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真田公記  作者: 織田敦
18/33

比叡山延暦寺焼き討ち

年が明けて、元亀2年(1571年)に入った。

正月が過ぎて、織田信長は将軍足利義昭公に対して、殿中御掟21ヶ条と言う公式文書を、足利義昭公に送り付けたのである。

簡単に内容を書けば、帝を補佐するのは貴方ですとか、勝手に部下に褒美や罰を与えないとか、手紙を出すなら一度、信長に手紙の内容を見せろとかである。

言うなれば、将軍足利義昭に対する行動の制限案と言えよう。

これを受け取った将軍足利義昭公は、いくつかの条文を無視しながらも、しぶしぶこれを守ったのである。

だが、将軍足利義昭公は、いつまでも織田信長から傀儡扱いされているほど、馬鹿ではなかったのである。

各地の大名達に、織田信長討伐の書状を送り付け、着々と信長包囲網の再結成に向けていたのである。

ここまで来ると、陰険将軍と陰口を叩かれそうなのだが、一部を除いてほとんど口にされなかったのである。



織田信長は、比叡山延暦寺に対しても、使者を何度も送り付け、戦を始めた首謀者を差し出せば、他の者は罪には問わないと何度も言い続けて来たのである。

それでも、比叡山延暦寺の方は、それを無視してきたのである。 

比叡山延暦寺に対して、5回目に使者を出した時には、織田信長は、遂に脅しの言葉を付け加えたのである。

これ以上、こちらの要求を無視するのであれば、比叡山延暦寺を焼き討ちにすると、使者から手渡された書状には書いてあったのであるが、それでも比叡山延暦寺は無視をしてのである。

それでも、織田信長は、計8回の使者を比叡山延暦寺に出したのであるが、結果的には比叡山延暦寺側から無視をされ続けたのである。



5月上旬に、織田信長が、3万の兵を率いて伊勢長島城を攻めたのであるが、長島城の防御力の堅さや、一向衆の伏兵などにより、伊勢長島から撤退を余儀なくされたのであるが、撤退戦の最中に、柴田勝家は負傷し、西美濃三人衆の1人である、氏家直元が戦死をしてしまう。

損害の大きさを考えて織田信長は、伊勢長島攻めを、一度諦めたのである。

同じく5月下旬、真田敦の7女になる、春姫が誕生したのである。

実は、去年の9月中旬に、大内藍を正式に側室にしたのである。

家臣達からの反対意見もなく、正室であるお犬御寮人も、夫である真田敦に対しても、文句の1つも言わなかったのである。

まぁ、7人も子供をもうけたのであるから、不満などはないと言えたのかも知れなかった。

この事により、大内藍の弟である大内勝雄は、真田敦の義弟になり、その地位を高めたのであるが、元々控えめな性格の為か、いつもと変わらずであった。



8月中旬に、若狭に滞在していた真田敦は、織田信長から岐阜に来るように、急遽呼び出され、若狭から早馬を飛ばして2日後に岐阜に到着し、屋敷に一度立ち寄り、汗を拭き、素早く着替えを済ませてから、岐阜城に登城をして、ようやく大広間にその姿を現したのである。

それとなく、真田敦が大広間を見渡してみると、織田家のほとんどの重臣達が揃っていたのである。

上座に座る、織田信長からの最初の一言が、次の瞬間には、大広間にいた皆を震撼させたのである。

「比叡山延暦寺に、計8回も使者を出したが、何の返答も寄越さなかった。

よって、比叡山延暦寺を焼き討ちにする!」

織田信長の言葉に、真っ先に反応したのは、織田家の筆頭家老である、佐久間信盛であった。

「信長様、比叡山延暦寺を焼き討ちにしますのは、反対でございます。」

次に言葉を発したのは、丹羽長秀である。

「比叡山延暦寺は古来より、犯してはならぬ地にございます。」

柴田勝家を始め、明智光秀や羽柴秀吉、池田恒興らも、反対意見を出したのであるが、唯一、比叡山延暦寺焼き討ちに賛成の言葉を発したのは、真田敦だけであった。

「まったく、比叡山延暦寺ごときが、何だと言うのだ。

信長様の弟を殺し、森親子を殺害したのは、比叡山延暦寺の坊主共ではないか!

信長様、こんなやる気のない連中は無視をして、私に命じてください。

比叡山延暦寺の坊主共を、某が皆殺しにしてやります!」

その言葉に、またもや佐久間信盛が真田敦に文句を言い始める。

「ふん、真田のような口だけの輩に、何が出来ると言うのだ。

いつも信長様に媚を売り、この度の事も良い顔をしたいだけであろう。

貴様のような輩の顔など、本当に見たくもないわ!」

そこまで言われた真田敦は、佐久間信盛に喧嘩を売ろうとしたが、上座に座る信長様から嫌な気配を感じ取り、すぐに素知らぬ顔をしたのである。

そう、真田敦以外からの反対意見が出た事で、信長様の怒りを買ったのである。

「敦の言う通りだ!

余の弟や、森親子を殺したは誰だ!

信盛、述べてみよ!」

そこまで信長様から言われれば、佐久間信盛といえど、その事を言わなくてはならない。

「そ、それは、比叡山延暦寺の坊主達でございます。」

「ならば、その坊主共を殺しても構わぬはずであるな!」

信長の言葉に、家臣達は黙ってしまったのである。

しかし、いつまでも黙っている訳にもいかず、明智光秀が重い口を開いたのである。

「信長様、比叡山延暦寺には、女子供もいるかと思われますが、その者達の処分はいかがなされますか?」

光秀の言葉に、敦が反論をする。

「はて?

女人禁制である筈の比叡山延暦寺に、女子供がおりますのか?

私は、そのような事を聞いた事はありませぬが、もしや明智殿は、勘違いをされているかと思われますが。」

その反論に、勝家が口を挟む。

「真田殿、いくらなんでも、そのような言い訳は通らないかと。」

だが、信長の一言により、話し合いは突如終わりを示したのである。

「9月上旬に、比叡山延暦寺を焼き討ちにする!

余の本隊と、真田敦の軍勢だけで行う!

他の者共は、各地の守備を固めよ!

これで、軍議は終わりである!」

そう、信長が口にすると、大広間からさっさと出ていったのである。

真田敦も、信長の後を追い掛けて、大広間を後にしたのである。

残された家臣達は、黙ってお互いの顔を見ているだけであった。



信長と敦の2人は、岐阜城にある茶室に移動をしていた。

「信長様、本当にあれでよろしかったのですか?」

敦は、目の前にいる信長に先程の事を質問していた。

「女子供が、延暦寺にいないという事か?」

信長は、声を低くして答える。

「まぁ、女子供達は、麓の坂本の町に滞在しているみたいですが。」

真田敦は、比叡山延暦寺が蜂起して以来、比叡山延暦寺に関する情報収集を、徹底的に行っていたのである。

その結果、比叡山にはいくつかの寺があり、現代で言うところの住職にあたる僧侶を始めとする坊主達は、寒さの厳しい比叡山には住まず、比較的住みやすい坂本の町に下りて生活をしていたのである。

その事を知った真田敦は、信長に報告をしたのである。

「まぁ、坊主達を皆殺しに出来れば、それだけで良いのだからな。」

信長の言葉に、敦も軽く頷き、言葉を繋ぐ。

「それでは、私は若狭から、出陣致します。

女子供は、某が保護をして、若狭に連れていきます。

それから、京の都にも人を出して、女子供達は、若狭に連れていかれたと噂を流しておきます。」

「来月の頭には、岐阜から出陣をする。

遅れぬように、兵を集めるように。」

信長の言葉を聞き、真田敦は頭を下げた。

「たまには、飯でも一緒に食うか。

敦とも、なかなか会えなくなるだろうかな。」

「では、遠慮なく頂きます。

しかし、比叡山延暦寺を焼き討ちにすれば、甲斐の山猿が大人しくしているとは思えませぬが。」

信長の言葉に対して、敦は不安を口にする。

「だろうな。

やたらと、仏教の保護にこだわるからな。

それに、信玄の継室である三条の方は、顕如の正室の姉であるからな。」

「そうでしたな。

血の繋がりもありますから、厄介な事にならなければ良いのですが。」

信長と敦は、飯の準備の最中から食後まで、今後の話し合いをしていた。

翌日、真田敦は若狭に戻り、織田信長も比叡山延暦寺焼き討ちに向けて、準備を始めていた。



9月上旬、織田信長は2万の兵を率いて坂本の町に向けて進軍を開始し、真田敦も2000の兵を率いて、比叡山延暦寺に向かったのである。

日が上る前の早朝、織田信長は南側から、真田敦は北側から坂本の町に攻め寄せたのである。

一方、酒を飲み、肉を食べ、女を抱いていた坊主達は、まだ目が覚めていなかった。

たが、堕落した坊主達には、極楽は来なかったのであろう。

「坊主供は、皆殺しにせよ!

何人たりとも、根絶やしにせよ!」

織田信長の号令と供に、足軽達と、初陣になる森長可が槍を振るい、坊主供の殺害を始めたのである。

織田信長の襲撃に、坊主供が気付いた時には、家を焼かれ多数の坊主供の死体が転がった頃であった。

「な、何事だ!」

「の、信長の軍勢が攻め寄せてきた!」

「ば、馬鹿な!

この比叡山に攻めてくるなど!」

坊主達は、口々に言葉を出すも、迫り来る織田の軍勢を前にして、あわてて比叡山に逃げ込もうとしたのであるが、それは叶わなかったのである。

「坊主供は、皆殺しだ!

1人たりとも、決して逃がすな!」

父親と兄の敵討ちに燃える森長可が、槍を振り回し、次々と坊主供を殺していったからである。

「き、貴様ら、比叡山をなんと心得る。

おそれ多くも、帝と言えど。」

そこまで坊主が言葉を口にするも、その続きを言うことは出来なかった。

「黙れや!

この、糞坊主が!

武士の争いに口を挟み、自分達の都合が悪くなると、比叡山に立て籠りおって!

貴様らのいく先は、間違いなく極楽ではなく地獄だろうな!」

怒り心頭の森長可は、目の前の坊主を殺害すると、比叡山にある寺に放火を始めたのである。



一方、真田敦の方は、1500の兵を率いて比叡山延暦寺に侵入し、松明の火を使い焼き討ちを敢行したのである。

残りの500の兵達は、制圧された坂本の町に残り、女子供の保護に当たりながら、若狭に連れていく準備に追われていた。

「ふん!

堕落した坊主達には、立派な寺など必要無いわ!

すべて、焼き尽くせ!」

真田敦は、配下の者達に命令を下すと、坂本の町を焼き払う事を始めたのである。

「この所業、第六天魔王のやることではないのか!

比叡山を焼き討ちし、我々を皆殺しにするなど、許しがたい暴挙である!」

生き残った坊主が、武器を手に持ち、文句を言いながら、真田敦に向かってくる。

だが、真田敦の手元には、新型の火縄銃があり、真田敦は向かって来る坊主に、ゆっくりと標準を合わせていた。

坊主と、真田敦の距離が、半町(約50メートル)辺りまで近付いた時に、真田敦は火縄銃の引き金を引いたのである。

パーン!

一発の鈍い銃声が響いた時には、真田敦に向かってきていた坊主の眉間に、火縄銃の玉が命中したのである。

もちろん、その坊主は即死であり、真田敦は冷たい言葉を、その坊主に吐いていた。

「堕落した坊主には、これぐらいの事をしても罰など当たらぬわ!

第六天魔王か。

信長様にはお似合いやも知れぬがな。」

真田敦は、比叡山の方を見上げると、山から黒煙が上がっていたのである。

延暦寺を含む、3ヶ所の寺を焼き討ちにした為である。

その黒煙は、京の都はもちろん、遠く石山本願寺にまで見える高さであったと言われている。



同じ頃、京の都では、比叡山の方角から黒煙が上がるのを見付けた男性が、思わず声を出した。

「あ、ありゃあ、比叡山の方角から黒煙が立ち上っているぜ!」

「比叡山延暦寺辺りを、焼き討ちにしたのかも知れねえな!」

その男の言葉を聞いた他の男が、また口にする。

「いい事じゃねえか。

比叡山の坊主達には、散々苦しめられたんだからよ!」

商人らしい男は、そう口にする。

真田敦は知らなかったのであるが、比叡山延暦寺を始めとする坊主達には、勝手に食べ物を徴発したり、美しい女を連れ去り、自分達の慰み者の道具としている連中もいたらしいのである。

その為に、京に住む人達からは、比叡山の坊主達は、嫌われていたと言えるのだ。

そこに、織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちの噂が流れると、京の都に住む人達からは織田信長公のした事を、喜ぶ始末であったらしい。

もちろん、鉢屋党の忍び達も、女子供達は若狭に連れていかれ無事であると言うことも、忘れずに宣伝をしていたのであるが。



将軍足利義昭も、比叡山から上る黒煙を見つけ、怒っていたのである。

「の、信長は、とんでもない事をしてくれたな。

比叡山延暦寺を、焼き討ちにするなど。

この所業は、将軍として決して許す事は出来ぬ!

全国の大名に書状を送り、信長征伐を必ず成功させなくてはならぬ!」

足利義昭は、全国の大名達に書状を送り、信長包囲網の再構築を画策したのである。



元亀2年(1571年)11月中旬、真田敦は、小浜城にある鍛冶場にいた。

従来の火縄銃ではなく、改良型の火縄銃の設計図の図面を作成していた。

従来の火縄銃では、飛距離も有効射程距離も短い上に、鎧の改良により従来の火縄銃では、鎧武者は倒せなくなっていたのである。

その為に、早めに改良型の火縄銃を作り出さなくてはいけなかったからである。

たが、絵面図を作るだけでは火縄銃は完成をしないのである。

有能な設計技術者と、有能な技術者の両方が必要なのだ。

有能な設計技術者が真田敦であれば、有能な技術者は梨那と和花姉妹に、なるのであろうか。

その、梨那と和花姉妹は信長様の元におり、今の段階では設計図の作成止まりである。

たが、改良型火縄銃の設計図が完成し一段落した時に、来客が来た事を小姓が伝えに来たのである。

「来客だと?

いったい誰が来たのであるか?」

真田敦は、そう小姓に聞くと、小姓は素早く答える。

「森長可殿が、参られました。」

「森長可殿が?

岐阜か、京の都で、何かあったのであろうか?」

真田敦は、そう呟くと、森長可の待っている部屋に向かった。



真田敦が部屋に入ると、森長可は素早く頭を下げて、真田敦を迎えていた。

「真田様、お元気でおられますか。」

「長可殿、某は元気であるぞ。

して、森殿の今日の来訪は、どのような事であるかな?」

真田敦からの言葉に、森長可は素早く口を開く。

「本日こちらに参りましたのは、梨那和花姉妹を、真田様にお返しをする為でございます。」

「梨那和花の、姉妹を?

しかし、来年の秋頃まで、織田信長様にお預け致している筈であるが?」

森長可の言葉に、真田敦は、首を傾げる。

「信長様は、比叡山延暦寺攻めの功績により、真田様に早めに返すと申されました。」

森長可の言葉に、真田敦は顎に手を当てた。

比叡山延暦寺攻めの功績だけで、梨那和花姉妹を早めに返すと言うのは、どうも腑に落ちない。

しかし、比叡山延暦寺攻めに賛成したのは、真田敦だけであり、他の重臣達は反対を述べたのである。

嫌な予感がする。

真田敦は、その事を悩んでいたのかも知れなかった。

主君である織田信長公と、重臣達の間に亀裂が入らなければ良いのだが。

真田敦は、来年の正月の挨拶の時に、他の重臣達の内心を見なくてはならないと考えてのである。

「長可殿は、いつ岐阜にお戻りになられるのですか?」

真田敦は、長可に質問をする。

「明日には、岐阜城に向けて出発を致しますが。」

その言葉を聞いた真田敦は、1つの提案を長可に出す。

「ならば、今夜は酒宴を開こうぞ。

我々は、信長様にお仕えしていても、岐阜と小浜で別々にいる事から、お互いになかなか会えないからな。

長可殿の配下も、酒宴に参加させて、皆で楽しもうではないか!」

真田敦からの提案に、森長可は感動をしていた。

若輩者の自分からしてみたら、重臣の一人である真田敦様より、やさしい言葉をかけられたのである。

しかも、自分だけではなく、配下の者達にも酒宴に参加をさせて、共に楽しむ事を言われたのである。

森長可やその配下の者達は、真田敦主催の酒宴を心のそこから楽しみ、真田敦やその配下の者達とも、固い絆を持つに至ったのである。

翌日、森長可は手勢を率いて岐阜に戻っていき、真田敦は本丸にある茶室にて、梨那和花姉妹と久しぶりの再会をしていたのである。



「敦様、お久しぶりです。」

梨那が言葉を口にすると、妹の和花も言葉を出す。

「お元気そうで、何よりです。」

「いやいや、某は元気であるぞ。

それに、2人とも、元気で何よりである。」

真田敦は、梨那和花姉妹に言葉をかけてから、茶の湯の準備を始めたのである。

「しかし、思っていたよりも早く帰って来られたな。

来年の秋頃まで、戻って来れないと思っていたのだがな。」

真田敦は、梨那和花姉妹に言葉をかけながら、お茶を梨那和花姉妹に差し出す。

2人は、ゆっくりとお茶を飲み干し、茶碗を真田敦に返す。

「流石でございます。」

和花が口にすると、梨那も続ける。

「お茶もいいですが、飯を頂きたいですわ。」

「ふっふ、最初に欲しい褒美が飯か。

そうだな、良かろう。

褒美として、飯を出そう。」

真田敦は、笑顔になりながら、飯の支度を始めたのである。

実を言うと、主君から配下の者に飯を出すと言うのは、褒美としてもなかなか出来ない事である。

主君から褒美として、脇差しを与えたり、感状を出したりするのは出来るのであるが、飯を出すと言うのはかなりの功績を上げなければなかなか出来ない事であるからだ。

だが、真田敦にはそのような拘りはなく、共に食事をすることで、家臣達との絆を強くする事の方が大事であると考えていたからであろう。

その為か、織田信長の家臣の中でも、真田敦の家臣達の団結力は一番強く、お互いの信頼感も高かったのである。

のちに真田敦は、織田信長公から家臣達の団結力の強さに関して質問をされた時に、主君と家臣の関係はこうあるべきですときっぱりと答え、織田信長公を唸らせる一面もあったと言われている。



同じ頃、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀らは、山陰地方を攻めていた。

但馬や丹波などの、山陰地方制圧を早めにしなければ、武田信玄に対抗出来るだけの、兵力が足りないからである。

おそらくは、2万5000から、3万辺りの軍勢を引き連れて来るのではないかと、柴田勝家を始め、他の重臣達も考えていたからである。

織田信長の頭の中では、4万から5万辺りの兵力を集めなければ、武田信玄に対抗出来ないと考えていたのである。

なぜかと言えば、武田信玄が上洛の為の軍勢を率いて来るとの噂が京の都を始め、畿内に流れていたのである。

その噂は、2年ほど前から何度も流れては消えて、流れては消えてを繰り返していたのであるが、その噂に踊らされた将軍足利義昭は密かに兵を集めていた。

武田信玄の上洛に備えて、いつでも挙兵が出来るようにしていたのであるが、そのような企みは直ぐに織田信長の耳に入ったのであるが、織田信長はそれを放置していた。

まぁ、将軍足利義昭が集めた軍勢など、信長率いる精鋭部隊とは比べ物にもならないからである。



若狭の真田敦は、武田信玄の上洛の噂を何度も聞いていたのであるが、その度に警戒心を高めていたのである。

今回、甲斐を含む東国の様子を鉢屋美海から報告をされると、真田敦の顔は険しい顔つきになったのである。

それは、北条家3代目当主である北条氏康の、逝去の報告にである。

(北条氏康の死は、少なからず東国に影響を与えるであろうな。

伊豆、相模、武蔵、下総、上総、安房まで、北条家の領地が増えたとの、知らせもあるし。

上野は、信玄が支配しているし、下野は小大名の乱立状態。

常陸は、佐竹家の支配下にあるが、北条家の夢は関東王国の設立であるからな。

4代目の北条氏政は、あまり利口とは言えないとの噂もあるし。

とりあえず、あの仕事をやらせるか。)

真田敦は、鉢屋美海に側に寄るように命じ、美海の耳元である仕事を命じたのである。

「手の空いている者を総動員して、何とかして半年で仕事を終わらせるように。」

真田敦は、真面目な顔で鉢屋美海に言い放つ。

「承知いたしました。

必ずや、成し遂げます!」

鉢屋美海はそう言うなり、真田敦の前から姿を消した。



元亀3年(1572年)正月、真田敦は、岐阜城に滞在をしていた。

いつものように、織田信長からの新年の挨拶がある為である。

織田信長の機嫌は良く、挨拶の後の酒宴でも上機嫌であった。

真田敦は、柴田勝家殿からお酒を注がれ、ゆっくりと時間をかけてそのお酒を飲んでいた。

酒宴も終わりになりかけた頃に、柴田勝家殿から後で話がしたいと言われ、真田敦は素直に応じた。



酒宴が終わり、柴田勝家と真田敦の2人は、柴田勝家殿の自宅に向かった。

自宅に着くなり、真田敦は日当たりの良い縁側に案内され、柴田勝家は冷たい水を持ってきて、真田敦の隣に座った。

そして、柴田勝家が口を開く。

「今日、真田殿を招いたのは他でもない。

我らの主君であらせられる、信長様の事である。」

柴田勝家からの言葉に、真田敦は頭を横にしたのである。

主君である織田信長様の事と言われ、何の話であろうかと考え始めたのである。

そして、柴田勝家の言葉は続く。

「比叡山延暦寺を焼き討ちにした事により、眠れる虎を起こしたのではなかろうか?

我々は、このまま信長様に、従えば良いのであろうか?」

柴田勝家を始めとする、他の家臣達の不安を、真田敦の前で口にしたのである。

真田敦は、少し考えるふりをするも、柴田勝家殿に返答をする。

「それは、他の重臣達も同じ事を考えておられるみたいですな。

柴田様、それは、単純な事ですよ。

我々、家臣一同は、信長様に従えばよろしいのです。

我々の行く道は、たしかに困難と言えますが、日の本統一後の南蛮遠征は、信長様の夢でございましょう。

信長様の示す道筋を、我々は歩くだけで良いのです。

幾多の困難を乗り越え、信長様の夢の実現に我々は力を出すだけです。

他の余計な考え方や雑念などは、必要無いのです。

武田信玄や、上杉謙信などは、旧時代の考え方しか出来ぬ人物。

新しい時代を作れるのは、信長様以外、おられませぬよ。

武田信玄などは、某が撃退します!」

真田敦の言葉に、柴田勝家はしばしの間、沈黙を保っていた。

単純明快な答えであるがゆえに、なぜそこに気が付かなかったのであろうか。

柴田勝家の心の底にあった暗い闇は、真田敦の言葉により、消え去っていたのである。

柴田勝家は、真田敦の手を取り、礼を述べたのである。

「真田殿、そなたの言葉で某は救われましたぞ。

そう、信長様に従えば良いだけ。

新しい時代は、信長様と我々が作れば良いのですな!」

柴田勝家は、冷たい水を飲み干し、豪快に笑いだし、真田敦も用意された冷たい水を飲み、柴田勝家と同じように笑いだしたのである。

その後で、柴田勝家は丹羽長秀を始めとする重臣達を集め、その席で真田敦は、柴田勝家殿に伝えた言葉を再び口にすると、他の重臣達も同じ事に気が付いたのか、重臣達の顔は笑顔になっていた。

この一件により、柴田勝家を始めとする重臣達は、信長様に付いていく決意を固めたのである。



元亀3年3月上旬、和泉の地で、三好義継と松永弾正久秀が手を組んで挙兵、その動きに合わせて、石山本願寺も織田信長との和睦を破り、再び挙兵をしたのである。

その報告を岐阜城にて聞いた織田信長は、4万の軍勢を率いて和泉に向かい、別動隊として8000の軍勢を真田敦に与えて、一向衆の支配する越前攻めを命じたのである。

真田敦は、若狭より3千の軍勢を集め、北近江の浅井長政からも、5000の援軍が駆けつけ、9割ほど完成していた敦賀城に軍勢が集結したのである。

総大将は真田敦、副将は浅井長政、先陣大将は南条小助、前田利家と池田恒興の二人が、別動隊の8000を率いていた。

その頃、越前国内では、一向一揆衆の分裂による対立や、一向衆の越前支配に対して、国人衆の反乱などが起こり、治安が乱れていたのである。

国人衆達は、真田敦の軍勢が越前に攻めて来たのを機会に、続々と真田敦に降伏を申し出て来たのである。

真田敦は、心温かく国人衆達をを迎え入れ、真田敦の率いる軍勢は、万を越えるまで膨れ上がったのである。

対する一向衆の対応は、分裂をしていた為か鈍いものであり、各地で戦が起こるも一向衆の軍勢は連戦連敗を繰り返し、わずか10日足らずで万を数えるほどまで、撃ち取られたのである。

この勢いに気を強くした真田敦は、越前国内で一向衆の撫で斬りを開始し、更に5日後には、一向一揆衆の勢力を越前国内から消し去ったのである。

真田敦は、越前の制圧完了を織田信長に知らせると共に、加賀の一向一揆衆の様子を調べる事にしたのである。



4月中旬、織田信長からの返答は、池田恒興と前田利家の2人を真田敦の与力とし、真田敦には、越前国内の治安回復に専念をするように命じたのである。

真田敦は、越前国内の治安回復をしながら兵力の増加に専念、10月上旬まで兵の訓練に明け暮れていたのである。

その間、若狭の留守を任されていた本多正信は、真田敦の家族を守りながら、若狭の防衛力の増加に専念をしていた。

未完成の敦賀城に戻った真田夕夏と、島清興の二人は、敦賀城の完成に専念していた。

大内勝雄は、水軍の強化に着手、新しい戦船の建造をしていた。

南条小助は、越前の新兵の訓練に専念し、精鋭部隊にする為に、全力を出していた。

池田恒興と前田利家の2人は、越前と加賀の国境近くに滞在をしながら、新しい陣城の着手に乗り出していた。



さて、織田信長の方はと言うと、8月上旬に三好義継を討ち取り、松永弾正久秀は手持ちの茶器類を全て織田信長に手渡す条件で降伏。

残った石山本願寺に対して、佐久間信盛や、荒木村重、高山右近、中川清秀、降伏したばかりの松永弾正久秀らに3万の兵力を与えて、石山本願寺を包囲させて兵糧攻めを開始させ、信長本人は岐阜に戻ったのである。

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