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真田公記  作者: 織田敦
19/33

決戦! 三方ヶ原の戦い 

織田信長と真田敦達が、畿内や北陸の対応に追われていた頃、甲斐の武田信玄は、上洛の為の準備を、着々と進めていた。

外交的にみれば、関東の北条氏政と相甲同盟の締結を実現させ、更には、2000の軍勢を援軍として、北条氏政から出させたのである。

これは、北条氏政の裏切りを防ぐ意味もある。

武田信玄の遠征中に、北条氏政が甲斐に出陣をしてもおかしく無いからである。

隣国と同盟締結をしたからと言って、本当に安心が出来るかと聞かれれば、本当に安心が出来ないのが戦国時代なのである。

更には、北条氏政の背後を脅かす為に、常陸の佐竹氏や、下野の宇都宮氏などにも、使者を派遣して、友好関係を築いていた。

北陸地方で言えば、加賀の一向一揆衆を越中に派遣。

越中で蜂起させて、越後に侵略する様子を見せ付ける。

そこまで策を施して、ようやく越後の上杉謙信の動きを封じ込めたのである。

畿内で言えば、摂津の石山本願寺を再び蜂起させ、織田信長の精鋭部隊を石山本願寺包囲に向かわせ、その隙に遠江を支配する、徳川家康を攻撃する予定であった。

当然、徳川家康にしてみれば、徳川家単独で武田信玄には、対抗出来ない。

岐阜の信長公に、援軍を要請して、浜松城に籠城するしか策はない。

しかし、信長の精鋭部隊を石山本願寺に向かわせてしまえば、さほど多くの軍勢を援軍として送り出す事が出来ないと、信玄は見ていた節がある。

その考え方は、脆くも崩れ去るのだが、まだ、信玄には知る事が出来なかったのである。

信玄の外交は止まる事を知らず、中国地方の毛利輝元や四国の三好三人衆なども巻き込み、壮大な織田信長包囲網の完成を企んでいたのである。

その包囲網も、約9割完成したのを見届けた武田信玄は、元亀3年10月下旬、甲斐から出陣、遠江にある二俣城を目掛けて進軍を開始したのである。

武田信玄の出陣を、あるものは喜び、別のあるものは、知らぬ顔をしており、また別のあるものは大変困った顔であり、また、更にあるものは、不気味な笑みを浮かべていた。

細かく言うならば、将軍足利義昭は、手を叩いて喜んでおり、織田信長は、相変わらず平然としており、徳川家康は、心神喪失になりかけており、真田敦と真田夕夏の2人は、不気味な笑みである。



元亀3年10月中旬、武田信玄の別動隊を率いる秋山信友は、東美濃にある岩村城を攻撃。

織田信長と、武田信玄との間に結ばれていた同盟の破綻を示すものであり、織田信長はその報告を聞くなり、北近江の浅井長政と越前の真田敦に、兵を整えて岐阜に来るように使者を出した。

浅井長政は5000の兵を集め、早々に岐阜に向けて進軍を開始、真田敦は完成したばかりの敦賀城に滞在しており、武田信玄に対抗する為の軍議を開いていた。

「武田信玄が、愚かにも上洛と言う叶わぬ夢を見て、徳川様の遠江に攻め込んできました。」

最初に口を開いたのは、真田夕夏である。

その言葉に、真っ先に反応したのは、島清興である。

「しかし、武田信玄殿の力量を考えれば、遠江や三河を制圧なされるのでは?」

あり得る事であるが、大内勝雄がそれに反論をする。

「たかが、2万5000程度の兵力で、遠江と三河を素早く制圧出来ますかな?

補給線などを考えれば、遠江の制圧で終わるかと。」

大内勝雄の言葉に、南条小助が賛成する。

「徳川様の最大兵力は、8000あまりでしたな。

我々や浅井備前様、織田信長様からの援軍を合わせれば、2万は超えるでしょう。

武田信玄ごとき、我々の敵ではありません!」

その言葉に、前田利家が不安を口にする。

「小助殿、武田信玄の率いる軍勢は、日の本一とも、言われております。

軽々しく、我々の敵ではないと言えますか?」

前田利家の言葉に、池田恒興も賛成する。

「指揮権が個別では、力を発揮できるとは思えませぬ。

ここは、やはり遠江の守りを固めて行くのが得策かと。」

そのやり取りを、真田敦は黙って聞いていた。

両方の言い分に、それぞれ部があるからだ。

「双方の意見は聞いた。

余が、最終判断を下す。

越前若狭の兵力、8000を繰り出し、武田信玄を討ち取る!

武田信玄ごときに負けていては、天下布武の完成はしない上に、南蛮遠征も夢に終わるからだ!

前田利家と、池田恒興の両人は越前の守りを固めよ!

真田夕夏、南条小助、大内勝雄、島清興、鉢屋美海は、余に従い岐阜に向かう!」

真田敦の言葉に、家臣達は頭を下げ、その命に従った。

軍議が開催される数日前、真田敦と真田夕夏の2人は、武田信玄の出陣を聞いて以来、遠江と三河の絵面図を見ていた。

そう、去年の夏に、鉢屋美海に命じて、半年あまりの時間を掛けて作成させた物である。

そして、その2人が同時に指を指した地形は、遠江にある三方ヶ原であった。

崖に囲まれた広大な台地であり、その台地を下るには、祝田の坂を下りなくてはならない。

その三方ヶ原の台地に陣城を築き、信玄の軍勢を迎え撃つのである。

しかし、徳川家康の軍勢は、浜松城に集まっており、織田信長と浅井長政の援軍も、浜松城に入るのである。

真田敦の手持ちである、8000あまりの軍勢で武田信玄の軍勢を迎え撃つ事は、本当に可能であろうか?

真田敦と真田夕夏の兄妹は、数日間考えていたのであるが、梨那和花姉妹に作らせていた兵器の大量生産と、新型の火縄銃の改良の成功により、2人は三方ヶ原にて、武田信玄を迎え撃つ決意をしたのである。

その為に、武田信玄に対抗する軍議が開催されるまで、誰にも秘策を喋る事はなかったのである。

元亀3年11月中旬、真田敦は、家臣と8000の兵を率いて、岐阜城に入城したのである。

遠江に向かう前に、真田敦は正室であるお犬御寮人と、側室である藍姫と会っていた。

2人とも、もうすぐ出産間際の体であるために、負担がかからないように、3人の会話の時間は短めであった。

真田敦はそれぞれに、書状を1枚ずつ手渡した。

生まれてくる子供の名前が、その書状には書かれていたのであるが、どちらが生まれるか分からない為に、男女の名前が記してあったのである。

書状を受け取った2人は、子供が生まれるまでその書状を大切にしていた。

真田敦は、8000の軍勢を率いて、岐阜城に向けて進軍を開始したのである。



元亀3年11月21日、岐阜城に到着した真田敦は、すぐさま信長様に呼び出され、大広間に案内された。

石山本願寺包囲に向かっている家臣達を除く、織田家の家臣達がずらりと座っていた。

浅井長政本人も座っており、よく見れば浅井家臣団も座っていたのである。

真田敦も、大広間の床に座り、信長様からの言葉を待っていた。

「皆揃ったようだな。

では、始めるとするか。

先程、三河の家康から援軍要請があった。

畿内の事もあるので、あまり多くの援軍は出せぬ。

それが故に、家康には籠城をさせようと思うが、誰か他に意見はあるか?」

信長からの言葉に、反対意見を言える家臣などが、織田家に存在するわけがない。

いや、しいて言えば真田敦と真田夕夏ぐらいかと思われる。

その真田敦が手を上げて、発言の許しを信長様に求めたのである。

それを見た信長は、顎を軽く動かし、真田敦の発言を許した。

「信長様、三河様に援軍を出すと申されましたが、どれ程の援軍を出すのですか?

某と、浅井備前様を岐阜に呼ばれたからには、三河様の援軍に向かわせるのは分かりますが、それ以外に援軍を出されますのでしょうか?」

真田敦に言わせたら、こちらからの援軍の数が分かれば、いざとなれば野戦を視野にいれなくてはならないからだ。

真田敦からの質問に、織田信長は簡潔に答える。

「そなたの軍勢と備前の軍勢、それと余から8000の援軍を出す。

それらを合わせれば、2万は超えるだろうな。

もしや敦は、野戦を考えているのであるか?」

信長からの言葉に、真田敦は軽く頷く。

信長は、その反応に対して怒る事もなかった。

真田敦が、野戦を視野に入れているのであれば、必ず何かしらの策を考えていると、信長が考えた為である。

元亀3年12月1日、織田信長は、林秀貞、平手汎秀、滝川一益の3人に8000の兵を与え、浜松城に滞在している徳川家康を救援する軍勢を出陣させた。

その次に、浅井備前長政が、5000の軍勢を率いて浜松城に向かった。

最後に、真田敦が8000の軍勢を率いて、岐阜城から出陣したのであるが、あくまでも別動隊としての出陣である。

出陣の前日、敦は信長に人目を避けて、岐阜城に来るように命じられていた。

信長にしてみれば、敦の考え方を聞きたいが故の処置である。

敦は、信長のみに聞こえる程度の小声で、妹である真田夕夏と考えに考え抜いて作り上げた必勝の策を、信長だけに伝えたのである。

その必勝の策を聞いた信長は、改めて敦の軍略の才を認め、真田敦の軍勢を別動隊として派遣する事を決めたのである。

その間、武田信玄の方の行動とは言うと。

山県昌景率いる別動隊が、東三河にある長篠城を攻略、馬場信春率いる第二の別動隊が、遠江にある只来城を攻略。

武田信玄率いる本隊は、10月15日に二俣城の回りにある小城を素早く攻略。

3日後である10月18日に、二俣城を完全に包囲をする。

10月20日に、山県昌景と馬場信春率いる別動隊が、武田信玄の本隊と合流。

山県昌景と馬場信春が合流したのちに、武田信玄は二俣城に降伏の使者を派遣するも、二俣城城主中根正照は、即座に拒否をする。

その報告を聞いた武田信玄は、二俣城に攻撃を開始する。

しかし、二俣城は兵力は1200あまりであるが、城の防御力はかなり高く、何度も攻め手を撃退する。

力攻めでは、二俣城が落ちないと判断をした武田信玄は、二俣城の裏手にある井戸櫓に目を付ける。

二俣城は、天竜川と二俣川の合流地点の丘の上に築かれた城であり、天然の要塞とも言えるのであるが、二俣城の城内には、井戸が無かったのである。

その為、天竜川と二俣川から水を組んで、二俣城内で使うのである。

それが故に、井戸櫓は二俣城の生命線であり、この場所を破壊される事は、落城を意味すると言える。

どんなに食料が大量にあっても、水が1滴も無いのであれば、長期の籠城は出来ない。

武田信玄は、井戸櫓に向けて手持ちの鉄砲を使い、二俣城の大手門から、二俣城の裏手にある井戸櫓の破壊に切り替えたのである。

10日間あまりの戦闘により、ようやく井戸櫓の破壊に成功した武田信玄は、再度、二俣城に降服の使者を派遣する。

水の手を絶たれた中根正照は、城兵の助命と浜松城に落ち延びる事を条件に、武田信玄に降服。

12月18日、二俣城を明け渡した中根正照率いる軍勢は、後ろを振り向く事無く浜松城に落ち延びて行ったのである。

武田信玄率いる本隊は、無人となった二俣城に入城をして、すぐに兵達に休息を命じた。



12月19日、中根正照率いる軍勢は浜松城に到着、主君である徳川家康に、二俣城落城を報告した。

徳川家康は、中根正照に温かい言葉を掛け、ゆっくりと休むように命じて、その場から、中根正照を去らせた。

徳川家康は、自分の家臣と、浅井長政、真田敦達に意見を求めたのである。

武田信玄に対抗する為の、軍議を始めた。

「二俣城を落城させた武田信玄の次の狙いは、浜松城であろうか?」

酒井忠次が、最初に口を開くと、本多忠勝も意見を述べる。

「織田殿と、浅井殿の援軍により、こちらの軍勢は約3万になりもうした。

これであれば、野戦に持ち込んでも勝てるのではないでしょうか?」

「しかし、武田信玄率いる軍勢は、日の本一とも言われておる。

ここは、当初の予定通り籠城策に従うべきでは無いでしょうか?」

石川数正が、本多忠勝の意見に反対意見を述べる。

「我々は、武田信玄と遠江の支配を掛けて、戦い続けたのである。

織田殿と浅井備前殿の援軍もあるのであるから、負ける事はなかろう!」

反対意見を出した石川数正に対して、本多忠勝が再反論を口にする。

そこに割り込むように、真田敦が手を上げて発言をする。

「徳川様、この辺り一帯の絵図はありますか?

籠城策にしろ、野戦に挑むにしろ、ある程度の地形を知りたいのですが。」

真田敦の冷静な言葉に、徳川家臣団は少し黙る事になった。

徳川家康は、小姓に命じて絵図を持ってこさせ、床にその絵図を広げて真田敦に見せたのである。

真田敦が静かに、遠江一帯の絵図を見ている間も、野戦を挑む発言と、籠城策を用いるかの発言が、繰り返されていた。

真田敦が、絵図から視線を離した時に、徳川家康が真田敦に言葉をかける。

「真田殿、この浜松城から出て、東三河にある吉田城の守りを固めて貰えませぬか?

浜松城には、約3万の兵がありますが、吉田城には2000足らずの兵しかおりませぬ。

真田殿の兵を、吉田城に移して貰えば、約1万の兵になりまする。

この願いを、叶えて貰えませぬか。」

上座に座る徳川家康は、真田敦に頭を下げたのである。

真田敦にしてみれば、三河守様にそこまでされては、願いを断る訳にもいかず、その願いを聞き入れたのである。

真田敦は、配下の兵を引き連れて浜松城から、吉田城に移動を開始したのである。

真田敦が吉田城に移動を開始した頃、軍議は一応の答えがでたのである。

当初の予定通り、浜松城にて籠城策を取ることで、まとまったのである。

さて、二俣城にて休息を取っていた武田信玄は、翌日である12月21日には、浜松城に潜入せていた間者から、徳川家康の開いた軍議の結果を知らされた。

その結果を聞かされた武田信玄は、予定を変える事無く、12月23日に二俣城を出陣。

わざと、浜松城にかなり近寄るも、その浜松城を無視するかのように、三方ヶ原に向けて進軍をしたのである。

浜松城の近くまで進軍していながら、浜松城を素通りした武田信玄に対して、籠城策を取っていた徳川家康達は、それぞれの考え方があった。

徳川家臣団は、我々が相手ではなく、織田信長が敵なのかと憤慨し、浅井長政は、なんとか武田信玄の策を見破ろうと必死に考え、滝川一益達は、三河から尾張に戦場が移るのではないかと、一抹の不安を感じ取ったのである。

徳川家康はと言うと、武田信玄に舐められたと言うよりも、遠江の国人衆達が、更に武田信玄に寝返るのではないかと、不安を隠せなかった。

しかし、武田信玄が三方ヶ原に向かったと、斥候の者から知らされた徳川家康は、絵図を小姓に持ってこさせ、三方ヶ原に視線を落とす。

左右は崖になっており、北側には細く狭い祝田の下りの坂道しかない。

武田の軍勢がその道を下る前に、逆落としの要領で後ろから攻撃をすれば、武田信玄を討ち取れるのではないかと、僅かな期待を抱く。

孫子の兵法にも、高きより低きを見るは、勢い既に破竹の言葉もある。

徳川家康は、2000の兵を浜松城に残し、出陣をする決意を固める。

「武田信玄を追いかけて、三方ヶ原の山頂よりより、武田の軍勢に対して逆落としを行う!

夏目は、2000の兵を与えるので、浜松城を守るように。

備前殿、滝川殿達も何か意見はございますか?」

浅井長政に、滝川一益らも、反対意見を出すのを止めたのである。

反対意見を出せば、徳川殿の矜持を傷付ける事になるからである。

徳川家臣団は、武田信玄の追撃に賛同、徳川家康は約1万8000の兵を引き連れて、三方ヶ原に向かった。

三方ヶ原に進む武田信玄は、徳川家康を浜松城から出陣させる為に、わざと浜松城を無視したのである。

老獪な武田信玄と比べれば、徳川家康は子供同然に等しい。

矜持を傷付けられたと考えれば、必ず徳川家康は、浜松城より出陣をすると読んでいた。

武田信玄は、微笑みながら進軍をさせたのであるが、武田信玄ですら読めなかった事が起きたのである。

そう、武田信玄の先陣が三方ヶ原に登った時に、目の前にあったのは、馬防柵が2重に作られ、更にその奥にも馬防柵が3重に作られていた陣城の存在である。

そう、吉田城に籠城していたはずの真田敦が、12月21日に三方ヶ原に突如進軍をし、陣城を作り始めていたのである。

浜松城より徳川家康を釣り出したと思っていた武田信玄は、実は、二俣城から、真田敦により釣り出されたのである。

その事を報告された武田信玄は、全軍を三方ヶ原に登らせ、魚鱗の陣を敷いて真田敦の軍勢と対陣する。



真田敦の方は、最初の馬防柵の中央に南条小助、左側に島清興、右側に大内勝雄が、それぞれ1500の兵を引きいて、守りを固めていた。

後ろの馬防柵に、真田敦率いる3000の本隊と、真田夕夏率いる500の遊撃隊が、守りを固めていた。

後の世に、三方ヶ原の戦いと言われる戦いの火蓋が、切って落とされたのである。

「武田の弱兵などに負けぬ!

真田の軍勢の強さを、思い知らせてやれ!」

中央に布陣する南条小助は、大声を張り上げ、愛用している槍を勢いよく振り回し、配下の兵の士気を高める。

同じ様に、左右に布陣する大内勝雄と、島清興の2人も、武田信玄率いる軍勢に対して、気持ちで負けぬように、兵の士気を高める努力をしていた。

「我々には、天の加護、地の利、人と人との、固い団結力がある!

甲斐の山猿にごときに、決して負けない」

大内勝雄は、愛用の弓を構え、天に向かって矢を放つ。

「我々が作りし、この堅固な陣城。

武田騎馬隊などに、越えられぬわ!

真田夕夏様の智謀は、甲斐の山猿などに負けぬ!

この戦にて、甲斐の山猿を討ち取り、我らの武勇を天下に轟かせよ!」

島清興は、愛用の刀を天に向かって掲げる。

前の馬防柵を守る3人は、後ろに布陣している、真田敦夕夏兄妹の事を、心の奥底から信頼しているのだ。

この主君と家臣達の信頼感に関しては、日の本一と言っても、過言ではないと言えよう。

一方、馬場信春と山県昌景の2人は、6000あまりの兵を率いて、待機をしていた。

総大将である武田信玄からの、開戦の許可を待っているからである。

数分後、本陣から放たれた百足衆の到着により、馬場信春と山県昌景は表情を固くする。

百足衆と言うのは、武田信玄が作り上げた伝達部隊の事である。

本陣から前線に指示を送る時や、逆に前線や中陣からの報告を伝える時にも、この百足衆を使うのである。

その百足衆が、2人の前に現れて片膝を地面について、武田信玄からの指示を口にする。

「御館様からの、指示を申し上げます。

馬場信春、山県昌景の2人は、速やかに攻撃を開始し、目の前にいる真田の軍勢を蹴散らせとの事でございます。」

その言葉を聞いたら馬場信春は、直ぐに百足衆に返答をする。

「御館様の御言葉、確かに承知した。

これより、敵陣に攻撃を開始する!」

「我ら、武田の軍勢が京の都に上洛する為にも、さっさとこの戦を終わらせようぞ!」

馬場信春に引き続き、山県昌景も、豪快な言葉を口にする。

その言葉を聞いた百足衆は、2人に頭を下げてから本陣に向かって去っていき、それを見届けた2人は、太鼓を勢いよく叩き、真田敦が作り上げた陣城に攻撃を開始したのである。

「このような馬防柵など、踏み潰せ!」

馬場信春率いる足軽大将は、初めの馬防柵に取り付き、馬防柵の破壊を試みるも、次の瞬間には、胸元を槍で貫かれる。

「貴様ごときに、この馬防柵を壊せるものか!」

南条小助の率いる足軽大将が、敵である足軽大将を倒す。

馬防柵を壊す側と、馬防柵を守る側との、激しい攻防が繰り広げられていた。

その様子を、本陣から放たれた真田敦と真田夕夏が静かに見ていた。

「武田信玄は、こちらに来ると思うか?」

真田敦の言葉に、真田夕夏は横に顔を動かす。

「武田信玄の旗印は、風林火山でしたね。

つまりは、動かざるごと山の如く。

易々と、こちらの罠に掛かるとは思えませぬ。」

夕夏の言葉に、敦は顎に手を当て、小さい声で呟く。

「風林火山か。

その後の続きで、雷と陰の言葉もあったが、内容は忘れたわ。

疾きこと、風の如く

徐かなること、林の如し

侵掠すること、火の如く

動かざること、山の如し

今は、山の如しの姿勢を貫くか。

ならば、引きずり出すまでよ!」

真田敦の言葉に、不気味な笑みを浮かべる真田夕夏の姿があった。



南条小助達率いる先陣と、馬場信春と山県昌景率いる先陣の戦いは、一進一退の攻防が続き、約半時ほどが過ぎようとしていた。

業を煮やした武田信玄は、親族衆である小山田信茂に2000の兵を与えて、馬場信春と山県昌景の援軍に向かせた。

小山田信茂の援軍を得た馬場信春と山県昌景は、攻勢の勢いを増して最初の馬防柵を破壊に成功し、2つ目の馬防柵の破壊を目的にし、槍を振り回し大内勝雄らの足軽を蹴散らし始める。

その様子を見た南条小助は、自ら前線に立ち、怒りを抑えながらも、激しく槍を振り回し山県昌景の足軽を倒していく。

そして、戦場を所狭しと暴れまわる、山県昌景の姿を見つけたのである。

「そこの武者!

我は、真田敦が重臣の1人、南条小助!

足軽ばかり相手にしないで、腕に自信があるなら我の相手をしろ!」

南条小助の挑発に、山県昌景がそれに乗る。

「某は、武田四天王が1人、山県昌景!

そなたのような、強そうな相手に出会えた事に、天に感謝するぞ!」

強そうと言う言葉に、小助が怒る。

「強そうだと?

そのような言葉、そなたの首を取り、我が強いことを武田信玄に知らしめてやる!」

小助は、そう言うなり、山県昌景に向けて走り出した。

同じ頃、大内勝雄は、馬場信春の姿を見つけた見つけるも、討ち取る事をしないで、なぜか守勢に回る事に徹していた。

島清興も、小山田信茂の姿を見つけるも、やはり守勢に回る事に徹していた。

「信茂の援軍により、前線が動いたみたいだな。」

武田信玄の言葉に、武田四天王の1人である、内藤昌豊が答える。

「百足衆からの報告によれば、最初の馬防柵を壊し、次の馬防柵の辺りで交戦をしているとの事でございます。」

内藤昌豊の言葉に、なぜか武田信玄は、不安を抱いた。

たしかに、馬防柵を破壊した事は良いのであるが、このまますんなりと事が運ぶのであろうか?

慎重に慎重を重ねる、武田信玄らしい考え方である。

「のう、夕夏?

ぼちぼち、仕掛ける頃合いか?」

真田敦の言葉に、夕夏が反応する。

「戦が始まってから約半時ほど過ぎましたが故に、先陣にいる小助達をこの本陣まで下げましょう。」  

「細工をりゅうりゅう、仕上げをごろうじろかな。」

「それを言うなら、人事を尽くして、天命を待つ。」

真田敦の言葉に、夕夏が適切な言葉に訂正をする。

「そうかもな!

よし、法螺貝を吹け!

小助達に、撤退の合図を送れ!」

真田敦の号令により、一斉に法螺貝が吹かれる。

ブォォーブォォーブォォ!

法螺貝を聞いた大内勝雄と、島清興は手勢をまとめて、撤退の準備を始めた。

山県昌景と一騎打ちの最中の、南条小助も法螺貝の音を聞き付け、山県昌景を捨て置いて、その場からはなれようとする。

「一騎打ちの最中に、逃げ出すか!」

山県昌景の挑発に南条小助は、吐き捨てるように言葉を返す。

「敦様から、撤退の命令が出た以上、貴様ごときに、何時までもかまってられぬわ!」

南条小助は、わざと山県昌景の馬の尻を槍で叩き、山県昌景の乗っている馬が暴れだした瞬間に、その場から素早く離れる。

山県昌景が暴れていた馬を静める時には、南条小助の姿はもちろん、島清興、大内勝雄の手勢も本陣まで撤退をしていた。

怒り心頭の山県昌景は、馬場信春と合流をし、すぐさま真田敦の本陣目掛けて兵を進めた。

馬場信春と山県昌景が、真田敦の本陣目掛けて進軍を開始をした頃、小山田信茂はその場に止まっていた。

新しい百足衆から、武田信玄からの伝令を聞いた為である。

小山田信茂の軍勢はその場に止まり、武田勝頼の兵を新しく前線に投入するとの事である。

小山田信茂の軍勢は、第2陣として、前線に立つ3人の後方支援に回る事になった。

馬場信春は右側、山県昌景が中央の馬防柵に攻撃を開始し、少し遅れて武田勝頼が左側の馬防柵に攻撃を開始した。

3人の率いる総勢は約1万になり、馬防柵の内側で、必死で守りを固めている大内勝雄、南条小助、島清興率いる総勢は約4000あまりである。

数の上でも、いずれは馬防柵を破壊されるのは時間の問題であるが、なぜか真田敦と真田夕夏の二人は動きを見せない。

じっと戦況を見守り、適切な指示を前線に送るだけにしている。

いや、真田敦と真田夕夏の2人は、動かないのではなく、動けないのである。

武田信玄率いる軍勢の強さに、かなりの誤算をしていたからである。

先ほど、2人が見せた余裕は、見せかけの余裕であったのだ。

武田信玄率いる軍勢の強さは、日の本一の強さと言われるだけの事もあり、わずか半刻(約1時間)あまりで本陣まで攻められる事を、まったく想定していなかったのである。

2人の内心では、あと四半時(約30分)ほど時間を稼げれば、起死回生の策を打てたのであるが、まだその手を打つには早すぎる。

それが故に、2人の頭の中では必死になって、現状の打開策を見出だそうとしていた。

三方ヶ原の戦いで、武田信玄を討ち取る計画で、三方ヶ原の地で二段構えの陣城を築いたのだが、それですら武田信玄率いる軍勢の前では、なんの役にも立たなかった。

このままでは、全滅もするやも知れないとの焦りが、本陣にいる真田敦と真田夕夏の2人に襲いかかる。



その頃、武田信玄の本陣では、異変が起きていた。

12月下旬の寒さ故か、午前中には曇りであった天候が変わり、だんだんと雪が降りだしたのである。

雪の寒さだけではなく、徐々に強風も吹き付ける。

雪の寒さと強風により、武田信玄の体温が緩やかに下がり始める。

元々、若い頃から肺病(諸説あり)を持っている武田信玄の体調が徐々に悪化をしていき、咳を吐くたびに吐血をしていた。

その事に気が付いた内藤昌豊は、戦を止めて直ぐに二俣城に撤退を進言するも、武田信玄はそれを即座に退ける。

武田信玄にしてみれば、徳川家康の軍勢を撃ち破り、遠江と三河の地の平定が今回の遠征の目的であるために、簡単には撤退をしたくないのである。

しかも、徳川家康を叩く前に、真田敦とか申す若造にその目的を邪魔されたとあれば、武田信玄の自尊心を傷付けられた事にも繋がる。

だからこそ、この三方ヶ原の地で真田敦を撃ち破り、返す刀で徳川家康達が率いてくる軍勢をも、討ち破らなければならないのである。

正直に言えば、武田信玄の寿命は尽きかけている。

その事は、武田信玄本人がよく分かっている事である。

だからこそ、己の命を掛けてでも、やるべき事はやらなくてはならないのである。

それが、自分の死後、後に残された者達に対する置き土産になる為である。

死期を悟った武田信玄の最後の思いは、内藤昌豊にも強く感じ取れた。

内藤昌豊はそれ以上言葉を出すのを止めて、静かに戦況を見守り始めた。

だが、歴史の流れは時には残酷なものである。

武田信玄の後を継いだ武田勝頼は、親族衆である、小山田信茂(叔父)、穴山梅雪(従兄弟)、武田信廉(武田信玄の末弟)らと、仲が悪い。

さらには、武田四天王である内藤昌豊、高坂昌信とも、仲が悪い。

武田勝頼と仲が良いのは、若手の者達だけであり、老臣と言える者達の存在を、武田勝頼は疎ましく思えていた。

なぜかと言えば、事ある毎に先代様は、(武田信玄の事)どうこうと自分と比べられたら、老臣達はうざいと武田勝頼は思うのである。

武田の屋台骨は、武田信玄の死と共に静かに崩れていくのを、武田信玄は知るよしも無かった。

南条小助、大内勝雄、島清興の3人は、戦線の維持の限界に来ていた事に気が付いていた。

3段に備えた馬防柵の内、2段目まで武田軍の進攻を許した為である。

大内勝雄は本陣に使者を送り、援軍を要請するも、真田敦は援軍を出せずにいた。

手持ちの兵は、わずか3500足らずであり、その内500の兵は、真田夕夏が率いている。

だが、真田敦と真田夕夏の兄妹は、遂に起死回生の策を打つ決断を下した。

真田夕夏は、本陣にから東に約3町(約327メートル)ほど離れた場所に移動をする。

その場所には、投石器ならぬ、投炮器を置いていたのである。

真田敦が改良型に仕上げた炮烙は、球体に作り上げた炮烙の中に、植物から取り出した油と、鋭利に仕立てた小さな鉄板を無数閉じ込め、やや短めの導火線も付けてある。

その炮烙を投烙器に乗せて、導火線に火を付け、てこの原理で遠くに飛ばすのである。

遠くに飛ばされた炮烙は、空中で爆発するようにあえて導火線を短くしている。

空中爆発を引き起こした炮烙は、中に閉じ込めてある植物油に引火し、火の玉になって武田軍の頭上に降り注ぐ。

その火の玉が衣類に降り注げば、火災が発生し、直接皮膚に当たれば火傷をする。

鋭利に仕立てた小さな鉄板も、勢いをまして武田軍の頭上から降り注ぎ、足軽達の足や腕など、鎧で防御をしていない部分に当たれば、即座に大怪我をする。

鎧武者であれば、ある程度は防げるかも知れないが、武田騎馬隊の馬達はそうはいかない。

馬は元来、臆病な性格であり、聞いたこともない大きな爆発音を何十回と聞かされたら、どんなに訓練を施された馬と言えど、冷静さを失い暴れだすのは当たり前である。

炮烙部隊の攻撃により、武田軍の先陣に乱れが生じたのを見た真田敦は、本陣に待機させていた3000の軍勢を前に進めた。

「武田の先陣は、我が策に落ちた!

今こそ、全軍反撃の時であるぞ!

先陣を壊滅に追い込み、武田信玄の首を取れ!」

真田敦からの、将旗号令により、真田夕夏の別動隊を除く全軍が、馬場信春、山県昌景、武田勝頼の軍勢に対して、反撃の牙を剥いたのである。



その頃、浜松城から出陣した、徳川家康達はと言うと。

三方ヶ原まで、残り10町(約1キロ強)の場所に到着して、配下の者達を待機をさせていた。

隊列を整えるのと同時に、先に出陣させた偵察部隊(服部半蔵配下)からの、連絡を待っていたのである。

隊列が整い、ほんのわずかな休息を取っている時に、偵察部隊から思わぬ報告を受けたのである。

三方ヶ原にて、真田敦率いる軍勢と、武田信玄率いる軍勢が、戦いを繰り広げているとの言葉を聞いた徳川家康は、滝川一益と、浅井長政に伝令部隊を派遣すると共に、三方ヶ原の台地に向けて再び進軍を開始したのである。

三方ヶ原の台地に向かいながら、徳川家康の頭の中ではある程度の戦略が出来ていたのである。

(真田殿と武田が戦いを繰り広げているならば、武田本陣の兵力は、こちらの率いている兵力と比べても、五分五分ではなろうか。

もしかしたら、2000~3000位の兵力であれば、勝っているかもしれない。

こちらは、鶴翼の陣を敷いて、兵力の多さで武田本陣を包囲してしまえば良いのではないか。

上手く行けば、武田信玄の首を取る事も、可能ではなかろうか。)

徳川家康は、やや楽観的な考え方を抱きながら、三方ヶ原の台地に登ったのである。

しかし、武田信玄がその程度の策を見抜けぬ事もなく、武田信玄率いる軍勢、約1万5000の兵を使い、魚鱗の陣を敷いて、徳川家康の到着を待ち構えていたのである。

ようやく三方ヶ原を登り終えた徳川家康は、自分の考え方の甘さを思い知らされたのである。

たしかに、徳川織田浅井連合軍と武田軍の兵力差で言えば、約2万対約1万5000なのであるが(残りの武田軍1万は、真田敦の軍勢8000と交戦中)、武田信玄率いる軍勢の強さに、織田浅井連合軍がどこまで対抗出来るかが、分からなかったのである。

徳川家康率いる軍勢は、遠江の支配を争って何度か武田軍と戦いをした事はある。

(主に、武田信玄の配下との戦い)

それが故に、武田信玄が直接率いている軍勢の強さは、現段階では未知数と言える。

武田信玄の首を取る決意を固めた徳川家康は、右翼に滝川一益ら率いている織田軍を配置、左翼に浅井長政率いる軍勢を配置、中央に当たる部分に自らの軍勢を配置して、最初の予定通りに鶴翼の陣を敷く。

武田信玄は、連合軍が敷いた鶴翼の陣を見るなり、右翼に小山田信茂らが率いる8000、左翼に内藤昌豊らが率いる5000の軍勢を進ませて、戦を開始したのである。

残り2000は、武田信玄を守る馬廻り衆で固めている。

武田信玄の読みでは、最初に右翼に陣を敷く、士気が一番低い織田軍を叩き潰してから、織田軍が陣取っていた右側から徳川本陣を叩き、三方ヶ原から二俣城に退却をする道を確保しなくてはならない。

当初の予定であれば、三方ヶ原にて全軍を持って魚鱗の陣を敷いて、徳川織田浅井連合軍を待ち受ける筈であったのだが、真田敦率いる軍勢に先に三方ヶ原に陣を敷かれるとは、まったくの誤算である。

こうなれば、一度仕切り直しの意味を込めて、全軍を二俣城に戻らなくてはならない。

だが、ただで退却をしては意味がない為に、三方ヶ原で叩けるだけ叩いてやろうと、武田信玄は考えた。

浅井軍と、織田軍は、長々と国を留守には出来ず、この戦が終われば国に戻らなくてはならない。

対して、武田軍は二俣城と言う拠点があり、いつでも浜松城にいる徳川家康と、戦う事が出来るからである。

だが、武田信玄の神算鬼謀は、湧き出でる泉の如くに、次々と手を繰り出していた。

一方、徳川家康にしてみれば、織田浅井連合軍の援軍がある内に、少しでも武田家の力を削りたいとの気持ちが強かった。

その焦りが、思わぬ形で戦況に影響を及ぼす事に、徳川家康は気が付かなかったのである。

中央と左翼に関しては、武田信玄の軍勢と戦ってもある程度は対抗出来たであろうが、右翼の部分に当たる織田軍の弱さを、計算に入れていなかったのである。

開戦後、わずか半時あまりで、織田軍の隊列が乱れ、武田騎馬隊の攻撃により、滝川一益が早々に撤退を始めてしまい、殿をやむなく勤めた平手汎秀が、小山田信茂率いる騎馬隊に飲み込まれあえなく戦死をしてしまう。

これを気と見た武田信玄は、本陣を前に進めて、徳川家康の本陣に激しい攻撃を開始。

左翼の浅井長政は、遠藤直経に1000の兵士を与えて、徳川家康の救援に向かわせたほどである。



平手汎秀が討ち死にをした頃、真田敦と南条小助の2人は、馬場信春と山県昌景の、2人の姿を探していた。

小助にしてみれば、山県昌景を討ち取る機会を再び与えられ、真田敦にしてみれば、家族同然と言える若狭兵の敵討ちに燃えていた。

織田信長公より、初めて若狭を領地として賜って以来、若狭出身の兵士達を我が子のように可愛がり、時には厳しく叱りつけ、戦場に置いては寝食を共にするほど、自分の配下を愛していたからである。

普段は冷静沈着な真田敦も、家族の事と、若狭兵の事に関しては、時々我を忘れて暴走する時がある。

まさに、その暴走の1つが現在の状態である。

馬場信春を討ち取り、死んでいった若狭兵の無念を少しでも晴らそうと、槍を振り回し、自ら先陣に立って武田兵を殺して暴れまわったある。

天の悪戯か、それとも悪魔の囁きか、真田敦の目の前には馬場信春の姿があり、南条小助の目の前には、山県昌景の姿があったのである。

山県昌景に向かって南条小助は、大声を張り上げて挑発をする。

「そこの爺、今度は逃がさないからな!

その首を寄越しやがれ!」

南条小助の大声に、山県昌景も返答をする。

「今度こそは、そなたの首を取る!

2度と大口が叩けぬように、してやるかな!」

山県昌景と南条小助は、御互いに相手に向かって突撃を開始したのである。

同じ頃、真田敦は馬場信春に罵声と言える、挑発をしていた。

「そこの老いぼれ爺!

還暦を過ぎたのだから、甲斐の山奥で隠居生活をすればいいのによ!

病持ちの武田信玄を守る為に、隠居生活を止めたんだな。

いやはや、もうじき極楽に向かう武田信玄の為に、ここで命を落とすとはな。

今すぐに命乞いをするならば、その命だけは助けてやっても良いがな。

悪くない条件であろう。」

真田敦の言葉は、完璧に上から目線である。

自分の事であれば、押されられた感情が、御館様である武田信玄の事を侮辱されたのであるから、一気に感情が爆発をしたのである。

「某の事であれば、我慢してやるが、御館様を侮辱する事は許さぬ!

そなたの首を取り、御館様の前に差し出してやるわ!」

馬場信春は槍を振り回し、真田敦の馬廻り衆を蹴散らしながら、真田敦目掛けて突撃をする。

真田敦は、1丁の銃を取りだし、馬場信春の額に標準を合わせていた。

その銃は、前に和花に作らせた特別製の銃であり、後の世にミニエー銃と言われる銃でもあった。

ミニエー銃とは、19世紀の半ば頃にフランスで開発された銃であり、アメリカでの南北戦争の頃には、主力の銃として使われていた程である。

戦国時代が、16世紀半ば頃であるが故に、300年も前に試作品と言えど、ミニエー銃の開発に成功していたのである。

設計図を引いた真田敦の知識と、試作品のミニエー銃を完成させた和花の知識は、時代を越えた神の領域に達していたのであろうか。

馬場信春と真田敦の距離が、約4町になろうとしていた時、真田敦はミニエー銃の引き金を引いた。

          パン!

戦場に一丁の銃の音が響き、その約10秒後には、ミニエー銃から発射された弾丸が、馬場信春の額を見事に撃ち抜いていた。

馬場信春は、スローモーションのように馬から落ち、その身体を地面に叩き付けた。

馬場信春の馬廻り衆が、馬場信春に近寄り、助け出そうとしたのであるが、額を撃ち抜かれていた馬場信春は即死であった。

その事を見ていた真田敦は、大声を出していた。

「織田家の真田敦が、武田四天王が1人、馬場信春を討ち取った!

者共、馬場信春の残党を1人残らず殺せ!」

真田敦の大声により、若狭兵達は士気を高めて、馬場信春が率いていた残党狩りを始めたのである。

馬廻り衆の1人が、馬場信春の首を切り落とし、槍の穂先に突き刺し、敵味方に馬場信春の討ち死にを知らせた。

馬場信春が率いていた足軽達は、訳が分からない内に、大将である馬場信春が討たれ、軽い混乱状態に陥る。

混乱状態から抜け出ない内に、真田敦率いる馬廻り衆からの一斉攻撃を受けたので、馬場信春が率いていた足軽達は、一目散に逃げ出したのである。

足軽達が逃げ出したのを確認した真田敦は、身近にいた馬廻り衆に指示を出す。

「太鼓を叩き、夕夏に投焙器を止めるように知らせよ!」

その言葉を聞いた馬廻り衆は、太鼓隊に指示を出す。

馬廻り衆から、指示を受けた太鼓隊は、勢いよく太鼓を叩き始めた。

ドンドンドンドンドンドンドンドン!

太鼓を叩かせている間に、真田敦は考え事をしていた。

もちろん、真田敦の廻りには、馬廻り衆が何重にも守りを固めている。

(烏合の衆となった馬場信春の配下は、捨て置くとして、これからどうするかな。

山県昌景と対峙する、小助の救援に向かうのが良いのか?

それとも、武田信玄の本陣に、突撃を仕掛けるのが良いのか。

どちらも、一長一短はあるが。

ここは武田信玄の本陣に、突撃を仕掛けるか!)

真田敦は、決断を下すと、馬廻り衆をまとめ、武田信玄の本陣に突撃を開始したのである。

太鼓の音を聞き付けた真田夕夏は、投焙器を止めると、500の兵をまとめ、大内勝雄と、島清興の援軍に向かったのである。

この事は、開戦前から決められており、何ら不都合は無かったのである。

しかし、大内勝雄と、島清興の手勢に合流をした真田夕夏は、突然その場から離れて単騎掛けを行い、兄である真田敦の元に向かったのである。

さて、先陣の一端を担う武田勝頼に目をやると、武田勝頼は早々に武田信玄の本陣にまで引き上げていた。

なぜかと言えば、武田信玄から遣わされた百足衆からの伝言を、聞いたからである。

その伝言とは、三方ヶ原より二俣城にまで退却をして、戦の仕切り直しをすると伝えられたからである。

武田勝頼は苛立ちを覚えながらも、渋々それを承諾し、戦線から引き上げたのである。

だが、収まらぬ苛立ちを解消する為に、徳川家康の本陣に攻撃を仕掛けたのである。



真田敦が武田信玄の本陣に突撃を仕掛け、大内勝雄、島清興の2名が武田勝頼の追撃を開始した頃、1人前線に残されていた山県昌景も、南条小助に討ち取られていた。

南条小助の槍術は、師匠である真田敦を遥かに上回る技量を持つ上に、腕力とも言える馬鹿力においては、槍を軽々と叩き折る程である。

十数回の槍の打ち合いで、山県昌景の腕が疲れ果てた事が原因やも知れなかった。

南条小助の馬鹿力を何度も受けていれば、そうなる事は、最初から分かっていた筈である。

だが、山県昌景のつまらない自尊心が己の死を招いたのであるから、ある意味自業自得と言えよう。

山県昌景の首を切り落とした南条小助は、その首を配下に持たせると、足軽達をまとめ上げて、真田敦の後を追うように、武田信玄の本陣に突撃を開始したのである。

800あまりの馬廻り衆を引き連れていた真田敦の元に、残りの馬廻り衆を引き連れて来た南条小助と、大内勝雄、島清興がいた場所から単騎掛けをして来た、真田夕夏の姿があった。

真田敦は、小助の姿を見ても驚かなかったが、妹である真田夕夏の姿を見て驚いたのである。

元々、大内勝雄と、島清興と合流をして、武田軍の追撃を命じていたのに、馬廻り衆を引き連れないで、単騎掛けを行い自分の元に来たのが不思議であった。

「夕夏、何故兄の命令に従わぬ!

しかも、単騎掛けまで行いおって!

そなたに何かあれば、余は死んでも死にきれぬわ!」

真田敦の強い言葉に、真田夕夏も怒りを込めて反論をする。

「最初は、兄上の命令に従うつもりでした。

しかし、兄上の行動が不自然に思えて、こちらに参りました。

兄上、まさかと思いますが、兄上の手勢だけで突撃を行い、武田信玄を討ち取るつもりですか?

そのような事は、私を筆頭に、他の家臣達も、決して認めませんからね!

それに、兄上が討ち死にをしようものなら、真田家はどうなりますか!」

真田夕夏からの強い抗議に、真田敦は冷静に反対意見を述べる。

「余が討ち死にをしようとも、源一郎もいるし、何よりも夕夏、そなたがいるではないか!

それが、不満なのか?」

真田敦の言葉に、小助が猛反対をする。

「ここで、敦様が討ち死にをなされたら、我々家臣達は、どうすれば良いのですか!

武田信玄の首を取ると言う、目先の欲に捕らわれて、10年先の夢である、南蛮遠征を捨て去ると言われますか!」

小助と夕夏の言葉に、真田敦は返す言葉を失った振りをしていた。

(ふん・・小助は真剣に余を止めているが、夕夏の奴は、余の演技を見抜いておるか。

夕夏を敵に回したら、余の命など直ぐに無くなるだろうな。

煮ても焼いても食えぬ奴とは、まさに夕夏の事を言うのだろうな。)

真田敦は内心ではそう思いながら、2人の説得に折れた様子で答える。

「分かった。

我が手勢だけでの、突撃は止めよう。

だが、このままにしてはおけぬ!

余の手勢と、小助の手勢を合わせた全軍で、武田本陣に突撃を仕掛けようぞ!」

真田敦の言葉に、南条小助と真田夕夏の2人も了解をして、隊列を整えて、全軍で武田本陣に突撃を仕掛けたのである。

その頃、大内勝雄と、島清興の2人は、左翼に陣を敷く浅井長政を救援する為に、武田軍に攻撃を仕掛けていた。

その目的は、武田軍を突破して、浅井長政の軍勢と合流をすることである。

大内勝雄と、島清興の2人は、先陣を切って槍を振り回し、武田兵を蹴散らしながら前に進み、どうにか遠藤直経と赤尾清綱の軍勢と合流に成功。

武田兵を蹴散らしながら、徐々に三方ヶ原からの撤退を模索していた。

「遠藤殿、浅井備前様は、どちらにおられますか?」

大内勝雄の言葉に、槍を振り回しながら、短く遠藤直経は答える。

「備前守様は、三河守様と一緒に、浜松城に向けて退却をなされた。

我らは、殿をつとめているが故に、早々に退却をなされよ!」

遠藤直経からの言葉に、一瞬言葉を失った大内勝雄であったが、島清興の元に馬を寄せ、手勢をまとめて、浜松城に向けて退却を開始した。



時は、四半時ほど戻るが、織田の軍勢が武田軍に追い払われた頃である。

本多忠勝は、愛槍である蜻蛉切りを振り回しながら、武田兵を蹴散らしていたのだが、この戦は負け戦と判断をしたのか、主君である徳川家康に浜松城に撤退をするように、進言をしていた。

「家康様、この戦は負け戦でございます。

早々に、浜松城に撤退を!」

「忠勝、馬鹿な事を申すな!

織田の軍勢が崩れても、まだ我が手勢は崩れておらぬわ!」

家康からの反論に、忠勝は更に強い口調で反論をする。

「この戦で家康様が討ち死にをなされたら、徳川家はどうなりまするか!

田畑は焼かれ、人々は他国に売り払われ、遠江三河の地は、武田の物になりましょう!

それでも、よろしいのですか!」

そこまで忠勝が強く諫言をしても、家康はぐずぐずと判断を下せずにいた。

業を煮やした忠勝は、家康の乗っている馬の尻を槍で叩き、それに驚いた馬は家康を乗せたまま、浜松城の方に走り出した。

本多忠勝は直ぐ様、浅井長政の元に使者を送り、浅井長政公も浜松城に撤退をするように進言をさせる。

使者からの言葉を聞いた浅井長政も、浜松城に撤退を決意。

遠藤と赤尾の2人に殿を任せ、手勢をまとめて浜松城に撤退を開始したのである。

大内勝雄と、島清興が三方ヶ原から退却を開始した頃、真田敦、真田夕夏、南条小助の3人は、武田信玄のいると思われる本陣に、突撃をしていた。

「決して、後ろを振り向くな!

決して、その場にとどまるな!

前だけを見て、徳川殿の軍勢と合流をするのだ!」

南条小助は、大声を張り上げて、足軽達を鼓舞しながら、武田兵を次々と刺し殺していく。

「武田の弱兵などに、我々の精鋭部隊が負けませぬ!

今こそ、我々の強さを、武田兵に教えてやりなさい!」

真田夕夏も、使い慣れない槍を振り回し、次々と武田兵に槍を振り落とし、道を切り開いていく。

「我は、北陸道一の弓取り、真田敦である!

命のいらぬものは、余の前に立つがよい!

命の惜しい者は、今すぐに道を空けよ!」

真田敦も、槍を振り回しながら、武田兵を次々と刺し殺していく。

真田敦の全身を守る鎧は、武田兵の返り血で真っ赤に染まっている。

元々は、白銀色をしていた綺麗な鎧も、数えきれないほど、武田兵を刺し殺して来た為か、白銀色の美しさを失っていた。

「天下に名だたる武田兵が、この程度の強さであれば、我が率いる若狭兵が、天下一の強さであるわ!」

真田敦の言葉に武田兵が反応をして、真田敦の前に立ち塞がるも、真田敦の槍捌きの前に、次々と物を言わぬ死体に成り果てていく。

先ほど、真田敦が口にしていた、北陸道一の弓取りと言う言葉は、真田敦が知る範囲内では聞いた事はない。

ちなみに、かつて今川義元が東海道一の弓取りと言われていたが、その意味は東海道で一番強い大名の事を意味する。

そう言う意味で言うと、北陸道一の弓取りと言う言葉に最も相応しいのは、越後を支配していて、戦国時代の軍神を自称している、上杉謙信と思われるが。

真田敦の頭の中では、上杉謙信などは、ただの戦馬鹿程度にしか評価をしていない。

戦に強くても、戦後の仕置きを適当にしている上杉謙信など、真田敦の敵ではないと思っていたからである。

1561年に、相模を支配している北条氏康を攻めた時に、関東のあちらこちらの城を落とし、北条氏康が立て籠る小田原城を、約10万の兵を使い包囲するも、あまりの小田原城の堅固さに、やむなく越後に撤退をする事を決意。

上杉謙信が越後に退却をした途端に、攻め落とした城の城主が次々と、北条氏康に降伏をしているのである。

そう言う事を知っているからこそ、内政が下手くそな上杉謙信など、最初から相手にしていないのである。

しかし、戦の才能に関しては、戦国一の強さを誇るであろうと、真田敦は評価を下している。

真田敦、真田夕夏、南条小助の3人は、武田本陣にだんだんと近付いていた。

そう、本陣の旗印が目の前に近付いていたからである。

「どこだ、武田信玄!

先に討ち取った、馬場信春、山県昌景と一緒に、地獄に落としてやる!」

真田敦は、息を乱しながら、槍を振り回し、武田信玄の姿を探していた。

天の恵みか、はたまた悪運の強さか、真田敦の目の前に武田信玄らしき姿を、見つける事が出たのであるが、武田信玄らしき人物を守る馬廻り衆の多さに、真田敦は単騎突撃を諦めるほか無かったのである。

だが、武田信玄らしき人物とは、視線を合わせる事は出来たのである。

武田信玄が甲斐の虎であれば、真田敦は若狭の獅子であろうか。

真田敦が武田信玄らしき人物と思っていた人物こそが、武田信玄本人であったのだ。

わずかな時間なのだが、真田敦の視線と武田信玄の視線のぶつかり合いから、両者の会話が伺い知れた。



(余は、織田信長公に仕える真田敦。

もしや、甲斐の武田信玄公であられるか?)

真田敦の視線は、そう武田信玄に伝え、武田信玄も、真田敦に視線で返答をする。

(いかにも、余は甲斐の武田信玄である。

そうか、そちが真田敦であるか。

余の策を、よくぞ見破ったな。

上杉謙信との、川中島での戦い以来やも知れぬがな。)

(余の元には、世界一の軍師がおるからな。

どのような策を張り巡らしても、全て見破るわ!)

真田敦は、妹の真田夕夏の存在を、さりげなく武田信玄に伝える。

武田信玄も、真田敦の隣にいる女武者の存在に気が付き、心の中で納得をする。

(そなたの隣にいる女性か。

神算鬼謀、どころでは無かろうな。

森羅万象ですら、手中に納めていそうな才能の持ち主と言えよう。

これほどの天才と、余は戦っていたのか。)

真田敦と、武田信玄の視線での会話が続く。

(そう言う事だな。

武田信玄公は、もう余命いくばくも無かろうに。

その才能を、日の国だけではなく、南蛮国相手に、使って欲しかったな。

こればかりは、天を恨むしかなかろう。

安らかに極楽に召されよ!)

(余命いくばくも無いか。

もしやそなたは、この時代の人間では無いのか?

余の病気を知り、余の策を見抜き、まるでこれから先の未来を知っているようだが?)

武田信玄の言葉に、真田敦はどう答えるか困るも、素直に武田信玄に伝える。

(余と、隣にいる妹の夕夏は、約400年後の、この国から来たからな。

しかし、この時代の記憶は、ほとんど無いに等しい。

これから先、日の国がどうなるかは知らぬ!

だが、余と夕夏がいる限り、いずれは南蛮遠征に乗り出す!

日の国の猛者を引き連れて、世界最強の国である、イスパニアを相手に暴れてやるわ!

武田信玄公は、極楽から余の活躍を見ておるがよい!)

真田敦の言葉に、武田信玄公は言葉を失った。

日の国だけであれば、武田信玄にも考えられる範囲内と言えようが、南蛮国ともなれば、武田信玄の考えられない範囲であるからだ。

日の国の統一を夢いていた武田信玄と、世界に遠征をする事を夢見ていた真田敦とでは、何もかもが違いすぎたのである。



武田信玄との、視線での会話を終えた真田敦は、武田信玄の方を振り向く事もなく徳川勢と合流。

殿をつとめている、本多忠勝の近くにより、早々の撤退を促した。

「本多殿、ここは我々に任せて、浜松城に撤退をなされよ!」

「真田殿、何を申されるか!

この戦いは、徳川と武田の戦であろう!

援軍に来られた事には感謝をしておるが、殿まで任せるわけには行きませぬ!」

本多忠勝の頑固さに、真田敦は困り果てるが、本多忠勝の強い意思を尊重し、真田夕夏、南条小助を引き連れて、真田敦率いる軍勢は三方ヶ原より撤退を開始した。

徳川家康、浅井長政、大内勝雄、島清興、真田敦、真田夕夏、南条小助らが、次々と浜松城に撤退を完了していたのであるが、本多忠勝、遠藤直経、赤尾清綱の3人が戻らない事を知った真田敦は、わずかな手勢を率いて浜松城から再び出陣をしようとした矢先に、本多忠勝の帰還が知らされた。

真田敦は、本多忠勝に遠藤赤尾の両人の事を聞こうとした矢先に、遠藤直経、赤尾清綱の討ち死にを、命からがら浜松城に逃げてきた遠藤直経の手勢より聞かされたのである。

その言葉を聞いた真田敦は、地面に拳を叩きつけていた。

己の策の詰めの甘さが、2人の命を散らしたのであると思ったからである。

遠藤直経、赤尾清綱の敵討ちを心に秘めた真田敦は、浜松城の大手門に1人で仁王立ちをして、浜松城に迫り来る武田信玄の軍勢を睨み付けていた。

この浜松城に攻め寄せてくるのであれば、この命が尽きるまで、武田信玄の軍勢を叩き潰してやると、固い決意を抱いた。

浜松城の大手門近くまで攻め寄せてきた、武田四天王の1人である内藤昌豊は、浜松城の大手門に、1人で仁王立ちをしている真田敦の姿を見つけ、思わず後退りをしていた。

真田敦の身体から発している殺気を感じ取り、迂闊に手を出せば思わぬ損害を出すと思ったのである。

攻めるか退くかで、内藤昌豊が判断を下せずにいた時に、武田信玄から使者が来て、二俣城に撤退をする事を伝えて来たのである。

その指示を受けた内藤昌豊は、二俣城に撤退。

そして、相互に多大な被害を出した三方ヶ原の戦いは終結を向かえた。



その後、翌年の1月3日まで、浅井長政、真田敦は浜松城に滞在。

二俣城に撤退をした武田信玄の動きに備えていたのであるが、武田信玄の動きが全くないために、岐阜城に撤退を始めた。

徳川家康は、浜松城の守りを固めると共に、服部半蔵に命じて二俣城周辺の情報収集に当たらせた。

二俣城の武田信玄は、再び病の床に伏しており、一進一退の状況に陥っていた。

御殿医にしてみれば、今後の遠征は無理であり、甲斐に戻り養生を進める。

武田勝頼らは、京の都を目指して、再度の遠征を口にしていた。

元亀4年(1573年)1月5日、武田信玄は、家臣を部屋に集めていた。

自分の命が尽きるのを確信した武田信玄は、遺言を口にしていた。

1、家督は、勝頼が継ぐこと。

2、3年間は、戦を止め、国力の回復に専念すること。

3、外交を積極的に行い、信長包囲網の再構築をすること。

4、さ、な、だ、ごほごほごほっ!

ここまで武田信玄が口にすると、再び大量の血を口から吐き出し、そのまま布団に倒れた。

慌てて御殿医が武田信玄の脈を取るも、武田信玄は既に他界をしていた。

甲斐の虎と呼ばれ、戦国最強の大名と言われた武田信玄も病には勝てず、享年53歳にて、現世から去ったのである。

武田信玄の遺体は籠に乗せられ、ある程度の守備兵を二俣城に残して、武田勝頼の指揮の元、全軍は甲斐を目指して移動を開始した。

武田軍の撤退は、服部半蔵の手の者より知らされた徳川家康は、慎重に更なる情報収集を命じた。

武田軍の撤退が本当であれば、武田信玄に奪われた領地の奪還をしなくてはならないからだ。

これを期に、武田勝頼と、織田信長、徳川家康、浅井長政の連合軍の戦が激化するのは、火を見るのは明らかであった。



同じ頃、若狭にある小浜城にて、真田敦の八女になる、真田優が誕生をしていた。

「新しい妹が生まれたのですね。」

長女である茜は、生まれたばかりの優を優しく見つめていた。

側室である、藍御寮人は笑顔で返答をする。

「腹違いと言えど、茜様の妹には違い御座いませぬ。

いずれは、茜様も赤子を宿す事でしょう。」

その言葉の意味をなんとなく、茜は理解をしようと、一生懸命に努力をしたのであるが、まだ11才である茜には理解が出来なかったのである。

天正5年(1577年)には、織田信長の嫡男である、織田信忠の元に嫁ぐ事を、まだ茜は知るよしも無かったのである。

小山田信茂 母親は、武田信玄の父親である信虎の妹。

つまり、武田勝頼から見たら、叔父に当たる。


穴山梅雪 母親は、武田信玄の姉である。

つまり、武田勝頼から見たら、従兄弟に当たる。


文中で、適切な説明が書けなかった事を、ここで書かせて頂きます。

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