足利幕府 滅亡する
元亀4年(1573年)2月20日、若狭に戻った真田敦は、但馬の山奥に砦を構えている山賊を討伐する為に、兵を集めるように、本多正信に命じていた。
そして、山賊討伐が完了した後に、前々から考えていた事を皆に伝え、それを実行する決意を固めた。
その事をする為に、主君である、信長様の許しも既に頂いている。
真田敦の決意が、今後の日本の発展に繋がると信じて、疑わなかったからである
兵が集まるまでの間、真田敦は、小浜城にある茶室に座り、2人の少年を前にお茶を点てていた。
その2人の少年とは、真田敦に人質として預けられている、国人衆達の嫡男である。
松宮玄四郎と、武藤庄九郎の2人である。
2人とも、永禄10年(1567年)の生まれであり、真田敦の五女である、真田未知と同い年になる。
真田敦は、2人の前にお茶を差し出し、口を開く。
「まずは、お茶を飲みなさい。
喉を潤してから、余の話を聞くように。」
そう真田敦より言われ、玄四郎と庄九郎の2人はお茶をゆっくりと飲む。
2人がお茶を飲み終え、一息付いたのを確認した真田敦は、再び口を開く。
「今日、そなた達を呼び出したのは他でもない。
真田家に、人質として送られてきて、玄四郎は約2年、庄九郎は約1年ほど経つが、不便を感じた事はあるか?」
真田敦からの思わぬ言葉に、玄四郎と庄九郎は、言葉を失った。
普通、人質と言えば、弱い大名などが降伏などをして、支配者である強い大名から己の命の安全を認めて貰う道具に過ぎないからである。
もしも仮に、松宮玄四郎と、武藤庄九郎の父親達が真田敦に反旗を翻せば、人質としての意味は無くなり、即座に殺される運命である。
しかし、真田敦は2人に対して、行動の自由、家族に手紙を送る事や、返信の手紙を自由に受け取る事も、自由に許している。
裏切りと下克上が当たり前に行われている戦国時代に、全く似合わぬ処遇でもあり、2人が頭を悩ますのも当たり前である。
だが、真田敦は昔と違い、最近では他人を信じる性格に変わりつつあったのであるが、人の性格と言うものは、そう簡単には変わるものではない。
人質である松宮玄四郎と、武藤庄九郎の2人に対して、有能か無能か、真田敦に対して、どこまで忠義の心を持つ事が出来るかを確かめる為に、先程の発言をしたのである。
2人のうち、先に口を開いたのは、松宮玄四郎である。
「不満などございませぬ。
むしろ、人質として、送られてきた私達をここまで厚遇する理由が分からないぐらいです。」
玄四郎の言葉に引き続き、庄九郎も言葉を口にする。
「玄四郎の、申す通りです。
普通、人質と言えば、幽閉されるか行動の制限をされ、何をするにも息苦しい物です。
しかし、ここでの生活は、人質の生活とは違いすぎます。
なぜここまで、我々を厚遇するのかが、某にも分かりませぬ。」
玄四郎と、庄九郎の言葉を聞いた真田敦は、この2人に助言をしなくてはならぬかと、頭を使い考えるも直ぐに名案が浮かぶ。
「確かに、普通の人質であればそうであろうな。
しかし、わざわざその方達を厚遇している理由を、もっと深く考えてみよ。
さすれば、自ずと分かるであろう。」
真田敦は、少しばかりの助言を、目の前に座っている玄四郎と、庄九郎に伝える。
そこまで言われた2人は、暫しの間、思案に入っていた。
松宮玄四郎は、次のような事を、考えていた。
(人質を厚遇する理由?
まさかとは思いたいが、真田敦様より某の事を麒麟児と思われていて、少なからず将来を期待されているからか?
いや、某は麒麟児ではない。
しかし、それ以外に厚遇する理由が分からないのも事実である。)
一方、武藤庄九郎は、次のような事を、考えていた。
(人質を厚遇する。
それは、有能な人物と見られているからか、それとも某や玄四郎の、忠誠心を確かめる為なのか?
判断を誤れば、冷遇されてもおかしくない状況下になるのやも知れぬ。
ここは、一か八かに賭けるしかない!)
2人の解答が決まった頃、再び真田敦が、2人に質問をする。
「返答は決まったか?
余に、その方達の回答を述べよ!」
真田敦の強い言葉に、玄四郎と、庄九郎の2人は、お互いに顔を見合わせ、お互いの回答が一致しているのを確認した。
そして、玄四郎が代表をして真田敦に回答を述べる。
「真田様は、人質である我々両人を厚遇される理由ですが。
それは、1人でも多くの有能な人材を、心より欲しておられるからでしょう。
まだ幼い我々両人の隠れた才能に目を付けられ、今の内に取り込もうとお考えになられたのではないでしょうか。」
真田敦は、玄四郎からの回答に、ある程度は満足をした。
欲を申せば、もう一捻りの回答を欲したのであるが、予測をしていた及第点を上回ったので、合格を認めざるをえない。
真田敦が、言葉を出そうとした時に、庄九郎が先に口を開いた。
「真田様、我々は人質の身分でありながら、これ程まで厚遇をされるとは思っておりませんでした。
真田様より賜りし深きご恩は、必ずやお返しを致します。
その為に、我々を、真田様の直臣として、召し抱えて頂きたいのです!
直臣として召し抱えて頂きますれば、この命、尽き果てるまで真田様に忠誠を誓いまする!」
庄九郎からの言葉に、真田敦は言葉を失った。
その言葉こそ、真田敦が求めていた回答であり、譜代の家臣を持っていない真田敦にしてみても、喜ばしい事である。
真田敦は、右手に持っていた扇を開き、力強く口を開く。
「その方達の心意気、この真田敦、しかと確かめた。
その心を忘れぬ限り、その方達を冷遇する事は無いであろう。
今日より、そなた達は、余の直臣として召し抱える。
元服を済ませるまで、時間が有るであろうが、鍛練や勉強等を怠らぬよう!」
真田敦の言葉を聞いた2人は、素早く頭下げた。
松宮玄四郎と、武藤庄九郎の2人の少年は後年、真田夕夏の指揮下で活躍をするのだが、まだ後の話である。
翌日、真田敦は4000の兵と、南条勝成を引き連れ、若狭から丹波を経由し、但馬の山奥に進んでいた。
山奥まで案内をする者は、但馬に古くから住み着いている地元の民である。
約200人程が住んでいる山賊の砦は、普段は人も立ち入らぬ、山奥にあった。
近くの山に登った真田敦と南条勝成は、砦の位置を確認し、比較的開けている北側と南側からの両方から一斉に攻める事を決断する。
南条勝成に3000の兵を与え、北側に回り込ませ、北側に到着をしたら狼煙を上げるように、南条勝成に指示を出した真田敦は、残りの5000の兵達に、自ら先頭に立つことを伝える。
普段であれば、山賊ごときを討伐する事に、真田敦本人が先頭に立つことはあり得ない。
しかし、この山賊だけは、真田敦自らが征伐をしなければならなかったのである。
そう、京都に滞在をしていた時に出会った莉沙の言葉が、真田敦の心に重くのし掛かっていたからである。
莉沙の両親の敵討ちでは無いのだが、信長様の治める領内で、山賊ごときが我が物顔でいることが許せないだけである。
一刻後、北側から狼煙が上がった。
南条勝成が、北側に到着した合図である。
「山賊を皆殺しにせよ!
火矢を放ち、建物を燃やしてしまえ!」
勝成からの合図を確認した真田敦は、愛槍を手に持ち、兵を鼓舞しながら山賊の砦に攻め寄せる。
北側に回り込んだ南条勝成は、やはり先頭に立ち、山賊の砦に攻め寄せた。
「敵は200人あまり!
数々の戦を経験してきた、我々の敵ではない!
さっさと終わらせるぞ!」
砦より攻めてきた山賊を、南条勝成は槍で刺し殺しながら、砦の入口付近まで攻め寄せる。
一方、山賊の方は、今までに見たこともない大軍にいきなり攻め寄せられ、山賊達は完全に浮き足立っていた。
浮き足立っていた配下を、山賊の頭が一喝する。
「あんな奴らに、俺達が負けるわけねえだろうが!
こちらは守りを固め続けて、敵が疲弊をしてここから退いたら、夜襲で追い討ちを仕掛けてやろうぜ!」
山賊の頭からの言葉により、配下の者達は士気を高めたのであるが、それも一瞬の事であった。
南門と北門を守備していた者から、前後して2人の伝令が来たのである。
「頭、南門が破られました!」
「頭、大変です!
き、北門があっさりと破られました!」
2つの門があっさりと破られた事を知った山賊達は、このまま戦う事を継続するよりも、その場から一刻も早く逃げ出す事を選んだのである。
しかし、その場で戦い続けた山賊達も、その場から逃げ出した山賊達も、結果は同じであった。
真田敦の徹底した指示により、山賊達は1人の生存者もなく皆殺しにされたからである。
捕らわれた山賊の頭は、見苦しく命乞いをするも、真田敦は一瞬の間に刀を振り落とし、山賊の頭の首を切り落とす。
山賊の砦に蓄えられていた兵糧と宝物は、配下の者達に褒美として与えたのである。
山賊の砦に火を放ち、全てを灰にしてから、但馬より撤退をして、丹波を経由して若狭に帰ると誰もが思っていたのだが、但馬と丹後の国境まで軍勢を戻した時に、真田敦は大声を出す。
「このまま若狭に引き上げても、皆はつまらぬであろう!
このまま、一気に丹後を攻め落とす!
それぞれの城に蓄えられている財宝や兵糧などは、皆に分配をする!」
真田敦の突然の提案に、配下の兵士達は、やる気を見出だした。
山賊の砦に蓄えられていた兵糧と宝物を分配されただけではなく、更に自分達の取り分を増やしてくれるとの言葉を聞いたからである。
その士気は、まさに天を突き破る勢いであり、真田敦の兵士達は我先にと丹後に攻め寄せる。
真田敦の軍勢は、破竹の勢いに乗り、たった5日後には、丹後にある城を全て攻め落としていた。
これには、南条勝成も驚いており、改めて真田敦の人使いの上手さに感心をしていた。
丹後を制圧した真田敦は、ある程度の守備兵を丹後に残し、若狭に引き上げる。
真田敦は若狭に引き上げている最中に、岐阜にいる織田信長様に使者を出していた。
但馬の山賊討伐と、丹後の平定を伝えなければならないからである。
真田敦からの使者を口上を聞いた織田信長は、その報告に満足をし、後日、褒美を与えるとその使者に伝える。
さて、若狭に戻った真田敦は、正室であるお犬御寮人と、側室である藍御寮人と久しぶりに会っていた。
2人の腕の中には、赤子が眠っていた。
藍御寮人の娘にして、真田敦の八女である優姫と、お犬御寮人の娘にして、真田敦である九女の美穂姫である。
「大事な時に側にいてやれず、本当に申し訳なかった。
戦を理由には、したくはないのだがな。」
真田敦は、2人に頭を下げていた。
そんな真田敦に対して、2人は労いの言葉をかけていた。
「そのような事は、気になさらずともよろしいではありませぬか。
あのときにはお殿様は、大事な事をさなれたのですから。」
お犬御寮人の言葉に引き続き、藍御寮人も言葉を繋ぐ。
「お犬様の言う通りですわ。
それに、生まれてくる赤子達に対して、お殿様は文を残していかれました。
その事だけでも、愛情を感じ取れます。」
お犬御寮人と、藍御寮人の言葉を聞いた真田敦は、2人の腕の中にいる赤子を見ていた。
「優に美穂か。
この子達が成長する頃には、平和な世を築き上げなければな。」
真田敦の言葉に、お犬御寮人と、藍御寮人は、笑みを浮かべていた。
元亀4年(1573年)3月5日、若狭の小浜城に、朝廷より勅使が来た。
勅使よりの言葉によると、真田敦に従五位上越前守に、真田夕夏に従五位下加賀守に任官をさせるとの言葉である。
2人の主君である織田信長は、従四位下の位と、従五位下弾正忠の官職に任官している。
真田敦と、真田夕夏の2人は恐悦至極と申し、勅使と朝廷に対して、献金をすることにより、官職の返礼としたのである。
この時代の官職と言うものは、献金しだいで買えるのである。
真田敦と、真田夕夏の2人は、いつの世も金しだいと言うのも、味気ないものであると、しみじみと感じ取っていた。
元亀4年(1573年)3月8日、真田敦は、小浜城の大広間に家臣を集めていた。
集められた家臣達は、何事かとお互いの顔を見ていた。
集められた家臣達を前に、真田敦が重たい口を開く。
「皆に集まって貰ったのは他でもない。
これより、重大な事を伝える。
余は、3日後に、大型キャラック6隻を率いて、南蛮に向けて出発をする。
約3年間、日の本を留守にするが、余の留守の間は、余の妹である夕夏に全てを任せる。
余の供をするのは、梨那和花姉妹、大内勝雄である。
余の愛用している軍配を、夕夏に預ける。
余の留守の間は、夕夏の命令は余の命令と同じであるがゆえに、そう、心得るように!」
真田敦からの言葉に、真田夕夏を筆頭に、皆は言葉を失う。
それは、そうであろう。
そのような重大な事を真田敦が1人で決めて、勝手に家臣達に伝えたからである。
家臣達がざわつく中、真田夕夏が口を開く。
「兄上、そのような勝手な事を、いきなり申されましても、皆が戸惑うだけです!
何故、その様な重大な事を皆に相談もせずに、1人でお決めになられたのですか。
とうてい、納得出来ません!」
真田夕夏の言葉が切っ掛けとなり、次々と家臣達が口を開き始める。
「お恐れながら申し上げます。
真田家の当主である敦様が、約3年ほど留守にする事を、信長様がお許しになられるとはとうてい思えませぬ。」
本多正信の言葉に引き続き、島清興が意見を述べる。
「本多正信殿の、申す通りです。
国内には問題も多く、やるべき事は山のようにございまする。」
引き続き、梨那も口を開く。
「南蛮に私達姉妹を連れていく目的は、南蛮の技術を学ばせる事と思います。
しかし、私達姉妹がいなくなれば、色々と不都合も起こり得ます。
どうか、お考えを改めて頂けませぬか?」
思わぬ反対意見の多さに、真田敦は頭を抱えて、困った顔をする。
しかし、反対意見が多い事は、真田敦にしてみれば、ある程度の予測はしていたのである。
ならばと、一歩引いた提案を真田敦は述べる。
「ふむ、ではこの提案はどうかな?
梨那和花姉妹を残していく。
余と、大内勝雄だけで南蛮国に視察に向かう。
仕事は自分で探して、造り出すものだ。
与えられた仕事だけをするのは、雑兵だ。
信長様は、いつもそう言われておる。
若狭の領主である某が、南蛮に視察にむかう事は、信長様も最初は反対をした。
しかし、天下布武の完成後に、南蛮視察に向かっても、無駄な時を過ごすだけである。
さいわい、余の留守を任せられる夕夏がいるので、信長様も許しを出してくれたのである。」
真田敦からの、新しい提案に関して、今度は和花が口を開く。
「私と姉上が残るのですか。
信長様より許しも得ているのでしたら、私は反対は致しませぬ。
その代わり、書物等のお土産を希望致します。」
和花が賛成意見を述べると、それまで口を閉ざしていた大内勝雄が口を開く。
「某と真田敦様だけであれば、某も賛成致します。
外海の危なさは、何度も聞かされておりまするし、何よりも南蛮国に向けて船を出す事で、外海での航海の経験を積める事の方が大事です。」
本多正信、島清興らは、信長様より許しは得ているとの言葉を聞いて、しぶしぶ賛成をする。
最後まで反対意見を述べていた真田夕夏も、留守にする期間である3年を必ず守る約束を取り付けて、ようやく賛成をする。
真田敦は、最後にこう述べる。
「今回の視察は、必ずや日の国の為になる。
短期間ではなく、長期間で見て日の国の利益になると信じている。
だから、余は皆を信じる故に、皆も余の事を信じて欲しい。」
真田敦が頭を下げると、皆も自然と頭を下げていた。
その2日後、真田敦は、越前の山奥にある忍の里に顔を出していた。
そう、真田敦に仕えている鉢屋美海が作り上げた、忍の里である。
「美海、忍の育成に問題はあるか?」
真田敦の問いに、鉢屋美海は簡潔に答える。
「忍の素質のある人も集まり、銭や兵糧なども少しずつ貯まって来ております。
あと数年時を頂ければ、伊賀や甲賀にも負けぬ忍の集団を見せる事も可能です。」
美海の返答に、満足をしている真田敦は、1人の少女に目をやる。
まだ、5才か6才ぐらいかと思われるが、なんとなく真田敦の目に泊まったのである。
「美海、あのくの一の名は?」
真田敦がそのくの一に指を指すと、美海は簡潔に答える。
「あのくの一は、若葉と申す者です。
私も目をかけている者で、忍の素質はかなり高いと思われます。
用があるのでしたら、お呼び致しますが?」
「そうして欲しい。
少し、若葉とやらと話をしてみたい。」
真田敦はそう答えると、美海は真田敦の前に若葉を連れてくる。
若葉は、見たこともない人物を目の前にして僅かに戸惑うが、直ぐに平然とする。
そんな若葉を見て、真田敦が声をかける。
「鍛練の最中に呼んでしまい、済まなかったな。
余の名は、真田敦と申す。
そなたの名前は、なんと申すか?」
若葉は、言葉を少な目にに答える。
「若葉と申します。
それで、何かご用でしょうか?
ご用がなければ、失礼します。」
若葉は、そこまで言うと、さっさと姿を消した。
真田敦は、別に怒る事もなく、あご髭を触っていた。
その様子を見た美海は、慌ててその場を取り繕う。
「す、済みませぬ。
まだ子供故に、この度の事は何卒お許しを。」
美海の詞を聞いた真田敦は、普通に返事をする。
「気になどは、別にしておらぬ。
子供であるが故に、あのような態度を取ったのであろう。
そのような小さい事を、いちいち気にしていたら、余の身体が持たぬわ!」
真田敦は、豪快に笑いだし、その場の空気を変えたのである。
夕暮れ近くになったために、真田敦は忍の里に泊まり、翌朝早くに若狭に戻って行ったのである。
元亀4年(1573年)3月12日、真田敦は、大内勝雄と、1500の兵を引き連れて、若狭の港を出航したのである。
出航前に真田敦は、長女である茜に散々泣かれたのであるが、あれこれ手を尽くして、何とか茜を説得したのである。
甘えん坊の茜にしてみれば、約3年もの間、父上と離れるのが嫌だったのであろう。
「見果てぬ夢か。
どのような困難が待ち受けようとも、必ずや乗り越えて見せようぞ!」
真田敦は、そう大声を出していた。
さて、留守を任された真田夕夏であるが、敦賀城に備蓄してある材木の少なさを懸念し、御用商人である土屋権兵衛を呼び出していた。
そこで、真田夕夏は、土屋権兵衛に仕事を依頼したのである。
「権兵衛殿、新しい船の建造用と、陣城に使用する材木を、この量を集めて欲しいのですが。」
真田夕夏は、紙を土屋権兵衛に手渡す。
その紙を受け取り、必要な材木の量を見て、驚愕をしたのである。
下手をすれば、山1つ分の森を切り出す程の量であるからだ。
土屋権兵衛は、何とか平常心を取り戻し、口を開く。
「これ程の量を、どれ程の期間で御用意すればよろしいのですか?
少なくとも、半年、いや1年は期間を頂けませぬと、御用意出来るかどうか。」
その言葉を聞いた真田夕夏は、平然としながら返答をする。
「では、1年の期間を与えますが、そなたの娘である優梨を、私の配下として召し抱えたい。
権兵衛には、嫡男もおるが故に、優梨を私の配下として仕えさせても、さほど差し支えは無かろう?」
真田夕夏からの返答に、土屋権兵衛は顔を真っ青にしていた。
実のところ、長女である優梨に婿を取らせて、自分の後を継がせるつもりでいたからである。
嫡男の吉太郎は、どことなく才覚に乏しいと、権兵衛は感じていたからだ。
しかし、真田夕夏の提案を断れば、間違いなく土屋の家は潰されるであろう。
真田家の後ろ楯無くして、土屋の家は続かない事は、権兵衛に分かりきっているからである。
土屋権兵衛は、首を縦に振るより仕方なかったのである。
数日後、敦賀城に土屋権兵衛は、長女である優梨を伴い、真田夕夏と面会をしていた。
真田夕夏は、権兵衛を下がらせると、優梨との会話を始めた。
最初に口を開いたのは、土屋優梨である。
「お初にお目にかかります。
真田家の御用商人、土屋権兵衛の長女、土屋優梨と申します。
この度のお話し、あまりにも突然の事でありまして、いささか戸惑っております。」
土屋優梨は、頭を下げたまま、なんとか言葉を捻り出すだけである。
その言葉を聞いた真田夕夏は、優しく優梨に言葉をかける。
「貴女の事は、前々から聞き及んでおりましたのよ。
その才覚を、商売だけではなく、天下泰平の為に使って欲しいだけです。
いつまでも、戦乱が終わらなければ、南蛮の国々に、この日の本を侵略されるのやも、知れませんからね。」
応仁の乱以降、約100年間も続いている戦乱の世の中を、なんとかして早めに終結させたい真田夕夏の本音を、土屋優梨に伝える。
まぁ、その言葉の半分は、兄である真田敦の本音でもあるのだが。
真田夕夏の言葉を聞いた土屋優梨は、ある疑問を抱く。
南蛮の国々が、日の本を侵略するという部分である。
土屋優梨は、後に知るのであるが、九州の長崎の地にて、日本人を奴隷として東南アジアの国々に売りさばいているのは、他ならぬ、南蛮の商人達なのである。
真田夕夏はその事を知っているがゆえに、表向きはキリスト教には寛大な素振りをしているが、本音では一刻も早くキリスト教の国外追放を、密かに企んでいたのである。
しかし、主君である織田信長は、キリスト教に対して寛大な措置を取っている。
その寛大な措置の裏を見れば、南蛮の知識や技術等を知る為であるのだが、日本人を奴隷として売りさばいている事実を知れば、織田信長様は、間違いなくキリスト教の排除を行うと、真田夕夏は考えていたのである。
だが、確実な証拠もなく、その事を口にするわけにはいかない。
その証拠を集める為に、真田敦は南蛮の国々に、視察に向かったのである。
真田夕夏は、その事を土屋優梨に分かりやすく伝えるのであるが、やはり土屋優梨には理解出来ない事である。
だが、南蛮の国々が、日の本の敵である事は、優梨の頭の中では、なんとなく理解をしたのである。
真田夕夏の参謀として、優梨は仕える事になるのであるが、優梨の持つ潜在能力を目覚めさせるのに、さほど時間は必要無かったのである。
将軍足利義昭が、元亀4年(1573年)3月26日、また懲りずに、信長打倒の為に、再び挙兵をしたのである。
足利義昭の挙兵を知った織田信長は、柴田勝家や丹羽長秀、羽柴秀吉らを近江に派遣し、数日の戦いにより足利義昭の軍勢を瞬く間に蹴散らす。
元亀4年(1573年)4月5日、朝廷の仲介により、織田信長と将軍足利義昭の和睦が成立するが、多くの者達は一時的な和睦としか見ていなかった。
もはや、織田信長と将軍足利義昭の関係は、修復不可能の所まで来ていたからである。
元亀4年(1573年)6月15日、鉢屋美海からの手の者の報告によると、将軍足利義昭がまたもや、挙兵の為に兵を集めているとの報告が、敦賀城に滞在をしていた真田夕夏の耳に入った。
その報告を聞いた真田夕夏は、土屋優梨と島左近を呼ぶように、身近にいた小姓に命じる。
その小姓は、まるで空を飛ぶかのように、真田夕夏の目の前からすっと走り去ったのである。
2人を待つ間、真田夕夏は軍配を手に持ち、そのまま瞑想に入った。
(今度は、腐れ外道に等しい将軍足利義昭を、京の都から追放してやる!
しかし、若狭から京の都に上洛するには、丸1日は経過するだろうし。
将軍の挙兵の報告を聞いてから、二刻以内には、将軍の身柄を確保したいものだ。
このような時に、兄上がいてくれたら、良い計略を考えるのだろうな。
いや、いつまでも兄上を頼りにするのは、止めなければならぬ。
兄上が留守の間に、残された我々が成長をしなくてはならない。)
真田夕夏がそこまで考えをしていた時に、土屋優梨と島左近が大広間に姿を見せて、すっと真田夕夏の近くに腰を下ろす。
因みに、島左近とは、島清興の事なのだが、真田敦が南蛮に向かう前に、島清興に左近と言う、もう1つの名を与えたのである。
真田夕夏は、2人の姿を見ると、右手に持っていた軍配を動かしながら口を開く。
「将軍足利義昭が、また挙兵をする為に、兵を集めているとの事である。
もう、最後の手段を、我々は取るべきであろうか?」
真田夕夏の言う最後の手段とは、将軍殺害ではなく、将軍の位を剥奪してから、京の都から足利義昭を追放をするという物である。
土屋優梨はともかく、島左近も、将軍足利義昭の態度に、我慢の限界に達していたのである。
そして、島左近が口を開く。
「夕夏様の、言われる通りです。
恩知らずの忘恩の輩は、もう必要ありません!
このままにしておいては、後日の禍根になりましょうぞ!」
島左近の言葉に、真田夕夏は満足げになるも、土屋優梨の考え方を聞きたいと思い、優梨に発言を促す。
優梨は、少し考える振りをしてから口を開く。
「お恐れながら、2人の意見に賛成を致します。
しかし、その事は信長様がお決めになられる事であり、家臣の私達が述べても宜しいのでしょうか?」
優梨の言葉を想定していたのか、真田夕夏は簡潔に返答をする。
「その事は、もう信長様に相談をしてある。
次に、足利義昭が挙兵をしたら、京の都から追放をすると聞いている。
それに、朝廷の方からも、将軍足利義昭追放をする事の許しも得ている。」
真田夕夏の言葉に、島左近と土屋優梨の2人は言葉を失う。
まさか、そこまで話が進んでいるとは、思わなかったからである。
更に、真田夕夏は言葉を続ける。
「足利義昭が挙兵をしやすいように、信玄が再上洛をするとの噂を、上京だけではなく下京にも流しておる。
それだけではなく、他にも色々と手は打ってあるがな。」
真田夕夏の不気味な笑みに、島左近と土屋優梨は、どことなく恐怖を覚えた。
どこまで先を見ているのかが、分からないからである。
だが、真田夕夏の考えている事は、ある程度は信長様の考え方に近いのであろうと2人は考えながら、真田夕夏の前から姿を消したのである。
2人が退出をしたのを確認した真田夕夏は、軽く手を叩く。
すると、隣の部屋に待機していたのか、真田夕夏の婿である津田信澄、いや、真田信澄が姿を見せる。
この2人は、元亀4年(1573年)4月18日に、信長様からの命令により、夫婦になったのである。
夕夏の兄である真田敦も、お犬姫と結婚をしたのも、ある意味、政略結婚と言えるであろう。
政略結婚以前から、どことなく夕夏は信澄の事を好いており、信澄もまた、夕夏の事を少しは、気になっていた様である。
そして信澄は、妻である真田夕夏に口を開く。
「少し、脅しすぎではないのか?
そこまでしなくともよいと思いながらも、隣の部屋から静かに聞いていたがな。」
夫である信澄の言葉に、夕夏は返答をする。
「兄上が留守の間、私が真田家を守らなくてはなりません。
兄上より、この軍配を預けられた以上、敵は徹底的に叩き潰します!」
妻である夕夏の強い決意に、夫である信澄は、生涯この嫁には、頭が上がらぬと密かに思ったのである。
さて、京の都にいる、将軍足利義昭は、武田信玄の再上洛の噂を聞いて、再び兵を集め始めたのである。
もちろん、自分の集めた兵だけでは不安なので、四国に拠点を持つ三好家に援軍要請の書状を送り、摂津の石山本願寺にも、援軍要請の書状を送り付けたのである。
それから1ヶ月ほど過ぎた、元亀4年(1573年)7月15日、三好家から書状の返答が、将軍足利義昭の元に届いた。
その書状を開き、内容を見る為に素早くその書状に目を通すと、足利義昭は手を叩いて喜んだのである。
その書状の内容は、既に三好家の軍勢は摂津に上陸をして、石山本願寺を包囲している織田軍に、攻撃を開始したと書かれていた。
更に、甲斐の武田信玄が、遠江にある浜松城を落城させたとの報告が、上がったのである。
浜松城は、徳川家康の居城であり、遠江支配には欠かせない重要な城でもある。
徳川家康はそこを失い、三河の岡崎城に逃げたのであれば、岐阜に滞在をしている織田信長と言えど、安心は出来まいと足利義昭は考えを巡らしていた。
「今が、最大の機会である!
余は、信長打倒の兵を上げる!
散々余を馬鹿にしてきた信長めに、復讐を果たすときであるぞ!」
足利義昭は、声を高々と上げていた。
将軍、京都にて、再挙兵する!
この知らせは、瞬く間に全国各地に広がったのであるが、一部の大名を除いて殆どの大名が様子見をしていたのである。
力のない将軍が、また挙兵をしようとも、直ぐに鎮圧されるだけだろうと。
無駄な努力は、する事はないだろうに。
静観をしていた大名達の本音は、このような物である。
将軍足利義昭が挙兵をしてから、約二刻後(約4時間)、槙島城に三好家の援軍が到着したのである。
8000あまりであるが、先陣の大将らしき人物が、槙島城の大手門を守備する大将に向けて大声を出す。
「某は、三好政康様にお仕えをする者である!
主君である、三好政康様の命により、将軍足利義昭公の援軍に参った!
大手門の、開門を願いたい!」
その声を聞いた大手門の守備大将は、自分の上役にその事を報告し、その上役はまた上役に報告をする事を繰り返して、ようやく将軍足利義昭公にその報告が上がったのである。
「なに、三好政康の援軍が参っただと?
よしよし、やはり副将軍の地位に、目が眩んだようであるな。
大手門を開き、三好政康の援軍を槙島城に迎え入れよ!」
将軍足利義昭の命により、槙島城の大手門が開かれ、三好政康の援軍が槙島城の大手門に入り始めた時に、突如異変が起きたのである。
味方だと思っていた三好政康の足軽が、大手門の守備大将に槍を突き出して、その守備大将を刺し殺したのである。
守備大将を刺し殺した足軽は、声を高々と上げる。
「さっさと大手門を制圧して、本丸に攻めかかるぞ!
足利義昭の身柄を確保した者には、夕夏様から沢山の褒美が与えられるぞ!
野郎共、死ぬ気で戦い抜け!」
大声を張り上げたのは、真田敦の左腕とも言える、南条小助勝成であった。
南条小助勝成が声を出した後で、別の人物も声を出したのである。
「足利義昭公に、傷を付けてはならぬ。
無傷で必ず捕らえよ!
足利義昭公に害を与えた者は、身分を問わず死罪に処する!」
面当てを外した島左近も、槍を手に持ちながら、その言葉を何度も口にしていた。
思わぬ突然の出来事に、足利義昭の集めた足軽達は、ある者は命乞いをし、ある者は本丸に逃げ出し、またある者は、その場にて戦いを繰り広げる。
誰よりもこの状況に一番驚いたのは、将軍足利義昭であろう。
味方だと思っていた三好政康の援軍が、実は真田夕夏率いる軍勢だとは、全く考えていなかったのである。
旗印も三好政康の物であり、書状も三好政康の印が記載されていたからである。
何よりも、挙兵をしてから僅か二刻で、越前の地から、京都にある槙島城に姿を見せるなど、どう考えてもあり得ない事であるからだ。
だが、現実問題を見れば、自分が配下に命じて集めた足軽達は、あっさりと蹴散らされているのである。
「こんな場所で、死ぬわけにはいかぬ!
余は、征夷大将軍であるのだ!
武家の頂点に立つ者であるのだ!
な、なんとしても生き延びねば!」
足利義昭は、まだ2才になったばかりの嫡男を引き連れて、槙島城の本丸より姿を消した。
同じ頃、槙島城の大手門の前に陣を敷いている、真田夕夏と、土屋優梨は、本丸が陥落した報告を受け、更には、将軍足利義昭の姿が本丸より消えたとの報告も受けていた。
その報告を聞いた優梨は、軍配を握り締めている夕夏に言葉をかける。
「夕夏様、本丸は陥落致しましたが、将軍足利義昭公の姿は見えないとの事です。
恐らくは、槙島城の城内に隠れていると思われますが。
新手を出して、捜索に向かわせますか?」
優梨の言葉に、夕夏は反対をする。
「いや、新手を出す必要は無かろう。
城内を捜索すれば、必ずや見つかるであろう。
しかし、あの将軍と言えど、ここまで早く槙島城を陥落させられるとは思わなかったであろうな。」
夕夏は、表面に天上天下、その裏側に夕夏独尊の文字の刻まれた軍配を、左右にゆっくりと動かす。
その仕草を見ながら、再び優梨が口を開く。
「しかし、ここまで夕夏様の策略が的中するとは、この土屋優梨、夕夏様の慧眼に真に感服致します。
京都にある複数の寺に旅人を装い、予め兵を京都に潜り込ませるとは。
将軍足利義昭が挙兵をしたら、その兵達を速やかに洛外に集めて、将軍のいる居城を包囲する。
それだけではなく、三好政康の旗印や偽造をした印まで用いる。
これほどの策略を考え付くのは、日の本広と言えども、夕夏様だけでございましょう。」
優梨の本音を聞きながら、夕夏は静かに返答をする。
「日の本であれば、この程度の策略を考え付く人物は多かろう。
例えを上げるのであれば、竹中半兵衛殿、小早川隆景殿、黒田官兵衛殿、武藤喜兵衛殿(後の、真田昌幸)や、隠れた人材もいるであろう。
そう言う方々に、まだまだ私は遠く及ばぬ。」
夕夏の本音を聞いた優梨は、謙遜をしているのか、それとも本音なのかを判断出来ずにいた。
その2人の元に、将軍足利義昭を発見したとの報告が上がった。
その報告を聞いた二人は、馬廻り衆を引き連れて、槙島城に入場をしたのである。
その頃、岐阜にいた織田信長はと言うと、将軍挙兵の報告を聞くなり、7万の軍勢を率いて岐阜を出発し、琵琶湖に造らせていた巨大な戦船に兵達を乗せて、琵琶湖を一気に横断、対岸に位置する坂本の地に上陸をして、普通であれば岐阜から京都に移動をするのに3日間は掛かる道のりを、わずか2日で済ましてしまったのである。
坂本の地に上陸をした織田信長は、そのまま京都にある二条城に攻めかかり、わずか一刻(約2時間)で二条城を落城させ、即座に二条城の棄却を配下に命じ、信長自身は約6万の兵を引き連れて、槙島城に向かったのである。
だが、信長が槙島城に到着した時には既に、槙島城は落城をしており、将軍足利義昭の身柄も確保をしているとの報告を、真田夕夏より受けたのである。
将軍足利義昭の身柄確保よりも、なぜ越前にいる真田夕夏が、信長よりも先に京都に辿り着いたのか?
その疑問を信長は心の中で持つのであるが、真田夕夏よりこの度の迅速な対応を聞くなり、信長は改めて、真田夕夏の才能に惚れ込んだのである。
将軍足利義昭公の処遇に対しては、信長の決断は非情なものであった。
元亀4年(1573年)7月18日、将軍足利義昭を京都より追放。
将軍足利義昭の追放に関しては、朝廷からの許可も得ており、事実上の足利幕府滅亡の瞬間でもあったのである。
京都より追放された将軍足利義昭は、各地を転々として、天正4年(1576年)備後にある鞆にまで所在を移した。
京都より追放されたと言えども、征夷大将軍の位を剥奪されたわけではなく、人によっては、鞆幕府と呼ぶ者もいたと言われている。
鞆の地は、足利幕府初代将軍である、足利尊氏が光厳天皇より、新田義貞追討の院宣を受けた場所である。
(院宣とは、天皇が発する宣旨に相当する。)
その為に、征夷大将軍の権威をもって、信長包囲網の再構築にも、暗躍をするのであるが、それはまた後の事である。
将軍足利義昭の追放の知らせは、日本各地に伝わる。
これに憤りを抱いたのは、越後の上杉謙信と、中国地方を支配している毛利家に仕えている、清水慎之介であった。
上杉謙信に関しては、関東管領に就任をしているからである。
更には、足利幕府13代将軍足利義輝にも、拝謁をしている事から、打倒織田信長の意欲を持ち始めていた。
清水慎之介に関しては、ただ純粋に足利幕府の滅亡を許せないからである。
のちに、清水慎之介は、こう言葉を残している。
「源平の世代交代は、世の常と言えども、織田信長のやり方は強引すぎる。
いずれ、因果応報の報いを受けるので無かろうかと。」
この言葉は、清水慎之介が残した日記に記されていただけであり、本当にこの言葉を他人に聞かせたのかは、不明である。




