更なる抵抗をするも、夕夏からの一言に、黙らざるを得なかった。
「そこまで反対意見を口にするのであれば、今すぐに私を切り捨て、上様に直訴をしなさい!
上様様が覇王になられるか、それとも聖天子になられるかは分からぬが、上様の考え方が正しいのである。
我々家臣は、上様に付いていくだけで良いのだ。
余計な雑念は捨てよ、信長様の歩く道を、我々が造り出す事が必要なのである。」
上様に心底から心酔している真田夕夏の言葉は、土屋優梨の甘い考え方を改めるのに、あまり時は必要なかった。
例え、真田敦がここにいても、皆殺しをする方法を取ったであろう。
真田夕夏の歩む道が覇王を目指しているのであれば、真田敦の歩む道もまた、覇王を目指しているのかも知れなかったのである。
伊勢長島を制圧した織田信長は、岐阜に戻り次の戦略を考えていた。
真田夕夏も、手勢を率いて越前に戻り、北ノ庄城の築城に取り掛かった。
北ノ庄の縄張りは、真田敦が既に完成をさせている。
本来であれば、真田敦自らが築城に取り掛かかる予定であったのだが、南蛮視察の為に、妹の夕夏に委ねたのである。
恐らくは、越後の上杉謙信に対する備えの城として築城を考えたのであろう。
4階6層であり、天守閣までの高さは、約24メートル、織田信長が後に安土山に築城をする安土城の、一回り小さい城になると思われる。
(安土城は、地下1階地上6階であり、天守閣までの高さは、約32メートルである。)
本多正信には、城下町の整備を命じ、島左近には、普請総奉行を命じ、南条勝成には、石垣に使う石の手配を命じたのである。
細かい部分は、残りの家臣達を使い、約1年半の年月を掛けて築城をするのである。
その築城の期間中にも、鉢屋美海の配下を使い、越後の上杉謙信の動向を調べさせ、前田利家と池田恒興には、新兵の訓練をさせており、梨那和花姉妹には、火縄銃の生産と、炮烙の大量生産を命じたのである。
夕夏の命を受けた者達は、その役目を忠実にこなしていのである。
真田夕夏が北之庄城築城に時間を割いていた頃、織田信長の周りでは色々な事が起こっていた。
先ずは、西国を見れば、播磨の赤松氏の征伐である。
別所氏等の、有力な者達は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛をした時に、早々と織田信長に降伏をしたのであるが、赤松義祐は織田信長に降伏する事を拒否し、あくまでも独立の立場を貫いていたのであるが、柴田勝家を始めとする織田信長の攻撃を受けて、ようやく降伏をしたのである。
東海地方を見てみると、天正2年(1574年)甲斐の武田勝頼が、遠江にある高天神城に攻め寄せたのである。
高天神城は、元亀2年(1571年)に、武田信玄が約2万5000の兵を引き連れて攻撃をしたのであるが、多数の死者を出した事により、高天神城攻略を諦めて甲斐に撤退をしている。
父親である武田信玄と比べて、数段落ちると家臣達から見られていた武田勝頼は、高天神城を攻め落とす事で、自分の実力をはっきりと見せつける意味もあったのであろう。
城主である小笠原氏助は、浜松城にいる徳川家康に救援を要請し、高天神城にて籠城をする事で、援軍が到着をする時間を稼ごうとしたのであるが、徳川家康の軍勢単独では、約2倍に相当する武田勝頼の軍勢には勝てない事を知ってる為に、岐阜の織田信長に救援要請をしたのである。
徳川家康より、救援要請を受けた織田信長は、各地に抑えの兵を残して急ぎ兵を集めたのであるが、思うようには兵が集まらなかったのである。
武田勝頼の高天神城攻めの知らせを、前もって聞いていた本願寺顕如は、織田信長の支配をしている領内で一向一揆を策動し、織田信長の妨害をしていたのである。
特に一向一揆の脅威が酷かったのは、真田夕夏が留守を任されていた越前であった。
一向一揆が蜂起した時に、真田夕夏の反応は鈍かったのである。
それは、一向一揆が蜂起した時には、真田夕夏は夫である真田信澄の子を宿しており、懐妊中(妊娠中)の為に思うように身体を動かす事が出来ず、自らが戦に出られなかったからである。
しかし、南条勝成や、島左近、前田利家と池田恒興等の助けにより、一向一揆の鎮圧に乗り出した為に、遠江にいる徳川家康の救援要請には、応えられないのであった。
北近江を支配をしている浅井長政も、越前からの一向一揆の脅威がある為か、なんとか兵を集めたのであるが、徳川家康救援には向かえなかったのである。
その様な報告を受けた織田信長は、やむ無く自分が集めた兵を引き連れて、三河にある吉田城に着いたのあるが、兵を2日間休めていた時に、高天神城落城の報告を受けたのである。
高天神城の救援に間に合わなかった織田信長は、徳川家康に対してお詫びの印として、兵糧代として大量の黄金を送り届けたのである。
武田勝頼の戦の上手さに脅威を覚えた織田信長は、本願寺顕如との和睦を成立させる為に、急ぎ岐阜に兵を返して顕如との和睦交渉に入ったのである。
一方、高天神城を攻め落とした武田勝頼は、自らの武勇を家臣達に見せつける事で、自分の価値を見せつけたのである。
偉大な先代である武田信玄の智謀を持ってしても攻め落とせなかった高天神城を、自分が攻め落としたのである。
この事で傲慢した武田勝頼は、遠江の支配を巡り、徳川家康と合戦に幾度となく及ぶのである。
北ノ庄が半分程、完成をした頃、真田夕夏は、嫡男を出産していた。
真田夕夏の嫡男、真田藤次郎孝晃である。
その約4ヶ月前にも、鉢屋美海が嫡男を出産していた。
これにより、鉢屋党の後継者が出来た事により、鉢屋党はある程度は、安泰になったのである。
元甲賀の忍である遼は、真田敦より預けられた彩夏の育成に専念をしていた。
いずれは、1人前の忍びに育て上げ、真田夕夏の為に命をかけるつもりで、忠誠を誓うのである。
もう1人、真田夕夏の家臣であり、夫の一族出身でもある津田勇祐は、南条勝成になぜかは分からないが気に入られ、槍の稽古や、酒宴等をよくやっている。
まぁ、勇将は、勇将を知るとでも言うのであろうか?
後に、南条勝成の副将として、その武勇を戦場にて見せ付けるのであるが、それはもう間もなくの事である。
年が明け、天正3年(1575年)2月25日、北ノ庄城が遂に完成をしたのである。
その翌日、真田敦の嫡男である真田源一郎を、13才にて元服させたのである。
(当時の元服年齢は、13才から15才辺りが、一般的である。)
元服の儀式を済ませた真田源一郎は、義叔父である織田信長と、浅井長政から一文字ずつ頂き、真田政長と名乗る事になる。
もちろん、真田敦が2人より一文字ずつ貰う事を、前もって了承させているのだが。
最初は、真田信政と名を付ける予定でいたのであるが、織田信長、浅井長政からの助言を頂き、政長と名を付けたのである。
この真田政長が、真田家の2代目当主になるのは、まだ数年後の事である。
天正3年(1575年)4月28日、甲斐の武田勝頼が約1万5000の兵を引き連いて、三河に侵攻を開始したのである。
浜松城にいた徳川家康は、岐阜の織田信長に救援要請を行い、自らも5000の兵を引き連れて、なんとか武田勝頼よりも先に、岡崎城に入城をしたのである。
岡崎城に徳川家康が入城した事を聞いた武田勝頼は、先年に自分を裏切った長篠城の奥平貞昌を討伐する事に切り換えたのである。
同年5月8日、長篠城を包囲した武田勝頼は、火矢による遠距離攻撃と、長篠城の大手門を壊す為に、力攻めの両方を取り入れて長篠城を攻撃したのである。
その頃、徳川家康からの救援要請を受けた織田信長は、武田勝頼を叩きのめすよい機会であると考え、自ら約3万の兵を集めている間に、越前の真田夕夏と、北近江の浅井長政にも、兵を出すように使者を出した。
その頃、越前の真田夕夏は、国内の一向一揆の鎮圧に成功をし、百姓の持ちたる国と言われている加賀に攻め込むために、約1万5000の兵を集めていた。
加賀の一向一揆を制圧し、越後の上杉謙信に対する備えを早めにしたいのであるが、今回は徳川家康救援の為に、延期をせざるを得なかったのである。
約1万の兵と、南条勝成を筆頭に、殆どの家臣達を引き連れて、岐阜に向かったのである。
北近江の浅井長政も、越前の一向一揆の脅威が去った事により、約4000の兵を引き連れて、岐阜に向かったのである。
真田夕夏、浅井長政の連合軍は、岐阜城に到着をするなり、織田信長からの命により、兵1人が、木材を1本持つように厳命をされたのである。
真田夕夏は、その命令を聞いた瞬間に、頭の中におぼろ気ながら、信長様の考え方が見えたような気がしたのである。
おそらくは、木材を使い堅固な防御陣営の構築をするのではないかと。
しかし、それだけであれば、三方ヶ原の戦いにおいて、前陣に2段構えの馬防柵、更に後陣に3段構えの馬防柵を構築して、武田信玄との戦いに挑んでいる。
それですら、最初に構築した2段構えの馬防柵を打ち破られ、次に構築した3段構えの馬防柵の2段目の馬防柵を守るのに、必死だった事を思い出していた。
真田夕夏は、また別の事を思い出していた。
三方ヶ原の戦いにおいて、武田勝頼に対して恨みを抱いていたのである。
三方ヶ原の戦いの最中に起きたある事をきっかけに、真田夕夏の心の中に、深い闇を抱く事になる事件があったのである。
その事は、実の兄である真田敦にすら教えておらず、真田夕夏のみが知るだけである。
真田夕夏は、この戦いにおいて、三方ヶ原での恨みを晴らすべく、信長の指示に従い出発の準備に取り掛かったのである。
天正3年(1575年)5月13日、織田信長は、真田夕夏、浅井長政、直属の家臣達を引き連れて岐阜を出発。
同年5月15日には、三河の岡崎城に到着し、徳川家康と長篠城救援の準備を急いでいた。
その間に、長篠城では、激しい攻防戦が繰り広げられていた。
武田勝頼率いる1万5000の兵に対して、長篠城には500の兵士しかいなかったが、約200丁の鉄砲と、大鉄砲と言われている武器を用いて、武田勝頼に対抗をしていたのであるが、武田勝頼が火矢の攻撃を用いた時に、二ノ丸にあった兵糧蔵が燃えてしまい、長篠城は一気に兵糧不足に陥ったのである。
このままでは、数日も持たない内に落城をすると考えた長篠城城主である奥平貞昌は、約65キロほど離れている岡崎城に救援要請をするしかないと考え、家臣の鳥居強右衛門を救援の使者として、岡崎城に向かわせたのである。
鳥居は、長篠城の回りを流れている川の中より、下流まで流れて行く事をを思い付き、川の流れに乗って、無事に下流まで到着したのである。
そこからは、不眠不休で岡崎城に向かい、岡崎城に到着した時には、疲労困憊の状態であったのであるが、長篠城に残してきた皆の衆の事を考えると、疲れている身体に鞭を打ち、岡崎城の門番に長篠城から参った使者であると伝えると、その場に座り込んでしまったのである。
門番が、長篠城からの使者が来たと上役に伝えると、その上役は直ぐ様、主君である徳川家康に伝えに向かった。
長篠城からの使者が来た事を聞いた織田信長と、徳川家康は、その使者を大広間に通すように命じ、鳥居強右衛門は、他人の助けを借りて大広間に姿を出した。
信長と、家康に、面通しがかなった鳥居は、長篠城の危機を切実に訴えたのである。
その事を聞いていた真田夕夏は、信長様にある許しを得ようとしていた。
「信長様、長篠城の危機を救う為に、私を先陣大将として、先に長篠城に向けて行かせて下さいませ。
私の部隊、約1万が長篠城の救援に向かえば、武田勝頼とて、長篠城の攻撃を中止すると思われます。
何卒、速やかなご決断を!」
その事に、信長は一瞬家康の方を見るも、家康は、静かに首を縦に振るのである。
家康にしてみれば、自らが先陣として長篠城に救援に向かいたいのであるが、信長公に援軍要請をした手前、積極的な発言を控えていたのである。
信長も、鉄砲隊の到着が多少遅れているも、翌日か、遅くともその次の日には到着をするのである。
しかし、長篠城の危機を考えれば、鉄砲隊の遅れを、救援に向かえない理由には出来ないのである。
信長は、夕夏の提案を許し、先陣大将として長篠城の救援に向かわせる事を許可したのである。
「但し、余と三河、それと備前の3人の援軍到着まで、勝頼と勝手に戦ってはならぬ!
その事を、きちんと守るように。」
信長様からの言葉に、真田夕夏は首を縦に振るのである。
援軍が出る事が決まった事に安堵したのか、鳥居は直ぐ様に、長篠城に戻ると言い出したのである。
だが、信長と、家康、長政の3人は、鳥居が疲れている事を理由に、長篠城に戻る事を止めようとしたのであるが、鳥居の強い気持ちを止められなかったのである。
その代わり、真田夕夏の軍勢と一緒に長篠城に戻るのであれば良いと、信長は許可を出したのである。
翌日、1万の兵を引き連れて、真田夕夏は先陣大将として、長篠城救援に向かった。
鳥居強右衛門も、兵達の中に紛れ込み進軍をしていたのであるが、2日目の行軍を終えて、野営の準備に取り掛かった時に異変が起きたのである。
鳥居強右衛門が、真田夕夏の陣営から姿を消し、1人で長篠城に向かったのである。
長篠城まで後1日で到着する地点まで来た為か、鳥居は一足先に長篠城に救援が来た事を知らせようとして、真田夕夏を始めとする諸将達に黙って行ったのである。
その事を報告された真田夕夏は、その場に留まるか、夜を通して進軍をするかで悩んだのであるが、後1日の行程なのであるから、無理をする事はないと、その場で次の日まで休む事を決めたのである。
その頃、1人で長篠城に戻り始めた鳥居強右衛門は、長篠城まで約1キロまでの地点に到着したのである。
長篠城を出る時には、寒狭川(現代の豊川と呼ばれている)、大野川(現代の宇連川)が合流している川の中を泳ぎ、下流まで出たのであるが、戻る時には川の中からは戻る事は困難であるために、武田軍の人足として紛れ込み、長篠城に戻ろうとしたのであるが、長篠城の目前で、武田軍に怪しまれて捕らえられてしまったのである。
武田勝頼の前に連れてこられた鳥居強右衛門は、武田四名臣と言われた内藤昌豊から交換条件を出される。
(内藤昌豊、馬場信春、山県昌景、高坂昌信の四人。
この時、馬場と山県は、三方ヶ原の戦いで討死をしており、高坂は、信濃川中島にある海津城を守備している。)
鳥居強右衛門を助命をする代わりに、長篠城の城兵達に対して、援軍は来ないから降伏をするように呼び掛けよとの、言葉を聞いた鳥居強右衛門は、助命の代わりに城兵達に対して降伏勧告をすることを飲んだ。
長篠城の近くまで連れてこられた鳥居強右衛門は、大声を出して長篠城の城兵達に言葉を出す。
「長篠城の城兵達に申し伝える事がある!
上役達を城壁の近くまで連れてきて頂きたい!」
突然出された大声を聞いた城兵達は、何事かと長篠城の辺りを見回す。
すると、長篠城の西側にある平野の中に、磔にされている鳥居強右衛門の姿を発見したのである。
その姿を見た城兵達は、援軍要請に向かった鳥居強右衛門が、武田方に捕らえられた事を知るのである。
この事を上役に知らせに向かった城兵は、上役に報告、その上役も更に上役に報告をするを繰り返し、長篠城の城主奥平貞信まで報告が上がる。
直ぐ様、城主である奥平貞信を始め、重臣達も城壁に集まり始め、本当に鳥居強右衛門が武田方に捕らえられたのかを、目視で確認を始める。
長篠城の中で、一番目の良い城兵があれは間違いなく、鳥居強右衛門である事を口にすると、城兵達の間に沈黙が訪れる。
岡崎城に到着して、援軍要請が出来たのか?
それとも、岡崎城に到着する前に、捕らえられたのか?
どちらなのか分からぬまま、長篠城の城兵達は、磔にされている鳥居の言葉を待っていた。
長篠城の城兵達や、城主である奥平貞信ら重臣達の姿を見た鳥居強右衛門は、大きく息を吸い込み、長篠城の城兵達に申し伝える。
「信長様の援軍は既に、吉田城に到着をしている!
本隊は既に吉田城を出発をしており、2、3日後には、援軍が来るぞ!
それだけではなく、信長様の家臣である、真田夕夏殿の軍勢は、長篠城まで後1日の所まで来ている!
後1日、籠城を続ければ、援軍がやって来るぞ!」
その言葉を聞いた奥平貞信を始め、城兵達は何としても援軍到着まで、長篠城を守りきる希望を持ったのである。
対して、鳥居強右衛門の助命を条件に、長篠城の開城を目的としていた武田勝頼にしてみれば、まんまと鳥居強右衛門に騙され、援軍到着の事を長篠城に知られてしまったのである。
怒り狂った武田勝頼は、鳥居強右衛門の処刑を断行。
鳥居強右衛門は、笑いながら絶命をしたと、後の世まで言い伝えられた。
鳥居強右衛門の処刑を目の当たりにした長篠城の城兵達は、武田勝頼に対して激しい怒りを持つに至る。
鳥居強右衛門の処刑を済ませた武田勝頼は、長篠城に対して総攻撃を開始するも、鳥居強右衛門の死を無駄にはしないと心に強く誓った城兵達の反撃の前に、長篠城の落城を邪魔されたのである。
翌日、武田勝頼が長篠城の攻撃に拘っていた頃、真田夕夏率いる先陣が設楽原に到着した。
三方ヶ原の戦い以降、武田信玄に仕えていた真田家との区別をする為に、織田信長に仕えている真田家の旗印を新しい物に変更をしたのである。
旗印の上半分が白い布地、下半分が赤い布地で織り込まれており、白い布地の部分に六文銭が縫い込まれている。
設楽原は、小川や沢に沿って丘稜地が南北に幾つも連なる場所である。
設楽原をある程度見て回った真田夕夏は、率いてきた約1万の兵を丘稜地の裏側に回し、地面に穴を掘る事などの土木工事をして、約1万の兵を分散をさせて隠す事にしたのである。
武田方から見れば、丘稜地の上に見えている兵士を簡単に数えただけで、約2000あまりが援軍に来たと思い込んだのである。
その報告を聞いた武田勝頼は、ある決断を迫られる。
織田徳川連合軍との決戦をするか、長篠城の攻略を諦めて、甲斐に撤退をするかの決断である。
だが、武田勝頼は既に、織田徳川連合軍との決戦を密かに決めていたのである。
武田の旗印を瀬田の唐橋に立てる夢を、諦めてはいないからである。
5月18日、設楽原の地に織田徳川浅井連合軍が到着をする。
織田徳川浅井連合軍の総勢4万2000の兵に、先陣を司る真田夕夏の兵が約1万であるから、総勢で約5万2000の兵が設楽原の地に到着したのである。
武田勝頼の率いる兵士数が1万5000である事から、約3、5倍の兵士数を相手にしなくてはならないのであるが、武田勝頼の目には精々2万位の兵士しか見えなかったのである。
真田夕夏と同じ様に、丘稜地の高低差を上手く使うだけではなく、5万2000の軍勢を途切れ途切れに布陣をさせる。
更には、小川・連吾川を天然の堀に見立てて、本陣のある西側に3重の土塁を設け、更には足軽達に持って来た材木を使い、3重の馬防柵を設けて武田騎馬隊の突撃を防ごうとしたのである。
3重の土塁と3重の馬防柵を上手く使い、無防備な鉄砲隊を守りながら、武田勝頼との決戦に臨むのである。
一方、信長の本隊が設楽原に到着したとの報告を聞いた武田勝頼は、本陣にて話し合いをしていた。
古くから武田家に仕えていた老臣達は、甲斐に撤退することを提案する。
その理由は、信長本隊だけではなく、徳川浅井連合軍も来ている事から、最低でも3万の兵士を連れてきているのではないかと口を揃える。
仮に3万の兵士を連れてきているのであれば、こちらの約2倍の兵士数になり、野戦での勝利は絶望的であると声を出す。
それを聞いていた若手の武将達は、戦いは時の運である。
最初から負けを考えていたら、勝てる戦にも勝てないと反論をする。
武田騎馬隊は、天下最強であり、信長、家康、長政らの大名達を討ち取る絶好の機会だと、若手達も負けじと声を出す。
双方の意見を聞いていた武田勝頼は、決戦をする事を決断し、長篠城の牽制に3000の兵士を残し、残りの1万2000の兵士を引き連れて、信長が陣を敷く小川・連吾川から、約20町(約2キロ)ほど離れた地点に、13に部隊を分けて西側に向けて布陣をする。
武田勝頼が布陣を終えた時には、内藤昌豊を始めとする老臣達は、この戦いの敗戦の予感を感じており、別れの酒を酌み交わしたとも言われている。
5月20日のお昼頃、南側に陣を張る真田夕夏の元に、鉢屋美海と、綾の2人が姿を見せる。
綾の手には、長篠城を中心にした図面があり、用意された机の上にその図面を広げる。
長篠城の南側に、鳶ヶ巣山砦を中心に5つの砦があり、約3000の兵が砦を守備しているとの報告も上がっていた。
机の上に広げられた図面と、報告された内容を真田夕夏が吟味している時に、夫である津田信澄、土屋優梨と島左近、南条勝成、津田勇佑達が集まる。
集まった諸将を前にして、真田夕夏が口を開く。
「まずは、この図面を見て欲しい。
簡単ながらも、この辺り一帯である設楽原の図面である。
武田勝頼の軍勢は、我々のいる地点より、約200町ほど離れた地点にいる。
武田勝頼の率いてきた軍勢を、我々が待ち構えている地点まで、攻めて来させる秘策は無いだろうか?」
真田夕夏からの言葉に反応したのか、最初に島左近が発言をする。
「おそらく、武田勝頼は自分の武勇を頼みにして、こちらから策を講じなくても、我々のいる地点まで攻め寄せて来るのではありませぬか?」
島左近の発言に対して、慎重な言葉を発言するのは、真田夕夏の夫である真田信澄である。
「島殿はそう申されるが、譜代の家臣達が反対をするのではなかろうか?
我々との決戦を避けて、撤退をするのではなかろうか?」
津田信澄の言葉に、直ぐに南条勝成が反論をする。
「信澄様はそう言われるが、それであれば何故我々の目前まで陣を進めて来たのでしょうか?
勝頼めが、我々との決戦を望んでいる証では無いでしょうか?」
様々な意見が飛び交う中で、長い沈黙を保っていたのは、土屋優梨であった。
伊勢長島攻め以来、優梨の成長は、ずば抜けていたとも言えよう。
まるで、真綿が水を吸うが如くに、真田夕夏の教えをどんどん吸収していくのである。
その土屋優梨が、何かを思い付いたのか、夕夏に進言をする。
「しばし考えておりましたが、豊川を渡り、南側の尾根を通り抜け、鳶ヶ巣山砦を急襲されてはいかがでしょうか?
鳶ヶ巣山砦を落とし、周りにある4つの小砦を更に攻め落とせば、長篠城の救援目的を果たす事が出来る上に、更には、武田勝頼の背後を脅かす事も出来ましょう。」
優梨の一言は、周りの家臣達をびっくりさせたのであるが、真田夕夏は無反応であった。
なぜならば、その案は既に真田夕夏の頭の中に浮かんでいたからである。
誰が自分の考えている事に、気が付くかを見極める為に、あえて皆に意見を求めたのである。
そして、その言葉を聞いてから、少し間を開けてから、夕夏が口を開く。
「優梨の意見が、最良の案だと私は思うが、皆はどう思うか?
皆の、自由な意見を聞きたい。」
その言葉を聞いた家臣達は、お互いの顔を見合わせてから、静かに首を縦に振る。
皆を代表して真田信澄が、意見を述べる。
「優梨殿の意見が、最良の案だと、皆が一致を致しました。
夕刻に行われる軍議にて、この提案をなされる事を、慎んでご意見申し上げます。」
夫である信澄の言葉を聞いた夕夏は、1度政長殿に目をやってから、言葉を出す。
「本日の夕刻に行われる軍議にて、優梨の提案を信長様に提案を致す。
緒将達は、持ち場に戻り、いつでも出陣が出来るように準備をするように。
これにて、軍議を解散する!」
夕夏の強い言葉を聞いた緒将達は、一斉に立ち上がりそれぞれの持ち場に戻っていった。
そして、その場に残ったのは、真田夕夏と、甥である真田政長の2人だけである。
「政長殿、夕刻に行われる軍議にて、政長殿が先程の提案を進言するように。
政長殿も、兄上の後を継ぐのであれば、早い内に信長様の人となりを知るべきです。」
叔母である夕夏から、いきなりそう言われた政長は、動揺を隠せずにいた。
先程の流れから行けば、叔母の夕夏様が進言をすると思い込んでいたからである。
「お、叔母上・・若輩者の某には、荷が重すぎます。
やはり、叔母上が信長様に、進言なされるべきではありませぬか?」
政長の精一杯の抵抗であろう。
元服を済ませたばかりであり、今回の戦いが初陣になる政長には、まだ荷が重いと素直な言葉を述べるが、夕夏はその意見を一蹴する。
「政長殿、信長様は無能を嫌います。
有能な人材は厚遇しますが、無能な人材は容赦なく切り捨てます。
元服を済ませたばかりとか、初陣がこれからとかの理由は通用しないのです。
むしろ、初陣にて先程の提案を進言すれば、信長様からは、少なくとも有能な人材であると思われる事は出来るでしょう。
政長殿、ここは、腹を括りなされ!」
夕夏の一言で、政長は腹を括らされたのである。
やれるだけやって駄目であれば、叔母上も納得をされるのではないか?
やらずに後悔するよりも、やって後悔をせよと、父である敦より言われていたのを、思い出したのである。
「叔母上、夕刻に行われる軍議にて、先程の提案を信長様に進言致します。
父上の後を継ぐ某がしっかりしなければ、真田家はこの世から無くなるだけです。」
甥である政長の決断を満たない夕夏は、静かに首を縦に振り、政長の手を取りしっかりと握り締めていた。
5月20日の夕刻、信長の本陣にて軍議が開かれていた。
明日の決戦に備えての、最終確認の為である。
こちらは、馬防柵の内側に立て籠り、約3000丁の火縄銃で、武田騎馬隊を迎え撃つ作戦である。
織田信長が持ってきた火縄銃の数が、約1500丁、浅井長政が持ってきた数は、約300丁、徳川家康が持ってきた数は、約400丁、真田夕夏が持ってきた数は、約800丁である。
これほどの火縄銃を一斉に使う戦は、この戦いが日本で初めてであろう。
信長は、前田利家を始めとする5人の武将に、約1500の火縄銃を別けて与え、馬防柵の内側に布陣をさせている。
浅井長政は、信長本体から見て北側の場所に布陣をしており、300丁の火縄銃を前面に出して、武田騎馬隊の突撃を防ぐ。
徳川家康は、信長本体から見て南側の場所に布陣をしており、更には、約3キロに渡る馬防柵の切れ目辺りに布陣をしていた。
前面には、本多忠勝を始めとする歴戦の猛者を配置して武田騎馬隊を迎え撃つ。
なぜ、徳川家康が布陣をしている場所だけ、馬防柵の切れ目なのかは、そこを武田勝頼側の攻め口にする為である。
馬防柵が切れている場所に攻め寄せ、徳川家康の軍勢を蹴散らせば、その地点から馬防柵の内側に回り込めるからである。
そうなれば、火縄銃で武田騎馬隊を防ぐ事は、事実上不可能になるからである。
緒将の配置を改めて確認をした織田信長は、軍議を打ち切ろうとした時に、真田政長が発言の許可を求める為に手をあげたのである。
信長は、軽く顎を動かし、発言の許可を出す。
そこを確認した政長は、先程の提案を信長様に進言をする。
「慎んで信長様に進言を致します。
某が率いてきた1万の軍勢を使い、夜半にひそかに豊川を渡り、南側の尾根を通り抜け、鳶ヶ巣山砦を急襲し、そこを陥落させてから周りの小さな砦を急襲致します。
この5つの砦を陥落させれば、長篠城の救援は叶う上に、武田勝頼の背後を脅かす事も出来まする。
何卒、出陣の許しを得たく。」
そこまで政長が進言をした時に、信長は怒りを込めた雷を、進言をした政長に落とす。
「その様な小細工は必要ない!
そちは、下らぬ事をぐだぐたと申すな!
明日は、勝頼との決戦である!
これにて軍議を解散するがゆえに、各々は明日の決戦に備えて準備を怠らぬように!」
突然信長様から雷を落とされた政長は、机に頭を擦り付けて信長様に許しを乞うが、夕夏に無理矢理立たされて、そのまま陣に連れていかれたのである。
陣に連れていかれている最中、政長は生きた心地がしなかったのである。
信長様から雷を落とされた以上、切腹の命令が下されるのでは無かろうかと、内心びくびくしていたのである。
日が落ちる少し手前、陣のあちらこちらで夕飯を作る為に、水煙が上がり始めた頃、真田夕夏と、真田政長の2人が信長の本陣に呼び出されたのである。
真田政長は、切腹をしろとの命令が下されるのではないかと、びくびくしていたのであるが、真田夕夏は別の事を考えていた。
仮に、政長殿に切腹の命令が下されるのであれば、使者を出して伝えれば良いのである。
わざわざ2人を呼びつけて、切腹の命令を下すのであろうかと、真田夕夏は首を傾げていた。
本陣に到着した2人は、信長の幕舎に案内をされる。
そこには、信長、家康、それと、家康の家臣である、酒井忠次の姿があった。
真田夕夏と、真田政長の2人が腰を下ろすと、信長が口を開く。
「先程の軍議にて、そちの提案は見事な策である。
酒井忠次を道案内として付けるがゆえに、夜半に出陣をするように。
酒井忠次には、2000の兵、あとは、そちの全軍と、所有している火縄銃の全てを持っていき、鳶ヶ巣山砦を始めとする、長篠城を監視をしている全ての砦を陥落させ、長篠城の救援をするように。」
信長様からの突然の言葉に、政長はきょとんとしていた。
切腹の命令が下されると思い込んでいた為か、直ぐには返事が出来なかったのである。
その様子を見た真田夕夏は、速やかに返答をする。
「かしこまりました。
今宵の夜半に、豊川を渡り、鳶ヶ巣山砦を始めとする全ての砦を陥落させ、必ずや長篠城の救援を致しまする。
例え、武田がこの奇襲攻撃を察知していようと、必ずや長篠城救援を致します。」
真田夕夏の強い言葉を聞いた信長は、顎に手をやり、陣に戻るように合図を出す。
真田夕夏、真田政長は速やかに陣に戻り、出陣の準備を急がせたのである。
「んんっ?
って、ここはどこ?
あれ?
成人式の帰り道に、横断歩道を歩いている時に、いきなり目の前が光ったと思ったけど?」
目を覚ました振り袖姿の女が、きょろきょろと、回りの景を見渡す。
どう見ても、先程まで自分が歩いていた場所では無さそうである。
アスファルトの道路ではなく、草ぼうぼうの土の地面に、町の明かりを灯す筈の街灯もない。
どうやら、太陽が沈み始めたのか、辺りも暗くなり始めていた。
「ここは、一体どこなの?
何かの撮影か何かなの?
もしかして、大河ドラマの撮影に紛れ込んだとか?
でも、そのわりには撮影スタッフの姿もないし?」
振り袖姿の女は、自分の置かれている立場を考え始めるも、答えは出て来ない。
呆然と立ち尽くしていると、突然後ろから声を掛けられる。
「おい、そこの女、そこで何をしている!」
どうやら、身分の低い足軽らしき人物に、声を掛けられたみたいである。
人の声を聞いた、振り袖姿の女は、声がした方を振り向き、言葉を発する。
「すみません。
ここはどこでしょうか?
もしかして、撮影をしている場所に紛れ込んだとかですか?」
振り袖姿の女の言葉に、足軽は首をかしげる。
それは、そうであろう。
撮影とか、意味の分からない事を突然聞かれても、足軽の方が困るだけである。
もしかしたら、武田方の間者かと思い、足軽は手にしていた槍を、振り袖姿の女に向ける。
「訳の分からぬ事を申すな!
さては、武田方の間者であるな!
怪しい奴め、引っ捕らえてやる!」
足軽は構えた槍を、振り袖姿の女に向けて、真っ直ぐに槍を突くが、振り袖姿の女は右に体を反らして足軽が放った槍の突きを回避する。
「いきなり、何をするのですか?
こちらは、なにか変な事を、あなたに聞いたのですか?」
「うるさい!問答無用だ!
貴様をを捕らえて、上役に報告をしてやる!」
足軽は、振り袖姿の女に対して、何度も槍を突き出すも、振り袖姿の女は軽々と、何度もその槍の突きを回避する。
この場所にいても、なんの進展もないと判断をした、振り袖姿の女は、その場から逃げたした。
足軽は、振り袖姿の女を逃がさぬと、逃げる振り袖姿の女の後を追い始める。
「政長殿、出陣の準備は完了しましたか?」
真田夕夏の本陣にて、甥である真田政長に、真田夕夏が質問をする。
「いつでも、出陣は出来まする。
もうじき?
一体、なんの騒ぎでしょうか?
この本陣の近くで、なにかあったのでしょうか?」
振り袖姿の女と、それを見つけた足軽のやり取りが、真田夕夏の本陣の近くであったのは、偶然であったのか?
それとも、天の配慮であったのか?
振り袖姿の女が逃げた先は、真田夕夏、真田政長のいる本陣であった。
「しつこい男は、嫌われるわよ!
私に、構わないでちょうだい!」
「怪しい間者を逃がしたら、俺が罰を受けるわ!
必ず、貴様を捕らえてやる!」
そんな声が、真田夕夏、真田政長の2人に聞こえたかと思えば、振り袖姿の女は、真田夕夏、真田政長の前に姿を見せたのである。
「すみません!
変な男に、追い回されてるのです!
助けて貰えませんか?」
いきなり姿を出した振り袖姿の女からそう言われた、真田夕夏、真田政長の2人の方が困惑をしてしまう。
「夕夏様、若様、こちらに怪しい女間者が来ませんでしたか?
女間者、そこにいたのか!
夕夏様、若様、その怪しい女は、武田方の女間者に違いありませぬ!」
振り袖姿の女を追い掛けてきた足軽は、真田夕夏、真田政長にそう報告をする。
「私は、女間者などではありません!
そこの変質者が、私に変な事をしようとしているのです!
改めてお願いをします!
私を助けて貰えませんか?」
振り袖姿の女は、真田夕夏の後ろに隠れ、更には、真田夕夏の袖を掴み、必死になって懇願をしている。
背後に回り込まれただけではなく、袖までも掴まれた真田夕夏は、なぜか首を横に傾げる。
どこかで、聞き覚えのある声ではないか?
この時代ではなく、かなり昔に聞いた事のある声ではないか?
そう思った真田夕夏は、自分の袖を掴んでいる女の顔を見たのである。
そして、その女の顔をまじまじと見て、まさかと思うのである。
そう、平成の世で幼なじみであった、西原詩織にそっくりであるからだ。
半信半疑の真田夕夏は、西原詩織に良く似ている女に声をかける。
「えっ?
まさかとは思うけど、詩織?
私の幼なじみの、西原詩織なの?」
その声を聞いた西原詩織も、自分の幼なじみである、真田夕夏の声に似ている気がしたのである。
そして、西原詩織も、真田夕夏に声が似ている女性の顔をまじまじと見たのである。
暫しの沈黙の後に、西原詩織も、真田夕夏と同じ思いを抱いたのである。
「夕夏なの?
ねぇ、正真正銘、私の幼なじみである、真田夕夏なの?」
お互いに顔を見合わせ、お互いの姿を見合うのである。
真田夕夏は、鎧を着る前の着物姿であり、西原詩織は、成人式で来ていた振り袖姿である。
着ている物が違えども、16年間共に遊んで、共に成長をしてきた仲である。
お互い、21才と20才に成長をしたとは言えど、お互いの顔を忘れる事はなかったのである。
「やっぱり、詩織なのね!
でも、何でこの時代に来たの?
まさか、詩織もタイムスリップをして来たの?」
「夕夏なの、正真正銘の夕夏なのね!
えっ?
タイムスリップって、どう言う意味なの?
これって、歴史ドラマなんかの、撮影じゃないの?」
西原詩織は、自分が戦国時代に、タイムスリップをした事に、気が付いていないのである。
目の前にいる西原詩織が本物であれば、武田方の女間者扱いをした足軽を許す事は出来ない。
「そこの者、このおなごは、私の幼なじみである!
武田方の女間者と間違えるとは、真に不愉快である!
早々に、この場より立ち去れ!」
いきなり真田夕夏に怒鳴られた足軽は、早々に本陣から姿を消す。
「その女性は、叔母上の幼なじみなのですか?」
真田政長の言葉に、真田夕夏は返答をする。
「あっ、政長殿。
あとで、事情を話しますが故に、この場は下がって貰えませぬか?
おなご同士で、少し話し合いをしたいので。」
叔母である真田夕夏からそう言われた真田政長は、本陣を後にして、自分の本陣に戻っていく。
真田夕夏、西原詩織の2人は、本陣にて約半時ほど話し合いをした。
この時代の事や、タイムスリップの事。
同じくタイムスリップをしていた、兄上の状況や、真田夕夏の家庭の事などもである。
西原詩織は、最初のうちは黙って真田夕夏の話を聞いていたのであるが、分からない部分は質問したりもしていた。
何よりも驚いたのは、夕夏が婿養子を取り、既に長男を授かった事である。
更に質問をしようとした時に、真田政長が姿を出したのである。
「叔母上、出陣の準備が整いました。
酒井忠次様の軍勢も参られましたので、豊川を渡り、南側の尾根を越えて、鳶巣ヶ山砦を急襲しましょう!」
政長殿の言葉を聞いた真田夕夏は、西原詩織にこう言葉を残す。
「詩織、いま聞いたと思うけど、私はこれから鳶巣ヶ山砦を急襲しなくてはならないわけなの。
200あまりの兵を本陣に残していくから、この戦いが終わるまで、本陣にて待機をしていて欲しいの。
詩織の身の安全を、考慮したいのよ。」
真田夕夏にそこまで言われた西原詩織は、反論をする。
「そんなの嫌よ!
だって、夕夏とやっと再会をしたと思ったのに、私だけ本陣に残るなんて絶対に嫌よ!
だって、必ず生きて帰って来れるの?
流れ矢に当たる事もあるのでしょう?
火縄銃の玉に当たる事もあるのでしょう?
夕夏が、夕夏が、必ず生きて私の元に帰って来れないなら、私がこの時代に生きてる意味はないのよ!
私も、その戦に加わって、夕夏を守り通す!
夕夏に、指一本触れさせやしない!
私の大事な幼なじみを守る事は、私にしか出来ないのだから!」
詩織の言葉は、夕夏の心を突き動かす。
突然行方不明になり、ずっと真田夕夏の、身の安否を気にしていたのであろう。
その気持ちが分かるだけに、詩織の気持ちを無駄には出来ないのである。
「詩織、貴女の気持ちは、分かったわ。
誰か、私と、詩織の身に付ける鎧を持て!」
夕夏の一言を聞いた鎧武者は、女性用の鎧一式を用意する。
用意された女性用の鎧一式を、真田夕夏、西原詩織は、てきぱきと身に纏う。
そして、真田夕夏の右手には、兄から預かりし軍配を握りしめており、西原詩織の右手には、真新しい槍を手にしていた。
「武田勝頼!
貴様の首を必ず取って、三方ヶ原での恨みを、晴らしてやるからな!」
真田夕夏は、右手で握り締めた軍配を天に向けて高々と上げる!
それが合図となり、酒井忠次を先陣大将、その後方を真田夕夏率いる1万の軍勢が、鳶巣ヶ山砦に向けて進軍を開始したのである。